2022/05/30

第7部 渓谷の秘密      14

 尾根と言っても標高が低いので、登山のレベルではなかった。トレッキング程度だ。ロホを先頭に、テオを挟んでケツァル少佐が最後に並んで歩いた。通常は女性が真ん中だろうとテオは言ったが、いつもの如く無視された。民間人で”ティエラ”だから、真ん中はテオの位置なのだ。ロホも少佐も足音を立てない。木の葉が擦れて音が出るのはテオが動く時だ。 尾根を越えて、低地に降りると、渓谷と違って湿度が低くなった。川はなさそうだ。
 南に向かっていると、テオの耳に人の話し声の様な音が聞こえてきた。彼が小声でそれを少佐に囁くと、彼女は首を振った。聞こえないのだ。ロホも気に留めていないので、聞こえていないらしい。つまり、これはテオだけが聞き取れる霊の声だ。彼は緊張したが、ロホはそれほど重要とは考えていなかった。

「真っ昼間に大声を出している霊は大丈夫ですよ。」

 どう大丈夫なのか?と尋ねる間もなく、声が静かになった。こちらの話し声が霊に聞こえたのだろう。藪を掻き分け、開けた場所に出た。苔や蔦に覆われた石の壁や床が見て取れた。低木が生えているので全体像が見通せないが、結構な面積がありそうだ。少佐が囁いた。

「カブラロカの住民が住んでいた地域と思われます。安全を確認した後でンゲマ准教授に教えてあげましょう。」
「それじゃ、俺が聞いた声は?」
「陽気な古の住民達でしょう。」

 悪霊ではない、と言われて、テオはホッとして肩の力を抜いた。ロホが前方を銃先で指した。

「澱みが見えたのは、もっと向こうです。恐らく、そっちに墓地があるのでしょう。」

 古代の町の遺跡の中を慎重に足を進め、遺跡を傷つけないように細心の注意を払って歩いた。テオはンゲマ准教授やケサダ教授に見せるために写真を撮影しておいた。

「現代のカブラ族はここへ来ないのか?」
「植民地化された時に彼等の先祖は捕まって海の近くへ集められました。2、3世代はここを覚えていたかも知れませんが、現在の人々は言い伝え程度の知識しか持っていないでしょう。もしかすると、トロイ家の息子はその言い伝えを確認しようと冒険に来て、悪霊に捕まってしまったのかも知れません。」

 テオは遺跡を振り返った。そして心の中で言った。

 お喋りしている暇があるなら、子孫を守ってやってくれよ。

 遺跡を抜けるのに半時間かかった。石組がぐらついて足元が覚束ない箇所があったり、藪になって抜けられず、迂回しなければならない箇所があったり、で、考古学者には楽しい場所だろうが、ただ歩いている人間には散歩に不向きだった。
 再び森に戻り、ロホがリュックサックを探って、ネックレスを出した。黒い小さなビーズのネックレスで、テオの首にかけてくれた。

「お守りです。悪霊避けにどの程度効果があるかわかりませんが、憑依されるのは防げると思います。」
「グラシャス! 悪霊に襲われたら、憑依される他にどんな支障が出るのかな?」
「邪気の為に病気になったり、怪我をしたり・・・」
「それは防げないのか?」
「どれだけ防げるのか、悪霊の力によります。」

 ロホは申し訳なさそうに言い訳した。

「父や長兄ならもっと強力な魔除けを作れるのですが、私は四男ですから・・・」

 つまり、マレンカ家に代々伝わる秘伝の魔除けは教わっていないと言うことか。テオは納得した。
 少佐が彼等の遣り取りを聞いていたが、テオの不安を取り去る為に言った。

「ロホか私のそばにいれば大丈夫です。」

 ”ヴェルデ・シエロ”の中でも最強と言われるグラダ族とブーカ族だ。テオは彼等を信じていたが、悪霊の正体がわからないことが気になった。邪気を放って、それに触れただけの人を衰弱させ死に至らしめたネズミの神様より強いのだろうか。 
 町の遺跡から小一時間歩いて、地面がかなり乾いてきた。植物の様子も少し変化した。背は高くないが頑丈そうな樹木が生えていた。その木がまばらになる辺りに蟻塚があった。白っぽい蟻塚を2つ眺め、3つ目は赤い色をしていた。周囲の土の色とは違う、気味が悪い黒みがかった赤だ。テオは不快な臭いを感じた。彼が足を止めると、少佐とロホも立ち止まり、ロホがテオを己の背に隠す形で立った。少佐が囁いた。

「これは開けられていません。霊はまだ地下にいます。」

 テオは地図を出し、歩いてきた行程の地形を思い出しながら、現在地を探った。ロホが振り返り、テオが指したポイントを見て、空を見上げた。太陽の位置を確認して、それからテオに頷いて見せた。テオは地図に印を記入した。ロホがリュックサックから木で作った人形の様な物を出し、蟻塚の上に刺した。

「封印かい?」

 テオが尋ねると、彼は首を振った。

「ただの標識です。触るな、と言う警告です。」

 まだ眠っている悪霊には手を触れないで、彼等は探索を続けた。



第7部 渓谷の秘密      13

  アスルが尾根のキャンプへ戻ると言うので、ロホもついて行った。2人で交代しながら昼間の嫌な気配が近づかないよう見張るのだ。テオはケツァル少佐と共に陸軍のキャンプのそばに残った。車の後部席を倒し、簡易ベッドを設え、少佐はそこに寝て、彼は陸軍のテントに入れてもらった。兵士達は交代で警護に当るので、無駄なお喋りはしないで寝ていた。着任した当初は誰も人間がいないジャングルの奥地だと気楽に考えていたが、麻薬組織が彷徨いているかも知れないと言われて、状況が変わったのだ。若い兵士達は緊張していた。
 大学のキャンプも静かだった。学生達は昼間の発掘作業で疲れていた。そろそろ町に戻って1週間の休憩に入りたい頃だろう。別の学生と交替する予定の人もいる。ンゲマ准教授は洞窟の中を探検したのだろうか、とテオは考えた。もし洞窟がサラなら、尾根に石を落とす穴がある筈だ。アスルは何も言わなかったから、まだンゲマ准教授は尾根に登っていないに違いない。
 夜が明けると、渓谷は冷んやりとしていた。湿度が高いので寒く感じないが、爽やかな朝とは言い難かった。陸軍警護班は既に朝食の支度を始めており、発掘隊でも炉の火を大きくしてスープを煮込み始めた。テオは雨水を溜めたタンクの下で顔を洗い、自分達が持参した食糧を出して朝食の準備をした。少佐が森のどこかで着替えをして戻って来た。着替えたのは下着だけだが、それでもさっぱりした表情だ。ロホとアスルを待たずに朝食を取った。

「今日はどうする?」
「昨日の場所をさらに西へ探索してみます。」

 そこへロホとアスルが揃ってやって来た。アスルは陸軍の朝食を取りに行ってしまい、ロホだけがテオ達と合流した。

「昨晩は平和でした。」

と彼は報告した。

「尾根から見た限りでは、異常なし。ただ、南西の方角で空気が澱んでいる地点があります。」

 そんなことも見えるのか、とテオは内心感心した。少佐が頷いた。

「何かがいる様です。もしかすると我々を誘き寄せる罠かも知れませんが、確認の必要があります。」
「俺達が探索に出掛けて、ここは大丈夫なのか?」

 テオが単純に心配すると、ロホが肩をすくめた。

「アスルがいます。」
「ああ、そうだった・・・」

 テオはまだアスルが超能力を使って戦う姿を見たことがなかった。彼が知っているアスルの戦いは白兵戦だ。格闘技の達人なので、腕力と技で敵を倒すのだ。しかしアスルは純血種の”ヴェルデ・シエロ”で、能力的に高いと評されるオクターリャ族だ。爆裂波での攻撃も半端ないだろう。

「悪霊が墓から出て来ているのだろうか?」
「それなら封じ込めるのは簡単ですが・・・」

 ロホが顔を顰めた。

「悪霊使いが相手なら、厄介です。」
「悪霊使い?」
「死者の霊を呼び出して悪いことに使う悪い連中です。普通の人間なので浄化出来ないし、捕まえても本人に呪いを解く力を使わせないと悪霊が暴走してしまいます。最悪な場合は、悪霊使いに呪いを解く力がないこともあります。」

 テオは不味いコーヒーを飲む手を止めた。

「そんな場合はどうするんだ?」
「悪霊をそいつに憑依させて人間ごと消滅させます。一番やりたくない技です。」

 ロホが少佐を見た。少佐も肩をすくめた。

「私にその技は使えません。祈祷師の家系である貴方にしか使えない。私は貴方を守ることしか出来ませんから、もし悪霊使いを見つけたら、必ず私を呼んで下さい。」

 テオはまた別の疑問を抱いた。

「君達の結界は”ティエラ”には効果がないんだろ?」
「物体に効果がないと言うだけです。」

 ロホが言った。

「霊は封じ込められます。私は経験がありませんが、”ティエラ”のテレパシーとか言う能力も封じ込められますよ。」

 どうも「神の次元」の会話を完全に理解しきれないテオは黙り込んだ。そこへアレンサナ軍曹が朝の挨拶に来たので、その会話はそこで終わった。

2022/05/29

第7部 渓谷の秘密      12

  トロイ家のそばで野営する予定だったが、急遽変更することにした。装備はまだ車に積んだままだったので、車に乗り込むとテオ達はすぐにカブラロカ遺跡発掘現場に向かった。ケツァル少佐が先刻の嫌な気配の存在を気にしたのだ。1人で大勢の”ティエラ”を守っているアスルに注意喚起する必要があると彼女は判断した。
 遺跡へ向かう道はさらに細く、轍の通りに走らないとぬかるみに落ちそうだ。随分湿気の多い渓谷だ、とテオは感じた。そのうち日当たりが良くない場所に入り、植生が貧しくなってきた。大きな樹木が減り、低木だらけだ。道は川から離れ、背が高い木が茂る傾斜地へと移動し、凸凹を我慢すればぬかるみより走りやすくなった。ロホが地面に残る石組に気がついて、古代の道の跡です、と教えてくれた。
 暗くならないうちに遺跡に到着出来た。テントと小さなプレハブ小屋があり、細やかな集落を形成しているかの様だ。ンゲマ准教授の発掘チームはその日の発掘作業を終え、出土品の分類や洗浄をしていた。夕食当番も忙しく働いていた。
 アレンサナ軍曹と部下達は大統領警護隊の車両に気がつき、駆け寄って来た。ロホが緑の鳥の徽章を提示するより先に彼等は整列して敬礼した。
 ケツァル少佐とロホが降りたので、テオも運転席から出た。

「今日は発掘隊とは関係ない要件で来ました。」

と少佐が軍曹に説明した。

「しかし、あなた方にも知っておいてもらった方が良いと判断すべき状況が発生したので、ここに来た次第です。クワコ中尉はまだ監視中ですか?」
「その筈です。」

 アレンサナ軍曹は尾根の監視場所を振り返った。キャンプ地からは人がいる様子が見えないが、そこにアスルのキャンプがあるのだろう、とテオは想像した。ロホが暢んびりと言った。

「彼はすぐに来ますよ。」

 軍曹が自分達のキャンプを手で示した。

「あちらで休憩されてはいかがですか? 悪路のドライブは疲れるでしょう。」

 ケツァル少佐が警護任務の最高責任者だと知っているので、軍曹は緊張していた。彼女の機嫌を損なうと、彼の軍歴に傷が付きかねない。少佐は微笑んで見せた。

「グラシャス。みんな楽にしてよろしい。各業務に戻りなさい。」

 軍曹が解散の合図を出したので、兵士たちはそれぞれの持ち場へ戻った。学生達が、ちょっと好奇心に満ちた目で見るのを感じながら、テオは軍人達について陸軍のキャンプサイトへ行った。夕食のシチューが煮える良い匂いがして、空腹を感じたが我慢した。護衛隊も大学の発掘隊も余分な食糧は持っていないだろう。緊急時の非常食でもないのだから、客が彼等の食糧を食べてしまってはならない。しかし、軍曹が言った。

「クワコ中尉がいつも森の中で食材調達して下さるので、十分な量があります。遠慮なく召し上がって下さい。」

 勿論アスルは学生達の分は獲らないだろう。警護についている陸軍兵の労いの為に短時間で出来る狩りを行なっているに違いない。
 確かにアスル伝授の味付けだと思える野趣溢れる野豚のシチューを堪能しているところへ、やっとアスルが現れた。上官のケツァル少佐とロホに敬礼して、テオには頷いて見せてから、アレンサナ軍曹に告げた。

「南西の尾根の向こうに警戒しろ。こんな場所に山賊が来ると思えないが、殺人事件で無人になった家に引き寄せられる連中がいないとも言えないからな。」

 南西の尾根の向こう、つまりテオ達が遭遇した「嫌な気配」がいると思われる方角だ。アスルの言い方は、物好きな空き家荒らしを警戒しろと陸軍兵に命じた様に聞こえたが、恐らく彼は、と言うより、彼も、嫌な気配を感じたのだ。
 軍曹が承知と返答して、部下にトランシーバーで指示を出した。
 軍曹を同席させたまま、アスルは焚き火を囲んで上官達とテオと共に夕食を取った。話題はトロイ家の事件を発掘隊がどこまで知っているかと言うことだった。ンゲマ准教授と学生リーダーには事件の顛末がやや詳細に伝えられているが、学生達には動揺と不安を与えないよう、世間で流されているニュース以上の情報を与えていない、と軍曹が説明した。「やや詳細」と言うのは、錯乱した少年が家族を殺害して、現在勾留中と言う程度だ。大学側は世間同様事件が麻薬絡みだと思っている。学生達は渓谷入り口の民家が賊に押し入られ、家人に犠牲者が出たが、犯人は逮捕されたと伝えられている、と軍曹が言った。これは准教授が捻り出した嘘の情報だ。本当のこと、世間で信じられている事件の概要は、発掘が終わってから知らされるだろう。或いは、買い出し当番で出かけた学生が何か真実に近い情報を得たかも知れないが、テオが観察した限り、学生達は動揺している様子がなく、平素を保っていた。
 ケツァル少佐、ロホ、アスルは”心話”で互いの情報を交換し合った様だが、どのタイミングで行ったのか、テオにはわからなかった。当然アレンサナ軍曹は何も知らない。軍曹と部下達も麻薬絡みの犯罪に純朴な先住民の農家が巻き込まれた不幸な事件だと信じていた。だから少佐は言った。

「麻薬組織の残党が隠れている可能性があります。あなた方は学生達を守る任務をこれ迄通り続ける訳ですが、学生が警護範囲から出ないよう、しっかり見張って下さい。」

 つまり、アスルの守備範囲から出すなと言うことだ。しかしアレンサナ軍曹は拡大解釈した。学生が麻薬組織と接触することを防げ、と捉えたのだ。彼は頷いた。

「承知しました。彼等が外部の人間と接触しないよう、しっかり見張ります。」

 

2022/05/27

第7部 渓谷の秘密      11

  少し傾斜になった滑らかな岩場を登り、腰を下ろすのに丁度良い形状の岩を見つけて、テオはそこにケツァル少佐を座らせた。己は少し離れた位置で岩場に座った。

「今回の事件に直接ではないが、アデリナ・キルマ中尉が関わったんだな。」
「憲兵隊の護衛を指揮したのです。捜査の手伝いもしたでしょうね。ゲリラの犯行の疑いも当初出ていた様ですから。」

 キルマ中尉の第17特殊部隊は、テオがアメリカ合衆国からセルバ共和国に亡命して来た時、内務省の命令でテオの家の警護を担当した。実際には運転手兼護衛のエウセビーオ・シャベス軍曹と夜間担当の2人の兵士がいた。シャベスは”ヴェルデ・シエロ”達の因縁の闘いの巻き添えを食って重傷を負い、回復後一線から退いたと、テオは後日耳にしたことがあった。テオの護衛を担当しなければ、まだ特殊部隊で働いていただろうと、テオは彼に申し訳なく感じたが、少佐達は、それが軍人の宿命だ、と取り合わなかった。それでもテオは敢えて質問してみた。

「キルマ中尉と言えば、彼女の部下だったシャベスは今どうしているのかな?」

 少佐は「知らない」と答えるだろうと予想したのだが、彼女はきちんと答えた。

「陸軍の広報部で働いています。頭を負傷したので、少し半身に障害が残ってしまい、戦闘に出られません。しかし本人は軍を離れ難く、出身地で新兵募集の窓口勤務をしているそうです。」

 流石に本部では残れなかったのだ。敵に誘拐され、負傷したので、彼自身のプライドで昔の仲間と一緒の場所に居辛いこともあったのだろう。

「彼が元気なら、それでいいんだ。」

とテオは言った。”ヴェルデ・シエロ”に操られたことをシャベスは完全に忘却しているだろう。悪霊に操られて家族を殺めてしまった少年と同じだ。救いは、シャベスは誰も傷つけなかったことだ。テオは事件の後でシャベスを見舞いたかったが、それは内務大臣から禁止されてしまった。被護衛者と護衛者は個人的に親しくなってはいけないと言う理由だった。他にも政治的理由があった筈だが、亡命者のテオは仕方なく従うしかなかった。
 微風を楽しみながら、彼と少佐はロホの儀式が終わるのを待っていた。そろそろ終わる頃だろうとテオが腕時計に目を向けた時、少佐が岩の上に跳び上がる様に立ち上がった。アサルトライフルを西の方角に向け、射撃の構えになったので、テオは反射的に岩の上に身を伏せた。

「何だ?」
「嫌な気配を感じました。」

 テオの背後からロホが静かに、しかし仲間に解る様に葉音を立てて現れた。彼が少佐に報告した。

「何かが10時の方角から近づいています。」

 少佐が前方を見つめたまま頷いた。ロホがテオのそばで膝を突いて少佐と同じ方角にライフルを構えた。銃弾で倒せる相手なら良いが、悪霊なら”ヴェルデ・シエロ”の気の方が有効だろうとテオは思った。
 少佐は身を隠すつもりはなさそうで、岩の上に立ったままだ。テオは彼女が心配だったが、守られている身で何かが出来るとも思えなかった。こんな時は歯痒くて仕方がない。彼女が最強の”ヴェルデ・シエロ”と言われるグラダ族だとしても、人間に変わりないのだから。
 さぁ、来い! とばかりに少佐が銃を構えた時、軍用車両のエンジン音がトロイ家の方角から聞こえて来た。来る時にすれ違った、発掘隊の買い出し係が戻って来たのだ。エンジン音が聞こえた瞬間、少佐が銃を下ろした。ロホもフッと息を吐いて銃を退いた。

「大丈夫ですよ。」

とロホに声をかけられ、テオは起き上がった。

「気配が消えたのか?」
「猛スピードで去って行きました。」
「車の音に驚いた?」
「恐らく。」

 少佐が岩から降りて男達を振り返った、その顔に「残念」と書いてあったので、テオは笑いそうになった。それを誤魔化す為に、質問した。

「何だったんだ? 悪霊か?」
「人です。」

と少佐が答えた。

「でも嫌な気を放っていました。」
「すると”シエロ”か?」
「どうでしょう。」

とロホが首を傾げた。

「一族の気とは異なる感触でした。」
「私もそう感じました。」

 少佐が不満げに森を見つめた。

「もし”ティエラ”なら、異能者でしょう。厄介な相手の様です。」



2022/05/26

第7部 渓谷の秘密      10

  ロホが惨劇があった家から出て来て、自分達のキャンプ地に来た。”心話”でケツァル少佐に家の中の様子を報告してから、テオにも説明してくれた。

「血の跡などは残っていますが、清めの儀式が行われていました。恐らく近隣のカブラ族の人々が捜査員が去った後で片付けと葬式を行ったのでしょう。後半月すれば彼等はこの家を焼き払う筈です。本当はすぐに焼きたいのだと思いますが、憲兵隊が許可を出すのが半月後だからです。」
「気の毒な犠牲者の霊は浄化されているのか?」
「私は何も感じませんでしたから、彼等はもうここにいません。」

 テオは家を見た。決して立派な家屋ではない。木造の壁とトタンの上に木の皮や葉を葺いた屋根の典型的な僻地に住む先住民の家だ。家財道具が転がっていてもおかしくない庭は何もなく、後片付けをした人々が使える物は使おうと持ち去ったのだとロホが言った。

「但し、家の中の物は持ち出していないですね。やはり死者に悪いと思ったのでしょう。家と一緒に焼いてしまうつもりの様です。死者の持ち物ですから。」

 キャンプは車だけだ。テントなどはひとまず車内に残して置いて、畑を見に行った。まだ収穫前の若いトウモロコシの畑だった。獣避けの柵を開いて中に入ると、ちょっとした迷路の中にいる気分になった。背が高いトウモロコシの中を歩き、テオはどうにか反対側に出た。少佐とロホを呼ぶと、2人も間もなく姿を現した。

「畑の中には何もありません。」
「向こうに道らしき踏み跡がある。」

 テオが指差した方角に、草が倒れた細い獣道の様な通路が見えた。川へ行くのだろう。3人はその道を進んだ。

「遺跡へ行く道と直角の方角になりますね。」

と少佐が囁いた。ロホが頷いた。

「西向きですね。罪人の墓がありそうな方角です。」
「だけど、トロイ家は結構長くここに住み着いていたんだろ? 何故今更なんだろう?」

 テオが素直な疑問を提示すると、少佐もロホも首を傾げた。 
 道の先は新しい開墾地だったが、そこにも墓らしきものはなかった。さらに奥へ道らしき踏み跡が伸びていた。
   薮の中を歩き続けると、足元が再び緩くなって来た。湿地だ。不意に少佐がテオの腕を掴み、足止めした。彼女がそっとライフルの先で指す方向を見ると、大きなアナコンダが前方10メートル程のところを横切って行くのが見えた。大きなニシキヘビの類は都市部でもペットにしている人がいたりして、テオは見たことがあったが、野生の巨大な蛇は初めてだったので、思わず腕に鳥肌が立った。
 セルバ人は蛇を殺さない。神聖視すると言うより、いても邪魔にならないと考えている様だ。しかし北米育ちのテオは慣れなかった。毒蛇と無毒蛇の区別もつきにくい。
 アナコンダが通過するのに数分要した。それだけ長い蛇だった。アナコンダも急いでいなかったのだろう。沼地の主の様に悠然としていた。
 ロホがアナコンダが来た方角を指した。

「あちらの地面が乾いている様です。あちらへ回りましょう。」

 アナコンダは水辺へ狩に行くところだったのだろう。蛇が体を温めていた乾燥した地面の方へ一行は方向を転じた。靴やパンツの裾が泥だらけになったが、ジャングルの中での活動では覚悟していることだ。それでも固い地面を歩く様になると、テオはホッとした。道はなくなったが植生がまばらで背が低い樹木だけになった。
 突然ロホが立ち止まり、左手を指差した。

「あれ、塚じゃないですか?」

 テオと少佐も足を止めた。彼が指差した方角を見ると、低い樹木の中に石組が見えた。ロホが少佐とテオに待機と手で指図して、独りで近づいて行った。彼は石組の前で立ち止まり、繁々と眺めてから、手招きした。
 テオと少佐は静かにそちらへ歩いて行った。苔むした石組だった。高さは1メートルあるかないかで、根元の土が赤く見えた。石組は上部が崩れ、南北の幅50センチ程の柱の中央に細い縦型の穴が見えた。崩れた部分は新しい石の面が剥き出しになっていた。
 ロホが言った。

「恐らく、トロイ家の息子はこれをうっかり壊してしまったのでしょう。遊びではなく、狩でもしていたのではないでしょうか。」
「この塚のそばに居たってことか?」
「スィ。体がぶつかったか、持っていた物をぶつけたかしたのだと思います。」

 テオは恐る恐る穴を覗いて見た。深い穴なのか、真っ暗で何も見えなかった。

「ここから悪霊が出て来て少年に取り憑いたのか・・・」

 想像すると気が滅入った。ロホが背に背負っていたリュックサックから浄化の儀式の道具を取り出した。少佐がテオの肩に手をかけた。

「私達は向こうに行っていましょう。」

 悪霊はもういないと聞いても、やはり気持ちの良い場所ではなかった。

 

2022/05/25

第7部 渓谷の秘密      9

  森の中の道はダートでぬかるんでいた。予想通り凸凹だし、車はエアコンの効きが悪かった。運転はテオ、ケツァル少佐、ロホの3人で交代にハンドルを握った。路面に轍がなければ引き返したくなるような道だ。途中で2度ほど分かれ道があり、真新しい轍がそちらへ続いていたので、2度目の当番で運転していたテオが危うくそちらへ行きそうになったこともあった。しかし助手席の少佐が軍用車両の轍でないことに気がついて、その分かれ道が別の家族の開墾地へ向かうのだとわかった。

「分岐点に標識ぐらい立てておけよな・・・」

 テオは独りで苦情を呟いた。ロホが本来の道に残る轍を見て、憲兵隊か陸軍特殊部隊でしょうと言った。

「大統領警護隊が訓練を終えて引き揚げた後、彼等も事件現場の臨場を終えて帰投したのです。」
「それじゃ、この轍を辿って行けば、殺人があった家に行き着くんだな。」

 正直なところテオは現場を見たくなかった。あまりにも無惨で酷くて悲しい事件だ。殺された夫婦は何故息子が凶行に及んだのか理解出来なかっただろうし、息子も己が親を殺してしまった記憶もないのに親殺しの罪を問われている。兄が親を殺してしまう場面を見てしまった弟はどんなに深い心の傷を抱えていることだろう。
 物思いに耽っていたので、大きくカーブを曲がったところで、対向車が来ることに気が付き、離合スペースがないことに焦ってしまった。
 オフロード車同士、顔を突き合わせて停車してしまった。まさかの対向車だ。テオが窓から顔を出すと、向こうも顔を出した。見覚えのある顔だった。テオは思わず声をかけた。

「君は確か考古学部の・・・」

 向こうもテオをじっと見つめてから、アルスト先生、と言った。名前を思い出せないテオの複雑な表情に気が付かずに、学生は助手席に座っていた兵士に何か言い、それから数メートル車をバックさせた。ぬかるみに車を入れ、テオ達の車を通してくれた。
 離合してから、学生の車がぬかるみから出られることを確認する迄テオは動かなかった。

「何処へ行くんだ?」
「デランテロ・オクタカスまで、買い出しですよ!」

 学生はそう言って、クラクションを鳴らし、走り去った。
 少佐が時計を見た。

「この時刻にここへ来たと言うことは、かなり早い時刻にキャンプを出たようですね。」
「買い出しは予定の行動なのだろう。兵士は護衛だな?」
「当然です。」

 奥地に大勢の人間がいるのだと確信が持てれば気が楽になった。テオは車のスピードを上げた。そして昼になる前に、一軒の家が前方に見えてきた。
 誰も来ない土地だが周囲に黄色いテープが張り巡らされていた。前庭は既に草が伸びかけており、車や大勢の人間に踏み荒らされた箇所がぬかるんで残っていた。テオはなんとなく鼓動が激しくなり、血圧が上昇する気分になった。ケツァル少佐が彼の雰囲気に気がついて声をかけた。

「大丈夫ですか? 私は何も感じませんが?」

 テオは深呼吸して、車を停めた。

「大丈夫だ。犯罪現場と思ったら、ちょっと興奮してしまった。」
「もう霊はここにいませんよ。」

と言いながら、ロホが早くも後部座席から外に出た。彼は黄色いテープをくぐり、規制線の中に足を踏み入れた。
 少佐も外に出たので、テオも出ようとすると、少佐が手で制止した。

「駐車場所を決めてからにして下さい。私が決めます。」

 現場の下見をロホに任せて彼女は周囲の地形を眺めた。そして少し進んだ場所に乾燥した平地があるのを発見して、そこに車を誘導した。周囲より高いと言う訳でなかったが、渓谷の尾根を形成している岩盤の端っこが露出している感じだ。少佐はそこの周囲に無数の轍があるのを見て、その場所が特殊部隊の野営地になっていたのだと見当をつけた。焚き火の跡を残さないのが、いかにも特殊部隊らしいが、少佐は敏感に炉の跡を見つけた。アデリナ・キルマ中尉は憲兵隊の護衛をしていたので、戦闘体制とは違って多少の気の緩みがあったのかも知れない。そこが大統領警護隊のスカウトから漏れた要因だろう、と少佐は想像した。少佐と中尉はほぼ同期の年代だが、少佐はいきなり大統領警護隊に入隊したので、陸軍の経験がなかった。キルマ中尉と同じ時間を過ごしていないので、彼女が新兵時代どんな様子だったのか、知らなかった。
 テオが車を停め、輪止めを置いて、野営の準備を始めたので、彼女は物思いから戻って彼の仕事に手を貸した。


2022/05/24

第7部 渓谷の秘密      8

  テオは都会育ちだ。そしてケツァル少佐もロホも都会育ちだ。しかし軍人2人はジャングルでの活動訓練をみっちり仕込まれていたので、テオは心強く感じていた。
 取り敢えず1週間の出張期間をもらって、テオは大学の仕事を休んだ。休講の間、学生達には各自自主研究を与えたので、戻ったらその検証をしなければならないが、土壌検査など実際にはしないのだから、時間はある筈だった。
 ケツァル少佐はマハルダ・デネロス少尉に発掘申請が通りそうな案件があれば、メールするようにと告げた。申請内容の写真を送れと言うと、デネロスが不審そうな顔をした。

「ジャングルでお仕事なさるのですか?」
「見るだけです。内容に不備がなければ、ロホにも見せます。」
「出来るだけ粗探しします。」

とデネロスは言い、上官達を笑わせた。
 テオ、少佐、ロホの3人は少佐が「公務」でチャーターした民間機に乗ってデランテロ・オクタカス飛行場へ降り立った。テオはその飛行場に来るのは3度目だったが、毎回ダートの滑走路をガタガタ走る飛行機の振動に不安を覚えるのだった。
 携行用保存食は都会で購入した方が安いので、到着した時点で大きな荷物を持っていた。現地の大統領警護隊格納庫の管理人がオフロード車を準備してくれていたので、それに荷物を積み込んだ。事件現場までは車で行くことが出来る、と聞いて、テオは内心ホッとした。殺人事件があった場所で寝泊まりするのは気持ちの良いものではないが、戦場で野営する兵士達のことを思えば、我慢するしかない。
 ロホが管理人にトロイ家の息子達の様子を質問していた。

「祖父と両親を殺害した長男はどうなった?」
「憲兵隊の発表では、精神錯乱と言うことで、病院に送られました。恐らく本人は何も覚えていないでしょうし、現在は正気を取り戻していますから、辛い現実を味わっているでしょう。逆にこれから精神に大きな負担を強いられることになるんじゃないですか。」
「悪霊の仕業だから釈放しろ、とは誰も言わないだろうしな・・・。」

 他者に優しいロホは少年の将来を想像して暗い目をした。事件がなかったことにするには、ニュースが全国に拡散されてしまっていた。アベル・トロイには一生親殺しの汚名がついて回るのだ。

「次男はどうなったか知っているか?」
「弟の方は叔父がいるので引き取られたそうです。その家でどんな生活をしているのか、俺達にはわかりません。」

 テオは聞くともなしに彼等の会話を聞いていた。格納庫の管理人はデランテロ・オクタカスの情報を大統領警護隊の為に収集する役目もしているのだな、とぼんやり思った。
 ロホは管理人に礼を言い、隊則で規定されている金額のチップを払った。情報収集は管理人の臨時収入だ。多分、普段は全く別の仕事をしていて、大統領警護隊が来る時に格納庫の掃除をしたり、備品を整えているのだろう、とテオは想像した。
 1日目はデランテロ・オクタカスの格納庫で泊まった。食事は村の食堂で取った。風呂はないので、管理人が公衆蒸し風呂を教えてくれた。ジャングルに入れば5日間風呂なしになるので、テオとロホはじっくり蒸されて寛いだ。少佐も女性の風呂に入って、そこでトロイ家や森に住んでいる先住民達の情報を仕入れた。
 2日目の朝、彼等はカブラロカ渓谷入り口の家に向かって出発した。

第11部  紅い水晶     18

  ディエゴ・トーレスの顔は蒼白で生気がなかった。ケツァル少佐とロホは暫く彼の手から転がり落ちた紅い水晶のような物を見ていたが、やがてどちらが先ともなく我に帰った。少佐がギャラガを呼んだ。アンドレ・ギャラガ少尉が階段を駆け上がって来た。 「アンドレ、階下に誰かいましたか?」 「ノ...