2023/02/06

第9部 古の部族       7

  診療所の業務時間が迫って来たので、マイロとチャパはメンドーサの元を辞した。外に出たが、まだ一日は始まったばかりの時刻だ。マイロは少しスラム街を歩いてみると言った。チャパが驚いた。

「止めた方が良いです、診療所の近所は安全かも知れませんが、奥は昼間でも危険です。」
「僕はアメリカでもっと危険な地区を歩いたことがある。それにこの広い通りから出ないように歩くよ。君は車で待っていてくれ。」

 マイロが歩き始めると、チャパは舌打ちして車の中に入った。運転席からマイロを眺め、エンジンをかけるとそっと車を駐車場から出した。少し進んで止まり、少し進んで止まり、マイロが見える距離を静かに尾行した。マイロは気がついたが、振り返らずに歩き続けた。
 スラム街はスラムなりに店があった。何やら怪しげな商品を並べて売っていたり、食べ物を出す屋台があった。マイロの黒い肌はそんなに珍しくないのか、気軽に声をかけて来る売り子もいた。マイロはそんな一人に質問してみた。

「呪い師って、どうやって探すんですか?」

 すると売り子は黙って彼から離れた。肩をすくめ、首を振っただけだった。知らないのか。マイロはさらに歩き、声をかけて来る人に呪い師のことを訊いてみたが、手応えはなかった。呪い師が何かハーブのような物を儀式に使い、それがサシガメを追い払うのだとしたら、予防手段に用いることも可能ではないか、と考えたのだが、呪い師を見つけるのは容易くないようだ。スラム街に住んでいない呪い師の住所をスラムの住人は知らないのだ。せめて探し方を教えてくれないかな、とマイロは思った。アスクラカンでもエル・ティティでも呪い師はいるのだろう。グラダ・シティでもいるだろう。しかし、どうやって連絡をつければ良いのか。

 何やってんだろうな、僕は・・・

 最先端医療の研究者の筈なのに、中米の貧しい国で最も貧しい地区で呪い師を探している。マイロはなんだか馬鹿馬鹿しくなってきた。

「兄さん、タバコくれよ。」

 若い男の声が聞こえた。振り向くと、10代後半の若い男が道端に座り込んで、こちらを見ていた。

「タバコは吸わないんだ。」

 答えると、少年が立ち上がった。

「それじゃ、葉っぱは?」
「やらない。」
「それなら、なんでここに来てるんだ?」

 マイロは携帯を出した。サシガメの写真を出して見せた。

「この虫を見たことあるか?」

 少年が顔を近づけた。と思ったら、いきなりマイロの手から携帯電話をひったくって走り出した。

「待て!」

 マイロは追いかけた。少年は路地に逃げ込み、マイロは追った。チャパの目の前でマイロは姿を消した。

 

第9部 古の部族       6

「セルバのサシガメは、周辺国と同様、メキシコサシガメの一種です。特に変わった生態を持っている訳ではありませんし、体内に持っている原虫も変わらないと思います。」

 メンドーサは診察室の壁をちらりと見た。

「ここは消毒していますが、この集落の家々はそんな余裕がありません。刺される人も少なくありません。」
「では、生息場所が限定されていると言うことですか?」
「それ以外に考えられません。」

 メンドーサはカルテをパラパラとめくり、一件を広げてマイロに差し出した。

「患者はこの地区の住人です。寝ている間に刺されたと思われます。発症迄時間が経っていたので、当人は何時何処で刺されたのか覚えていませんでした。」

 患者は慢性心筋炎に罹っていた。既に死亡している。 メンドーサはさらにマイロに綴りを持たせたままで数ページめくった。

「この女性も心筋炎で死亡しました。ここは貧しい人々が住んでいます。彼等が私の所へ来る頃には殆ど手遅れの状態なのです。」

 それは他国でも同じだった。金銭的余裕がある人でも気付くのが遅い場合がある。シャーガス病は早期発見が回復の決めてで、発見が遅れれば助からない。

「何故、ここだけに発症例があるのでしょう? グラダ・シティやアスクラカンは清潔なのでしょうか?」
「清潔に見えましたか?」

 メンドーサが苦笑した。

「首都や内陸の商都が消毒薬で綺麗だと思いますか?」

 マイロは隣のチャパの表情が固くなったことに気が付かなかった。メンドーサはちょっと考えてから、言った。

「セルバ人の体質は普通のものです。特別にクルーズトリパノゾーマに免疫がある訳ではありません。その証拠に、都会の人間をこの地区に連れてきたら、数日内にサシガメに刺されますよ。恐らく、サシガメにとって、ここが一番住みやすいと言うだけなのでしょう。」

 チャパが不意に質問した。

「ここには、呪い師はいないのですか?」

 マイロはびっくりして助手を振り返った。メンドーサが若者を見た。

「この地区に住んでいません。頼まれればやって来ますが、謝礼を出せる家庭がどれだけいるか・・・」
「呪い師?」

 マイロはチャパとメンドーサ、どちらにともなく尋ねた。医者らしくない言葉だ。だが、以前にもそんな話を聞いた記憶があった。メンドーサがマイロに意味不明の微笑をして見せた。

「外国人の貴方には奇異に聞こえるでしょうが、セルバの呪い師は新しい家を建てる時に儀式を行ってくれます。そうすると、その家はその呪い師が元気なうちは病人を出さないと言い伝えられているのです。民間信仰ですがね。」
「その呪い師に払う謝礼を払えない人が、ここに集まっているんですよ。」

とチャパが悲しそうに言った。

2023/02/05

第9部 古の部族       5

  スラム街へ行くと言うと、チャパはあまり気乗りしない表情だった。だからマイロは提案した。

「僕が車から降りたら、君はそのまま市街地へ戻って、陸軍病院でシャーガス病の患者がいないか訊いてくれないか?」
「先生一人置いて行くなんて出来ません。」
「僕は医者の所にいるから、多分安全だと思う。帰る時は連絡する。」

 チャパは結局一緒に行くと言った。万が一マイロに良くないことが起これば、彼が責任を問われるとわかっていたのだ。
 スラム街は石の住居に板屋根を載っけたような小屋が建ち並ぶ斜面の集落だった。煉瓦造りの家もあったが、それもかなり年季が入っていた。だがマイロが知っているゴミだらけの歩道や落書きだらけの壁は殆どなかった。所在無げに家の前で座っている男や、井戸らしき場所で集まって喋っている女性達が、目慣れぬ車の侵入に注目したが、襲ってくる気配はなかった。
 ペンディエンテ・ブランカ診療所は看板を出していたので、すぐにわかった。白っぽい石の坂道の登り口にあるコンクリート製の建物で、駐車場も4、5台分あった。すぐ裏手の小さな家は医者の住まいかも知れない。住民の家には見えなかった。
 マイロとチャパが車を降りると、診療所のドアが開いて、メスティーソの中年男性が顔を出した。マイロは「ブエノス・ディアス」と挨拶した。男性が頷いた。

「ブエノス・ディアス。貴方がドクトル・マイロ?」
「スィ。ドクトル・メンドーサですね?」

 2人は握手した。マイロはチャパを紹介し、診療所の中に案内された。看護師らしい中年のメスティーソの女性が業務開始の準備をしていた。歩きながらメンドーサが尋ねた。

「シャーガス病の研究をなさっているのですか?」
「スィ。実は、セルバ共和国ではシャーガス病の発症例がないと聞いて、何故なのだろうと調査に来たのです。実際、グラダ・シティでもアスクラカンでもエル・ティティでも、症例があったと言う話を聞けませんでした。病気を媒介するサシガメすら見つけられなかった。だから、噂通り、この国にシャーガス病が発生していないのだと思い始めていたのですが・・・」

 メンドーサが診察室のドアを開いた。

「医療関係者に会って話を聞かれましたか?」
「スィ。グラダ大学医学部で研究者達と話をしましたが、彼等は発症例がない病気に無関心な様子でした。アスクラカンでは町医者の話を聞きましたが、やはりシャーガス病の患者を診たことはないと言うことでした。」

 マイロとチャパはメンドーサが指した椅子に座った。メンドーサは自分の椅子に座り、棚からカルテを綴ったものを数冊出した。

「私はここで仕事を始めて10年になります。シャーガス病のことは勿論学生時代に習いました。この国の医者は免許を取るとほぼ全員がメキシコや外国の病院へ研修に出ます。ですから、みんなシャーガス病のことは知っています。だが帰国してから実際に患者に出会う医者は殆どいないでしょう。」
「何故です?」

 マイロは身を乗り出した。

「何か特別なことでもあるのでしょうか? サシガメの種類が異なるとか・・・?」


第9部 古の部族       4

  セラード・ホテルはリゾート気分になれなかったが、寝るだけなら申し分なかった。部屋も平日に関わらずそこそこ塞がっていて、客はそれなりに身なりの良い人々で、ビジネスホテルの雰囲気だった。食堂がないので、朝食はチェックアウトしてからチャパと2人で街中のカフェに入った。そこでマイロはオルガ・グランデ陸軍病院に電話をかけた。グラダ大学医学部出身者が多く働いている病院で、何か相談事があれば陸軍病院に連絡すると良いと学部長に言われていたからだ。マイロは電話口に出た女性に、身分と旅行の目的を告げ、スラム街の住民の健康状態について知りたいが誰に訊けば良いかと相談してみた。
 女性は少し待って下さいと言い、一旦電話から離れたが、数分も経たぬうちに戻って来た。そしてある医師の連絡先を教えてくれた。

ーー町医者ですが、スラム街の住人の健康管理も市から委託されている先生です。

と電話口の女性は親切に言った。

ーー忙しい人ですから、電話で約束を取り付けてから訪問された方が良いでしょう。
「グラシャス!」

 マイロは教えられた番号へかけてみた。数回の呼び出し音の後で、男性の声が応答した。

ーーペンディエンテ・ブランカ診療所・・・
「オーラ、私はアーノルド・マイロと申します。アメリカから来たグラダ大学医学部の客員研究者です。ドクトル・メンドーサでしょうか?」
ーースィ・・・

 相手が戸惑ったのか、すぐには反応がなかった。マイロは急いで続けた。

「シャーガス病の研究をしています。もし時間があれば、スラムの住民の健康状態についてお話しを伺いたいのですが、貴方のご都合はいかがでしょうか?」
ーーシャーガス病?
「スィ。あの厄介な病気の予防方法を研究しています。もし、貴方の患者の中でその症例がありましたら・・・」
ーー患者はいますよ。

 え? とマイロはびっくりして声を出してしまった。セルバ共和国ではシャーガス病は発症例がなかったのではないのか?
 メンドーサ医師が言った。

ーーシャーガス病の患者はいます。だが薬剤が高価なので治療の目処が立たない。

 マイロは緊張を覚えた。

「これからそちらへお伺いしても宜しいでしょうか? お仕事の邪魔はしません。」
ーーどうぞ。診療は9時から始めます。

 時刻は午前7時半だった。


2023/02/04

第9部 古の部族       3

  オルガ・グランデのリオ・ブランカ通りにあるセラード・ホテルがその夜の宿泊場所だった。予約した訳ではなかったが、グラダ・シティを出発する前に調べたら、そのホテルが予算の範囲内で一番評判が良かった。少なくともセキュリティ上安全なのだ。だからしっかりした宿泊施設だろうと思って行ってみたら、普通の安宿だった。入ったところにロビーがあって、受付カウンターがあるのはホテルらしい体裁だ。しかし鍵をもらって2階へ上がると、トイレは共同でシャワーは一つしかなかった。マイロとチャパは隣り合う部屋に入った。ベッドと小さな物入れ用チェストがあるだけだった。冷蔵庫やテレビはない。荷物をベッドの下に押し込んで、廊下に出るとチャパも出て来た。ホテルに食事をする場所がないので、外食になる。フロントの男性に食事が出来る店を尋ねると、地図を出して来て通りを3、4本教えてくれた。そこへ行けばいくらでも店があると言う。
 ホテルから出て、2人は歩き出した。車はホテル前に路駐だ。道路脇にずらりと路駐の車が並んでいるので、少なくとも駐禁で警察に罰金を取られることはなさそうに思えた。

「セラード・ホテルにサシガメはいると思うかい?」

 マイロが尋ねると、チャパは肩をすくめた。

「セロ・オエステ村にいなければ、ここにもいないと思いますけど・・・」
「いるとすればメキシコサシガメの仲間だが・・・」

 マイロは周囲を見回した。古い石畳の道と石を基材にした家屋が並んでいる。そして広い道に出るとそこはアスファルト舗装でコンクリートのビルが建っていた。緑が少ない、と感じた。グラダ・シティに比べて街の色が白っぽい。
 昼食はエル・ティティを出る時に購入しておいたパンだけだったので、夕方にはもう空腹で堪らなかった。しかしセルバ共和国の夕食タイムは始まるのが遅い。殆どの店がまだ閉店の札を掲げていた。チャパは同国人だから慣れている。彼は大きな教会前の広場へマイロを連れて行った。そこでは気の早い屋台が早々に店を開けているところだった。
 ポジョフリート(フライドチキン)とライスの盛り合わせを頼み、道端に置かれた椅子に座って食べた。隣に座った男が、どこから来たのかと声をかけて来た。アメリカだと答えると、金を掘りに来たのか、船乗りかと訊かれた。マイロは携帯を出してサシガメの写真を見せた。

「こんな虫を見たことないですか?」

 男が目を細めて写真を見た。

「スラムに行けばいくらでもいるさ。」
「スラム?」

 男は摺鉢型の都市を囲む斜面の一角を指差した。

「まともな仕事にあり付けない連中の寝床さ。」
「虫に刺されて病気になる人もいる?」
「いるだろうさ。連中は医者にかかれないし、呪い師に払うお礼も持っていないから。」

 男がマイロをジロリと眺めた。

「昆虫学者かい?」
「まぁ、そんな様なものだけど・・・」

 研究専門の医者だと言っても、相手にはわからないだろう、とマイロは思った。男は職人風に見えた。

「貴方はこの近所の人?」
「スィ。仕立て屋だ。今日は上がってこれからバルを回る。」

 男は鶏肉の骨をしゃぶってから、マイロに注意を与えた。

「わかってるだろうが、スラムには暗くなってから近づくんじゃないぞ。」



2023/02/03

第9部 古の部族       2

  マイロは慎重にポケットから携帯を取り出した。

「正直に言います。私は今、この虫を探しています。見たことがありますか?」

 サシガメの写真を画面に出して、相手にゆっくりと差し出した。民家の住人である男性はそれを眺め、それからマイロに視線を戻した。

「そこらへんにいる虫ですが、これが何か?」

 そこらへんにいる? マイロは突然期待に心が躍るのを感じた。彼は少し慌てて身分証を出した。

「私はグラダ大学の医学部で研究をしているアーノルド・マイロと申します。アメリカから研究の為に来ている客員研究者です。」

 彼はチャパを振り返った。

「こちらはホアン・チャパ、セルバ人で私の助手です。2人でこの虫を探してグラダ・シティからオルガ・グランデ迄のハイウェイをドライブしているところです。」

 男性はマイロの大学のI Dを手に取った。彼が眺めている間にチャパも己の身分証を出した。男性は彼のI Dも見た。そして2人にI Dを返した。

「医学部のドクトルと言うことは、お医者さんですか?」
「アメリカの医師免許は持っていますが、セルバ共和国ではただの研究者です。チャパ君は将来医者になると思いますが・・・」

 チャパがちょっとはにかんだ笑みを浮かべた。マイロが説明した。

「写真の虫は原虫・・・寄生虫のようなものを持っていて、人間の血を吸います。そして糞をします。寄生虫はその糞の中にいて、人間が鼻から吸い込んだり、刺された傷口から侵入します。原虫が体の中に入った人間は心臓疾患などの病気に罹り、完治するのが困難になります。最悪、死に至ります。」

 マイロは説明を続けた。

「この病気は中南米の至るところで確認されている、広く蔓延している恐ろしい病気です。しかし、不思議なことにセルバ共和国では発症事例の報告がないのです。ですから、僕はセルバのサシガメ、この写真の虫です、と他の地域のサシガメにどんな違いがあるのか調べたいのです。」
「違いがあれば?」
「他国での予防の対策を考える材料になる筈です。」
「違いがなければ?」
「その時は、セルバ人の体質が他国の住民と違いがあるのか、調べます。」

 喋りながら、ふとマイロは思った。相手はただの農民に見える。普通の人はマイロの説明を聞いても、へぇ!とか、ふーん、と言った表情をする。難しくてよく理解出来ないと言う顔だ。しかし、目の前の男性は、「わかっている」と言う表情だった。
 男性は不意に視線を畑の方向へ向けた。

「この村でその虫に刺されて病気になったと言う人はいません。そもそも虫に刺されたと言う話は聞きません。乾いた土地ですから、虫には生きにくいでしょう。」

 サシガメは家の中にいると、マイロが言いかけると、チャパが彼の袖を引いた。そっと小声で囁いた。

「彼は僕等に去れと言っているのです。」

 マイロは助手を振り返った。チャパが小さく首を振った。先住民を怒らせるな、と言いたいのだろう。マイロは畑の向こうに見えている都市を見た。まだ調査対象はいくらでもある、と彼は思った。それで、彼は名刺を出した。

「私達の為に時間を割いて頂いて有り難うございました。もし虫を捕まえたり、刺された人がいたら、この番号に電話して下さい。すぐに駆けつけられるとは思いませんが、必ず戻って来ます。協力をお願いします。大勢の病気で困っている人々の為です。」

 すると、男性が名刺を受け取ってくれた。名前と電話番号を眺め、静かな口調で言った。

「では、私も名前を貴方に教えます。セフェリノ・サラテ。この村はセロ・オエステです。」


2023/02/01

第9部 古の部族       1

  チャパが言った通り、カーブを3つ過ぎると民家が見えた。少し離れて緑色の平地もあったので、どうやらトウモロコシ畑と思われた。ぽつりぽつりと建っている民家の外観は土壁に瓦を載せたもので、どれも平家だ。伝統的な農耕民の家だ、とマイロはちょっと明るい気分になった。サシガメがいるかも知れない。

「あの村へ立ち寄ろう。」

彼が指差して言うと、チャパが「え?」と言う顔をした。

「先住民の村ですよ。」
「それが問題かい? いかにもサシガメがいそうじゃないか。」
「僕はこっちの先住民との付き合い方を知りません。」

 暫く車内に沈黙が漂った。マイロはグラダ・シティでも先住民と付き合った覚えがなかった。少なくとも研究者と学生として言葉を交わしたことはあっても、普通の住人の家を訪ねたことはない。考えて、マイロは質問した。

「贈り物が必要だろうか?」
「そんな物は要らないと思います。村をただ訪問するだけなら・・・でも僕らは家の壁の中にいる虫を探すでしょう?」

 そうだ、いきなり他所者が来て自分の家の壁を見せろと言ったら、誰でも愉快じゃない。マイロは後部席に体を向けて、リュックから水筒を出した。そして中の水を外に捨てた。

「水を分けてもらおう。」

 チャパは無言で次の分岐で村に向けてハンドルを切った。

「言葉はスペイン語で通じるよな?」
「電気が通っているから、テレビを持っているでしょうし、大丈夫でしょう。」

 言われてみれば、電柱が街の方から並んで立っていた。未開地ではないのだ。未舗装の細い道路を走って、最初の民家の前に車を停めた。
 前庭に鶏がいた。古いピックアップトラックが1台駐車していた。裏手に洗濯物が干されているのがチラリと見えた。どこかで犬が吠え、家の中から初老の女性が出て来た。マイロが車から降りると、ちょっとびっくりしたようだ。それがマイロの肌の色に驚いたのか、ただ知らない人が来たから驚いたのかは不明だった。チャパも運転席から出たので、マイロは「オーラ!」と声をかけた。水筒を見せた。

「今日は。少し水を分けていただけますか?」

 女性は無言でマイロからチャパに視線を映した。チャパが挨拶した。

「今日は。僕達はグラダ・シティから来ました。これからオルガ・グランデの市街地に行きます。」

 すると女性は手で「そこで待て」と合図して、家の中に入って行った。マイロは助手を振り返った。チャパが苦笑した。

「どうやら、女性は見知らぬ男性と口を聞かない、って言う風習が残っているみたいです。」

 その言葉が終わるか終わらぬかのうちに、家の中から先刻の女性より少し若く見える男性が出て来た。服装は普通にボタンダウンのシャツにデニムボトムだ。マイロは以前チャパが見せてくれた挨拶を思い出して右手を左胸に当てて見せた。

「ブエノス・タルデス(今日は)。」

 男性はちょっと眉を上げて、それから同じ動作をした。

「ブエノス・タルデス。どんな御用ですか?」

 目は水筒ではなくマイロの額を見ていた。相手の目を見つめるのはタブーになっている国だ。マイロに訪問の真意を尋ねている、とマイロは感じた。こんな村に水を求めに来る旅人などいないのだろう。
 マイロは腹を決めた。


第11部  紅い水晶     20

  間も無く救急隊員が3名階段を昇ってきた。1人は医療キットを持ち、2人は折り畳みストレッチャーを運んでいた。医療キットを持つ隊員が倒れているディエゴ・トーレスを見た。 「貧血ですか?」 「そう見えますか?」 「失血が多くて出血性ショックを起こしている様に見えます。」 「彼は怪我...