2021/08/24

第2部 バナナ畑  1

  その死体は長い間誰にも気づかれずにそこにあった。

 バナナ畑の所有者がもう少し畑を拡張しようと、東の藪を刈っていて見つけたのだ。エル・ティティ警察の署長アントニオ・ゴンザレスが通報を受けて駆けつけた時、死体は半ばミイラ化していた。ゴンザレスは物盗りの犯行だろうと思った。エル・ティティで住民の誰かが行方不明になったと言う届出は絶えて久しく無く、死体は他所者だろうと警察は考えた。物盗りならこの小さな寂れた田舎町にだっていくらでもいたし、乱暴な奴もいた。ゴンザレスは死体は男だろうと見当をつけた。街の唯一の医者ドクトル・ウナヴェルトも同意見だった。何故なら死体は男物の衣服を身につけていたからだ。身分証はなかった。財布ごと盗られたのだろう。死体は近隣の農民と思われ、そうなら普段身分証など持ち歩かなかったかも知れない。身元が判明しない死体はすぐに忘れ去られる。事件は未解決のまま有耶無耶になろうとしていた。エル・ティティでは・・・否、このセルバ共和国では珍しいことではなかった。警察は泥棒や交通違反の取り締まりに忙しく、身元不明者の捜査などしている暇はない。それに他人の過去を詮索しないと言うこの国に古くからある習慣も捜査のネックになった。市民は警察に期待しないし、警察だって期待されるのは迷惑だ。だから死体が街の共同墓地に埋葬されてしまうと、ゴンザレスはそいつのことをすぐに忘れかけた。
 死体が発見されて5日後に、首都グラダ・シティからゴンザレスの息子のテオドール・アルスト・ゴンザレスが週末の帰省をした。テオはゴンザレスの養子だ。本来はアメリカ合衆国の人間だった。DNAの研究をしていた偉い科学者だったのだ。それなのに田舎警察のウダツの上がらぬ署長の養子になってくれた。これには複雑な事情があって、ゴンザレスは今でも時々夢を見ているような気分になる。家族と死別した初老の警察官と、生まれた時から家族がいなかった若者、孤独な魂同士が惹かれあって親子になったのだ。正式に養子縁組をして家族になってからまだ半年だった。
 テオは国立グラダ大学生物学部で遺伝子の研究をしている。発生遺伝学とか進化発生遺伝学とか、ゴンザレスには理解出来ない難しい学問だ。テオは研究をしながら学生の講義も担当している。立派な大学の先生なのだ。まだ教授じゃないよ、と彼は言うが、ゴンザレスは他人に自慢する時は息子は教授だと言っていた。
 自慢の息子が土曜日のお昼にバスに乗って帰って来た。前日金曜日の深夜に夜行バスに乗ってグラダ・シティを出発して、昼前にエル・ティティに到着だ。エル・ティティの平均的庶民の家と同じ、土煉瓦に漆喰を塗ったゴンザレスの家に入り、男所帯の家の掃除をして溜まった汚れ物を洗濯して彼は午後を過ごす。夕方ゴンザレスが帰宅すると夕食が出来上がっていて、2人でビールを飲みながらのんびりと楽しい夜を迎えるのだ。週末に休日を入れるのは署長の特権だ。ゴンザレスはセルバ的な習慣を遠慮なく使って、数年ぶりの家族団欒を楽しんだ。
 テオは留守の間にエル・ティティで起きたことを知りたがる。養父の職務が危険と隣り合わせであることを十分承知していたからだ。警察官はどこの国でも危険で厳しい仕事だ。セルバ共和国は決して極貧ではないが、裕福でもない。富と繁栄は東海岸の首都グラダ・シティと西の高地の鉱山街オルガ・グランデに集中し、国民の多くは昔ながらの農耕や漁で暮らしている。或いは鉱山で危険な採掘現場の労働をして稼ぐのだ。この国の不満分子は反政府ゲリラか強盗団になる。ゴンザレスの仕事はそいつらがエル・ティティの住民に危害を加えぬよう警戒することだ。悪党と戦うのは政府軍の憲兵隊や陸軍特殊部隊の仕事だが、警察は権力者の「手先」なので、見せしめに狙われたりすることも往々にある。だからテオは不安なのだ。治安の良いグラダ・シティに養父を呼び寄せて暮らしたいのだが、ゴンザレスは故郷を離れたがらない。失った家族の墓も守らねばならない。だからテオは街の出来事を彼なりに分析して、ゴンザレスに危険が近づいていないか確かめようとしていた。

「殺人事件があったそうだね?」

 テオは流暢にセルバ共和国公用スペイン語を話す。恐らくネイティヴのゴンザレスより正しい文法と発音で話せる筈だ。しかしゴンザレスの前ではティティ方言と呼ばれるティティオワ山周辺で話されている方言を使う。まるでここで生まれ育ったかのように自然に喋る。それが彼の才能の一つだ。彼は一度耳にした言語を3日もあれば覚えてしまう。彼のDNAがそうなっているのだ。彼、テオドール・アルスト、英語名シオドア・ハーストは、遺伝子操作されて生まれた人間だった。

「殺人事件だなんて、誰が言ったんだ?」

 ゴンザレスは不機嫌な顔で尋ねた。家で仕事の話をしたくなかった。退屈な街の警察業務なんて退屈でしかないし、食事時に死体の話は全く相応しくない。彼はグラダ・シティの噂話の方が面白そうだと思った。しかしテオは反対の意見を持っていた。

「男が物盗りに殺されたって聞いたけど?」

 きっとバスの中で誰かが喋ったのだ。話題が少ないから、身元不明の死体の話を誰かがいかにも自分が見てきたかのように喋ったのだろう。
 

1 件のコメント:

Jun Tacci aka ねこまんま さんのコメント...

この第2部の冒頭の一文は、原作を読んでもらった読者の間では「衝撃だ」と言う評判だった。

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