2022/11/30

第9部 シャーガス病     7

 マイロは微生物を探して野外活動することも多かったので、野営は慣れていた。大学の寮に戻ると、モンロイと別れ、自室に入った。まだ午後10時になっていなかったが、くたびれたので、荷物の中から寝袋を出し、ベッドのマットレスの上に広げて、その中で寝た。熱帯でも夜は冷え込むことがある。マイロはその点は経験があったので、用心を怠らなかった。
 翌朝、買ったばかりのポットで湯を沸かした。モンロイが寮の水は沸騰させれば安全だと言ったので、それに従ってコーヒーを淹れた。窓の外は霧が出ていた。湿度が高いので、夜間の気温低下と無風状態の結果だ。コーヒーとビスケットだけの軽い朝食を取り、それから廊下の突き当たりのバスルームに行った。モンロイが昨晩忠告してくれた通り、ちょっとした渋滞が起きていたが、お陰で同じ階の住人5人と挨拶が出来た。4人はモンロイを含めた若い研究者で、 1人だけ初老の准教授だった。准教授で寮生活なのか?と思ったが、気難しそうなその男は名前しか教えてくれなかった。医学部小児科のホアン・デル・カンポ博士だった。マイロが同じ医学部で働くと言っても、黙って頷いただけだった。モンロイ以外の3人の若い男達は、それぞれ文学部で教員を目指す学生達の指導を行なっている体育講師や、物理学の助手、考古学部の助手だった。カンポ博士は白人で残りはメスティーソだ。マイロの様なアフリカ系の人は2階にはいなかった。若い男達はモンロイ同様人懐こい風だったので、カンポ博士は黒人が嫌いなのかな、とマイロは勘ぐってしまった。
 イメルダ・バルリエントス博士は約束の9時を10分ほど遅れて迎えに来た。セルバでは10分は遅れたことに入らない、と堂々と言われて、マイロは改めて己が異国に来たのだと感じた。
 
「早速アダン・モンロイと仲良くなられたのですね。」

と医学部に向かって歩きながら、バルリエントスが微笑んだ。マイロが昨夜の夕食の話をした後だ。

「彼とお知り合いですか?」
「知り合いと言えば知り合いです。プンタ・マナ近辺で貝の寄生虫を研究した時に、少し協力してもらいました。この国の先住民達は都会の人間を警戒しますので、地元出身者の協力があると大変助かります。」
「プンタ・マナの先住民と言うのは、ガマナ族ですね?」
「スィ。アダンから聞かれたのですね?」
「スィ。これから僕はジャングルとかにも入ると思いますが、用心しなければならない先住民はいるのでしょうか?」

 すると彼女は笑った。

「もし、弓矢や吹き矢で攻撃してくる裸の人々を想像なさっているのでしたら、それは間違いです。セルバ共和国の先住民は既に文明化されています。ただ、土地を使う権利に煩いだけなのです。」
「では、土地に踏み込む許可をもらう必要があると?」
「そんなのはないです。個人の所有地でない限りは。」

 医学部の建物はグラダ大学の中で最も近代的だった。病院と隣り合わせで、中庭で散歩する患者が数人見えた。マイロはバルリエントスと共に病棟ではなく、学舎の入り口から中に入った。入り口で彼は職員証を渡された。

「これがなければ、学舎に入れませんから、絶対に紛失しないでください。」

 職員証は昔ながらのパスケースにプラスティックのカードを入れて、ストラップで首から下げる形式だった。裏面を学舎の入り口の壁に備え付けられているパネルにタッチすると、ドアが開く。

「他の学舎、文系や理系の学舎は日中の出入りが自由なのですが、医学部は研究対象の人間の個人情報や外部に持ち出されると困る微生物などの資料があるので、セキュリティを厳重にしています。」

 微生物研究室は2階にあった。ガラス張りの壁で仕切られ、階段を上り終えると、最初に職員全員が休憩出来る広いスペースがあった。そこに10人ばかりの男女がいて、マイロを見ると立ち上がった。バルリエントスが紹介した。

「アメリカから来られたアーノルド・マイロ博士です。」
「マイロです、よろしく。」

 マイロが挨拶すると、彼女が年配の男性を紹介した。

「微生物研究室の室長、ベンハミン・アグアージョ博士です。水中微生物の研究をされている、私の恩師でもあります。」

 アグアージョ博士は2メートル近い大男で、メスティーソであろうが白人に近い風貌だった。手を差し出して挨拶した。

「君のことは国立感染症センターから聞いている。セルバへようこそ!」

 その後、マイロはその場に居合わせた人々を順番に紹介された。どの人も人当たりの良さそうな笑みで迎えてくれた。それぞれの専門を聞けば、この研究室の主だった研究対象は水中微生物のようだ。飲料水による感染症が多いのだろう、とマイロは心の中で結論着けた。彼のように昆虫を媒介とする微生物感染症はそんなに研究されていない。少し奇異に感じたが、シャーガス病の発症例が殆どない国なので、関心を持たれていないのだろう。
 アグアージョも彼の心の中を見透かした様に言った。

「恐らく、もう察しておられるだろうが、ここには君と共同研究する研究者はいないのだ。シャーガス病が中南米では珍しくない感染症だと知っているが、セルバ共和国では珍しい病気となっている。もしかすると逆に多過ぎて誰も関心を持たないと言う可能性もあるがね。君に部屋を用意しているが、研究の手助けが必要な時は、生物学部を頼ると良い。あちらは昆虫の研究をしている准教授がいる。ええっと・・・」

 アグアージョがちょっと戸惑って、傍の若い男性を見た。若い研究者が囁いた。

「スニガ准教授。」
「スィ、スィ、マルク・スニガだ。彼に相談しなさい。昆虫の採取や分類など、喜んで協力してくれるだろう。」


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