2021/09/12

第2部 雨の神  2

  ケツァル少佐の高級コンドミニアムの玄関チャイムが鳴った時、テオとデネロス少尉は大急ぎで戸口に向かった。ドアを開けると、いきなり白塗りの奇妙な化粧をした男が3人、先を争うように雪崩れ込んできた。1人がカルロ・ステファンの声で怒鳴った。

「少佐! バスルームを使わせて頂きます!」

 3人はテオの手に次々と鞄を押し付け、再び先を争って浴室へ走って行った。テオは呆然とその後ろ姿を見送り、それからデネロスを見た。彼女がクスリっと笑った。

「ナワルが解けると眠くなるので、必死でぶっ倒れないうちに帰って来たんですね!」

 キッチンでは、家政婦のカーラの手伝いをしていたアスルが、彼女に囁いた。

「今何か見たか?」
「何も見てませんよ。」

 カーラは大鍋の中を大きな杓子でかき混ぜながら言った。

「私はこの家の中で聞いたり見たりしたことは、何もなかったと思うことにしていますから。」
「俺は貴女が好きだよ。」

 アスルはカーラのふくよかな頬にキスをした。カーラが微笑んだ。

「ここで働いていると、退屈しませんからね。」

 テオが居間に3個の鞄を抱えて戻ると、ケツァル少佐はソファに座ってテレビを見たまま尋ねた。

「3人共無事にナワルを使って人間に戻った様ですね?」
「スィ。アンドレもフラフラだったから、恐らく生まれて初めて変身したんじゃないか。」

 彼女が時計を見た。

「出発して3時間で戻って来ましたから、ジャガーでいた時間は正味1時間足らずでしょう。すぐに寝込んだりしません。夕ご飯を食べさせてから、マハルダと一緒に本隊に送り届けます。」
「それじゃ、今夜も君はアルコール抜きなんだな?」
「官舎組もお酒は抜きですよ。」

 えーっとデネロス少尉がわざとがっかりした声を出した。彼女は砂漠から戻ってきた男達が砂を廊下に落としたので、掃除機を持ち出したところだった。

「ビール1本ぐらいは許可下さい、少佐!」
「2本まで許可します。」
「グラシャス!」

 浴室の方から賑やかな男達の声が聞こえてきた。少佐が「子供の水浴びか!」と呟いた。
テオは”出口”が出現したと思われるピラミッド近くにロホの中古のビートルをデポしてやったのだが、ロホ達は誰にも見咎められずに乗り込めただろうか、と思った。恐らくラス・ラグナスで服を着てから”入り口”に入った筈だが、顔が白塗りのままだった。あの顔で緑の鳥の徽章を提示するのは気後するだろう。いくらセルバ共和国が古代の信仰を残す国だからと言って、平日の夜に都会の真ん中を雨乞いの儀式の格好で歩く人はいない。
 軍隊の入浴に慣れている男達は素早く体から砂と埃を落として、まだ埃っぽい服を身につけて居間に入って来た。最初にロホが少佐の前に立ち、”心話”で首尾を報告して、敬礼した。少佐が頷くと、彼は退がり、ステファン大尉と入れ替わった。大尉も”心話”で報告し、それから改まった口調で挨拶した。

「この度は多大なるご尽力をいただき、誠に感謝しております。」

 それに対する少佐の返答はテオの耳には冷たく聞こえた。

「私も司令部に報告することがありますから、全て語りますよ。」

 失敗も成功も隠すことなく上層部に報告すると言うことだ。しかしステファン大尉の顔に不満を表す色はなかった。彼は穏やかな表情で、グラシャスと応え、敬礼した。少佐は敬礼で応え、ギャラガを見た。大尉が退がって、少尉を前へ押し出した。ギャラガも”心話”で遺跡で見たままのことを報告した。自分が2頭の美しいジャガーを目の当たりにしてどんなに興奮してしまったかも伝えてしまったので、彼は恥ずかしくなって最後はうっかり目を伏せてしまった。少佐が指摘した。

「その目を伏せる癖はどうにかしなさい。」

 叱られて彼は顔を上げ、承知と応えた。少佐が言った。

「日曜日の朝、ここへ来た貴方はほとんど何も出来ない自信のないただの若造でした。今、水曜日の夜の貴方は基本をマスターして胸を張って仲間の元へ帰ることが出来るのです。短い日数でよく学習しました。これからも任務に励んで修練に努めなさい。努力は必ず報われます。」
「お言葉を胸に留めておきます。有り難うございました。」

 ギャラガは敬礼した。少佐が敬礼を返してくれた。
 アスルとカーラが料理の器を運んで来た。大勢で食事する時は居間で宴会状態になる。”ティエラ”のテオは少佐にお願いをしてみた。

「カーラも一緒に食べて良いかな?」

 家政婦が、とんでもない、と手を振ってキッチンへ戻った。しかし少佐は彼を見て微笑んだ。

「貴方が望むなら、喜んで。」

 どうして少佐はテオの「お願い」をいつも受け入れるのだろう? ちょっと嫉妬しながら見ているステファンに、ロホが囁きかけた。

「私の報告に少佐は驚かなかった。君も報告しただろ?」
「スィ。」

 我に帰ったステファンは生返事したことに気がつき、慌てて友人に問いかけた。

「何の報告?」

 ロホが目で窓際の席を指した。そこではデネロスとアスルがギャラガにセビーチェの食べ方を指導していた。ただの魚の料理なのだから、そんな必要はないのだが。
 ロホが声を落とした。

「アンドレのナワルだ。」
「ああ・・・」

 ステファンは微かに身震いした。

「なんだか良い意味で悪い予感がする。」
「なんだ、それ?」



 

 

第2部 雨の神  1

  ”出口”から出た瞬間、カルロ・ステファンは緊張した。一瞬警戒して背後を見てしまった程だ。先に”着地”していたロホが彼の動きに振り返り、肩をすくめた。ステファンに続いてギャラガが現れた。もう少しで上官を突き飛ばしそうになり、上体を後ろに反らしてよろめいてしまった。ロホが笑った。

「すぐに前に出ないカルロが悪い。」
「どうせグラダは”着地”が下手さ。」

 大尉は憮然とした表情で呟いた。彼が不機嫌なのは、着地のマズさだけではなかった。服装も気に入らなかった。片手に下げている鞄の中には普段着と靴が入っているが、今の彼は半裸状態だ。それはロホもギャラガも同様だった。現代のセルバ人の民族衣装はちゃんとズボンを履いてシャツを着て色彩豊かなポンチョを着用するのだが、今回ロホが要求したのは、古代の儀式用の装いだった。白い褌に首、手首、足首にビーズの輪っか、羽飾りの付いた冠だ。顔にはペイントだ。ステファンはゲバラ髭を生やしているので剃れと言われるのかと内心ヒヤッとしたが、それはなかった。しかしペイントの免除はなく、植物の樹液から作られた顔料で白塗りされて、青い模様を描かれた。ギャラガと互いの顔を見合って思わず笑った程、滑稽に見えた。同様の装いのロホは真面目だ。実家へ帰ってわざわざ年寄り連中から聞いてきたと言う儀式手順を大尉と少尉に教え、シェケレとグィロの演奏の仕方も教えた。
 現地に到着すると、ロホはすぐに帰りに使う”入り口”を探した。”出口”ができれば自然と”入り口”が近くに生じるのだ。ステファンはその法則を知っているがブーカ族ほどに”入り口”を見つけるのは得意ではない。ギャラガも犬みたいに周辺を探し回り、結局ロホが帰り道を見つけた。その前に荷物を置いておき、コンドルの神像がある場所へ行った。
 コンドルは砂に塗れて以前と同じ場所に立っていた。ロホは右目の穴を丁寧に掃除して、そこに回収された目玉を嵌め込んだ。戻ってきた目玉は隙間が生じ、風化した神像に不似合いに見えた。ロホは気にせずに神像の前に花を盛り付け、保冷バッグから新しい豚の心臓を出して置いた。
 数歩退がり、立ったままで古い”ヴェルデ・シエロ”の言語で歌い始めた。2小節目でステファンとギャラガは楽器を鳴らした。ロホが歌い、2人が音を立て、3人で並んでゆっくりと輪になってリズミカルに神像の前で回った。
 もしギャラリーがいたら照れ臭くて出来なかっただろうが、誰もいないのだ。ギャラガは頭を空白にして、教わった通りのリズムでグィロを鳴らし続けた。先頭のロホは歌いながら優雅に腕を動かして踊っていた。それを見るともなしに視野に入れていると、少しずつ手の動きが緩慢になってきた。早くも疲れたのかとギャラガは己の不甲斐なさに呆れかけた。ロホが腰を前に折った。彼は踊りながら冠を取り、空中へ放り投げた。ギャラガは鳥の羽根の冠が鳥になって飛び立ったのを見た様な気がした。続いてステファンのシェケレの音が止み、彼も冠を取って投げた。今度は鳥がはっきりと見えた。緑色の鳥が飛び立って行った。ギャラガの手が重くなり、彼はグィロを落とした。頭が締め付けられる。冠を取り、彼も投げた。鳥の羽ばたきの風を感じた。
 気がつくと、ロホとステファンの姿がなかった。ギャラガの前を歩いていたのは、金色の生地に黒い斑模様が美しいジャガーと、漆黒に輝く毛皮の黒ジャガーだった。ギャラガは呆然と見つめながらその後ろをついて行った。己が四つん這いになっていることに気が付かずに。


2021/09/11

第2部 ゲンテデマ  10

  ハイウェイ沿のドライブインで遅い昼食を取った。観光地なのでシエスタは関係なく店は営業していた。テオは米に糸状に裂いた肉をトマト味で煮込んだシチューをかけたイラーチャ・プレートを、ケツァル少佐は米に色々な蒸した野菜を添えて、スープに入れて食べるソパ・プレートを注文した。テオは生贄の目玉を忘れようと努力した。イスタクアテ・ロハスはジャガーの心臓の代わりに己の目をくり抜いてコンドルに捧げたのだ。そして甥が弟の仇を討ってくれたと思い、満足して海の底の弟の後を追って行った。
 ステファン大尉とギャラガ少尉は大空を舞うコンドルに導かれ、船の当て逃げ犯ジョナサン・クルーガーの家を突き止めた。そしてクルーガーを追い詰めたペラレホ・ロハスを間一髪のところで取り押さえた。クルーガーは警察に通報すると言ったが、大尉は彼と彼の女友達の目を見つめ、見たことを忘れさせた。
 グワマナ族の族長ロドリゴ・ロムベサラゲレスに連絡を取ると、グワマナ族の長老達がペラレホを引き取りに来た。ステファン大尉は長老達にイスタクアテとペラレホの2人のロハスが犯した罪を伝えた。コンドルの目玉を盗み、私怨を晴らす儀式に使った「神への冒涜」と、罪のないサン・ホアン村の占い師を殺害した罪だ。この時、ギャラガもちょっぴり追加の情報を伝えた。2人のロハスは大統領警護隊の隊員を殴って負傷させ、一晩捕まえていた、と。勿論大尉には教えなかった。余計なことを言うなと叱られるだけだ。

「結局クルーガーの当て逃げは有耶無耶にされるのかな。」

とテオが不満気に言うと、少佐がどうでしょうと返した。

「グワマナ族は当て逃げの犯人が彼だと知っていますし、今度は逃げられないよう監視するでしょう。彼のせいで一族の者が罪を犯したのですから、グワマナ族はクルーガーを許さないと思いますよ。」

 彼等は口を閉じた。テーブルのそばをアメリカ人観光客のグループが通った。男達が少佐を見て振り返っている。テオはちょっと優越感を覚えた。恋人ではないが、恋人同士に見えるだろう。
 彼等が奥のテーブルに行ってしまうと、テオと少佐は話を続けた。

「ペラレホは罰せられるのだろうな?」
「無罪とはならないでしょう。占い師を殺害した実行犯が彼なのかイスタクアテなのかわかりませんが、神像を冒涜して”ティエラ”に害を為したのです。占い師が彼等を神と頼って来たのに信頼を裏切ったのですから、一族の誇りが彼等のしたことを許しません。」

 少佐はペラレホの罪をさらに追加した。

「文化保護担当部に無届けで遺跡に立ち入りましたから、文化保護地域無断侵入と文化財損壊の罪で公訴します。」
「フェリペ・ラモスも遺跡に出入りしていた様だが・・・?」
「彼はサン・ホアン村の住民で、サン・ホアン村は元々ラス・ラグナスにあった村です。ラモスにはあの場所に出入りする権利がありました。」

 これでフェリペ・ラモスの霊も少しは浮かばれるだろうか? 否、まだ問題が残っていた。

「コンドルの目は今日中に遺跡の石像に戻されるのかな? ”入り口”を使わないと無理なんじゃないか?」

 ステファン大尉とギャラガ少尉はケツァル少佐からコンドルの目玉を受け取ると、少佐のSUVで先にグラダ・シティに帰ったのだ。テオと少佐がプンタ・マナの街でのんびり昼食を取っていたのは、グラダ・シティへ行くバスの時間調整の意味もあった。少佐はオフィスで留守番をしているロホやアスルに迎えに来いとは言わなかった。彼等には昨日から溜まった申請書の処理があるのだ。

「もし運が良ければ・・・」

 少佐はソパを食べてしまい、セビーチェとブリトーを追加注文した。

「ロホかマハルダが”入り口”を見つけて送ってやるかも知れません。」
「アンドレもブーカだろ? 彼にはまだ”入り口”を見つけるのは無理か?」

 すると少佐がテオの目をじっと見たので、テオはドキッとした。何かマズイ発言でもしたか? 彼女が言った。

「彼は自己紹介でブーカと言いましたが、ブーカではありません。」
「そうなのか?」

 アンドレ・ギャラガは半分白人だ。それは明白だった。残りの半分がブーカ族でないなら、どこの部族なのだ?

「彼の母親がきちんと息子に出自を教えなかったので、混乱が生じているのです。でも彼から発せられている気はブーカ族の波動とは異なります。」

 そこへセビーチェが運ばれてきた。少佐が器をテーブルの中央に押し出した。

「半分どうぞ。プンタ・マナで獲れた新鮮なシーフードですよ。」


第2部 ゲンテデマ  9

  ハリケーンで崩壊して放置された別荘があった。所有者は外国にいて、留守の間に災害に遭ったのだ。地元の若者達が無断で入り込んで遊んだ痕跡が見られた。壁に落書きだ。バンクシーの足元にも及ばない下手くそな絵がそこかしこにスプレーのペンキで描かれていた。床はタバコの吸い殻や空き缶だらけだ。別荘地なので近所の人が善意で管理することもないのだろう。一番海に近い部屋の床に、イスタクアテ・ロハスがいた。真っ昼間なのに蝋燭に火を灯して己の周囲に並べ、花を盛った上に丸い灰色の石を置いていた。その前にも血だらけの丸い物が2つ・・・
 その正体が分かった途端にテオは気分が悪くなり、廃屋の外に走り出た。朝食べた物が消化された後で良かった。それでもゲーゲーやってしまった。
 ケツァル少佐は床に座したイスタクアテに近づいた。老いたゲンテデマの顔は血で汚れていた。手にも血が付いていた。彼が古い言語で囁いた。

「ヤグアーか?」
「そうだ。」
「女か。」
「グラダの族長だ。」

 おう、とイスタクアテが声を上げた。少佐が確認のために尋ねた。

「己の目をコンドルに捧げたのか?」
「そうだ。船の白人が見つかるように。」
「白人は見つかったか?」
「見つけた。甥が謝罪させる。」
「目的は果たせたか?」
「果たした。」
「”ティエラ”の占い師を殺したか?」
「コンドルの目を奪おうとした。だから取り除いた。」
「もうコンドルの目は必要ないな?」
「ない。」

  ケツァル少佐はポケットから彼女のハンカチを出し、コンドルの目玉をそれで丁寧に包んだ。立ち上がると、囁いた。

「さらばだ、ゲンテデマ。」

 彼女が廃屋の外に出ると、テオがげんなりした顔で壁にもたれかかっていた。

「俺は君達の文化を否定するつもりはないが、生贄だけは受容出来ない。」

 少佐が苦笑した。

「私もです。」

 彼女は丸く包んだハンカチを彼に見せ、行きましょう、と首を振った。彼は廃屋を見た。

「イスタクアテは?」
「コンドルの目を取り返しました。もう用はありません。」
「しかし、殺人犯だろう?」
「私達に逮捕は出来ません。それに証拠もありません。」
「しかし・・・」

 その時、テオはドボンと言う水音を聞いた様な気がした。まさか? 彼が廃屋に入りかけると、少佐が彼の手を掴んだ。

「ゲンテデマは海に帰りました。追ってはいけません。」

 

第2部 ゲンテデマ  8

  事務所の外に出た時、テオが空を見上げた。海岸に並ぶ別荘の並びは屋根だけが見えていた。その向こうに緑色の海が輝いて見えた。真っ青な空・・・不慮の事故に遭った「空の緑」の命を呑み込んだ緑色の海・・・青い空・・・彼は心の中で言葉を繰り返し、空を見た。ケツァル少佐が車のドアを開けながら「テオ」と呼んだ。ステファン大尉とギャラガ少尉は後部席に乗り込もうとしていた。テオは彼等の焦りを理解していた。彼等の捜査期日は今夜だ。コンドルの目玉を取り戻しても、ラス・ラグナスへ行かなければ解決したことにならない。間に合うのか?
 彼は再び空を見て、ドキリとした。黒い鳥が大空を舞っていた。「少佐!」と彼はケツァル少佐を呼んだ。座席に座ったばかりの少佐が振り向いたので、彼は空を指差した。少佐がそちらを向き、よく見えなかったのか車外に出た。
 大きな黒い鳥がゆっくりと南の岬近くの空を輪を描いて舞っていた。

「コンドルです。」

 少佐が早く乗れと合図した。テオは走り、車に乗った。大尉が「何か?」と尋ねた。テオは空を見ろと怒鳴った。
 ベンツはハイウェイを南へ3分ほど走り、小道に曲がった。狭い道に入ってすぐに少佐が車を停めた。

「大尉、運転しなさい。」

と言いながら彼女は外へ出た。一瞬ステファンが戸惑うと、早く!と怒鳴った。テオは助手席から外に出た。ギャラガは動かなかった。どうして良いのか戸惑っていた。少佐が忍耐強く、”出来損ない”の弟に言った。

「コンドルは恐らくジョナサン・クルーガーの上を舞っています。それを見てペラレホがクルーガーの所へ行く筈です。」

 大尉がハッとして急いで後部席から運転席へ走って移った。

「貴女は、少佐?」

 問われて少佐が路地の奥を指差した。

「向こうから怪しい気が発っせられているのを感じます。イスタクアテだと思います。二手に分かれて追いましょう。」

 大尉の返事を待たずに彼女が歩き出したので、テオは迷わず彼女に付いていった。
 ステファン大尉は2人が並んで歩くのをチラリと見送り、すぐに車を出した。ペラレホに殺人を犯させてはならない。そんなことをしたら、コンドルの目が汚れてしまう。路地と言うより岸壁と人工的な壁が混ざる遊歩道の様な道だ。幸い金持ちの別荘街なので高級車が通れる道幅があった。しかし視界が狭く空が見えにくかった。

「アンドレ、空にまだコンドルはいるか?」

 ギャラガは窓から顔を出し、上を見上げた。

「います。もう少し左方向・・・次の角を曲がれますか?」

 言われた角を曲がると少し坂を下り、ちょっと広い場所に入った。行き止まりだったが車の転回場所らしくスペースはあった。薄いベージュ色の壁と門扉。色鮮やかな花が咲き乱れる低木の植え込みの向こうに平屋建ての綺麗な別荘が建っていた。屋根の上空を真っ黒な聖なる鳥が輪を描いて飛んでいた。
 ステファン大尉は車を停め、エンジンを切った。車外に出て、塀の中を覗き込んだ。芝生の庭の向こうに海が見えた。階段で海岸に降りられる様だ。プライベートビーチだ。ギャラガも外に出たので、彼は塀から離れ、そして勢いよくダッシュした。ジャガーの如く塀の壁を足で蹴って縁に2歩で駆け上がった。ギャラガもそれを見て、真似して上がって来た。電流が通るラインを越え、庭に飛び降りた。防犯用監視カメラがあるが、気にしなかった。相手は警察を買収出来る金持ちだが、こっちは緑の鳥の徽章を見せるだけで警察を引き下がらせる大統領警護隊だ。そして屋敷からは誰も出て来なかった。監視カメラを常にモニターしている警備員は雇っていない様だ。
 人の話声が聞こえた。海の方からだ。ステファンとギャラガは階段の降り口へ行った。
 想像通り、コンクリートの階段が下へ降りていた。下に木製の桟橋があり、クルーザーが係留されていた。水着姿の若い男女が船の甲板に立っており、桟橋にはTシャツに短パン姿の男が1人いた。後ろ姿だったが、髪の色や肌の色を見れば地元民だと分かった。ギャラガが囁いた。

「拳銃を持っています。」

 ステファンは頷いた。捕まった時に、連中に拳銃を奪われたのだ。その銃でペラレホ・ロハスはジョナサン・クルーガーと女性を脅していた。

「言い訳は聞きたくない。」

と彼は言っていた。

「これからお前が海に入って、俺の父に謝るんだ。」

 ステファンに聞き覚えのある声だった。クルーガーが手を差し出して命乞いをした。

「泳げない。金ならたくさんある。助けてくれ。」

 あまりスペイン語は得意でないようだ。恐らくペラレホが何を要求しているのか理解出来ていない。謝れと言うペラレホに対して、金を出すと言い続けるクルーガー。
 ステファン大尉とギャラガ少尉は階段を降り始めた。女性が彼等に気がついた。

「助けて!」

 彼女は英語で叫び、それからスペイン語で同じことを言った。もしかするとペラレホの仲間の強盗団だと思われているのかも知れない。女性はクルーガーの後ろに隠れるように立っていた。
 ペラレホは拳銃を白人達に向けたまま、首を少し動かして近づいて来る大統領警護隊を見た。

「お前か、”出来損ない”。」

と彼が呟いた。

「少し待っていろ。こいつに父への謝罪をさせてやる。その後はお前の好きにさせてやる。」
「それは待てない。観光客に何かあれば国の名誉に関わる。」

 ギャラガは立ち止まった。彼の拳銃は下水道で濡れてしまって使えない。装着しているだけだ。大尉は丸腰だ。しかし大統領警護隊は丸腰でも銃を持った敵と戦う訓練は十分していた。ただ、ギャラガはまだ「守護」目的で気を放った経験がなかった。銃が発射されるタイミングで気を放って銃弾を空中で破裂させる技だ。早過ぎると銃を撃った人間に大怪我させるし、遅ければ標的が怪我をする。特に今のような至近距離は難しい。それに、大きな問題があった。拳銃を持っているのも”ヴェルデ・シエロ”、しかも純血種だ。まともに気をぶつけ合うと、向こうの方が強い・・・ことになっていた。
 ペラレホは船の方へ向き直った。

「それならこの地上での謝罪は良い。こいつらに海の底でやってもらう。」

 ステファンが一声、アンドレ! と叫び、いきなりペラレホに飛びかかった。拳銃の発射音が響き、ギャラガは思わず力んだ。空中で何かが弾けた。
 魚網を引くゲンテデマの力は強かったが、格闘技の訓練を受けてきた大統領警護隊の逮捕術が勝った。ステファン大尉はペラレホを桟橋の上に押さえ込み、両腕を背中へ捻った。

「何か縛る物はないか?」

 訊かれてギャラガは、船の上で呆然としているクルーガーに同じことを尋ねた。女性が船室へ駆け込み、何かのコードやスカーフを抱えて戻ってきた。クルーガーは甲板にへたり込んでいた。

「コードじゃ駄目だ。」

 ”ヴェルデ・シエロ”なら気の力で切ってしまう。ギャラガは思いついてペラレホ自身の所持品を検めた。そして革紐を見つけた。それで手首を縛り、スカーフで目隠しした。

「悪いのは、向こうだ!」

とペラレホが喚いた。

「あいつが父を殺したんだ!」

 女性がクルーガーを見た。 そしてギャラガに尋ねた。

「貴方達、警察なの?」


 

第2部 ゲンテデマ  7

 「クルーザーの持ち主は公表されなかったのですか?」

とステファン大尉が質問した。ロムべサラゲレスは彼を見て、そして机の上のメモパッドに何か走り書きした。破り取って大尉に手渡した。大尉が声に出して読んだ。

「ヨナタン・クルゲール・・・」
「ジョナサン・クルーガーだろう。」

とテオが英語読みした。ロムべサラゲレスが頷いた。

「スィ、アメリカ人です。事故の後、警察を買収して過失は漁船の方にあったと言わせました。漁船が回避義務を無視して突っ込んで来たと。 カイヤクアテが亡くなったのは気の毒だったと見舞金を出しましたが、罪には問われませんでした。」
「クルーガーの船体の傷は左舷に付いていたのですか?」
「それは知りません。買収された警察官以外に船を実際に見ていません。」

 海上交通のルールに詳しくなさそうな大統領警護隊の隊員達にテオは簡単に説明した。

「衝突回避のために海上では右側通行が鉄則だ。互いに正面から来た場合は双方が右側へ回避する。直角に出会う場合は相手の船を右舷側に見る方の船が右へ回避し、左舷側に相手を見る船は速度を維持したまま直進しなければならない。或いは右舷側に相手を見る方の船が停止して相手の通過を待つんだ。これが国際ルールだ。」

 ほうっと大尉と少尉が感心した。ケツァル少佐は知っていたらしく、頷いた。多分、金持ちの養父母が船遊びを彼女に教えたのだろう。ロムべサラゲレスはバナナ畑で働いているが地元っ子なので船のことは知識がある様だ。

「イスタクアテの船は沈んでしまったので、彼の船の傷が右舷なのか左舷なのか分からず仕舞いでした。クルーガーのクルーザーは警察が船の身元を突き止めて捜査に行った時には既に修理の為に解体されていたそうです。」
「漁船は停泊して漁をしていたんじゃないですか? そこにクルーザーが突っ込んだ・・・」

 テオのツッコミにロムべサラゲレスは肩をすくめた。恐らくそれが真実だ、とテオは思った。車で海岸線を走って来る時、海に浮かぶ漁船をたくさん見かけた。どれも小さく、簡単な構造の船だった。欧米の漁師が使う様な超音波探知機やレーダーや集魚灯なんか搭載していないだろう。無線機を持っているかどうかも怪しい船ばかりだった。網を下ろして魚を獲っているところにクルーザーが高速で突っ込めばひとたまりもなかっただろう。

「クルーザーは救助義務を怠ったんじゃないですか?」

とテオが言った。

「どちらに非があるにせよ、動ける方の船が相手の船員を救助するのが義務でしょう?」
「ですから、当て逃げされたのです。」

 少佐が携帯で何かを検索していたが、顔を上げた。

「ジョナサン・クルーガーは今この町にいますね。」
「そうなんですか?!」

 驚く男達に彼女は携帯電話を掲げて見せた。

「SNSに自慢げに写真をアップしていますよ。」

 そこには「3年ぶりにプンタ・マナに来てまーーす! やっぱ、セルバの海は素晴らしい!」と能天気なコメントと桟橋に笑顔で立っている男女の写真が表示されていた。
 ギャラガ少尉が言った。

「3年で熱りが覚めたと思って戻って来たんだ。」
 
 ロムべサラゲレスが不安気に顔を曇らせた。

「ペラレホがこれを見たかも知れません。イスタクアテはネットをやらないでしょうが、甥は今時の男ですから。」

 少佐が立ち上がった。

「この場所を探しましょう。」




2021/09/10

第2部 ゲンテデマ  6

  ケツァル少佐は2人の警備班の大統領警護隊隊員をロムべサラゲレスに紹介した。緑色の鳥の徽章を3個も提示されたバナナ畑の支配人はトラックをチラリと見てから少佐に言った。

「10分待って下さい。商品を荷積みしてしまいます。門の横の事務所で改めてお話を伺いましょう。」

 そこで一行は再び車に乗り込み、バックで門まで戻った。守衛は訪問者が事務所前に駐車して車から降り、入り口の前へ向かったので、慌てて走って来た。そして何も言わずに事務所のドアを開錠した。
 普通の農園管理事務所だった。パソコンが1台、電話が1台、棚に書類のファイルが並び、伝票類やその他書類が他の棚に押し込まれていた。来客用の椅子は1脚しかなく、当然の様にケツァル少佐がそこに座った。テオは窓辺に立ってバナナ畑を眺めた。地面がわずかばかり傾斜して海へ向かって低くなっているのがわかった。ステファン大尉が横に来て、タバコを出して咥えた。テオは窓を開けた。事務所内の空気を入れ替えたかったし、エアコンが効く迄時間がかかりそうだ。それにステファンはタバコに火を点けたいだろう。しかし大尉は残念そうに言った。

「ライターをアイツらに盗られた様です。」
「根っからの泥棒コンビなのかな。」
「そんな連中がシャーマンだとしたら、残念です。」

 ギャラガが彼等の会話を耳にして室内を見回した。ロムべサラゲレスは喫煙しないのか、灰皿もライターもマッチも見当たらなかった。
 少佐は退屈そうに座っていたが、ただ座っているだけではなかった。ギャラガ同様室内を観察していた。しかし”ヴェルデ・シエロ”の居場所であることを示す様な物品は見当たらなかった。グワマナ族が一般人に溶け込んでいると言う噂は本当の様だ。
 トラックがバックで出て来た。門扉前で荷台からロムべサラゲレスと数人の男が飛び降りると、トラックは方向転換してフェンスの外へ出て行った。 作業員達が休憩用のプレハブ小屋に入って行き、ロムべサラゲレスが1人で事務所へやって来た。少佐が立ち上がったので、残りの3人も改めて整列してグワマナ族の族長を迎えた。

「族長がお若いので驚きました。」

と少佐が言ったので、彼は微笑み返した。

「貴女こそお若い。もう少し年上かと想像していました。」

 屋内の明かりの中で見ると、ロムべサラゲレスはテオや少佐と余り年齢が離れていない様に見えた。どう見えても30歳前後だ。

「最近の選挙は何時でしたか?」
「昨年の暮れでした。候補者が5人いたので不安でしたが自信はありました。長老会への顔見せはまだなので、私の当選を知らない人は多いです。」

 テオが怪訝な表情をしたので、ステファン大尉が囁いた。

「族長は選挙で決まるのです。大昔からの常識です。白人は世襲制だと勘違いしがちですがね。」
「ああ・・・そう言えば読んだことがある。北米の先住民も同じなんだ。」

グワマナの族長は椅子がないことを詫びた。

「本来なら客は自宅へ案内するのですが、時間がないとのことですから、ここで済ませましょう。」

 どうやら挨拶の時に、ケツァル少佐は”心話”で既に事情をロムべサラゲレスに伝えていたらしい。族長はステファン大尉に向き直った。

「お探しの男は、シャーマンのイスタクアテ・ロハスと甥のペラレホ・ロハスです。3年前に村を出て行方不明ですが、あの顔は間違いありません。」

 あの顔とは、テオと少佐がチラ見した、車に乗り込む年配の男と若者の顔だ。

「ゲンテデマですか?」
「スィ。ですが、気の毒に過去形です。彼等は船とイスタクアテの弟を失いました。」

 族長が窓から見える海を指差した。

「3年前、彼等はイスタクアテの弟のカイヤクアテと、イスタクアテ、ペラレホの3人であの付近で漁をしていたのです。カイヤクアテはペラレホの父親でした。彼等の船は、観光客が乗った大型クルーザーに当て逃げされたのです。」

 テオが思わず尋ねた。

「犯人は捕まらなかったのですね?」

 話に順番と言うものがあるので、族長は彼を無視した。

「ロハス一家の事故に気付いた仲間の漁船が集まって救助に当たったのですが、カイヤクアテは発見に2日かかってしまい、亡くなりました。イスタクアテは警察に当て逃げしたクルーザーの特徴を証言したのですが、犯人は捕まりませんでした。」

 彼は小さな声で付け加えた。

「相手は金持ちでしたから。」

 つまり、賄賂をもらって警察は犯人を見逃したのだ。テオは唖然とした。セルバ人達はそんなに驚いていなかったが、納得した筈はない。ギャラガ少尉が思わず質問した。

「担当した警察官は一族ではなかったのですか?」
「一族出身の警察官がいたらお目にかかりたい。」

とロムべサラゲレスは言った。確かにテオも”ヴェルデ・シエロ”の警察官を見たことがなかった。”ヴェルデ・シエロ”の公務員はまずもって大統領警護隊だ。隊員になってから官公庁の様々な分野で働くのだ。警護隊に入らなければ軍人だし、それ以外の公務員にはならない。
プンタ・マナの街の警察官は”ティエラ”しかいない。そして彼等は外国人から金品を収賄して”神様”を怒らせた。

「担当した警察官は2人いましたが、どちらも昨年相次いで事故で亡くなりました。」

 当然だろう、と言うニュアンスでロムべサラゲレスが言った。ステファン大尉が尋ねた。

「イスタクアテとペラレホの仕業ですか?」
「我々にはわかりません。」

 わかっていても彼は言わないだろう、とテオも大統領警護隊の3人も思った。恐らくこの街のグワマナ族達は汚職警察官が不慮の死を遂げても不審に思っていないのだ。アイツらは死ぬべくして死んだ、そんな認識に違いない。

「彼等はラス・ラグナス遺跡の神像から目玉を盗み、サン・ホアン村の占い師を殺害した容疑が掛かっています。我々はグラダ・シティで昨日彼等と接触しましたが、逃げられました。彼等が立ち回りそうな場所に心当たりがあれば教えて頂きたい。」
「さて・・・私は彼等の消息を3年ぶりに聞いたばかりですから・・・」

 族長として同族を庇っているのか、本当に知らないのか、判然としなかった。ステファン大尉がイラッとしかけた時、テオが質問した。

「単純に、コンドルの石像の目玉を何に使うかわかりませんか?」
「コンドル?」

 ロムべサラゲレスが初めてまともに白人の彼を見た。

「私はシャーマンではないが、コンドルの目なら探し物に使うでしょう。」
「つまり、件のゲンテデマ達はクルーザーを操縦していた白人を探している?」

 ああ、とケツァル少佐が何かを思いついて声を出した。

「だから魚を儀式に使って、船の行方を海の精霊に尋ねたのですね?」

 

第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...