2022/05/08

第7部 南端の家     3

  ヘリコプターが一旦飛び去った。学生達が少し落ち着かない様子だ。あまり遠くない場所で何かが起きていると察したのだ。ンゲマ准教授は若者達に声をかけ、調査への注意が散漫にならないよう気を引き締めにかかった。アスルは尾根に戻った。低い尾根だから登るのにも下るにも時間はかからない。遺跡から学生達が掛け合う声が聞こえていたが、南の森からも特殊部隊の兵士の声が聞こえた。大声を出しているから、所謂作戦ではない。事件捜査の手伝いだ。アスルは耳を澄ませた。学生の声が邪魔だが、どうにか兵士達の会話を断片的に聞き取れた。死体の数を数えている。一軒家の家族に何かとんでもない不幸が起きた様だ。
 一軒家の家族は友達ではないし、発掘隊と何らかの接触があった訳でもない。遺跡へ来る途中、家の前を通過しただけだった。細い轍だけの道が家の前を通っている、それだけだ。畑は家から少し藪の中を歩いて行かねばならない場所にあり、そう言う位置関係は珍しくない。古くからの農民には訪問者に大事な畑を見せない習慣がある。だから都会から来た学生の中には、家だけ見て、どうやって暮らしているのだろうと素朴に驚きと疑問を抱く者もいた。
 それだけの接点しかない人々の身に何か良くないことが起きたとしても、発掘隊や護衛部隊に責任はない。だがすぐ近くで起きたことは、気持ちの良いことではない。
 アスルは無視しようかと思ったが、心がざわついた。以前はそんな経験をしなかった。テオドール・アルストと付き合い出してから、彼の心に変化が起きたのだ。”ヴェルデ・シエロ”でなくても仲間になれる。仲間でなくても守りたくなる人はいる。例えば、ジャングルの奥地で細々と家族を養っている人とか・・・。
 無線機からンゲマ准教授がアスルを呼ぶ声が聞こえた。アスルは無線機を手に取った。

「何か用ですか?」
ーー学生達が落ち着かない。渓谷の入り口で何かあったのだろうか?

 落ち着かないのは准教授もだろう、とアスルは思った。発掘隊の責任者としてンゲマは学生達の安全を守る義務がある。彼は軍隊が動いたので、反政府ゲリラを心配しているのだ。アスルは過去に何度もンゲマの発掘調査隊の護衛と監視をしてきた。ンゲマ准教授は古代の裁判方法である”風の刃の審判”に用いられたサラと呼ばれる円形洞窟型の完全な原型を探している。求める物が洞窟の奥にあるので、もしその中に入って調査している最中にゲリラに襲われたら逃げる場所がない。だからンゲマは治安が不安定な地方を極力避けて場所を選んできた。アスルにとって、仕事がやりやすい考古学者だった。しかし、今回のカブラロカ遺跡はンゲマにしては珍しく辺鄙な場所だ。最寄りの街まで車で1時間以上かかるし、携帯電話が繋がらない。先住民も、渓谷の入り口の一軒家の家族だけで、人がいない。ゲリラが出たと言う噂さえなかった。人間がいない場所で、軍隊が現れた。だからンゲマは神経質になっていた。
 アスルは無線機に向かって言った。

「陸軍は我々がここにいることを知っています。何か良くない事態が起きれば、連絡が来ます。先生は我々に全てを任せて、発掘を続けて下さい。」

 ざーっと雑音の後、ンゲマが「わかった」と応えた。そして雑音が途絶えた。
 アスルは渓谷の入り口を見た。樹木の揺れは収まっていた。ヘリコプターから降下した特殊部隊も憲兵も姿は見えなかった。しかしアスルは木々の下で10名ばかりの兵士が動き回っているのを感じていた。

2022/05/07

第7部 南端の家     2 

  カブラロカ遺跡の発掘が始まって2日目、再び川下が騒がしくなった。今度は昼間だった。尾根の監視場所にいたアスルは北東の空からヘリコプターのローターの回転音が近づいて来るのを耳にした。乾季と言えど熱帯雨林地方では空が快晴と言う時間は長くない。必ず雲がどこかに浮かんでいる。その雲の切間からヘリコプターが飛んで来るのが見えた。あれは陸軍のヘリコプターだな、と彼は判別した。特殊部隊を任地へ輸送する機体だ。セルバ共和国は空軍よりも陸軍の方が最新鋭の機体を所有している。どちらの軍幹部の方が政府に対して強い発言力を持っているか鮮明にわかる。
 しかし陸軍特殊部隊がこの周辺で何の用だろう。アスルは遺跡をチラリと見た。ンゲマ准教授と10人の学生、それに交代で護衛に就いている陸軍警護班の兵士3人が木々の間で動き回っているのが見えた。夜間の歩哨に就く2人はテントの中で寝ていた。警護班長のデミトリオ・アレンサナ軍曹が空からの音に気が付いて動きを止めたのが見えた。北東の空を見上げ、音の正体を見極めようとしている。
 アスルは再び空に視線を向けた。ヘリコプターが渓谷の南の入り口近くへ降下して行くところだった。あの辺りにヘリコプターが着陸出来る空き地があっただろうか。樹木がざわついていた。その頃になってやっと発掘隊や他の兵士達も音が聞こえる方へ顔を向けた。
 ヘリコプターからロープが降ろされ、兵士が数名降りて行くのが見えた。最後に降りた兵士は白いヘルメットを被り腕に白い腕章を付けていた。憲兵だ。
 アスルは胸がざわついた。憲兵がこんな森の奥にどんな要件があってヘリコプターで飛んで来たのだ? 渓谷の入り口には確か民家が一軒あった。最寄りの別の民家との距離は定かでなかったが、隣人と行き来する時はトラックで20分ばかり走ると言っていた。老人と息子夫婦、それに10代の息子ともっと幼い息子の2人の子供が暮らしていた。カブラロカ遺跡がまだ生きた街であった時代に作られた畑を、いつの時代からか受け継いで細々と農業を営んで暮らしていた慎ましい先住民の一家だ。彼等の家がある辺りに、ヘリコプターから憲兵と陸軍特殊部隊が降下して行ったのだ。
 アスルの背後で無線機から彼を呼ぶ声が聞こえた。アレンサナ軍曹だ。アスルは遺跡を見た。アレンサナ軍曹が片手を上げて合図を送って来た。アスルも片手を上げて応えると、ライフルを手に取り、崖道を駆け降りて行った。
 アレンサナは大統領警護隊が到着するのを待ちきれなかったのか、それとも発掘隊に聞かれたくない話を入手したのか、メサの麓まで走って来た。

「中尉、特殊部隊が渓谷の入り口に降りて来ました。」

 わかりきった情報だった。アスルは頷いた。

「俺も見た。憲兵も一人混ざっていたぞ。」
「え、憲兵もですか?」

 アレンサナがいた場所からは樹木が邪魔でよく見えなかったらしい。

「連絡を取ってよろしいですか?」
「構わない。」

 アスルの許可を得て、アレンサナは衛星電話を取り出した。彼がかけたのは、一番近いデランテロ・オクタカス飛行場だった。ローカルな小さな飛行場だが、セルバ空軍や陸軍航空部隊の基地がある。カブラロカまでヘリコプターを飛ばすなら、デランテロ・オクタカスが一番近い発着地点だ。アレンサナ軍曹はそこの陸軍航空部隊にヘリコプターがカブラロカ渓谷へ飛んで来た理由を尋ねた。何らかの軍事作戦であれば返答はないだろう。しかし基地はあっさり理由を教えてくれた。

ーー司法警察から出動要請があった。森の中の一軒家で事件が起きているらしい。
「事件ですか?」

 アレンサナはちょっと困ってその場の上官になるアスルを見た。アスルは黙って聞き耳を立てていた。先方はあまり多くを語らなかった。

ーー発掘現場に影響はないと思われるが、詳細はまだ不明だ。何かあればこちらから連絡する。エル・パハロ・ヴェルデにもそう伝えておけ。

 通話を終えたアレンサナは、またアスルを見た。アスルは肩をすくめた。

「向こうも何が起きているのか、まだわからないのだ。俺達は発掘隊を守っていれば良い。」

 何かあれば守護者として大統領警護隊がみんなを守る。アスルの落ち着いた様子を見て、アレンサナは敬礼で応えた。

2022/05/06

第7部 南端の家     1

  カブラロカ遺跡は細長い渓谷の奥に存在する、セルバ共和国で一番「秘境」っぽい場所にある遺跡だった。オクタカス遺跡よりティティオワ山よりで、山の南側、火山からの溶岩で形成された5本の脚の様な尾根と尾根の間にある渓谷の奥だ。ティティオワ山の噴火は有史以前のことなので、溶岩の山も今は土を被り植物が覆っている。ジャングルとは少し植生が異なるが、素人が見れば密林だ。それぞれの谷間に水の流れがあり、カブラロカ遺跡は一番水流が多い川の上流にあった。雨季は川が増水するので、今迄存在を知られていても近づく人が殆どいなかった遺跡だ。近寄り難い場所にあるので、要塞か宗教的施設かと想像されていたが、近年そうではないらしいと言う見解が出て来た。土地が狭いので建造物は少なく規模も小さいが、オクタカス遺跡とよく似た形状で建物が配置されており、地形的にもオクタカスと似ていた。遺跡のすぐ背後にメサがあって、洞窟があったのだ。
 グラダ大学考古学部准教授ハイメ・ンゲマは学生10人と共に雨季が終わるとカブラロカに足を踏み入れた。陸軍警護班5名と監視役の大統領警護隊文化保護担当部キナ・クワコ中尉も一緒だった。
 ンゲマは最初に川から離れた高い場所にベースキャンプを設置した。遺跡のそばで寝泊まりしたいが、川のそばが危険だと言うことを常識として知っていた。スコールで増水すれば学生達の命を危険に曝しかねない。それに水辺は動物が集まって来る。危険生物との接近遭遇や生態系へ影響を及ぼすことを避ける目的もあった。
 キナ・クワコ中尉、通称アスルはンゲマが扱いやすい学者だと認識していた。”ヴェルデ・ティエラ”だから、何か不都合なことがあれば”操心”で操れるし、セルバ人の常識を持っている。それに師匠はセルバ考古学の重鎮だから、発掘のマナーもみっちり仕込まれていた。
 初日にキャンプを設置してしまうと、ンゲマ准教授はアスルと陸軍警護班のデミトリオ・アレンサナ軍曹を連れて遺跡を一望出来る尾根へ登った。2人に地図を渡し、発掘作業を開始する場所と後に拡張する範囲を説明した。警護する者にとって有り難いことだった。アスルはオクタカスでもメサの上から監視出来たことを思い出し、その場所を己の持ち場と決めた。

「今日から2週間作業をして、1週間大学に戻り、また2週間作業して、と繰り返す予定です。」

 ンゲマの説明に、アレンサナ軍曹が頷いた。軍隊の休日ではないが、部下達を近くの街へ引き上げさせて休ませることが出来る。国内の研究機関の護衛を引き当てると、この手のサイクルで仕事をしてくれるので、軍隊としても嬉しいのだ。外国の発掘隊だとこうはいかない。乾季の持ち時間ギリギリまで発掘を続けるので、護衛部隊もずっと現場にいなければならないのだ。アレンサナは己の籤運の良さに感謝した。
 監視役のアスルはンゲマ准教授の発掘隊が完全に作業を終了させる迄担当の遺跡から目を離せない。ただ発掘隊が大学に戻っている間はリラックス出来るので、彼もグラダ大学のスケジュールを歓迎した。
 暗くなる前に学生達と兵士達が食事の支度と翌日からの作業の準備に入った。発掘隊の規模が小さいので、護衛も一緒に食べる。2名を歩哨に残し、一行は寛ぎの時間に入った。アスルは料理の皿を受け取ると、目をつけておいた木に登って、枝にまたがる形で座り、食事をした。自ら料理して仲間に振る舞う腕前の彼にとって、「稚拙な味」だったが、決して文句は言わない。監視業務に就いている時は料理をしないのだから、他人の作った物に我儘を言わないことにしていた。
 グラダ・シティの家は、アスルが監視業務でグラダ・シティを離れている間は、空き家だ。借主のテオドール・アルストが時々様子を伺いに戻って来るが、テオはもうケツァル少佐のコンドミニアムに引っ越してしまっており、家賃だけ家屋の所有者に支払っている状態だ。アスルは部屋代をテオに払うが、家の借主の権利は持っていない。少佐からテオに代わって借主になれとせっつかれている。しかしアスルは固定した家を持つ気分にまだなれないでいた。テオの家の居候と言う立場が一番気楽なのだ。そして、他の家に移ろうと言う気持ちにもなれないでいた。

 いっそのこと、ロホが引っ越して来れば良いんだ。

と彼は思った。寝室とダイニング兼リビングしかない狭いアパートより、広くないが寝室2部屋にリビングとダイニングがあるテオの家の方が、将来ロホに必要となるだろう。それとも旧家の息子らしくロホは結婚したらどこか大きな家を手に入れるのだろうか。

 家の交換を持ちかけてみようか?

 ロホが現在住んでいるアパートは、かつてカルロ・ステファンが住んでいた。だからあのアパートならアスルも引っ越して構わないと思った。
 アスルが空になった皿を片付けるために木から降りた時、川下の方向で鳥が騒いだ。陽が落ちて暗くなっていた。だが確かに鳥が騒いでいた。群れで夜を過ごしていた鳥達がいる茂みで何かがあったのだ。
 アスルがその方向を見て立っていると、アレンサナ軍曹がそばに来た。

「鳥が騒いでいますね。」

と軍曹も気になるのか、話しかけてきた。この軍曹は夜目が利く。かなり薄いが”ヴェルデ・シエロ”の血を受け継いでいるのだ。もう”心話”や”感応”は使えない、ほぼ99パーセント”ティエラ”だが、暗闇の中でも目が見えた。当人は先祖に”ヴェルデ・シエロ”がいるなんて夢にも思っていないだろうが。アスルは鳥の巣を何かが襲ったのだろう、と呟いた。

2022/04/29

番外編 2   引っ越し 2

  テオは鞄一つ持って、西サン・ペドロ通りの高級コンドミニアムに到着した。ケツァル少佐にあらかじめ教えられた場所に車を駐車すると、周囲は高級車ばかりで、己の中古の日本車が見窄らしく見えた。しかし性能は高級車並みだ、と胸を張ることにした。
 前日にセキュリティ登録されていたので、顔認証と暗証番号で第1ドアを通り、次のドアも第2暗証番号で入った。エレベーターに乗り、目的のフロアに到着した。慣れた場所で、少佐の部屋のチャイムを鳴らすと、少佐が数秒後にドアを開けた。

「部屋を間違えています。」
「はぁ?!」

 思わず声を上げてしまったテオに、少佐は隣のドアを指差した。

「貴方はあっちです。」
「だが、同居するんじゃ・・・」

 戸惑うテオを少佐は無視して通路に出て来た。隣のドアの暗証番号を入れて、ドアを開いた。

「こちらの部屋も私の部屋なのです。」
「何時から?」
「ここに入居した時から。」
「・・・知らなかった・・・」
「女の家と男の家に別れて住むのです。正式に結婚する迄の習慣です。行き来は自由です。」

 テオは初めての部屋に入った。がらんとした空間で、6人掛けのテーブルと椅子がダイニングにあるだけだ。テオは鞄をリビングの真ん中にぽつんと置かれていた古いソファの上に投げ出し、寝室を見に行った。客間は空っぽで、奥の寝室だけは真新しいベッドと寝具が置かれていた。それだけだ。
 暫く呆然と立ち尽くすテオの後ろで少佐が説明した。

「貴方も大学の学生達を家に呼んだりすることがあるでしょう? 自宅の研究室も必要ではありませんか? この部屋は貴方が自由に使える空間です。食事や普段の寛ぎの場所は私の部屋を自由に使って頂いて結構です。文化保護担当部の会合は貴方もいつも参加されていますから、公私混同されても誰も気にしません。でも貴方のお仕事は私達には難しいし、邪魔をしてはいけない慎重を要するものだと、私達は理解しているつもりです。一旦通路に出るのが面倒ですが、仕切りは必要だと思うのです。」

 テオは少佐を振り返った。目の奥に熱いものが込み上げてきた。

「グラシャス、少佐。だけど、俺はこの部屋の家賃をまだ払えない・・・」
「貴方が教授に昇進する迄、私の父が払ってくれます。私の持参金の代わりです。」
「持参金?」
「女が結婚する時に親が持たせるお金です。残念ながら私は結婚資金を貯金すると言う考えがなかったので・・・」

 少佐が子供の様に舌を出して見せた。テオは笑い出し、彼女を抱き締めた。

「君は結婚すら考えなかったんだろ?」
「ずっと先の話だと思っていました。」

 少佐も彼の体に腕を回した。

「一族は私がグラダの血を残すことを期待すると同時に、グラダの人口が増えることを危惧してもいます。私はどの部族と結婚しても、その一族の期待がついて回ることを想像して嫌だったのです。」
「白人の俺が君と結婚したら、一族は失望するんじゃないのか?」
「でも私の子供達は、お陰で大神官やママコナの候補者争いから外れますよ。」

 彼女が彼を見上げて、ニンマリ笑った。テオも笑顔のまま返した。

「わかった、俺の遺伝子を存分に利用してくれ。」


2022/04/28

番外編 2   引っ越し 1

  テオはケツァル少佐のコンドミニアムへ運ぶ荷物の整理をしていた。衣料品と研究資料だけだ。鞄に詰め込むと、自分がどれだけ物を持っていないか実感した。書籍が一番重量がある荷物だが、最近はネットで資料を検索するし、大学へ行けば研究室や図書館でいくらでも本を読める。結局自宅にある本は彼が気に入った小説のペーパーバックや古書店で発掘した自然科学関係の希少本ぐらいだ。室内装飾も殆どない家だから、絵画や彫刻なんて芸術品はないし、食器は全部置いて行く。それに慌てて全部持って行く必要もない。まだ鍵は持っているし、新しい家主になるアスルは、「俺は管理人になるだけで、家主は飽く迄あんただ。」と言った。要するに、テオに家賃を払えと言っているのだ。アスルはこれ迄通り部屋代しか払わない魂胆だ。テオも好きな時に寛げる空間があれば良いと思ったので、家の名義はそのままにしておいた。正直なところ、女性と暮らした経験が一度もない。試験管で生まれたので、母親と言う存在がなかった人間だ。だから、もしケツァル少佐との同居が彼自身の負担に感じることがあれば、逃げ場が必要だ、と彼は同居を始める前から対策を考えてしまった。

「アスル、車はどうするんだ? ロホの送迎に頼るのか?」

と足のことを心配してやると、アスルはこともなげに言った。

「自転車を買う。」

 マカレオ通りは坂道の街だ。外出は楽だろうが、帰路は疲れるだろう。しかし若い軍人は苦にならないのかも知れない。それに今迄もアスルは徒歩で出かけたり、徒歩で帰宅していた。テオの過保護は迷惑なのだ。

「君の手料理が懐かしくなったら、いつでも戻って来る。」

と言ったら、アスルは「ふん」と鼻先で笑った。

「カーラの飯の方が美味いに決まっているさ。」

 ケツァル少佐が雇っている家政婦のカーラは料理名人だ。アスルは彼女の手伝いをしながら料理を教わることが多い。荷造りするテオを手伝わずに、アスルは居間のソファに横になったまま背伸びした。

「もしかすると、アンドレを住まわせるかも知れないぞ。」

 アンドレ・ギャラガはまだ本部の官舎住まいだ。官舎住まいだと徹夜の勤務や出張の度に上官へ届け出なければならないので、はっきり言って手間だ。ギャラガに言わせれば、直属の上官はケツァル少佐なのだから、少佐の命令に従って勤務するのに、何故官舎を管理する警備班の上官の許可が必要なのかわからない、となる。警備班は宿舎の秩序を守る為に利用者にルールを守らせているだけなのだが。

「アンドレが住み着いても構わないさ。」

 テオは、恐らく普通の家庭を知らずに育ったギャラガがこの家に来て、近所付き合いを始めたら、きっと素晴らしい体験をすることになるだろうとワクワクした。
 するとアスルはまた言った。

「もしかすると、マーゲイが住み着くかもな。」

 グワマナ族の大統領警護隊遊撃班隊員エミリオ・デルガド少尉のことだ。アスルはあの後輩も密かに気に入っているらしい。デルガド少尉は任務の途中で休憩したくなると勝手にやって来て、勝手に家に入り込み、寝ていくことがある。昔のアスルと同じだ。アスルはデルガドに己と同じ匂いを嗅ぎ取っているのだろうか。

「カルロが来ても構わないぞ。」

とテオは言ってみた。やはり遊撃班のカルロ・ステファン大尉は、”指導師の試し”と呼ばれる試験に合格し、最終修行の厨房勤務を終えた。隊員の健康を守り、病気や怪我を癒す方法を学ぶ修行を終えたのだ。遊撃班指揮官のセプルベダ少佐の副官となって、これから多忙になる。息抜きに、マカレオ通りに来てもらっても構わなかった。ステファンには実家があるが、恐らく彼は母親と妹の世話焼きを好まないだろう。
 アスルはぶっきらぼうに言った。

「カルロはロホのアパートに行くさ。」

 そう言えば、ロホが現在住んでいるアパートは、元々ステファンが住んでいたのだ。ロホとステファンは入隊以来の仲良しで、ステファンは官舎へ戻る際にアパートをロホに譲り、ロホが妹グラシエラ・ステファンと交際することも許した。
 アスルはロホ、ステファン、どちらの先輩も尊敬し、愛している。だがステファンが文化保護担当部に戻って来ることはないと理解もしていた。ステファンが目指しているのは少佐の位で、文化保護担当部に少佐は2人も必要がない。アスルはケツァル少佐以外の指揮官を求めていない。

「誰だって構わないさ。」

とテオは笑顔で言った。

「君がこの家に入れるのは、味方だけだと知っているから。」
「当たり前だ。」

 アスルはツンとした。その時、中庭に面した掃き出し窓の窓枠をコンコン叩く音がした。テオとアスルが同時に振り返ると、隣家の子供がサッカーボールを抱えて立っていた。

「アスル、ゴールキーパーやってよ!」
「えー、またか?」

と言いつつ、アスルは体を起こした。口では文句を言いつつ、顔は嬉しそうだ。アスルは近所の子供達とサッカーをすることが楽しみになっていた。彼自身はプロ級の腕前なのだが、子供達とワイワイ言いながら走り回るのはストレス解消になるのだろう。

「ガキどもと走って来る。鍵は掛けて行けよ。」

 鍵がなくても開けられる彼はそう言って、窓から出て行った。
 テオはこれからも毎日出会う筈なのに、ちょっぴり寂しく感じてしまった。


2022/04/27

第6部  虹の波      18

  ガルソン中尉とパエス少尉が去った後、テオは残った仕事を手早く片付けた。そしてケツァル少佐にメールを送った。

ーー今夜は空いてるか?

 少佐は5分後に返信してきた。

ーースィ。
ーー夕食を一緒にどう?
ーー私が家まで迎えに行きます。

 つまり店まで少佐主導と言うことか。いつものパターンにテオは苦笑した。早く自分がリード出来るデートにしたいものだ、と思った。店を予約して支払いも自分でして・・・。
 休暇中の出勤だから定刻迄大学にいる必要はない。元から定刻などない筈だが、グラダ大学の教授達は午後6時迄は学内にいることが習慣になっていた。それより早く帰ってしまうのは、考古学部主任教授のムリリョ博士ぐらいだ。テオは大学を出て、自宅へ帰った。何時にと言う約束はなかったが、後2時間は彼女は来ない。彼はシャワーを浴び、服を着替えた。どんな店に行くのかわからないが、取り敢えずきちんとした服装を選んだ。白い襟付きのシャツに濃紺のジャケットだ。タイは付けなかった。もし必要なら少佐が車に乗せてくれる前に要求してくるだろう。
 少佐はパエス少尉の活躍や昇給を知っているだろうか。少なくともパエス少尉が国境検問所の仲間と打ち解け合いそうな雰囲気になったことを聞けば、安堵するだろう。上官に尽くすつもりでしたことが、反逆罪に問われそうになって処罰された為に、パエスは卑屈になっていたのだ。しかし国民の危機を救う大役を与えられ、見事にやり遂げたことで自信を取り戻した。もしかするとガルソン中尉は彼をキロス中佐に面会させたのかも知れない。キロス中佐はパエスに頑なな態度を取ることは一生を無駄にしてしまうと説いたのかも知れない。
 テオは憶測だけでものを言うのは止めようと己に言い聞かせた。少佐に伝えるのは、パエスが活躍したことだけで良い。彼の家族のことや給料の件はパエス個人の話だ。
 家の外でクラクションが鳴った。気がつくと午後6時半になっていた。テオは急いで財布をポケットに入れて外に出た。出てから、アスルに何も連絡していないことに気がついた。少佐と職場が同じだから、アスルはデートのことを知っているだろうが・・・。
 ベンツの中は少佐だけで、テオは助手席に座った。少佐は彼がドアを閉めると直ぐに車を出した。

「アスルには何も言っていなかったが、良かったかな?」

と念の為に言うと、少佐が「大丈夫」と答えた。どこの店へ行くのかと尋ねたが彼女は教えてくれなかった。間もなく見覚えのある道路を走り、見覚えのある店の駐車場に少佐のベンツは滑り込んだ。フランス料理店フラウ・ルージュだった。テオはちょっと躊躇った。

「俺はこんな高い店の料金は払えないぞ。」
「私も払いません。」

 まさか、また接待か? テオはがっかりした。2人きりでデート出来るのは何時のことだ? いや、少佐は「空いている」と言ったのではなかったか?
 レセプションで少佐は名乗った。

「ミゲール。」

 直ぐに支配人が現れて、平服の2人は奥の個室に案内された。部屋に入るなり、テオは緊張した。そこで彼等を待っていたのは、フェルナンド・フアン・ミゲール駐米セルバ大使とその愛妻マリア・アルダ・ミゲールだった。つまり、少佐は親に彼氏を紹介しようとしているのだ、とテオが悟った時は、既に大使夫妻が立ち上がって彼の手を順番に握って挨拶した後だった。

「娘がいつも貴方を困らせているそうで、申し訳ない。」

と大使が言った。テオは慌てて否定した。

「いいえ、いつも俺が彼女に助けられてばかりいるんです。」

 マリア・アルダとは初対面だったが、著名な宝飾デザイナーは満面の笑みで彼を見つめた。軍人でなければ誰でも良いわ、と言うことだ、とテオはうっすらと感じた。富豪夫妻は変わり者の養女が同じ裕福な家庭の男を恋人に選ぶとは思っていないのだ。社会常識がない、暴力性の、浪費家の男でなければ、彼等は拒否しない。勿論娘がそんな男を選ぶとは思っていないだろうが。

「やっとシータが男友達を紹介してくれて、一安心です。」

とマリア・アルダが言った。

「このまま軍隊と結婚すると言ったら、どうしようかと夫といつも話していましたの。」
「ママ!」

と少佐が養母を睨んだが、その表情はいつもより子供っぽく見えた。テオは可愛いと思った。いつもの勇ましい少佐の別の顔だ。

「俺は大学の准教授の給料だけで暮らしている人間です。彼女の様に強くないし、世間知らずのことも多いです。でも、彼女と一緒にいる時は最高の人生だなといつも感じています。出来ればずっとこのまま彼女と生きて行きたいです。」

 言ってしまってから、これは「お嬢さんを私に下さい」と言っているのと同じじゃないか、とテオは気がついた。頬が熱くなった。まだ乾杯もしていないのに。マリア・アルダが夫の顔を見た。彼女が少し不安そうな顔をしたので、テオも不安になった。ここで大使を怒らせてしまうのか?
 ミゲール大使が微笑んだ。その場の雰囲気が急激に和らいだ。

「私達の娘と一生付き合うとなると、大変ですぞ。」

と大使が言った。テオは彼に微笑み返し、それから少佐を見た。少佐は黙って彼を見返した。彼は尋ねた。

「これからも愉快な体験を一緒にしてくれるかな?」
「愉快なことばかりではありませんよ。」

といつもの口調で少佐が言った。マリア・アルダが眉を顰めた。

「シータ・・・」

 少佐は母親を無視して平然とした態度で言った。

「大家に彼女が出来たと知れば、アスルは出て行ってしまいますよ。」
「アスルにあの家をやるよ。」

とテオは言った。

「俺は新しい家を探す。」
「だったら娘の家へ行って!」

とマリア・アルダ。少佐が母親を見た。

「ママ、そんなに私達をくっつけたいの?」
「だって、貴女が初めて紹介してくれた男の人じゃないの。逃しては駄目よ。」

 まるでケツァル少佐が過去に全然モテなかった様な言種だ。ミゲール大使が収拾に取り掛かった。

「ドクトル・アルスト、娘の家に引っ越してもらえるかな?」

 こんな場合、なんと言えば良いのか? テオは仕方なくと言う表情になっていないだろうな、と己の態度を気にしながら答えた。

「スィ。勿論です。彼女さえ良ければ・・・」

 ケツァル少佐が「仕方なく」と言う顔で言った。

「試験期間と言うことでいかがです?」


第6部  虹の波      17

  次の日のニュースで、セルバ共和国の国民は、大統領警護隊と憲兵隊の合同捜査の結果レグレシオンが仕掛けた新たな爆弾3発がアスクラカンのメルカド(市場)で発見されたことを知った。更に2番目の爆弾製造所も既に逮捕されていたメンバーの1人が所有する別荘にあったことが判明した。国民達は「”ヴェルデ・シエロ”の加護のお陰だ」、「日頃から教会で祈っていた御利益だ」、「そうではない、我が国の捜査機関が優秀だからだ」と職場やバルで論じ合った。
 テオは過激派達が捕まったので、雨季休暇の残りを再びエル・ティティに戻って過ごそうか、それともこのままグラダ・シティに残ろうか、と迷った。ゴンザレス署長に電話を掛けると、署長は今回の一連の事件にテオや大統領警護隊文化保護担当部が活躍したことが表に出ないのは悔しいと言った。テオは名声など誰も望んでいないし、悪者が捕まったから、友人達はそれで十分満足していると、養父を宥めた。それで再び帰省するべきか否か意見を聞くのを忘れてしまった。
 もしかすると、ゴンザレスはもうテオが同じ屋根の下にいなくても平気なのかも知れない。新しい恋人と上手くやっている様子だし、テオが毎週末必ず帰るとは限らなくても電話を欠かさず掛けるので、それで満足しているらしい。テレビ電話を始めてからは、特にその傾向が見られた。

 俺が親離れ出来ていないだけなのか・・・

 テオは苦笑した。
 レグレシオンの大摘発で世間が騒いだ日から3日経った。新学期の準備の為にグラダ大学へ出勤したテオの元に客が来た。1人は私服でテオは誰なのか直ぐにはわからず、ホセ・ガルソン中尉だと相手が名乗って、ちょっと慌てた。

「すみません、私服姿の貴方を見たのは初めてだったので。」

 ガルソンも苦笑した。

「制服の時しかお会いしたことがありませんでしたからな。今日は非番なのでこんな格好です。ところで・・・」

 彼は後ろにいる連れを振り返った。

「彼が挨拶をしたいと言うので連れて来ました。」

 そちらの男は大統領警護隊の制服を着ていた。ルカ・パエス少尉だった。テオは彼が本部に召喚されたことをケツァル少佐から聞いていたが、まだグラダ・シティに居たのかと意外に思った。役目を終えたらさっさとクエバ・ネグラに戻ったと思っていたのだ。テオの頭の中が読めるかの様に、ガルソンが笑った。

「まだこいつがグラダ・シティに居たのかと思われたでしょう?」
「いや・・・その・・・」
「本人も直ぐに帰還するつもりだった様ですが・・・」

 ガルソンに振り返られ、パエス少尉が渋々理由を語った。

「”名を秘めた女性”と共に爆弾を探す任務を仰せつかり、なんとかご期待に添えるお勤めを果たしました。それが・・・」

 彼が言い淀んだので、ガルソンが言葉を継いだ。

「セルバ国内を隈なく心で見ると言うことは決して簡単なことではありません。パエスは見事にお役目を果たした後、2日間眠り続けていました。」
「つまり、半端なく消耗したってことですね? 凄いな、命懸けで国を守ったんだ、パエス少尉!」

 テオは感心してパエス少尉を見た。パエスは照れ臭いのか、逆にむっつりした表情で目を逸らし、ガルソンに「失礼だぞ」と注意された。それでパエスは仕方なく言った。

「私と共に爆弾の在処をご覧になったセプルベダ少佐は、祈りの部屋から出られると直ぐに部下を招集して出動されました。あの少佐も私と同様に消耗されていた筈です。しかし、平然と過激派を捕まえに出かけて行かれました。それなのに私は歩くのがやっとで・・・」
「セプルベダ少佐は指導師だ。我々と違って心身の制御能力に遥かに優れておられる。その様な上官と我々の様な下位の者を比べてはならん。」

 ガルソンはパエスを励ましたつもりだろうが、叱っている様に聞こえた。だからテオは急いで言葉を添えた。

「指導師ではないパエス少尉がセルバ全土を覗いて爆弾を見つけられたのでしょう? 少尉はご自分を誇りに思わなくてはいけませんよ。ガルソン中尉もそのつもりで仰ったんだ。」

 パエス少尉が始めて頬を赤く染めた。

「私は・・・他人に誇れるような人間ではありません。小さなことにこだわって、大事な時間を無駄に過ごしてしまうところを、貴方やガルソン中尉、ケツァル少佐に救われたのです。」

 テオが戸惑ってガルソン中尉を見ると、ガルソンが頷いた。

「貴方がケツァル少佐にパエスが機械いじりが得意だと教えて下さったのでしょう?」

 テオは考えた。そう言えば、キロス中佐の事件の後、ガルソンが本部警備班車両部、パエスが国境警備隊に転属になったと聞き、パエスは機械いじりが得意だと、彼はケツァル少佐に何気なく言ったことがあった。少佐はその世間話を覚えていた。そして考えたのだ。
 ある分野で才能を発揮する人の中には、物の精霊が発する気が見えている者がいる、と言う古い言い伝えを思い出した彼女は、ガルソンに訊いてみた。パエスは機械の精霊が見えるのではないですか、と。するとガルソンも昔パエス自身から聞いていた話を覚えていた。故障した機械に向き合うと、修理すべき場所が淀んで見える。そこを触れば機械は何が必要か教えてくれる、と。
 過激派が作る爆弾は、小さな起爆装置が付いている。単純な作りでも、機械は機械だ。パエスの様な精霊が見える人には、機械でない物の中にある機械の存在がわかる。その機械に製造者の悪き心が宿っていれば、その機械は邪悪な気を放っている。パエスは祈りの部屋でママコナが送り出す虹色の光に心を乗せてセルバの国内を飛び回った。虹の波の中でぽつんと見えた淀んだ不潔な光。それが爆弾だった。

「”名を秘めた女性”は女官を通して仰ったそうです。パエスと旅をして楽しかった、と。」

 テオがパエスを見ると、パエスはまた頬を赤くした。

「私には任務でしたが、あの御方は楽しんでいらっしゃいました。ですから、私も案外気楽に探索が出来ました。あの御方のお力がなければ私はグラダ・シティを見るだけで果てていたでしょう。」

 テオには想像がつかない現象だが、”ヴェルデ・シエロ”にはまだ彼が知らない能力が色々あるのだと言うことはわかった。

「これからクエバ・ネグラへ戻られるのですか?」
「スィ。仲間が待っていますから。」

 パエスが同僚達をサラリと「仲間」と呼んだ。するとガルソンが「家族もだろう」と言った。

「パエスは国を救いました。その手柄で、昇給になったんです。彼はサン・セレスト村に残してきた奥さんの子供達をクエバ・ネグラに呼び寄せることに決めたんですよ。」
「中尉、そんなことまで言わなくても・・・」

 パエスは耳まで真っ赤になりながら慌てた。テオは思わず笑ってしまい、ガルソンも笑った。最後にはパエスまで声を立てないまでも笑ってしまった。


第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...