次の日、シュライプマイヤーは去った。シオドアがバイトから帰ると、彼の荷物も部屋からなくなっていた。殆ど口を利いたこともない同居人だったが、いなくなるとアパートの中がガランとして寂しい感じがした。隣の部屋の住人は、シオドア達がルームシェアしていたと思っていたので、顔を合わせた時に、新しい同居人を紹介しようかと言ってくれたが、丁重に断った。
その2日後の夕方だった。シオドアがコンビニの日中勤務から帰宅して夕食の支度に取り掛かろうとした時、外が騒がしくなった。誰かがスピーカーでがなりたてている様だ。窓を開くと、初冬の冷たい夜風が入ってきた。通りをパトカーが低速で近づいて来るところだった。警察官がスピーカーで怒鳴っていた。
「黒豹が逃げ回っています。危険ですから家から出ないで下さい。黒豹が・・・」
シオドアは窓を閉めた。黒豹だって? この付近に動物園はなかった筈だ。サーカスが来ていると言う話も聞いていない。誰か酔狂なヤツがペットを逃したか・・・。
それ以上気にしないで、彼は冷凍のシチューを温めて夕食を取った。アパートの外はまだ騒がしかった。パトカーが何台も走り回り、湖の北岸に点滅するライトの群れが見えた。あの辺りはメルカトル博物館じゃないか?
突然、シオドアは嫌な予感に襲われた。黒豹と博物館が結びつかないが、博物館とセルバ人の友人は結びついた。北岸の警察車両の群れは黒豹とは関係ないのではないか? 事件は2つ起きていて、美術品泥棒とペットの逃亡が同時進行しているのでは? ステファン大尉とカメル軍曹とやらは、最後の任務を無事にやり遂げたのだろうか。
彼はテレビを点けた。既に博物館のそばでニュースキャスターが事件を報道している最中だった。
「・・・警察はメルカトル博物館に進入を試みた2人の泥棒を路地に追い込みました。泥棒達は銃器を所持していた模様で、包囲した警察と撃ち合いになり、1名が射殺された模様です。残りの1名は・・・」
キャスターは横にいたスタッフとちょっと言葉を交わし、またカメラに向き直った。
「失礼しました。残り1名は逃亡した模様です。警察が付近の住宅街を捜索中です。視聴者の皆さん、危険ですから、家から出ないで、ドアと窓をしっかり閉めて下さい。もし不審な人物を見かけたら、すぐに警察か当番組にご連絡を・・・」
シオドアはパソコンを立ち上げた。先日のウィルス騒動以来、彼のパソコンは研究所や政府・軍関係のウェブサイトにアクセス出来なくなっている。しかし、SNSはまだ自由だ。開くと早速新鮮な情報がゾロゾロ出てきた。
ーー警察が撃ち殺したのは怪盗”コンドル”らしいぜ。
ーーマジか?
ーーすごいじゃん!
ーーだが”コンドル”は2羽いたんだ。1羽逃したんだよ。
ーー何やってんだか・・・
ーーどんな面の鳥なんだ?
ーーまだわからない。
ーーさっき自動車の部品工場へ入って行ったヤツじゃね?
ーー警察に連絡したか?
ーー通報しろよ、バカ!
ーー誰だ、僕をバカ呼ばわりしたのは?
ーー逃げたのはコンドルか? 黒豹じゃないのか?
ーーコンドルと黒豹のペアの泥棒か?
ーー黒豹は別件じゃないの?
シオドアは深呼吸した。慌てるな、と己に言い聞かせた。警察が射殺した泥棒がセルバ人と決まった訳じゃない。ステファン大尉が殺された筈がない。
彼はテレビもパソコンも点けっぱなしで暫し呆然と座っていた。”ヴェルデ・シエロ”が失敗する筈がない。きっと警察もメルカトル博物館が狙われると見当つけて張っていたに違いない。”コンドル”は罠に飛び込んでしまったのだろう。ステファン大尉のことだから、きっと逃げ延びたのだ。気の毒に射殺されたのはカメル軍曹だろう。
シオドアは自分に都合の良いことだけを考えようと努力した。そうでもしないことには、不安で叫び出しそうだ。カルロ・ステファンとはロホ程も気を許し合った仲と言えなかったが、生死を共にする体験を2度も持った間柄だ。素っ気ない態度を取るが実直な男だ。そして使い方がわからない能力を持て余して孤独に耐えている姿は、生まれた場所に戻っても気の置けない仲間を得られないシオドアに共感を与えるのだ。
ふと思いついて、シオドアはセルバ大使館の電話番号を検索した。以前も調べたのだが、番号を登録した携帯電話はセルバ共和国で失っていた。
時刻は午後8時を過ぎていた。大使は業務を終えてオフィスにいないだろうと思いつつ、電話を掛けた。呼び出しが5回鳴って、女性の声が聞こえた。
ーーセルバ共和国駐米大使館・・・
繋がった! シオドアは逸る心を抑えて名乗った。
「ハーストと申します。大使とお話がしたい。」
多分、断られるだろう。ダメ元だったが、相手は「ご用件は?」と尋ねてきた。これは以前と同じパターンだ。彼は思い切って言った。
「”コンドル”についてお尋ねしたいことがあります。」
女性は少しも慌てず、お待ちください、と言って保留音を流してきた。シオドアは緊張した。大使館は怪盗”コンドル”のニュースを知っている様子だ。2分待たされて、以前出会った男性の声が聞こえた。
ーーセルバ共和国駐米大使 フェルナンド・フアン・ミゲールです。
「シオドア・ハーストと申します。以前、呪いの笛の処分でお世話になりました。」
相手は5秒程間を空けてから、ご用件は? と尋ねた。シオドアは現在進行形のメルカトル博物館の泥棒騒動を知っていますか、と質問で返した。大使は知らなかった。少なくとも、電話ではそんな印象だ。
ーーあの博物館に泥棒が入ったのですか?
「こちらのローカルテレビで報道されています。泥棒は2名、1名は警察に射殺されました。残る1名は逃亡中。」
大使が沈黙した。何か言ってくれ、とシオドアは焦った。大統領警護隊の友人は関係ないのだと言って欲しかった。必死で頭をフル回転させ、彼は別の質問を思いついた。
「大使、カルロ・ステファンのナワルは何ですか?」
電話の向こうで大使が息を呑む音が聞こえた。シオドアがナワルを知っていることに驚愕したのだ。大使が絞り出すような声で呟いた。
ーーありません。
「え?!」
ーー彼は白人の血を持っています。ナワルを使えない・・・
「しかし・・・」
ーー何か見たのですか?
「え?」
ーー誰かのナワルと思われるモノを、貴方は見たのですか?
シオドアは深呼吸した。正直に答えた。
「俺は何も見ていません。しかし、現在こちらで警察が黒豹を探しています。」
ーー黒豹?
「黒い豹です。」
シオドアはミゲール大使が「有り得ない」と呟くのを聞いた。シオドアがどう会話を進めたものか迷っていると、大使が言った。
ーー本国と話をする必要があります。切ってよろしいか?
「スィ・・・」
電話を切る直前、大使は一言、こう言った。
ーー豹ではなく、ジャガーです。エル・ジャガー・ネグロ。