2021/10/07

第3部 潜む者  10

  昼間なのでデルガド少尉は家にいるだろうと思って携帯に電話をかけると、彼は3回目の呼び出し音の後で出てくれたが、バックが騒がしかった。何処にいるのかと訊くと、マカレオ通りの東区域にある自動車修理工の工場前だと言う返事だった。

「そんな所で何をしているんだ?」
ーーここからピアニストの家がよく見えるのです。

 ピアニストをジャガーだと疑っているのか? テオは詳細を尋ねることは止しておこうと思った。向こうも捜査中のことを根掘り葉掘り訊かれたくないだろう。

「俺は今夜帰れない。急に仕事の変更があって、南部へ出かけることになった。アスルの所だと言えば、カルロはわかるだろう。家の中の物を自由に使ってもらって構わないが、外出時の施錠だけはしっかり頼む。」
ーー承知しています。

 ”ヴェルデ・シエロ”は鍵がなくても施錠出来るし解錠も出来る。鍵の使い方を知らないんじゃないかと思う程だ。

「冷蔵庫の中の物も食って良い。」
ーーご心配なく、買い物をする金と時間はあります。
「多分、明日の午後には帰る。それまでに事件が解決していると良いな。」

 それじゃまた、と言って電話を切った。
 テオはまだ正式な助手を雇っていなかったが、助手を引き受けてくれる学生が数人いた。彼等の中から2人選んで電話をかけ、翌日の午前中の授業を休むと告げた。教科書代わりに使っている専門書の章を挙げ、そこを読んでおくように学生達に伝えてくれと頼んだ。「試験に出す項目だから」と言うと、臨時助手達は気持ちよく引き受けてくれた。恐らく試験対策の勉強会になるだろう。テオは試験問題を3問作るつもりだったので、1問ぐらいおまけにしてやろうと思った。
 研究室に戻ると大急ぎで部屋を片付け、大学を出たのは12時半だった。既に警察は駐車場から引き上げており、隣の車も姿を消していた。割れたガラスが落ちているだけだった。
テオは大学から徒歩で10分の文化・教育省へ向かった。職員駐車場に駐車して、ケツァル少佐のベンツとロホのビートルがあるのを確認した。
 いつもの雑居ビル1階にあるカフェ、カフェテリア・デ・オラスに行くと、アスル以外の大統領警護隊文化保護担当部の面子が全員揃って昼食を取っていた。既に12時半を過ぎていたが、セルバ人は昼食に時間をかける。遅れて来たテオにもまだ時間に余裕があった。

「アスルは口下手なので作業員達を納得させられない様です。」

と上官のロホが突然の出張の言い訳をした。デネロス少尉が真面目な顔で言った。

「作業員のリーダーが何か悪意でも持っているんじゃないですか? 発掘を遅らせたいか、止めさせたいか、きっと意図があってごねているんですよ。」
「体毛の成分分析で納得してくれるのかなぁ・・・」

 テオはちょっと弱気になった。ジャガーの血液分析と違って、体毛の成分分析だけでは説得力が弱い。本物のチュパカブラの体毛と比較して見せて、「ほら、こんなに違うだろ!」と言えれば良いのだが。
 ケツァル少佐は黙って食べていた。普段の大食らいをしないのは、運転中に睡魔に襲われない用心だろう。ギャラガ少尉がファイルを広げて何かチェックしていたが、食べることを思い出したのか、急いでファイルを閉じて鞄に仕舞った。そしてテオに尋ねた。

「南部地方へ行かれたことはありますか?」
「植物採取で何度か・・・遺跡はまだないな。立ち入り申請を出しても許可が出るのに時間がかかるから。」

と答えると、一同が苦笑した。
 少佐が取ってつけた様に言った。

「アンドレも行きますからね。」

 やっぱりデートではないのだ。テオは内心がっかりしたが、顔で笑って了承を伝えた。

 

2021/10/06

第3部 潜む者  9

  グラダ大学の駐車場は一応職員用と学生・訪問者用に分けられていたが、明確な仕切りがある訳でなく、学生用が満車に近ければ職員用スペースに平気で駐車する者もいた。職員用にも特にどこが誰の場所と決められていなかったが、大概はお気に入りの場所があって、他の人は遠慮してそこに駐めないと言う暗黙のルールが存在していた。
 テオが出勤すると、彼の場所の隣に見慣れない車が駐められていた。そこは化学の先生の場所だったが、その先生が車を買い替えたとも思えなかった。車内には助手席に衣類やタオルが乱雑に置かれ、さらにスマートフォンも放置されていた。これでは盗んでくれと言っているようなものじゃないか、と思いつつ、テオは自分の車を施錠して鞄を持って理系の学舎へ向かった。
 午前中の授業が終わる頃、外がちょっとだけ騒がしくなった。警察のパトカーがサイレンを鳴らしてやって来たのだ。早速物見高い学生達がパトカーが向かった駐車場へ集まり出した。テオは無視しようと思ったが、職員用の駐車場へパトカーが入ったので、自分の車が気になってそちらへ向かった。同様に他の職員も部屋から出て来た。

「何ですか?」
「車上荒らしのようですな。」

 テオの車の周囲に人集りができたので、彼は学生達を掻き分けて近づいた。被害に遭ったのは、テオの隣に車を駐めた日本人だった。誰かを訪問して来たのだが、スマホを車内に忘れたので取りに戻ったら、窓を破られて携帯電話を盗まれた後だった。英語とスペイン語を交えて喚いていたので、英語が出来る警察官が彼を宥め、英語で聞き取りしてスペイン語で同僚に伝えていた。
 テオは自分の車に被害がないことを確認すると、研究室に戻り始めた。治安の良い国から来た人は隙だらけだから、と話している学生達の声を聞きながら歩いていると、彼の携帯が鳴った。ケツァル少佐からだったので、急いで出た。

「アルストだ。ブエノス・ディアス、少佐!」
ーーブエノス・ディアス。今日はお時間ありますか?
「すまない、来週の試験に向けて問題を作っている最中なんだ。ランチぐらいなら付き合えるけど・・・」
ーーその試験問題は車の中で考えられますか?

 ケツァル少佐は相変わらず強引だ。テオは意地悪するつもりはなかったが、言った。

「Wi-Fiを使える場所なら大丈夫だが・・・」
ーー宿舎は貴方だけホテルにします。ミーヤ遺跡に行っていただきたいのですが。

 アスルがチュパカブラ問題で悩まされている発掘現場だ。テオは嫌な予感がした。一泊二日で帰るのは無理ではないか?

「明日の昼に帰って来られると言う保証があれば・・・」
ーー努力します。

 セルバ共和国の「努力します」は「無理じゃない?」と言う意味だ。しかしケツァル少佐は約束を守る稀なセルバ人だ。

「運転は誰がしてくれるんだ? それに俺は何をしに行くんだ?」
ーー運転は私がします。
「ビエン!」
ーー貴方は動物の体毛を調べるふりをして下さい。
「ふり?」
ーー発掘現場の作業員を説得する役目です。

 やっと話が見えてきた。謎の動物に噛まれた作業員の衣服に付着していた動物の体毛がコヨーテのものだと電話で言っても、納得しない人がいるのだ。だから、大学の「偉い学者」が自ら出向いて解説すると言う筋書きだ。
 テオは言った。

「明日の昼までだけだぞ。俺もボランティアばかりやってられないからな。」

今夜、デルガド少尉は留守番だ。


2021/10/05

第3部 潜む者  8

  カルロ・ステファンに声をかけた長老は女性だった。ステファンは彼女の声を以前にも聞いたことがあった。審判の時ではなく、それより前、彼が黒いジャガーに変身して大罪人を押さえ込んだ時だ。父親の仇を噛み殺そうとした彼を、彼女が宥めて制止してくれたのだ。あの時はケツァル少佐もテオドール・アルストも同じように彼を止めようと怒鳴っていたが、興奮した彼を完全に止めるには至らなかった。この女性の長老の穏やかな波長の声が、彼の怒りを鎮めてくれたのだ。
 ステファンは長老達の前に立つと、右手を左胸に当ててお辞儀をした。長老達は同じように右手を左胸に当てて返礼してくれたが、頭を下げたりしなかった。
 長老から声をかけられることはなかった。沈黙が彼に語れと命じていた。それで、彼は質問した。

「2日前の夜、サン・ペドロ教会界隈でジャガーを目撃したと言う市民からの通報が数件グラダ・シティ警察に寄せられました。お耳に入っておりますでしょうか?」

 男性の声が「知らぬ」と答え、残りの男女が「聞いている」と答えた。
 ステファンは続けた。

「警察から大統領警護隊にジャガーの捜索要請が来ましたので、司令部から遊撃班に命令が下され、エミリオ・デルガド少尉と私カルロ・ステファンが役目を与えられました。目撃者の証言を集め、ジャガーが移動した道筋を辿って行くうちに、体毛と血液を手に入れました。ジャガーは有刺鉄線で怪我をした模様です。手に入れた体毛と血液をグラダ大学生物学部の遺伝子学者テオドール・アルスト博士に分析してもらいました。」

 彼は封筒から分析検査結果を出して、長老達の方へ差し出した。女性の長老が受け取ってくれた。ステファンは説明を続けた。

「アルスト博士の分析では、その血液はジャガーそのものではないジャガーだと言うことでした。」
「どう言う意味だ?」

 「知らぬ」と答えた男性が尋ね、もう1人の男性が答えた。

「ツィンルだと言うことだ。」

 ”ヴェルデ・シエロ”はナワルを使える一族の者をツィンルと呼ぶ。彼等自身の言語で「人間」と言う意味だ。つまり、ナワルを使えない者は人間以下の存在と見なす古代の神の驕りだ。

「教えていただきたいのですが・・・」

とステファンは続けた。

「世間を騒がせているジャガーが一族の者であると断定しましたが、東西サン・ペドロ通り界隈に住むツィンルは何人いるのでしょうか? 私個人が知る限りでは、我がグラダの族長シータ・ケツァルと、マカレオ通り北に住む我が同僚アルファット・マレンカ(ロホの本名)の2人だけです。他に誰かいますか?」

 3人の長老達が互いの仮面の目を覗き合う素振りを見せた。この中の誰かがあの界隈に住んでいると言うのか? 
 ジャガー騒動を聞いたと言う男性の長老が答えた。

「誰が住んでいるか、お前に教える必要はない。我等が知るツィンルは皆掟を守り礼儀を心得ておる。お前が追いかけているジャガーは、未承認者だ。」
「どなたかのお子さんと言うことは考えられませんか? 成年式を迎える前にナワルを使ってしまったとか・・・」
「子の変幻に親が気付かぬ筈がない。」
「では、私の様に”出来損ない”で、ある日突然変身してしまった可能性は考えられますね?」

 一瞬長老達の間に硬い緊張した空気が感じられた。カルロ・ステファンの最初の変身は、彼が命の危険に曝された時に起きた。本人には変身した自覚がなかった。

「お前が追っているジャガーは、何か危険に曝されていたのか?」
「私は目撃したのではありませんから、お答え出来ません。しかし、ケツァルは家並みを隔てて接近したそうです。彼女はただ何かが近づいて来るのを感じ、その気配に怯えた犬達が騒いだので犬を気を放って鎮めたそうです。するとその接近者も彼女の気を感じて立ち止まったと言っていました。」
「ケツァルは相手を見ていないのですね?」

 女性が尋ねた。ステファンは「見ていません」と答えた。

「その者は西から東へ移動していました。ケツァルの気を感じて一旦立ち止まりましたが、彼女が立ち去ると再び東へ向かって移動を再開していました。ですから、何かの危険から逃れようとしていた様子でなかったと私は思います。」

 最初の質問で「知らぬ」と答えた男性が言った。

「我々は”出来損ない”までは把握しておらぬ。少なくとも、ナワルを使えると判明した者しかツィンルと認めておらぬ。だが、”出来損ない”がある日突然変身するには、何か大きな原因がある筈だ。変身の経験がない”出来損ない”にとってナワルは使おうと思って使えるものではない。それはお前が一番良く理解しておろう。」
「だがドクトル・アルストはそのジャガーを”シエロ”だと判定したのだろう?」

ともう1人の男性が言った。

「ツィンルと認められていない者がナワルを使って世間の前に姿を曝すのは由々しき問題だ。掟を知らぬのであろう。」
「”砂の民”が知れば動きますよ。」

 女性がステファンが最も恐れていることを言葉に出した。

「掟を知らぬのなら、教えなければなりません。」

と彼は長老達に訴えかけた。

「ジャガーの痕跡はマカレオ通りの3丁目第3筋まで辿れました。その辺りにツィンルはいませんか?」
「ツィンルはおらぬ。」

と「知らぬ」と答えた男性がイラッとした声で言った。しかし、女性がこう言った。

「ツィンルはいませんが、ツィンルが産ませた子がおります。」

 男達全員、ステファンも含めて、彼女を見た。彼女が言った。

「ロレンシオ・サイス、ピアノ弾きです。」


第3部 潜む者  7

  大統領警護隊の「官舎の門限」は、官舎で居住する隊員が基地外で活動する場合に設定されている規則で、隊員が無事に一日を過ごしたことを確認するためのものだ。門限を破ると事故か事件に巻き込まれた恐れありと看做されて捜索対象にされるので、隊員達は外で活動する時は必ず門限を守って帰還する。不名誉な脱走疑惑をかけられでもしたら、大変だ。
 門限の他に「消灯時間」と言うものもある。大統領警護隊は24時間稼働の軍隊だから、別に一定の時刻になったら部屋の照明を落としてしまう、と言う訳ではない。そもそも暗闇でも目が見える”ヴェルデ・シエロ”と言う種族の軍隊だから照明の有無は関係ない。世間体で午後11時になると宿舎の照明を落としてしまうだけのことだ。ただ、この照明を落とす時刻に居室にいなければならない当番がいる。規則に従って休憩を取らなければならないのだ。これは規則正しくルーティンに従って勤務する警備班のためのもので、遊撃班や外で仕事をする外郭団体所属の隊員には関係ない。
 ステファン大尉は遺伝子分析結果が入った封筒を持って宿舎から本部棟へ移動した。少し躊躇ってからエレベーターではなく階段を使って地下へ降りた。エレベーターを使うと、たまに扉が開いた時に上層部の人間と鉢合わせする恐れがあった。敬礼だけですれ違ってくれる上官なら良いが、中にはどんな用事があって地下へ来るのかと問い質して来る人もいる。ステファン大尉は直属の上官以外に任務の話をしたくなかった。それに直属の上官はこの時刻に地下にはいない筈だ。
 階段の壁が手掘りの岩盤になった。古代の神殿跡だ。普通の隊員は地下へ来ない。地下と言っても、普通のビルの地下の様な深さではなく、オルガ・グランデの金鉱山の坑道並に深く造られていた。ステファンが地下の通路の道順を知っているのは、以前に来たことがあったからだ。己の兄を殺害し、罪を彼の父になすりつける為に無関係な”砂の民”を4人も殺し、彼の父も殺し、彼自身も殺害しようとした、一族の大罪人を裁く審判の場に証人として召喚された時だ。尉官の隊員が地下に降りることを許されるのは、長老に呼ばれた時だけだった。
 だから、神殿の大扉前の衛兵の前に来た時、彼は緊張していた。背筋を伸ばして衛兵達の前に立つと敬礼した。

「遊撃班所属、カルロ・ステファン大尉です。長老会のお方がいらっしゃれば、御目通りを願いたい。」

 上官をすっ飛ばしての面会を許可されることは滅多にないが、決して隊律違反ではない。勿論、長老が面会理由の適正を承認してくれればの話だ。
 衛兵は2人いたが、1人が彼をじろりと眺めた。

「どの長老に面会を希望するのか?」
「申し訳ありません、私にもわかりません。未承認のナワル使用者についてお尋ねしたき儀があって参りました。」

 すると、もう1人の衛兵が声をかけて来た。

「君はグラダのステファンだな?」
「スィ。グラダの族長の身内の者です。」

 グラダ族長はケツァル少佐だ。この世で生きている唯一人の純血種のグラダ族だ。そして、グラダを名乗ることを許されている人間はあと2人だけ、どちらもメスティーソのカルロ・ステファンとアンドレ・ギャラガだけだった。グラダの男性として認定されると言うことは、ナワルが黒いジャガーであると言うことだ。
 最初の衛兵が「待っていろ」と言い残して、扉を微かに開き、隙間から滑り込むように中へ消えた。ステファンは背筋を伸ばして立っていた。残った衛兵は彼に話しかけず、通路の向こうを見つめた。まるでステファンがそばにいることを忘れた様な気配だ。実際は5、6分だったが、ステファンには10分以上もかかったような気がした。ようやく、最初の衛兵が戻ってきた。彼は片側だけ扉を少し開いて、目で入れと命じた。ステファンは敬礼して、中に足を踏み入れた。
 扉の内側は以前に来た時と同じく、広い空間だった。岩の柱が周囲を取り囲むように立ち、その向こうにいくつか扉があるが、何の部屋なのか彼は知らなかった。
 広間の向こうの端に火が焚かれており、それを囲んで3人の仮面を被った人物が立っていた。長老の中の長老、長老会のメンバーだ。仮面は”心話”を禁じるものだ。この空間においては、プライバシーを守ることが困難な”心話”は、裁判や会議の時の情報交換でしか使用されない。長老会のメンバーは互いが誰なのか知らない・・・ことになっていた。
 長老の1人が、入ってきた若者に顔を向けた。仮面で明瞭さを欠く声でその人が言った。

「グラダのステファン、こちらへ来なさい。」


第3部 潜む者  6

  カルロ・ステファン大尉はテオドール・アルストの家を出ると、少し離れた場所に駐車しておいた大統領警護隊のジープに戻った。車に異常がないことを確認して乗り込み、静かに車を出した。ピアニストのロレンシオ・サイスの家の前を通り、坂道を下って次の角で西へ向かって曲がった。西サン・ペドロ通りへ走り、ビアンカ・オルティスが住んでいると思われる学生向け住宅の並びを抜け、市街地の大通りに出た。住宅地ではあまり歩行者を見かけなかったが、市街地はまだ人通りが多かった。
 大統領府に向かって走って行くと、歩道を走っている男が見えた。片方の肩に鞄を背負うようにして、大統領府の方向へ走って行く。足取りは決して重たくないが、軽快とも言い難い。ステファンは声を立てずに笑って、ジープを歩道に寄せた。速度を落として開放した窓から声をかけた。

「よう、少尉、乗って行くか?」

 赤毛のアンドレ・ギャラガ少尉が振り向いた。おうっと声を上げ、ギャラガが窓から鞄を投げ込み、走りながらドアに飛びついた。通行人達が驚いて振り返るのも気にせずに、彼は窓から車内に滑り込んで来た。
 ステファンは車のスピードを上げた。ギャラガが座席に座らぬうちに話しかけた。

「門限を忘れて仕事をしていたのか?」
「ノ、さっきオフィスに戻ったばかりです。」

 ギャラガは息を整えながら喋った。

「直帰すべきか迷いましたが、鞄を置いたままだったので、少佐にオフィス前で落としてもらいました。」
「少佐と一緒に出張したのか。」
「スィ。グラダ港のコンテナバースへ出張っていました。麻薬のガサ入れをした警察が盗掘品の密輸も発見したので、連絡して来たのです。明日、また警察へ行って美術品を調べないと・・・」

 すっかり文化保護担当部の隊員らしい口ぶりになっている後輩に、ステファン大尉はちょびっとジェラシーを覚えた。本来なら彼が港へ行って捜査すべき仕事だった筈だ。
 ギャラガが後部席をチラリと見た。

「大尉はお一人ですか?」
「今はな。相棒はまだ仕事中だ。」

 それ以上の説明はしなかった。
 文化保護担当部に転属命令が出た時、ギャラガはステファン大尉に挨拶しに来た。本来ならステファン大尉が戻るべき場所に己が配属される。なんだか申し訳ない気持ちになったのだ。しかし、大尉は彼が転属すると告げると、笑って言った。

「気を引き締めて働けよ。ケツァル少佐は仕事にはマジで厳しいからな。」

 転属した直後に、ギャラガは大尉も警備班から遊撃班へ転属になったと聞いた。本隊では最も厳しいエリート集団だ。司令部はステファン大尉を少佐か中佐に昇級させる迄手放しはしないだろう、とギャラガは予想した。
 大統領府が見えてきた。大統領警護隊はその敷地内に本部と訓練施設を置いている。通用門は大統領府とは別にあった。広い敷地の外周を半分ほど回ってから警護隊本部に入った。ステファン大尉はギャラガ少尉を先に落としてやり、官舎の門限に遅れないよう走らせた。彼自身は車を所定の場所に駐め、勤務終了のチェックをしてから大尉専用の部屋に戻った。2人部屋だが、同居人はいなかった。最初にその部屋に入った時、先住の大尉がいたのだが、外交官の試験に通って少佐になり、何処かの国の大使館付き武官として出向して行った。ステファンも警備班の少尉だった頃に、武官のファルコ少佐から引き抜かれかけたことがあった。彼の出世を妬んだ同僚の告げ口で不良少年時代の過去を暴かれ、エリート街道に乗ることを閉ざされたのだが、司令部は再び彼にもう一度チャンスを与えようとしていた。しかし、正直なところステファンは外交官になるより文化保護担当部でジャングルや砂漠を走り回っていたかった。何にも制約されずに自分を解放出来る空間に戻りたかった。
 彼は制服を脱いで、シャツ一枚でベッドに転がった。
 住宅街を徘徊したジャガーも、何かから解放されたかったのではないだろうか。もしかすると唯一度の変身だったかも知れない。世間が大騒ぎを始めたので、もうナワルを使わないかも知れない。
 彼は体を起こした。脱いだ制服を再び着ると、きちんと身だしなみを整えた。そしてテオドール・アルストからもらった血液検査結果の報告書を持って、部屋の外に出た。


2021/10/04

第3部 潜む者  5

  テオの遺伝子分析結果を見たステファン大尉は、捜査の進捗状況を教えてくれた。

「ジャガーは西から東へ、このマカレオ通りの中央辺りまで来ていました。そこから東へは行っていません。少なくとも目撃証言はありません。北にも南にも行っていない。ジャガーの姿で行っていないだけかも知れませんが。」

 テオはチラリとデルガド少尉を見た。

「足跡や臭いの追跡でも辿り着けないのか?」

 返事がないので、彼はさらに畳み掛けてみた。

「ロホが目撃したんだよ、マーゲイを。」

 デルガドが溜め息をつき、ステファン大尉は渋い顔をした。

「すると少佐に伝わっていますね?」
「スィ。同じ車に乗っていたからね。」
「ああ・・・あの時でしたか・・・」

 デルガド少尉はナワルを知っている白人のテオに打ち明けて良いのかと上官に目で問いかけた。ステファン大尉は頷いて許可を与えた。デルガドはテオに向き直った。

「マーゲイは家猫のでかいのとよく間違えられるので、それを利用して、民家の庭伝いにジャガーの臭いを追跡してみました。このマカレオ通り3丁目の第3筋にセレブの家があるのですが、ご存知ですか?」
「セレブ?」
「ピアニストのロレンシオ・サイスが住んでいるんです。」

 テオは頭を掻いた。

「ピアノはあまり興味がないなぁ・・・俺はフォルクローレの方が好きなんだ。ごめん、知らない。」
「そうですか・・・テレビとかにも出ている有名人です。ジャズが主なんですけどね。そのサイスの家周辺でジャガーの臭いが途絶えているんです。」

 ステファン大尉が携帯電話をいじってロレンシオ・サイスと言うピアニストの写真を検索して表示した。見せてもらっても、やはりテオは知らなかった。

「サイスは”ヴェルデ・シエロ”なのかい?」
「そんな話は聞いたことがありません。」

 写真で見るロレンシオ・サイスは純血種の顔をした先住民だ。その顔でジャズを弾けば、ちょっと異色な印象をジャズファンに与えるだろう。
 それでお願いがあります、とステファン大尉が切り出した。

「暫くこのデルガドをこちらに置かせてもらえませんか? サイスの家の周辺を見張らせたいのです。 休憩場所として使わせていただいて、食費などは支払います。ナワルは毎日使える訳ではないので昼間出かけたり、夜出かけたりと煩いかも知れませんが・・・」
「俺は構わないよ。」

 テオは”ヴェルデ・シエロ”が家にいれば蠍などの毒虫が屋内に入って来ないことを知っていた。ジャガーでもマーゲイでも、力の大小はあっても”ヴェルデ・シエロ”だ。居てくれるだけでも大いに役に立つ。

「客間を使ってくれて構わない。アリアナの部屋として空けてあるんだが、もっぱらアスルが寝泊まりに使っている。」
「アスルが?」

 ステファン大尉が驚いた顔をした。アスルがテオに対して余所余所しい態度を取っていたことが印象深いので、あのツンデレ少尉がこの家に泊まりに来ることが意外だったのだ。
 テオは頷いた。

「いつも知らない間に入り込んで寝ているよ。朝ごはんを作ってくれるから、俺は大歓迎だけどね。そうそう、以前ゲンテデマの事件で君とアンドレが捜査していた時、アンドレを客間で昼寝させたら、アスルがやって来て拗ねていたな。」
「アスルは今でも来るんですか?」
「来るけど、今はミーヤ遺跡と言う所で発掘隊の監視をしているから、暫く戻っていない。」

 ミーヤ遺跡にチュパカブラ騒動が起きている話を語り合おうかとも思ったが、テオは思い止まった。ジャガー騒動で働いている大統領警護隊遊撃班に、大統領警護隊文化保護担当部が抱えている問題を語っても何にもならない。

「だから、デルガド少尉は安心してこの家を使ってくれて構わない。ところで、カルロ、君はどうするんだ?」
「私は本部に戻ります。ジャガーが誰かのナワルであることは貴方の分析結果で証明されたので、上に報告します。」
「毎日通える距離だから、いつでも様子を見に来れるしな。」

 もし本部に戻らずにどこかに泊まるとステファンが言えば、テオは彼の実家に行けと言うつもりだった。任務遂行中とは言え、息子が寝泊まりすれば、カタリナ・ステファンは喜ぶだろうに。

2021/10/03

第3部 潜む者  4

 夕方、テオは研究室を片付け、施錠した。鍵を事務局に預けて駐車場に向かうと、数人の学生達に声をかけられた。大学ではテオが大統領警護隊文化保護担当部の隊員達と親しいことが知られている。声をかけて来た学生達は、例のジャガー出没事件を知っており、大統領警護隊遊撃班がジャガーの捜索をしている噂も耳にしていた。だから、テオに何か進展がありましたかと尋ねてきた。テオは何も聞いていないと答えた。

「俺の友人は文化保護担当部の人々だ。遊撃班は知り合いが1人いると言うだけだから、情報は入って来ない。第一、彼等は友人だからと言って気安く情報を外に流したりしないさ。」

 がっかりした様子の学生達に、彼は警察に訊いた方が早いぞと言っておいた。
 車に乗って走り、メルカドで食材を購入して帰宅した。家の中に灯りが点いていた。時計を見ると午後7時過ぎだった。なんとなく誰が家の中にいるのかわかった。彼は鞄と食材が入った紙袋を持ち、車を施錠して家の玄関のドアを開けた。鍵は開いていた。リビングでテレビが点いており、ソファに大統領警護隊遊撃班のデルガド少尉が座っていた。彼はテオが家の中に入って来ると立ち上がり、敬礼して迎えた。

「大統領警護隊遊撃班、エミリオ・デルガド少尉であります。」
「テオドール・アルストだ。テオと呼んでくれて良い。」

 テオは無断で他人の家に入って来る”ヴェルデ・シエロ”に慣れっこになっている己が少し可笑しく思えた。普通のセルバ人は絶対に慣れていない筈だ。だって、勝手に家に入って来られたら、それは泥棒じゃないか。果たして、デルガド少尉が荷物をテーブルに置いて食品を袋から出し始めたテオを不思議そうに眺めた。

「私がここにいることに驚かれないのですね?」
「君達の図々しさには慣れているから。」

と言ってから、彼はデルガドを振り返って笑いかけた。

「失礼なことを言ってごめんよ。だけど、この家にはステファンもアスルもアンドレも平気で出入りしているからね。」

 デルガド少尉は頭を掻いた。警護隊の制服を着ているが、武器は体から外してソファに置いてあった。この家は安全圏だとステファン大尉に言われたのだろう。純粋な先住民の顔つきをした若者だ。恐らくステファンより年下で20歳前後だろう。身長はあるが全体的にほっそりしていた。いかにもマーゲイに変身しそうだ。

「ステファンは何処かへ行ったのか?」
「食糧の調達に行かれました。貴方に負担をおかけする訳にいきませんので。」
「気にしなくても良いのに。」

 恐らくステファン大尉は近所の屋台かメルカドで買い物をして来るのだろう。部下に買い物をさせないのは、恐らくデルガド少尉が最近ナワルを使って疲れているからだ。テオはデルガド少尉に座ってテレビを見ているようにと言い、キッチンに入った。野菜とチキンの煮込みが出来上がる頃に、ステファン大尉が帰って来た。無断で家に入ったことを詫び、彼は買ってきたソーセージやタコスを食卓に提供した。
 1人で食事するより3人で食べた方が楽しいに決まっている。テオは彼等の捜査の進展が気になったが、向こうから言い出さないうちは黙っていた。代わりに、先日の尻尾を切られたらどうなるかの話の続きを話した。お尻の怪我の話を聞いて、デルガド少尉がいかにも痛そうな顔をしたのが愉快だった。そう言えばマーゲイは尻尾が長いんだ、とテオは思い出した。

「ナワルを使う儀式は多分広い場所で行うから心配ないと思うけど、外で捜査や戦闘で変身する時は気をつけた方が良いぞ。尻尾はピンと立てて歩けよ。」
「敵に忍び寄る時は立てられませんよ。」

とステファンが笑った。  デルガドも少し遠慮がちに会話に加わってきた。

「尻尾を立てて歩くと、出くわす相手に偉ぶっていると見なされます。」
「相手が上官だとマズイか?」
「上官ならまだマシです。長老だったらそれこそ尻尾を咬まれます。」
「俺は尻尾がなくて良かったよ。よく教授達に意見して睨まれるから。」

 3人は笑った。それからテオは思い出して鞄からジャガーの毛と血痕の分析結果を出した。

「ジャガーの毛に違いない。だけど血液は擬似ジャガーだ。間違いなく”ヴェルデ・シエロ”だ。」

 分析結果のDNA対批表を眺めたステファン大尉は、人間のゲノムと謎の血液のそれが同じ配列であることを認めた。それをデルガド少尉にも回してやった。デルガドが科学が得意かどうかわからないが、若者もそれをじっと見つめた。そして呟いた。

「やっぱり我々も人間なんですね。」
「当たり前だろ。」

 テオは微笑んで見せた。

「喜怒哀楽があるのは人間の証拠だよ。」



第11部  紅い水晶     21

  アンドレ・ギャラガ少尉がケツァル少佐からの電話に出たのは、市民病院に到着して患者が院内に運び込まれた直後だった。 「ギャラガです。」 ーーケツァルです。今、どこですか? 「市民病院の救急搬入口です。患者は無事に病院内に入りました。」  すると少佐はそんなことはどうでも良いと言...