2021/12/07

第4部 忘れられた男     7

  生存者は2階の病室にいた。医師の説明では、外傷はなく、低体温と脱水症状が酷かったのだと言う。救命筏に乗り込んだ時には既に着衣全部がずぶ濡れだったのだ。船から退避するタイミングを誤ったに違いない。殆ど手遅れのギリギリ一歩手前で救命筏に乗り込んだのだ。
 医師が先頭になり、2人の憲兵の後ろにテオ、ケツァル少佐、ロペス少佐の順で病室に入りかけた。しかし、ベッドで寝ている男の顔を見た瞬間、テオは回れ右して、2人の大統領警護隊の少佐の前で両腕を広げて通せんぼした。思わず低い声で言った。

「駄目だ、入るな。」

 少佐達が怪訝な顔をするよりも早く、彼は彼等を数歩押し戻した。そしてケツァル少佐に言った。

「エルネスト・ゲイルだ。」

 ケツァル少佐は2年も前に1度きりしか会っていない男を覚えていなかった。誰?と目で彼に問いかけた。テオは彼女を見て、後ろのロペス少佐を見た。そして簡単に、しかしわかりやすく説明した。

「アメリカで、カルロ・ステファンを拐った男だ。」

 2秒後にケツァル少佐が、ああ、と思い出して頷いた。ロペス少佐はまだピンと来ない様だ。ケツァル少佐が彼を振り返り、目を見て”心話”で説明した。ロペス少佐もそれで理解した。テオとアリアナ・オズボーンと共に遺伝病理学研究所で遺伝子操作されて生まれた男だ。C C T Vで黒いジャガーを見て、カルロ・ステファンが変身した姿だと知り、ステファンを拉致して超能力者の研究に使おうとした科学者だ。ケツァル少佐の”操心”でテオと彼女を研究所の所長室へ案内した後、ステファンに殴られて昏倒した。テオ達は彼をそこに放置して逃げたのだ。
 テオは彼女に尋ねた。

「君はエルネストの記憶を消したかい?」

 ケツァル少佐が首を振った。

「研究所の人間全員から私達の記憶を消した筈です。でも、貴方に私達の”操心”が効かない様に、彼にも効かなかった恐れは十分にあります。」
「じゃぁ、彼は君を覚えているかも知れない。」

 テオは病室の入り口を見た。エルネスト・ゲイルが何故セルバの海岸に打ち上げられていたのか知らないが、身元を隠す必要がある行動をしていたのだ。ここは用心するに越したことはない。
 テオは少佐達に向き直った。

「医者と憲兵は”ティエラ”だな?」
「スィ。セルバ人の90パーセントは確実に”ティエラ”です。」
「それじゃ、彼には俺が憲兵と一緒に面会する。君達は出来るだけ彼に近づかないでくれ。必要な時は俺が呼ぶから。」

 エルネスト・ゲイルに”ヴェルデ・シエロ”の細胞を手に入れる機会を与えてはならない。2人の少佐は純血種なのだ。エルネストがまだステファンを諦め切れていなければ、”ヴェルデ・シエロ”達を彼と接触させたくなかった。エルネストが”シエロ”の遺伝子を手に入れたとしても、無事にアメリカに戻ることは出来ないだろう。ここには”砂の民”と呼ばれる人々がいるのだ。テオは彼を愛せないでいるが、それでも一緒に育った”弟”だ。この国で死なせたくなかった。
 テオは1人で病室に入った


第4部 忘れられた男     6

  市営病院は初代院長の名前でも付いたのか、ブルノ・リベロ病院と言う名前だった。ロカ・ブランカではちょっと腹痛や頭痛したぐらいでは病院に行かない。町の薬局(と言えるのかわからないが)で薬を買って飲むだけだ。病院へ行くのはお産か重症患者だけだった。しかしそれは単に町と病院の距離が遠いからと言う理由だけのようで、実際に病院のロビーに入ると市民が普通に待合で順番待ちをしていた。決して診療費が高い訳ではないのだろう。市営病院だから、グラダ大学の大学病院の様な高度な技術はないかも知れないが、まともな医者がまともな診療を行っている様だ。
 テオはバス事故から救出されて入院していたエル・ティティの病院を思い出した。田舎の小さな町の小さな病院だったが、親身になって治療をしてくれた。唯一人の生存者だったテオを必死で看護してくれた。今でも時々彼は思う、自分が遺伝子分析学者ではなく、アリアナの様に医師免許を取って患者を診る遺伝病理学者であったならば、彼女の様に方向転換して臨床医になってエル・ティティの町に恩返し出来たのに、と。
 ロカ・ブランカの警察とは町から出る時にお別れしたので、病院での面会交渉は憲兵隊が行った。生存者はまだ眠っているが、容態は落ち着いたので間もなく目が覚めるだろう、と医者は言った。それで、先に冷蔵保存されている遺体の方を見ることにした。
 テオはミイラをたくさん見た経験はあるが、生の死体はない。少なくとも、意識してじっくり見た経験がない。死体安置室へ案内される時、彼はケツァル少佐に囁いた。

「俺が部屋から逃げ出しても笑わないでくれないか?」

 少佐が眉を上げて彼を見た。そして囁き返した。

「私が幽霊を見て逃げ出しても追わないで下さいね。」

 それで彼は少しだけリラックス出来た。
 死体安置室は地下にあり、薄暗くて、嫌な臭いが漂っていた。憲兵隊が首元に常に巻いているスカーフを鼻の上へ引き上げた。病院職員が言い訳した。

「換気扇がハリケーンで故障してしまってね・・・」

 シーロ・ロペス少佐はハンカチを出してお上品に鼻を押さえ、ケツァル少佐はスカーフをポケットから出して顔に装着した。テオも仕方なく皺だらけのハンカチを出して鼻を押さえた。
 室内は冷んやりとしていた。アメリカの様な遺体冷蔵保存用の引き出しがある訳でもなく、2体の遺体が台の上に並べて横たえられ、シートをかけられていた。職員が右側の遺体の前に立った。

「こっちが、漂着した時に既に死んでいた人です。救命筏の中に乗せられていました。救命胴衣を着けていましたが、頭部に傷があり、船から乗り移る時に怪我をして亡くなったものと思われます。他に外傷はありません。」

 シートを捲って顔を見せた。アフリカ系に見えた。まだ若い。30代前半だろう。

「発見時の服装は?」

 アウマダ大佐が尋ねた。職員が部屋の隅っこに重ねて置かれた衣類を見た。白っぽいグレーの作業服に見えた。蛍光色のラインが腕や肩の部分に入っている。同じ服が3人分あったので、もう1人の遺体と生存者も着ていたのだとわかった。
 ロペス少佐が遺体のシートをさらに捲る様に合図して、それから手袋を要求した。職員が薄いラテックスの手袋を客に配布した。テオは、それならマスクもくれれば良いのに、と思ったが黙っていた。職員は自分だけマスクをしていたのだ。
 手袋をはめたロペス少佐は遺体の手を眺めた。憲兵が彼の横に来て、一緒に眺めた。

「船乗りの手に見えますが?」

とムンギア中尉が感想を述べた。少佐と大佐が頷いた。力仕事をしていた手だ。
 次の遺体は前日に死んだ人だ。こちらはメスティーソで、やはり若かった。外傷はなかったが、全身ずぶ濡れで低体温症で亡くなったのだ。ロペス少佐はこの遺体の手も眺め、それから自分の手を見て、隣にいたムンギア中尉の手をいきなり掴んで眺めた。ムンギア中尉がギョッとした。テオは笑いそうになって堪えた。ロペス少佐は今完全に大統領警護隊の士官モードに入っており、”ティエラ”の将校は格下と見做しているのだ。彼は中尉の手を離すと言った。

「この遺体の男は、銃を扱い慣れていた。」


2021/12/06

第4部 忘れられた男     5

  海図を管理しているのは沿岸警備隊だったので、警察署長ではなく憲兵隊が連絡を入れた。テオはふと疑問に感じた。何故今回の遭難者の調査を沿岸警備隊が行わないのだろう、と。セルバ人達は何も疑問を感じないのか、それから半時間無駄話をして沿岸警備隊がファックスを送ってくるのを待った。主に次のサッカーのワールドカップの話題だったので、テオとケツァル少佐はテーブルの上の残りの備品をチェックした。

「非常食が2つだけありましたが、北米で手に入りやすいレトルト食品ですね。」

とケツァル少佐が言った。

「リオグランデから南で買えるとしたら、メキシコあたりでしょうか。 私個人の印象では、これは北米から来た様に思えます。こんなに用心深く身元を隠した避難用具を見たのは初めてです。」
「俺もそう思う。」

とテオは嫌な予感を抱きながら言った。

「これはスパイ活動をしていた船のものじゃないかな。犯罪組織がここまで身元を隠すとも思えない。」

 ロペス少佐が振り向いたので、彼は言い足した。

「どこの国がどの国を探っていたのかは、わからない。潮流を見ないとね。」

 ピーッとアラームが鳴り、警察署のファックスが数枚の紙を吐き出した。大統領警護隊と憲兵隊からの合同要請なので沿岸警備隊が超特急でこの過去3日間のロカ・ブランカを含む東海岸沖の潮流の様子を描いた図を送信してきた。
 大統領警護隊も憲兵隊も陸軍がメインなので、海図の読み取りは苦手だ。警察署長が初めて水を得た魚の様に図面を解読しながら潮流の向きを説明した。

「我が国の東を流れる潮流はメキシコ湾流で、南から北へ北上しています。まず逆流はありません。漂流物は南の方からやって来ます。今回の救命筏も南から流されて来たと思われます。何処の国の船のものかわかりませんが、セルバより南で遭難して、暴風で海岸に押し寄せられたのでしょう。」
「海流の速さと風向き、風速から船舶が遭難したと思われる海域はわかりますか?」

 テオの質問に署長が首を振った。

「無理でしょう。穏やかな状態の海で遭難したのでしたら計算も出来ますが、あの暴風雨の中ではね。生存者が回復したら訊いて見る方が良いでしょうな。」

 警察署を出ると、大統領警護隊と憲兵隊はそれぞれの車に乗ってグラダ・シティ南部の市営病院に向かった。そこに死者2名と生存者1名がいた。



2021/12/03

第4部 忘れられた男     4

  憲兵隊のアウマダ大佐とムンギア中尉は年齢も体格も違っていたが、テオにはなんとなく2人が兄弟の様に似ている感じがした。恐らく同じ制服を着て、同じ様な口髭を生やしているからだろう。彼等は私服姿のロペス少佐とケツァル少佐を、本当に大統領警護隊なのかと疑っている様な目だった。
 明るい屋外から小屋に入ると最初は真っ暗に感じる。ロペス少佐は全く気にせずに中に入り、真っ直ぐ中央に置かれたテーブルの前に進んだ。署長が戸口にあった照明のスイッチを押した時、彼は既に救命胴衣を手に取り、国籍の手掛かりを探るかの様に眺めていた。テオはムンギア中尉が上官に「本物ですよ」と囁くのを聞いてしまった。大統領警護隊の夜目が利くことは憲兵隊や軍隊では周知の事実なのだろう。
 ケツァル少佐は床に置かれた膨張式救命筏を調べ始めた。アウマダ大佐が男性少佐を引き受け、ムンギア中尉は女性少佐の相手をすることにしたのだろう、中尉がケツァル少佐に救命筏の構造の説明を始めた。
 テオはテーブルの上に並べられた備品を眺めた。ありふれた非常用装備に見えるが、セルバ共和国で簡単に手に入るとも思えなかった。メルカドに非常用装備を販売している店などないし、グラダ・シティのショッピングモールでも見たことがない。セルバ人は漁師を生業にしている人以外は沖に出て遊んだり作業をしたりしない。漁師だって救命胴衣を着用するようになったのはつい最近のことで、非常食や発煙筒や水の容器など船に装備しない。テオはふと何か足りない様な気がした。
 ケツァル少佐がテオと呼んだ。彼がそばに行くと、彼女が尋ねた。

「海軍には詳しいですか?」
「ノ。俺が育ったのは陸軍基地だから。」
「セルバ共和国には沿岸警備隊がありますが、海軍はありません。」

と彼女は言った。軍艦を持つ余裕が国にないのだ。空軍だって中古の戦闘機と輸送機、ヘリコプターしか持っていない。救命筏はセルバ人が所有するには高度な技術が使われていた。テオは彼女が指差した装置を見た。

「ええっと、それは?」
「SARTです。」

 ロペス少佐とアウマダ大佐が振り返った。ムンギア中尉も興味津々で彼女が指し示した赤いロケット状の装置を見た。ケツァル少佐は男達がそれ以外の反応を示さなかったので、説明した。

「捜索救助用レーダートランスポンダです。捜索救難を行う機関から発せられたレーダー波、質問波と言いますが、それを受信した際、SARTから応答波送信を行うことで捜索機関のレーダー画面上に救命筏の位置表示が行われます。この装置を装備している救命筏を搭載しているセルバの船はないと思います。」
「よくご存知で・・・」

 ムンギア中尉が感心すると、彼女は肩をすくめた。

「3年前に海底遺跡を調査するイギリス船に乗った時に教えてもらいました。」
「セルバに海底遺跡があるのかい?」

 テオはちょっと好奇心が湧いて尋ねた。ケツァル少佐は己の専門分野ではあったが、この場で必要な話題ではないと思ったので、「スィ」と短く答えて遺跡の話を終わらせた。
 アウマダ大佐が彼女に尋ねた。

「どこの製品かわかりますか?」
「恐らく・・・」

 ケツァル少佐は装置をじっくり眺めた。

「日本でしょう。」
「と言うことは・・・?」
「どこの国でも取引があれば購入出来ます。軍事的な物ではなく、遭難した時の救難信号用装置ですから。」
「でもセルバの船ではない?」
「セルバの企業が所有していても船籍を外国に置いていれば、セルバの船ではないですね。」

と言ったのはアウマダ大佐だ。ケツァル少佐が肯定した。彼女の養父の会社も船籍を税金対策でパナマに置いている。ムンギア中尉が調査してきた内容を報告した。

「ハリケーンでセルバの企業が関係した船が被害を受けたと言う報告は上がっていません。また、北米やメキシコ、あるいは南のベネズエラやブラジルからもそんな報告はきていないと外務省が言っています。」
「では、遭難したのは当局に船の運航を届け出ていないところ、と言うことになります。」

 ロペス少佐が警察署長に顔を向けたので、それまで黙って大統領警護隊と憲兵隊の会話を聞いていた警察署長がハッと姿勢を正した。楽に、と言って、ロペス少佐は頼み事をした。

「生存者に面会する前に、この沖の潮流がわかる海図とかあれば見せていただきたい。」




2021/12/02

第4部 忘れられた男     3

 ロカ・ブランカの警察署はエル・ティティ警察署より小さかった。署長と巡査が3名いて、署員の人数ではエル・ティティより1人少ないだけだが、建物は小さくて、事務所の奥にいきなり拘置所があった。テオ達が訪問した時、拘置所の鉄格子の向こうには子豚が一頭入っているだけだった。テオは思わず巡査の1人に質問してしまった。

「あの豚は何をやらかしたんだ?」

 巡査がチラリと檻に視線を向けた。

「3軒向こうの家の庭で無断飲食をしたのさ。」

 どこかの豚が逃げ出して他人の庭の草花を食べたのだろう。警察は豚を捕まえて飼い主が引き取りに現れるのを待っているのだ。エル・ティティではこのような場合、引き取り手が現れないと、豚は次の日曜日、日曜礼拝の後競売に掛けられる。落札されると、そのお金は教会に寄付されるのだ。ロカ・ブランカの警察がどんな方法で解決するのか、テオは訊かないことにした。 
 2頭のジャガーは・・・元い、2人の少佐は子豚を焼きたてのローストポークを見るような目で眺めていたが、憲兵隊の車が前庭に到着すると姿勢を正して座り直した。2人共、昨夜は仕舞っていた緑色の鳥の徽章を胸に付けていた。
 憲兵が2人入って来た。どちらも平均的なセルバ人、メスティーソの男性だった。ロカ・ブランカの警察官達が整列して迎え、大統領警護隊の隊員も立ち上がった。憲兵は警察官達を無視して真っ直ぐ大統領警護隊の前まで歩き、立ち止まると靴の踵をカチッと鳴らして直立姿勢を取り、敬礼した。2人の少佐も敬礼で応じた。年長の憲兵が名乗った。

「グラダ・シティ南基地のアウマダ大佐とムンギア中尉です。」

 憲兵隊の大佐は警察官から見れば高い地位だが、大統領警護隊から見ると少尉と同格だ。ロペス少佐が名乗った。

「大統領警護隊外務省移民・亡命審査官ロペス少佐と・・・」

 彼はテオを目で指した。

「グラダ大学生物学部のアルスト博士だ。我が国の遺伝子分析の権威だ。」

 テオは思わずロペス少佐の顔を見た。「権威」などと大仰な呼び方をされたのは初めてだ。ロペスは民間人のテオが憲兵隊相手に活動しやすいように気を配ってくれたのだ。
 ケツァル少佐の紹介がなかったのは、文化保護担当部の任務でないからだったが、憲兵の大佐が彼女を不審げに見たので、ロペス少佐は仕方なく紹介した。

「大統領警護隊文化保護担当部指揮官ミゲール少佐だ。漂流者の荷物を検分してもらうために来てもらった。」

 ケツァル少佐も彼を横目で見たので、テオは彼女がただのアッシーのつもりで来ていたのだと悟った。
 大統領警護隊が決して他人と握手しないと知っている憲兵達は、警察署長の机の後ろにあるドアを手で指した。

「まずは、漂着した救命筏、救命筏の中にあった物、それから村人達が浜辺で拾い集めた漂着物を見ていただきましょう。」

 署長が素早くドアに歩み寄り、鍵を開けて開いた。テオはドアの向こうは小部屋でもあるのかと思っていたが、外れた。ドアの向こうは、裏庭だった。そして道具小屋のような小さな家屋が一軒建っていた。


第4部 忘れられた男     2

  アメリカで住んでいた時代は、まるで富豪の息子かと思われるような至れり尽くせりの待遇で暮らしていたテオドール・アルストだったが、セルバ共和国に亡命してからは現地の住民の生活に自然に溶け込んでしまった。きっと彼を「創った」国立遺伝病理学研究所の科学者達が現在の彼を見たらびっくりするだろう。
 テオは太陽が昇る前に目が覚め、清潔とは言えないが掃除されているトイレで用を済ませ、前日に着ていた服を再び身につけた。それからグラダ大学事務局とゼミの学生代表にメールを送り、政府からの仕事の依頼を受けたので休講する、と連絡した。「政府」と言うのは大袈裟かも知れないが、この単語を入れておかないと、事務局は良い顔をしないのだ。テオは突然の休講が多い准教授なので、次期の雇用に影響が出てくる。食べるための教職だが、テオは学生達と一緒に研究するのが楽しくなっていた。単独で研究室に篭っているより、若者達と共にいろいろな説を論じ合いながら実験する方が楽しい。大学の方も内務省の要請で引き受けた科学者が政府に頼られている優秀な人間だと思えば、度々の休業にも目を瞑ろう、となる。
 身支度を終える頃にロペス少佐が目を覚ました。軍人なのに、テオが起きて動き回っていることに気が付かなかったのだ。すっかり「都会人」だな、とテオは心の中で思った。軍人らしい鋭い面も残っているが、オフィスで仕事をする方がこの男には合っているのだろう。毎朝定時に家を出て、夜定時に帰宅する生活が日常の筈だ。恐らくアリアナ・オズボーンと上手くやっていけるだろう。実を言うと、昨夜寝る前に彼とアリアナの将来についてじっくり語り合ってみたいとテオは思っていた。しかしベッドに入るとロペス少佐はすぐに寝てしまったのだ。
 朝の挨拶をして、ロペス少佐は部屋の外のバスルームへ行った。他の部屋の客に待たされたのか、かなり時間が経ってから戻ってきた。彼も着替えを済ませ、食堂へ降りた。コーヒーと菓子パンだけの朝食だったが、ないよりましだ。ケツァル少佐はとっくの昔に朝食を済ませて海岸のジョギングから戻って来ると、男達を眺めた。

「9時迄まだ時間があります。散歩しませんか?」

 ロペスがテオを見たので、テオは頷いた。他に時間を潰す方法を思いつかなかった。
 前夜は暗かったので宿周辺の風景が見えなかったが、朝日の中で見る漁村は美しかった。ハイウェイがすぐ近くを通っているが、地元民に観光で生業を立てようと言う意思がないらしく、道路と海岸の間にまばらに民家が建っているだけだ。砂浜より高い位置に外付けのエンジンが装着されているだけの簡単な漁船が並んでいた。ハリケーンで流されないように上げてあるのだ。砂浜は思ったより幅があり、整備すれば観光地としてやっていけそうだが、漁民は現状で満足しているのだろう。沖には村の名前になっている白い岩が波間に顔を出していた。陸から見ると象の背中に見えたが、この地に象はいないので、岩の名前に使われなかったのだ。
 ハイウェイから浜へ向かう脇道が何本かあったが、海水浴客用ではなく、地元民の生活道路だ。中には網が干されていて通せんぼされている道もあった。

「砂の上に足跡を残さないように歩く訓練を思い出す。」

とロペス少佐が呟いた。彼はスーツの上着を片腕にかけていた。テオは後ろを振り返った。砂の上に彼のスニーカーの跡が残っていたが、ロペス少佐の革靴とケツァル少佐の軍靴の跡はなかった。

「体重を減らすんですか?」

と揶揄ってみると、ロペスがちょっと笑った。

「そんな方法があれば本か動画配信で世の女性達からお金を集めますよ。」
「足の運び方です。」

とケツァル少佐が言った。

「今のようにゆっくり歩く場合のみ有効な歩き方です。走れば跡は残ります。」
「静かに暮らしていれば、誰も我々に注意を向けないのと同じです。」

とロペス少佐が言った。ケツァル少佐が彼に尋ねた。

「仕事は忙しいのですか?」
「適度に。」

とロペス少佐は答えた。

「近隣の国でクーデターやら大災害が起きて難民が押し寄せて来ない限りは暇だね。」

 


2021/12/01

第4部 忘れられた男     1

  ロカ・ブランカの村には宿屋兼食堂が1軒だけあり、ハリケーンの後であったが営業していた。混雑しており、ロペス少佐が交渉して、なんとか一部屋を確保した。緑の鳥の徽章を見せれば2部屋ぐらいなんとか出来たかも知れないが、そんな「ズル」をしないところが、このシーロ・ロペスと言う男の良さなのだろう、とテオは思った。

「ベッドは2つだ。私は床で寝るから・・・」

とロペス少佐が言いかけると、ケツァル少佐が店の外を眺めて言った。

「大きな木が生えています。私はあの上でも大丈夫です。」

 はぁ?とテオが呆れると、ロペス少佐も顔を顰めた。

「野獣ではないのです、淑女らしくベッドで寝て下さい。」

 テオが笑い出し、ケツァル少佐がむくれた。ロペス少佐は気にせずにテーブルを確保して、同伴者の希望も聞かずに店のお勧め料理を3人前注文した。食事は心配の必要がない美味しさだった。

「明日の朝9時に、ロカ・ブランカの警察署で憲兵と落ち合います。」

とロペス少佐が予定を告げた。

「先に警察が回収した漂流物と救命筏の中にあった物を検証します。それから病院へ行って、生存者に面会の予定です。」
「意識を取り戻していれば良いが・・・」

 テオは生存者が白人だろうが有色人種だろうが構わなかったが、事情聴取出来る状態に回復していることを願った。
 食事を終えると、2階の部屋に上がった。狭いベッドを見て、ケツァル少佐が溜め息をついた。

「2人で1台を使用するのは無理ですね。」
「俺が床に寝る。」

 テオはグラダ・シティを出発する時に自分の車に積んでいた宿泊用鞄を積み替えるのを忘れたことに気がつき、悔やんだ。着替えも寝袋もない。2人の少佐は大統領警護隊の常識なのか、リュックサックを持ってきており、着替えを持っていた。寝袋はないが軍人は野営に慣れている。生温い水のシャワーを浴びて、テオは上半身裸でベッドに入った。スーツを脱いだロペス少佐はTシャツと短パン姿になり、シャワーを浴びに行ったが、間もなく戻ってきた。

「女性用に一部屋空けてもらった。ケツァルはそっちへ行ってくれないか?」
「それは残念。」

 とケツァル少佐が言って、自分の荷物を持って部屋から出て行った。テオは半分がっかりして、半分安堵した。


第11部  紅い水晶     20

  間も無く救急隊員が3名階段を昇ってきた。1人は医療キットを持ち、2人は折り畳みストレッチャーを運んでいた。医療キットを持つ隊員が倒れているディエゴ・トーレスを見た。 「貧血ですか?」 「そう見えますか?」 「失血が多くて出血性ショックを起こしている様に見えます。」 「彼は怪我...