2021/12/19

第4部 悩み多き神々     13

  朝ごはんは前夜の晩餐の残り物だったが、昼ごはんは朝ごはんの残り物だった。肉や野菜をトルティーヤで巻いた物を食べて、水で流し込んだ。捕虜もシエスタの間は縛を解かれて目隠しも外してもらえた。

「”ティエラ”で大統領警護隊の軍事訓練に参加した人は、貴方が初めてですよ。」

とロホが言った。テオは精神的に疲れていた。実弾が撃ち込まれてくるのだから、無理ないことだ。

「無事に今日の夜を迎えられたら、体験談を本にでも書くよ。」

と彼は言い、埃だらけの床に横になった。”ヴェルデ・シエロ”としての実戦経験がないアンドレ・ギャラガに、アスルが白兵戦になった場合の気の使い方を教えていた。格闘技の練習の様に見えたが、アスルは動きの一つ一つに、どのタイミングで気を発して相手の動きを鈍らせるか、教えているのだ、とデネロスが説明してくれた。

「”ヴェルデ・シエロ”は気を使って相手を倒せても、死なせてはいけない、それが掟だったな?」
「スィ。だから、格闘している時に気を出すタイミングや大きさの調節を学ばないといけないんです。下手をして相手を死なせては大変ですから。ですから、この訓練の時は、必ず少佐以上の階級の立ち合いが必要です。」

 でも、とデネロスはウィンクした。

「ロホとアスルはこの分野に関しては少佐級の実力を持ってますから。」
「純血種ですからね。」

とステファンが囁いた。

「それに相手を思い遣ることが出来る。心が安定していないと出来ません。」

 血気盛んな若者達は力を出し過ぎるのだろう。デネロスがステファンを見て微笑んだ。

「大尉は気を使わなくても実力で敵を倒せますものね。」
「だから、今それを修行しているんだよ。」

 ステファンはテオに愚痴った。

「司令部は、私が気の抑制を完璧に出来る様になったらメスティーソの隊員達の指導師にする腹積りの様です。」
「君はきっと良い先生になれるだろうな。」

 テオは慰めた。

「指導師になったら、自由に外出出来るんじゃないのか?」
「でも遺跡とは縁がなくなります。」
「遺跡で訓練したら?」

とデネロスが暢気に言った。

「遺跡を壊さないように気を出す訓練したら良いんですよ。」

 テオとステファンは顔を見合わせた。どんな戦闘訓練なんだ?
 ケツァル少佐とロホは床の上の埃に線を引いて工場の間取りを描いていた。

「セプルベダは何処から攻撃してくると思います?」
「この西側にある原料搬入口辺りでしょうか。建物の開口部が広いですから。しかし、2階も、この屋根が低い部分から侵入される可能性があります。」
「2階はマハルダの結界で守りなさい。彼女の結界が破られたら、貴方に任せます。人質はテオに一任します。人質が逃げたら、テオに追わせてはいけません。彼は事務所に留めおくこと。」
「承知しました。」

 ロホは天井を見上げた。

「床板が腐っている箇所がいくつかありますからね・・・」



第4部 悩み多き神々     12

  銃弾と弾薬にかかる費用を考慮して、遊撃班は「絶え間ない攻撃」はして来なかった。文化保護担当部もそれは同じで、各自持ち場から見える敵のグループの様子を伺い、油断していると思われる箇所へ撃ち込んだ。
 2時間経って、ケツァル少佐の元にセプルベダ少佐から電話が掛かってきた。

ーーそっちは怪我人が出たりしていないだろうな?
「全員無事です。そちらはいかがです?」
ーーフライングしてリーダーにビンタを食らったヤツが2名いたが、怪我人は出ていない。
「今日は迫撃砲の予定は?」
ーーそれは使わない。民家が近過ぎる。さっき、ギャングの抗争と勘違いした市民からの通報で警察が来た。こっちの車を見て、直ぐに帰ったがな。ところで、捕虜と話がしたい。

 ケツァル少佐はちょっと考え、「お待ちを」と言って、階段を軽々と駆け上がり、事務所に入った。そろそろ飽きてきたテオが何か言う前に、少佐はステファンの顔の前に電話を差し出した。

「セプルベダ少佐が貴方と話たがっています。」

 ステファン大尉は溜め息をついて、電話に向かって「オーラ」と声をかけた。遊撃班の少佐が尋ねた。

ーー何で捕まったんだ?
「申し訳ありません。ミゲール少佐の結界が破れなくて・・・」
ーー無理に破ろうとしなかっただろうな? ケツァルの結界にまともに突っ込むと、頭がパーになるぞ。

 テオにもその声は聞こえた。ちょっとゾッとする話だが、”ヴェルデ・シエロ”の結界は”ティエラ”には無害だと聞いているので、黙っていた。
 それはしていません、とステファンは否定した。

ーーまあ、良い。可能な限り逃げる努力をしろ。彼女に代われ。

 ケツァル少佐が電話を自分の顔に近づけた。

「何か?」
ーー昼休みはどうする?
「こちらは食糧持参です。」
ーーでは、1200から1400までシエスタだ。その後、突入を図るぞ。
「了解。では、もう2時間頑張りましょう。」

 ケツァル少佐は電話を終えて、携帯を仕舞った。テオが要求した。

「俺に耳栓の差し入れをしてもらえないか?」
「我慢出来ませんか?」
「訓練だと分かっていても、実弾だ。心臓に良くない。」
「アスル!」

 少佐が怒鳴った。直ぐにアスルが階段を駆け上がって来た。

「何か?」
「テオに耳栓を作ってあげなさい。」
「はぁ?」

 と言いつつ、アスルは再び階段を駆け下り、数分後に救急箱を持って戻ってきた。脱脂綿を切ってテオに無言で差し出した。

「そろそろ弾丸落としに飽きて来ましたが、少佐。」

と彼は遠慮なく上官に文句を言った。ケツァル少佐は彼を引き連れて階段を降りながら言った。

「1200から2時間昼休み、午後は向こうが侵入を図って来ます。白兵戦をしますから、我慢なさい。」

 その声を聞いたテオは不安になった。思わずステファンに、白兵戦?と聞いた。ステファンが言った。

「C Q BやC Q Cです。アスルの得意項目です。」




第4部 悩み多き神々     11

 何故こんな事態になったのだろう? とテオドール・アルストは考えつつ、車をイゲラス通りの廃工場へ乗り入れた。だが入り口に現れたギャラガにしっしと手で追い払われた。車を離れた場所に駐車せよと言われていたのだ。テオは慌てて方向転換して敷地外に出た。1分ほど走って、小さな教会前の広場に駐車した。そこは安全だと言われていた。ケツァル少佐のベンツもロホのビートルもなかったが、彼は借りてきたステファン大尉が使っていた大統領警護隊のジープをそこに停めた。緑色の鳥が描かれた車に悪さする度胸がある人間は、セルバ共和国にいないだろう。
 歩いて廃工場に戻ると直ぐに数台のジープがやって来た。どれも緑の鳥の絵が描かれている。テオは慌てて廃屋の中に駆け込んだ。
 汚れたガラス窓の向こうを眺めていたギャラガが声を張り上げた。

「早速包囲されましたよ。」
「車は何台?」
「5台。遊撃班ほぼ全員です。」
「セプルベダもいる?」
「いらっしゃいます。」

 よし、とケツァル少佐は頷くと、テオを振り返った。

「捕虜を2階の事務所へ連れて行って、見張ってなさい。」
「俺は君の部下じゃない・・・」
「そんなことを言える立場ですか?」

 少佐はアサルトライフルを振った。

「外に放り出しましょうか? 今出たら、向こうは実弾を撃ってきますよ。そもそも、これは誰のアイデアです?」
「乗ったのは誰だ?」

 副官のロホが階段の上で怒鳴った。

「裏手にM M Gを配備されました。」
「見張ってなさい。」

 少佐はテオに顎で指図した。

「早く!」

 仕方なく、テオは彼用に渡された拳銃をステファンの後頭部に押し付けて、歩け、と命じた。拳銃は彼の独断でロックしてある。ステファンは目隠しされて後ろ手錠の状態だ。歩きながら、彼が文句を言った。

「私の立場はどうなるんですか? 人質だなんて、情けない・・・」
「人質は逃げる努力をするのも訓練だろう?」

 目隠しされていてもステファンは階段を躓くこともなく、上手に上って行った。
 2階ではロホとデネロスがそれぞれ南北を受け持っていた。染色用の機械の錆びたのやら、大きな穴やら、埃だらけで天井から垂れ下がっているワイヤーを避けながら、小屋の様に設けられた事務所に入った。テオは埃だらけの椅子に捕虜を座らせた。

「俺は、まさか少佐が俺のアイデアを採用するとは思わなかったんだ。」
 
 彼が言い訳すると、ステファンが憮然とした声で言った。

「彼女は、戦闘ごっこが大好物なんですよ。」

 そして小声で付け足した。

「”ヴェルデ・シエロ”はこう言うシチュエーションが大好きなんです。」
「それで遊撃班も乗ってきた?」
「連中だって大喜びですよ。」

 いきなり下の方で銃撃音が響き、テオは肝を冷やした。銃声が響いた割にはガラス等の破壊音は聞こえなかった。

「さっきの方角は、アンドレの持ち場だな・・・」
「ガラスが割れていないので、彼は銃弾を全部落とせたのでしょう。」

 つまり、文化保護担当部と遊撃班が撃ち合って、双方の弾丸を気で破壊する練習をしているのだ。確かに、この訓練は、空間の大きさから考えて本部内では無理だろう。
 次は激しい連射音。機関銃だ、とテオはゾッとした。

「もうM M Gを使っている。」

とステファンが呆れた様な声を出した。

「指揮官が指図する筈がないから、担当者が自己判断で使ったな。」
「機関銃の使用はもっと後の方が良いのか?」
「まとめて弾き返せる結界を張る練習になります。敵が結界の張り方を学習してしまうと、銃火器での攻撃は困難です。これはマハルダの訓練にもってこいだ。」

 捕虜なのにステファンは解説者になっていた。
 機関銃の連射音は数分で止んだ。きっと指揮官が射手を叱っていることだろう。

「ところで、テオ、手首が痛いので革紐を少し緩めていただけませんか?」

 ”ヴェルデ・シエロ”は金属の手錠を簡単に破壊してしまえるので、縛る時は革紐やダクトテープを使う。

「申し訳ないが、カルロ、そんなことをしたら、俺が少佐に殴り倒される。」

  その時、事務所の中にロホが駆け込んで来た。テオの前を駆け抜け、ステファンを跳び越して、入り口の反対側の壁の窓のガラスの割れ目からアサルトライフルを突き出し、10発程連射した。
 テオはロホにともステファンにともなく、尋ねた。

「少佐はこの敷地全体を結界で覆っていないのか?」

 ロホが振り返った。

「そんなことをしたら、訓練になりませんよ。誰もあの方の結界は破れないんですから。」



 

第4部 悩み多き神々     10

  大統領警護隊遊撃班の指揮官チュス・セプルベダ少佐は、文化保護担当部の遣いだと言う白人男性が持ってきた文書を読んで、吹き出してしまった。綺麗に印刷された文書にはこう書かれていた。

 本日0800より軍事訓練を行います。遊撃班のご協力を要請します。
当部署では、遊撃班所属カルロ・ステファン大尉を捕虜として拘束しております。
場所はイゲラス通りの廃棄された染色工場跡。
本日1800迄に我々から彼を奪還して下さい。出来ない場合は、次の予算審議会で遺跡監視費用の増額に賛成票を願います。
    文化保護担当部指揮官 シータ・ケツァル・ミゲール少佐

 もう1枚手紙が入っていて、そこには、肉筆の走り書きがあった。

 女を怒らせると碌なことになりません     ステファン

 セプルベダ少佐はケツァル少佐を怒らせた覚えはなかった。だから、これは姉弟喧嘩が変な方向へ発展したのだな、と思った。だがこの軍事訓練参加要請を断る理由がなかった。遊撃班は他部署から応援要請があれば応じて加勢するのが任務だ。それに、僅か5人で国内の遺跡監視業務を行なっている文化保護担当部は日頃から山賊やゲリラ相手に戦っている実戦部隊だ。都会の本部に設置された安全な施設内で訓練するだけの隊員達に、刺激を与えるのにちょうど良い要請だった。
 セプルベダ少佐は秘書に言った。

「遣いの人に、文化保護担当部の宣戦布告に応じる、と伝えよ。それから、ステファンには、くれぐれも敵に寝返るな、と告げておいてもらえ。」

 秘書が部屋を出て行くと、少佐は時計を見た。午前7時半だった。少佐は席を立つと廊下に出て、気を放った。集合の合図だ。
 各部屋から一斉に隊員達が飛び出してきた。常から集合がかかれば直ぐに出る心構えが出来ている。廊下に立った部下達に指揮官は言った。

「文化保護担当部が我が班のステファン大尉を人質に取ったと連絡してきた。場所はイゲラス通りの廃棄された染色工場だ。これから本日1800迄に彼を取り戻さねばならん。これは訓練だが、決して気を抜くな。相手は、グラダのケツァルとブーカのマルティネスだ。気の大きさは半端ではない。油断すると訓練と雖も命に関わる大怪我をするぞ。」

 大統領警護隊は想定外の訓練があっても動揺しない。廊下に緊張感が漂い、空気が凍りついた様な冷たさになった。
 誰かが質問した。

「クアコとデネロスもいるのですね?」
「スィ。」
「ギャラガも?」
「スィ。それに、厄介だが、民間人が1人参加している。白人の”ティエラ”だ。彼には絶対に怪我をさせるな。守護者としての”ヴェルデ・シエロ”の誇りを守れ。」

 隊員達が一斉に、オーッと声を上げた。少佐が声を張り上げた。

「0800開始だ。急げ!」

 忽ち遊撃班の隊員達は出撃体制に入った。車両部に走る者、武器庫に走る者、後方支援準備に入る者。
 警備班の隊員達がその慌ただしい動きに気づかない筈がない。官舎で寝ていた非番の隊員達も遊撃班が放つ強い緊張感に目を覚まされた。何が起きているのかわからないが、出動準備で走り回っている遊撃班に声を掛けて邪魔することは許されない。
 セプルベダ少佐が己の武器の装備を整えていると、当直の副司令官エルドラン中佐から内線電話がかかって来た。

ーー遊撃班が慌ただしく戦闘準備をしていると報告が入っているが、何かあったのか?

 セプルベダ少佐は真面目な顔で答えた。

「文化保護担当部が当班の隊員一名を人質に取って、本日夕刻迄に取り戻せなければ次の予算審議会の折に味方せよと脅して来ました。若い連中の訓練に絶好の機会ですから、これから相手をしてやります。」

 武闘派のトーコ中佐なら、ここで大笑いするだろうが、冷静沈着なエルドラン中佐は、暫し沈黙した。それから、質問した。

ーーミゲール少佐の真意は?

 セプルベダ少佐は辛抱強く答えた。

「土曜日の軍事訓練です。彼女流の・・・」
ーーあの緩い部署のお遊びか・・・

 中佐が吐き捨てるように言った。

ーー隊員を死なせるなよ、セプルベダ。
「承知しております。」

 エルドラン中佐は文化保護担当部の実力を承知している。日頃の勤務はセルバ流にゆるゆるなのに、週末は生死をかけたお遊びをやっている部署だ。遊撃班の訓練には格好の相手であることを理解した。
 少佐は時計を見た。

「刻限が迫っておりますので、行きます。」
ーーよし、行ってこい!

 電話を置くと、セプルベダ少佐は部屋から飛び出した。

「出撃!」


 



2021/12/18

第4部 悩み多き神々     9

  大統領警護隊はダラダラと朝食を取ったりしない。普通は。しかし、その朝は食事開始の合図を少佐が出すことはなく、テーブルに着いた人から順番に好き勝手に食べた。少佐は豆と果物だけ食べていたし、ロホはひたすら豆を愛していた。アスルの手料理をテオとデネロスとステファンは堪能したが、アスル本人は好きな物だけ選り分けて食べた。

「今日の軍事訓練は何をするんですか?」

とデネロスがサラダをモリモリ食べながら質問した。少佐はパイナップルを齧りながら考えた。そして逆に問い返した。

「貴女は何をしたいですか?」

 うーんとデネロスが考えこんだ。やりたいことは沢山ある。それが軍事訓練になるかな?と考えているのだ。過去に行ったのは、ボーリング(球を気でコントロールする)、デネロス農園の手伝い(体力作り)、隠れんぼ、鬼ごっこ、サイクリング、海水浴、ロッククライミング・・・。彼女はチラリとテオを見た。そして答えた。

「鬼ごっこ!」

 彼女と少佐の目が合った。 テオは彼女達が”心話”を使ったことに気がついた。デネロスは、どんな鬼ごっこを希望しているのかを伝えたのだ。うーん、と少佐が唸った。
 ステファンがフォークを置いた。

「ご馳走様でした。無事に夜を過ごして、皆さん、羽目も外しませんでしたから、私はこれで引き揚げます。」
「え? もう帰っちゃうの?」

 デネロスがガッカリした声を出した。少佐が言った。

「彼は任務でここにいたのですよ。」
「でも・・・」

 テオはふと不謹慎な軍事訓練を思いついたので、口に出した。

「カルロを捕虜にして遊撃班に取り返しに来させるとか?」

 一同が彼を見た。駄目だよね、とテオが笑いかけると、彼等は次にステファンを見た。ステファンが「え?」と言う顔をした。

「駄目です。」

と彼が言った。少佐が微笑んだ。テオは提案した本人であるにも関わらず、呟いた。

「本気か?」



第4部 悩み多き神々     8

  物音でカルロ・ステファンは目が覚めた。携帯を出して見ると早朝の5時半だ。彼は上体を起こした。バスルームでシャワーを使う音が聞こえた。首を動かすと横でテオドール・アルストが寝ていた。ソファの上のアスルは猫のように丸い姿勢で眠っている。
 ステファンは立ち上がり、背伸びをした。喉が渇いたのでキッチンへ行き、水を飲んだ。リビングに戻り、テーブルの前に座って残っていた料理を摘んだ。それからバスルームに行った。このアパートの良い所は、お風呂とトイレが別の部屋になっていることだ。そして浴室も広いので3人ほどで一度に使用出来る。彼はシャワーの音を聞きながらトイレを使った。再びリビングに戻ると、先に寝落ちしていたアスルが目を覚ましてソファの上で背伸びをしていた。敬礼で朝の挨拶に替えると、彼は交代でトイレに行き、戻ってくるとキッチンに入った。
 バスローブに身を包んだケツァル少佐が姿を現した。濡れた髪もタオルで包んで、彼女はリビングを通り過ぎ、キッチンへ行った。アスルに指図した。

「朝は作る必要ありません。昨晩の残り物を片付けましょう。」
「適当にアレンジしますよ。」

 アスルは何か作りたいようだ。少佐はそれ以上意見せずに、任せます、とだけ言った。そしてリビングに戻り、床の上のテオを見下ろした。

「どうしてこの人がここに落ちているのです?」
「ここで構わないと思ったからでしょう。」

 ステファンは使用済みの皿やグラスを片付けながら言った。彼は姉が何も覚えていないのだと気がついて、言い添えた。

「貴女を寝室へ運んだのは私ではありませんから。」

 ちょっと空気がピリッとした。ケツァル少佐が・・・恥じらった。

「そうですか。」

と彼女が呟いた。

「貴方に任せたつもりだったのですが。」
「私は貴女の子守りではありません。」

 彼女は弟をちょっと睨んでから、寝室へ戻って行った。
 キッチンからアスルがやって来て、アレンジしたい料理の皿を持って行った。ステファンも片付けを手伝い、少佐が着替えて戻って来るとテーブルの上は綺麗に整理されていた。

「煮豆は要りますか?」
「あれば中尉が喜ぶでしょう。」
「冷蔵庫に作り置きがあるので、全部出してもらっても結構です。」

 美味しそうな匂いが漂い始めると、テオが目を覚ました。床の上で寝たので、体が硬っていた。彼が肩や腕を動かしている間に、早起きの3人が朝食の支度を整えた。
 デネロスが起きてきて、テーブルを見ると大急ぎでバスルームへ駆け込んだ。朝ごはんの前に身支度してしまうつもりだ。つまり、朝食準備を手伝うつもりはないらしい。
 テオは客間へ行った。ドアを開けると、中の人は2人共まだ眠っていた。ロホはベッドで、ギャラガは昨夜アスルが言った通り、床の上で寝袋に入って寝ていた。テオはちょっと考え、それから少佐の真似をして声を上げた。

「起床!」

 ロホがバッと上体を起こした。ギャラガも体を起こそうとして、寝袋だったので動けずに転がった。テオは、ごめんよ、と言った。

「”シエロ”に不意打ちを食らわせられるって、滅多にないからな。」


第4部 悩み多き神々     7

  日付が変わってからデネロスは少佐の寝室へ去って行った。テーブルの上の食物は痛みやすい物を冷蔵庫に入れたが、あとはそのままだ。
 テオは結局客間に行かずにリビングのカーペットの上に横になった。ケツァル少佐はリビングにあまり装飾品を置いていないが、クッションだけは沢山あって、その一つを枕代わりに使った。見張りだと言いながらも、横にステファン大尉も寝転がった。2人で夜空ならぬ天井を見上げて並んでいた。カルロ、とテオは囁きかけた。ステファンが返事はしないで顔だけ彼の方へ向けた。

「少佐とは結婚しないのか?」

 ステファンが微かに笑った。

「彼女はもう私を弟としか見てくれません。事実そうですし。母もグラシエラも古い慣習には抵抗がある様です。週明けにイェンテ・グラダに行った時、私達の血が濃過ぎることを実感しました。血が濃すぎた為に、私達の親族は己を制御出来ずに皆殺しにされた。同じ轍を踏むことを、彼女は恐れているのです。それがわかった時、私も吹っ切れました。彼女を超える女性に出会えるか、それはまだわかりませんが、もう彼女を女として見るより、姉と上級将校と言う存在でしかないです。」

 そしてテオに釘を刺した。

「だからと言って、貴方が彼女を手に入れようとしたら、私が厳しい審査官になりますからね。兄弟が姉妹の婚姻相手を吟味するのは当然でしょう?」
「おっかないなぁ。」

 テオは天井を見上げて笑った。 

「そんな兄貴が家にいたから、グラシエラが雨季休暇の間仏頂面していたんだな。」
「ああ、グラシエラ・・・」

 ステファンは暗がりの中で顔を顰めた。

「少佐より彼女の方が心配です。オルガ・グランデのスラム街で鍛えられていると思いますが、グラダ・シティは色んな男がいますから。」

 テオはソファの上のアスルを起こさないよう気を遣いながら笑った。
 なんとなく、抱き枕が欲しくなってきた。だから言った。

「君を抱いて寝たいな。」
「え?」

 ステファンがギョッとなったので、彼はまた笑った。

「今の姿の君じゃない、ジャガーの君だよ。オルガ・グランデの坑道の中で君のナワルを抱き締めた時の、毛皮の手触りが素晴らしかったんだ。艶々で柔らかくて・・・君のナワルしか触ったことがないんだ。ロホは目で見ただけだったし、他の人のはまだ見たことがない。」
「煽てても変身しません。」

 ステファンが背中を向けてしまった。本気で眠るようだ。それで報告書が書けるのか?と思いつつも、テオも瞼を閉じた。

第11部  紅い水晶     19

  2台目の大統領警護隊のロゴ入りジープがトーレス邸の前に到着した時、既に救急車が1台門前に停まっていた。クレト・リベロ少尉とアブリル・サフラ少尉がジープから降り立った。2人は遊撃班の隊員で、勿論大統領警護隊のエリートだ。サフラ少尉が一般にガイガーカウンターと呼ばれる放射線計測器...