テオが午後8時にバスターミナルでオルガ・グランデ行き長距離バスに乗り込み、出発を待っていると、最後の客達が慌ただしく車内に駆け込んで来た。早口のスペイン語が飛び交い、運転手が「出発!」と怒鳴った。平日だが座席は満席に近く、テオは座席と脚の隙間に無理矢理荷物を押し込んでいたので、ひどく窮屈だった。しかし、このバスはいつもこんな状況だ。バスが揺れながら動き出した。客はまだ蠢いていた。少しでも座れる余裕があれば体を押し込もうとする人や、荷物を網棚に押し上げる人、知り合いに出会って喋り出す人。窓は開いていた。押し出されないよう、気をつけなければならない。
人間の波を掻き分ける様にして、一人の女性が通路を進み、テオのそばへ来た。甘い香りがツンと鼻に刺激を与え、周囲からクシャミの声が上がった。
「オーラ、ドクトル・アルスト!」
聞き覚えのある声に呼びかけられ、テオは通路へ顔を向けた。シエンシア・ディアリア誌のベアトリス・レンドイロ記者が立っていた。
「オーラ、セニョリータ・・・」
レンドイロと話すには、隣の席の老人越しになる。老人は女性に席を譲るつもりなどさらさらなく、テオもレンドイロに席を譲るつもりはなかった。意地悪ではなく、動けないのだ。老人も足元に大きな荷物を置いており、もしテオが彼より先に降車したければ、その荷物を乗り越えて行かなければならない。
「海に潜るんじゃなかったんですか?」
テオが尋ねると、レンドイロは肩をすくめた。
「それは雨季明けになるでしょう。モンタルボ教授の動きは遅いです。私はオルガ・グランデに行きます。」
ジャーナリストに取材予定を尋ねても正直に答えないだろう。小さなマイナー雑誌でも、情報源は貴重だ。他人に無闇に明かさない筈だ。
「ドクトルは研究旅行ですか?」
と彼女が訊いて来たので、テオは「ノ」と答えた。
「雨季休暇の帰省です。親の家に帰るんですよ。」
「あら・・・」
レンドイロは白人のテオを眺めた。この人は元アメリカ人だった筈、と言う彼女の心の声が聞こえた気がした。
その時、テオの隣の老人が大きなクシャミをした。レンドイロがつけている香水のせいだ。神様を見つける香水。テオは老人を見た。ひょっとしてこの人も”ヴェルデ・シエロ”を先祖に持つのか? 彼は老人に声をかけた。
「大丈夫ですか?」
「平気だ。」
老人は手で鼻を擦った。そしてテオを見た。
「親のところに帰るのか?」
「スィ。親父がエル・ティティに住んでいるんです。」
「エル・ティティの警察署長が白人の養子を採ったと聞いたことがある。あんたのことか?」
「スィ。ゴンザレス署長は俺の親父です。」
老人がニッコリ笑った。
「すると、会計士の代書屋をしているのも、あんたか?」
「スィ、スィ。」
老人がテオの手を掴んで揺すった。
「儂は会計士のカルロスの親父の友人だ。あんたのお陰で仕事が捗って、連中は喜んでいるぞ。」
「そりゃどうも・・・」
老人の世間話に引き込まれ、テオは雑誌記者の存在を忘れた。
やがて早朝にアスクラカンに到着すると、大半の乗客が降りて行った。テオも一旦バスから降りて、トイレ休憩をして、朝食を売店で買った。バスに戻ると、乗客の数は6割程になっていた。新しい客もいたから、半数は降りたのだ。レンドイロ記者は発車時刻になっても戻らなかった。オルガ・グランデに行くと言っていたが、何か用事でも出来たのだろうか。バスが動き出した。