2021/08/28

第2部 節穴  7

  アンドレ・ギャラガは所謂「普通の家」で暮らした経験がなかった。幼い頃はあったのだろうが、朧げな記憶しかない。父が死んだ後は母と2人でスラム街の掘立て小屋に住んでいた。それも1箇所ではなく、頻繁に家移りした。街娼をしていた母親が警察の摘発を逃れて場所を移動していたと知ったのは、軍隊に入ってからだ。母親の仕事が犯罪の部類に入るのだと知ったのも軍隊に入ってからだ。
 一張羅とも言える綿シャツ、ジャケットとジーンズに着替え、軍靴からスニーカーに履き替えて、ステファン大尉と共に大統領警護隊本部から外に出た。休暇はいつも一人で海岸へ行ってぼーっと過ごしていたので、目的があって外出したのは初めてだった。ステファン大尉はTシャツにジャケット、ジーンズで靴は高そうなトレッキングシューズだった。2人共拳銃は装備していた。これは休日でも持っていなければならない。大統領警護隊の義務だった。”ヴェルデ・シエロ”は超能力を持っているが、他人をその能力で傷つけることは禁止されている。敵に襲われた時に防御で用いるだけで、戦闘には普通の人間同様に武器を用いる。一度他人を超能力で傷つけると歯止めがきかなくなる。だから可能な限り使わない。それが彼等の良識だった。
 塀の外に出ると、大尉は何も言わずに歩き出した。ギャラガは大人しくついて行くだけだ。グラダ・シティに住んで長いが、街のことを何も知らない。恐らくグラダ・シティ生まれなのだろうが、地元っ子の自覚がなかった。ステファン大尉の言葉には微かに地方の訛りがある。遠くから来たと思われるが、大尉は地元っ子の様に通りをどんどん歩いて行った。土曜日の午後だ。街は賑わっていた。観光客が多い。白人も黒人も東洋人もアラブ人も歩いている。セルバ共和国の東海岸はリゾート地なのだ。
 ステファン大尉は最初に街角のATMで現金を下ろした。次に入った店でプリペイド方式の携帯電話を2つ購入して、1つをギャラガに渡した。領収伝票はギャラガに渡して、「失くすな」と命じた。

「後で必要経費で財務部からもらうからな。」

 それなら自分で保管すれば良いのに、と思ったが、ギャラガは黙っていた。ステファン大尉がしていることは、己にとっても将来の仕事の手本なのだ。それを彼は理解していた。
 大統領警護隊の中ではメスティーソは目立つ部類だったが、街中に出てしまうと自然に溶け込んでしまった。セルバ人の多くがメスティーソなのだ。
 バスに乗ったのは休暇以外で初めてだった。海ではなく市内を巡回する路線バスだった。10分ほど乗って、セルバ国立民族博物館前で降りた。観光客が屯する博物館前広場を横切り、階段を上ってチケット売り場へ行った。そこでステファン大尉はパスケースに仕舞っておいた緑の鳥の徽章を職員にチラリと見せた。

「大統領警護隊警備第2班のステファンと警備第4班のギャラガだ。ムリリョ館長はいらっしゃるか?」

 職員は徽章を見て不安そうな表情になった。大統領警護隊が博物館にやって来るなんて、どんな用事だろうと思ったのだ。文化保護担当部ならわかる。あの部署は時々遺跡の彫刻や壁画の意味を勉強しにやって来るから。しかし警備班の訪問は初めてだ。

「館長はいらっしゃいますが・・・」

 答えかけて、彼女は相手が旧知の顔であることにやっと気がついた。

「文化保護担当部の大尉?」

 ステファン大尉が頷いた。

「元、になるが、大尉のステファンだ。」
「それならそうと言って下さい。すぐ館長に連絡します。」

 セルバ共和国はコネが大事だ。

1 件のコメント:

Jun Tacci aka ねこまんま さんのコメント...

セルバ共和国だけでなく、開発途上国ではコネと金が力を発揮するのは悲しい現実なのだそうだ。

第11部  紅い水晶     18

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