2021/11/30

第4部 嵐の後で     11

  テオはてっきり大統領府の近くの国防省ビルへ行くのかと思ったが、ケツァル少佐のベンツは大通りを走り、そのまま南へ向かって走り出した。

「ええっと・・・何処へ向かっているのか、訊いても良いかな?」

と声をかけると、ケツァル少佐が運転しながら答えた。

「ロカ・ブランカです。」

 グラダ・シティとプンタ・マナの中間地点よりややグラダ・シティ寄りのビーチだ。テオの知識では観光客向けと言うより寧ろ地元民向けの海水浴場がある村だった筈だ。綺麗な砂浜があるが、飲食店やシャワーの設備はない、着替えの為の小屋だけが貸し出されている浜辺だ。泳いだ人は、体を洗わずに服を着て帰る。水着の上にそのまま服を着て帰る人もいる。遠方からの客はいないから、それで良いのだ。荷物の管理は自分でしなければならないし、ビーチの監視員もいないから、外国からの観光客は滅多に来ない。偶に白人や外国人らしき人を見かけても、大概は地元に住み着いている人だった。白い大きな岩がビーチから100メートル程沖にあり、それが地名になっていた。その岩も日が暮れた後に行けば見えないだろう。
 
「ロカ・ブランカに病院も憲兵隊の駐屯地もなかったよな?」

とテオが確かめると、ロペス少佐が前を向いたまま首を振った。

「ありません。しかし警察署はあります。」

 どうでも良いけど、とテオは胸の内で呟いた。晩飯はどうするんだ?
 軍人2人はそんな彼の心配など思いつかない様子で、全く別の話を始めた。ケツァル少佐が最初に質問した。

「式は何時挙げるのです?」
「雨季が明けたら。」

とロペス少佐が答えた。

「教会で?」
「スィ。その方が彼女も喜ぶ。伝統的な部族の結婚式は馴染まないだろうから。」
「貴方の親族はそれで納得しているのですか?」
「私の親族は父が残っているだけだ。広い意味での親族を考えればキリがない。それに彼女の方の親族も1人だけだ。」

 彼はケツァル少佐に顔を向けた。

「立会人になってくれるかと言う依頼の返事をまだもらっていないが?」

 ああ、とケツァル少佐が曖昧な返事をした。そして言った。

「彼女の親族の了承を得ないと、返事を差し上げにくいです。」

 ロペス少佐は結婚するのか、とテオは思った。既婚者だとばかり思い込んでいたが、独身だったのだ。それで、彼は声をかけた。

「ロペス少佐、結婚されるのですね。おめでとうございます。」

 少し奇妙な間を置いて、ロペス少佐が前を向いたまま、グラシャスと返事をした。するとケツァル少佐が彼に言った。

「ここで了承を得ておきなさいよ。」
「ここで?」

 とテオとロペスが同時に声を発した。しかしニュアンスは全く違った。ロペス少佐は「こんな場所と場合に?」だったし、テオは「何故ここで彼が婚約者の親族に了承を得なければならないんだ?」と思ったのだ。
 ケツァル少佐がベンツを道端に寄せて停めた。そして助手席のもう1人の少佐に言った。

「早く!」

 訳がわからないテオは、ロペス少佐が車外に出るのを眺めた。そして、少佐が後部席に入ってきたので、驚いた。
 シーロ・ロペス少佐はネクタイを直し、軽く咳払いして、テオに向かい合った。そして言った。

「私とアリアナ・オズボーンとの結婚を了承して頂きたい。」
「え?」

 テオは直ぐに理解出来なかった。暗い車内で、金色に光る”ヴェルデ・シエロ”の目を見つめた。そして、徐々に事態を理解した。彼は大声を出した。

「ええっ!!」



第4部 嵐の後で     10

  店の外に出ると、ロホとギャラガが待っていた。テオに夕刻の挨拶をしてから、ロホはアリアナには「お帰りなさい」と言った。そして直ぐにケツァル少佐からの指示を伝えた。

「ちょっと国防省からテオに仕事の依頼が入りました。それで少佐が案内されます。」

 彼はアリアナに顔を向けた。

「貴女は私が少佐のアパートまでお送りします。今日の午後から家政婦が出て来ているので、お食事の心配はありません。」
「俺の車は?」

とテオが尋ねた。

「少佐の車で俺は国防省へ行くのだと思うが・・・」

 するとアスルが口を挟んだ。

「俺があんたの車で帰る。」

 デネロスとギャラガは普段通りバスで大統領警護隊本部へ帰るのだ。テオは素直にアスルに車のキーを渡した。キーがなくても彼等はエンジンぐらいかけられるが、ここは普通にキーを使って欲しかった。アリアナはギャラガとは初対面だった。ロホが2人を紹介して、挨拶の遣り取りが始まった。
 そこへ少佐がベンツを運転して路地から出てきた。停車したベンツを見て、テオは「あれ?」と思った。助手席に男性が乗っていた。アスルが先刻言及した「客」だが、テオがよく知っている男だった。

「ロペス少佐じゃないか。」

え?とアリアナも振り返った。彼女の顔に当惑の色が浮かんだが、すかさずデネロスが彼女に囁いた。

「ロペス少佐も国防省からお呼びがかかってます。呼ばれているのは、ロペス少佐とテオの2人なんです。」

 大統領警護隊の隊員で外務省で移民・亡命審査官として勤務しているシーロ・ロペス少佐は事務方でずっと働いてきた人だ。ケツァル少佐が、「彼は随分長い間銃を扱ったことがないのではないか」と揶揄した程、ビジネススーツとアタッシュケースが似合う男性だ。純血種の”ヴェルデ・シエロ”で、テオは彼がどの部族なのか聞いたことはないが、恐らくブーカ族だろう。一族の中で一番人口が多く、大統領警護隊の隊員の多くは純血種、メスティーソを含めて殆どがブーカ族だ。つまり、ロペス少佐は戦闘から遠い場所で働いているが、超能力はかなり強いのだ。とても落ち着いて見えるし、真面目な人なので年嵩に思えたが、デネロスから聞いた話ではまだ30代前半だそうだ。
 テオは亡命して最初の1年間観察期間に置かれていた。度々文化保護担当部の友人達と事件に巻き込まれたり、遊びに行ったりして羽目を外し、ロペス少佐から叱られたことがよくあった。だから、観察期間を満了させて晴れてセルバ市民になった今でも、この男性少佐がちょっと苦手だ。
 クラクションが鳴り響き、テオは我に帰った。運転席のケツァル少佐が、早く乗車しろと鳴らしたのだ。彼は慌ててロホや他の友人達に「また明日!」と挨拶して車に向かって走った。
 助手席が塞がっているから、後部席だ。車内に入ってドアを閉めると、直ぐにケツァル少佐はベンツを出した。
 テオは前を向いたままのロペス少佐に後ろから声をかけた。

「ブエナス・ノチェス、ロペス少佐。」

 ロペス少佐は挨拶を返してくれたが、振り返らなかった。典型的な”ヴェルデ・シエロ”の神様態度なので、テオは気にせずに質問した。

「国防省の仕事って何です?」
「わかりません。」

と素気なく答えてから、それはやはり失礼だろうと思い直したのか、ロペス少佐は前を向いたまま言った。

「ハリケーンで遭難した船の乗員の身元調査に関する事案だと思います。」

 ああ、とテオは少しだけ理解した。

「俺はD N A鑑定でも依頼されるんだな。だけど、移民や亡命者の審査をする貴方がどうして呼ばれるんです?」

 ロペス少佐は直ぐに答えなかった。するとケツァル少佐が彼に尋ねた。

「遭難者は密入国者の疑いがあるのでしょう?」

 ロペス少佐が溜め息をつく音が聞こえた。

「この事案が国防に関することなのか、治安に関する外務の仕事なのか、まだ上は判断つけかねている様だ。」
「遭難船は何処の船です?」

 テオの質問に、初めてロペス少佐が振り返った。

「どの国籍の船か手がかりになるものが一つもない。故に憲兵隊はスパイ活動か犯罪を試みた組織ではないかと疑っている。」
「乗員は生きているんですか、それとも・・・」
「船と言うか、救命筏ですが、中に死者が1名、生存者2名がいました。生存者の1名は低体温症で救助後に死亡、1名はまだ意識が戻りません。ですが・・・」

 彼は前に向き直った。

「生きている男は白人です。」



2021/11/29

第4部 嵐の後で     9

  民間企業などは午後7時まで仕事をしている国だが、省庁は6時で閉庁になる。カフェで時間を潰しているテオとアリアナの所へ最初に現れたのはアスルとデネロス少尉だった。デネロスはアリアナと仲が良い。アリアナが初めてセルバ共和国に来た時以来の付き合いだ。それにデネロスの英語の論文指導をしたのもアリアナだったので、この2人は師弟関係でもあった。既にアリアナの帰国を知っていたデネロスは(女性達はメールや電話で常に情報交換していたのだ。)、テオ達のテーブルに真っ直ぐやって来た。アリアナが立ち上がって彼女を迎えると、2人はハグし合った。テオはデネロスの後ろからゆっくりやって来るアスルを見た。
 以前アスルはアリアナに片思いしていると文化保護担当部の仲間内では噂になっていた。”ヴェルデ・シエロ”達は仕事やプライベイトで”心話”を使うことが多いが、この超能力はちょっと厄介な問題があって、個人的な思考も相手に伝えてしまうことが偶にあるのだ。使い手は幼少期に親から情報をセーブすることを教えられるのだが、精神的に弱っていたり、酒に酔ったりした時にうっかり心の底にしまってある私的感情を他人に伝えてしまう「事故」だ。アスルは普段は寡黙な男なのだが、アルコールに弱い。飲み会でうっかり先輩達に初恋を読まれてしまったのだ。揶揄われたりしていたが、結局アスルが自分から告白することはなく、アリアナはメキシコで働くためにセルバを離れた。あれから一年半経った。
 前夜、テオはアスルにアリアナの帰国を伝えた。アスルは反応しなかった。ふーんと言った感じで、何もコメントしなかった。もう恋の熱は冷めたのか、とテオはちょっぴり安堵した。アリアナはアスルより9歳年上だ。それに遺伝子操作されて生まれた人間だ。テオは彼女と超能力を持つ”ヴェルデ・シエロ”の間に子供が出来る場合を想像すると、不安を感じざるを得なかった。普通の人間と”ヴェルデ・シエロ”との間のミックスの子供達は、親に負けない強さの超能力を持って生まれてくる。だが彼等は純血種と違って親に教わらなければ超能力を使いこなせない。純血種の様に生まれながらに自由に使える訳ではないのだ。
 自分達の様な遺伝子操作された人間と”ヴェルデ・シエロ”の間に生まれる子供は、どんな能力を持って来るのだろう。自分達親は子供を上手く教えることが出来るのだろうか。
 テオはそれを考えると、ケツァル少佐に愛の告白をするのを躊躇ってしまう。少佐も何か不安を感じているのか、彼に親しい振る舞いをしても一線を越えようとはしない。
 もし、アスルがアリアナへの恋を過去のものにしてしまったのであれば、それはそれで良い、とテオは思うのだ。アスルには彼女よりもっとふさわしい女性がいくらでもいる。
 ハリケーン接近時のフライトはどうだったと尋ねるデネロスの横をアスルは通って、テオのそばに来た。そしていつものぶっきらぼうな口調で言った。

「あんたに客が来ている。」
「客?」
「もうすぐ上官達が連れてくる。」

と言ってから、彼は付け足した。

「客も上官だ。」

 つまり、大統領警護隊の隊員だ。アスルは少尉だから、「上官」は中尉以上の将校だ。一瞬カルロ・ステファン大尉かと思ったが、それならアスルははっきり名前を言う。ステファンは元文化保護担当部所属でケツァル少佐の副官だったのだ。
 店の入り口に、文化保護担当部の末席にいるアンドレ・ギャラガ少尉が現れた。テオが彼に気づくと、ギャラガが腕を振って、来いと合図した。目上の人に対して失礼な振る舞いだが、店内は賑わっており、大声を出す訳にもいかないのだ。テオはアリアナやデネロス、アスルに声をかけた。

「店から出ろってさ。少佐の命令だな。」


第4部 嵐の後で     8

  セルバ人はハリケーンに慣れている。次の日には電力問題もすっかり解消されて、グラダ・シティは日常を取り戻していた。海がまだ荒れているので漁業の方はまだ数日お休みになるだろう。テオはグワマナ族のデルガド少尉の実家は大丈夫だろうかと心配した。ゲンテデマと呼ばれる漁師だったら、暫く仕事が出来ないだろうと言うと、アスルは心配ないと言った。

「あいつは泳ぎは得意だが、漁師の子供ではない。俺の記憶が正しければ、あいつは土産物屋の子だ。」

 それはまた意外だった。精悍な顔つきと敏捷な身のこなし、己より強い力を持つ敵に怯まず対峙する勇敢な若者エミリオ・デルガドが、土産物屋の息子? テオはもう少しで笑いそうになって慎んだ。土産物屋だって立派な職業だ。欧米の観光客は人形などの民芸品や伝統工芸品を喜んで購入する。南の楽園セルバ共和国のリゾートの記念として。しかし、デルガド少尉が土産物を白人相手に売っている姿をどうしても想像出来なかった。
 大学に学生達が戻って来て、新学期がまだ始まっていないのに活気が蘇った。進級が決まった学生達は熱心で次の教室や研究に移動する準備を始めたし、落第した学生は敗者復活戦になる次の試験期間に向けて既に勉強を始めていた。セルバ人で真面目なのは、子供や若者達だ。この情熱を大人になっても失わないで欲しい、とテオは願った。
 アリアナ・オズボーンは医学部に帰国報告に行った。テオは彼女がグラダ大学の医学部で研究者として働くものと思っていたが、その日の夕刻に出会った時、彼女は大学病院の小児科病棟で医師として実務に抵ると告げた。メキシコでの実績を買われて正式にセルバ共和国の医師免許を取得したと言う。テオは彼女に関して彼が知らないところで物事がどんどん進んでいるような気がした。

「それで? 今夜も少佐のアパートに泊まるのか?」
「スィ。でも明日は出て行くわ。大学の職員寮に空き部屋があると聞いたので、今日早速手続きして来たの。」
「セキュリティは良くないぞ、職員寮は出入りが自由だ。」
「私は大丈夫よ。それにまたすぐに別の場所へ移る予定だから。」

 彼等は文化・教育省が入っている雑居ビルの1階にあるカフェテリア・デ・オラスにいた。アリアナはケツァル少佐を、テオはアスルを待っていた。アスルが必ずしも彼の家に帰るとは限らないが、一応省庁が業務を終える時刻に来て10分だけ待つと言う約束ができていたのだ。アスルは車もバイクも持っていない。テオの車に乗らなければ、彼なりの方法で帰って来るだけだ。

「別の場所って?」

 テオはアリアナが昨日出会った時から奥歯に物が挟まった様な話し方をすることが気になった。何か隠しているのか? 
 アリアナがミルクラテのカップを持ち上げて一口飲んでから、言った。

「本当に鈍感なのね、貴方は。」
「はぁ?」

 彼女はカップを置き、左手の甲を彼の方に向けて掲げた。薬指に金色の指輪が光った。石は付いていない。しかし、指輪が持つ意味はテオに伝わった。彼はぽかんと口を開け、それから我に帰って尋ねた。

「婚約指輪?」
「スィ。」
「相手は?」

 アリアナはフフっと笑った。

「貴方が知っている人。」


2021/11/28

第4部 嵐の後で     7

  セルバには、欧米のようなスーパーマーケットはないが、大きな建物の中にいろいろな店舗が入っているメルカド(市場)がある。テオは研究室の片付けを終えると、大学のカフェがまだ休業していたので、街に出た。一番近いメルカドへ行き、入り口でカートを調達すると、それを押しながら中を歩いた。ハリケーンの影響で海鮮を売っている店は閉まっていたが、八百屋や精肉店は既に店を開けていた。馴染みの店で値段交渉をして、揚げパン屋で昼食を済ませた。その日の夕食の食材を調達した。アスルが作るか彼自身が作るか、それは関係ない。その日食べる物を買うだけだ。支払いを済ませた商品をカートに入れて行く。未払いの物はカートに入れてはいけない。それがセルバのルールだ。
 3軒ある果物屋の中で一番大きな店の前で、アリアナ・オズボーンとバッタリ出会った。正直なところ、テオは驚いた。

「帰国は明日じゃなかったか、アリアナ?」

 アリアナがちょっと顔を顰めた。

「会うなり最初の言葉がそれ?」

 そして説明した。

「カンクンのアパートを引き払って飛行機に乗るまでホテルに泊まるつもりだったの。でもハリケーンが来るって言うので、満室になってしまったのよ。途方に暮れかけたら、今度はキャンセル待ちを入れておいた二日早い便に空席が出来たって航空会社から連絡が入ったの。乗らないとハリケーンが来てしまうでしょ? 泊まる所もないのに。だから乗っちゃいました。」
「すると、グラダ空港に着いたのは昨日か?」

 テオは呆れた。一番風雨が強かった時ではないのか? 

「風が出る直前に到着したのよ。」

とアリアナがちょっぴり自慢げに言った。

「でも雨がひどくなって、タクシーも来ないし、こっちのホテルも塞がってしまったから、どうしようかとターミナルビルの出口で迷っていたら、女神様が通りかかったの。」

 テオは黙って彼女の顔を見つめた。気のせいか、アリアナは彼が最後に彼女を見た時より逞しく見えた。以前は不安と不満に苛まれて頼りない雰囲気だった。孤独感と焦燥感で心から疲弊して見えた。しかし、一年半のメキシコでの一人暮らしで、彼女は強くなって戻ってきた感じだ。
 テオが黙っているので、彼女は種明かしをした。

「ケツァル少佐が仕事を早退きして、市内を巡回していたの。何処かに守護の不具合が出ていないかチェックしていたんですって。彼女が先に私を見つけて、車を止めてくれたの。貴方と同じように、帰国は2日後の筈では?って聞かれたので、さっきの説明をしたら、うちに来なさいって言ってくれたの。それで彼女の車に乗せてもらって、市内巡察を付き合って、そのまま彼女のアパートへ行って、泊めてもらった訳。」
「俺に連絡をくれれば、迎えに行ったのに。」

とテオは言ったが、内心は少佐に感謝していた。彼の家にはアスルとデルガドがいたのだ。アリアナの場所がない訳ではなかったが、狭い家に4人でハリケーンをやり過ごすのはそれなりに気苦労があったかも知れない。第一アリアナとデルガドはまだ会ったことがないし、アスルは以前アリアナに片思いをしていた。(今はどうなのか、不明だが。)
 アリアナは肩をすくめた。

「懐かしくて、2人でお喋りに夢中になって忘れたのよ。」

 彼女はテオのカートを見た。

「たくさん買うのね。」
「同居人の分も買ったからね。」

 ああ、とアリアナは以前電話で聞いたアスルの下宿の件を思い出した。

「要するに、私の居場所がない訳ね。」
「済まない。君の新しいアパートを探すつもりでいたら、ハリケーンが来たんで忘れてしまった・・・」

 テオもアリアナのカートの中身を見た。大量の野菜と果物と肉の包みが入っていた。これは現在の「家主」の食べる分だろう。

「今夜も少佐のアパートに泊まるのかい?」
「スィ。まだ家政婦さんは来られないのよ。子供の学校が再開されるまで家にいるのですって。だから、私が家事を引き受けたの、宿泊費の代わりにね。」
「少佐は、今・・・」
「今日は一日寝ているわ。昨夜祈祷して疲れたんですって。大統領警護隊って、自然災害の時は祈祷も任務になっているのね。」

 アリアナが遠くを見る目になった。テオは彼女がカルロ・ステファンを思い出したのかと思ったが、実際はそうではなかったと後で知らされることになる。


 

2021/11/27

第4部 嵐の後で     6

  暢んびりした朝食を済ませた後、後片付けをした。その頃にやっと停電が解消した。首都なので、電力会社が大急ぎで電線を復旧させたのだ。少なくとも、国の経済を動かしているセレブが多く住む西サン・ペドロ通りの電力を復旧させれば、電線がつながっている隣の東サン・ペドロ通りもテオの家があるマカレオ通りもその恩恵に預かれるのだ。
 テオは身支度をして、車にアスルとデルガドを乗せて家を出た。同じマカレオ通りの北地区に住むロホのアパートは電力が復活しただろうかと思いながら、車を走らせた。
 路上にはいろいろな物が落ちていた。住民が後片付けをしたり、電力会社の工事車両が点検に回っているのを見ながら、ゆっくりと市街地に入った。
 冠水していた幹線道路も水が引いた。テオは文化・教育省が入居している雑居ビルの前に車を停めた。アスルとデルガドが降りた。デルガドが「グラシャス」と挨拶して、バスターミナルの方向へ歩き出した。アスルは文化・教育省へ入って行った。入り口の番をしている女性軍曹は今朝も出勤済みだ。彼女はどこに住んでいるのだろう、とテオはふと気になった。軍人だから基地で寝起きしている筈だが。
 車を出して、大学へ行った。大学の門は開いていた。暴風雨の後片づけに来た職員の車が駐車場に数台停まっていた。まだ多くの教室は休みを決め込んでいるようだ。テオの研究室は、窓ガラスは無事だったが、隙間から水が侵入していた。壁に滲みがあり、窓際の机には水溜りができていた。テオは拭き掃除で午前中を潰した。

 エミリオ・デルガド少尉はバスターミナルで小一時間待ってから、プンタ・マナ行きのバスに乗車出来た。バスは案外混んでいて、彼はリュックサックを前に抱え込んだ。鮨詰めのバスや列車は中南米では珍しくない。いつもの帰省で彼は慣れていたので、出来るだけ窓が開いた場所に立ち、座っている人の存在を無視して通路を塞ぐ群れに加わった。そして立ったまま目を閉じた。
 バスは南へ向かう基幹道路を走った。路面の汚れは都市部よりマシだった。飛んで来る物が少なかったのだろう。バスの車内はお喋りの声で賑やかだった。この分だと昼過ぎにはプンタ・マナに到着するだろうと、誰もが思っていると、バスの速度が落ちた。
 デルガドは後方からサイレンの音が近づいて来ることに気がついた。バスや周囲の車が速度を落とし始めたのは、緊急車両に左端の車線を譲るためだ。軽い渋滞が発生し始めた。
 デルガドは窓の外をパトカーや陸軍の憲兵隊車両が走って行くのを見た。救急車も走って行った。
 事故か?
 バスの乗客達の中に不安が広がった。道路の先で事故が発生していたら、そのうち車の流れが止まってしまうだろう。そうなったら、この蒸し暑い鮨詰めのバスの中で封鎖が解けるまで待たねばならない。デルガドは実家へ夕刻までに着かないのではないかと心配になった。野宿は構わないが、このバスの中で立ったまま一晩寝るのはごめんだ。そうでなくても昨夜は徹夜で祈って、ナワルも使って疲れているのだ。
 幸い、バスは停止することなく、低速で進み続けた。
 道路が海岸に最も近づく地区に入り、そこで乗客達は緊急車両の目的地が砂浜だと知った。道路から脇道に入り、ビーチに降りられる場所がいくつかあるのだが、その内の1箇所に先ほどのパトカーや憲兵隊車両や救急車が集結していた。地元の人々も集まっているのが見えた。
 なんだろう?と乗客達の視線が海岸に注がれた。誰かが声を上げた。

「難破船だ!」

 大型船舶の姿は見えなかった。バスからは波打ち際に集まって何かを引き上げる警察官や地元民の姿が見えただけだった。ハリケーンに巻き込まれて遭難し、浜に打ち上げられた人がいるのか、とデルガドは思った。セルバの漁師はハリケーンが近づいている時に出漁したりしない。外国船だろう、と彼は思った。

2021/11/24

第4部 嵐の後で     5

 ハリケーンが過ぎ去った後の朝は清々しい・・・ものではない。空気は湿気を持ち去られてサラッとしていたが、地表はゴミや木の枝や飛んできた得体の知れない物で汚れていた。
 テオは掃き出し窓の鎧戸を取り外し、朝日を室内に入れた。風を家の中に通した。
床のカーペットの上で横になっていたアスルとデルガド少尉が起き上がった。何故か2人とも上半身に何も着ていなかった。アスルが顔を手で擦りながら言った。

「少し太ったんじゃないか、マーゲイ?」
「そんなことはない。」

 デルガドは傷ついた様な表情になった。
 テオは朝食の支度をするためにキッチンに入った。電気はまだ復旧しておらず、冷蔵庫の中の傷みやすい食材で急拵えのごった煮スープを作った。 いつも彼より早く起きて朝食の支度をしている筈のアスルが、窓を開ける迄寝ていたのが意外だった。まさか徹夜でチェッカーをした筈はないだろうし。
 鍋を見ていると、アスルがまだ喋っていた。

「昨夜の君のマーゲイは以前より大きくなっている様に見えた。」
「そんなことを言われたのは初めてだ。」
「普段はナワルを使わないから、誰もわからないんだ。君の能力が増大している証拠だ。」
「増大するとどうなるんだ?」

 デルガドの声に不安の響きが入った。テオも気になって耳を澄ませてしまった。
 アスルがしたり顔で言った。

「そのうち太ったマーゲイになる。」

 おい、止めろ、とアスルが怒鳴ったので、きっとデルガドにクッションで叩かれたのだろう。テオはじゃれあっている2人の少尉に、朝飯だよ、と声をかけた。
 テーブルに着いた2人の前に置いた皿に、テオは急拵えのスープを配った。パンとスープとコーヒーだけだったが、誰も文句を言わずによく食べてくれた。テオはアスルに尋ねた。

「昨夜、変身したのか?」

 アスルが「スィ」と答えた。

「任務で祈った。暴風雨を收める時は、祈りの最中にナワルを使う時がある。使わずに済めば良いが、昨日のハリケーンみたいなのは、必要だ。」
「”ヴェルデ・シエロ”全員が変身するのか? それとも大統領警護隊だけか?」
「全員じゃない、風の神の心に同調出来る者だけだ。祈らない者もいるし、祈っても同調出来ない者もいる。風に心を合わせて、鎮めていくんだ。」

 よくわからないが、それが”ヴェルデ・シエロ”の本領発揮なのだろう、とテオは思った。セルバと言う国の国土を守る仕事を彼等は昨夜徹夜でしていたのだ。だから朝だというのに、2人の少尉は憔悴した表情なのだ。

「お疲れ様、”ヴェルデ・シエロ”。」

とテオは言った。

「もう一晩泊まっても良いんだよ、エミリオ。」

 と言ったが、デルガドは首を振った。

「バスの運行が再開次第、故郷に帰ります。あっちの被害も気になりますから。それに、バスの中で眠ります。」

 テオは頷いて、アスルを見た。アスルは言った。

「俺は、ハリケーン休暇だ、と言いたいが、恐らく少佐も中尉もデネロスもギャラガも出勤しないだろうから、俺がオフィスに出る。」
「少佐達は・・・」
「少佐とロホは能力が強い。だから昨夜の祈りに使った体力も半端じゃない。今日は疲れて仕事を休まれる。ギャラガも今年からグラダとして祈祷に入っただろうから、ステファン大尉と一緒にピラミッドの地下で寝てるだろう。エル・ジャガー・ネグロとして、首都防御にエネルギーを使い果たした筈だ。デネロスは、祈りの部屋で雑魚寝しているか、寝た連中の世話で奔走しているか、どっちかだ。ハリケーンがセルバへ来ると、いつもそうなる。」

 デルガドが説明した。

「今年はエル・ジャガー・ネグロが2頭いたから、私達は力の消耗をセイブ出来ました。だから、今こうして貴方と食事をして喋っていられる。」
「つまり・・・グラダの男性が2人いたから、君達は力を使い切らずに済んだってことだね? それじゃ、女性のグラダは・・・」
「少佐は首都ではなく、国全体を守っていた。」

 え? とテオは手からスプーンを落としそうになった。

「国全体?」
「女は、広範囲を守るんだ。だから、デネロスも、特殊部隊の巨乳のお姉さんも、国全体の守護を祈った筈だ。広く、緩やかに・・・首都や町だけ守っても、上流で大雨が降れば下流で洪水が起きるだろ? 女達は国全体に降る雨を多過ぎないように、国全体に吹き荒れる風が強過ぎないように、祈っていた。だから、一族が住んでいない土地でも、そんなに被害は出ていない。」

 テオは、己の親友達が、神々なのだと、改めて感じ入った。




第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...