2022/01/25

第5部 山の向こう     4

  明朝にキロス中佐がオフィスに出て来たら、直接彼女にテオと面会出来るか訊いてみる、とガルソン大尉は言った。もしその時点で彼女自身に判断能力がなければ、昼休みに厨房棟へ来てもらえないか、と彼はテオに頼んだ。
 セルバの神様が病気の仲間を救おうとして、白人に協力を仰いでいる。テオは事態の深刻さを理解した。
 大統領警護隊と夜の挨拶を交わして、彼はオフィスを出た。ステファン大尉が送りましょうかと声をかけてくれたが、辞退した。歩いてもそんなに遠くない距離だ。だがステファンは先輩達に向かって言った。

「”ティエラ”は夜目が利きません。転ばないよう、見守って来ます。」

 テオは勝手にしろよと笑い、2人は外に出た。少し歩いてから、ステファンが質問した。

「オルガ・グランデに来ているピューマと言うのは誰です?」

 テオは肩をすくめた。

「何時来るのか、実は知らないんだ。俺の同僚になる人だ。」

 それでステファンは、テオが示唆した”砂の民”が彼自身の恩師だと悟った。

「あの先生が来られたら、中佐の件は隠しようがありません。」
「教授はこっちへ来る訳じゃない。新しく発見された”ティエラ”の墓所遺跡を見学に来るんだ。だから文化保護担当部に遺跡立入許可を申請してパスをもらっていた。恐らく”シエロ”のミイラが混ざっていないか、地下墓地を歩くつもりだろう。君達の方から彼に接触しなければ、中佐の件に気づかずに帰ると思う。」
「そうだと良いのですが・・・」

 暗かったので、テオにはステファン大尉がどんな表情をしているのか見えなかったが、声は憂を帯びていた。

「”砂の民”は大統領警護隊に匹敵する情報網を持っています。”耳”と”目”と呼ばれる情報収集を司どる”ティエラ”を各自持っています。”耳”と”目”は自分達が操られているとは知らずに情報を集め、”砂の民”に報告するのです。無報酬ですが、”砂の民”の守護を受けているので身の安全は保障されます。教授がオルガ・グランデに”耳”や”目”を持っているかどうか知りませんが、西部地方は昔マスケゴ族の勢力範囲でした。殆ど”ティエラ”同然のマスケゴの子孫が大勢います。族長の身内である教授がオルガ・グランデに来れば、当然そう言う人々が集まるでしょう。教授が”砂の民”なのかどうか、彼等は知りません。それでも部族の長の家族は近づきになって損をしない存在ですからね。」

 カルロ・ステファンは以前大学の図書館で油断してケサダ教授に心を盗まれた苦い経験がある。ケサダは休憩していた彼に声をかけ、無防備に返事をしてしまった彼は教授と視線を合わせてしまい、強引に記憶をごっそり読まれてしまったのだ。お陰でステファンは人前で気絶すると言う失態をやらかしてしまい、姉のケツァル少佐から長い間揶揄われる羽目に陥った。(少佐は弟の油断から来る失敗には容赦しない。)それ以来、ステファンはフィデル・ケサダを警戒していた。
 テオはステファンが教授を警戒する理由を理解しているが、そんな必要はないのに、とも思う。教授は悪気があってステファンの心を盗んだのではない。大勢の人間がいる場所で大統領警護隊が油断して隙だらけで座っていたから、注意を与えただけだ。教授にすれば、ちょっとした悪戯心だったのだろう。何故なら、あの教授は白人の血を持つミックスのステファンより遥かに大きな力を持つ真の純血のグラダだからだ。

「ケサダはこっちには来ないさ。ここの海岸には遺跡がないから。」


第5部 山の向こう     3

  太平洋警備室のオフィスに別棟から戻って来たステファン大尉、フリータ少尉、ラバル少尉がその順番で入って来た。彼等はテオを見て、それからオフィス内の雰囲気で会談が既に始まっていることを知った。ガルソン大尉がステファンに”心話”でテオとの会談を伝えた。ステファンは頷き、2人の少尉にも情報提供を、と彼に言った。それでガルソンはラバルとフレータにも”心話”で伝えた。2人の少尉はテオがバス事故の生き残りだと知って驚いたが、その驚き方は同じではなかった。フレータは単純にびっくりした様子だったが、ラバルは却って警戒する様な目でテオを見た。記憶喪失を疑っているのかも知れない。
 ステファンがそばに来たので、彼の席に座っているテオは立ちあがろうとした。ステファンはそのままと手で合図した。テオは尋ねた。

「キロス中佐はきちんと夕食を取ったかい?」

 ステファンは肩をすくめた。フレータ少尉が答えた。

「出された物は全部召し上がりました。でも元気を失う前の半分の量です。」
「少しずつ量が減っている。」

とラバル少尉が呟いた。テオはキロス中佐をまだ見たことがないことに気がついた。こんな時は”心話”を使える”ヴェルデ・シエロ”達が羨ましい。彼はステファンを見上げ、尋ねた。

「君の任務は、ここで何が起きているかを調べることだろう? 本部に報告するかい?」

 ステファン大尉は室内を見回した。ガルソン大尉、パエス中尉、ラバル少尉、そしてフレータ少尉が彼を見つめていた。指揮官を救えないだろうか、と彼等の目が訴えていた。彼はテオに言った。

「実際に何が起きているのか、私はまだ掴みかねています。キロス中佐は確かに心の病に罹っておられる様に見えます。しかし、何故そうなったのか、原因を探る必要があります。」
「我々は3年間調べ続けた。」

とラバル少尉が抗議口調で言った。

「だが、何もわからない。」

 テオはガルソン大尉に向き直った。

「俺をキロス中佐に会わせて頂けませんか?」
「何の為に?」
「バス事故のことを教えてもらいます。」

 彼はちょっと考え、それからこう言った。

「もしかすると彼女は俺に何か語ってくれるかも知れません。あるいは、彼女はバス事故と全く無関係かも知れませんが。」

 ガルソン大尉はパエス中尉を見て、ラバル少尉を見た。それからフレータ少尉にも視線を向けた。最後にテオを見た。

「中佐が普通に会話が出来る状態なのか、私には判断が難しいのです。挨拶程度の短い会話なら出来ますが、5分も保ちません。座ったまま眠った状態になります。」

 テオはステファンを振り返った。ステファン大尉は仕方なく食事の時の中佐の様子をテオに語った。

「食事はされますが、時々動かなくなります。食べている最中に意識が混濁しているのではないかと思われる様な・・・」
「それは重症じゃないのか?」

 テオは心配になった。彼は室内の誰へともなく言った。

「あなた方は、中佐の異常をもっと早く本部に報告すべきだった。どんな結果になろうと、彼女の命を守ることが先決じゃなかったんですか?」


第5部 山の向こう     2

 不気味な程長い沈黙があった。ガルソン大尉もパエス中尉も黙ってテオを見ていた。テオは真っ暗な窓の外に目を遣った。2人の”ヴェルデ・シエロ”の沈黙が彼の質問への肯定を表していた。
 テオは深呼吸した。

「あなた方は、キロス中佐があのバスを道路から崖下に落としたと考えておられるのですね?」

 ガルソン大尉がゆっくりと首を傾げた。

「問題の医者がそのバスに乗っていたのです。だが、あそこで彼を殺す理由がない。少なくとも、我々には理解出来ない。」

 パエス中尉も言った。

「医者はアメリカ人をエンジェル鉱石に紹介しただけです。いくらか謝礼は取ったかも知れないが、彼は我々の存在を知らなかったし、アメリカ人の目的も知らなかった筈です。 中佐があの医者を殺す理由はありません。ましてや罪のない37人の命を奪うなど・・・」
「だが、あの事故がキロス中佐に何らかの心理的プレッシャーを与え、彼女の生気を奪ってしまった?」
「我々には彼女の心の病の原因がそれしか思いつかないのです。」

 テオは考え込んだ。超能力を使って直接人間を死なせることは、”ヴェルデ・シエロ”にとって絶対にしてはならない掟だ。人望厚かったカロリス・キロス中佐がそんなことをする筈がない、と部下達は信じている。だが何が起きたのか、中佐自身は語ろうとしない。ただ内に篭ってしまい、日々生きているだけの存在になってしまった。

「大罪を犯すことは、”砂の民”でさえ避ける。バス事故は本当にただの事故だったんじゃないのか? キロス中佐はもしかするとあのバスに乗っていて、自分だけ助かってしまったと思い込んでいるんじゃないか? 守護しなければならない国民を目の前で死なせてしまって、心が壊れてしまったのだと考えれないか?」

 ガルソンもパエスも答えなかった。
 テオは事故当時の記憶がない己が歯痒かった。事故に遭う前の記憶は戻ったのに、あのバスに乗った所から病院で目覚める迄の記憶だけが彼の脳から抜け落ちているのだ。

 もしかすると、キロス中佐の心の病の原因を知っているのは、この俺なのかも知れない。

 テオは気分が悪くなってきた。しかし、ここで逃げ出す訳にいかなかった。ガルソン大尉とパエス中尉は太平洋警備室の重大な秘密を打ち明けてくれたのだ。だから、テオもその行為に報いなければならない。

「その事故を起こしたバスに、俺も乗っていたんですよ。」

 室内の気温が1度下がった気がした。2人の”ヴェルデ・シエロ”が動揺したのだ。テオは彼等に余計な期待をさせたくなかったので、素早く続けた。

「俺はあの事故の唯一人の生存者で、記憶を失ったのです。そしてケツァル少佐と出会った。過去の記憶は戻りましたが、どう言う訳か、あのバス事故だけは思い出せないのです。バスに乗る所から、エル・ティティの病院で目が覚める迄の間の記憶が今もすっぽり抜け落ちて、何も思い出せない。それが何とかなればキロス中佐の病気の原因もわかるんじゃないかな、と思うのですが。」

 その時、ガルソンとパエスが戸口の方へ視線を向けた。


第5部 山の向こう     1

 「今から3年程前のことです。」

とガルソン大尉が語り始めた。

「港で働いているアカチャ族の現場監督にお会いになりましたか?」
「スィ。ホセ・バルタサール氏ですね?」
「彼がラバル少尉にある情報を伝えました。アンゲルス鉱石、当時はエンジェル鉱石と言いましたが、オルガ・グランデ最大の金鉱山を所有している鉱山会社が従業員の健康診断を行いました。」

 テオはドキリとした。それは彼が「7438・F・24・セルバ」とタグ付けされた血液サンプルの存在を知ることになった健康診断ではないのか?
 ガルソンが続けた。

「バルタサールはエンジェル鉱石がその健康診断で採取した血液をアメリカの会社に売却しているらしいと我々に伝えたのです。」
「内部告発ですか。」
「スィ。そのアメリカの会社が何者なのか我々にはわかりませんでした。しかしアメリカ先住民の血液を研究している製薬会社の話は聞いたことがあります。ワクチンの研究などに長い間外部との婚姻が行われたことがない人間の遺伝子を分析して使うのだと・・・私達には意味がよくわかりませんが。」
「まぁ、俺は理解出来ますが、説明しても一般の人にはわからないでしょう。それにキロス中佐の病気と遺伝子が関係しているとは思えませんが?」
「中佐は遺伝子の分析と言う言葉に懸念を抱かれました。」
「従業員に”ヴェルデ・シエロ”の血筋を持つ人がいると、アメリカの会社にあなた方の存在を知られてしまうと心配されたのではありませんか?」

 ガルソンとパエスがギクリとした表情でテオを見た。だからテオは率直に語ることにした。

「ステファン大尉や本部からの噂話で俺のことを少しはご存じかと思いますが、俺はその先住民の血液をエンジェル鉱石から買っていた会社、本当は政府の研究機関で働いていた科学者でした。」
「では、貴方がぶっ潰して逃げた研究所と言うのは・・・」

 テオは苦笑した。

「ぶっ潰しはしません。ただ、ケツァル少佐がデータを消去してコンピュータの中身をメチャクチャにしただけです。その研究所は超能力者の開発をしていたのです。軍で使えるように兵士に超能力者の遺伝子を注射で与えるようなものを。だから俺達はセルバ人のデータも彼等が北米で集めたデータも全部消して記憶媒体も復元不可能な状態に破壊したのです。」
「そうでしたか。だからグラダ・シティの本部は貴方を特別な存在として保護しているのですな。」

 ガルソンの目付きが柔らかくなった。パエス中尉も少し肩の力を抜いた様子だった。
 テオは逆に胸の奥に不安を感じながら、ガルソンに話の先を促した。

「キロス中佐はエンジェル鉱石に何か働きかけたのですか?」
「私達は彼女が何をなさったのか知らされていません。中佐は一人でオルガ・グランデのエンジェル鉱石へ出かけられました。血液の売却先を探りに行かれたのでしょう。
 鉱山会社の社長ミカエル・アンゲルスはアメリカ人から金を受け取った後のことは知らないと言ったそうです。それで中佐はアメリカ人を会社に紹介した医者を探しました。」
「医者?」
「健康診断を指導した医者です。オルガ・グランデで大きな診療所を経営している男でした。彼は中佐が探し当てた時、アスクラカンにいました。それで中佐はアスクラカンへ出かけられた。」

 テオはドキドキした。何故だかわからないが、凄く嫌な予感がした。

「中佐は10日後に帰って来られました。疲れ果てて、一度に老け込んだ感じで・・・。」
「大罪を犯したのだ。」

とパエス中尉が消えそうな低い声で囁いた。ガルソン大尉は黙って首を振った。

「誰も見た者はいない。誰にも何が起きたのかわからん。」
「何か起きたのですか?」

 テオが尋ねても、彼等は黙っていた。だから、テオは勇気を振り絞って言った。

「エル・ティティから少し山を登った辺りのハイウェイから乗合長期距離バスが転落したんじゃないですか?」

 

第5部 西の海     24

 テオが外に出ると、暗がりから声をかけられた。

「ドクトル・アルスト、私はパエス中尉です。そちらの道は厨房棟の横を通ります。まだキロス中佐が食事中なので、こちらへ迂回して下さい。」

 目を凝らして見ると、男が一人立っていた。昼間会った時パエス中尉は座っていたし、じっくり顔を見た訳でもなかったので本人なのか判断出来なかったが、テオはそちらへ足を向けた。そばに来た彼に、パエスが言った。

「素直なのですね。私を警戒しないのですか?」
「ここで俺の名前を知っている人はそんなにいませんからね。」

 パエスは腕を振って歩こうと合図した。並んで静かに村の中を海に向かって下った。

「今夜は中佐の食が進まなくて、ステファン大尉もラバル少尉もフリータ少尉もまだ厨房棟から出られません。中佐が退席しないことには、彼等の食事も終わらないのです。」
「貴方は?」
「ガルソン大尉と私は家庭持ちなので自宅で食べます。ですから、私達は帰宅したことになっています。お話はガルソンと私からすることになります。」

 太平洋警備室は灯りが灯っていた。宿直があるので、夜間も照明は点けているとパエス中尉が言った。

「今夜の宿直当番はラバルなのですが、中佐はそれに気がついていません。だから今の時間に照明が点いていても気になさらない。」

 オフィスの中は昼間と違って空気が冷たかった。海からの夜風が窓から吹き込んでいた。ガルソン大尉は窓辺で真っ暗な海を眺めていたが、テオが入室すると、「どこでも自由に」と椅子を勧めた。それでテオはステファン大尉の席に座った。ガルソンとパエスもそれぞれ自席に座った。

「昼間の報告でステファン大尉にここへ来た本当の理由を尋ねました。」

とガルソンが言った。

「本当の理由?」
「スィ。普通、指導師の試しに通った隊員は本部の厨房で半年修行します。しかし彼はいきなりこちらへ派遣された。我々は彼が来ると本部から聞かされた時に、覚悟を決めていました。」

 彼は溜め息をついた。

「本部が不審を抱くのも時間の問題だと思っていました。キロス中佐は、貴方が考えておられる通り、心の病に罹っています。仕事への情熱を失い、日中はオフィスでただ座っておられるだけです。本部への定時報告は、私が彼女の動画を作成し、毎日少しずつ変化を加えて流していました。」
「本部を騙していたのですか?」

 テオはびっくりした。大統領警護隊の規則は知らないが、これはどんな企業でも軍隊でも違反行為だろう。ガルソンは再び溜め息をついた。

「キロス中佐は素晴らしい指揮官でした。気の力が大きく、技も長けていました。そして部下にも住民にも人望がありました。サン・セレスト村の住民もポルト・マロンの労働者も彼女を敬愛していたのです。だから、我々は彼女に回復して欲しかった。本部が彼女の状態を知ったら、きっとグラダ・シティに召喚して国防省病院に閉じ込めてしまうでしょう。そして新しい指揮官が送られて来る。私達はそれを避けたかったのです。しかし・・・やはり本部を騙し切れるものではない。」

 パエス中尉が言った。

「処分を受けるのはガルソン大尉と私の2人で留めて頂きたい、とステファン大尉に告げました。彼はもう暫く様子を観察してから本部に報告すると言いましたが、恐らく中佐の病は治らないでしょう。ラバルとフレータは地元出身ですから、ここに残してもらえるよう司令部に頼むつもりです。新しい指揮官にこの土地の特性を教える人間が必要ですから。」

 テオは2人を見比べた。どちらも感情を表さない先住民らしい顔で彼を見返した。テオは言った。

「話はわかりました。でも、貴方達は家族がいるでしょう? 処罰されたら彼等はどうなりますか?」

 ガルソンが言った。

「妻はアカチャ族です。身内でなんとかしてくれるでしょう。」
「そんな・・・」

 テオは言った。

「家族の為に最善の策を考えるべきです。中佐は一体、いつから今の状態になったのです?」


 

2022/01/24

第5部 西の海     23

  ステファン大尉とフレータ少尉が太平洋警備室に戻ってから1時間後に大尉からテオの携帯にメールが入った。

ーー今夜2030にこちらのオフィスに来ていただけますか?

 テオは即答した。

ーーO K

 部外者で白人のテオに太平洋警備室が抱えている問題を打ち明けてくれると言うのだろうか。
 午後の検体採取はセンディーノ医師が親しくしているアカチャ族の家族から始めた。純血種とメスティーソの夫婦だった。両方の細胞をもらった。子供達は学校から帰るのを待って、採取した。それから5軒回った。金曜日迄に全部の家を回れそうだとカタラーニが機嫌良さそうに言った。
 夕方、早めに作業を切り上げたガルドスが、診療所で清めの儀式の練習をすると、看護師が驚いて眺めていた。村の外から来る人間が何故それを知っているのか、と言う顔だった。ガルドスは医師にも教えるのだと彼女達に言った。すると彼女と仲良くなった方の看護師が、ガルドスの発音の修正を指導してくれた。
 その日の夕食はセンディーノ医師の自宅キッチンで料理された。センディーノはガルドスとカタラーニが教わった通りの簡略化された清めの儀式を見て、それからカタラーニの動画を自分の携帯に送ってもらった。

「これで私が作る食事を村の人が食べてくれたら、患者に療養食を出してみます。」

と彼女は新しい挑戦の考えを告げた。テオは検体採取の手伝いをしてもらっているお返しですと言った。
 夕食が賑やかなものになったので、危うく大統領警護隊の面会要請に遅れるところだった。テオは院生達に、ステファン大尉と会ってくる、と言って宿舎の鍵をカタラーニに預けた。

「俺が親しくしている文化保護担当部の活動を知りたいらしいよ。」

と誤魔化した。そしてカタラーニには、ガルドスに悪さをするなよ、と注意を与えた。カタラーニは笑って、「そんな恐ろしいことはしません」と言った。

第5部 西の海     22

  宿舎にしている空き家で3人で昼食を取っていると、ステファン大尉から携帯に電話が掛かってきた。軍関係の施設が3つもあるし、それなりに大きな船舶が出入りする港湾施設もあるので、サン・セレスト村は携帯電話が使えるのだ。セルバ式ハラールを習いたいのであれば、これから訪問しても良いですか、と言う内容だったので、テオは独断で構わないと答えた。電話を切ってから、院生達に昼寝をしたい人はしてもらって構わないと言うと、2人共興味津々で講習会に参加すると言った。
 半時間後にステファン大尉はブリサ・フレータ少尉と一緒に野菜とソーセージを持ってやって来た。フレータ少尉はカイナ族だと聞いて、テオはふと友人の母親の出自に疑惑がある件を思い出した。純血種のカイナ族だ。テオはつい”ヴェルデ・シエロ”のDNAコレクションに彼女を加えたい衝動に駆られたが、自重した。同じ純血種でもアカチャ族の女性達に比べると垢抜けして見えるのは、フレータが一度は大都会の本部で暮らした人だからだろう。
 カタラーニが携帯で動画を撮影して良いかと訊くと、フレータ少尉は戸惑ってステファンを見た。後輩だが彼は上官なのだ。ステファンは顔を撮影しないでくれ、と言った。音声の録音は構わないが、動画は手の動きだけだ、と制限をかけたのだ。
 最初にステファン大尉がソーセージを相手に儀式を行った。ソーセージは製造される前段階、つまり家畜を屠殺する場面でお祓いを受けるべきなのだと説明をしてから、彼はソーセージの上で手を波を表現するかの様に動かし、呪文の様な先住民言語で祈りを捧げた。次にフレータ少尉が野菜を相手に似たような動作でお祓いを行ったが、祈りの言葉が微妙に違っていた。
 一連の儀式が終わると、ステファン大尉が説明した。彼等が先程演じて見せたのは正式なアカチャ族の儀式で、大統領警護隊のものではないこと、実際のアカチャ族の家庭では、もっと簡略化された儀式が行われることを話した。そして次にフレータ少尉が実際に行われている儀式を実演して見せた。手の動きは同じだったが、呪文が短く簡潔になっていた。終わると、この家に来て初めてフレータが笑顔を見せた。

「簡単でしょう? 少し練習すれば明日からでも使えますよ。」

 笑うと若く見える、とテオは印象を持った。

「グラシャス。 コーヒーを淹れようと思うが、時間はあるかい?」
「スィ。半時間あります。」

 カタラーニが素早く動いてコーヒーを作った。ガルドスが大統領警護隊の2人に質問した。

「どちらの部族のご出身ですか?」

 ステファンが無難に答えた。

「私はオルガ・グランデ出身で、色々な血が混ざったメスティーソです。明確に所属する部族はありません。」

 フレータ少尉も慣れているのだろう、彼女もオルガ・グランデ近郊の村の生まれだと言った。普通、その答え方は、オルガ族と言う人口が多い”ヴェルデ・ティエラ”の部族だと言う意味を与える。だからガルドスはあっさり納得したが、テオはフレータが実際は出身部族について何もヒントをガルドスに与えていないことを知っていた。
 儀式について少し質問が出たが、ステファンとフレータはアカチャ族に関する答えしか言わなかった。
 シエスタの時間が終わり、テオは2人の大統領警護隊隊員を送りながら外に出た。太平洋警備室は歩いても数分の距離だ。

「急な申し出に応えてくれて有り難う。」

 彼は続けて質問を出した。

「キロス中佐は鬱病なのですか?」

 この質問はフレータ少尉に向けたのだ。フレータが足を止めた。

「何のことでしょう?」
「ちょっと噂を耳にしたのです。ポルト・マロンでね。」

 決してステファンから聞いたのではない、とテオは強調する為にそう言った。

「3年前迄は元気に勤務されていた中佐が、ある時期から急に引き篭もりになってしまったそうで、陸軍水上部隊では心配していますよ。貴方方もドクトラ・センディーノからお薬を処方してもらって中佐に飲んでもらっているのでしょう?」

 フレータ少尉は怒ったような不機嫌な顔になって海の方を見た。

「中佐はご病気ではありません。」
「しかし鬱の薬を処方されていると、俺は聞きましたが?」

 ステファン大尉が、ドクトル!とテオを止めた。個人のプライバシーの問題だ、と彼は言おうとした。しかし、テオはやめなかった。

「精神状態に問題がある”ヴェルデ・シエロ”は危険な存在ではないのか?」

 フレータ少尉が雷に打たれたかの様に、ビクッとして振り向いた。彼女はテオを睨みつけ、それからステファンに怒りの視線を向けた。ステファン大尉は仕方なく打ち明けた。

「この人は、大統領警護隊文化保護担当部と常に行動を共にされている特別な人です、少尉。」

 フレータが再び視線を向けて来たので、テオも言った。

「俺は君達一族のことを知っている。そして文化保護担当部以外の”シエロ”とも交流がある。君達の秘密は口外しないし、興味本位で接したりしない。だから本当のことを教えて欲しい。キロス中佐は心の病なのか、それとも何か他に理由があって引き篭もっておられるのか?」

 彼はステファンも知らなかったある事実を打ち明けた。

「実は、オルガ・グランデにピューマが1頭来ている。」

 ハッとステファンとフレータが息を呑んだ。”砂の民”だ。もし”砂の民”に心を病んだ指揮官の現状を知られたら、とても拙いことになる。指揮官の命が危ない。そして指揮官の現状を隠していた部下達も制裁を受ける。それは司令部からの処罰より残酷な事態になるかも知れない。
 やがて、フレータ少尉が喉から乾いた声を出した。

「私の一存で打ち明ける訳にいきません。ガルソン大尉と相談します。」


第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...