2023/01/20

第9部 エル・ティティ        1

 エル・ティティの街はアスクラカンに比べるとかなり小さかった。ルート43沿いに土壁や煉瓦壁の家が立ち並び、真ん中に教会がある。ハイウェイは教会前の広場の横をかすめるように通っていた。 広場を横切ったりはしない。グラダ・シティとオルガ・グランデを結ぶ長距離路線バスはこの広場で一旦停車するらしいが、町の住民以外に乗り降りする人はいないだろう。広場には観光客や旅人の為の休憩用施設は何もなく、ただ住民が野菜や果物を持ち寄る朝市などが開かれると思われた。アキム夫妻に教えられた宿は教会の裏手の通りにあり、教会前広場からその裏通りまでの道に、地元民が利用する店舗が集まっていた。
 「ホルヘの宿」と言う小さな看板が掲げられた宿は、ホテルと言うより民宿に見えた。車は宿の前の道路脇に停めると良いと言われ、マイロとチャパは取り敢えずチェックインした。朝食は出るが夕食はないので、食事は通ってきた広場から裏通りの間の道に面した並びから飲食店を探さねばならない。
 部屋に入ったマイロは、いきなりサシガメを探し始めた。建物の外観を見ると、いかにも害虫が壁の隙間に潜んでいそうだったのだ。しかし屋内の壁は綺麗で、清潔そうだ。虫の死骸すら見つからなかった。ベッドも点検した。ノミやシラミを警戒した。毛布やシーツは洗い立てのように綺麗だった。
 隣の部屋のチャパも同じ行動を取ったようだが、空振りだったらしい。階段や廊下は古い感じだったので、夜になったら、チェックしてみようと言うことになった。
 夕刻まで時間があったので、街中を散歩することにした。サシガメは夜行性だから、昼間は物陰に隠れて出てこない。
 町の周囲はバナナ畑で、畑の南西に不活性火山ティティオワが聳えていた。斜面の下半分は緑色で、上は青みがかった黒っぽい色をした山だ。南側の山頂付近は抉れていて、それがなければ綺麗な円錐形になっただろう。
 町の住民は開放的で、他所者のマイロとチャパにも道ですれ違うと挨拶してくれた。路地に即席のジューススタンドが出ていたので、そこでパイナップルジュースを買って喉を潤した。

「どこから来たの?」

と売り子の若い男が尋ねた。

「アメリカから。今はグラダ・シティに住んでいる。」

 マイロがそう答えると、その若者は、「へぇ!」と言った。

「それじゃ、テオを知ってる?」
「テオ?」
「テオドール・アルスト・ゴンザレス。」

 すると、マイロの隣でチャパが、「ああ!」と声を上げて、マイロを驚かせた。マイロは思わず助手を振り返った。

「知っているのかい、そのテオ・・・」
「テオドール・アルスト・ゴンザレス、うちの大学の准教授ですよ。」

 若者が「スィ、スィ」と嬉しそうに頷いた。

「エル・ティティの有名人! 最近は忙しくて月に1回ほどしか帰って来ないけど、戻ってきたら必ず僕等と一緒に遊ぶんだ。」

 チャパはその准教授に関する知識を出来るだけ捻り出した。

「生物学部で遺伝子工学の教室を持っている人です。なんだか訳ありでアメリカからセルバ共和国に帰化されたんですが、アメリカの話はほとんどされないそうです。」
「テオは北米が好きじゃないんだ。」

とジューススタンドの若者が言った。

「何か辛いことがあって、故郷を捨てて来たんだよ。でもセルバで幸せに暮らしているから、みんな気にしないことにしている。」
「遺伝子工学の先生だから、原虫の遺伝子や治療法に関するヒントも研究されていないかな。」

 チャパが呟くと、若者は首を振った。

「ノ、ノ、テオはエル・ティティに息抜きに帰って来るんだから、ここでは仕事の話をしないよ。それに、こっちでは代書屋をしてるしね。」
「代書屋?」

 若者が道端の一軒の家を指差した。

「会計士のホアン・カルロスの手伝いをしているのさ。書類の作成や手紙の代書をしてくれるので、カルロスは助かってる。僕等も役所に出すややこしい書類なんかはテオに頼むんだ。」

 准教授を気軽に「テオ」と呼ぶ若者をマイロは眺めた。

「その准教授は、次はいつ帰って来るのかな?」
「いつかな? 多分、ゴンザレス署長が知ってる。テオのセルバでの親父さんだから。」


2023/01/18

第9部 ボリス・アキム       8

  明日はオルガ・グランデに向かって出発すると告げると、ボリス・アキム夫妻は寂しそうな顔をした。アメリカ人のマイロや息子と同年代のチャパと別れるのが寂しいのだ。

「しかし、アスクラカンにシャーガス病の原虫はいないと言うことですね?」
「原虫を媒介するサシガメが見つからないと言うことです。」

 マイロとしてはアスクラカン中のサシガメを採取したいが、それは無理な相談だった。兎に角、虫そのものが見つからない。中南米でこんな清潔な街があるだろうか。少なくとも、ハエや蚊はいるのだが街中ではあまり見かけない。だから露店でも生物を平気で販売している。グラダ・シティの方がもっと雑然としていた様な気がした。

「オルガ・グランデへ直行する前に、エル・ティティに立ち寄られてはいかがです?」

とアキムが提案した。

「エル・ティティですか?」

 地図に載っている街だ。ルート43が通る町でアスクラカンの次に大きいが、グラダ・シティの人々の話では、「町の機能が整っている村」と言う見識だった。
 アキムが頷いた。

「建物は庶民的な土壁や煉瓦壁が多い。住民は人懐こい。それに、多少は設備が整った病院があって、医者達と専門的な話も出来ます。少なくとも、アスクラカン市民病院よりは、話をまともに聞いてくれますよ。」

 マイロが頷くと、せレーヌが「でも」と言いかけた。そして夫の表情を窺った。アキムが微笑して頷いたので、彼女は続けた。

「宿泊出来る場所は一ヶ所だけです。満室はあり得ないと思いますが、もしいっぱいだったら、教会に行って下さい。神父がなんとかしてくれます。」


2023/01/16

第9部 ボリス・アキム       7

  翌日の朝からマイロとチャパはアスクラカン市街地の南半分で昆虫採集を始めた。吸血をするサシガメは人家の壁に住み着くので、空き家を探しても意味がない。住民がいる家で、出来れば裕福でなさそうな家庭、と言えば失礼になるのだが、土壁を使った家屋を探して、外側から出来るだけ隙間などを探した。のんびり屋のセルバ人も流石に彼等の行動に不審を抱いたのか、昼ごろに警察が現れた。

「何をしているんです?」

 捕虫網と飼育容器を抱えた2人の男に、警察官はパトカーを停め、車から降りて声を掛けて来た。両手を腰に当てている。何か不審な動きがあれば拳銃を抜けるようにしているのだろう。マイロは捕虫網をそばの壁に立てかけた。そして、「身分証を出します」と言った。チャパには少し待てと言い、彼はゆっくりとポケットからグラダ大学の職員I Dを出した。

「パスポートは宿にありますが、要りますか?」

 警察官は彼の身分証を眺め、それからそれを持ったままチャパを見た。それで、チャパもゆっくりと身分証を出した。

「大学の研究者?」

と警察官が確認の意味を込めて尋ねた。マイロは頷いた。

「スィ。伝染病を媒介する恐れがある昆虫を探しています。ただ、この街ではまだそれらしき虫がいないので、探しあぐねているところです。」

 チャパが陽気な声で尋ねた。

「虫に刺された後で心臓疾患に罹ったりした人の話を聞いたことはありませんか? サシガメに刺された後ですが・・・」

 警察官がフッと笑った。

「お祓いを受けて建てた家には、そんな虫は寄り付かない。セルバの常識だろうが。」

 マイロが何か言う前に、チャパも笑った。

「ですよね!」

 警察官は彼の上司らしいマイロに向き直った。

「伝染病を探しているなら、このアスクラカンじゃなく、オルガ・シティに行った方が良いですよ。あっちは広いし人口も多い。”シエロ”だって面倒見きれないでしょう。」

 マイロはポカンとして警察官がパトカーに乗り込んで走り去るのを見送った。
 チャパが声を掛けた。

「先生、お巡りさんの言う通りですよ。この街はがっちり守られています。オルガ・グランデに行きましょう。」

 マイロは彼を振り返った。

「”シエロ”って何だ?」

 チャパが肩をすくめた。

「セルバの守り神です。古代のね・・・」


2022/12/12

第9部 ボリス・アキム       6

 「もし差し支えなければ、奥様もこちらのテーブルにお呼びして構わないでしょうか?」

 マイロが訊くと、アキムは首を振って、隣室の妻に声を掛けた。

「せレーヌ、こっちへ来ておくれ。」

 セレーヌが同席していた使用人達に断って、食堂へ入って来た。夫の隣の空いた席に着いた。マイロとチャパは改めて彼女に挨拶した。それでセレーヌも挨拶を返した。セルバ流に右手を左胸に当ててする挨拶だ。

「妻はアケチャ族のメスティーソです。」

とアキムが紹介すると、チャパが頷いた。

「僕もです。アケチャ族はセルバの東海岸から内陸に分布している先住民です。僕はグラダ・シティで生まれ育ちました。」

 セレーヌは夫をチラリと見て、自由に喋っても構わないことを確認でもしたのだろう、やっと普通に客に向かって口を開いた。

「私はアスクラカン出身です。でも早い時期にグラダ・シティの学校に送られ、そこで教育を受けて医療に従事することになりました。故郷に戻ったのは、夫と知り合ってからです。親族とは付き合いがありますが、友達はみんなグラダ・シティにいます。ですから、街のこちら側はよく知っていますが、旧市街や北部のことはあまり馴染みがありません。もし、シャーガス病の調査で市北部に行かれる場合は、知人を紹介させて下さい。」

 地方訛りがない首都で使われているスペイン語で彼女は喋った。夫と普段会話している言葉なのだろう。地元民と話す時は、地元方言を話すのかも知れない。セルバ人の中年女性はぽっちゃり体型が多いが、セレーヌは都会派らしく、スリムで化粧も垢抜けていた。
 マイロは一見愛想なしに見える彼女の好意的な言葉だと解した。

「いや、昆虫を探すのが今回の目的なので、病気の発症例などは病院で聞いてみます。昆虫は民家の壁などにいるもので・・・」

 アキムが遮った。

「いや、案内人がいる方が安全です。」
「安全?」

 アキムとセレーヌが視線を交わした。アキムがマイロに向き直った。

「アスクラカン市北部の先住民の中にはちょっと閉鎖的な思想の人々がいます。同じ部族でも南部の住民は開けていて、他部族や異人種、外国人を好意的に受け入れてくれますが、北部の住民達はかなり警戒心が強いのです。外国人を攻撃することはないと思いますが、その、失礼ですが、貴方の肌の色が・・・」

 マイロは溜め息をついた。

「目立つのですね?」
「スィ。グラダ・シティや東海岸の町村では珍しくない肌の色ですが、内陸になると保守的です。白人もあまり歓迎されません。」
「あの人達だけです。」

 セレーヌが言い訳するかの様に口を挟んだ。

「3つか4つの家族が保守的なのです。ただ、その家族が財政的にも政治的にもかなり力を持っているので、北部地区の住民達は逆らわないのです。他所者が案内なしに足を踏み入れると、忽ち監視されます。手を出さなくてもジロジロみられるのです。早く川を渡って帰れと無言の圧をかけられます。本当に不愉快なんです。」

 アキムが無理に笑顔を作った。

「北部地区は狭い範囲ですから、川の南側の方が資料を集めるのに適していますよ。案内が不要と仰るなら、南部だけにして下さい。アメリカから来られた方にアスクラカンの恥ずかしい部分を見せたくないのです。」

 ああ、とチャパが声を出したので、マイロはそちらを見た。チャパが肩をすくめた。

「アスクラカン出身の学生仲間からも同じ話を聞いたことがあります。なんだか小説が書けそうな謎に満ちた家族だそうですよ。結婚も自分達の親戚の間で行うので、南部の同じ部族の家族とは付き合いが殆どないそうです。」

 先住民を怒らせてはいけない。セルバ共和国に入る前に、亡命・移民審査官からそんな忠告を受けていたっけ。マイロは素直に「わかりました」と答えた。

2022/12/11

第9部 ボリス・アキム       5

  ボリス・アキムはちょっと謎めいた微笑みを浮かべた。

「お2人は私がロシア人だと思っていらっしゃいますね?」
「スィ・・・街の食堂でそう聞いて来ました。」
「違うのですか?」

 マイロとチャパが戸惑いの表情になったので、アキムは笑った。

「祖父母はロシアからの移民です。だが、私はアメリカで生まれました。ニューヨーク出身ですよ。」
「え? アメリカ人なんですか?」

 マイロはびっくりした。アキムのスペイン語が完璧なので、中米生まれのロシア系住民だと思っていた。アキムはビールをグッと喉に流し込んでから、続けた。

「両親の親達はロシア出身です。私が生まれた頃はまだソ連だったかな・・・亡命と言うか、兎に角第二次世界大戦の前後にロシアを逃げ出してアメリカに渡って来たそうです。私はロシア系移民の3世として育ちました。だから、ロシア語は話せないんですよ。親の世代も殆ど英語で通していましたから。だけどロシア系のコミュニティの中で暮らしていたので、キリル文字を読んだり、多少の単語などは理解出来ます。私は高校に入る頃にコミュニティを出たくて、親に無理を言って全寮制の学校に入りました。コミュニティは貧しい家庭が多くて、嫌だったんです。犯罪に関わる人もいてね・・・」

 マイロは理解出来た。アフリカ系のアメリカ市民も同じだ。彼の実家は裕福で、彼は希望する医学の道に進めたが、マイノリティには違いない。
 アキムはまたビールを飲んだ。

「奨学金で大学に入り、医学を学びました。開業出来る金銭的余裕はありませんでしたから、研修で行った病院でそのまま働いていたのですが、中米の病院で働かないかと言う誘いがあったのです。まだ医師免許を取って2年目のことでした。聞いた限りでは条件が良かったので、応募したんです。しかし・・・」
「想像していたのと違ってました?」

とチャパがニッと笑って言った。アキムが苦笑した。

「スィ。設備も薬剤もお粗末で、だけど患者は多い。医者達はふんぞり返って治療は適当、私が勉強して行ったスペイン語ではなかなかコミュニケーションが取れなくて、ホームシックになりました。その頃に妻に出会ったのです。」

 彼は隣室の妻を見た。

「せレーヌはセルバ人で看護師の修行に外国に出ていたのです。彼女もその国の医療の実態にうんざりしていて、私とよく愚痴を話し合いました。私のスペイン語はお陰で上達したのですが・・・」

 彼はクスクス笑った。

「彼女がセルバに帰国すると言うので、私は勤めを辞めて、彼女について来ました。就労ビザを取らなかったので、観光ビザで・・・所謂不法滞在で違法就労です。彼女が戻った病院で臨時雇いの医者として働き出しました。」

 マイロはびっくりした。それではボリス・アキムは密入国扱いになるのではないか? 彼が驚いた表情をしたので、アキムがニヤッとした。

「私がやばい立場にいるとお考えですね?」
「違うのですか?」
「確かに、最初の1年間はいつ捕まるかとビクビクしていました。しかし、ある日、当時働いていた病院に大統領警護隊がやって来たんです。」

 アキムはマイロに念を押す様に尋ねた。

「ご存知ですよね、大統領警護隊のことは?」
「あ・・・大統領府の隣に本部があって・・・」
「この国に入国する時に、面接を受けたでしょう?」
「スィ・・・亡命・移民審査官に・・・」
「あの役職は、大統領警護隊の隊員が就くのです。つまり、病院に来た隊員は、正に亡命・移民審査官でした。私が何者か、何をしているのか調査に来たのです。」

 アキムは遠くを見る目をした。

「彼等は私に色々な質問をしました。私の出身地、家族、学歴、職歴、そしてセルバでの活動、根掘り葉掘り聞かれました。そして最後に、いつアメリカに帰るのか、と質問されました。」

 彼は視線をマイロに戻した。

「私は、帰るつもりがないことを告げました。その時、私はもうセレーヌと離れられなくなっていました。彼女のお腹には私の子供がいました。病院も私を頼りにしてくれていました。祖国アメリカでも任地の国でも、私は必要とされていなかった。しかし、セルバでは私を必要としてくれる。私の居場所はここしかないと思いました。私は、セルバ共和国に帰化を申請しました。永住権が欲しいと言ったんです。」

 アキムは当時のことを思い出したのか、ふっと大きな溜め息をついた。

「3ヶ月間、グラダ・シティの不法滞在者収監施設に入れられました。そこでは他の収監者達の健康管理を任されました。その間にきっとアメリカ政府とセルバ政府の間で私の処遇について話し合ったのでしょう。私は釈放され、1年間グラダ・シティの病院で働くことを命じられました。1年間、首都から出てはいけないと言われ、せレーヌと電話でのみ接触を許されました。彼女がグラダ・シティに行くことも1年間禁止されたのです。彼女が言うには、不法滞在者を隠していた罰だと言うことでした。」
「試されたんですよ。」

とチャパが言った。

「本当に貴方と奥さんがこの国で暮らしていく決心をしていることを。もし奥さんを首都に行かせて、夫婦で外国へ逃亡しちゃったら大統領警護隊の面目丸潰れでしょ?」
「そう思います。」

とアキムが笑った。

「1年間会えませんでしたが、せレーヌは出産して、私を待っていてくれました。子供は男の子で・・・今はアスクラカンの市民病院で働いています。」
「それじゃ、ハッピーエンドなんだ!」

 チャパが嬉しそうに声を上げ、マイロも笑顔が出た。アキムもニッコリした。

2022/12/10

第9部 ボリス・アキム       4

  部屋は粗末なベッドが2台置かれた質素な場所だった。客間ではなく、入院患者用の病室だ。隣は大部屋でベッドはなく、患者がいる時はハンモックを吊るすのだと言う。床の上に直接寝かせたりはしないのだ。アキムと妻のセレーヌは2階に部屋があった。初老の使用人夫婦がいて、家事手伝いをしていた。
 午後の診療が始まると、パラパラと患者がやって来た。昼間聞いた産業医と言う言葉通り、近所の工場で怪我をした工員が多かった。病人は年配者で、若い人は多少具合が悪くても医者に掛からないのだろう。アキムが法外な診療費を取っている訳ではなく、住民が倹約しているのだ。

「医者より祈祷師を頼る人もいるのですか?」

とマイロが尋ねると、アキムが笑った。

「セルバ人を未開人だと思わない方が良いですよ。確かに祈祷師のところへ行く人もいますが、それは医者に見放された人です。治る見込みがない重病人です。」

 マイロは不思議に感じた。

「治る見込みがない人を祈祷して、患者が死んでしまえば、祈祷師は信用を失くすでしょう?」

 アキムはただ肩をすくめただけだった。チャパが何か言いたそうな表情をしたが、マイロは気づかなかった。
 夕食はセレーヌと使用人の妻が作った料理が並んだ。アスクラカンの習慣なのか、セレーヌは使用人と同じテーブルに着き、マイロはチャパとアキムと3人で食卓を囲んだ。
 食事中の話題はマイロの前職に対するアキムの質問から始まった。マイロは毎日研究室で顕微鏡を覗いていたと言った。事実そうだったし、原虫に冒された患者から検体を集めるためにシャーガス病が発生しているメキシコやコスタリカなどに出かけたりしたが、それ以上感染症センター外の人に説明出来る内容のことはなかった。

「ご存知の様に、シャーガス病の原虫を殺すにはベンズニダゾールやニフルチモックスの投与が必要ですが、その治療費は高額です。そしてこの病気が発生する国々は決して豊かではありません。また、これらの薬剤は妊婦や腎臓、肝臓が不全な患者には使えないし、ニフルチモックスは、神経疾患や精神疾患のある人に使用出来ません。だから僕はもっと安価な薬品を作るべきだと思いますが、それは薬学の世界です。僕は予防の観点から研究をしています。セルバ共和国ではシャーガス病の発症例が見られません。それが何故なのか知りたいのです。何故ここだけが、空白なのか・・・」

 アキムがチラリと隣室で食事をしている妻と使用人夫妻の方を見た。そして直ぐにマイロに視線を戻した。

「貴方がシャーガス病の治療に興味を持たれたのは何故です? お身内でその病気に感染した人がいたのですか?」

 マイロは頷いた。

「学生時代の親友の父親が感染者でした。仕事で南米生活が長かったのです。アメリカに帰国してから発症しました。幸い病名が判明したのが早かったので助かりましたが、世の中にそんな難病が普通の生活の中に存在することを知って衝撃を受けたのです。親友は外科の道に進んだのですが、僕は微生物由来の感染症研究に進路を決めました。」

 成る程、とアキムは呟いた。そしてチャパを見たので、チャパはちょっと恥ずかしそうに告白した。

「僕は研究室が決まっていなかったのです。あまり成績が良くなくて、僕を採用したがる研究室もなかったところへ、ドクトル・ミロが来られて・・・室長がドクトル・ミロの助手にならないかと勧めてくれたんです。」
「良く働いてくれる助手ですよ。」

 マイロが誉めてやると、若者は頬を赤く染めた。そしてアキムを促した。

「次は貴方の番ですよ、ドクトル・アキム。」

2022/12/07

第9部 ボリス・アキム       3

 「医療ジャーナルに書かれていたと思いますが、僕はシャーガス病の研究をしています。あの病気はまだワクチンがありません。多くの人々が苦しんでいます。ですが、セルバ共和国にはシャーガス病の発症例が一つもありません。」

 マイロがアキムを見つめると、アキムが首を振った。

「確かに、私もシャーガス病のことは知っています。」
「貴方が診てこられた患者の中で、あの病気に罹患していると疑いのあった人はいましたか?」

 アキムはちょっと考え込む素振りをした。片手で顎髭を撫でて、空を見つめ、やがてマイロに視線を戻した。

「この診療所の患者には当該症例の人は出ていません。」
「そうでしょう!この国にはシャーガス病が発生していないのです。周辺の国には当たり前の様に患者が発生しているのに・・・」

 マイロは携帯の画面にサシガメの写真を表示してアキムに見せた。

「こんな昆虫を見たことはありませんか?」
「庭にいそうだが・・・」
「家の壁とか・・・?」
「否、家の中にはいません。」

 マイロは室内を見回した。アキムが言い直した。

「家とは、一般家庭と言う意味で、私の家と限定した訳ではありません。」

 するとチャパが彼に尋ねた。

「アスクラカンでも家を建てる時に祈祷してもらうのですか?」

 アキムが彼に向かって微笑んだ。

「スィ。郷に入れば郷に従え、ですよ。」

 マイロは宗教的なことには興味がなかった。民間信仰を信じるたちではない。だが、もしかすると、と言う考えが頭をよぎった。

「その祈祷と言うのは虫除けの様なことをするのかな?」

とチャパに尋ねてみた。チャパがちょっと困った様な顔をした。

「いえ、悪霊全般を家から遠ざけるお祈りです。祈祷師を呼んでお祈りしてもらうんです。」

 アキムが苦笑した。

「殆どのセルバ人が家を建てる時にそうします。貴方はまだご覧になったことがないのですね。」
「ええ・・・まだ色々入国後の書類仕事が忙しくて、大学の外へ出かける時間がないんです。住民と触れ合う機会をもっと増やして情報を集めたいのですが。」
「セルバ人はカトリックですが、古代の民間信仰も持っているのです。家を新築する際の祈祷は重要な様です。祈祷師の数が少ないので、新築が重なると祈祷師の取り合いになる程ですよ。」

 するとチャパも言い添えた。

「祈祷しないと、その家の住人は病気になるんです。悪霊が入って来るから・・・そう信じられています。」

 悪霊がサシガメのことだとは思えない。マイロはシャーガス病がセルバに存在しない理由をそこでも発見出来なかった。アキムが、アスクラカンにはどれぐらい滞在するのかと訊いた。マイロは農村部へ調査に行きたかったので、3日程と答えた。

「近郊の集落などで昆虫を探してみようと思っています。症例発生地の昆虫とこの国の昆虫の差異を調べたいのです。」

 するとアキムが微笑んだ。

「それではうちに泊まりなさい。部屋はありますよ。家族は妻と私だけです。たまには客を迎えるのも良いものです。」



第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...