2023/02/07

第9部 古の部族       9

  マイロはびっくりして相手の男を見上げた。

「何故僕の名前を・・・」
「あー、それは・・・」

 若い男が頭を掻いた。

「大学で貴方を見かけたことがあります。貴方は文学部のモンロイ先生と親しくされているでしょ? 僕はモンロイ先生の現代詩の講義を教養の科目で採っているので、貴方のことを先生からお聞きしたことがあったんです。」

 そして彼は自己紹介した。

「考古学部のサンチョ・セルべラスと言います。」

 彼は傍の歳上の男を見た。

「僕の指導教授のケサダ先生です。」
「考古学部のフィデル・ケサダです。」

 それでマイロも自己紹介した。

「医学部微生物研究室の客員研究員アーノルド・マイロです。」
「ドクトル・マイロ、失礼、ミロと呼んでしまった。」
「ミロでも結構です。研究室の人は皆さん、そう呼ぶんです。」

 やっとマイロはケサダ教授が差し出した手を掴んで立ち上がった。まだ頭が痛み、少しふらついてしまう。ケサダ教授が気遣って言った。

「取り敢えず上に出ましょう。貴方は怪我をしている。」

 マイロは考古学者達の発掘作業を邪魔してしまったと申し訳なく思ったが、頭部の痛みに逆らえなかった。セルべラスに肩を支えられるようにして、暗闇の中を歩いた。考古学者2人のヘッドライトだけが頼りだったが、彼等は慣れているのかスムーズに歩き、マイロの足元を気遣ってくれた。
 やがて明るい空間に入った。そこはもう少し広い場所で、電線が引かれ、ライトがいくつかぶら下げられていた。岩壁に棚状の穴が無数に開けられ、それぞれに人骨が入っているのを見て、マイロはゾッとした。ヘルメットに繋ぎの作業着姿をした若い男女が10名ばかり棚の内部写真を撮影したりメモを採っていたが、教授とセルべラスがマイロを連れて現れると、みんな振り返った。数人はマイロを大学で見かけたことがあったのだろう、「え?」と言う顔をした。

「先生、その人は?」
「事情は後で話す。彼は怪我をしているから、これから上へ出る。君達も片付けて後から来なさい。」

 教授は腕時計を見た。

「今午前11時14分だ。12時15分にベースに集合。」

 了承したことを示す学生達の声を聞いて、ケサダ教授に導かれマイロは再び歩き出した。歩きながらポケットを探った。財布も身分証もなかったが、首から下げているジャガーの牙だけは残っていた。


2023/02/06

第9部 古の部族       8

「ペンディエンテ・ブランカの入り口辺りに、この男の連れがいる筈だ。車の中にいる。警察に駆け込まれると面倒だから、眠らせてくれ。」

 誰かがそう囁いていた。男の声だ。すぐ近くにいる。別の声が少し離れた位置で「承知しました」と応えた。
 マイロは目を開こうと努力した。頭を動かすと後頭部に針で刺された様な痛みがあった。思わず声を出した。最初の声の主がそれを聞きつけた。

「目が覚めた様だ。」
「照明を点けましょう。」

 3人目の声がそう言った。そして目の前にほんわりとした黄色い灯りが灯った。マイロは己の瞼が開いていたことに気がついた。今迄真っ暗だったのだ。声の主達がいると思しき方向へ顔を向けた。男が2人座っていた。ライト付きのヘルメットを被り、繋ぎの作業服の様な格好だ。マイロは起きあがろうとした。再び後頭部がズキリと痛んだ。思わず悪態が口から出た。

「ああ、糞!」

 すると男の一人が囁いた。

「アメリカ人です。英語を喋りました。」
「知っている。」

 片方の男がそばへ来た。

「軽い脳震盪だ。それから少し頭皮を切っているが、大した傷ではない。」
「大したことはなくても、痛い。」

 と言いつつ、マイロは用心深く上体を起こした。恐る恐る後頭部に手を当ててみた。チクリと傷が痛んだ。

「一体、僕の身に何が・・・?」
「それは私にはわからない。」

と男が言った。

「君は竪穴から滑り落ちて来た。そして私の学生達の前にいきなり現れたのだ。」
「学生?」

 マイロは周囲を見回した。そして、2人の男の後ろにある物に気がつき、ギョッとした。

「貴方の後ろ!ミイラじゃないか?!」
「スィ、ミイラだ。」

 男もその連れも平然としていた。連れの若い方が言った。

「ここは14世紀の地下墓地で、我々は考古学者です。」

 マイロは暫く理解出来ないで土の上に座っていた。彼が覚えているのは、スラム街で携帯電話を少年にひったくられ、追いかけたことだ。路地に入り込み、角をいくつか曲がって、少年に追いつけそうになった時、いきなり後ろからガツンとやられた。そこで意識が飛んでしまった。
 マイロが黙ってしまったので、歳上の男が言った。

「オルガ・グランデの地下は金鉱を掘るための地下通路が迷路状に広がっている。そして古代から近世迄の先住民の地下墓地が同様にアリの巣のように造られている。市街の至る所にその入り口が口を開いていて、うっかりすると転落する。生きて出られるのは稀だ。大概は落ちたら死ぬ。」

 マイロは溜め息をついた。

「うっかり落ちたんじゃないと思う。ひったくりを追いかけて、多分そいつの仲間に後ろから襲われたんだ。気絶した。覚えているのはそれだけだ。」

 ああ、と若い方が呟いた。

「この人、穴に捨てられたんですよ。」
「運が良かったな。垂直の穴ではなく、傾斜孔に落とされたのだ。」

 彼等は立ち上がり、歳上の方がマイロに手を差し出した。

「立てるか、ドクトル・ミロ?」


第9部 古の部族       7

  診療所の業務時間が迫って来たので、マイロとチャパはメンドーサの元を辞した。外に出たが、まだ一日は始まったばかりの時刻だ。マイロは少しスラム街を歩いてみると言った。チャパが驚いた。

「止めた方が良いです、診療所の近所は安全かも知れませんが、奥は昼間でも危険です。」
「僕はアメリカでもっと危険な地区を歩いたことがある。それにこの広い通りから出ないように歩くよ。君は車で待っていてくれ。」

 マイロが歩き始めると、チャパは舌打ちして車の中に入った。運転席からマイロを眺め、エンジンをかけるとそっと車を駐車場から出した。少し進んで止まり、少し進んで止まり、マイロが見える距離を静かに尾行した。マイロは気がついたが、振り返らずに歩き続けた。
 スラム街はスラムなりに店があった。何やら怪しげな商品を並べて売っていたり、食べ物を出す屋台があった。マイロの黒い肌はそんなに珍しくないのか、気軽に声をかけて来る売り子もいた。マイロはそんな一人に質問してみた。

「呪い師って、どうやって探すんですか?」

 すると売り子は黙って彼から離れた。肩をすくめ、首を振っただけだった。知らないのか。マイロはさらに歩き、声をかけて来る人に呪い師のことを訊いてみたが、手応えはなかった。呪い師が何かハーブのような物を儀式に使い、それがサシガメを追い払うのだとしたら、予防手段に用いることも可能ではないか、と考えたのだが、呪い師を見つけるのは容易くないようだ。スラム街に住んでいない呪い師の住所をスラムの住人は知らないのだ。せめて探し方を教えてくれないかな、とマイロは思った。アスクラカンでもエル・ティティでも呪い師はいるのだろう。グラダ・シティでもいるだろう。しかし、どうやって連絡をつければ良いのか。

 何やってんだろうな、僕は・・・

 最先端医療の研究者の筈なのに、中米の貧しい国で最も貧しい地区で呪い師を探している。マイロはなんだか馬鹿馬鹿しくなってきた。

「兄さん、タバコくれよ。」

 若い男の声が聞こえた。振り向くと、10代後半の若い男が道端に座り込んで、こちらを見ていた。

「タバコは吸わないんだ。」

 答えると、少年が立ち上がった。

「それじゃ、葉っぱは?」
「やらない。」
「それなら、なんでここに来てるんだ?」

 マイロは携帯を出した。サシガメの写真を出して見せた。

「この虫を見たことあるか?」

 少年が顔を近づけた。と思ったら、いきなりマイロの手から携帯電話をひったくって走り出した。

「待て!」

 マイロは追いかけた。少年は路地に逃げ込み、マイロは追った。チャパの目の前でマイロは姿を消した。

 

第9部 古の部族       6

「セルバのサシガメは、周辺国と同様、メキシコサシガメの一種です。特に変わった生態を持っている訳ではありませんし、体内に持っている原虫も変わらないと思います。」

 メンドーサは診察室の壁をちらりと見た。

「ここは消毒していますが、この集落の家々はそんな余裕がありません。刺される人も少なくありません。」
「では、生息場所が限定されていると言うことですか?」
「それ以外に考えられません。」

 メンドーサはカルテをパラパラとめくり、一件を広げてマイロに差し出した。

「患者はこの地区の住人です。寝ている間に刺されたと思われます。発症迄時間が経っていたので、当人は何時何処で刺されたのか覚えていませんでした。」

 患者は慢性心筋炎に罹っていた。既に死亡している。 メンドーサはさらにマイロに綴りを持たせたままで数ページめくった。

「この女性も心筋炎で死亡しました。ここは貧しい人々が住んでいます。彼等が私の所へ来る頃には殆ど手遅れの状態なのです。」

 それは他国でも同じだった。金銭的余裕がある人でも気付くのが遅い場合がある。シャーガス病は早期発見が回復の決めてで、発見が遅れれば助からない。

「何故、ここだけに発症例があるのでしょう? グラダ・シティやアスクラカンは清潔なのでしょうか?」
「清潔に見えましたか?」

 メンドーサが苦笑した。

「首都や内陸の商都が消毒薬で綺麗だと思いますか?」

 マイロは隣のチャパの表情が固くなったことに気が付かなかった。メンドーサはちょっと考えてから、言った。

「セルバ人の体質は普通のものです。特別にクルーズトリパノゾーマに免疫がある訳ではありません。その証拠に、都会の人間をこの地区に連れてきたら、数日内にサシガメに刺されますよ。恐らく、サシガメにとって、ここが一番住みやすいと言うだけなのでしょう。」

 チャパが不意に質問した。

「ここには、呪い師はいないのですか?」

 マイロはびっくりして助手を振り返った。メンドーサが若者を見た。

「この地区に住んでいません。頼まれればやって来ますが、謝礼を出せる家庭がどれだけいるか・・・」
「呪い師?」

 マイロはチャパとメンドーサ、どちらにともなく尋ねた。医者らしくない言葉だ。だが、以前にもそんな話を聞いた記憶があった。メンドーサがマイロに意味不明の微笑をして見せた。

「外国人の貴方には奇異に聞こえるでしょうが、セルバの呪い師は新しい家を建てる時に儀式を行ってくれます。そうすると、その家はその呪い師が元気なうちは病人を出さないと言い伝えられているのです。民間信仰ですがね。」
「その呪い師に払う謝礼を払えない人が、ここに集まっているんですよ。」

とチャパが悲しそうに言った。

2023/02/05

第9部 古の部族       5

  スラム街へ行くと言うと、チャパはあまり気乗りしない表情だった。だからマイロは提案した。

「僕が車から降りたら、君はそのまま市街地へ戻って、陸軍病院でシャーガス病の患者がいないか訊いてくれないか?」
「先生一人置いて行くなんて出来ません。」
「僕は医者の所にいるから、多分安全だと思う。帰る時は連絡する。」

 チャパは結局一緒に行くと言った。万が一マイロに良くないことが起これば、彼が責任を問われるとわかっていたのだ。
 スラム街は石の住居に板屋根を載っけたような小屋が建ち並ぶ斜面の集落だった。煉瓦造りの家もあったが、それもかなり年季が入っていた。だがマイロが知っているゴミだらけの歩道や落書きだらけの壁は殆どなかった。所在無げに家の前で座っている男や、井戸らしき場所で集まって喋っている女性達が、目慣れぬ車の侵入に注目したが、襲ってくる気配はなかった。
 ペンディエンテ・ブランカ診療所は看板を出していたので、すぐにわかった。白っぽい石の坂道の登り口にあるコンクリート製の建物で、駐車場も4、5台分あった。すぐ裏手の小さな家は医者の住まいかも知れない。住民の家には見えなかった。
 マイロとチャパが車を降りると、診療所のドアが開いて、メスティーソの中年男性が顔を出した。マイロは「ブエノス・ディアス」と挨拶した。男性が頷いた。

「ブエノス・ディアス。貴方がドクトル・マイロ?」
「スィ。ドクトル・メンドーサですね?」

 2人は握手した。マイロはチャパを紹介し、診療所の中に案内された。看護師らしい中年のメスティーソの女性が業務開始の準備をしていた。歩きながらメンドーサが尋ねた。

「シャーガス病の研究をなさっているのですか?」
「スィ。実は、セルバ共和国ではシャーガス病の発症例がないと聞いて、何故なのだろうと調査に来たのです。実際、グラダ・シティでもアスクラカンでもエル・ティティでも、症例があったと言う話を聞けませんでした。病気を媒介するサシガメすら見つけられなかった。だから、噂通り、この国にシャーガス病が発生していないのだと思い始めていたのですが・・・」

 メンドーサが診察室のドアを開いた。

「医療関係者に会って話を聞かれましたか?」
「スィ。グラダ大学医学部で研究者達と話をしましたが、彼等は発症例がない病気に無関心な様子でした。アスクラカンでは町医者の話を聞きましたが、やはりシャーガス病の患者を診たことはないと言うことでした。」

 マイロとチャパはメンドーサが指した椅子に座った。メンドーサは自分の椅子に座り、棚からカルテを綴ったものを数冊出した。

「私はここで仕事を始めて10年になります。シャーガス病のことは勿論学生時代に習いました。この国の医者は免許を取るとほぼ全員がメキシコや外国の病院へ研修に出ます。ですから、みんなシャーガス病のことは知っています。だが帰国してから実際に患者に出会う医者は殆どいないでしょう。」
「何故です?」

 マイロは身を乗り出した。

「何か特別なことでもあるのでしょうか? サシガメの種類が異なるとか・・・?」


第9部 古の部族       4

  セラード・ホテルはリゾート気分になれなかったが、寝るだけなら申し分なかった。部屋も平日に関わらずそこそこ塞がっていて、客はそれなりに身なりの良い人々で、ビジネスホテルの雰囲気だった。食堂がないので、朝食はチェックアウトしてからチャパと2人で街中のカフェに入った。そこでマイロはオルガ・グランデ陸軍病院に電話をかけた。グラダ大学医学部出身者が多く働いている病院で、何か相談事があれば陸軍病院に連絡すると良いと学部長に言われていたからだ。マイロは電話口に出た女性に、身分と旅行の目的を告げ、スラム街の住民の健康状態について知りたいが誰に訊けば良いかと相談してみた。
 女性は少し待って下さいと言い、一旦電話から離れたが、数分も経たぬうちに戻って来た。そしてある医師の連絡先を教えてくれた。

ーー町医者ですが、スラム街の住人の健康管理も市から委託されている先生です。

と電話口の女性は親切に言った。

ーー忙しい人ですから、電話で約束を取り付けてから訪問された方が良いでしょう。
「グラシャス!」

 マイロは教えられた番号へかけてみた。数回の呼び出し音の後で、男性の声が応答した。

ーーペンディエンテ・ブランカ診療所・・・
「オーラ、私はアーノルド・マイロと申します。アメリカから来たグラダ大学医学部の客員研究者です。ドクトル・メンドーサでしょうか?」
ーースィ・・・

 相手が戸惑ったのか、すぐには反応がなかった。マイロは急いで続けた。

「シャーガス病の研究をしています。もし時間があれば、スラムの住民の健康状態についてお話しを伺いたいのですが、貴方のご都合はいかがでしょうか?」
ーーシャーガス病?
「スィ。あの厄介な病気の予防方法を研究しています。もし、貴方の患者の中でその症例がありましたら・・・」
ーー患者はいますよ。

 え? とマイロはびっくりして声を出してしまった。セルバ共和国ではシャーガス病は発症例がなかったのではないのか?
 メンドーサ医師が言った。

ーーシャーガス病の患者はいます。だが薬剤が高価なので治療の目処が立たない。

 マイロは緊張を覚えた。

「これからそちらへお伺いしても宜しいでしょうか? お仕事の邪魔はしません。」
ーーどうぞ。診療は9時から始めます。

 時刻は午前7時半だった。


2023/02/04

第9部 古の部族       3

  オルガ・グランデのリオ・ブランカ通りにあるセラード・ホテルがその夜の宿泊場所だった。予約した訳ではなかったが、グラダ・シティを出発する前に調べたら、そのホテルが予算の範囲内で一番評判が良かった。少なくともセキュリティ上安全なのだ。だからしっかりした宿泊施設だろうと思って行ってみたら、普通の安宿だった。入ったところにロビーがあって、受付カウンターがあるのはホテルらしい体裁だ。しかし鍵をもらって2階へ上がると、トイレは共同でシャワーは一つしかなかった。マイロとチャパは隣り合う部屋に入った。ベッドと小さな物入れ用チェストがあるだけだった。冷蔵庫やテレビはない。荷物をベッドの下に押し込んで、廊下に出るとチャパも出て来た。ホテルに食事をする場所がないので、外食になる。フロントの男性に食事が出来る店を尋ねると、地図を出して来て通りを3、4本教えてくれた。そこへ行けばいくらでも店があると言う。
 ホテルから出て、2人は歩き出した。車はホテル前に路駐だ。道路脇にずらりと路駐の車が並んでいるので、少なくとも駐禁で警察に罰金を取られることはなさそうに思えた。

「セラード・ホテルにサシガメはいると思うかい?」

 マイロが尋ねると、チャパは肩をすくめた。

「セロ・オエステ村にいなければ、ここにもいないと思いますけど・・・」
「いるとすればメキシコサシガメの仲間だが・・・」

 マイロは周囲を見回した。古い石畳の道と石を基材にした家屋が並んでいる。そして広い道に出るとそこはアスファルト舗装でコンクリートのビルが建っていた。緑が少ない、と感じた。グラダ・シティに比べて街の色が白っぽい。
 昼食はエル・ティティを出る時に購入しておいたパンだけだったので、夕方にはもう空腹で堪らなかった。しかしセルバ共和国の夕食タイムは始まるのが遅い。殆どの店がまだ閉店の札を掲げていた。チャパは同国人だから慣れている。彼は大きな教会前の広場へマイロを連れて行った。そこでは気の早い屋台が早々に店を開けているところだった。
 ポジョフリート(フライドチキン)とライスの盛り合わせを頼み、道端に置かれた椅子に座って食べた。隣に座った男が、どこから来たのかと声をかけて来た。アメリカだと答えると、金を掘りに来たのか、船乗りかと訊かれた。マイロは携帯を出してサシガメの写真を見せた。

「こんな虫を見たことないですか?」

 男が目を細めて写真を見た。

「スラムに行けばいくらでもいるさ。」
「スラム?」

 男は摺鉢型の都市を囲む斜面の一角を指差した。

「まともな仕事にあり付けない連中の寝床さ。」
「虫に刺されて病気になる人もいる?」
「いるだろうさ。連中は医者にかかれないし、呪い師に払うお礼も持っていないから。」

 男がマイロをジロリと眺めた。

「昆虫学者かい?」
「まぁ、そんな様なものだけど・・・」

 研究専門の医者だと言っても、相手にはわからないだろう、とマイロは思った。男は職人風に見えた。

「貴方はこの近所の人?」
「スィ。仕立て屋だ。今日は上がってこれからバルを回る。」

 男は鶏肉の骨をしゃぶってから、マイロに注意を与えた。

「わかってるだろうが、スラムには暗くなってから近づくんじゃないぞ。」



第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...