2023/02/10

第9部 古の部族       17

 「私は医学には疎いし、高等教育を受けたこともありません。先代に拾われて、会社の経営のノウハウを叩き込まれた時に、教養として多くのことを少しずつ勉強させられた程度です。まぁ、先代が一番力を入れて教えてくれたことは、いかに人間を動かすかと言うことですがね。」

 バルデスが語り始めた。

「貴方が研究されているシャーガス病は知っています。中南米では珍しくない厄介な感染症ですな。私どもの鉱山では外国人労働者も多く働いています。その中にはセルバ国外でサシガメに刺されてあの忌々しい病気に感染したことを知らずにやって来る者が少なくありません。発症して、初めて自分に何が起きているのか知るのでしょう。アンゲルス鉱石は、先代のエンジェル鉱石時代から陸軍病院や市民病院に寄付をして、労働者の健康管理に気を配ってきました。しかし、あの病気は、労働者が医者にかかる頃にはもう手に負えない。薬剤は高価で治療に時間がかかります。労働者階級では治癒は無理なのです。」

 マイロはつい口を挟んでしまった。

「セルバ人の発症例は少ない様ですが・・・」
「東部では滅多に出ないだけです。向こうには・・・」

 バルデスは何かを言いかけて止めた。そしてオルガ・グランデの話に戻した。

「一応オルガ・グランデ市当局は年に1回市内の家屋の消毒を行なっています。昔疫病が流行って国全体で多くの死者を出してから、政府の方針なのです。費用は市民持ちですが、そんなに高価ではないので、比較的多くの市民が申し込んで消毒してもらっています。シャーガス病が標的の消毒ではないが、運よくあの虫も防げる様なのです。だからサシガメとか言う虫は、市街地では見かけません。しかし、スラム街は別です。住民は貧しく、市の援助があっても申し込む金銭的余裕がありません。ボランティア団体も治安が比較的良い地区にしか入らない。貴方が強盗被害に遭ったペンディエンテ・ブランカ地区などは論外です。」

 ああ、とマイロは納得しかけた。消毒と言う国全体の方針があるのか。しかし大学では耳にした記憶はないのだが。チャパを見ると、助手は黙って食事を続けていた。オルガ・グランデの有力者の話にうっかり割り込んで逆鱗に触れたくないのだろう。

「貴方が研究されているサシガメを防ぐ有効的な手段が、安価で為されるなら、この国は大歓迎です。そう言う国の役に立つ研究をされている方が、この国で強盗に遭われたと聞いて、私は情けない気持ちになったのです、ですから、これは私から貴方の研究への支援です。もしよろしければ、貴方がこの国に滞在中の資金援助をさせて頂きたい。」
「嬉しいのですが・・・貴方の会社に直接の見返りはないでしょう。」
「労働者の健康管理に使用する金を考えたら、大したことはありません。」

 バルデスは沈んだ表情をして見せた。

「セルバ人労働者は外国人労働者に病気が発生すると、その坑道で働くのを嫌がるのです。自分達に移りはしないかとね。消毒の必要がない病気でも坑道を消毒して安全だと言い聞かせなければなりません。その費用は馬鹿にならないのです。」





第9部 古の部族       16

  ドレスコードが気になってクローゼットを覗いて見ると、嫌味にならない程度にジャケットやシャツ、ボトム、革靴などが置かれていた。ネクタイがないので、仕方なくノータイで部屋を出た。チャパも「こんな服装は成年式の時以来です」とはにかみながら着替えて現れた。
 ダイニングルームに行くと、他の客もみなリラックスした服装で、リゾート気分でいることがわかり、2人は少し気が楽になった。
 案内されたテーブルは商談の客達から少し離れた位置にあったが、却って有り難かった。コース料理のメインと酒を好きな物をメニューから選べた。マイロは酔いたくなかったので、ビールにした。チャパもビールだ。セルバ人はビールが好きだ。地ビールだけでも10種類以上あった。
 食事を終える頃に、不意に一人の男性がテーブルの横に立った。

「ドクトル・マイロとセニョール・チャパですね?」

 顔を上げると、体格の良い日焼けしたメスティーソの男が立っていた。労働者ではなく事務仕事をしている綺麗な手をしていた。服装はマイロ達同様に淡い色のシャツの上に薄手のジャケットを着て、タイはしていなかった。
 マイロは立ち上がった。チャパも慌てて立ち上がった。

「アーノルド・マイロとホアン・チャパです。」
「アントニオ・バルデスです。」
「今日は思いがけないお招きを有り難うございます。」

 握手すると、力強い手応えが返ってきた。バルデスと言う男は気力も体力も充実している様だ。マイロが質問する前にバルデスが言った。

「この待遇に不審を抱いておられると思います。説明をさせて頂いてよろしいですか?」
「お願いします。」

 バルデスが2人に座るよう合図すると、ボーイがバルデス自身の為の椅子を素早く運んで来た。丸テーブルを3人で囲む形になった。

「先ず、これを貴方にお返しします。」

 バルデスがポケットから携帯電話を出してマイロに差し出した。マイロは目を見張った。彼の引ったくられた携帯電話だった。

「これをどこで?」
「市内の闇市でね・・・」

 バルデスが溜め息をついた。

「貧富の差が犯罪を生む。私の会社は大きいが、この国全体を救う力はありません。」


第9部 古の部族       15

  車で連れて行かれたのは、ホテルではなく誰かの別荘と思われる様な建物だった。豪奢な邸宅が点在する日当たりの良い斜面の上の方にある、2階建ての白い壁の家屋で、芝生の庭が贅沢に見えた。オルガ・グランデで庭に芝生を持つことは、裕福な印だ。数人の身なりの良い男女がその庭で散策したり、景色を楽しんでいた。

「アンゲルス鉱石が顧客の為に経営しているペンションです。」

と運転手が告げた。

「お客様は欧米やメキシコ、ブラジル等から来られます。」

 つまり金を買いに来ているのだろう。運転手はマイロとチャパの荷物を持つとフロントへ案内した。レセプションでチェックインの手続きを頼むと、マイロとチャパに頷いて外へ出て行った。
 マイロにとっては、このランクの宿泊施設は決して初めてではない。アメリカ国立感染症センターで勤務する科学者なら自腹で泊まれるか否かは別問題として、学会のシンポジウムやその他の会合でこの手の施設を利用することが何度かある。しかし一介の学生であるホアン・チャパには初めての経験だ。ロビーに入った途端に緊張している彼を促し、チェックインの手続きを済ませ、マイロはスタッフに案内されて部屋へ入った。綺麗なシングルの部屋で、寝室と居間がある。居間にバスルームのドアと隣の部屋へ繋がるドアがあった。チャパの部屋と行き来出来る構造だった。スタッフが夕食はダイニングルームで自由に取れること、料金はオーナー持ちなので気にしないで良いこと、と説明してから、最後に言い足した。

「恐らくお食事の頃に、オーナーが挨拶に来る予定です。どのお客様のテーブルにも回って行かれますから、お気楽にお待ち下さい。」

 オーナーとは、即ちセニョール・バルデスと言うフィクサーだな、とマイロは思った。この奇妙な待遇の説明を聞かせてもらえるのだ。自国の名誉の為に、強盗の被害に遭った外国人を一人一人もてなしている筈がない。きっと何か訳ありなのだ。

2023/02/09

第9部 古の部族       14

  アンドレ・ギャラガはマイロとチャパをセラード・ホテルに送り届けると、発掘現場に戻ると言って、歩き去った。マイロは部屋に入るとベッドに倒れ込み、そのまま眠り込んだ。なんだか急に物事が動き出したみたいだ。彼は早くアメリカへ帰りたいと思い、しかしまだ何か知らなければならないことがある様な気がして、微かな焦燥感を抱いたが、疲労で眠りに陥った。
 チャパが起こしに部屋に来てくれたのが午後5時半だった。セルバ人は時間にルーズな方なので、6時迄余裕があるかと思ったら、迎えが既に来ていると言う。マイロは慌てて顔を洗った。着替えも急いで済ませたが、サシガメ捕獲が目的の旅だ。Tシャツとデニムしか替えがなかった。ホテルを移動するだけだから、と荷物を急いでまとめて、チャパと共にロビーに降りた。
 白い制服を着た、いかにも「運転手」と言う身なりの男性が待っていた。マイロとチャパの名前を確認すると、車に案内してくれた。それが防弾ガラスで守られた高級S U V車で、マイロは驚いた。

「誰の差金です?」

思わず質問すると、運転手は「何を馬鹿な質問をするのだ」と言いたげな表情で答えた。

「セニョール・バルデスの御指図です。」

 チャパがギクっとして、マイロに囁いた。

「アンゲルス鉱石の経営者です。」
「金持ちか?」
「そりゃもう・・・」

 チャパはさらに小さな声で言った。

「逆らうと命がないと言われてます。」

 しかしマイロは素直に車に乗る気分になれなかった。

「僕等に親切にしてくれる理由がわからない。セニョール・バルデスに直接会うことは出来ますか?」

 運転手が困惑した顔になった。

「私にはわかりません。でも貴方の希望は伝えておきます。」

 チャパがまた言った。

「この場は素直に車に乗せてもらいましょう、先生。僕等が行かなければ、この運転手が罰を受けることになります。」
「そのバルデスって人はどんだけ力を持っているんだ?」

と言いつつも、マイロはセルバ人達を困らせるのは良くないと感じた。少なくともチャパを危険な目に遭わせることは出来ない。

「わかったよ、車に乗る。だけど断っておくが、僕は強盗に遭って有金全部盗られたんだ。だから君にチップを払えない。」


第9部 古の部族       13

 陸軍病院へは、アンドレ・ギャラガが道案内を兼ねて同行してくれた。古い趣のある植民地時代を彷彿させる建物だったが、中身は近代的な病院だった。受付でギャラガが自身のI Dを提示して、連絡が入っている筈だと言うと、すぐに看護師が現れて診察室へ案内してくれた。
 マイロはレントゲンを撮ってもらい、改めて傷口の消毒をしてもらった。怪我をした経緯を語ると、医師は「運が良かった」と言った。

「殺されて捨てられても不思議ではないです。あのペンディエンテ・ブランカ地区はオルガ・グランデでも一番治安の悪い地域です。憲兵隊に連絡を入れておいたと、付き添いの方が仰ったが、まず犯人は捕まりません。」

 それは携帯電話も戻って来ないと言うことだ。マイロは貴重な写真やメモや友人達の電話番号などを失ったことを悔やんだ。
 特に大きな怪我でなく、薬も不要だと言われ、処置代だけを支払って(払ったのはチャパだ)、病院を出たのはシエスタの時間が始まった後だった。

「クレジットカードは大丈夫だったんですか?」

 チャパに訊かれて、マイロはカード会社にも連絡する必要性を思い出した。

「ああ、なんてこった!」

 思わず英語で悪態をついた。ギャラガがチラリと彼を見た。

「カードを使える店は限られています。貴方の事件はアンゲルス鉱石に通報しておいたので、なんとかしてくれるでしょう。」
「鉱山会社が何をしてくれるんだ?」

 マイロが重い気分で尋ねると、チャパが理解したと言う表情でギャラガを見た。

「アーノルド・マイロ名義のカードを使う客がいたらすぐに会社に知らせが入るんですね?」
「スィ。」

 セルバ人同士で何か暗黙の了解事項があるようだ。
 ギャラガが昼食に誘ってくれた。マイロは食欲がなかったが、若者が案内してくれた食堂は美味しい煮込み料理を出しており、匂いを嗅いだら急に手が動いて彼は食べ物を腹に詰め込んでしまった。チャパも満腹で嬉しそうだ。
 食事中にギャラガの携帯に誰かから電話がかかって来て、若者は数分間中座した。戻って来ると、彼は尋ねた。

「宿泊はどちらに?」
「セラード・ホテルと言う宿だが・・・」

 ああ、とギャラガが頷いた。知っている宿の様だ。

「夕刻迄そちらで休んで下さい。知人が1800、つまり午後6時に迎えに行くので、荷物を持って車に乗って下さい。知人が別の宿に案内してくれます。」
「どう言うことです?」

 ギャラガはちょっと困った顔をした。

「知人は国費で研究されている外国人がオルガ・グランデで事件に巻き込まれたことを恥ずかしく思っています。 それで、貴方を励ましたいと思っている様です。」

 意味がわからない。マイロの表情を見て、ギャラガが苦笑した。

「戸惑われるのは当然です。私も今迄そんな待遇を聞いたことがありません。でも断らない方が良いですよ。断られることに慣れていない階級の人ですから。」


2023/02/08

第9部 古の部族       12

  小屋の外から車のエンジン音が聞こえて来た。ケサダ教授がマイロの為に小屋の隅に置かれた大きな保冷ボックスから水の瓶を取り出した時に、車がドアの前で停止した。車のドアが開閉する音が聞こえ、やがて3人の若い男が入って来た。先頭を走って来たのがホアン・チャパで、次がサンチョ・セルべラス、最後がマイロが初めて見る赤毛の白人だった。

「ドクトル!」

 チャパがマイロに抱きついた。

「無事だったんですね! 良かった!! ドクトル・メンドーサが警察に電話をかけようとしたところへ、そこの・・・」

 彼は赤毛の白人を振り返った。

「ギャラガ君が来て、貴方が無事だと教えてくれたんです。」

 ギャラガと呼ばれた男は、ケサダ教授と一瞬視線を交わし、それから己の繋ぎのポケットからマイロにとって見覚えのある品物を出して来た。

「溝に捨てられていました。現金は抜かれていましたが財布と身分証です。パスポートも・・・」

 汚れてしまった貴重品をマイロは受け取った。夢中で確認しているマイロは、背後でケサダ教授とセルべラスが視線を交わし、意味深に笑みを浮かべたことに気が付かなかった。チャパが溜め息をついた。

「パスポートを売り飛ばされなくて良かったです。」
「財布だって、この辺りじゃ売り物だからね。」

とギャラガが言った。マイロは顔を上げ、ギャラガが若いのに鍛え上げた肉体を持つことに気がついた。何かアスリートの様だ。教授や仲間と同じ様に繋ぎを着ているが、立派な筋肉を持っていることがわかる。考古学の学生なのだろうが、まるで軍人の様な雰囲気だ。

「医者に掛かりますか?」

とチャパがマイロに尋ねた。自分達も医学の分野の人間だが、マイロは頭部を怪我している。用心したいのは当然だ。

「ペンディエンテ・ブランカ診療所が一番近いが、この時間はシエスタの前で忙しいだろう。」

 ケサダ教授がそう言って、携帯電話を出した。マイロは己の携帯電話はどうしたのだろう、と思った。ギャラガが持って来てくれた品物の中に彼の携帯はなかった。
 ケサダ教授は誰かに電話を掛け、診察の手配をしている様子だった。マイロは横になりたくなった。気分が悪い訳ではない。酷く疲労を感じたのだ。セルバ共和国に発症例がないと思われたシャーガス病は、存在した。真剣にサシガメを探していたことが無駄になった。市街地で存在しない患者がスラムにいるのは、やはり住居の建築資材や構造の問題だろう。
 教授が通話を終えて、マイロに言った。

「陸軍病院が受け入れてくれるそうです。これからすぐに行きなさい。」


第9部 古の部族       11

  マイロはケサダ教授の沈黙の理由が判らなかった。呪い師との接触方法を考えてくれているのか、それとも呪いなど信じるに足らぬものだと考えているのか。
 やがて、教授が静かな口調で質問して来た。

「呪い師に関して、どんな話を聞かれました?」
「ああ・・・」

 マイロは天井に視線を向けた。

「グラダ大学医学部では、民間信仰による治療に頼る市民がまだ存在すると聞きました。医療を信用出来なくて、最期は呪い師に祈祷を頼むとか。
 アスクラカンでは、家を建てる時に呪い師に祈祷してもらい、その家に住む家族に災いが降りかからない様に祈ってもらうのだと言う話でした。だから、アスクラカンではシャーガス病の症例は聞かない、と町医者が言っていました。勿論、彼は祈祷のお陰でサシガメが家に住み着かないと信じている訳ではありませんが。
 ペンディエンテ・ブランカ診療所のメンドーサ医師は、スラム街の住民は呪い師を雇う金がないので儀式をしてもらえないと言っていました。だから、ここのスラム街にはシャーガス病の患者がいるのです。」

 フン、とケサダ教授が鼻を鳴らした。

「呪い師に病気を退ける力などありません。虫を追い払う特別な薬剤を使うのでもありません。そんな薬剤が存在したら、今頃中南米各国で販売されているのではないですか?」

 正論だ、とマイロは思った。彼は無意識に頭の傷に手をやって、腕の痛みに気がついた。どうやら穴に落ちた時の打撲傷らしい。

「体をところどころ打ったみたいです。失礼して服を脱がせてもらいます。」

 彼はシャツを脱いでみた。肌は黒いが打ち身があれば自分でわかる。そして傷は打ち身ではなく擦過傷だった。緊張が解けてきて、痛みが今頃出て来たのだ。教授が彼の体を眺めた。

「背中と腕に擦過傷があります。包帯の必要はないが消毒しておきましょう。」

 ヒリヒリする痛みにマイロは耐えた。彼の胸にぶら下がっている牙のネックレスに、教授が目を細めた。

「良いお守りをお持ちだ。」
「アダン・モンロイが貸してくれたんです。これを奪われなくて良かった。」
「誰もそんな物を奪おうとは思わないでしょう。」

 ケサダ教授は微かに意味不明な笑みを口元に浮かべた。マイロは気づかずに言った。

「これのお陰で殺されずに済んだのかも知れません。」

 ケサダが小さく頷いた。スィ、と。



第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...