2025/05/02

第11部  神殿        20

 「”名を秘めた女の人”は確かに大神官交代の夢を見て、マレンカ様に忠告なさったのでしょう。交代の夢とは、白いジャガーの夢です。ママコナが白いジャガーを夢で見ると大神官が交代すると言い伝えがありました。でも実際にそうなっていたのか、誰にもわかりません。交代とは、死を意味していましたから、ママコナが大神官に『貴方は死にます』などと告げていたとは、私は思えません。」
「女官や神官達が大神官の身体に異常が顕れた時に、そう宣伝していたってことか?」
「ママコナの権威を軽く考えて傀儡にしていた神官がいたと考えれば、きっとそう言うことだったのでしょう。」
「そして当代のママコナが白いジャガーの夢を見たと本当に言ったので、それを利用したのか?」
「彼女が実際にどんな夢を見たのか、それは彼女が”心話”で語りかける侍女にしかわからないでしょう。」
「ただのモノクロの夢で白地に黒い点々がついたジャガーだったかも知れない、と君は思うんだな?」
「でも彼女は、何か良くないことが神殿内で起きつつあることは、察していたのでしょう。」

 テオはアスマ神官の名前の部分をペンでトントンと叩いた。

「君が”サンキフエラの心臓”をこの神官に預けた時、神官はあの石が”ティエラ”のための物で”シエロ”には効果がないと知っていた・・・」
「仲間にカイナ族のエロワ神官がいますから、石の正体はエロワから聞いたでしょう。アスマ神官は大神官代理の健康をさも気遣うふりをして、治療に石を使ってみた、でも当然効果がありません。本物かどうかわからないので、大統領府厨房スタッフに毒を盛ってテストしたのです。」
「本物でも”シエロ”には効果がない石だから、大神官代理は治らない・・・だから、彼は神殿から逃げることにした?」
「一族の治療師はどこでどの神官と繋がっているかわかりません。だから、マレンカ様は親族の近衛兵に逃亡の手助けを依頼されました。」
「それがロホの兄さんのウイノカ・マレンカさんだったんだな?」

 ケツァル少佐が苦笑した。

「ロホの兄さんが神殿で働いていると知っていましたが、まさか神殿近衛兵だったとは、私も昨晩まで知りませんでした。近衛兵が大統領警護隊だったことも・・・。」
「正直言うと、俺もウイノカさん本人から接触される迄知らなかった。そしてロホや君達には教えるなと口止めされたんだよ、黙っていてごめん。」

 テオが謝ると、少佐を首を振った。

「我が一族は互いに秘密を持ち合いますから、貴方が謝ることはありません。ウイノカさんの身分はご家族にも秘密なのでしょう、奥さんもご存じないと思いますよ。神殿の事務官程度に思っておられることでしょう。ロホが裁判に出廷した時、既にウイノカさんの証言は終わっていたので、ロホはまだお兄さんの身分を知らないのです。」
「そうなのか・・・」

 テオは、まだ親友に秘密を持たなければならないのか、と心苦しく思った。少佐は気にする様子がなかった。

「ウイノカさんは、神官達がエダの神殿に出かけた直後に、毒の調査に入り、貴方と接触したのです。」
「スィ、毒の出どころと誰が手に入れたか調べた。あれはマハルダも内容を知っている。」
「スィ、薬屋のカダイ師から神官の従者が購入したのです。カダイ師は記憶を消されていましたが。従者は近衛兵の尋問を受け、白状しました。一般市民に害を為したことで、彼は処罰されました。」
「まさか、死刑・・・」
「神殿追放です。そして当分正業には就けないでしょう。」


2025/04/30

第11部  神殿        19

 本来は大神官代理の交代は、当代の代理が病気又は老齢で職務を果たせなくなった時に行われる。しかし、4人の神官はそれを待てないと思ったのだ。彼等は自分達の代に自分達の権威を拡大してくれる大神官代理を望んだ。代理でなく大神官でも良いのだ。そして彼等には家系に伝わる遠い祖先の話があった。祖先の一人はグラダ族だったと言う・・・。神官は独身だが、親族の子供を大神官代理にして操ることが出来る。傀儡だ。それに、これは審問で判明したのだが、マスケゴ族の神官クワロワには、神官でありながら隠し子がいたのだ。彼は女官の一人との間に男の子をもうけていた。もう直ぐ1歳になる。

「その子が、グラダを祖先に持つ神官候補適齢期の子って訳か!」
「スィ、とんでもない話です。」

 少佐は女官の名前と子供とクワロワの名前の下に小さく書き加えた。
 テオは内心ホッとした。ケサダ家の男の子を狙っていたのではなかったのだ。恐らく、ケサダ家の血統が明確でないことを不安に感じたクワロワ神官が、ムリリョ博士にケサダ教授の家の孫を養子に欲しいと持ちかけて、血筋を確かめようとしたのだ。クワロワと名乗っているが本物のケサダの血筋である神官は、ムリリョ博士に断られ、ムリリョ家のケサダ達が神官職に興味を持たないと安堵したに違いない。 

「彼等は世襲制に反対するマレンカ大神官代理を呪いで病にした。」

 テオは赤ペンで上部4人を括弧で括り、ロアン・マレンカの名前に向けて矢印を書いた。 少佐が怒りの表情で言った。

「呪われる本人にバレないように、4人で静かに少しずつ爆裂波を彼の膵臓に向けたのです。大神官代理が体の不調に気がついた時には、もう自分で対処不可能な状態になっていました。」

 ママコナは4人の神官の叛乱を予知していた。彼女はマレンカ大神官代理に警告したのに、大神官代理はカイナ族出身のママコナの声を軽んじて聞かなかったのだ。手遅れになってから、彼女に助けを求めた。
 テオは呟いた。

「ママコナは叛乱を予知していたんだよ。でもマレンカ氏は彼女の警告を無視しちまったんだ。」

 少佐が振り向いた。

「なんですって?」

 テオは内心慌てた。ママコナと会ったことは誰にも言ってはならない。彼は必死で頭を回転させて言い訳した。

「だってさ・・・ママコナは神殿内で起きることはわかっているんだろ? 彼女は何が起きているか知っていた筈だよ。そして大神官代理に教えたと思うんだ。でも強い能力を持つ部族の人達は、オセロットやマーゲイを甘く見ているだろ? きっと大神官代理はママコナの忠告を聞かなかったんだ。」

 少佐は暫く黙って彼を見ていたが、やがて視線をホワイトボードに戻した。


第11部  神殿        18

  テオはボードの左端上部に、「ラス・ラグナス 石」と書いた。そして少し斜め右に、アスマと書いた。すると少佐が横に来て、彼からペンを受け取り、アスマの下にカエンシット、エロワ、クワロワ、フレータ、ロムべサラゲレス、スワレ、後5人の名前を書いた。それからそれぞれの名前の右側に()付きで部族名を書いたので、テオはそれが神官の名前だとわかった。 彼女はそれからさらに右にロアン・マレンカと書いた。大神官代理だ。 次に大神官代理の名前の上の空きスペースに「長老会」と書き、神官達の名前のずっと下に「神殿近衛兵 女性 男性」と書き入れた。
 そして、石から矢印をアスマへ伸ばした。

「私がサンキ・フエラの石をアスマに渡してから、事件が始まりました。でも・・・」

 彼女は「長老会」の下に小さく「夢」と書き加えた。

「長老の一人が、”名を秘めた女”が白いジャガーの夢を見た、と言ったそうです。それは石が発見される前のことで、 ”名を秘めた女”は特別な意味を持って言ったのではなく、単に見た夢の話をしたのですが、彼女の夢は時に予言と解釈されます。その長老は昨今の神殿の権威がセルバ社会で低下していることを嘆き、神官に代替わりが必要かも知れないと脅すつもりで言ったようです。」
「ママコナが白いジャガーの夢を見ることは、大神官の代替わりを予言することになると、ムリリョ博士も言っていた。」
「スィ。でも、本当に”名を秘めた女”は予知夢を見たのではありません。彼女はただ色がついていない夢を見たに過ぎなかったのです。」

 そう言われると、テオもたまにモノクロの夢を見たことがあったなぁ、と思った。内容は覚えていなかったが。

「彼女は夢の話をうっかり他人に話すことも出来ないんだな。」
「そうですね、お気の毒ですが、話す相手を限定するべきでした。」

 少佐も苦笑した。

「でも、話を聞いた長老も、それが予言だとは捉えなかったのですよ。神官達を叱咤激励するつもりで迂闊に喋ってしまったのです。彼は、後で長老会のメンバー達から厳重に注意されたそうです。」
「だが、それを誤解した神官がいたんだな?」

 少佐がアスマ、カエンシット、エロワ、そしてテオが初めて目にするクワロワと言う名前に黒丸を付けた。

「彼等は、神官ではなく、大神官代理を交代させることを考えたのです。」

2025/04/28

第11部  神殿        17

  大学での仕事は何事もなく平穏にこなせた。学生達は遺伝子の組み替えのさまざまなパターンを考察し、人間の病気に対する遺伝子の影響を考えた。どうすれば病気に強い子供を産めるようになるのか。 それは人口の減少が早い少数民族の課題でもあった。多産でも生まれた子供が病気に罹りやすければ、衛生管理に力を入れても、経済的に貧しい人が多いこの国では乳幼児の死亡率低下を防げない。テオは彼本来の研究分野に没頭して、夕方までなんとか神殿の問題を忘れていられた。
 夕方、研究室を閉めて駐車場に向かいながら携帯をチェックすると、ケツァル少佐からメッセージが入っていた。

ーー今夜帰ります。夕食に間に合うと思います。

 それだけだった。テオは「お疲れ」とだけ返信した。
 駐車場でケサダ教授を見かけた。教授は何もなかったかのように、他の職員と談笑していた。テオは彼に声をかけずに車に乗り込み、帰路に着いた。
 文化・教育省の駐車場に立ち寄ってみると、ロホのビートルが駐車していた。ロホも何とか己の役目を終えたようだ。
 恐らく長老会は文化保護担当部に裁判の詳細に立ち入らせなかったのだ。必要な証言だけ語らせて、彼等を解放したに違いない。
 テオは駐車場を一周してから、自宅に向かった。役所は大学より終業時間が少しだけ遅い。約束していれば、テオは彼等を待つが、この日は誰とも約束していなかったので、自宅で少佐を待つことにした。
 帰宅すると、家政婦のカーラが食事の支度をしていた。テーブルは2人分の用意だけだった。少佐は彼女に特に何も連絡をしていなかった様だ。テオは自分のスペースでシャワーを浴び、着替えて、ダイニングに入った。そこへ少佐が帰って来た。 テオが玄関に出迎えて、「お帰り」とキスをすると、彼女は素直に、何もなかったかの様に応じた。そして、いつもの様にシャワーを浴びて着替えた。
 食事の開始も普段と変わらず、穏やかに2人で乾杯して、カーラに残りの食材を与えて帰らせた。
 カーラがいなくなって、本当に2人きりになると、少佐が初めて大きく溜め息をついた。テオは尋ねた。

「事件は全て解決したのかい?」
「多分・・・」

 少佐が少々投げやりな声で答えた。

「相変わらず、我々には全容を教えてくれない人々です。」

 長老会と神殿の人々のことを言っているのだろう。テオは立ち上がり、リビングへ行った。そこに、最近彼が購入したキャスター付きのホワイトボードがあった。大学の准教授らしい発想で、彼は友人達とややこしい話をするために準備したのだ。今迄部屋の片隅に置いたままで使ったことがなかったが、今回はこれが必要だと思えた。
 彼がコロコロとボードを押して来るのを見て、少佐がちょっと笑った。

「刑事ドラマみたいです。」
「そうさ、時系列や登場人物の相関図がないと、俺は理解出来ないからな。」

2025/04/25

第11部  神殿        16

  夜が明けたが、誰も帰って来なかった。テオは一人で朝食を取り、ケツァル少佐の携帯に電話をかけてみたが、繋がらなかった。電源を切っているらしい。それとも神殿は外から繋がらないのか?
 もやもやした気分だったが、仕事に行かなければならない。身支度していると、ドアチャイムが鳴った。防犯カメラを見ると、アンドレ・ギャラガ少尉が一人だけ立っていて、カメラに向かって、階段方向を指差した。これからここへ上がって来るのだ。テオはマイクに向かって「O K」と呟いた。
 ギャラガはエレベーターを使わず駆け足で階段を登ってきた。かなりの健脚だ。テオが玄関のドアを開けた時、彼は普通の呼吸だった。

「ブエノス・ディアス、ドクトル。これからお仕事ですか?」
「スィ。君は・・・」
「私も出勤します。」

 まるで何事もなかったかのような言い方だったが、すぐに彼は言い添えた。

「他の上官達は全員本部に足止めです。」
「君だけが解放されたのか?」
「そんなところです。」

 テオは時計を見た。まだ半時間余裕がある。

「君の出勤時間の方が早いから、俺の車で送って行こう。それとも車で官舎から来たのか?」
「ノ、バスで来ました。」
「それじゃ、コーヒーを飲む時間はあるだろう。」

 テオは返事を待たずにキッチンへ行き、ポットからコーヒーをカップに注いだ。ギャラガは遠慮なくそれを受け取った。そしてテオが尋ねる前に、彼が知りたいことを喋ってくれた。

「ケツァル少佐とデネロス少尉はエダの神殿で起きたことを神殿近衛兵達と共に証言するために本部に足止めです。長老会と神官の弾劾裁判が終わる迄本部から出られません。
 ロホ先輩は大神官代理が呪いをかけられた件でやはり証言を求められていますが、現在は大神官代理の治療を優先させるとのことで、治療出来る能力を持っている叔父さんを呼びに行っています。それで、裁判にはアスル先輩が代理で出廷します。」
「君は証言を求められないのか?」
「私はどの件にも直接関わっていないので、少佐から業務遂行を命じられ、本部も認めました。」
「それじゃ、君は一人で文化保護担当部の業務を死守しなきゃならないんだ・・・」

 ちょっとだけ揶揄った。ギャラガを励ましたかった。ギャラガもそれに気がついて、苦笑した。

「スィ、責任重大です。こんな場合はステファン大尉が助っ人に来てくれる筈なんですが、神官数人を拘束しているので遊撃班が神殿に『出動』しているんです。神殿近衛兵では神官との馴れ合いの心配があるとかで・・・まぁ、あり得ませんがね。」
「せめてマハルダだけでも返して欲しいよな。」
「全くです。」

 2人は仕事に行くためにアパートを出た。階段を降りながら、テオはギャラガに質問した。

「アンドレ、君は官舎をいつ出るんだい? アスルとマカレオ通りの家に住んでみるつもりはないのかい?」
「あー、その件ですか・・・」

 ギャラガが悩ましげな表情になった。

「アスル先輩との同居は構わないんですが、近所から恋人同士だと思われないかと心配で・・・」

 テオは思わず笑ってしまった。

「俺と同居している時にそんな噂は一度も出なかった。あのご近所さん達は男同士、女同士で住んでいても気にしないし、噂も立てない。君達は同じ職場だが、勤務内容で片方が長期間留守にしたり、毎日帰って来たり、バラバラだろう。ただのルームシェアさ。」

 ギャラガは地下の駐車場でテオの車の前まで来て、やっと言った。

「積極的に同居の件、考えます。」

2025/04/21

第11部  神殿        15

 ほんの10数分だったが、テオは眠った。声をかけられて目を覚ますと、彼が住んでいるコンドミニアムの前に停車していた。アブラーン・シメネス・デ・ムリリョが運転席で微笑を浮かべて彼を眺めていた。

「疲れているんですね。何があったのか聞きませんが、貴方が大統領警護隊を呼べない状況なのだと察します。」

 テオは背もたれから体を起こした。

「グラシャス、ちょっとした事故みたいなもので、自宅から急に遠くへ飛ばされたもので・・・」

 普通の人なら意味不明の彼の言い訳を、アブラーンは真面目に聞いてくれた。 ”ヴェルデ・シエロ”の社会なら、偶にあることなのだろう・・・。テオは反対に彼に尋ねた。

「貴方は何故こんな時刻に外を走っていたのですか?」
「私はパーティー帰りです。」

 そう言えば、アブラーンはスーツ姿だった。

「ビジネス上の付き合いで、出席しなければならなかったのです。私はプライベイトなら飲みますが、ビジネスでは頭をすっきりさせたいので飲みません。飲んだと思わせて、夜明けまで付き合うつもりはなかったので、抜け出したのです。お陰で貴方を拾うことが出来ました。」
「グラシャス。」

 テオは車外に出た。

「貴方のご家族によろしくお伝えください。妹さん達にも・・・」
「父やフィデルではなく、妹達にですか?」

 アブラーンが意味深に微笑んだ。女性に関係あることだろう、と勝手に想像したのだ。テオは「おやすみなさい」と言い、アブラーンは彼がドアを閉めると、すぐに走り去った。
 テオはアパートに入った。エレベーターで最上階に上がり、自室に入った。ひどく疲れて、寝室に入るとベッドに倒れ込み、そのまま眠った。 

2025/04/20

第11部  神殿        14

 都会の墓地は周囲を柵で囲まれている。門番がいて、夜間は門扉が閉じられ開門時間にならなければ開かれない。 テオは迷ったが、その墓地の柵が壊れていないか静かに歩いて探し、なんとか外へ抜け出すことが出来た。

 それにしても、ここはどこだ?

 普段は尻ポケットに携帯を入れているが、夜寝る準備をしていた時に来客があって、寝そびれた。携帯もリビングのテーブルの上に置いて来てしまった。現在地もわからない。兎に角大きな通りに出よう。
 テオは夜の闇を歩き出した。月が天空に浮かんでいる。高さから考えると、現在は午前3時か4時だろうか。夜明けが近い。
 みんなどうしているのだろう。ケツァル少佐と大統領警護隊文化保護担当部の仲間は、本部で足止めを食っていると思って良いだろう。神官達のゴタゴタは片付いたのだろうか。
 住宅地を抜けて、車が通る広い道に出た。そこまで来ると建物の様子から、グラダ・シティの南部だと見当がついた。ここから西サン・ペドロ通りまで歩くのはしんどいなぁ、と思うと急に疲れを感じた。
 後ろから1台の乗用車が走って来て、彼を追い越して行った。ぼんやり眺めながら歩いて行くと、その車が路肩で停車していた。かなり高級なセダンだ。金持ちの車だな、と思っていると、運転席のドアが開いて男が降りて、こちらを向いて立った。

「ドクトル・アルスト?」

声をかけられて、テオはびっくりした。暗いので相手の顔を判別出来ない。歩き続けながら答えた。

「スィ。貴方は・・・」
「アブラーン・シメネス・デ・ムリリョです。」

 あ、っと思った。ムリリョ博士の長子で大企業ロカ・エテルナ社の社長だ。 テオが「こんばんは」と言うと、相手は不思議そうに訊いてきた。

「こんな時刻にこんな場所で、どうして一人で歩いておられるのです?」
「ちょっと訳がありまして・・・」

 アブラーンに事情を説明出来ない。彼は「一般の”ヴェルデ・シエロ”」で、神殿の内乱には無関係だ。きっとアブラーンの父親ムリリョ博士だって息子に今回の騒動を教えていない筈だ。無関係の人間を巻き込んではならない。
 テオは相手に詮索されぬうちに言った。

「訳ありで、事情を語れませんが、困っています。西サン・ペドロ通りの入り口まで送っていただけませんか?」

 アブラーンはどうやら一人だった様で、誰に相談するともなく、頷いた。

「構いません、通り道ですから。」

 彼は助手席のドアを手で指した。テオは「グラシャス」と言うと、素早く車に乗り込んだ。革張りのゆったりした座席に腰を下ろすと、睡魔が襲って来た。

「申し訳ありませんが、眠らせてください。着いたら起こしてください。」

 厚かましい要請に、アブラーンは苦笑した様子だったが、何も言わずに車を発進させた。

第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...