2021/06/21

風の刃 6

  シオドアは午後大学に戻り、充てがわれた医学部の研究室にいた。カフェから持ち帰ったクシャクシャの紙ナプキンを広げ、ケツァル少佐が唇を拭った箇所の紙を切り取り、溶媒に浸した。唾液からD N Aを検出するのだ。紙ナプキンをポケットに入れる時にウェイターが気味が悪そうに見ていたが、カップを持ち帰る訳にいかないので、己では気にしないことにした。何故少佐のD N Aを分析したくなったのか、自分でもわからない。好きな女性のことをもっと知りたいのかも知れない。オルガ・グランデの鉱山で働いている被験者の遺伝子マップは持ち出せなかったが、少佐の遺伝子を分析出来れば、その遺伝子マップを本国へメールで送って助手に見て貰えば良い。ダブスンに横取りされる恐れがあるが、誰のものか言わなければ良いのだ。
 作業に夢中になっていると、電話が掛かってきた。考古学のリオッタ教授だった。

ーー大統領警護隊の担当者に会えましたか?

 文化保護担当部の場所を教えてくれた人だ。シオドアは礼をまだ言っていないことに気がついた。

「会えました。女性の少佐に・・・」

 するとリオッタ教授が「ワオ!」と声を上げた。

ーーケツァル少佐に会えたんですか! ブラビッシモ!(素晴らしい) 彼女はとても忙しい人で、なかなか出会えないんですよ!
「そうなんですか。私はすぐに会えました。」

 ランチまで一緒に食べたと言う必要はないだろう。

「場所を教えてくれて有り難う。」

 シオドアは溶媒の中の紙ナプキンが気になった。そろそろ引き上げなくては。リオッタ教授はシオドアが電話を切るタイミングを図っているとも知らずに喋り続けた。

ーーなんの、なんの、貴方に喜んでいただけて、私も幸せです。ところで、今週末は何かご予定はおありかな?
「え? 今週末ですか・・・」
 
 ケツァル少佐が何か言っていたな。週末に出かけろとか何とか・・・。

ーーステファン中尉から電話がありましてね、貴方にオクタカス遺跡の発掘に同行願えないかと言うんです。素晴らしいじゃないですか、オクタカス遺跡ですよ!
「あの・・・」
ーーフランスの調査隊が発掘しているんですが、色々未知の神像とか彫刻が出てきて、凄い所だそうです。ずっと見学したかったのですが、ご存知の通り、この国は最初に申請した書類に書かれたメンバーしか遺跡に立ち入れないんですよ。でも貴方が行かれるのでしたら、私も同伴して良いと言うことなんです。
「でも・・・」
ーー交通の手配もしてくれるそうです。行きましょう、アルスト先生!

 リオッタ教授の勢いに押されて、シオドアは仕方なく承知した。電話を終えて考えた。ステファン中尉って誰だ? そして溶媒の中の紙ナプキンを思い出した。慌てて引き上げて、紙と溶液を別々の分析器にかけた。
 

風の刃 5

  折角美人と楽しいランチデートをしているのに邪魔が入った。シオドアには相手の正体がわからなかったが、少佐が突然ビクッとした表情で立ち上がった。店の外に視線を送る。シオドアも同じ方向を見たが、通りを行き交う車や人が見えるだけだった。

「どうかした?」

 彼の問いかけに、彼女が振り返った。珍しい物を見る目付きで彼を見下ろした。

「”曙のピラミッド”に近づいたのですか?」

 シオドアは面食らった。誰が少佐にそんなことを教えたのだ? 何時?

「観光客の帽子が飛ばされたので、拾ってあげただけだよ。警察官にも注意されたけど、そんなに悪いことかい?」
「悪いことではありませんが・・・」

 少佐は椅子に座り直した。

「貴方の身が危険です。」
「はぁ?」

 訳がわからない。

「ロホから聞いていないのかい? 俺が警察官にいちゃもんつけられているところを彼が助けてくれたんだ。もう平気だと思うけど・・・」
「そんな問題ではありません。」

  ケツァル少佐は皿の上に残っていたタコスを掴むと、パクリと一口で食べてしまい、手を紙ナプキンで拭った。

「普通の人がピラミッドに誤って近づいても、問題はありません。警察に2、3時間留め置かれて500ペソの罰金を払えば後はお咎めなしです。」
「罰金が必要なら今からでも払うよ。」
「そんな問題ではないのです。」

 どう説明しようかと彼女は考え込んだ。シオドアは何が彼女を悩ませているのか見当がつかず、ウェイターを呼んでコーヒーを2つ注文した。
 少佐が携帯電話を出した。誰かに電話をかけると、相手は直ぐに出た。彼女はシオドアが全く知らない言語で喋り始めた。シオドアは、店内の客の中にいた先住民らしい顔つきの男性が、ギクリとした顔で彼女を見たのに気がついた。彼女の言葉がわかるのだ。ケツァル少佐は先住民の言葉で喋っている。少佐は何か問いかけていたが、1分後には電話を切り、深く溜息をついた。呟いた。

「貴方は厄介事とお友達なのですね。」
「友達申請した覚えはないがね。」

 コーヒーが運ばれて来た。少佐は遠慮なくコーヒーにミルクをたっぷり入れて、時間をかけて飲んだ。シオドアは先刻の先住民の男性をそっと覗き見た。男性は何事もなかったかの様に同伴者と食事を続けていた。スーツ姿のシティ・インディヘナだ。同伴者との会話は英語だった。
 少佐が彼の視線の行方に気がついた。振り返らずに尋ねた。

「彼は純血種のインディヘナです。珍しいですか?」
「ノ、君もロホもアスルも同じだろう?」

 彼女はあの客の存在を知っていたのか? さっき立ち上がった時に目に入ったのだろう。少佐が微かに笑みを浮かべた。薄ら笑いと呼んだ方が良さそうな、訳ありの笑に見えた。

「スィ、あの人も私達と同族です。」

 彼女はコーヒーを飲んでしまい、こう言った。

「暫くグラダ・シティを離れて地方へお出かけなさい。」
「え? 大学の講義は始まったばかりだ。」
「週末だけで十分です。2日もあれば、厄介事は忘れ去られます。」
「誰が忘れるんだ?」

 しかし少佐はその質問に答えず、立ち上がった。

「今日か明日のうちに貴方は出かけることになるでしょう。旅行の準備をなさった方が良いですよ。」

 そして、

「ランチをご馳走様でした。」

と言って、足早に店から出て行った。
 呆気に取られたシオドアがその後ろ姿を見送って、視線をテーブルに戻しかけると、例の先住民の紳士も少佐が去った方を見ていた。同伴者に声をかけられ、彼は笑って言った。

「美人がいたので、つい見惚れてしまって・・・」



2021/06/20

風の刃 4

  カフェテリア・デ・オラスは文化・教育省が入っている雑居ビルの一階にあった。役所の職員食堂みたいな位置だが、一般の客もいた。シオドアが席に着いて5分もしないうちにケツァル少佐がやって来た。時間にルーズな人が多いセルバ共和国では珍しい。多分、軍人だからだろう、とシオドアは思った。
 少佐はシオドアがまだ何も注文していないと見てとるや、テーブルに向かって歩きながらタコス料理を2人前オーダーした。彼の希望は全く訊かなかった。椅子に座ると、彼の顔をやっとまともに見た。

「こちらへはお仕事ですか?」
「スィ。大学で1年間講師をすることになった。」

 シオドアは本名を教えることも兼ねて大学の身分証を出して見せた。少佐がそれを手に取って眺めた。本物かどうか見ているのだ。シオドアは苦笑した。そして昼食に誘った理由を思い出した。

「俺の助手のデイヴィッド・ジョーンズを助けてくれて有り難う。メキシコから送られて来た新しい笛を吹いて、ジョーンズは正気を取り戻した。事件を起こした時は心神耗弱状態だったから、傷害に関しては無罪だ。だけど、民事的には、彼は被害者に治療費を払わなければならない。少年を刺したことは事実だからね。彼は病院が再発しないと判断する迄は観察入院だ。研究所は彼を解雇するかも知れないが、俺は彼をバックアップしてやりたい。俺が記憶を失って研究所に戻ってから、一番親身になって接してくれた人なんだ。」

 少佐はシオドアが記憶を失う前に何をしていたのか、訊こうとしなかった。何故セルバ共和国に来ていたのかも訊かなかった。興味がないのか、セルバ人の礼儀なのか、シオドアには判断がつかなかった。わかったことは、少佐が目の前のタコスに夢中になっていることだけだ。彼女はいつも食べ物を美味しそうにモリモリ食べる。
 シオドアが一息つくと、初めて彼女がコメントした。

「大事なお友達なのですね。」
「今はね。研究所の人々の話を聞いていると、記憶を失う以前の俺は、友達がいない、他人を思い遣ることもしない駄目人間だったらしいよ。」

 彼女が顔を上げて彼を見た。

「そうは見えませんけどね。」

と嬉しいことを言ってくれた。照れ隠しに彼は笛の話へ転向した。

「呪いを解く方法を見つけてくれて有り難う。」
「私は何もしていません。」

 少佐は指に付いたサルサソースを舐め取った。シオドアは一瞬前足を舐める猫が見えた様な気がした。瞬きしていると、少佐が続けた。

「知り合いの骨董品業者に笛を渡してメキシコへ行かせただけです。彼の荷物に入っていた盗掘品を目溢しする条件で。」
「君も強かだなぁ。」

 シオドアは笑った。

「だけど、その人は呪いをかけた人間を知っていた訳だ。」
「笛の作者を知っていたのです。神様からもらった能力をつまらないことに使ってはいけない、と彼が注意すると、相手は呪いを解く笛をくれました。」
「呪いをかけた笛はどうなったんだろう?」
「作者が壊しました。そうでなければ、貴方のお友達は正気に帰れません。」

 それを聞いてシオドアは安心した。またあの笛が何処かで誰かに売られても助ける人はいないだろうから。

「君の仕事は忙しそうだね。」
「雨季が近づいていますから、遺跡調査の駆け込み申請が増える季節なのです。」
「今から許可を出しても、調査開始前に雨季は来るだろう?」
「今申請が出されている調査計画は、雨季が終わった後のものです。」
「・・・って、それは5、6ヶ月先の話か?」
「スィ。」
「今朝、君が電話で話していた遺跡は、この雨季の前に発掘したがっている人がいるってことかな?」
「スィ。」
「だけど期間が短すぎるので、君は別のグループの別の遺跡調査を優先させたい?」
「スィ。我が部の仕事は、発掘調査隊の護衛と監視です。調査開始が決定した遺跡に、大統領警護隊に割り当てられている陸軍の小隊を派遣させます。決定が遅くなれば、小隊の準備も遅くなり、兵士に負担をかけます。ですから、順位の割り込みは許せないのです。」
「調査隊の護衛と監視?」
「ジャングルには反政府ゲリラがいます。砂漠には野盗がいます。」
「ああ・・・」

 そう言えば、ゴンザレス署長もよくゲリラの警戒や追跡に駆り出されるとこぼしていたっけ。

「監視は、調査隊が遺跡の彫像や出土品を国外へ持ち出さないよう見張ることだね?」
「スィ。どこの国でも同じ問題を抱えています。」

 大統領警護隊文化保護担当部は特別な仕事をしているのではない、と言いたげに少佐はシオドアを見た。

「陸軍の小隊を指揮するの?」
「遺跡1箇所に1小隊と指揮官1名を派遣します。指揮官は文化保護担当部の仕事です。」
「じゃぁ、君も行くことがあるんだ。」
「部下が全員出払った時は。」
「遺跡で神様の呪いとか祟りに遭ったことはある?」

 少佐が不機嫌な顔をした。あまり大ぴらにしたくない話題なのだ、とシオドアは悟った。

「ご免、神様の話はあまり人前でするものじゃないな。」
「多くの人は、不思議な体験をしてもすぐ忘れます。でも・・・」

 少佐は何か言いたそうにしたが、喉まで出かかった言葉を呑み込んだ様子だった。

「貴方は不思議な人ですね。貴方のご家族も皆んな同じですか?」
「家族なんていないんだ。俺は・・・親も兄弟もいないんだよ。」

 それはきっと事実だ。しかし詳細を語りたくなかった。遺伝子組み替えで創られた合成人間だと思われたくなかった。少佐がちょっと哀しそうな表情を浮かべて、声を和らげた。

「私も生まれてすぐに母親を亡くしました。父親はいません。」
「君は孤児だったのか・・・」
「孤児でしたが、養い親はいますし、彼等に愛されて育ちましたから寂しくはないですよ。」

 彼女は悪戯っ子の笑を浮かべた。

「貴方は私の養父に会っていますよ。」
「君の養父?」
「駐米セルバ大使フェルナンド・ファン・ミゲールです。」

 え? とシオドアは耳を疑った。

「ええ?!」
「私は公式にはミゲール少佐です。ケツァルが本名で、皆んなケツァルと呼びますけどね。」
「彼は白人だよね?」
「外観は白人です。4分の1先住民のメスティーソです。」
「裕福そうだ。」
「農園主で貿易商です。」
「少佐、もしかして、君は富豪のお嬢様なのか?」
「世間の目から見れば、そうでしょうね。でも現在の生活費は大統領警護隊の給料だけです。」
「養父が富豪だったら、外国にも行ったことがある?」
「スィ。義父はイタリアとスイスに別荘を持っています。養母はスペイン人で、彼女も夏休みになるとスペインの実家に私を連れて行ってくれました。」
「もしかして、君は英語を話せる?」
「スィ。フランス語、ドイツ語、イタリア語も話せます。」
「だけど、俺がアメリカ人だとわかってもスペイン語で話している・・・」
「貴方がスペイン語を使うからです。」

 シオドアは笑ってしまった。ケツァル少佐ほどポーカーフェイスの上手い人は見たことがない。それとも先祖の話はタブーと言うこの国の国民性なのだろうか。


 

風の刃 3

  午後1時迄2時間の空きがあったので、シオドアは大学に戻らずに街中をぶらぶら散歩した。セルバ流だ。この国には南欧同様シエスタがある。午後1時から午後4時迄が昼休みなのだ。昼休みは官公庁も企業も銀行も閉まってしまうので、慣れない外国人は大変な目に遭うことが屡々だ。シオドアは、ケツァル少佐が北米へ電話をかけて来た時刻がいつも真夜中だったことを思い出した。セルバ人にとって勤務時間は午後8時迄になる。シオドアの研究所がある州との時差を考えれば、午後10時迄仕事をしているのだ。夕食はそれからだ。少佐は、シオドアが寝ている時間を考慮してくれなかったのだろう。
 彼は”曙のピラミッド”の方向へ歩いて行った。昼前で太陽が高い。日差しが強いので、外を歩いているのは遠い北の国から太陽を求めてやって来たヨーロッパ人が多かった。セルバ人は日陰で働いている。
 ピラミッドの壁は黄色い石で組まれていた。強い陽光で金色に光って見える。ピラミッドの周囲は特にフェンスなどなかったが、誰も壁から20メートル以内に入らない、と大学で聞いていた。石畳が途切れ、緑の芝生が壁まで広がっていた。
 シオドアは石畳の端まで歩いて行って立ち止まった。全身の産毛が総立ちした感じがした。まるで電流柵のそばにいる様だ。手を伸ばしてみたが、壁は感じ取れなかった。
 少し離れたところでアメリカ人と思しき観光客が4、5人で見物していた。カメラを構え、交互に撮影したり、携帯で自撮りしたりしてはしゃいでいる。休暇か、良いな、とシオドアは微笑ましく彼等を見た。その直後、一陣の風がザーッと吹いた。1人の女性の頭から麦わら帽子が飛ばされ、ピラミッドの前へ転がった。

「まぁ、どうしよう?」

 女性が困惑した声を出した。彼女の連れ達もその場に立ち尽くしたまま、どうしよう、と言い合っていた。
 取りに行けばいいじゃん、とシオドアは思った。何処にも芝生に立ち入り禁止とは書いていない。だが彼女達は石畳から先へ行こうとしない。
 面倒臭い連中だな、と思いつつ、シオドアは芝生に足を踏み入れた。肌にピリリと刺激を感じたが、それだけだった。彼は麦わら帽子を拾い上げ、観光客のところへ持って行った。有り難う、と笑顔で礼を言われた。

「付近に警察官が見当たらないし、どうしようかと困ってました。」
「警官がいないんだから、取りに行けば良いでしょう。」
「でも、ピラミッドに近づいてはいけないのよ。」

 彼女達は口々に「近づいては駄目」と言ったので、シオドアはびっくりした。観光ガイドにそう書いてあるのだろうか。
 観光客のグループと別れて直ぐに警察官がパトカーでやって来た。エル・ティティ警察署の古いパトカーみたいなものではなく、外国から輸入された最新型モデルの車だ。パトカーが歩いているシオドアの横で停止した。

「セニョール!」

 声をかけられて、シオドアは立ち止まった。

「何か?」
「ピラミッドに近づいた外国人がいると通報があった。貴方のことか?」
「スィ。ご婦人の帽子が風で飛ばされたから、拾っただけだよ。」

 警察官がパトカーから降りて来た。シオドアは周囲を見回した。ボディガードはいない。彼は大学にシオドアがいるものと思って、まだ学舎のロビーで座っている筈だ。もっともここでボディガードに出しゃばられては、話がややこしくなるだろう。

「どんな理由でも、許可なくピラミッドに近づいてはいけない。」
「許可? 帽子を拾うだけで、許可が必要なのか?」
「ピラミッドは特別だ。」
「許可が必要だと書いた看板も何もないじゃないか!」
「そんな物は必要ない!」

 道端で揉めていると、横を通りかかった軍用ジープが急停止した。カーキ色のTシャツに迷彩色のズボンをはいた兵士が降りて来たので、シオドアは面倒なことになったと悔やんだ。近づく兵士のTシャツの胸に緑色の鳥型の徽章が光った。
 警察官が不意に直立不動の姿勢を取ったので、シオドアは驚いた。

 「その人がどうかしたのか?」

 声に聞き覚えがあった。シオドアは歓喜の声を上げた。

「ロホ!」

 ロホ中尉も彼に気が付いた。

「おや、貴方は・・・」

 警察官が不安気に尋ねた。

「中尉のお知り合いでありますか?」
「スィ。上官のご友人だ。」

 ロホ中尉がシオドアに向き直った。

「今度は何に巻き込まれたんです?」

 微かに面白がっている響きが声にあった。シオドアはピラミッドを振り返って説明した。

「観光客の帽子が風で飛ばされたんで、拾ってあげただけなんだが、ピラミッドに近づくには許可が必要だと言われてさ・・・」

 ロホが彼を見て、ピラミッドを見て、また彼を見た。

「ピラミッドに近づいたんですか?」
「スィ。 帽子が壁のそばに落ちたからね。」

 ロホは警察官に言った。

「こちらは外国から来られて間がないのだ。私からよく注意しておくから、今日は見逃してあげてくれないか。」
「貴方がそう仰るのでしたら・・・」

 警察官も無駄な争い事はご免なのだ。中尉に敬礼してパトカーに戻り、直ぐに走り去った。
 シオドアはホッとした。少佐とのデートに遅れずに済む。

「グラシャス、ロホ中尉。助かったよ。ここで君に会えるとは思わなかった。」
「私も貴方がこの国に戻って来られているとは思いませんでした。」

 以前と変わらず優しい口調でこの若い中尉は喋った。

「もう病気は良くなられたのですか?」
「記憶喪失のことかい? ノ、まだ思い出せない。でも一応身元は判明した。」

 シオドアはパスポートを出してロホに見せた。

「テオドール・アルストさん?」
「スィ。テオって呼んでくれて構わない。今、グラダ大学で1年間の客員講師をしているんだ。」
「大学の先生ですか。」

 ロホが素直に尊敬の目で彼を見た。

「うちの部の一番若い少尉が、グラダ大学の通信制で学んでいますよ。」
「アスル?」
「ノ、女性です。」
「さっきは席にいなかった。」
「さっき?」
「文化保護担当部に行って、少佐とランチの約束をしたんだ。礼を言いたくてね。」

 君も一緒にどう? と誘ったが、ロホは首を振った。

「今日は役所に戻って、レポートを作成します。軍隊はシエスタが短いですから、先に仕事をやっつけてしまいたいのです。」
「そうか、それじゃまた今度。」

 ロホがジープに戻りかけて振り返った。

「先刻の様な面倒なことになったら、我々の名前を出していただいて結構です。すぐ釈放されます。」

 どれだけ大統領警護隊の権威があるんだ? シオドアは感心した。走り去るジープを見送ってから、中尉の本名を聞きそびれたことに気が付いた。



風の刃 2

  セルバ共和国文化・教育省はグラダ大学から歩いて10分の商店街にあった。瀟洒なビルが並ぶオフィス街ではなく、洋品店や家具屋や飲食店や書店などが並ぶ商店街だ。冗談みたいな安っぽい雑居ビルの1階がカフェとバルで、2階から上が官庁と言うお役所だった。ビルの端っこに入り口があるが、ガラス扉の向こうに机があって、日中は中年の軍服を着た女性が座っていた。この受付の女性はメスティーソで無愛想だった。来庁者が挨拶すると身分証の提示を求め、氏名をパソコンの来庁者リストに入力する。身元確認ではなく、ただ記録しているだけだとシオドアは初期の頃に気が付いていた。入力が終わると彼女は入館パスを発行し、プラスティック製のケースに入れて渡してくれる。来庁者はケースに付いたストラップでパスを首から掛ける。出る時はパスを返却する。返却を忘れたら、通路脇の部屋から男性兵士が飛んできて通りで引き止めて回収するのだ。シオドアは彼等がちゃんとアサルトライフルを足元に置いてあることを知っていた。大統領警護隊ではなく、普通の陸軍下士官だ。
 入り口の上には「セルバ共和国文化・教育省」とプレートが掲げられているが、どの部署が何階にあるのかは何処にも表示されていない。だからシオドアは書類手続きの為に通った時、何度かこの女性軍曹に場所を尋ねなければならなかった。軍曹は無愛想に階数の数字を言うだけで、それ以上の案内はしなかった。シオドアの過去の用事は全部2階の学校関係職員の部署が担当だった。給料の振り込み先登録や、職員の身分照会、住居登録、家族構成など、北米だったら半日あれば終わってしまう手続きが延々と1ヶ月かかったのだ。文化・教育省の職員は大勢いるが、いつも忙しそうだ。窓口には地方から陳情にやって来た人々や申請に来た人々が常に列を作って待っている。省内のコンピューターは数こそあれど、よく故障している。
 この日、シオドアは行くべき場所がわかっていたので、身分証を見せ、リストに署名し、入館パスをもらって中に入った。階段を上って2階を通り、3階、4階と上がった。薄暗くて幅だけ広い階段だ。明かり取りの窓があるが小さく、隣の雑居ビルが近いのであまり採光の役に立っていないし、窓拭きもされていないのかガラスが汚れていた。
 4階は2階と似た造りで、階段を上がると左手にドアのない広い空間が広がっていた。長いカウンターが役所部分と待合スペースを分けている。待合スペースはベンチが2つばかり置かれていたが、シオドアが来た時は無人だった。カウンター内部で20人ばかりの職員が事務仕事をしていた。カウンターの上にプレートが下がっており、「文化・教育省 文化財・遺跡担当課」と書かれていた。シオドアは一番近い机で写真を並べて考え込んでいる男性に声をかけた。

「文化保護担当部は何処・・・」

 男性は顔を上げずに空間の奥を指差した。その方向を見ると、最初に壁に並んだ5つのドアが目に入り、一番奥のドアの前に机が5つ固まって置かれていた。どの机も書類が山積みで、机の主のネームプレートが埋没しかかっていた。ケツァル少佐は奥のドアに背を向けて座っていた。シオドアは彼女が迷彩服でもカーキ色の軍服でもなく、襟元に小さめのフリルが付いたお洒落なコットンシャツを着て、化粧をしていたので、すぐにはわからなかった。それに彼女はやや俯き加減で、電話の相手と口論中だった。

「ですから、あの遺跡は地元のシャーマンがお祓いをする迄は立ち入り出来ないんです! 発掘する時間なんてありません。すぐに雨季が来ます。」

 物凄い早口だったので、シオドアは機関銃かと思った。

「先にアンティオワカ遺跡の警備兵の手配をさせて下さい。あそこはフランスの調査隊が既に協力金を納付してくれています。仕事をさせてあげないと、お金を払い戻す羽目になりますよ!」

 シオドアはカウンターの腰扉を通って、彼女の机の前へ行った。少佐は気が付かない。苛々とペンでノートを叩きながら電話の向こうの人と論争を続けている。遺跡発掘許可の優先順位で意見の相違があるようだ。
 シオドアは背中に視線を感じた。振り返ると、斜め後ろの席にアスル少尉がいた。こちらも清潔な白いTシャツにブルージーンズだ。私服姿だと幼く見えて学生で通る若い男だ。無言で「何をしに来た?」と訊いている。目は軍人だった。シオドアが片手を上げて挨拶したが、以前同様返礼はなかった。
 シオドアは少佐に向き直り、軽く咳払いした。少佐はまだ電話相手と格闘中だったが、彼の腰を見て、視線を上へ移動させた。シオドアはニッコリ笑って見せた。
 少佐がペンでノートにささっと走り書きして、彼の方へ押し出した。

ーーご用件は?

 シオドアは自分のペンを出して、そのノートの質問の下に返事を書いた。

ーー笛のお礼をしたい。今夜、セーナ(ディナー)はどう?

 少佐が顔を顰めた。シオドアの申し出に対してか、電話の相手の言葉に対してかは不明だった。電話に向かって、「ノ、ノ、」と繰り返し、またノートに書いた。

ーーコミダ(ランチ)

 シオドアは時計を見た。まだ昼前だ。少佐がまた書き足した。

ーーカフェテリア・デ・オラス  1300

 シオドアはO Kと書いて彼女に見せた。少佐が頷いたので、彼はそこを離れた。アスルにバイと言ったら、やっぱり無視された。歩きながら他の机のプレートを見た。A・マルティネス、C・ステファン、M・デネロスとあった。アスルは Q・クワコ だった。少佐は・・・と振り返ると、彼女のプレートは書類でよく見えなかった。
 階段を下りながら考えた。マルティネス、ステファン、デネロスはスペイン系の名前だ。クワコはいかにも先住民の名前らしい。アスル(青)の本名がクワコなら、ロホ(赤)中尉も本当の名前があるのだろう。ネームプレートが見当たらなかったが、ロホの席はここにないのだろうか。

 

 

風の刃 1

  セルバ共和国の首都グラダ・シティ。古代の神話に登場する神の名前だとか部族の名前だとか色々説があるが、セルバ人にとってグラダは特別な名前の様だ。田舎の人々にとって憧れの大都会であり、”曙のピラミッド”が鎮座する聖地として先住民から神聖視されている。その実情は、高層ビルがカリブ海に面する海岸線に立ち並び、高速道路が南北に通っている。商店街は昼夜問わず老若男女が歩き、物流が休む間もなく動いている。オフィス街ではスーツを着てアタッシュケースを持ったビジネスピープルが行き来して、その多くはヨーロッパやアフリカや東洋から来た外国人だ。セルバ人でスーツを着た人は貿易商が多い。彼等は殆どがメスティーソで、他の中南米諸国と変わりない。市街地では車の交通渋滞が発生するのも日常的、その車の間を縫うように荷車やラバが通るのも珍しくなかった。空港周辺ではジェット機が離発着する横でヤギの群れが草を食んでいる。港では大型貨物船がコンテナの積み下ろしをしている横で、昔ながらの木製の漁船が魚を獲っている。少し南へ車を走らせると綺麗なビーチがあって、水着姿の外国人達が休暇を楽しんでいる。彼等を相手にする露店が通りに並び、市が立っていた。
 シオドア・ハーストはセルバ共和国に戻った。研究所の上層部と入念な打ち合わせの上で、国立グラダ大学の医学部で遺伝子工学の客員講師の職を得た。教職の経験はなかったが、学生相手に簡単な内容の講義は出来たし、彼自身驚いたことに、これが予想以上に面白かった。学生達はセルバ共和国各地から集まっていたが、大学教育を受けられるのは富裕層の子供達だ。彼等はメスティーソで、稀に見かける純血種の先住民と思われる学生は奨学金受給者で成績優秀で政府から入学を許可された特待生だった。シオドアは、スペイン語風にテオドール・アルストと呼ばれた。若い学生達は年齢が近い彼を親しみを込めて「テオ」と呼んでくれたので、シオドア自身直ぐに彼等に慣れ親しむことが出来た。
 シオドアには研究所がつけた2人のボディガードがいた。1人は馴染みあるシュライプマイヤーだ。もう1人も元海兵隊と言う強そうな男だった。彼等は交代でシオドアの出勤に同行し、一日を大学で過ごし、夕方一緒にアパートに帰宅した。男3人で暮らしている状況をアパートの大家は気にしなかった。外国人が借りる高級賃貸集合住宅だったからだ。シオドアは内心建物のセキュリティがしっかりしているのだから、ボディガードは別に部屋を借りれば良いのに、と思ったが、そこは我が儘を通してもらって来ているので、言わないでおいた。予算の問題もあるだろう。
 最初の1ヶ月は引っ越しの手続きや仕事の準備などで忙しく、上層部から与えられた「任務」遂行に取り掛かれなかった。オルガ・グランデの鉱山で働く特殊な遺伝子を持つ労働者の捜索だ。内陸部へ入る理由を作らねばならない。大学講師が着任早々地方へお出かけする理由がないからだ。彼以外にも大学で働いている外国人は多く、彼等はシオドアに忠告してくれた。

 この国では先祖に関する質問は失礼だと思われている。先祖が誰だとか出身地が何処だとか、訊いて回らない方が良い。特に貴方は遺伝子学者だから興味を引かれることが多いだろうが、動植物のもので抑えておくことだ。人間に興味を持ってはいけない。

 それは、エンジェル鉱石の労働者の調査が困難であることを示唆していた。
 引っ越しの忙しさが落ち着く頃に、シオドアはケツァル少佐に連絡を取れないものかと考えた。少佐ならオルガ・グランデに行く方法を教えてくれるかも知れない。
 彼はまだエル・ティティのゴンザレス署長に電話をしていなかった。早く会いたかったが、ボディガード同伴で会うのは嫌だった。きっと署長も他人行儀に振る舞うだろう。だが直接会えない心理的理由もあったのだ。今回のセルバ共和国での仕事は、政府から命じられたものとも言える。労働者の遺伝子を採取する。スパイ行為同然だ。もし、セルバ共和国政府の機嫌を損ねたら、ゴンザレスにも害が及ぶ恐れがあった。だからシオドアは我慢した。
 大統領警護隊は大統領府に本部があった。白いフェンスで囲まれた広い敷地に白亜の石造の建物がある。庭に樹木が植えられ、地面は芝生だ。建物はスペイン統治時代の歴史あるもので、観光名所にもなっている。その後ろに”曙のピラミッド”が見える。ティオティワカンのピラミッドをちょこっと小さく、傾斜を少し大きくしたようなもので、これも観光資源だ。シオドアは散歩を兼ねて何度か大統領府の近くまで行ってみた。門に正装の軍服を着用した兵士が左右に2名ずつ立っているが、敷地内に出入りする車や人は軍人ではなく文民に見えた。政治家や財界人なのだろう。
 大統領警護隊の電話番号を検索したが出てこなかった。電話帳に載せていないのか。シオドアは少し焦った。無駄に雇用契約の1年を過ごしたくない。ケツァル少佐と接触して、エル・ティティの町に戻る方法を考えて欲しかったのだ。
 大学内を歩いていると、人文学の標識が目に入った。そうか! ここに手がかりがあるじゃないか!
 シオドアは考古学のリオッタ教授に接触した。イタリアから来た陽気な男だった。大統領警護隊の文化保護担当部と連絡を取りたいと言うと、気が抜けるほどあっさりと答えを教えてくれた。

「ここで働く為の諸手続きを文化・教育省でされたでしょう?」
「スィ、最初の1週間殆ど毎日通いました。」
「文化保護担当部は、そこの4階にありますよ。」
「まさか・・・」
「本当です。大統領警護隊の分室です。私も遺跡発掘調査の許可を申請する時は、あそこに行くんです。でもなかなか手強いですぞ。遺跡荒らしを物凄く警戒していますからね。」


 

2021/06/19

笛の音 14

  翌日、シオドアは再び所長執務室に呼ばれた。今度はホープ将軍ではなく別の軍人が研究所の高位にいる科学者達と待ち構えていた。軍人はヒッコリー大佐と名乗った。机の上に、前日ジョーンズの意識を混濁から呼び戻した土笛が置かれていた。

「説明してくれないか、シオドア。」

とエルネスト・ゲイルが言った。

「デイヴィッド・ジョーンズが正気を取り戻した。この笛を吹いたからだと看護師が言うのだが、本当かい? 君が持ってきたと彼は言っていた。」

 誤魔化すと却って面倒なのでシオドアは正直に語ることにした。信じる信じないは彼等の勝手だ。

「そうだよ。ジョーンズは博物館で買った笛を吹いて狂気に陥った。だから俺は呪いだの呪術だのと言った中米の文化に詳しい知人に協力を求めた。博物館で買った笛を遺跡から持ち出された文化財だと言って、セルバ大使に持って行ってもらった。セルバ大使はメキシコの知人に渡すと言っていた。そして昨日、メキシコからそこにある別の笛が送られて来た。ジョーンズに吹かせろと指示が同封されていたから、病院へ行って、彼に吹かせたら、正気に帰ったんだよ。以上だ。」

 エルネストがワイズマンを見た。ワイズマンはヒッコリー大佐と顔を見合わせた。エルネストがシオドアに向き直った。

「ふざけるなよ。笛で人間が発狂したり、正気に帰ったりするものか!」
「俺に怒るなよ。俺だってそれ以上のことはわからないんだから。」

 シオドアは笛を指差して科学者らしい見解を述べた。

「その笛から出る音波がジョーンズの脳に何らかの影響を与えて、正常に戻したのじゃないのか?」
「笛の音波?」

 馬鹿にされる前にシオドアは続けた。

「メキシコに持ち去られた笛も奇妙な空気穴が作られていた。俺は音を聞いていないから、何とも言えないがね。犬笛みたいな物じゃないか? 」
「シオドア、笛の音で人間の脳を狂わせることが出来れば、それは兵器になるぞ。」

 ヒッコリー大佐の言葉に、シオドアはギクリとした。そうだ、ここは軍事基地の中の研究所だ。何を研究しているんだ? 兵器じゃないのか? 俺達遺伝子組み替え人間は、兵器として開発されたんじゃないのか? 
 彼は作り笑を大佐に向けた。

「それじゃ、その笛を分析されては如何です? 俺は遺伝子学者だ。物理学の分析はご免被ります。」

 なんで遺伝子研究を軍事施設でしているんだ? 人間を兵器に改造するのか? それとも生物兵器の研究か?
 シオドア、とまたヒッコリー大佐が呼んだ。どうしてこいつらは俺をハーストと呼ばないんだ。ファーストネームを呼んで優位を示しているつもりか。

「君はセルバ共和国へ行った目的をまだ思い出せないのか?」
「まだです。」
「だが、ジョーンズの笛をセルバ人に相談した・・・」
「セルバ共和国で呪い師を見たんです。だから知人に訊いてみた。」
「セルバ人はジョーンズを正常に戻す方法を知っていた。」
「否、笛はメキシコの農村で作られた物です。新しい笛を送って来たのも、メキシコ人です。俺の知らない人です。」
 
 その時、それまで黙っていたダブスンが口を開いた。

「テオは最近ある特定の被験者の遺伝子情報を繰り返し閲覧しています。彼は同じものを行方不明になる前も何度も見ていました。セルバ共和国のエンジェル鉱石から提供された血液サンプルの一つです。」

 他人のアクセスログを見張っているのか。シオドアはこの監視だらけの施設が心底嫌に思った。ダブスンがシオドアに尋ねた。

「セルバ人の遺伝子に何があるの?」
「わからない。」

 シオドアは正直に打ち明けた。

「わからないから、提供者本人と実際に面会しようと出かけたんだ。それ以外に考えられない。あんな砂漠しかない街へ・・・」

 彼はワイズマンとヒッコリー大佐に訴えかけた。

「俺をもう一度セルバ共和国へ行かせて下さい。謎の遺伝子の正体を見極めたいんです。」
「どんな遺伝子だ?」
「脳に関係するものです。」

 シオドアは自分の額を指差した。

「前頭葉の形成情報が普通の人と違う。微妙に違う人がいます。それが人間にどんな効果を与えているのか、見たいんです。きっと記憶を失う前の俺も同じ思いだった筈です。だから、あんな遠くまで出かけて行ったんです。」
「行っても無駄よ。」

 ダブスンが薄ら笑った。

「私は彼の捜索に空軍の協力を得て空路でオルガ・グランデに行きました。エンジェル鉱石の鉱山がある街です。馬鹿みたいに閉鎖的な街です。他所者はいつも誰かに見られているし、私もシオドアを探すついでに血液提供者の身元を尋ねてみました。彼がその人を訪ねたかも知れないと思ったので。でも誰も教えてくれませんでした。」
「当たり前だろう。」

 シオドアも笑った。

「血液提供者の氏名をこっちは持っていないんだ。被験者7438・F・24・セルバなんて訊いても、誰も知らないさ。それとも君は知っていたのかい?」

 ダブスンの顔が赤くなった。シオドアは彼の指摘が図星だったので逆に驚いた。彼女は人探しをするのに標本番号だけで探したのか?
 科学者の1人が言った。

「セルバ共和国は首都や東海岸の工場地帯なら外国人も自由に滞在出来ますが、都市部から外へ出ると閉鎖的で、遺跡などは立ち入り申請を出してもなかなか許可が下りないと聞きます。オルガ・グランデは山間部で、鉱山はセルバ共和国の数少ない外貨獲得の手段です。簡単に外国人が入れると思えません。ダブスンが行けたのは、アンゲルス社主がまだ生きていた時です。彼はこの研究所に協力的でした。しかし彼が亡くなった今、ハーストがあの街に入るのは難しいでしょう。」
「オルガ・グランデが難しいのなら、首都から攻めます。」

とシオドアは言った。

「首都で何かの仕事をして信用を掴んでから、オルガ・グランデの鉱山へ行きます。時間はかかりますが、研究の仕事はインターネットで出来るでしょう?」



第11部  紅い水晶     24

  ケツァル少佐は近づいて来た高齢の考古学者に敬礼した。ムリリョ博士は小さく頷いて彼女の目を見た。少佐はトーレス邸であった出来事を伝えた。博士が小さな声で呟いた。 「石か・・・」 「石の正体をご存知ですか?」  少佐が期待を込めて尋ねると、博士は首を振った。 「ノ。我々の先祖の物...