2021/07/21

博物館  1

  冬の休暇が終わり、大学に学生達が戻ってくると一度に賑やかになった。シオドアとアリアナの新しい仕事もやっと本格的に始動だ。大学事務局は2人に文化・教育省へ行って所定の職員採用に関する手続きをしてくるようにと言い渡した。シオドアは一度経験していたので、アリアナの都合に合わせて出かけた。彼女が文化・教育省と聞いてちょっと尻込みした。大統領警護隊文化保護担当部があるからだ。しかし手続きは本人が行わなければならないものもあるので、結局彼女は渋々ながら出かけた。
 事務手続きは相変わらずセルバ流で、少し書類を書くと、続きは次の日に来いと言われる、行けば別の窓口へ回される、その繰り返しだ。やる気があるのかないのかわからない役人の仕事ぶりに、仕舞いにはアリアナも「何なの、ここは?」と呆れて笑い出してしまった。必要な手続きが終わるのに5日もかかった。1週間を自宅と大学と文化・教育省の間をグルグル回って過ごした様なものだ。
 金曜日の午後シエスタの後で、やっと全部終了した。シオドアはアリアナの手続きが終わるのを待ってから、大統領警護隊のオフィスへ行こうと誘った。彼女が躊躇ったが、シオドアはここで避けて通れない問題をクリアしておきたかった。ステファンと普通の友人として同席することに慣れてくれ。
 4階に上がると、幸いにもケツァル少佐が机の前に座って書類の山と格闘しているのが見えた。彼女の前の机では、ステファン大尉とロホがそれぞれの机に向かいパソコン画面と睨めっこしていた。アスルはカウンターの外側で数人の職員と何かガラクタの様な物を点検していた。デネロス少尉は隣の部署の職員とお喋りに忙しそうだ。いや、仕事上の相談だろう。
 ロホの元気そうな姿を見て、シオドアは思わず笑が溢れた。反政府ゲリラから逃げ延びて、医療班に託した時のロホは殆ど意識がなかった。左腕は動かせなかった。
 今、シオドアの目の前で、ロホは普通に左腕を動かし、キーボードを叩いていた。
 文化保護担当部のカウンター前に列がなかったので、シオドアはカウンターにもたれかかって、「オーラ!」と声をかけてみた。驚いたことに、少佐以外の全員が反応してくれた。顔を上げ、手を止め、振り返ってくれたのだ。以前は完全に無視してくれていたのに?!
 デネロスがキャー!と声を上げてカウンターの内側から出て来た。アリアナの手を取って、

「やっと来てくれましたね! 今週中には絶対に来てくれるって、私、賭けてたんです。」

 彼女はアスルに向かって勝ち誇った様に言った。

「クワコ少尉、今夜はビール5本、お願いします!」
「けっ!」

 アスルがまたガラクタの山へ向き直った。シオドアは吹き出した。

「俺達は賭けの対象かい? 軍の規律違反じゃないのか?」

 4階の職員達が聞こえないふりをして仕事を再開した。シオドアがアリアナを振り返ると、彼女はデネロスに手を握られたまま、笑いだすのを必死で耐えていた。彼女の脳も遺伝子組み替えで生み出された優秀なものだ。既にスペイン語は何とか聞き取れる様になっていたし、この場での事態も理解出来た。
 ロホが席を立ってカウンターの側に来た。

「お久しぶりです、ドクトル。」
「テオって呼んでくれよ。アリアナもドクトラじゃなくアリアナで良い。」
「こんにちは、テオ、アリアナ。」

 イケメンのロホに笑顔で挨拶されて、アリアナが頬を赤く染めて挨拶を返した。

「初めまして、アリアナ・オズボーンです。オスボーネの方が良いかしら?」
「貴女のお望みの発音でお呼びしますよ。」

 ロホはいつも紳士だ。自己紹介した。

「アルフォンソ・マルティネスです。中尉です。ロホと呼ばれていますので、貴女からもロホと呼んでいただけると嬉しいです。」

 彼はアスルを呼んだ。上官に呼ばれたので、アスルは仕方なくシオドアの横に来た。

「彼はキナ・クワコ、少尉です。アスルと呼ばれています。愛想のない男ですが、気は優しい良いヤツなんで、遠慮なく話しかけてやって下さい。」

 アスルはツンとして、アリアナに一言「よろしく」とだけ言い、またガラクタの山へ戻った。いつもと変わらない態度にシオドアが苦笑してその背を見たので、アリアナは安心を覚えた。確かに何も説明がなければ、アスルの態度は嫌われていると言う印象を他人に与えかねなかった。

「マハルダ・デネロス少尉は既にお馴染みの様ですね。」
「ええ、休暇前に大学で出会いました。その前も・・・」

 この人達は皆んな”ヴェルデ・シエロ”なのだ、とアリアナは自身の心に言い聞かせた。不思議な力を持ち、優しくて、でも彼女の手が届かないところに心がある人々。
 ロホがごく自然にステファンを振り返った。

「彼もご存知ですね。私の上官のカルロ・ステファン大尉です。ほんの半年前までは私と同じ中尉だったのですが、私がミスして彼は手柄をたて、先に出世してしまった。」

 ロホが愉快そうに笑った。ステファンが彼を見て顔を顰めた。

「笑い事じゃないだろ、ロホ。ちゃんとドクトルに助けていただいた礼を言ったのか?」

 ロホが舌を出し、シオドアに向き直った。

「失礼しました! 貴方が来て下さってあまりにも嬉しかったので、お礼を申し上げるのを忘れていました。ティティオワ山で助けていただいて、有り難うございました。心からお礼申し上げます。」

 改まった物言いに、シオドアは苦笑した。

「助けられたのは俺の方だよ。もう怪我はすっかり良くなったんだね?」
「スィ。以前と変わりなく動けます。ただ、まだ現場へ行かせてもらえないので、事務仕事で毎日過ごしています。」

 すると、思いがけず一般職員からチャチャ入れがあった。

「ロホ中尉、肝心のお方の紹介を忘れているぞ。」
「ああ、しまった!」

 ロホが真っ赤になり、4階の職員一同からドッと笑い声が起こった。忘れられた指揮官、ケツァル少佐がアサルトライフルを取り出す前に、シオドアは素早く言った。

「少佐はもう何度もお会いしているから、大丈夫だ。アリアナもすっかり顔馴染みだし。」

 アリアナも笑いながら、そっとステファン大尉を見た。ステファンは御大のご機嫌を伺うかの様に、少佐の表情を覗いていた。そのケツァル少佐はペンを机の上に投げ出し、時計を見た。そして宣言した。

「5分早いが、終業とする。」

 4階の職員全員から歓声が上がったのは言うまでもない。


 

2021/07/20

聖夜 12

  南国のクリスマスは初めての体験だ。シオドアとアリアナは次の日の夕方、グラダ国際空港に降り立った。乗客達の多くは冬服だったが、入国審査を通り、税関を抜け、ロビーで荷物を受け取ってロビーの暖かさに戸惑った。冷房が効いているのだが、冬服では暑かった。赤道はもっと南の筈だがと文句を言う人もいた。同じ飛行機に搭乗したケツァル少佐とロペス移民審査官は着替えを持っていたので適当な頃合いに軽装になっていた。少佐は旅慣れしている。ロペスは往路で学んだのだろう。
 ロビーにはセルバ共和国外務省の迎えが来ていた。ケツァル少佐とはそこでお別れで、シオドアとアリアナはロペスと共に迎えの車に乗り、大統領府近くの外務省へ連れて行かれた。文化・教育省は雑居ビルにあるが、外務省はそれなりの重厚さを持つスペイン統治時代に建てられた歴史ある建物だった。夕刻だったので、そこで仮の身分証をもらって、許可なしに外出してはならないと注意をもらい、近くのホテルに案内された。安宿ではなく、警備の都合上ちゃんとセキュリティが充実した値段の高そうなホテルだった。仮の身分証を提示するとレストランで食事も出来た。アリアナが試しにホテル内の洋品店で彼女と彼の服をカードで購入したら、ちゃんと使えた。

「これで私達が今何処にいるかアメリカ側にも知られたわね。」

とアリアナが言った。シオドアは平気だよと言った。

「ここまで全くアメリカ政府の妨害が入らなかった。またミゲール大使が国務長官に面会してくれたんじゃないかな。」
「でも大使の説得で政府が私達を解放してくれるかしら。」
「セルバマジックだよ。」

とシオドアは冗談で言った。後に知ったことだが、ミゲール大使は本国から送られてきたメールを印刷して国務長官に渡したのだ。そこには、セルバ共和国のみならず中米各国で活動しているアメリカの諜報機関のメンバーの氏名がリストアップされていた。
 諸国に黙っていてやるから、たった2人の遺伝子学者の亡命に目を瞑れ、と言うセルバ共和国流の外交手段だった。正にセルバマジックだった。
 翌日、再び外務省へ連れて行かれ、そこで1年間の観察期間の説明を受けた。仕事はグラダ大学で遺伝子関係の研究室を紹介された。シオドアは以前途中放棄した遺伝子工学の講師を選んだ。今度こそ真面目に学生に教えるのだ。アリアナは医学部で遺伝病の研究を指導することになった。そこでは英語が使えた。住まいはグラダ・シティの高級住宅街にある戸建て住宅で、そこに監視役を兼ねたメイドと運転手が付いた。どちらも英語を話せた。但し、どちらも”ヴェルデ・ティエラ”のメスティーソだった。

「研究所にいた頃と変わらないわね。」

とアリアナがちょっと拍子抜けした様に言った。彼女は収容所の様な生活を想像していたのだ。

「研究所より監視は緩いよ。」

 シオドアは大学内にいれば自由に歩き回れることを教えた。

「だけどアメリカ人留学生には用心しないとね。」
「スパイがいるってこと?」
「油断禁物ってことさ。俺達が母国の人間と接触するのを不愉快に思うセルバ人がいるかも知れないだろう?」
「私達がスパイじゃないかって疑われるのね。」

 アリアナは笑った。シオドアは”ヴェルデ・シエロ”の秘密を守るためなら暗殺を平気でやってのける”砂の民”と呼ばれる人々がいることを彼女に黙っていた。
 大学で働き始めて3日目に、アリアナに嬉しい出来事があった。キャンパスでマハルダ・デネロス少尉が声をかけて来たのだ。通信制の大学で学んでいる彼女は、久しぶりのスクーリングで大学に顔を出したのだった。
 デネロスはホテルで姿を消してアリアナを驚かせたことを詫びた。

「ドクトラお一人でしたら、走って逃げたのですけど、ボディガードが怖かったので。」

 と彼女は言い訳した。アリアナは首を振った。

「あの時の私はこの国に全く無知だったの。そして私自身が本国で置かれている立場にも無知だったわ。研究所が作った都合よく言うことを聞く人形だったのよ。あの時、貴女がテオの資料を焼いてくれなかったら、今頃セルバ共和国とアメリカの間で超能力開発を巡る情報戦争が起きていたかも知れないわね。」

 デネロスは肩をすくめた。

「私達には、超能力を持っていると言う意識がないのですけどね。」
「普通のことなのね?」
「スィ。力の種類や強弱は個性ですから。」

 クリスマス休暇で大学が休校になると、シオドアはエル・ティティからアントニオ・ゴンザレスを呼んだ。署長は都会に出ることを渋っていたが、2日だけなら、とバスに乗ってやって来た。シオドアはアリアナに「親父だ」と紹介した。ゴンザレスはスペイン語がまだおぼつかないアリアナの為に、やはりおぼつかない英語で一所懸命話しかけた。アリアナもできる限りスペイン語を使って話をした。

「綺麗な妹だな、テオ。」

とゴンザレス署長は感想を述べた。

「都会が似合う女性だ。田舎の生活は無理だと思うぞ。彼女がこの国に慣れる迄一緒にいてやれ。これからはテレビ電話も使える。署に回線を引いたんだ。毎日顔を見られるから、無理をして観察期間を延長されることがない様に気をつけな。」
「グラシャス。だけど、やっぱり俺はエル・ティティが懐かしいよ。」

 シオドアは彼が家に帰る時、何度も抱擁を交わして別れを惜しんだ。そんな2人をアリアナは羨望の眼差しで見ていた。彼女には心の支えとなる人も場所もセルバになかった。

聖夜 11

  ロペス審査官が大使館へ通じる扉の向こうに消えると、シオドアはリビングへ行った。アリアナがソファに座り、ケツァル少佐が南米のマテ茶を淹れていた。シオドアが入室したので、少佐が飲みますかと尋ね、彼は飲むと答えた。伝統的なストローを入れた容器を少佐は2人に配り、熱いので注意して飲む様にと言った。

「温いのを出すと、『あなたに会いたくない』と言う意味だそうです。」

と彼女が言った。シオドアはミルクや砂糖が欲しいなと思ったが、マテ茶の飲み方をよく知らないので黙っていた。するとアリアナが遠慮なしに砂糖を所望した。少佐が快く砂糖壺を出したので、彼も入れてもらった。

「セルバではマテ茶を飲んだことがないな。」
「カフェで注文したらあったわよ。」

とアリアナ。

「貴方はコーヒーしか飲まないからよ。」
「エル・ティティでもコーヒーしか飲まなかった。お茶はたまにハーブティが出ただけだ。」
「お茶は高価ですから。」

と少佐が2人の言い合いに割り込んだ。

「グラダ・シティは都会なので、アメリカとそんなに変わらない物が手に入ると思います。あなた方は1年間グラダ・シティで暮らすことになります。住む場所やお仕事は明日ロペス少佐から説明があるでしょう。」
「審査に通ったのか?」
「明日の朝になればわかります。」

 セルバ流に答えてから、少佐は付け足した。

「大丈夫、通ります。あなた方はセルバ国民を助けてくれましたから、政府は礼を尽くします。」
「向こうへ行ったら、あなた方と頻繁に会えるのでしょうか?」

とアリアナが質問した。シオドアはドキリとした。彼女はまだ黒い猫に未練があるのだ。少佐は微笑みを返した。

「遺跡発掘のシーズンは忙しくなりますが、監視や護衛の仕事がなければ、オフィスにいます。」
「またマハルダとお話ししたいわ。」

 多分それは口実だ、とシオドアは思ったが黙っていた。アリアナがカップを手にしたまま立ち上がった。

「面接で疲れたので、今夜はもう休みます。お茶をそのまま寝室へ持って行って良いですか?」
「どうぞ。ゆっくりお休み下さい。」
「有り難う・・・グラシャス。」

 アリアナは微笑みを浮かべて挨拶するとリビングから出て行った。
 シオドアは溜め息をついた。

「彼女は審査官にステファンが捕まった時のことを訊かれなかったそうだ。」
「それが何か?」
「彼女は彼に心を奪われている。彼が彼女の初めての男じゃないことぐらい俺は知っている。俺も彼女と経験があるから。だが、今回の彼女の彼への執着はいつもと違う。真剣になってしまっている。それが心配なんだ。」
「何故?」

 シオドアは躊躇った。ケツァル少佐とステファン大尉は上官と部下の間柄だ。しかし昨夜の食事風景で2人はまるで恋人同士に見えた。アリアナには姉弟みたいだと言ったが、シオドアは少佐と大尉の間に他人が入り込めない繋がりが有る様に思えた。
 少佐がもう一度尋ねた。

「ドクトラ・オスボーネがカルロを好きになって何か支障でも有るのですか?」

 シオドアは思い切って言った。

「ステファンは君のことが好きだろう?」

 少佐がちょっと黙ってストローでお茶を一口飲んだ。そして肩をすくめた。

「まぁ、嫌いだったら、こんな我儘な上官の後をついて来ないでしょうけど。」
「そうじゃなくて・・・」

 もどかしかった。

「ステファンは君を愛している。俺は側で見ていてわかるんだ。だが彼は自身を”出来損ない”と卑下して、君とは釣り合わないと思っているんだ。彼は君しか見ていない。だから、アリアナが彼を振り向かせようとどんなに努力しても無駄なんだ。俺はアリアナが絶望した時、どう慰めて良いのかきっとわからなくなる。」

 ああ、成る程、と少佐は呟いた。

「ドクトラ・オスボーネにはもっとお友達が必要ですね。しかし、こんなことを言うと、貴方は怒るかも知れませんが・・・」
「何?」

 彼女はズバリと言った。

「カルロがエル・ジャガー・ネグロなら、複数の妻を持てます。」

 シオドアは数秒間思考が停止した。彼女の言葉の意味はわかった。わかるが、それが解決策になるとは思えなかった。アリアナがステファンの複数の妻の一人になる? ってか・・・

「セルバ共和国はカトリック教国だったよな?」
「スィ。」
「ステファンはカトリックじゃなかったか?」
「セルバ国民は建前上カトリックです。」
「妻は一人だろう?」
「夫も一人です。」

 建前上、と少佐は追加した。シオドアはちょっと胸がドキドキした。

「”ヴェルデ・シエロ”は一夫多妻なのか?」
「違います。」

 少佐は少し考えて、どう説明しようかと迷った様子だった。

「例えばですね・・・貴方と私が夫婦とします。」

 嬉しい例えだが、何か裏がありそうで、シオドアはまたドキドキした。少佐が続けた。

「カルロとロペスとファルコが来て私に求愛するとします。私はカルロとファルコを選んでロペスを断ります。」
「はぁ? 君は俺の妻だろう?」
「でも私はカルロが欲しいし、ファルコも欲しい。だから受け入れます。」
「ロペスは嫌いか?」

 そんな質問をしている場合ではないのだが・・・。 少佐が笑った。

「例え話ですよ。私は子供を産みます。父親が誰かは問題ではありませんが、取り敢えずファルコの子供と言うことにしましょう。でも私の夫は貴方です。だから貴方が私の子供を我が子として育てます。」
「それって・・・夫の立場で言わせて貰えば、損した気分・・・俺は他人の子を育てるんだろ? そしてファルコは自分の子を他人に取られるんだ。」
「でも、貴方はよその夫婦の妻に求愛出来ますよ。貴方はそっちの夫婦に貴方の子供を養育させるのです。」

 混乱しそうだ。それがカルロ・ステファンがアリアナを受け入れる理由になるのか?
 さらにもう一つ疑問があった。

「ステファンがエル・ジャガー・ネグロだったら、どうして複数の妻を持てるんだ?」
「エル・ジャガー・ネグロ、つまりグラダ族の男である証拠です。先刻私が話した婚姻形態は、グラダ族特有のものなのです。」
「え?」

 シオドアは目をパチクリさせた。グラダ族のことを今朝ミゲール大使からレクチャーされたばかりだ。”ヴェルデ・シエロ”の能力を全て持って生まれたオールマイティの部族。だが彼等は近親婚を繰り返して子供が生まれなくなり、古代に滅亡してしまった。今は他部族の中に混血して細々とその遺伝子が受け継がれているだけだと、大使は言った。

「少佐、君は純血種のグラダ族だと大使は言った。」
「スィ。」
「自覚があるのか?」
「ママコナからそう教わりました。長老達もそう言って私を教育しました。」
「ステファンは白人の血が入っている。」
「彼の母親の母親が白人と”ヴェルデ・ティエラ”のメスティーソです。」
「お祖父さんは?」
「遠い祖先にグラダがいるブーカ族です。」
「それじゃ、ステファン自身の父親は?」

 少佐が首を傾げた。

「カルロは覚えていないのです。彼が2歳の時に亡くなったそうです。」

 では黒いジャガーのナワルは、その正体不明の父親から受け継いだのだ。シオドアは遺伝子分析装置が欲しい、と思ってしまった。


聖夜 10

  セルバ共和国駐米大使私邸で開かれた私的な晩餐会は、とても和やかで平和的なものだった。シオドアは大使とロペス移民審査官とスポーツの話を楽しんだ。ロペスはサッカー好きの中米人にしては珍しくバスケットボールが好きで、NBAの試合の話題ではシオドアも彼と贔屓のチームや選手など共通の話題を語り合えた。大使もセルバ人で唯一人選手として活躍している若者を応援しているのだと話に参加した。
 アリアナはケツァル少佐とファッションの話をした。ミゲール大使の妻はヨーロッパで活躍する宝飾デザイナーだったので、食事が終わると少佐が彼女をリビングへ連れて行き、飾られている石やカタログを見せた。綺麗な輝きを見せる宝石にアリアナは魅了された。研究所の女性達とこんな話をしたことがなかった。せいぜい服やお菓子の話題ばかりだった。

「セルバではどんな宝石が採れるのですか?」
「主にクウォーツ系です。オパールやアメジストが多いです。レインボーガーネットが採れたら儲けものですが、まだ発見されていません。」
「メキシコの幻の宝石ですね!」
「それから生物系の真珠やコーラルもあります。」

 少佐は可笑しそうに言った。

「どうして母はコーヒー農園主と結婚したのでしょう。鉱山主と結婚すればもっと材料がたくさん手に入ったのに。」
「コーヒーがお好きなんじゃないですか?」

 アリアナはガラスケースに入っている宝石で作られたコーヒーの木を見た。小さな物だが、綺麗で可愛らしかった。どれほどの価値があるのか見当がつかない。ミゲール夫人(スペイン人は夫婦別姓だが、大使の妻は偶然夫と同じ姓だった)が夫の誕生日プレゼントに贈ったものだと言う。

「貴女はどの宝石がお好きですか?」

と少佐に質問してみると、意外にも少佐は首を振った。

「私は宝石は好きでないのです。子供の頃は工房に近づくことさえ許されませんでした。母は私が石をキャンデーと間違えて飲み込むのを恐れたのです。」
「わかります。」

 アリアナは思わず微笑んだ。ケツァル少佐の食欲を思い出したのだ。少佐が肩をすくめた。

「私は母が忙しくて遊んでくれないのは宝石のせいだと決めつけて、石が嫌いになったのです。大人になった現在は、宝石を見ると遺跡に飾られている仮面や壁画を連想します。休日に仕事を思い出させる物は嫌ですね。」
「私も、コイルやバネを見るとDNAの螺旋構造を思い出してしまいます。」

 2人は顔を見合わせて笑った。
 リビングのドアをノックして、ロペス移民審査官が顔を出した。

「私はお暇する。明日は午前10時に博士達を大使館へ寄越して欲しい。」

とケツァル少佐に言った。少佐が頷いた。

「承知しました。私のパスポートも明日の午前中に出来上がる筈です。一緒にセルバ行きの航空機に乗りましょう。」
「わかった。おやすみ。」

 審査官は少佐とアリアナに会釈して姿を消した。彼が体の向きを変えた時に、胸の緑の鳥の徽章がキラリと光ったので、アリアナは少佐に尋ねた。

「あの人も大統領警護隊なのですか?」
「スィ。事務方です。私の文化保護担当部も事務方ですが、現場で活動することが多いので、戦闘訓練は欠かせません。ロペス少佐はそんな必要がない職場なので、恐らくこの数年はライフルを撃ったことがないでしょうね。」

 


2021/07/19

聖夜 9

  航空機は何度乗っても好きになれない、とカルロ・ステファン大尉は思った。空港迄送ってくれた大使館の書記官は、彼と入れ違いにアメリカに入国する移民審査官を拾って帰ると言っていた。ステファンは一人で飛行機に乗った。ケツァル少佐は今朝迄彼と一緒に帰国するつもりでいたらしいが、パスポートを持って来るのを忘れたことに気がついて、早朝から大騒ぎした。大使館で再発行してもらう迄、カメル軍曹の遺体引き取りを依頼したファルコ少佐の手伝いをすると言って彼女は出かけてしまい、結局彼は一人で帰国したのだ。
 入国審査は直ぐに済んだ。パスポートと共に大使館に預けていた緑の鳥の徽章を係にチラリと見せると、殆どフリーパスで通された。元々荷物らしい物を持っていなかったので、税関も簡単に通った。
 ロビーに出ると、迎えがいた。大統領警護隊の見事なオーラを放ったトーコ副司令官だった。ブーカ族とマスケゴ族のハーフで純血種に違いないのだが、複数部族の血が混ざっているので単独部族の純血を重んじる所謂純血至上主義者と仲が悪い人だ。訓練をサボったり規律を守らなかったりする若い隊員達に大変厳しいが、真面目に軍務に励む者には優しい面も見せる。ステファンは私服であることを後悔した。大使館では目立たない様にと私服着用を命じられたが、母国に帰って来たら、やっぱり軍服を着用したかった。持っていないのだから仕方がなかったが、きちんと軍服で決めている上官に対して失礼だと自身を責めた。
 ステファン大尉は副司令官の前に立って敬礼した。

「大統領警護隊文化保護担当部、カルロ・ステファン只今任務終了にて帰還致しました。」
「ご苦労。」

 副司令官が敬礼を返してくれた。
 距離をおいた場所を歩いて行く観光客が囁きあっているのが聞こえた。軍人だ、かっこいい! セルバの兵隊ってクールだね・・・等々。
 トーコ副司令官はそんな雑音を聞こえないふりをして、来いと合図した。ステファンは大人しくついて行った。実を言えば、迎えが来るなど予想だにしていなかったのだ。自分でタクシーでも拾って大統領警護隊本部へ帰国報告へ行くつもりだった。どうして副司令官が俺の出迎えにお越し下さったのだ? もしかして、これは任務完了出来なかったことのお咎めか? 
 防弾ガラス仕様の大統領警護隊公用車がVIP用出口に停まっていた。普通の隊員が乗るジープや軍用トラックとは違う。どうなっている? ステファンは戸惑った。副司令官が公用車の後部席に乗り込み、彼にも乗れと手を振ったので、ますます混乱しそうになった。せめて”心話”で事情を説明してくれれば良いのに、と思いつつ、彼は上官の隣に座った。
 公用車が走り出した。トーコ副司令官が、窓の外を眺めるふりをしながら話しかけて来た。

「ナワルを使ったそうだな。」

 ステファンはドキリとした。彼は”出来損ない”の隊員で、”心話”しか使えない落ちこぼれだと言うのが、警護隊での常識だったのだ。

「生き延びたい一心で無意識に使ってしまった様です。許可なく変身しました。申し訳ありませんでした。」
「許可なく、か・・・」

 トーコがフッと笑った。

「誰もお前が変身出来るとは想像すらしなかったのだ。許可など要らぬ。」

 彼はやっとステファンを振り返った。

「お前が入隊した時、ケツァルがお前を指してグラダがいると言った。しかし誰も本気にしなかった。だが・・・」

 トーコ副司令官は視線を前に向けた。

「グラダはグラダを見分けたのだ。気づくべきであった。」
「私の母は、遠い祖先にグラダを持っています。しかし、グラダと呼ばれる濃い血は持っていません。」
「本当にそう思っているのか?」

 再びトーコはステファンを見た。

「お前の父親は何者だ?」
「私の父?」

 ステファンは遠い記憶を探ろうとした。彼には2歳年下の妹がいる。その妹が生まれるか生まれないかの内に死んでしまった父を、彼は覚えていなかった。記憶に微かに残っているのは大きな力強い男のぼんやりとした陰だった。
 彼の目を見ていたトーコががっかりした表情になった。

「父親を亡くした時、お前はほとんど赤ん坊だったのだな。」
「母は父のことを何も教えてくれません。尋ねるといつも泣くばかりで話にならないのです。近所の人の話では鉱山で働いていて落盤事故で亡くなったと言うことです。」

 トーコが一瞬緊張した、とステファンは感じた。車内の空気がビーンと張り詰めた感触がした。運転手の隊員もびっくりした様だ。運転席と後部席の間にはシールドがあって会話は聞こえない筈だ。運転手はトーコの気に驚いたのだ。トーコが固い表情で尋ねた。

「鉱山と言ったか?」
「スィ。」
「オルガ・グランデか?」
「スィ。」

 トーコが深く息をした。彼は前を向いた。心の中で呟いた。

 お前の父が誰だかわかったぞ。


聖夜 8

 シオドアとアリアナが応接室でくたびれてぼんやりしていると、フナイ理事官が来て、審査終了を告げた。

「今日は遅くなりましたので、大使私邸へお戻り下さい。ご案内します。」

 2人は大使館と私邸を繋ぐ扉まで案内された。扉を閉じる時に理事官が微笑みを浮かべて言った。

「きっと明日の夕刻にはセルバへ到着出来ますよ。」

 扉が閉じられると、アリアナが全身の力を抜いてふらついた。シオドアは彼女を支え、2階へ上がるとメイドに告げた。メイドが何か温かい飲み物をお持ちしましょうと言ってくれた。彼女はメスティーソで、”ヴェルデ・シエロ”なのか”ヴェルデ・ティエラ”なのか、シオドアにはわからなかった。もしかすると普通のヒスパニックの使用人かも知れない。
 審査官は小部屋で報告書を手早くまとめたが、手の震えがなかなか止められなかった。興奮を感じていた。報告書を送信すると、彼は荷物をまとめ、大使の執務室へ行った。
 執務室には彼の同僚が2人いた。大使館の武官エドガルド・ファルコ少佐と文化保護担当部のシータ・ケツァル少佐だ。審査官はシーロ・ロペス少佐、つまり大使執務室には大統領警護隊の少佐が3人も揃った訳だ。ロペスが入室した時、ファルコ少佐が警察の遺体安置所からカメル軍曹の遺体を無事回収した報告を行っていた。

「棺に入れて、明日ケツァルが付き添って帰国する予定です。これでカメル軍曹もカメルの家族も安心出来るでしょう。」

とファルコ少佐は真面目な顔で報告した。彼は前の晩にケツァル少佐からカメル軍曹の遺体回収の相談を持ちかけられ、この日の朝2人で出かけたのだ。家族が遺体を引き取ると言う簡単な”操心”で安置所からカメル軍曹を運び出し、用意したレンタカーで戻って来た。防犯カメラに映ったのは殆ど後ろ姿かフードを被った人物だけだ。少佐級の2人の共同作業だったので、物事はスムーズに運んだ。

「余計な仕事をさせて申し訳なかった。今日は報告書を提出したらそのまま帰ってよろしい。」

 大使の言葉に武官は敬礼した。そして初めて審査官に気がついたふりをした。

「おや、ロペス、遥々本国から出張か?」

 敬礼で挨拶を交わしてから、ロペス少佐は「珍しい事案があってね」と言った。そして大使に向き直った。

「テオドール・アルスト及びアリアナ・オスボーネの亡命申請に関する面接審査を終了しました。」
「ご苦労。」
「本国からの返答は、問題がなければ、今夜の内に連絡が来るでしょう。」
「問題とは?」

 ロペス少佐審査官はケツァル少佐をチラリと見てから大使に言った。

「大統領警護隊文化保護担当部のカルロ・ステファン大尉がナワルを使った件です。」

 部屋を出ようとしたファルコ少佐が足を止めた。ドアノブにかけた手を引っ込め、ロペスを見た。

「ステファンがナワルを使った?」

 あの”出来損ない”が? と言う響きを聞き取ったケツァル少佐が、何か問題でもあるのかと抗議を込めて言った。

「スィ、彼は使えますよ。」
「使ったどころか・・・」

 ロペス少佐は強ばった表情で大使を見つめた。

「アリアナ・オスボーネが目撃してしまった。しかも、普通のジャガーではない。エル・ジャガー・ネグロです!」

 ファルコ少佐が驚愕して一同を見た。大使が両手を机の上で組んだ。

「私は本国にそう報告した筈だがね、ロペス少佐。」
 
 たじろぐロペス少佐に、ケツァル少佐が微笑みかけた。

「本気にしなかったのですね、本部の連中は?」

 ファルコ少佐が彼女を見た。

「そう言えば、君は新入隊の若者達を見た時、私に『グラダがいる』と言ったな・・・」
「覚えていたのですか? エドガルド、貴方はあの時笑ったでしょう。」
「グラダの血を引く者は多い。殆どはブーカ族かサスコシ族だ。だがグラダを名乗れる様な濃い血統の人間は存在しない筈だ。」 
「では、私は何なのでしょう?」
 
 ケツァル少佐に問われて、2人の男性少佐は黙り込んだ。大使が少佐達のお喋りに終止符を打つために、ロペス少佐に声をかけた。

「ドクトラ・オスボーネがステファンのナワルについて口外することはないだろう。彼女はセルバ人の能力を初めて目撃した折に、他人に喋って精神障害を疑われた。2人の博士の亡命に本国は拒否する理由を持たないと思うが。」

 ロペス審査官は大使の言葉に、彼が渡米してきた本来の役目を思い出した。

「本国から亡命の許可が下り次第、彼等の渡航手続きを開始します。アメリカ側の妨害が入るとウザいので、明日可能な限り早い便で彼等を連れて帰ります。」
「我が国の国民を救ってくれた恩人達だ。丁重に頼むぞ。」

審査官は軽く頭を下げて、承ったと表現した。

「今夜は大使館で休ませていただきます。」
「部屋を用意させよう。食事はうちに来ると良い。」
「グラシャス。」

 ケツァル少佐が武官を見た。

「貴方も来る?」

 ファルコ少佐は首を振った。

「ノ、私は報告書を書いたら自宅に帰る。では、また明日。」

 彼は大使に挨拶をして、ロペス審査官とケツァル少佐には敬礼をして出て行った。ロペスが呟いた。

「相変わらず固い男だ。」
「奥方に忠誠を誓っているだけです。」

 ケツァル少佐も大使に向き直った。

「報告書を書いたら帰宅します。」
「早く行きなさい。」

と大使。

「君達がいると、参事官や書記官が怖がって部屋に入って来ない。」



2021/07/18

聖夜 7

  ミゲール・セルバ共和国特命全権大使は大使館業務が始まると、公使、参事官、武官、書記官、理事官を執務室に集め、1日の業務の打ち合わせを行った。そしてシオドア・ハーストとアリアナ・オズボーンを紹介して、2人の亡命申請を告げた。アメリカからセルバへの亡命申請は初めてのことなので、外交官達に戸惑いの表情が浮かんだのは無理もないことだった。
 シオドアは外交官達の顔ぶれをそれとなく観察した。純血種のセルバ人である武官は間違いなく”ヴェルデ・シエロ”だ。残りの外交官達はメスティーソだが、完全な”ヴェルデ・ティエラ”である筈がない、と彼は思った。その証拠に公使と参事官は、例の麻酔作用を含むタバコの匂いを微かに漂わせていた。書記官も理事官も時々大使と目を合わせる。それぞれが質疑応答を”心話”で行っているのだ。”心話”は嘘をつけない。そして大量の情報を1秒足らずでやり取り出来る。共有情報確認が目と目で一瞬にして行われていた。ほんの数分でセルバ共和国大使館の外交官達はシオドアとアリアナが置かれている立場を理解した。
 リギア・フナイと言う名の女性理事官がシオドアとアリアナを大使館の中の部屋に案内した。応接室の様な場所でソファとテーブルと飾り棚、テレビが置かれていた。

「本国から連絡がある迄、こちらで待機していただくことになります。お手洗い以外は部屋から出ないようお願いします。お昼のお食事は出しますが、飲み物は内線09で頼んで下さい。」

 真面目な顔をして流暢な英語で話した理事官は、そこで声を小さくした。

「もし夜になっても本国がぐずぐずしている様でしたら、大使私邸へお戻りになって結構です。あちらの方が快適ですから。」

 そしてウィンクして出て行った。
 待機は退屈だった。せめて大使館の業務を見学出来れば面白いのだが、訪問客と顔を合わせる訳にいかないので、2人でテレビで映画を見て午前中を過ごした。お昼ご飯はスパイシーなトマトソースのスパゲッティで、アリアナが食べ物だけならいつでもセルバに引っ越しても大丈夫だと冗談を言った。

「昨夜のお魚のソースも、大使と同じ辛いソースでも良かったと思うの。少佐が気を利かせて甘口に替えてくれたけど・・・」
「そうかい? あの辛いソースはもしかするとハバネロかも知れないぞ。」
「ハバネロは肉料理に合うのよ。魚にはあまり使わないわ。」

 無駄口を叩くのは、恐らくステファン大尉が帰国してしまう寂しさを紛らわせているのだろう、とシオドアは思った。大尉は朝食の後、シオドアとアリアナに別れの挨拶をさらりと告げて少佐と共に大使の書斎に去ってしまい、それきり姿を見せなかった。アリアナの為に、彼等は書斎で何をしているのかとシオドアが尋ねたら、大使は大統領警護隊本部へ提出する報告書を作成中だと答えた。
 そして、シオドアだけに聞こえる声で大使は囁いた。

「カルロに暗殺者から身を守る教授もしている筈です。」

 母国に帰っても、あの若い大尉には敵がいるのだ。もしかすると遺伝子学者よりも質の悪い純血至上主義者達が。
 午後になってフナイ理事官が本国から来たと言う移民審査官を伴って部屋に来た。審査官は平服だったが、左の胸に緑色の鳥の徽章を付けていた。大統領警護隊の隊員だ。シオドアはセルバ共和国政府が選挙で選ばれた大統領や議員以外はほぼ”ヴェルデ・シエロ”で占められているのだろうと想像した。
 面接は一人ずつ、小部屋で行われた。シオドアは大統領警護隊文化保護担当部と知り合った経緯を訊かれた。エル・ティティのバス事故で記憶喪失に掛かってから、ケツァル少佐と出会い、オルガ・グランデのアンゲルス邸で悪霊祓いをしたこと迄をかいつまんで話すと、審査官は持参したタブレットで書類を見ながら一々頷いていた。シオドアは審査官が見ている書類が彼の行動を逐一記録したものだと気がついた。これは文化保護担当部が提出した報告書からシオドアに関する記述を抜粋したものなのか、それとも警護隊が独自に調査したものなのか、シオドアは戸惑った。少佐がどこまで本当のことを報告書に挙げたのかわからない。もし彼女が彼を庇って虚偽を書いたとしたら、シオドアの面接の答え方行かんで彼女を窮地に追い込むかも知れない。反対に警護隊独自の調査結果が書類に載せられているのであれば、”ヴェルデ・シエロ”はセルバ共和国にいた頃のシオドアを常に監視していたことになる。気分の良いものではなかった。
 悪霊祓いの後でダブスン博士に連れられてアメリカに帰国した後の行動は、審査官からの質問で確認を取られた。記憶喪失が治らない内にセルバに再入国した理由、オクタカス遺跡での”風の刃の審判”事故、反政府ゲリラによる誘拐事件。シオドアはアスルによって過去の村へ送られたことが報告書に入っていないことを知った。アスルが彼を隠す為に時空を飛んで過去へ行ったことは、一族に秘密になっているのだ、きっと。最後は怪盗”コンドル”事件から前日の夜に大使館へ亡命する為に逃げ込む迄の経緯だった。シオドアはステファンとカメルがセルバ共和国政府の命令で美術品回収をしていた事実を知っていたとは言わなかった。公園でステファンと再会して彼がアメリカに来ていたことを知り、テレビで泥棒騒ぎと黒豹出没を知った直後にアリアナから救援要請を受けて彼女の家に行ったこと、そこで負傷したステファンに会ったこと、大使館に相談したらケツァル少佐が応援に来てくれたこと、遺伝病理学研究所がステファンを超能力者と知って攫ったので、少佐とアリアナと力を合わせて彼を救出したことを語った。語り終わると夕方になっていた。
 セルバ人にとって大切なシエスタの時間を潰してしまったが、審査官はシオドアが「以上です」と締め括ると、暫くタブレットの中に何かを入力していた。超能力者もインターネットを使って通信するんだな、とシオドアは疲れた頭でぼんやり思った。
 審査官がオズボーン博士と交替しなさいと言ったので、応接室にいたアリアナと交替した。すれ違う時に、彼は彼女にありのままを言えとアドバイスした。

「彼等は全部知っている様だ。下手に嘘をつくと亡命させてくれない。」

 アリアナは不安気な表情で小部屋に入っていった。彼女はセルバ共和国に短時間しか滞在しなかった。シオドアが行方不明になったので探しに行き、手がかりを求めてケツァル少佐に面会したこと、少佐が護衛に付けてくれたデネロス少尉がシオドアの遺伝子分析資料をホテルで焼いてしまい、彼女とボディガードの目の前で姿を消したことを語ると、審査官が質問を入れた。

「何故デネロスはアルスト博士の資料を焼いたのです?」
「わかりません。」

と答えてから、アリアナは真っ当な答えを自ら引き出した。

「あれはセルバ人の遺伝子の分析結果の資料でした。シオドア・ハーストは自身の研究が母国の軍事目的に使われるのを恐れていましたから、きっとケツァル少佐を通してデネロス少尉に資料の破棄を要請したのでしょう。」
「だが、貴女はケツァル少佐からそれを預かったのでしょう? 何故少佐は自分でそれを処分しなかったのです?」
「その時少佐はその資料がどれだけの意味を持つものかご存知なかったのです。遺伝子マップを見ても古代文字の解読より難しいと仰いました。ですから私が持っている方が、グラダ大学の研究室に放置したままにするより安全だと考えられた様です。私が資料をホテルに持ち帰った後で、シオドアが少佐に資料の破棄を頼んだのだと思います。」

 審査官は暫くタブレットを眺めていた。ホテルでのデネロス少尉消失騒動は報告がなかった。彼はアリアナに言った。

「目の前で女性が消えて、さぞかし驚かれたことでしょう。」
「それはもう・・・」

 アリアナはその後彼女とボディガードがどんなに訴えても誰も本気で聞いてくれなかった悔しさを審査官に延々と語った。アメリカに帰国後、ボディガードが精神カウンセラーにかかったこともぶちまけた。
 次に審査官は彼女がステファン大尉を救助した話を語る様にと言った。アリアナは緊張した。何もかも話せと言うのか。あの夜のことも?
 彼女は庭先で黒い大きな猫を見つけた話を語った。タブレットに入力していた審査官の手が止まった。彼が顔を上げてアリアナの目を見た。

「本当に、黒い猫だったのですか?」
「猫ではなく、ジャガーだと後でシオドアに教えられました。」
「黒かったのですね?」
「ええ、テレビでも黒豹だと言っていました。私が見つけた動物も真っ黒で、それは本当に・・・綺麗でした。」
「真っ黒なジャガー・・・ですか・・・」

 審査官はタブレットに打ち込んだが、その指が微かに震えていた。

ーー彼女はエル・ジャガー・ネグロを見たと語った。

 審査官はまた顔を上げた。

「その黒いジャガーはどうなりました?」
「男の人になりました。後で、シオドアが彼の名前はカルロ・ステファンだと教えてくれました。」

 審査官はタブレットに打ち込んだ。

ーー彼女の目の前でエル・ジャガー・ネグロはナワルを解き、カルロ・ステファンになった。

 彼はタブレットを閉じた。 そしてアリアナに言った。

「面接を終了します。グラシャス、お疲れ様でした。」



第11部  紅い水晶     19

  2台目の大統領警護隊のロゴ入りジープがトーレス邸の前に到着した時、既に救急車が1台門前に停まっていた。クレト・リベロ少尉とアブリル・サフラ少尉がジープから降り立った。2人は遊撃班の隊員で、勿論大統領警護隊のエリートだ。サフラ少尉が一般にガイガーカウンターと呼ばれる放射線計測器...