2021/10/15

第3部 隠された者  8

  テオの車は西サン・ペドロ通り7丁目と第7筋の交差点に差し掛かった。7丁目は新しいアパートが立ち並ぶ通りで、主に学生や地方からグラダ・シティの企業に就職した若者達が住んでいる。他の地区の学生用住宅より少し家賃が割高になるが、サン・ペドロと言う名前のブランドに釣られて住むのを希望する若者達をターゲットにしているのだ。高級住宅地の一番最下層と言う訳で、8丁目はなく、住宅と商店が入り混じった地区が道路を挟んで始まっている。学生達が家賃を稼ぐためにアルバイトをする場所が近くにあるのだ。
 ビアンカ・オルティスは最初にステファン大尉にジャガーの目撃証言をした時、1丁目の家で家庭教師をしており、その家と自宅の間は第7筋を往復するだけだと言った。7丁目と第7筋の交差点の4つの角にはそれぞれアパートらしき建物が建っていた。ただ西サン・ペドロ通り側の建物がまだ築2年以内と思われるのに対し、反対側は煤けた古い建物だった。テオはその古い建物の横の路地に車を乗り入れ、並んでいる住民の車の間に路駐した。誰かの場所かも知れないが、他にスペースがないので仕方がない。
 ステファン大尉とデルガド少尉が外に出た。テオはビアンカ・オルティスの顔を知らなかったし、大統領警護隊の様に捜査権も持っていないので、車に残ることにした。もし住民に場所を空けろと言われたら移動しなければならない。駐車違反切符を切られるのは願い下げだった。大尉が半時間の時間制限を設けて少尉と共に学生居住区へ出かけて行った。
 車外に出て車にもたれかかり、携帯電話で主任教授のメールをチェックした。主任教授は彼が昼前に送信した試験問題に目を通してくれており、返事が来ていた。

ーーいいんじゃない?

 物凄くセルバ的だ。テオは「グラシャス」と再返信した。
 問題を一つクリアしたので気が楽になった。少し歩いて歩道に立ち、西サン・ペドロ通りとこちら側の境目になる大通りを眺めた。左斜め向いのアパートからデルガドが出て来た。テオに気がつくと、首を振って見せた。そのアパートにオルティスは住んでいないのだ。デルガドは次のアパートに挑戦を始めた。
 右斜め向いのアパートはステファンの担当で、こちらも少し遅れて外に出て来た。空振りらしく、次の建物へ足早に入って行った。テオは時計を見た。まだ世間はシエスタの時間だ。学生達は週明けに各学科で試験があるのでこの週末は勉強している筈だった。遊びに行く余裕のあるヤツはいないだろう、とテオは予想した。ここに探偵の真似事をする余裕のある准教授はいるが。
 デルガドが再び歩道に出て来た。ちょっと早いな、と思ったら、携帯を出して電話をかけた。すぐにステファンが外へ出て来た。デルガドが見つけたのだ。ステファンとデルガドが同時にテオを見た。なんだ? 来て欲しいのか? テオはジェスチャーで「少し待て」と合図して車に駆け戻った。急いでリュックを取り出し、施錠して歩道に戻った。
 車の流れが途切れるのを待って通りを横断し、デルガドが立っているアパートの前へ行った。ステファンは既に到着していた。デルガドが囁いた。

「ここの3階のBにいます。」

 テオとステファンは建物を見上げた。バルコニーがあり、植木鉢が見えた。落ちないように手すりより低い位置に置かれているが、敵が来たら落とせそうだ。

「単独で住んでいるのか?」

 ステファンが尋ねると、デルガドは首を振った。

「2人でルームシェアしている様です。」

 相方が部屋にいるとなると、会話がやり辛い。取り敢えず顔見知りのステファンとテオが部屋を訪ねることにした。デルガドは外で待機だ。

「アパートに裏口はあるのか?」
「非常階段が東端にある様ですが、通りへ出るのはこの歩道へ出る路地だけです。路地には自転車が並んでいます。走り抜けるのはちょっと難しいですね。」
「グラシャス。ここで待機していろ。必要ならすぐに呼ぶ。」
「承知。」

 心なしかデルガドはホッとした様子だった。未婚の彼が未婚の一族の女と対峙しなくて済みそうだと安堵したのだろう。
 ゲバラ髭のお陰で実年齢より年長に見えるステファンはデルガドより2歳上なだけだ。ビアンカ・オルティスとも殆ど年齢は変わらない。テオは時々彼等も学生達と同じ様に遊びたい年頃だろうにと思うことがある。だが様々な事情で軍隊に入った以上、彼等はその青春をお国のために捧げているのだ。同年齢の若者達の存在は別世界の生物と同じなのだろう。
 アパートの中は清潔だった。掃除が行き届いた階段を上り、テオとステファンは3階へ到着した。窓がない廊下の両側にドアが6つずつ並んでいた。廊下の突き当たりのドアは非常階段への出口らしい。正規の階段から数えて2つ目の南側のドアがBだった。
 ステファンはドアの前に立ち、拳でノックした。

第3部 隠された者  7

  建物の外に出ると、テオはそっと後ろを振り返った。シショカが後をつけて来る気配はなかった。ステファン大尉が気掛かりな顔で囁いた。

「本当に彼は座席の位置を確認に来ただけでしょうか?」
「君がケツァル少佐の名を出したら、彼は不機嫌そうな顔になった。きっと本当のことを言ったまでだろう。」

 そして大尉を励ました。

「このホールはセルバ共和国自慢の建築物だろう? そんな場所で事故とかで人が死んだりしたらイメージダウンじゃないか。しかも標的は有名人だぜ? 大臣の秘書なら、それはやるべきじゃないってわかるさ。」

 ステファンが苦笑した。

「グラシャス、テオ。さっきは酷いことを言って申し訳ありませんでした。出る幕がなかったのは私の方でした。」
「いや、俺もエミリオからあの男が何者か教えられて、咄嗟に彼がサイスを粛清に来たのかと焦ったんだ。しかも君が近くにいたら却って彼を刺激するんじゃないかと、余計な気遣いをしてしまった。」

 車に戻るとデルガド少尉が安堵の顔で迎えた。大統領警護隊と国務大臣秘書がシティホールで喧嘩などすれば一大事だ。デルガドはステファンが本気で腹を立てた所を生で見たことはない。しかし麻薬シンジケートのロハスの要塞をステファンが1人で吹っ飛ばした動画はテレビやネットで見たことがあった。シティホールを吹っ飛ばされたらどうしよう、と若者は内心ヒヤヒヤものだったのだ。

「建設省の職員をしている旧友に電話で聞いてみたのですが、セニョール・シショカは今日も大臣から無茶振りの指示を出されて怒っていたそうです。」

 シショカは公設秘書ではなく私設秘書なのでイグレシアス大臣の個人的な用件を処理する仕事をしている。大臣がケツァル少佐とのデートを希望すれば、そのお遣いに出されるのがシショカなのだ。ケツァル少佐は大臣や秘書からの電話には出てくれないし、メールを送っても梨の礫なのだ。だからシショカ自ら文化・教育省へ出向いて少佐の説得に抵る。そして十中八九玉砕する。
 シショカの無駄な努力は、どうやらグラダ・シティの若い”ヴェルデ・シエロ”達の間ではよく知られているようだ。文化保護担当部と馴染みがないデルガド少尉さえ知っているのだ。こんなに有名な”砂の民”もいないだろう、とテオは思った。尤もデルガドは大統領警護隊なのでシショカが”砂の民”だと知っているのであって、市井の”ヴェルデ・シエロ”には「お馬鹿な大臣の秘書をしている不運なマスケゴ族の男」と言う程度の認識だろう。
 再び車に乗り込んで、テオはエンジンをかけた。

「シショカを見張らなくて良いのかい?」
「大丈夫でしょう。」

 ステファンが投げ槍気味に言った。

「彼は座席を確認したら少佐のところへ行かねばなりませんから。」



2021/10/14

第3部 隠された者  6

  ステファン大尉が車のドアを開いた。 デルガドも続こうとすると、彼は命令した。

「車の中にいろ。」

 そして劇場に向かって歩き始めた。テオはエンジンを切った。

「あの黒い車の男がどうかしたのか、エミリオ?」

 デルガド少尉が硬い表情で答えた。

「”砂の民”です。」
「えっ?!」

 テオは劇場を見た。白いスーツの男は既にホールの入り口に達していた。ステファン大尉はその後ろへ足早に近づいて行くところだった。”砂の民”は滅多に正体を他人に教えない。仲間同士でも知らないことが多い。ステファン大尉とデルガド少尉が知っていると言うことは、有名な”砂の民”だと言うことだ。テオは名前だけ知っている有名な”砂の民”を1人思い出した。

「もしや、建設大臣の秘書か?」
「スィ。」

 ”砂の民”であり、ミックスの”ヴェルデ・シエロ”の存在を否定する純血至上主義者だ。そんな男にミックスのステファンを近づかせてはいけない。テオは車外に出た。

「ドクトル、駄目だ!」

 デルガドも出ようとしたので、テオは止めた。

「君はそこにいろ。ステファンも命令しただろ?」

 命令と言われて、デルガドは動きを止めた。
 テオは走ってステファン大尉に追いついた。ステファンが歩きながら抗議した。

「貴方が出る幕ではありません。」
「そうかな? 君が喧嘩しに行くなら、俺は立ち会う。公正な喧嘩かどうか判定してやる。」

 ステファン大尉は足を止めて彼を睨みつけた。しかし、結局何も言わずに再び歩き出した。ホールの中に入ると、白いスーツの男が階段を上りかけていた。ステファン大尉が声をかけた。

「セニョール・シショカ!」

 そうだ、そんな名前だった、とテオは思い出した。
 白いスーツの男が立ち止まり、振り返った。白いスーツの下に来ているシャツは黒かった。濃いグレーのネクタイをしているのは、いかにも大臣の秘書らしい。顔は正に純血種の先住民のもので精悍な細い輪郭に鋭い眼光を放つ目をしていた。
 ミックスの大統領警護隊隊員と白人の男が近づいて来るのを見て、純血至上主義者の男は嫌そうな顔をした。

「エル・パハロ・ヴェルデ、何か用かな?」

 恐らく”出来損ない”と口を利くのも嫌だろうに、シショカは周囲の一般市民を視野に置きながらステファン大尉の呼びかけに応えた。ステファンも相手の正体を公然と口に出したりしなかった。

「こんな所でお目にかかるのは珍しいと思いましてね。今日はどんな御用です?」

 テオはシショカが微かにたじろぐのを感じ取った。以前ケツァル少佐やロホがこの男を警戒していた。ミックスの仲間、ステファンやデネロスに危害を加えられるのではないかと用心していた。特に女性で能力の威力が強くないデネロスを絶対に1人で建設省に行かせなかった程だ。恐らくシショカもミックスの隊員の前で優位に立った態度でいた筈だ。しかし、人間は成長する。デネロスは元から能力の使い方が上手だったので、パワーでは負けても技では純血種と同等だ。ステファンにおいては、一人前のグラダ族として日々その能力の威力が増していっている。まともに戦えばマスケゴ族のシショカはひとたまりもないだろう、とテオはロホから聞かされていた。
 ステファンはシショカが彼を追って来たとは思っていない。”砂の民”が世間を騒がせているジャガーを突き止めたのかと心配しているのだ。
 シショカはステファンを見て、テオを見た。この白人とは初対面だが誰だか知っている、そんな顔だった。テオは彼自身は知らないが、”ヴェルデ・シエロ”界では有名なのだ。トゥパル・スワレの事件でシュカワラスキ・マナの子供達を守った白人、と言う評価が与えられていた。そして今もその白人はシュカワラスキ・マナの息子の横に立っている。
 シショカは顔を階段の上に向けた。

「大臣が明日のコンサートの鑑賞をご希望なのだ。VIP席の空きがあると聞いたので、どの位置になるか確認に来た。大統領警護隊が関与するような用事ではない。」

 テオはステファンが相手の言葉の真偽を推測っているのを感じた。
 シショカが逆に尋ねて来た。

「そちらこそ、何の用事があってここにいるのだ?」
 
 ステファンが答える前にテオが素早く口を挟んだ。

「俺がロレンシオ・サイスを知らないと言ったんで、カルロが連れて来てくれたんだ。俺はあいにくジャズよりフォルクローレの方が好きなんで、アメリカ生まれのピアニストに興味なかったんだ。しかし、このシティホールは大した建造物だなぁ。」

 彼は感心した風に天井や壁を見回した。ステファンが彼の嘘に付き合って、わざとシショカの気に触ることを言った。

「少佐とのデートにジャズコンサートは止して下さい、ドクトル。彼女はクラシックが好きなんです。」

 多分、イグレシアス建設大臣はケツァル少佐をジャズコンサートに誘うつもりなのだ。果たしてステファンの勘は当たった。シショカがムッとした表情を見せた。彼は大臣が少佐を射止めることは100パーセント無理だと知っていながら、2人の仲を取り持つ役目を担っている。少佐にせめて一回だけでも良いから大臣の誘いを受けて欲しいと思いつつ、大臣が振られるのを楽しんでもいるのだ。しかし、だからと言って少佐が白人とデートして良い筈がない、と純血至上主義者は考える。

「クラシックか・・・それじゃどこかのオーケストラの演奏会を検索してみようか。」

 テオはステファンの腕を突いた。さっさと引き揚げよう、と言う合図だ。衆人環視の中でシショカがサイスを襲うことはないだろう。


 

第3部 隠された者  5

  デルガドが客席にやって来たのは半時間も経ってからだった。ロレンシオ・サイスはステージの上でピアノを少々弾いて音合わせをしていた。夕方までに本格的なリハーサルを行うのか否か判断がつかなかったので、テオ達は劇場を出た。
 駐車場に出ると、デルガドがマネージャーの男はアメリカ人だと言った。サイスの健康管理に煩い男で、ピアニストに薬物を与えるとは到底思えないと言う。事実デルガドはマネージャーが楽屋裏で劇場側スタッフが用意した軽食の中身が健康的でないと苦情を言い立てていたのを耳にした。彼はファンからの贈り物なども厳しくチェックしており、スタッフさえ気軽に声をかけられないと不評だった。
 
 「ロレンシオ・サイスの経歴ってどんなものなんだ?」

 テオの質問にデルガドが劇場で手に入れたパンフレットを広げた。生年月日は見たまんまの年齢を裏切らないもので、生まれはグラダ・シティではなくマイアミだった。

「ちょっと待て・・・サイスはアメリカ合衆国の市民権を持っているのか?」
「北米生まれですから、そうですね。」
「母子家庭だよな?」
「スィ。母親がアメリカ合衆国の市民権を持っています。あちらの先住民です。」
「すると父親がセルバ人・・・」
「”シエロ”です。純血種か”ティエラ”とのミックスかわかりませんが、長老がツィンルだと言っていました。」

 ステファンは、サイスの出生の秘密を知っているらしい女性の長老が詳細を教えてくれなかったことが悔やまれた。サイスの父親は変身出来たのだ。だが息子の養育に関わらなかったので、ロレンシオは己の能力を何も知らずに成長したのだ。生活の場にアメリカではなくセルバを選んだのは何故だろう。母親と暮らしていたのだからアメリカで育ったのではないのか。己が周囲の人々と何か違うと感じて父親の故国へ来たのか?
 サイスはアメリカの高校を卒業してからセルバ共和国に移住していた。そして現在のマネージャーに「発見」されてピアニストとしての才能を開花させた、とパンフレットに書かれていた。主に活動の場はアメリカだが、メキシコやセルバでも演奏会を開いて大好評だと言う。
 経歴におかしな点はなかった。勿論”ヴェルデ・シエロ”であろうと無かろうとナワルのことなんて書かないだろう。

「父親は彼のことを知っているのかなぁ・・・」

 テオは車に乗り込んだ。ステファンとデルガドも乗ったので、エンジンをかけると一台の黒塗りの乗用車が駐車場に入って来た。突然車内の空気がビリッと帯電した感じに震え、テオはびっくりして思わずサイドブレーキをかけた。

「なんだ?」

 ステファン大尉も驚いた表情で後部席を振り返った。さっきの空気の震動はデルガドか? テオも後ろを見た。デルガド少尉が決まり悪そうな顔をした。

「申し訳ありません。あの黒い車の運転手の顔を見て、思わず緊張してしまいました。」
「運転手?」

  テオとステファンは黒い車の行方を目で追った。黒い車は劇場の入り口近くに駐車した。そこから降りてきた男を見て、ステファン大尉が緊張したのがテオにわかった。あの白い麻のスーツを着た男がどうかしたのか?

 

第3部 隠された者  4

  テオの車でロレンシオ・サイスの家の近所まで行った。まだサイスの車は庭にあるのが門扉の隙間から見えたので前を通り過ぎ、デルガドが先日電話に出た場所へ行った。自動車修理工の工場前だ。工場は土曜日なので休業しており、その前に駐車しても文句を言われなさそうだ。それにテオの車にはロス・パハロス・ヴェルデスが2人いる。
 デルガド少尉が車外に出て、ぶらぶらと工場の周囲を歩いた。ピアニストではなく修理工に興味があるふりをして工場内を覗き込んだりしていたが、体の向きを変える時は必ずサイスの家の方を見た。シエスタの時間なので住民は家の中で昼寝か長い昼食を取っているらしく、通りに人影はなかった。
 やがてデルガドが足速に戻って来た。

「サイスが車に乗りました。」

 彼は素早く車内に入った。
 サイスの家の門扉は自動になっているのか、ちょっと金属音を立てながら開き、サイスのイタリア車が出てきた。テオはサイスの車が角を曲がる迄待ってからエンジンをかけ、低速で後を追いかけた。マセラティのグランカブリオだって? ピアニストってどんだけ儲かるんだ?
彼はちょっと心の中でやっかみながら尾行した。彼の中古のトヨタ・クラウンは音が静かだ。グランカブリオのエンジン音を聞きながら追いかけた。Tシャツ姿の助手席のステファンは窓を開けてのんびり腕を外に垂らしていた。尾行なんてしてません、ドライブ中です、って感じだ。
後部席のデルガドは横に置かれたテオのリュックがちょっと気になった。何だか知らないが心をくすぐる様な匂いが微かにするのだ。恐らく普通の”ティエラ”では嗅ぎ取れない程度の匂いだ。
 2台の車は住宅街から市街地に入った。すぐに車の交通量が増えたが、ステファンは高級車のエンジン音を聞き漏らさなかった。

「次の交差点を左へ・・・彼は真っ直ぐシティホールに向かっています。」
「それなら、彼が寄り道しない限りは見失うことはなさそうだな。1人で乗っているのか?」
「スィ。彼のマネージャーは恐らくシティホールで落ち合うのでしょう。」
「マネージャーはセルバ人か?」
「そこまでは・・・」

 ステファンが口籠もった。デルガドも何も言わない。未調査なのだ。テオは調査対象が増えたな、と呟いた。
 グラダ・シティのシティホールは市役所と道路を隔てた向かいに建てられており、古代の神殿をモチーフにした近代的なデザインの建物だった。若者向けの音楽のコンサートから先住民の古代舞踊のショーやオペラまで上演されるセルバ共和国自慢の公共施設でもあった。国立ではなく市立なのだが、その警備は陸軍が行っている。大勢の市民が集まる場所で万が一のことがあれば大変だと言う国防省と内務省の意見が一致した結果だ。大統領警護隊はそこの警備には関知していないので、警備関係者の事務所建物はスルーして一般の駐車場に入った。その日は特にホールでの催し物はない筈だったが駐車場には50台ばかり車が駐まっていた。

「コンサートの打ち合わせにこんなに人が来るのか?」

とテオが素朴に疑問を口に出すと、デルガドが笑った。

「見学者です。催し物がない時は無料で中を見学出来るのです。立ち入り出来る場所は制限されていますが、アーティストや俳優などの練習風景を生で見られるので、結構人気なんですよ。」

 彼は建物の裏手を指差した。

「サイスの車は向こうの関係者限定のスペースに入りました。マネージャーやスポンサーなどはあっちに駐車しています。」
「俺たちは無理か?」
「警備がいます。我々が入れないことはありませんが、言い訳が必要です。」

 大統領警護隊は他人に自分達を見えていないと思わせる能力を持っているが、無闇に使いたくないのだ。今はロレンシオ・サイスがこの日どんな行動を取るのか見るだけなのだから。
 テオ達は車外に出た。遊撃班は外出の際に変装用に私服を持ち出す。デルガドはちゃんとステファンと彼自身の服を官舎から持って来ていた。だからTシャツにジーンズ、拳銃ホルダーを装着してジャケットで隠していた。テオは丸腰だ。リュックを背負って2人の隊員についてホールに入った。
 エントランスは吹き抜けで広い。売店もあるし、チケット売り場もある。スマホ決済が出来る様だ。客席へは中央の階段を上がってから並んでいる7つの扉から入る。その階段がまるでパリのオペラ座の中央階段みたいに凝ったクラシックな装飾をしてあったので、近代的な外観とチグハグでテオは可笑しく思えた。古代神殿ともマッチしない。この建物を設計した人はどんな美意識を持っているのだ? と彼は疑った。
 軍人ではなくホール職員が見学順路を案内しており、テオとステファンはガイドに従って階段を上り、観客席に入った。デルガド少尉は先にお手洗いに行くと言って離れた。
 テオは扇型の客席を想像していたがかなり違っていた。舞台を円形に取り巻くような形に客席があった。少し歪な形のコロシアムだ、と言うのが彼の第一印象だった。ステージは上下に可動式になっているらしく、グランドピアノが一階の客席より高い位置にあった。音楽を聴かせるので、最前列の客がピアニストの姿を見られなくても構わないと言う考え方なのだろう。見学者コースは2階席から始まっており、そこからだとピアノがよく見えた。
 調律師がピアノを点検しているところで、それを撮影している見学者もいた。テオとステファンも最前列の手すりにもたれかかって見物した。

「ジャズは好きかい?」
「嫌いじゃありません。ただ聞くより踊る方が好みです。」
「本部でも踊るのか?」
「まさか・・・」

 ステファンが苦笑した。

「そんなことをしたら営倉行きです。」
「だけど、君達も踊るだろ、クラブとかで・・・」
「休暇で外出する時はね。」

 ステージにピアノ以外の楽器が運ばれて来た。ジャズだからバンド演奏もやるのだ。先住民のピアニストが現れた。ラフな服装だ。プロデューサーやバンドリーダーと打ち合わせを始めた。ピアノの前にすぐに座る訳ではなさそうだ。
 テオは後ろを振り返った。

「エミリオはまだトイレかい?」
「ノ・・・」

 ステファンが声を低くした。

「楽屋でしょう。」

 1人で”幻視”を使って他人に見えないと思わせて忍び込んだのだ。

「サイスは目の前にいるぜ?」
「デルガドはサイスの部屋に怪しい物がないか調べに行ったのです。」
「怪しい物?」
「サイスに無意識にナワルを使わせる要因になりそうな物です。」

  つまり、麻薬や違法薬物がないか調べに行ったのだ。

「貴方はさっき車の中でマネージャーの存在を我々に思い出させてくれました。サイスが何も持っていなくても、マネージャーが何か持っているかも知れません。」
「マネージャーは今ステージにいるのかな?」
「我々は彼のマネージャーの顔を知りません。盲点でした。」

 ステファンはまたテオに一本取られたと言う顔をした。いや、盲点があったことを教えてもらって感謝するべきだろう、と彼は己の心に言い聞かせた。

「君は、サイスが何か薬を使って、その作用で無意識に変身してしまった可能性を考えているんだね?」
「昨夜の女の言葉を考えると、そんな場合もあり得ると思ったのです。」
「ビアンカ・オルティスはサイスが変身した経緯を知っているんじゃないかな?」
「知っているでしょうね。だが彼女と彼の関係が見えてこない。アスクラカンから来た女とアスクラカンに行った記録がない男の接点がわかりません。」
「カルロ、この後で彼女に会いに行ってみないか?」

 ステファンが振り返って彼を見た。

「一緒に行ってくれるのですか?」
「勿論・・・って、1人で会いに行くのはマズイのか?」

 すると大尉が躊躇った。

「向こうは未婚の女性ですから・・・」
「はぁ?」
「ですから・・・」

 ステファンはちょっと顔を赤らめた。

「オルティスがただの女性だったら問題ありません。しかしデルガドと私は彼女が一族の女だと知ってしまった。未婚の男が部族の長老や彼女の親の許しを得ずに未婚の女に接近するのはマズイのです。」
「ただの事情聴取だろ?」
「女の方から来るのは問題ありませんが、男の方から近づくには制約があります。それが一族の掟なのです。」

 面倒臭い一族だなぁとテオはぼやいた。

「ケツァル少佐やマハルダには誰もが平気で近づいているじゃないか!」
「彼女達が何者か、皆知っています。それに仕事仲間ですから平気なのです。彼女達の身分を知らずに、ただの一族の女だと言う知識しかなければ、一族の男は声をかけません。彼女達の部族や家族に対して失礼になるからです。」
「君が問題にしているのはオルティスが一族の女だと言うことだな? でも昨晩は君から声をかけたんだろ?」

 ステファンは渋々認めた。

「周囲に誰もいませんでしたから。彼女は私が声をかけたので怒っていました。」

 テオは溜め息をついた。

「わかった。それじゃ、俺がグラダ大学の准教授として彼女に声をかけよう。」



第3部 隠された者  3

 「寝るなら客間を使えば良いのに。」

とテオがコーヒーを淹れながら言った。カルロ・ステファンは狭いソファで寝て背中の筋肉が強張ってしまい、肩をぐるぐる回している。

「ここのベッドは私には上等過ぎて、よく寝付けないんです。」

 彼は腰も回した。テオが缶詰の煮豆とパンと目玉焼きをテーブルに並べた。

「それなら床の上に寝ろよ。毛布を使えば良いさ。」

 テオが待っているので、ステファンはストレッチを終了してテーブルに着いた。休日なのでテオはいつもより1時間遅く起きて、今は朝の7時だ。ステファンにしても寝過ごしたと言える時刻だが、ここは官舎ではないし、部下もまだ来ていない。

「エル・ティティには帰らないのですか?」
「うん、バスに乗り遅れたし、まだ週明けの試験問題を作らなきゃいけない。だから来週まで楽しみは取ってある。 俺は今日1日家にいる。君も遠慮なく寛いでくれ。」
「いや、サイスは今日の午後、コンサートの打ち合わせでシティホールに出かける予定です。監視します。」
「やっぱり、彼がジャガーかい?」
「スィ。」

 ステファンはテオにビアンカ・オルティスと真夜中に出会ったことを告げた。テオが食事の手を止めて考え込んだ。

「サイスがジャガーだと知っていて、しかもサイスがナワルの知識を持っていないと彼女は仄めかしたんだな?」
「スィ。彼女は若いですが、一人前のツィンルと思われます。長老から彼女に関する情報は何もなかったので、正直なところ昨夜は衝撃でした。」
「彼女は地方から大学に来ているらしいから、長老は彼女を知っているのかも知れないが、彼女がグラダ・シティに住んでいることは知らないのかも知れない。」
「地方にいた彼女が何故サイスを知っているのでしょう? サイスはデビューして7年近くなりますが、活動はもっぱら外国で国内ではグラダ・シティとオルガ・グランデぐらいしか演奏しません。アスクラカンでコンサートを開いた話は聞いていません。」

 グラダ・シティとオルガ・グランデにはそれぞれ集客スペースが広くて音響効果の良い劇場がある。闘牛が禁止される前は、闘牛場もあったのだ。現在はスポーツ施設に造り替えられてしまったが、そこでコンサートを開く人気アーティストもいる。しかしアスクラカンはサッカー場があるだけだ。それも世界大会など開けない、野原の中のサッカー場だ。

「音楽ホールがなくても学校などで弾いて子供達に音楽を教えることもあるさ。」

 テオは試験問題を考えるよりビアンカ・オルティスとピアニストの関係を調査する方が面白そうだと言う誘惑と戦いながら、朝食を終えた。
 ステファンの方はデルガド少尉が来るまではぐーたらするつもりなのだろう、食器洗いを手伝った後はまたソファの上に寝転がってしまった。
 静かな土曜日の朝だった。共有スペースの中庭で同じ長屋の奥さん達がお喋りをしながら畑や花壇の世話を始めた。子供の声が聞こえ、タバコの臭いも漂った。しかしテオの気を散らす様な雑音ではなく、彼はリビングのテーブルに書籍や資料を広げ、ラップトップで試験問題を組み立てて行った。問題は3問、一つは先日学生にネタバラシをした簡単な問題だ。残りはちょっと捻って引っかけ問題と、実際に実験に参加していないと解けない問題だ。問題が出来上がると、解答が複数にならないか検証して、それを主任教授にメールで送った。主任教授が月曜日の朝迄に目を通してくれる保証はなかったが、火曜日午前中の試験には間に合うだろう。 実にセルバ的な進行だ。
 そろそろ昼ご飯の支度をしようかと思う頃に、デルガド少尉がジープでやって来た。ステファンは休憩させるために彼を本部へ帰したと言ったが、規律が厳しい官舎で本当に休息出来たのか、テオは疑問に思った。昼食に誘うと、デルガド少尉は上官をチラッと見た。ステファンが微かに苦笑して、テオに頷いて見せた。

「大した物は出せないよ。期待されても困るんだ。」

 テオはスパゲティを茹でて、唐辛子とベーコンのオイルパスタを作った。そこに目玉焼きを載せて出すと、少尉は予想以上に喜んだ。きっと本部の食事はシンプルなんだろう、と想像がついた。
 セルバ人はメソアメリカ人らしく激辛の唐辛子類が好きだ。テオは少ししか唐辛子を入れていなかったので、ハラペーニョソースをテーブルに出しておいたら、ステファンもデルガドもスパゲティにふんだんにかけていた。

「ところで、サイスの尾行にジープを使うんじゃないだろうな?」
「距離を開けて行きます。大統領警護隊の車はグラダ・シティでは珍しくないですから。」
「しかし目立つぞ。」

 テオは彼等の服装を眺めた。

「軍服も目立つと思う・・・」

 ステファンとデルガドが目と目を合わせて会話した。テオは彼等が結論を出す前に提案した。

「俺の車を貸してやるよ。今日は出かけないから。どうしても、って言う用事があれば近所の誰かに頼むし・・・」

 するとステファンが提案した。

「一緒に出かけませんか? 試験問題も出来たようですし、今日はサイスをただ見張るだけになりそうです。」



2021/10/13

第3部 隠された者  2

  テオは出張の疲れが出たので、ビールを一本空けるとシャワーを浴びて寝てしまった。カルロ・ステファン大尉は彼が寝室で寝息を立て始めたのを確認してから、上着を着て、武器などの装備を身につけた。静かに玄関のドアを開き、外に出て施錠した。そしてマカレオ通り3丁目第3筋に向かって歩き出した。満月が過ぎたが、月はまだ丸い。彼は気を抑制していた。以前はコントロールが出来なくて放出しっ放しだったので、よく犬に吠えられた。いや、犬に吠えられた時は大概気力が弱っている時、母親に叱られた日や喧嘩で負けた日だった。気分が高揚していた時は気力が強かったのだろう、犬の方が怯えて吠えるどころか尻尾を巻いて縮こまっていたのだ。今の彼は普通の人間並みに制御出来ている。犬たちは民家の庭で道を通り過ぎる彼を眺めている。中には尻尾を振っているヤツもいた。

 こいつらと話が出来たら、ジャガーの正確な位置がわかるのにな。

 と彼は思った。雨季が近いせいか空気が湿っていた。だが雨にはなるまい。”雨を降らせるもの”と呼ばれたジャガーは雨が降る時をほぼ正確に察知する。降らせることは出来なくても、降るか降らないかはわかるのだ。
 3丁目の通りに来ると、前方に人影が見えた。ステファンは静かに歩調を変えずに近づいて行った。第1筋、第2筋と通り過ぎて行く間、その人影は1軒の家の前を行ったり来たりしている様子で、近づくステファンには気がついていなかった。
 女だった。ビアンカ・オルティスだ、と彼は判別した。彼はわずかばかり気を発してみた。側の植え込みの中でトカゲか蛇がいたのだろう、ガサリと音をたてて何かが逃げた。同時にオルティスがビクリとして振り返った。タイミングからして植え込みの音を聞いて驚いたのではない。ステファンが気を発したので驚いたのだ。
 数秒間暗がりの中で彼と彼女は互いの姿を見つめ合った。目は合わさない。ステファンは彼女が”ヴェルデ・シエロ”だと確信した。夜目が効いている。彼は低い声で尋ねた。

「こんな時間にそんな所で何をしているのだ?」

 オルティスは彼をグッと睨みつけたが、すぐに視線を逸らし、山側の二階建ての家に顔を向けた。ステファンもチラッとその家を見た。ピアニストのロレンシオ・サイスの家だ。人気アーティストの自宅らしく塀が高く、監視カメラも付いている。周囲の家々の3倍の広さはあるだろう敷地の奥に家があった。家は暗く、住人は就寝しているか留守なのだ。エミリオ・デルガド少尉の報告では、サイスは自宅にいると言うことだった。昼間近所の店でメイドが買い物をしたり、本人が庭でサッカーの真似事をしているのを目撃したと言う。
 ステファンはオルティスにもう一度声をかけた。

「こんな時刻にここにいるとストーカーか泥棒だと思われる。それにジャガーも出没する。」

 オルティスは無言で彼を振り返り、やがて通りの反対側に止めてあった自転車に歩み寄った。彼女は自転車を起こすと押しながら彼の側へやって来た。

「ロレンシオは無知なのよ。」

と彼女は言った。

「彼は自分に何が起きたのかわかっていない。だから・・・」

 彼女は自転車にまたがった。そして懇願の口調で言った。

「見逃してあげて。」

 彼女は地面を蹴り、自転車で走り去った。
 ステファンは彼女の姿が遠ざかって行くのを眺め、再びロレンシオ・サイスの家を見た。先刻の彼が発した気を感じた様子は伺えなかった。周辺の動物達も気がついていない。
 彼はサイスの家があるブロックをゆっくりと周回してみた。特に変わった気配はなかった。サイスの家の裏手に小さなロータリーがあった。中央に生えている大木を切りたくないので残してロータリーを造った、と言う感じの道の構造だった。彼は大木の周囲をぐるりと周り、それから木の上に素早くよじ登った。地面が傾斜しているので、それほど高い位置に登らなくとも目的の家の中が見えた。彼は枝の分かれ目で主幹にもたれかかり、枝にまたがる姿勢でサイスの家を監視した。
 夜明け近く迄そこでそうしていたが、結局動きはなかった。早起きの労働者が出てくる前にステファンは木から下りてマカレオ通りのテオの家に戻った。家の中に入ると玄関を施錠して浴室に行き、さっと水を浴びた。そしてリビングのソファの上で横になった。


第11部  紅い水晶     20

  間も無く救急隊員が3名階段を昇ってきた。1人は医療キットを持ち、2人は折り畳みストレッチャーを運んでいた。医療キットを持つ隊員が倒れているディエゴ・トーレスを見た。 「貧血ですか?」 「そう見えますか?」 「失血が多くて出血性ショックを起こしている様に見えます。」 「彼は怪我...