2021/11/03

第3部 狩る  13

 右の寝室は静かなままだった。ケツァル少佐は静かに待っていた。待つのは慣れている。遺跡発掘隊の監視はひたすら作業行程を眺めているだけの仕事だ。ドアの向こうの気配が動いたのは6分後だった。瞬間に彼女はアパート全体の結界を張った。物音が響き、続いて「キャッ」と声がした。少佐は寝室のドアを開いた。
 窓の近くにベッドがあり、その上で若い女性が蹲っていた。Tシャツとコットンパンツ姿だ。頭を抱えているのは、窓から外に出ようとして、少佐の結界にぶつかったせいだ。”ティエラ”なら問題なく通り抜けられる結界は、同族の”ヴェルデ・シエロ”にはガラスの壁の様に硬い。無理に突破しようとすれば脳にダメージを受ける。

「話があると言った筈です。何故逃げるのです?」

 少佐は後ろ手で寝室のドアを閉めた。女が右脇腹に片手を当てた。

「大統領警護隊は私を撃った。殺されるかも知れないのだから、逃げるのは当たり前でしょう。」

 成る程、と少佐は頷いて見せた。

「何故、貴女は撃たれたのでしょう?」
「知らないわ。いきなり向こうが撃って来たのよ。それも後ろから!」

 暗がりの中で女の目が光った。少佐は”心話”を拒否した。信用出来る相手としか”心話”はしない。それが常識だ。

「貴女を撃った男は、オクターリャ族です。私達を連れて過去に飛んで銃撃現場を見せることが出来ます。検証を望みますか?」

 ”操心”が効かない相手だと悟った女は、脱力した。

「わかった・・・正直に言うわ。アンティオワカ遺跡にコロンビアから密輸した麻薬やドラッグを隠している組織がいると聞いたのよ。それで確かめに行ったの。もし本当にそんな悪いことをしているヤツがいるなら、粛清しなきゃ。この国の害になるからね。」
「貴女1人で麻薬組織を撲滅出来ると思って行ったのですか?」
「操れるでしょ? 1人を操れば、そいつが連中の輪を乱す。自滅させるのよ。」
「それが目的なら、大統領警護隊が職質をかけた時に、そう言えば良かったのです。」
「信じてくれたかしら?」
「彼は言いませんでしたか? 遺跡は警察が封鎖している、と。」
「覚えていないわ。」
「貴女はこう答えました。クスリを分けてくれるって聞いたから、買いに行こうとしていた、と。それも忘れましたか?」

 女が微笑んだ。

「私はジャンキーなんかじゃない。でも、クスリが必要だったのよ。」

 彼女は少佐を見上げた。

「ねぇ、もし突然、貴女に弟がいて、その弟が”ティエラ”が産んだ”出来損ない”で、それなのに父親が貴女よりその子を可愛がっていたと知ったら、貴女、我慢出来る?」

 少佐はニコリともせずに答えた。

「私は、突然弟の存在を知らされたことがありますよ。」
「え・・・?」
「その弟は”出来損ない”の女から生まれた”出来損ない”です。そして私は父と全く接点がありませんでしたが、弟は父に名前をもらい、愛されました。」
「それで?」

 女の声が微かに震えた。

「貴女はその弟をどうしたの?」

 少佐は彼女の目を見つめて言った。

「”シエロ”として生きる為に手を貸してやっています。彼は努力の人です。私は彼を愛しています。」
「貴女のお父さんは・・・」
「父は弟が2歳の時に死にました。私は一度も父に会ったことはありませんが、弟は微かに記憶があるそうです。」
「貴女のお母さんは、その”出来損ない”の弟のことをどう思っているの?」
「母は私を産んですぐに死にました。父の妻は弟の母親で、私の母ではありませんでした。」

 女が沈黙した。
 少佐がドアを手を触れずに開いた。

「私は帰ります。貴女が大統領警護隊の本部へ出頭してミーヤ遺跡での出来事を説明すれば、我々は貴女を追いません。貴女はロレンシオ・サイスのことを忘れて故郷に帰るとよろしい。」

 ハッと女が目を見張った。

「ロレンシオのことを知っているの?」
「我々は知っています。」

 少佐は「我々」と言う単語に力を込めた。ロレンシオ・サイスがミックスの”ヴェルデ・シエロ”であることを、大統領警護隊は承知していると言う意味だ。つまり、サイスが不審な死を遂げれば、お前を真っ先に疑うぞ、と言う警告だった。
 女が独り言のように言った。

「あの”出来損ない”の隊員が報告したのね。」
「あの”出来損ない”の隊員は、貴女より能力が強く、優秀ですよ。エル・ジャガー・ネグロですからね。」

 女が息を呑んだ。黒いジャガーは、グラダ族の男性だけが使えるナワルだ。グラダ族はどの部族よりも強く、使える能力の種類も多い。サスコシ族がまともに戦って勝てる相手でないことを、女は知っていた。

「そんなに強いヤツに見えなかった・・・」

 おやおや、と少佐は心の中で呟いた。カルロも見くびられたものだ。

「彼は気を上手く抑制しているだけです。純血種並みに。貴女が能力の使い方に自信があるなら、”出来損ない”の弟を上手に指導してあげることです。」
「出来ません。」

 と女は俯いた。

「父の愛を奪った男を弟と認めることも、指導することも、私には出来ません。」
「それなら、ロレンシオのことは忘れるのです。血族と思わなければ、彼が存在していても気にならないでしょう。」

 彼女が涙を流すのを少佐は感じた。この女は、ロレンシオ・サイスを愛してしまったのだ、と少佐は気がついた。弟としてではなく、男性として。

「夜が明けたら、出頭なさい。」

と少佐は言った。

「今日の日暮れ迄に出頭しなければ、”砂の民”が貴女を追いますよ。麻薬組織に近づこうとした、それだけで彼等は貴女を不穏分子と見做します。」



2021/11/02

第3部 狩る  12

  一方通行の道路が交互に東西に伸びているマカレオ通りから東サン・ペドロ通りを通り、西サン・ペドロ通りの筋を北上して、ケツァル少佐は自宅の高級アパートの駐車場に車を入れた。厳重なセキュリティーのドアを2か所通り、エレベーターで自室があるフロア迄上がった。自宅に入ると、彼女はバッグをソファの上に投げ出し、バルコニーに出た。高台の一等地だ。グラダ・シティの市街地が一望出来る。雨季が近いので商店街は消灯が乾季より早い。それに平日だから日付が変わる頃になるとポツポツと灯りが消えていくのが見えた。
 少佐は目を閉じて暫く風を感じていた。それから室内に戻ると、足首の拳銃とは別に肩から吊るすホルダーを装着した。こちらの拳銃は標準サイズで大きめだ。弾倉に弾が込められていることを確認して、彼女は携帯電話以外何も持たずに外へ出た。
 少佐は西サン・ペドロ通り第7筋を南下して、7丁目との交差点まで歩いた。学生用アパートが並んでいる通りだ。彼女は通りをゆっくりと歩き出した。ステファン大尉とデルガド少尉の報告にあった建物の前に立つと3階の窓を見上げた。どの部屋も照明は消えている。グラダ大学だけでなく、どの学校も今は期末試験の期間で試験で実力を出し切った学生達は疲れて眠っているのだ。
 通りを走って来た車が遠ざかる迄待って、少佐はそのアパートの中に入った。階段の壁に微かに血の臭いが残っていた。撃たれた傷の傷口は塞がったかも知れないが、アスルが撃った弾丸がもし体内に残っていれば、サスコシ族の能力では自力で弾丸を体外に出せない。女は手術を必要とした筈だ。自分で摘出出来るか、それとも誰かにやらせるか? 女は先週の土曜日迄、つまり5日前迄このアパートに住んでいた。土曜日の午後にテオとステファンに住まいを突き止められて逃げたが、火曜日に撃たれていきなり傷の手当てをする場所を確保出来たと思えなかった。隠れるなら、ここだ。
 3階まで上がって、少佐はBのドアの前に立った。血痕はそこで終わっていた。少佐はドアに耳を当てて中の気配を伺った。2人いる、と彼女の本能が告げた。1人はオルトのルームメイトだろう。ここで踏み込んでオルトを捕まえるのは難しい。ルームメイトの女性は”ティエラ”の筈だ。人質に取られる恐れがある。一番簡単なのは、中に踏み込むと同時に気を爆発させてオルトを叩きのめす方法だ。しかし、それでは他の部屋の住民に損害を与える。ルームメイトにも怪我をさせる恐れがある。何よりもオルトを審判にかける前に死なせてしまう。
 少佐はドアノブに手を翳した。鍵が開いた。カチッと言う音がして、彼女は暫く動きを止めた。部屋の中は静かだ。中の人間は眠っている。しかし銃創を負った人が熟睡出来るだろうか。ケツァル少佐は撃たれた経験があった。右胸を撃たれた。すぐに軍医による手術を受けたが、その夜は傷が疼いてよく眠れなかった。”ヴェルデ・シエロ”は傷を負うと眠って治癒を促す。それでも体にメスを入れられると、自然の治癒より早くなる分痛みが酷くなる。
 オルトは今動ける状態なのだろうか。
 少佐はドアを静かに開いた。入ってすぐに狭いキッチンとバスルームがあり、奥に狭いリビングルームがあった。寝室は左右にドアが一つずつ。彼女はキッチンのシンクの縁に懸かっていた布巾を取り、ドアの下にストッパーの代わりに挟んだ。音を立てずにドアを閉め、最後に布巾を抜き取って施錠した。その動作の後、再び静かに動きを止めて様子を伺った。5分も待ってから中へ移動した。バスルームの前を通った時、血の臭いを嗅いだ。傷の手当てをした痕跡だ。少佐はリビングの中央に立った。左右のドアを見比べた。
 右のドア・・・彼女は当たりをつけた。低い声で呼びかけた。

「サスコシのビアンカ・オルト、話がある。私は大統領警護隊シータ・ケツァル・ミゲールだ。」



第3部 狩る  11

  ケツァル少佐はマカレオ通りの「筋」を南下し、途中で歩いている軍服姿の3人の若者を発見した。車を近づけて減速すると、向こうも気がついて立ち止まった。彼女が窓を開けると、3人は敬礼した。

「少佐、今お帰りですか?」
「スィ。」

 少佐が目を見たので、ロホは”心話”で報告を行った。少佐が頷いた。

「アスルが使う”入り口”の近くにあなた方は出た訳ですね。」
「恐らくミーヤ遺跡とこの近辺の”空間通路”が繋がりやすくなっているのでしょう。新月が来ればまた変化すると思いますが。アスルが撃った女はグラダ・シティに逃げ帰ったものと思われます。残念ながら、既に24時間以上経っていますから、こちらへ来てから女の匂いも痕跡も発見しておりません。」

 それを聞いてケツァル少佐は考え込んだ。それからふと顔を上げて、ロホに言った。

「これからあなたのアパートに3人は行くのですね?」

 え? とデネロスが驚いた表情をした。

「追跡はもう終了ですか?」
「南部にいれば追跡続行ですが、あなた方はここへ帰って来ました。街中でアサルトライフルをぶっ放す訳にいかないでしょう。今夜はこれで撤収して休みなさい。明日は2時間の繰り下げ出勤を認めます。」

 デネロスはまだ何か言いたそうだったが、ロホとギャラガが敬礼して承知を示したので、彼女も敬礼した。そして、少佐は「おやすみ」と言って、3人を残して走り去った。
 ロホは2人の部下を見た。

「少佐の命令だ。今夜は私のアパートで休んで、明日はオフィスに出勤だぞ。」

 デネロスは背中のリュックに着替えを入れておいて良かった、と思った。靴は泥だらけの軍靴のままだったが。
 歩き出してから、ロホがギャラガに囁いた。

「少佐は何処から帰るところだったと思う?」
「サイスの家からですか?」
「サイスの家はあっちの方角だ。」

 ロホはベンツが来た方角と反対の方を指した。

「ええっと、それじゃ、今僕達が向かっている方向から来られたと言うことは・・・」
「ドクトルの家からだろう。」

 ギャラガはコメントを避けた。そして心の中で、ステファン大尉がまたヤキモチを焼くだろうな、と思った。


第3部 狩る  10

  テオの家の来客用駐車スペースでケツァル少佐はベンツを駐めて運転席の背もたれに体を預け目を閉じていた。助手席ではテオが同様のポーズでやはり目を閉じていた。先に寝落ちしたのは彼だ。走行中に寝てしまった。自宅前に到着して、少佐が声をかけても目覚めなかった。だから彼女は彼が目を覚ます迄寝ているのだ。空にはようやく下弦の月が出て来たところだった。
 東側の通り2本南あたりで犬が突然激しく吠え始めた。犬の興奮がゆっくりと拡散する前に、少佐は背もたれから体を起こした。耳を澄まし、犬が恐怖に駆られていることを感じ取った。彼女は体を捻ってテオにキスをした。

「起きて下さい。」

 テオは寝入ったばかりだ。すぐに目覚めなかった。彼女は彼の頬を叩いた。

「起きて、テオ!」

 彼がうーんと声を上げかけた。少佐は躊躇わずに頬を平手で殴った。

「さっさと起きる!」

 テオが目を開けた。何? と呟いたので、彼女は言った。

「車から降りて家で寝なさい。」

 テオは外を見て、自宅だと気がついた。

「ごめん、寝てしまった・・・」

 彼はドアを開けた。そして犬の吠え声に気がついた。彼がまだ車内にいるにも関わらず、少佐が車のエンジンをかけた。彼は降りずにドアを閉めた。

「犬の所へ行くのか?」
「通ってみるだけです。降りないの? 今夜はもう送りませんよ。」

 テオは渋々外へ出た。
 ドアが閉まるや否や少佐のベンツは走り去った。ガソリンスタンドの方向だ、と気がついたのは、家の中に入った後だった。アスルが”入り口”があると言っていた付近だ。”入り口”があれば近くに”出口”もある。誰かが出て来たのか?
 行くべきだろうか? しかし、いつまでも相手はそこに留まっていないだろう。
 彼は寝室に入った。そしてベッドの上に体を投げ出すと、目を閉じた。


第3部 狩る  9

  暗闇は”ヴェルデ・シエロ”にとって色彩がないだけで見えない世界などではない。戦闘服に身を包んだロホ、ギャラガ、そしてデネロスはアサルトライフルをいつでも撃てる体勢で森の中を歩いていた。木の葉に付着している血痕が白く光って見えた。
 国境検問所の近くにある”出口”から出た時、電話連絡を受けていたアスルが出迎えた。ロホが2人の後輩少尉を連れていたので、彼は「狩の練習か?」と尋ねた。ロホは真面目に「スィ」と答えた。アスルが出迎えたのは、同僚達が”出口”から出て来るところを無関係な”ティエラ”に目撃されない為の用心だった。”出口”から出る時、外の世界がどんな様子なのか”通路”にいる人間にはわからない。敵が待ち構えて襲って来る可能性は十分あるのだ。
 アスルはこの夜の追跡に加わらなかった。彼には彼の任務がある。遺跡発掘隊が完全に撤収する迄警護と監視をするのだ。セルバ共和国での考古学調査は発掘許可をもらうのが大変難しいが、一度認可されると帰国する迄しっかり守ってもらえる、それが諸外国の研究機関に人気がある理由だ。アスルはミーヤ遺跡の発掘隊を守る仕事をしている最中だ。だからロホは、女を撃った本人に女の捜索を手伝えと言わなかった。

「あの女は俺が声をかけたら、家長や族長を通せと、俺のマナー違反を咎めやがった。俺が守っている土地に無断で入り込む方がマナー違反だろうが!」

 アスルがぼやくのを年長のロホは聞き流し、「こちら側」で女を捕まえたら引き渡しを要求するか、と尋ねた。アスルはちょっと考えた。

「麻薬密売組織と関係があるのなら、憲兵隊に引き渡すのが筋だが、”シエロ”ならそうはいかないだろう。本部へ連行してくれないか。」
「承知した。」

 少尉のアスルが中尉のロホにタメ口で仕事の話をするのを、もし本隊の隊員達が耳にすればアスルを咎めるだろうが、文化保護担当部では誰も気にしない。ロホとアスルは兄弟同然の仲だ。そしてサッカーチームのライバル同士だ。ギャラガにはアスルはちょっと怖い先輩だが、気後れせずに言葉を挟んだ。

「捕まえたら必ず連絡を入れます。」

 アスルはチラッと彼を見て、ぶっきらぼうに言った。

「電話が通じる場所だったらな。後日報告で構わない。」

 それで、ロホ、ギャラガ、デネロスは3人で真夜中のジャングルを歩いていた。気を放出すれば虫や蛇を防げるが、逃亡者にこちらの存在を教えてしまう。いるのかいないのかわからない逃亡者に気取られぬよう、彼等は気を抑制して歩いていた。ジャングルに慣れていないデネロスは虫が煩わしいのだが、これしきのことで音を上げたりすれば次の派遣は砂漠ばかりになってしまうので我慢していた。都会育ちのギャラガにしても本格的な深夜の森の中での捜索は初めてだ。何処かで物音がする度に、ギクリとしてそちらへ銃口を向けるので、ロホに「落ち着け」と叱られた。
 1時間ほど歩いた頃、風が生臭い臭いを運んで来た。ジャガーに変身して嗅げば「美味しそうな匂い」だが、人間の鼻だと「不快極まる臭い」だ。ギャラガが真っ先に断じた。

「何かがこの先で死んでいます。」

 ロホは頷いた。静かに近づいて行くと獣の唸り声が聞こえた。イヌ科の動物の声だ。薮から出ると、そこに凄惨なシーンがあった。
 地面に無残に引き裂かれたコヨーテの死骸が転がっていた。別のコヨーテが5頭でそれを貪っていたのだが、死んだコヨーテも1頭ではなく2頭だった。コヨーテがコヨーテを襲うとは思えない。
 ロホはその場に出て行き、ジャガーの気を放った。コヨーテ達が恐れをなして逃げ去った。ギャラガが死骸のそばに行くと、ロホはしゃがみ込んで死骸の検分をしていた。

「食い荒らされているから断言は出来ないが、このコヨーテは骨を砕かれて死んだ。」

 首の辺りを銃の先で指して、彼は言った。

「銃や刃物ではなく?」
「一撃だ。だが撲殺ではない。」

 もう1頭の死骸も検めて、ロホは立ち上がった。

「こっちは背骨を砕かれている。」

 ギャラガはそんな方法でコヨーテを殺した犯人に当たりがついた。

「”シエロ”の仕業ですね。」
「スィ。」

 ロホはデネロスの姿が見えないことに気がついた。一瞬焦ったが、すぐに彼女が薮から姿を現したので安堵した。

「私達が追跡していた血痕がここまで続いていました。」

とデネロスは、男達が死臭を嗅ぎ取ってから観察し忘れたことを指摘した。

「きっと血の臭いを嗅いでコヨーテが女を襲ったのだと思います。彼女が返り討ちにしたのでしょう。」

 ギャラガは死骸を眺めた。

「腐敗の進行状況から判断して、24時間以上経っていると思います。」
「まるで検視官ね。」

 ロホが周囲を見回した。そして自分達が来た道筋から90度左へ曲がった方角を指した。

「向こうに血痕がある。」


2021/11/01

第3部 狩る  8

  雨季が近いので風が少し湿り気を帯びていた。降らない雨季は困るが激しく降る雨季も困る。今季は軽く済んで欲しい、とセルバ人は願う。ほろ酔い気分でテオと少佐はレストランを出て、文化・教育省の駐車場へ向かって歩いていた。少佐はショルダーバッグを肩にかけているので、両手が塞がるのを嫌ってテオと手を繋いでくれない。テオは彼女のバッグを守るように間に挟む形で並んで歩いた。

「君とカルロ、ビアンカとロレンシオ、なんだか対照的な姉弟だなぁ。」

 少佐が応えないので、彼は1人で喋り続けた。

「姉が純血種で、弟がミックスだ。姉は生まれつき自然に超能力を使えるが、弟は教わらないと使えない。カルロもロレンシオも子供時代に教えてくれる人がいなかった。ただ、カルロは自分が”シエロ”だと知っていたし、能力が強いことは周囲にもわかっていた。そして姉さんは彼が一人前の”シエロ”になると信じて積極的に教育してくれた。一方ロレンシオは本当に最近まで自分が何者か知らなかったし、能力が何かも知っていなかった。彼の姉さんは最悪だ。純血至上主義者で弟の存在を認めない。拒否するだけでなく、命を狙っている可能性すらある。姉さんに拒絶されたと知って、彼はどんなに哀しかっただろうな・・・」

 少佐が肩をすくめた。

「オルトが何を考えているのか、彼女を捕まえて訊いてみなければわかりません。彼女はサイスを殺そうと考えているのではなく、ただ能力の強さを確認しただけなのかも知れません。ピューマが必ずしも”砂の民”になるとは限らない。彼女は周囲から浮いて案外孤独に苦しんでいるのかも知れませんよ。」

 彼女の口調が淡々としていたので、本気でそう思っているように聞こえなかった。テオは苦笑した。

「君の説は俺がそうあって欲しいと願っている内容だ。だけど彼女の言動は嘘ばかりだ。彼女の師匠が誰なのか知らないが、俺には真っ当な人とは思えない。だってそうだろう? 俺が知っているピューマは・・・ピューマなのかどうか知らないけど、社会的に真面目に働いている人々ばかりだ。博物館の館長や、大学の教授や、政治家の秘書だ。弟子に嘘ばかり付かせて教育する人達じゃないと信じる。」
「”砂の民”を信用するとは、珍しい人ですね。」

 少佐が囁くように言った。

「貴方が知っている人々は、当然私も知っています。個人的にお互い知り合っているから、彼等は優しいのです。敵と見做したら、その瞬間から彼等は冷酷になれます。現にカルロはシショカを今でも警戒しています。私もシショカをマハルダとアンドレには近づかせません。純血至上主義者は実際、残酷な仕打ちをミックス達に平気でします。」
「ムリリョ博士も純血至上主義者だよな?」
「あの方は人格者ですから。」

 少佐が苦笑した。

「ミックスを殺したりしません。寄せ付けないだけです。ミックスの若者達が無防備に放出する気が煩わしいと感じていらっしゃるのです。」
「彼は今でもカルロを”黒猫”って呼んでいる。軽蔑じゃなく、愛情を籠めて呼んでいるように俺には聞こえるんだ。」

 テオの言葉に少佐がニッコリ笑った。

「カルロが生まれる前からカタリナ・ステファンを守っていた人ですからね、カタリナの子供達は特別なのでしょう。」

 テオが以前から考えていたことを、少佐も同様に感じていたのか。テオは嬉しく思った。
 文化・教育省の駐車場に着いた。少佐のベンツに近づくと、彼女が車の安全確認をした。そして彼を振り返った。

「どっちが運転します?」


第3部 狩る  7

 結局、アスルが遭遇した怪しい女の正体について論じることもなく、テオは少佐と別れて大学に戻った。スニガ准教授に大統領警護隊がGCMSの使用料金を支払う意思がないことを告げるのは気が重かったが、先延ばしするとますます事態が悪くなることは目に見えていたので、スニガの部屋に言って直接告げた。スニガは不愉快そうな顔をしたが、しかし腹は立てなかった。腹を立てても相手が悪いとわかっているのだ。大統領警護隊に不服を申し立てる勇気があるセルバ人は殆どいない。代わりにテオに向かって言った。

「答案の採点を手伝ってくれるか?」

 それでその日の午後いっぱい夕方迄テオは他人のクラスの答案を読んで過ごした。 作業が終わる頃にスニガの機嫌は直っており、これからは正式な申請をもらってから検査を行う約束をした。
 日が暮れる頃にテオが大学の駐車場へ行くと、電話がかかってきた。またケツァル少佐だ。

ーー夕食のご予定は?

ときた。テオが彼女の要請を断るとは思っていない。テオはちょっと腹が立ったが、予定はなかったし、例の女の話をしたかったので、「ない」と返事した。少佐はよく利用するバルの名を告げて、時刻は言わずに電話を切った。彼が来る迄待っていると言う意味だ。テオは少し考えてから、一旦自宅まで帰った。そして車を置くと大きな通りまで出てタクシーを拾った。
 バルには少佐が1人でいてビールを飲んでいた。テオもビールを注文して彼女の隣に立った。

「1人とは珍しいな。」

と声をかけると、彼女が微笑した。

「ロホはギャラガとデネロスを連れてミーヤ遺跡へ行きました。」
「アスルの応援かい?」
「撤収の見学です。」

 ミーヤ遺跡は小さいが、撤収段取りを規則通りに行う日本隊がいる。監視役初心者には良いお手本になるだろう。しかしテオはやはり裏の目的があると睨んだ。

「ジャングルの中で女の痕跡を追うんだろ?」

 少佐がグラスを持ったままニヤリと笑った。

「もうあの近辺にいないと思いますが、逃げた”入り口”を見つけることを期待しています。」

 真夜中にジャングルの中で追跡を行うのだ。テオはロホとギャラガには心配しなかったが、デネロスはちょっと気遣った。彼女は女性だし、ナワルも一番小さなオセロットだ。それに農村育ちでジャングルでの活動は余り経験がない。テオが知っているだけでも、彼女の現場派遣は主にグラダ・シティ近郊か西部のオルガ・グランデ近辺の砂漠地帯だ。

「まさか分散して捜索させるんじゃないだろうな?」
「ノ。標的は1人ですから、3人一緒に行動するよう、ロホに命じてあります。相手が手負いのピューマである可能性がありますからね。」

 テオは溜め息をついた。

「もしその女がビアンカ・オルトだとしたら、彼女がアンティオワカへ行った目的はなんだろう? 」
「やはりドラッグでしょう。アンティオワカの業者が捕まって、グラダ・シティへ入荷がなくなったので、こちらの売人が値を釣り上げた。それで彼女は直接買い付けに行ったのではありませんか?」
「彼女が自分で使うのか?」
「貴方が彼女に会った時、薬物使用の常習者に見えましたか?」
「ノ・・・彼女はまともだった。まともでなきゃ、あんな手が込んだ誤魔化し方は出来ないだろう。」
「彼女がサイスを変身させたドラッグをパーティーに持ち込んだと疑われますから、何か利用方法を考えているのでしょう。」
「サイスを狙って来るかな?」
「一度標的と定めた相手を必ず仕留めないと、”砂の民”の入門試験に通りませんからね。」

 少佐の声が小さくなった。

「ピアニストは今どうしているんだい?」
「ギャラガが本部でそれとなく聞き込んで来た遊撃班の情報によりますと・・・」

 ギャラガは身内をスパイしているのだ。

「遊撃班では若い少尉達の訓練も兼ねて交替でサイスの護衛を行っているそうです。ステファンとデルガドはビアンカ・オルトの捜索に専念していると思われます。」

 大統領警護隊が本腰を上げてロレンシオ・サイスの護衛をしてくれているなら安心だ、とテオは安堵した。

「サイスはこれからどうするつもりかな?」
「これもギャラガが聞いてきた話ですが・・・」

 少佐はギャラガを上手く使っている。

「サイスは引退を言い出してマネージャーとバンドが意思撤回させようと連日話し合っているそうです。警護隊は口出し出来ません。」


第11部  紅い水晶     21

  アンドレ・ギャラガ少尉がケツァル少佐からの電話に出たのは、市民病院に到着して患者が院内に運び込まれた直後だった。 「ギャラガです。」 ーーケツァルです。今、どこですか? 「市民病院の救急搬入口です。患者は無事に病院内に入りました。」  すると少佐はそんなことはどうでも良いと言...