2022/01/17

第4部 花の風     30

  ミイラとなったアンドリュー・ウィッシャーのDNA分析結果が出た。テオはそれをアンドレ・ギャラガのDNAと比較した。そして無言でアスルに見せた。アスルは目を細めて2枚の細長いゲノム分析表を眺めた。そして、テオを見た。

「で?」

と彼は問いかけた。テオは真面目な顔で答えた。

「ウィッシャー家の人間はアンドレをアメリカへ連れて行けないってことさ。」

 アスルは彼を数秒間見つめ、それからゲノム表を投げ捨てた。

「だったらはっきりそう言えよ。アンドレはミイラと無関係なんだろ?」
「そうさ。」

 テオは笑いながらゲノム表を拾い上げ、それをビリビリと破った。

「偶然顔立ちが似ていただけだ。そしてアンドリュー・ウィッシャーが死んだ時期とアンドレが生まれた頃が近かった。おまけにウィッシャーの息子だと偽ってアンドリューに似た顔のウィンダムが現れたもんだから、ややこしくなったのさ。」

 アスルは「けっ」と吐き捨てるように声を出し、ソファの上に寝転がった。テオはダイニングの椅子に座って彼を眺めた。ケツァル少佐から週明け迄大人しくしていなさいと言われたので、アスルは出かけずに家の中にいる。サッカーに出かけても良いのに、とテオは思ったが、セルバ人はサッカーの勝敗に熱くなるので、この週末はフィールドに出ない方が無難だろう。

「アスル、昇級する時、本部で儀式の様なことをするのかい?」
「そんなものはしない。新しい階級章をもらうだけだ。」

 アスルは体を起こした。

「ロホが大尉になったら、またお祝いをしなきゃな。」
「君の昇級祝いと合同でやろうか?」
「俺はいい。ロホのお祝いだけだ。」

 照れ臭いのだ。もっとも乾杯の時に一緒に祝えば良いのだ。テオはそれ以上彼を追い詰めずに解放した。
 カルロ・ステファンが指導師の資格を取ったらお祝いをしたいとも言いたかったが、文化保護担当部のメンバー達はそれに一言も触れない。これもワイワイ祝う様なものではないのかも知れない。 だがテオはどんな些細な理由でも良いから、また皆で集まって騒ぎたいなぁと思うのだった。
 セルバではおめでたいことが続くことを「花の風が吹く」と言う。


2022/01/12

第4部 花の風     29

  結局アスルは大して飲んでもいなかったのに、寝てしまった。昼間の業務でくたびれたのだろう。金曜日の夜だ。ケツァル少佐も彼とテオにさっさと帰れとは言わなかった。
 テオは用心深く彼を肩に担ぎ上げ、客間のベッドへ運んだ。少佐の家は土足厳禁なのでアスルは素足だった。行儀良くベッドに寝かせて上掛けをかけてやり、テオはダイニングに戻った。少佐がテーブルを片付けていたので、手伝い、皿洗いをした。

「マハルダがいないと忙しいんじゃないか?」

と彼が言うと、少佐が肩をすくめた。

「アスルが監視で出ている時の方が忙しいです。彼は1日おきにミーヤ遺跡の日本人のところに通っています。新しい消しゴムがコレクションに加わった様です。彼がくたびれているのは、データ入力が面倒臭いからです。」
「誰でも苦手はあるさ。」

 少佐がクスッと笑った。

「中尉に昇進すれば秘書を雇えるのです。財政的な問題で私の部署では誰もそんな贅沢をしていませんが。」

「秘書? 一般人から雇うのか?」
「スィ。」
「ロホは兎も角、アスルは秘書を雇う人間に見えないな。彼は自分でやらないと気が済まないだろう?」
「確かに。」

 皿を洗い終わり、水気を拭き取って棚に仕舞った。それからコーヒーを淹れて2人でリビングでまったりタイムにした。
 テオはロジャー・ウィッシャーの件の顛末を語った。少佐は知っているのかも知れないが、大人しく聞いてくれた。テオの話がウィッシャーの逮捕で終わると、彼女はそこで感想を述べた。

「その、ウィンダムとやらは、恐らく強制送還になると私は思います。アメリカ人を刑務所に入れて、また向こうから誰かが派遣されて来たらイタチごっこになるでしょう。シーロも外務大臣もそれぐらい理解していますから、罰金でも課して追い払う筈です。」
「そう願いたいな。”砂の民”の発動が想定外に早くなければ、だけど。」

 ”砂の民”と言ってから、テオは大学病院での出来事を思い出した。

「これは君だから打ち明けるが・・・」

 少佐が彼を見た。彼は声を顰めた。

「先方も君とカルロには打ち明けても構わないと言っていた。だが、俺は君だけに語る。」

 必要ないとわかっていても、彼は窓の外のバルコニーに誰もいないことを目視で確認した。

「俺は大学病院でマレシュ・ケツァルと会った。」

 少佐が眉を上げた。ちょっと驚いていた。

「ご存命でしたか・・・」
「スィ。今は夢の世界に生きているが・・・息子の家にいる。」

 ケツァル少佐は暫く黙ってテオを見つめ、やがて微笑した。

「彼女はオルガ・グランデを出て、グラダ・シティに来たのですね。」
「直接来たのかどうか知らないが、大切な息子に出会えて今は息子の家族の世話を受けている様だ。コディア・シメネス、知っているかい?」
「スィ。フィデルの奥様です。ムリリョ博士の末のお嬢様でもあります。とても優しくて、でも聡明な方ですよ。」
「彼女の付き添いで通院しているんだ。だから、マレシュと会ったと言ったが、言葉を交わしたのはコディアとだ。ただ、声をかけて来たのはマレシュの方だった。」

 少佐が「え?」と言う顔をした。滅多に見られない表情だ。テオはちょっと笑った。

「彼女は息子の記憶を無意識に読み取って俺の顔と名前を覚えているんだ。きっと君や教授の教え子達や教授が関わった人々も覚えているんじゃないかな。だけど俺には彼女の言葉が理解出来なかった。君達の母語を喋っていたから。」
「それは恐らくイェンテ・グラダ村での方言でしょう。時々カタリナがポロリと口に出しますが、カルロもグラシエラも私も理解出来ない時があります。」
「そうか・・・すると彼女の言葉を理解出来る人は現在教授夫妻とカタリナだけなのかも知れないな。」

 テオはコーヒーを飲み干してカップをソーサーに戻した。

「俺は彼女と出会ったことを教授に言ってない。彼女の存在は教授夫妻とムリリョ博士だけの秘密なのだと思う。」
「私もそう思います。ムリリョ博士が彼女の話をして下さった時、博士は彼女の現在の行方をご存知ないと仰いました。きっと他の長老に教えたくなかったのでしょう。ですから、私もここで貴方から聞いた話を忘れることにします。」
「カルロには言わない方が良いな?」
「言わないで下さい。あの子はフィデルから心を盗まれる迂闊者ですから。」

 ケツァル少佐は愉快そうに笑った。



 

第4部 花の風     28

 ケツァル少佐の自宅での夕食に招待されたのがテオと己だけだと知って、アスルはひどく不安げな顔になった。過去にも同じ面子で夕食を取ったことがあったが、その時は少佐の命令でテオを過去の時間帯に隠す任務を帯びていたのだ。しかし今回はただ「夕食においで」だ。テオは何故彼がそんなに不安気になるのか理解出来なかった。ステファン大尉やロホなどは単独で少佐の家に呼ばれたことがある。それもこれと言った用事ではなく、少佐も彼等も暇で一人で食事するのが寂しい時だった。 普通に世間話をしてご飯を呼ばれて帰った、とテオは聞いていたので、アスルが緊張する理由がわからなかった。
 カーラが作った家庭料理が並ぶ普通の夕食だった。いつもなら厨房を覗きたがるアスルが大人しく座っているので、少佐がワイングラスを手にしたまま、部下を眺めた。

「どうしたのです、アスル? いつもの貴方らしくありませんね。体調が良くないのですか?」
「否、何でもありません。」

 アスルがテオをチラリと見た。なんで呼ばれたんだろ?と目で訊いてきた。”心話”を使えないテオでも彼の気持ちがわかった。ギャラガの遺伝子を調べたことがバレたのだろうか。
 少佐がワインを飲み干して、グラスをテーブルに置いた。

「貴方達、一緒に暮らしてみてどうですか?」

と訊いてきたので、テオは隣の同居人を見た。

「楽しい。俺は彼と一緒で生活にメリハリが出た。時々闖入者もいるし。」

 上官に視線を向けられて、アスルは少し頬を染めた。

「今のところ、快適です。」

 少佐が頷いた。

「つまり、貴方はこれからも当分テオの家に住み続けると考えて良いですね?」

 テオはハッと気がついた。少佐は、司令部が考えているアスルの昇級の条件である「定住」を確認しているのだ。アスルは直ぐには答えなかった。1箇所に長く住んだことがないと言う彼が、珍しく5ヶ月近くテオの家にいるのだ。

「クワコ少尉」

と少佐が彼を呼び慣れた渾名ではなく、本名で呼んだ。アスルが「はい!」と真っ直ぐ彼女を見て答えた。少佐も彼を真っ直ぐに見つめた。

「来週明けに、本部から正式に通達が出ます。貴方は中尉に昇級します。潔斎して、伝令が来たら直ちに本部へ出頭して辞令を受けなさい。この週末は家で静かに過ごすこと。決してこの話をぶち壊す様な真似はしないで下さい。私の立場もあります。」

 アスルが立ち上がった。椅子の横に立ち、姿勢を正すと、敬礼した。

「シンセラメンテ グラシャス!」(心から感謝します)

 テオは嬉しくなった。アスルなら当然の出世だ。ケツァル少佐も敬礼して、部下に座れと合図した。アスルが腰を下ろしたので、テオはおめでとうと声をかけた。アスルは赤くなって、小さな声でグラシャスと返答した。

「これで文化保護担当部は、少佐1人、中尉2人、少尉2人になるのか?」

とテオが確認すると、少佐が微笑んだ。

「中尉はすぐにアスル1人になります。大尉が1人出来ますから。」

 アスルが顔を上げた。今度は本当に嬉しそうに目を輝かせた。

「ロホが大尉に昇級するのですか?」
「スィ。」

 少佐も嬉しそうだ。

「ロホの昇級もアスルのと合わせてずっとお願いしていたのですが、司令部は彼が”赤い森”事件でミスをしたことをかなり重く見てなかなか承知してくれませんでした。でも、あれ以来彼は慎重に行動するようになり、後輩の指導も上手くやっています。祈祷や指導師の役目もそつなくこなしてきたので、目立った手柄はありませんが、もう良いだろうとお許しが出ました。これで私も安心して外へ監視業務に出られます。」
「ロホに指揮官の事務仕事を押し付ける気か?」

 テオが呆れて言うと、アスルがニヤリと笑った。

「ドクトル、ウチの少佐はオフィスより外での仕事の方がお好きなんだ。」

 彼が己のグラスにワインのお代わりを注ごうとすると、少佐が瓶を取り上げた。

「今夜はここまで。それ以上飲むと貴方は寝てしまいます。」
「眠ったジャガーは結構重いからな、抱っこで運べないんだ。」

とテオも揶揄ったので、アスルはプーっと頬を膨らませて拗ねて見せた。

第4部 花の風     27

  夜中になる前に、テオは大学から電話を受けた。彼の研究室が泥棒に荒らされたと言う報せだった。テオは人間のサンプルを全部持ち帰って自宅の冷蔵庫に入れておいたので、電話をかけてきた警備員に、ドアを施錠してくれるよう頼んだ。

「何を盗られたか、明日チェックする。」

 もし分析器を盗まれたら大学の損害だ。分析中だったのはミイラのサンプルで、アンドレ・ギャラガの分は既に解析も終わっているから安全だった。
 翌日出勤すると、部屋の中は大して荒らされていなかった。連絡してきた警備員は夜勤明けで眠たそうだったが、テオが「盗まれたのは冷蔵庫の中の豚の精子だけ。後は大丈夫。警察にも憲兵隊にも連絡無用。」と言うと、安心して帰って行った。
 恐らくロジャー・ウィンダムは目を覚まして、リュックサックと携帯電話と財布が無くなっていることに気づき、慌てて逃げたのだ。事務局の鍵入れからテオの研究室の鍵だけが無くなっていたので、警備員が様子を見に行き、ドアが開けっぱなしになっていた為に侵入者がいたと気づいた。
 テオはケツァル少佐に夕食に招かれていることを思い出し、ゴンザレス署長に電話をかけた。

「ごめん、また帰れなくなった。」
ーーまたデートか?
「まぁ、そんなものだ。」
ーー良いことだ。お前の様に若い男がこんな田舎に律儀に帰って来る必要はない。
「エル・ティティに空港があれば、明日の朝にでも帰るのに。」
ーー飛行機は止めておけ。バスと違って、今度は本当に死ぬぞ。

 携帯の画面の中でゴンザレスが笑った。

ーーこうしてお前の顔を見られているんだから、俺は寂しくなんかないぞ。
「愛してるよ、親父。」
ーー俺もだ、倅。

 電話を切って、テオは思った。いつかケツァル少佐を連れてエル・ティティに行く日が来るのだろうか。
 また電話が鳴った。シーロ・ロペス少佐からだったので、急いで出た。少佐は挨拶もそこそこに、起きたことだけを告げた。

ーー例のアメリカ人を空港の税関で逮捕しました。
「ウィッシャーをですか?」
ーーセルバ産と思われる動物の生殖細胞を無断で持ち出そうとしたので、職員が引き留め、憲兵隊に引き渡しました。グラダ大学のラベルを貼った小瓶に入っていましたが、お心当たりはありますか?

 仕方なくテオは答えた。

「昨晩、研究室に泥棒が入って、豚の精子の瓶を1本盗まれました。被害はそれだけだったので、警察には届けていません。」
ーー豚の精子ね・・・

 ロペス少佐は電話の向こうで微かに笑った。

ーー農業省が乗り出して来るでしょう。外務省としては、あちらの政府に同国人を拘束したことを連絡しなければなりません。
「彼は運が良かったと思います。こちらの刑務所に入るか、本国へ強制送還されるか、でしょう?」
ーー刑務所は死刑宣告と同じですがね、彼の場合は。

 またもや身の毛のよだつ様な予言をして、ロペス少佐は電話を切った。ウィンダムの正体を伝えるべきだったかとテオは考えたが、結局電話を掛け直すことはしなかった。

 俺もセルバ人の考え方に染まってきたかな・・・


第4部 花の風     26

  室内では分析器が仕事をする微かなブーンと言う機械音が響いていた。廊下を足音を忍ばせてやって来た人物はその音に気づいたのだろうか、一旦前を通り過ぎて、直ぐ戻って来た。アスルはドアの横に立っていた。多分、正面に立っても普通の人間の目に見えない”幻視”を使うだろうが、用心に用心を重ねている。
 事務局から盗んで来たのか、鍵を使ってドアを開け、侵入者が室内に入ってきた。アスルは動かない。相手の出方を伺っている。テオは男だと判断した。
 男は携帯ではなく小型のライトを出して棚を物色し始めた。何か目的を持って探している。テオは男が横方向に移動する度に己もそっと机を回る様に移動した。男がうっかりゴミ箱を蹴飛ばし、床にプラスティックの容器が転がる音がした。男は慌ててライトを消し、暫く動きを止めた。それから誰も聞いていないと判断し、再び動き出した。散らばったゴミを片付けるつもりはなさそうだ。不意に男がライトの向きを変え、テオは急いで身を低くした。男は分析器を眺め、それから舌打ちした。何をする機械なのかわかっているが、中身を確認出来ないのだ。
 再び男は棚を見ていき、やがて冷蔵庫と金庫を発見した。金庫の中は学生達の名簿と成績表、試験問題の資料が入っている。普通の泥棒が盗んでも意味がない紙切ればかりだ。男は金庫を後回しにして冷蔵庫を開けた。冷蔵庫も夜間は鍵を掛けるのだが、先刻テオが開けたまま、無施錠のままになっていた。テオが人間のサンプルを回収した後は、牛と豚のサンプルしか残っていない。ラベルには採取した農場の名前と番号が記してあるだけだ。男はそれを眺め、背負っていた小さなリュックの中にそれを入れ始めた。
 アスルが男のそばにそーっと忍び寄った。気配に気がついて男が振り返ったが、何も見えなかった。ただ、後ろの壁にアスルの影が映った。男は咄嗟に横を見た。アスルが別の場所に立っていて、影が映ったと思ったのだ。アスルが握った拳銃のグリップで男の側頭部を殴った。
 男が倒れたので、テオは机の影から出た。アスルが素早く男の腕を背中に回し、革紐を名人技で手首に巻き付けて縛り上げた。大統領警護隊は手錠を使用するが、この場面でアスルは持っていなかったのだ。しかし”ヴェルデ・シエロ”を拘束するのに有効な革紐は常備していた。それから男の服を探り、拳銃と折り畳みナイフを回収した。
 テオは壁の照明のスイッチを入れた。そして男の顔を見てアスルに言った。

「ロジャーだ。」

 アスルが冷蔵庫から氷を出して、男の顳顬に押し付けた。男が目を開けた。アスルが英語で話しかけた。

「ここで何をしていた?」

 ロジャー・ウィッシャーは彼を見上げ、それからテオに気がついた。またアスルを見て、もう一度テオを見た。

「ドクトル・アルスト、話を聞いてくれ。」

 彼が体を動かしたので、アスルが「ノ!」と言った。

「そのままの姿勢で話せ。」

 テオはロジャーにアドバイスした。

「逆らうな。俺の友人は白人嫌いで気が短い。」
「大統領警護隊?」
「答える必要はない。」

 アスルは1メートル以上ロジャー・ウィッシャーから距離を取っていた。それが嫌いな人間に対する彼の許容範囲の限界だ。昔はテオに対してもこうだったのだ。
 ロジャー・ウィッシャーはうつ伏せの姿勢で仕方なく話を始めた。

「憲兵隊が父は盗掘目的で遺跡に潜り込んで事故死したと言った。僕は恥ずかしかった。確かに父は黄金郷を探していたから、その可能性もあると思った。出来ればこの国に父の痕跡を残したくなかった。貴方はミイラの組織サンプルを採ったと思ったので、回収しようと思ったんだ。」
「それなら、電話でも構わないから、そう言ってくれれば、俺は貴方にサンプルを返した。無理に分析する必要はないから。貴方が時計であのミイラがアンドリュー・ウィッシャーだと確認しただろう。貴方が本当のロジャー・ ウィッシャーなのかどうかは、わからないが。」

 ロジャーが沈黙した。するとアスルが彼の顔のそばに行き、屈み込んだ。相手の髪の毛をいきなり掴み、顔を上げさせた。目と目を合わせた時、彼の目が金色に光った。
 アスルが言った。

「氏名、所属、階級、任務を言え。」

 ウィッシャーが唇を震わせた。何かと戦っているかの様な苦痛の表情を浮かべ、やがて絞り出すような声で喋り始めた。

「私はロジャー・ウィンダム、フォース・リコーン・中米戦略部隊所属、大尉、国立遺伝病理学研究所から脱走したシオドア・ハーストが現在研究しているものが何なのかを調査し報告する任務を帯びている。」

 テオは腹が立った。やっぱり北の国は彼を諦めていない。と言うか、セルバ共和国がどんな国なのか探りたいのだ。何故テオが亡命したのか、何故堅固な警備体制を敷いていた研究所が滅茶苦茶に荒らされたのか、何故当時研究所にいた人々の多くが記憶を失っているのか。
 アスルが尋ねた。

「今、何を知っている?」
「何も・・・」

 ロジャー・ウィンダムが答えた。

「奴らの守りは鉄壁だ。ハーストは私を警戒している。彼の研究サンプルを手に入れたら、直ぐに出国しなければ・・・」

 アスルが彼の髪の毛を離した。ロジャー・ウィンダムはばたりと床に顔を落とした。気絶していた。アスルはテオを見た。

「こいつの名前がわからなかったので、心を盗めなかった。”操心”で質問に答えさせただけだ。」
「十分だよ、アスル。グラシャス。しかし、こいつをどうしよう? 下手に始末したら、北はまた誰かを送り込んで来るぞ。」
「今の尋問は記憶に残らない。」

 アスルは冷蔵庫から豚のサンプルを出した。ウィンダムの手首を縛っている革紐を解き、その手の中に豚のサンプルを握らせた。
 ウィンダムのリュックサック、携帯電話と財布を奪い、立ち上がるとテオを見た。

「帰ろう。こいつはこのままにしておく。多分、強盗に襲われたと思うだろう。」



2022/01/11

第4部 花の風     25

  テオはもやもやした気持ちを抱えたまま自宅に帰った。アスルがキッチンで野菜と肉の煮込みを作っていた。
 テオは鞄を寝室に放り込むと、ダイニングのテーブルの前に座った。甲斐甲斐しく働くアスルを見ながら、彼は呟いた。

「俺はお人好しだなぁ。」

 アスルが呟き返した。

「今頃気がついたのか。」

 ムッとしたが、アスルは元々口が悪い。テオは頭の上で手を組んだ。

「父親探しをしていたアメリカ人は偽物だとさ。ミイラは本物のアンドリュー・ ウィッシャーだが、ロジャー・ウィッシャーは偽物だ。だからアンドレと血縁ではないし、恐らくアンドリューとも他人同士だ。アンドレとミイラの比較を行わなければならなくなった。」

 アスルが肩越しに彼を見た。

「どんな結果が出ようが、アンドレは俺たちの一族だ。アメリカ人には渡さない。」
「当たり前だろう。」

と言い返してから、テオはドキリとした。ロジャー・ウィッシャーと名乗った男は、”ヴェルデ・シエロ”のDNAを採取に来たのではなかろうか。大統領警護隊に接近してみたものの、触れることさえ出来ず、相手にもされなかった。だから次に隊員と親しくしている遺伝子学者に接近した。何らかの理由をつけて隊員の細胞を手に入れようとしていたのであれば・・・。
 テオは研究室の冷蔵庫を思い出した。文化保護担当部の友人達のサンプルを保存してある。他人にわからないように記号で識別ラベルを書いてあるし、他にも色々動物や人間のサンプルを入れてあるが、根こそぎ奪われたらお終いだ。
 彼は玄関に向かった。

「大学に行ってくる。DNAのサンプルが心配だ。」

 ドアを開けようとすると、直ぐ後ろにアスルがついて来ていた。

「相手は武器を持っているかも知れない。俺も行く。」

 めっちゃ心強い用心棒だ。10人のならず者を薙ぎ倒した格闘技の達人だ。テオは彼に来いと手を振った。 アスルは外に出ると、小さく手を振った。後でわかったことだが、ちゃんとドアを施錠してくれたのだ。
 アスルを助手席に乗せてテオはグラダ大学に向かって車を走らせた。大した距離ではないが、夜のラッシュアワーが起こっていた。一般企業は省庁よりシエスタが長い分、終業時間が1時間遅い。企業勤めの人々が帰宅する時刻だった。なかなか前へ進まない。
 テオが焦っていると、アスルが言った。

「先に行ってる。」

 彼はテオの返事も待たずに助手席側のドアを開けて、外に降りた。ドアをバタンと閉めて、車の列の間を走って姿を消した。アッと言う間の出来事で、テオは何も言えなかった。通常なら15分で行ける距離を半時間かけて大学に到着した。遅く迄研究している学者もいるのか、いくつかの部屋の窓に灯りが点いていた。
 テオは駐車場に車を駐めると、自然科学学舎の研究室へ走った。アスルが開けてくれたのか、それとも何処かの研究者が開けっ放しにしているのか、入り口の扉が開いていた。テオは中に入った。何度か夜に来ているので、暗くても勝手はわかる。非常灯の灯りだけを頼りに階段を上り、2階の研究室へ行った。ドアの前へ行くと、アスルが気配でわかるのか、ドアを中から開けてくれた。

「まだ誰も来ていない。」
「それじゃ冷蔵庫の中の物を持って帰る。」

 ロジャー・ウィッシャーが偽物なら、今夜辺りにサンプルを探しに来るだろう。いつ迄もセルバでぐずぐずしていない筈だ。身分を偽る目的で利用した行方不明者が、ひょんなことからミイラになって現れたのだ。身元確認でセルバとアメリカの間で情報交換が行われて、回数が多ければ偽物の息子だとバレる。
 テオは携帯のライトを頼りに棚から保冷バッグを出し、冷蔵庫の中の友人達のサンプルを取り出して中に入れた。小さいので重量はないが、暗がりで落として紛失する恐れがあるので慎重に作業した。
 全部入れ終わって保冷バッグの口を閉めた時、アスルが囁いた。

「足音が近づいて来る。机の後ろに隠れていろ。」

第4部 花の風     24

  テオが仕事を終えて帰宅する準備をしていると、ケツァル少佐から電話がかかってきた。出来れば直ぐに会いたいと言うので、カフェテリア・デ・オラスで待ち合わせる約束をして大学を出た。徒歩でも10分の距離だ。車を文化・教育省の駐車場の空きスペースに置いて、カフェに行った。少佐も直ぐ来た。ただし、少佐は2人いた。どちらも大統領警護隊だ。

「ブエノス・タルデス、ロペス少佐。何か御用ですか?」
「ブエノス・タルデス、ドクトル・アルスト。例のアメリカ人の件です。」

 まだ何も注文していなかった。ケツァル少佐が車の中で話しましょう、と言うので、彼女のベンツまで行った。

「父親探しをしていたアメリカ人ですね?」

とテオは確認した。ロペス少佐が「スィ」と肯定した。ベンツの後部席に男性2人が並んで座り、ケツァル少佐は運転席に座った。ロペス少佐が先に言った。

「先ず、貴方の方の出来事を話して頂けませんか? ウィッシャーと名乗る男の父親探しの進捗状況です。」

 それで、テオはウィッシャーが公園で話しかけて来た翌日、マカレオ通りの食料品店で再び出会ったことを語った。アスルからも大統領警護隊に声をかけて来るアメリカ人の話を聞いたので、ネットで検索して、ウィッシャーが勤務する靴の会社が実在すること、ウィッシャーの経歴に海兵隊勤務があるのに、本人との会話では一度もそれが出てこないこと、C I Aの仕事をしていたと本人は言ったが、それなら父親探しもそちら方面で出来る筈なのに、コネを使わないこと、ウィッシャーは大学の講義の最中に教室に現れ、父親探しを依頼してきたこと、その際にDNA検査用サンプルを採取させてくれたことをかいつまんで話した。

「それから、ニュースになったのでご存じだと思いますが、考古学部がオルガ・グランデで出土したミイラの鑑定を依頼して来て、ケサダ教授と学生達が俺の研究室でミイラの荷解きをしたんです。布を剥がしたら、ミイラの腕に腕時計が嵌められていて、まるで助けを求めるような異様なポーズをしていました。しかもインプラントで歯の治療をしていた。直ぐに憲兵隊に連絡してミイラを引き取ってもらいました。ウィッシャーに憲兵隊が腕時計を見せたら、父親の時計だと確認しました。インプラントの方もアメリカから歯科医療記録を取り寄せるそうです。 ウィッシャーも父親に間違いないだろうと言っています。それから・・・」

 テオは医学部でコンピューター処理による復顔術で、写真のアンドリュー・ウィッシャーと同じ顔が現れたと話した。

「まだコンピュータ画像の話をロジャーに連絡していないのです。恐らく、あれを見ればミイラが父親のものだと納得するでしょう。」
 
 するとロペス少佐が言った。

「ミイラが写真の男である可能性は否定出来ないでしょう。確かに、20年近く前に南の国境検問所からセルバに入国して、出て行った記録が何処にもないアメリカ人が一人いました。アンドリュー・ウィッシャーと言う名前に間違いありません。」
「では・・・」
「しかし、アンドリュー・ウィッシャーに息子はいませんでした。」

 テオは思わず、「ハァ?」と声を上げてしまった。

「しかし、ロジャー・ウィッシャーのネット上のプロフィールには、父親はアンドリューと書いてあった・・・」
「そもそもロジャー・ウィッシャーと言うアメリカ人はいないのです。否、貴方が会っていた男はロジャー・ウィッシャーではない、と言った方が良いでしょう。」
「それじゃ、あのネット情報自体がフェイクですか?」
「今どき、ネットで直ぐ身元を調べられるとわかっている組織がでっち上げた偽のプロフィールでしょう。20年前に行方不明になったアメリカ人がいたので、それを利用したのです。恐らく、ロジャーと名乗る男は少しばかり顔を整形していると思います。それとも行方不明者に似た顔の男が任務を与えられたか・・・」
「任務?」

 ケツァル少佐がそこで初めて言葉を発した。

「テオ、ロジャー・ウィッシャーとミイラのDNAを比較分析したのですか?」
「否、まだだ。分析器に入れて、君の電話をもらったのでそのままにしてある。分析表は夜中に出て来る予定だ。」

 アンドレ・ギャラガとロジャーの比較はしたが、これはアスルとの約束で2人の少佐には言えない。

「きっと他人ですよ。」

とロペス少佐が言った。

「ロジャー・ウィッシャーなる人物の真の目的が何であれ、彼は大統領警護隊を騒がせた。当然ながら外務省は彼の身元調査に遊撃班の出動を依頼しました。私の耳には入っていないが、”砂の民”もその動きを察しているでしょう。遊撃班がウィッシャーを捕まえれば、あの男の命は助かるでしょうが、そうでなければ、我々には何も出来ません。」

 背筋が寒くなるようなことを言って、ロペス少佐はベンツから出た。そして近くに駐車してあった彼自身の車に乗り込むと、直ぐに走り去った。
 テオは黙ってそれを見送っていた。ケツァル少佐が咳払いしたので、彼は我に帰った。

「ごめんよ、直ぐに出る。」

 すると少佐が言った。

「明日、うちへ夕食に来ませんか? アスルも一緒に。」


第11部  紅い水晶     24

  ケツァル少佐は近づいて来た高齢の考古学者に敬礼した。ムリリョ博士は小さく頷いて彼女の目を見た。少佐はトーレス邸であった出来事を伝えた。博士が小さな声で呟いた。 「石か・・・」 「石の正体をご存知ですか?」  少佐が期待を込めて尋ねると、博士は首を振った。 「ノ。我々の先祖の物...