2022/01/20

第5部 西の海     7

  約束の時間にカルロ・ステファン大尉がケツァル少佐のアパートを訪問した時、少佐はまだ夕食中だった。家政婦のカーラがステファンに食事はどうしますかと訊いたので、彼もいただくことにした。急な来客でも1人や2人の追加ならカーラは平気だ。
 向かい合って食べていると、数年前に戻った様な気分になった。カーラが帰り支度を始めたので、彼は席を立ち、彼女を見送った。この習慣も同じだった。彼女がタクシーに乗る前に彼は尋ねた。

「少佐はドクトルと上手くいってますか?」

 カーラはちょっと首を傾げた。

「休日のことはわかりません。でも月曜日の少佐はいつもご機嫌なので、上手くいっているのだと思いますよ。」

 ステファンは笑って彼女を送った。部屋に戻ると、少佐がテーブルの上の彼女自身の食器を片付けていた。彼の分はまだ残っていたのでそのままだ。彼が椅子に座ると、彼女が食器を洗っているうちに食べてしまいなさいと命じた。上官と部下というより、正に姉と弟だ。ステファンは温かいものを胸の内に感じ、その新しい感情にちょっと戸惑った。
 食事を終え、後片付けも終わってコーヒーを淹れてから、2人は改めて向かい合って座った。

「話とは何です?」

と少佐が先に切り出した。ステファンは質問した。

「指導師の試しに合格した後の最初の勤務は厨房班だと思いますが、他の部署に行かされることはよくあることですか?」

 厨房班は大統領警護隊の指導師の資格を持たなければ勤められない部署だ。本部にいる警護隊全員の食事の世話だけでなく、大統領の食事、大統領府での会食の世話もする。これには理由がある。そして指導者の資格を取った者は必ず最短でも半年は厨房班で勤務するのが慣習となっていた。(だから少佐以上の将校は全員料理が出来る。)

「他の部署?」

 訊かれて彼は言った。

「太平洋警備室です。」

 思いがけない部署の名が出て、ケツァル少佐は暫く沈黙した。偶然先日話題に出たばかりだ。指揮官のカロリス・キロス中佐は覚えているが、他の隊員は全く知らない。

「正式に辞令が出たのですか?」
「スィ。あちらの厨房で3ヶ月、それからこちらに戻って厨房で3ヶ月と命じられました。」
「エステベス大佐からですか?」
「ノ、エルドラン中佐とトーコ中佐のお2人からです。連名で辞令を出されました。」

 副司令官からの辞令なら、恒久的な地位を与えられるのではない。これは「任務」だ。

「太平洋警備室の厨房へ赴任とは聞いたことがありません。副司令お2人からの命令なら、それは臨時の身分を与えられて行う任務です。」
「やはりそう思われますか?」

 ステファンは腕を組んで考え込んだ。

「最初は本部の厨房班が定員一杯ではみ出したのかと思ったのですが、エルドラン中佐から向こうの隊員達の名簿を渡され、可能な限り情報を収集してから出発するようにと言われ、あちらで何か起きているのではと思っている所です。」
「あちらの様子は何も中佐から教えられていないのですね?」
「何も。寧ろ中佐達の方が情報を得たい様子でした。」

 ケツァル少佐も考え込んだ。本部から遠い分室で何か起きていても知りようがない。キロス中佐はマメに定時報告をしている筈だが、司令部に何らかの不安を感じさせる事象が起きているのかも知れない。

「太平洋警備室の厨房要員は1名ですね?」
「スィ。カイナ族のブリサ・フレータ少尉です。彼女と交代と言うことでもないのです。」
「他の隊員は?」
「中佐の副官のブーカ族のホセ・ガルソン大尉、同じくルカ・パエス中尉、マスケゴとカイナのミックスのホセ・ラバル少尉、以上です。キロス中佐以外は全員西海岸の出身です。」
「本部ではカイナ族とマスケゴ族はブーカとのミックスしかいませんから、確かに地域性はありますね。しかし特におかしい点はなさそうです。司令部は貴方に何を調べさせたいのでしょう?」
「エルドラン中佐はそれに関して何も仰いません。」

 ステファン大尉は冷めてしまったコーヒーを飲んだ。カップを置いて言った。

「不穏な動きがあるのであれば、副司令ははっきりそう仰ると思います。きっと何か掴みかねていることがあり、それが何か知りたいのでしょう。危険な任務とは思いませんが、軍人ですから常に用心を怠らぬよう勤務します。万が一・・・」

 少佐は弟の言葉を遮った。

「カタリナのことは私がしっかり守ります。グラシエラにはロホがいます。しかし貴方は一人で向こうへ行くのでしょう。それなら事前にオルガ・グランデで味方に出来る人々をチェックしてから行くべきです。」
「グラシャス。」

 ステファンは微笑した。

「”ティエラ”の知り合いを総動員して味方予備軍を想定しておきます。」


2022/01/19

第5部 西の海     6

  文化・教育省のオフィスにロホが帰ると、まだシエスタが終わっていないにも関わらずケツァル少佐とアンドレ・ギャラガが仕事をしていた。マハルダ・デネロスがいなかったので、オクタカスへ戻ったと思われた。人手が足りないので少佐とギャラガは昼休みを早めに切り上げて仕事をしているのだ。定刻の午後6時に帰るために。
 ロホが自席に着くと、少佐が声をかけた。

「教授のクシャミは治りましたか?」

 ロホは大学へ行くと少佐に告げた覚えがなかった。教授が彼女に大尉が来たと教える筈もないだろう。テオが彼女に告げる必要もない。上官は鎌をかけて来たのだ。ロホは素直に答えることにした。恐らく少佐は教授の本当の血統を知っているのだろうと彼は思った。だから嘘をつく必要はない。

「お昼前に治ったそうです。考古学部へ来た客はどんな成分の香水を使っていたのでしょうね。」
「間違ってもセニョリータにプレゼントしないで下さい。」

とギャラガが揶揄った。

「後でステファン大尉に撃たれますよ。」

 アンドレ!とロホが低い声で叱責した。グラシエラ・ステファンと交際を始めたことは、まだ他の職員に秘密なのだ。一般市民から畏怖の目で見られる大統領警護隊だが、この文化保護担当部の隊員は文化・教育省の職員達から友人として見られている。恋人が出来たなんて知られた日には絶対に揶揄われるのだ。
 ケツァル少佐が忍び笑いしながら書類をめくっていると、携帯電話にメールが着信した。差出人はカルロ・ステファン大尉だった。

ーー今夜お会い出来ませんか?

とあった。指導師の試しが終わったらしい。だが難関試験が終了したからと言って合格したとは限らない。少佐は返事を打った。

ーー合否は?
ーー通りました。

 淡々とした返答だ。あまりにあっさりしているので、彼女は彼が会いたがる理由を考えてしまった。

ーー貴方と私の2人だけですか?
ーースィ。場所と時間は貴女が決めて下さい。

 少佐は邪魔が入って欲しくない場合の会見場所をいつも同じ所に指定する。

ーー2000に私のアパートで。
ーー承知しました。

 ロホの机から溜め息が聞こえた。予算を組まなければならない監視計画書が溜まっていたのだ。

第5部 西の海     5

  学生達がケサダ教授を呼ぶ声が聞こえた。教授をお茶に誘っているのだ。ケサダは手で合図を送ると、残った食事を急いで食べてしまい、テオとロホに挨拶して、トレイを持って去って行った。彼の後ろ姿を見送りながらテオはロホに尋ねた。

「本当に君の用件は彼のクシャミのことだけかい?」

 ロホは迷った。テオにあの衝撃波の話をするべきだろうか。尤も教授自身がさっき言葉に出したので、テオも聞いているのだ。

「スィ、教授のクシャミです。」
「衝撃波を彼が出したのか?」
「私だけが感じたのです。デネロスとギャラガは感じていない様子でした。」
「それはつまり?」
「攻撃に使う気の爆裂波ではなく、身内に注意を促したり、呼びかけたりする時に使うものです。」

 ロホはちょっと考えて、周囲に聞き耳を立てている人間がいないことを確認してから説明を続けた。

「例えば、親が森の中や人混みで子供を呼ぶ時や、上官が己の部隊の部下だけに全員集合を掛ける時などに発する気です。ただ、先程貴方が教授に言われた様に、クシャミなどで無防備になった瞬間に発してしまう場合もあります。」
「教授のその衝撃波は大きかったのに、メスティーソの少尉達は気がつかなかったのか。」
「そうです。つまり、凄く独特の衝撃波を教授は出されたのだと思います。純血種のブーカやオクターリャ、サスコシなどにしか感じ取れない波です。」
「それにグラダも?」

とテオは付け加えた。そう考えたから、ロホはケツァル少佐に”心話”で報告してみたのだ。大臣の部屋にいても少佐にだって感じ取れただろうと思ったから。しかし少佐は無視した。

「ケサダ教授は純血種だろ?」
「でもマスケゴ族です。」

 ロホはこの時、一瞬テオの目が揺らいだことに気がついた。

「何かご存知なのですか、テオ?」

 ロホは鋭い。テオは己が隙を見せてしまったことを悟った。だが、「あのこと」は秘密にすると、ムリリョ博士と約束したのだ。だから彼はロホの顔を真っ直ぐに見て言った。

「今朝の教授のクシャミのことは忘れた方が身のためだ、ロホ。」

 ロホの目に「納得がいかない」と言う表情が浮かんだ。テオはどう言えば彼を納得させられるかと考え、”ヴェルデ・シエロ”流の語り方を思いついた。

「彼がどの部族の出身だろうと、彼をマスケゴとして育てた人の気持ちを考えてやってくれないか? そして彼はマスケゴとして生きているんだ。それを尊重して差し上げよう。君も古い考えの実家を出て新しい君自身の家を作ろうとしているんだ。理解出来るよな?」

 ロホが目を遠くへ向けた。そして呟いた。

「サスコシのメスティーソが純血のグラダを普通の子供として育てた様に・・・」
「そうだ。」

 改めて向き直ったロホの目はもう迷いがなかった。

「グラシャス、テオ。納得しました。今まで経験したことがない強さの衝撃波を感じ取ってしまったので動揺してしまいました。大尉になったばかりなのに、恥ずかしいです。」
「恥ずかしいことはないさ。ここは戦場じゃないんだ。だけど、そんなに大きかったのかい、彼のクシャミの衝撃波は?」
「スィ。これでやっとわかりました、少佐があの教授を怒らせるなといつも仰っている意味が・・・だからセニョール・シショカは彼に屈したのですね。」

 テオとロホは笑った。

「ところで、教授が文化保護担当部へ出向いたのは、どこかの遺跡を新たに発掘するためかい?」
「ノ。先日発見されたオルガ・グランデ聖マルコ遺跡の見学をなさりたいそうです。恐らく、ミイラの中に仲間外れがいないか、確認されるのでしょう。」

 ああ、とテオは納得した。以前ムリリョ博士から博物館収蔵のミイラの中から”ヴェルデ・シエロ”のものを探し出せと強制的にバイトをさせられたことがあった。ケサダ教授はそんな手間を後日に行いたくないので、自ら遺跡を見て幽霊の有無を確認するのだ。”ティエラ”の幽霊は生きている”ヴェルデ・シエロ”がミイラに近づくと怖がって遺体の中に隠れてしまうが、”シエロ”の幽霊は隠れない。だから助手ではなく教授自らが見に行く必要があるのだ。
 教授は生まれ故郷のオルガ・グランデを懐かしがって見に行く訳ではないのだ。恐らく10歳になるかならぬかのうちに離れてしまった故郷、母親もグラダ・シティに引き取ってしまっている現在は、未練がないのかも知れない。彼の胸の内は誰にもわからない。



第5部 西の海     4

  ケサダ教授の申請書はロホが認可署名を行い、あっさりと見学許可が出た。遺跡を掘らないし、監視の必要がないから大統領警護隊は立ち入り許可だけ出す。教授は署名が入った申請書を受け取り、隣の文化財・遺跡担当課へ行き、立ち入り許可パスを受け取り、帰って行った。
 デネロス少尉がロホの目を見た。”心話”で話しかけてきた。

ーー500年前の”ティエラ”の墓所を教授がわざわざ見に行く必要がありますか?

 ロホは答えた。

ーー万が一にも”シエロ”が混ざっていないか、確認に行かれるんだ。

 成る程、とデネロスは納得した。
 ロホは教授がクシャミの度に発した衝撃波が気になったが、部下達は2人共気がついていない。これは純血種とメスティーソの差でもあるのだろうが、ロホは感じた気の力が気になって仕方がなかった。だからケツァル少佐が戻って来た時に、彼女に”心話”で先刻の状況を報告した。しかし少佐はクスッと笑っただけだった。

ーー香水でアレルギーを発症されるとは、デリケートな方ですね。

 彼女はそれっきりロホを相手にせずに己の机に着くと仕事を始めた。ロホはもやもやしたものを感じた。上官は情報をセイブするのが得意だ。隠し事をされている気配がないからこそ、却って彼は気になった。
 昼休み、彼はテオドール・アルストにメールを送った。

ーーシエスタに訪問して良いですか?

 返事は速攻で来た。

ーーO K!

 ロホはカフェで簡単に昼食を食べてからすぐに大学に出かけた。徒歩10分の距離だ。大学のカフェに行くと、すぐにテオを見つけた。ただ、運が悪いことにケサダ教授が一緒だった。ロホが近づいた時、2人は談笑中だった。どうやら講義の時の学生達の奇妙な癖の報告をし合っている様子で、互いに相手の話に相槌を打ったりクスクス笑ったりしていた。
 ロホが来たことに気づくと、教授が「ヤァ」と声を掛け、テオも「オーラ」と言って、空いている椅子を指した。ロホは2人の年長者に挨拶をして座った。テオも教授もまだ昼食の途中で、すぐに終わりそうになかった。だから、テオが、

「君がここへ来るなんて珍しいじゃないか。どんな用件だ?」

と尋ねた時、彼は腹を括った。

「今朝、ケサダ教授が文化保護担当部に来られた時、かなりクシャミをされていましたので、何のアレルギーなのか気になりまして・・・」

 ケサダがロホを見た。テオはケサダを見た。

「アレルギーがあるのですか?」

 ケサダ教授はテオに向き直った。

「ないと思っていたのですが、今朝の客が強烈な匂いの香水をつけていまして、それを嗅いだ後に学生数名と私が、クシャミが止まらなくなって困ったのです。文化・教育省に行く頃には少し治ったのですが、それでも4階にいる時も数回。ああ、今は治りましたよ。」
「どんな香水でした?」
「甘い・・・薔薇に似た香りでしたが、私が薔薇のアレルギーを持っている筈はありません。家族が薔薇を庭に植えていますからね。」
「現物がないとアレルゲンの特定が出来ませんね。その人はまた来ますか?」
「どうでしょう? 雑誌の取材でしたから、もう来ないと思いますよ。」

 教授はポケットからパスケースを取り出し、そこに挟んであった名刺を出してテオに渡した。テオは文化系の名前を名乗るその雑誌を知らなかった。個人が出版社を立ち上げて出す類のものだろう。自然科学の分野でも結構そう言う人が来るのだ。遺伝子の方面では少ないが環境科学や気象学の先生のところでよく見かけた。
 ケサダ教授がロホに視線を戻した。

「私のクシャミを心配して来てくれたのですか?」

 教え子だが相手は立派な社会人だから、丁寧に接する。卒業生に恩師風を吹かせていつまでも威張っている教授もいるので、テオはケサダ教授やウリベ教授の様な気さくな人を見習いたいと思った。
 ロホは困った。ケツァル少佐に相手にされなかった事象をここで語って良いものだろうか。彼は意を決して、言った。

「”心話”を許可願えませんか?」

 テオはケサダ教授が意外そうな表情をするのを見た。そしてロホがさっきから戸惑っていることも感じていた。ロホはテオに用事があるのではなく、教授に何か訊ねたかったのだ。教授が頷いた。

「スィ。」

 ”心話”は一瞬で終わった。教授はちょっと苦笑した様に見えた。

「それは吃逆の様なものだな。」

と彼は呟いた。テオが彼を見たので、教授が言葉にして説明した。

「私がクシャミをしたら大きな気の衝撃波を感じた、とアルファットが言ったんです。」

 教授はロホを渾名ではなく真の本名で呼んだ。大学で一度もその真の名を使ったことがなかったロホは、緊張した。ケサダ教授は”砂の民”だと考えられている。彼等は一族の隅々まで情報を収集し、些細なことも知っている。教授は彼に静かに穏やかに警告したのだ。

 私はお前の秘密を知っている。だからお前も私の秘密を口外するな。

「クシャミには気をつけて下さい。」

 テオが笑顔で注意を与えた。

「一瞬無防備になりますからね。」


第5部 西の海     3

  翌朝、文化・教育省の4階オフィスで大統領警護隊文化保護担当部の面々はいつもの業務を行なっていた。オクタカス監視業務中のマハルダ・デネロス少尉はフランス発掘隊の監視中間報告書をケツァル少佐に前日に提出していたが、彼女が伴って来たフランス人の考古学者は文化財・遺跡担当課に提出する発掘期間延長申請書を書くために、4階の待合スペースの机に陣取ってせっせとラップトップのキーボードを叩いていた。デネロスは彼と共にオクタカスに戻るので、ただ待つだけなのだが、時間が勿体ないと思ったのでアンドレ・ギャラガ少尉のグラダ大学通信講座のレポートの校正をしていた。ギャラガの正規担当教授であるファルゴ・デ・ムリリョ博士は滅多に大学に顔を出さないくせに学生の論文の誤字脱字に煩い。だからデネロスは後輩の手伝いをしていた。
 アスルことキナ・クワコ中尉はミーヤ遺跡以外にもいくつかグラダ・シティ近郊の小規模遺跡を担当しており、その日も3か所掛け持ちで走り回るので朝一番に出かけて不在だった。厳しい先輩がいないのでアンドレ・ギャラガは息抜き出来ると思っていたが、そんな時に限って郵送されて来る申請書が多いのだ。彼は封を開けては中の書類を出して眺め、審査順位を決めて「未決箱」に入れていった。
 ケツァル少佐が文教大臣の部屋に出かけているので、副官のロホことアルフォンソ・マルティネス大尉は最終審査書類を読んで署名する指揮官代行を行なっていた。予算案の書類は既に仕上げて少佐の机の上に積み重ねてあった。指揮官代行はそれに署名するのだ。自分で立てた予算に自分で合否を決める。矛盾だ、と思いつつ彼は仕事をしていた。
 一瞬巨大な気が感じられた。ロホは書類から顔を上げた。部下達は気がつかないのか、それぞれの仕事に専念している。他の職員達も当然ながら何も気がついていない。ロホは微かに緊張した。大きな力なのに、彼にだけ感じられる、そんな気を発することが出来るのは力が強い4部族の”ヴェルデ・シエロ”しかいない。
 フロアの端の階段の降り口にグラダ大学考古学部のフィデル・ケサダ教授が姿を現した時、ロホは意外に思った。ケサダ教授は確かに優秀な能力者だ。しかしマスケゴ族だ。マスケゴ族に、ブーカ族のロホを緊張させる様な力を出せるとは思えなかった。
 文化財・遺跡担当課の職員達は馴染み深い教授の訪問を笑顔で迎えた。文化財保護にいつも有力な助言を与えてくれる先生だから、いつでも歓迎される。
 ケサダ教授は微笑で職員達の笑顔の歓迎に応え、それから文化保護担当部のカウンター前へ来た。アンドレ・ギャラガの正面に立ったので、ギャラガが「ブエノス・ディアス」と挨拶した。教授が頷いた。

「ブエノス・ディアス、ギャラガ少尉。遺跡立ち入り許可申請に来ました。用紙をダウンロードしようとしたが、プリンターが故障してしまったので、ここでもらえますか。」

 ギャラガは慌てて傍のキャビネットに手を伸ばし、引き出しから用紙を取り出した。

「遺跡は何か所ですか?」
「1か所。申請者は1名。」

 ギャラガは用紙を1枚手渡した。教授はグラシャスと言って、ライティングデスクへ向かった。途中で足を止め、上着のポケットからハンカチを取り出し、顔に当てた。クシャミをハンカチで抑えたのだが、その瞬間ロホはまたあの物凄い気を感じた。しかしギャラガもデネロスも感じないらしく、平然と業務を続けていた。一般職員も同様だ。ロホは教授を見た。彼の恩師だが、通信制だったし、卒業後は大学に足を向けることが滅多になかったので、彼自身は恩師とあまり繋がりが深くない。ついでに言えば、マスケゴ族は人口がブーカ族に比べて極端に少ないので、ロホは「マスケゴ族ってこんなに力が強かったっけ?」と思った。
 ケサダ教授はデスクの前でもう一回クシャミをした。そして隣のデスクにいるフランス人に「失礼」と謝った。
 フランス人の書類は枚数が多く、英語で書く外国人用のものだった。スペイン語で書く国内用の申請書を慣れた手順で素早く書き上げたケサダ教授は、隣のデスクを覗いた。そしてフランス人がうっかり飛ばしてしまった空欄を見つけ、そっとペンで差した。フランス人はメルシーと呟き、そこに書き込んでから、やっと相手がセルバ共和国の考古学界では有名な教授だと気がついた。短い挨拶が交わされ、それから教授はカウンターに戻って申請書をギャラガの前に置いた。 ギャラガが手に取っていた郵送されて来た申請書を傍に置いて、教授の申請書を手にした。

「オルガ・グランデ聖マルコ遺跡に教授お一人で行かれるのですか?」
「スィ。ただ見るだけです。掘ることはしません。」

 ここでは考古学の権威も一人の申請者だ。ケサダ教授は謙虚に振る舞った。これもこの人の好感度が高い理由の一つだ。

「遺跡認定の視察は助手が行ったので、私も一度実際に見学しようと思っています。」

 そう言ってから、彼はまたクシャミをした。新たな衝撃波を感じて、思わずロホが声をかけた。

「大丈夫ですか?」

 教授が苦笑した。

「失礼。今朝の客が頭から被ったみたいに強烈な香水の匂いを放っていて、学生達も私も鼻の調子がおかしくなったのです。」
「何の香水です?」

 デネロス少尉が好奇心で尋ねたが、教授は答えを知らなかった。


2022/01/18

第5部 西の海     2

 「左遷部署って?」

 アンドレ・ギャラガと2人だけになった時、テオはそっと訊いてみた。ギャラガはビリヤードに興じている上官達を見ながら「噂話です」と断った。

「さっきのケツァル少佐のお話でもお分かりの様に、太平洋警備室は本部から忘れられたかの様な存在の部署なのです。指揮官以外の隊員は地元出身の人が多いのですが、出世コースから外れた人ばかりが選ばれて送り込まれると言う噂があります。滅多に交代の話を聞かないし、向こうに着任してそれっきり戻らない隊員もいるとか。尤も・・・」

 ギャラガは肩をすくめた。

「出身地に配属されて、そのまま住み着いてしまっても不思議じゃないでしょう。本部の上官達だって、グラダ・シティで家庭を持ってそのまま故郷に戻らずに住んでいる人が殆どなんですから。」
「確かに。」

 テオは納得した。

「太平洋警備室に配属された隊員が、本部で何かしくじったとか、偉いさんの機嫌を損ねたって訳じゃないだろう。」
「そこまで事情は知りません。」

 ギャラガは上官や先輩がビリヤード台で遊んでいるのを眺めた。

「ただ、少佐や大尉達がオルガ・グランデに行かれても太平洋警備室に立ち寄られたと言う話は聞いたことがありません。ほら、貴方と私が初めてお会いしたのもオルガ・グランデの陸軍基地だったでしょう? あの時もキロス中佐や部下達の話は出ませんでした。」
「そう言えばそうだったな。」
「だから忘れられた部署なんです。」

 ギャラガの口調からは、そんな部署に飛ばされたくない、と言う響きが微かに聞き取れた。彼にしてみれば、西海岸へ行かされるくらいなら警備班に出戻った方がましなのだろう。

「それじゃ太平洋警備室の隊員達は遺跡や呪い関連には全くノータッチなんだな。」
「恐らく・・・」

 その時、ロホが彼等を呼んだ。

「テオ、あちらの台が空きましたよ! アンドレ、しっかり練習しろよ!」

 テオとギャラガはキューを選びに壁の棚へ行った。

「ナインボールで良いかい? 俺はまだそれしか知らないんだ。」
「結構です。私もまだ初心者ですから。」


 

第5部 西の海     1

  大統領警護隊は大統領を警護するのが本業と言うことになっているので、支部は基本的に設けていない。しかし、文化・教育省に文化保護担当部を置いているし、外務省や内務省、国防省などに隊員を事務官として派遣している。更に南北の国境警備隊にも数名ずつ派遣していた。本部はグラダ・シティにある。東海岸地方の大都市で当然ながら首都だ。それなら太平洋側の西海岸にも何らかの組織を置いているのではないか、とテオドール・アルストは思った。それで文化保護担当部の友人達と夕食をとっている時に、それを訊いてみた。

「太平洋警備室のことですか?」

とマハルダ・デネロス少尉が言った。

「太平洋警備室? そんな部署があるのかい?」
「ありますけど・・・」

 デネロスはちょっと困って上官のケツァル少佐を見た。

「私はよく知らないんです。名前を聞いたことがあるだけで・・・」
「私も知りません。」

とアンドレ・ギャラガ少尉も言った。彼は声を低めた。

「噂では、左遷部署だと・・・」
「おい、アンドレ・・・」

と最近中尉に昇級したばかりのアスルが注意した。警護隊の中での噂話を外で喋るのはマナー違反だ。ギャラガが小さく舌を出して黙り込んだ。ロホがクスクス笑った。彼もアスルの昇級に1週間遅れて大尉に昇級した。2人の少尉の教育はアスルことクワコ中尉に任せて、彼自身は指揮官ケツァル少佐の副官として忙しい毎日を送っている。だがセルバ人はオン・オフをはっきりさせる国民だ。どんなに仕事が忙しくても、夕方業務時間が終わると、途端にリラックスムードになるのだ。だから、テオは今彼等とバルで暢んびり過ごしているのだった。
 少佐が説明した。

「我が国は海軍を持っていません。太平洋岸は沿岸警備隊と陸軍の水上部隊が警護しています。大統領警護隊は陸軍水上部隊の基地の隣に太平洋警備室を設置して、5名の隊員を常駐させています。現地出身の隊員ばかりなので、あまり本部の隊員達と馴染みがないのです。彼等は交代でたまに本部へ研修に戻って来ますが、私達は滅多に出会いません。」
「5名だけの部署? まるで文化保護担当部みたいだな。」

 そうですね、とロホとデネロスが笑い、アスルは「けっ」と言った。ギャラガは好奇心を抱いたらしく、少佐に質問した。

「指揮官は何方ですか?」
「指揮官ですか?」

 ケツァル少佐が珍しく考えた。本当に普段繋がりのない部署らしい。恐らく遺跡にも関係しないのだろう。数秒考えてから、彼女は思い出した。

「カロ・キロス中佐です。」

 テオは部下達が反応しないことに気がついた。全員知らないのだ、その中佐を。だから少佐が説明した。

「フルネームはカロリス・キロスです。Zで終わるキロスです。」

そう言われても、やっぱり誰も反応しなかった。テオは仕方なく尋ねた。

「カロリスと言うからには、女性なんだな?」
「スィ。私が少佐になった頃には既に中佐でしたし、太平洋警備室の指揮官でしたから、お会いしたのは1回だけです。中佐が何かの用件で本部に来られたのです。それで副司令が、ついでだからとその時に本部内にいた少佐以上の隊員を集めて紹介して下さいました。物静かな方と言う印象でした。それだけです、私が彼女について知っているのは。」
「他の隊員は?」
「知りません。本部ですれ違ったかも知れませんが、互いに名乗りませんから。」
「まぁ、そうですね・・・」

 ロホが肩をすくめた。

「太平洋警備室と言うからには、船に乗ったり、海上警備をするんだろ?」
「それは沿岸警備隊の仕事です。」
「じゃ、キロス中佐と4人の隊員は何をしているんだ?」

 答えが誰からも出てこなかった。少し考えてから、ロホが言った。

「太平洋岸の人口は少ないです。セルバ人の漁業はカリブ海側が盛んで、太平洋側は隣国の方が強いのです。セルバの海岸線は短いですから。だから太平洋警備室は、海沿いの村の住民や西側の鉱山の労働者や、オルガ・グランデの守護を行っている、その程度しか私にはわかりません。」

 テオは頭の中でセルバ共和国の地図を描いた。確かに、セルバ共和国第2の都市オルガ・グランデは太平洋に近い。鉱石の積出は太平洋岸の港から行う。しかし彼は何故かあの都市の守護は、陸軍のオルガ・グランデ基地に本部から隊員が派遣されて行うものだと勝手に思い込んでいた。その方が効率が良いのではないのか?
 そこまで考えて、一つの長い間の謎が解けた。シュカワラスキ・マナが一族と戦った時、オルガ・グランデは彼の結界に取り込まれた。もし大統領警護隊がオルガ・グランデに駐在していたら、そんな事態にならなかった筈だ。つまり、オルガ・グランデを守護する役目の大統領警護隊は、オルガ・グランデにはいなかったのだ。離れた海辺にいたから、シュカワラスキ・マナに隙をつかれた。

「どうして大統領警護隊は、オルガ・グランデに守護の拠点を置かないんだ?」

 すると、ケツァル少佐とロホ、アスルが目を交わし合った。”心話”だ。2人の少尉は仲間外れか? アスルが「オホン」と咳払いした。そして言った。

「オルガ・グランデに地下墓地が多いことを、あんたは知ってるな、ドクトル?」
「スィ。」
「あの街は古代、聖なる墓所だった。”シエロ”の時代も”ティエラ”の時代になっても。植民地になって都市が造られたが、我々の力で眠っている先人達を起こしてはならない。だから大統領警護隊は、訪問はしても常駐はしない。住み着いている”シエロ”は少ない。住んでいたとしても、力が大きくないカイナ族やマスケゴ族だ。メスティーソはいるが、普通に”ティエラ”に溶け込んでいる人々だ。だから守護は街の外から行う。」

 聖なる墓所。テオは、太陽の野に眠っている星の鯨を思い出した。死者の魂、それも英雄と呼ばれた人々の魂が暢んびりと暮らしているあの神秘的な空間。生きている者が踏み込んではいけない場所。

「わかった。」

とテオは言った。

「これ以上は質問しない。」

 彼はメニューを取り上げた。

「誰か、鶏の串焼きは要るかい?」

 アスルとギャラガが勢いよく手を上げ、少佐もそっと挙手した。


第11部  紅い水晶     19

  2台目の大統領警護隊のロゴ入りジープがトーレス邸の前に到着した時、既に救急車が1台門前に停まっていた。クレト・リベロ少尉とアブリル・サフラ少尉がジープから降り立った。2人は遊撃班の隊員で、勿論大統領警護隊のエリートだ。サフラ少尉が一般にガイガーカウンターと呼ばれる放射線計測器...