2022/03/17

第6部 訪問者    10

  東の水平線の向こうが微かに明るくなった頃合いに、一人の女性隊員が検問所から戻って来た。階級は大尉で、ケツァル少佐は彼女がクエバ・ネグラの国境警備隊の指揮官だとわかった。少佐は私服だったので、故意に気を発して己が何者かアピールして彼女を迎えた。大尉が彼女の前で直立して挨拶した。

「クエバ・ネグラ国境警備隊を指揮しておりますバレリア・グリン大尉です。グラダ・シティからの出動、感謝します。」
「文化保護担当部のシータ・ケツァル・ミゲール少佐です。司令部の指示により、サン・レオカディオ大学発掘隊襲撃事件を調査に来ました。暫くこの宿舎を宿泊に使用させてもらいますが、貴官達の業務に口を出すことはしませんので、我々の行動にも世話や口出しは無用です。」

 グリン大尉は微笑し、”心話”を求めた。少佐が応じると、大尉は昨夕に起きた事件のあらましを報告してくれた。
 サン・レオカディオ大学発掘隊はモンタルボ教授と5名の助手、それにアンビシャス・カンパニーと言うP R動画制作会社のスタッフ10名が昨日の昼間、船をチャーターして、8世紀頃に岬が水没したと伝えられる海域を数往復して水中カメラで海の底を撮影した。午後4時過ぎに彼等はクエバ・ネグラ港に戻り、ホテルで映像編集を行おうと機材などを運ぶ為に車を突堤に置いて、荷物を船から下ろしていた。そこへ2台のワゴン車が来て、停車するなりワゴン車から数人の男達(目出し帽を被っていたらしい)が降りて来て、撮影機材を奪おうとした。教授と仲間達は相手が銃を持っていないと判断して抵抗したが、相手はバットや棍棒を持っており、殴打され、結局撮影機材を奪われ、人も怪我をした。
 モンタルボ教授は警察に連絡を入れ、ついでに大統領警護隊にも通報した。彼が使った大統領警護隊の番号は国境警備隊オフィスのものだったので、グリン大尉は管轄外の犯罪の通報にちょっと困惑した。通報者は考古学者で発掘作業の事前調査だと言った。それで大尉は本部に連絡を入れ、文化保護担当部に任せようと思った。
 事情を理解したケツァル少佐も、彼女に情報を分けた。モンタルボ教授には発掘申請を出す段階で数件の奇妙な協力の申し出や問合せ電話があったことだ。
 グリン大尉が苦笑した。

「ここの海で宝を積んだ船が沈んでいると言う噂があれば、とっくの昔にトレジャーハンターが集まっていたでしょう。カラコルがあったと言われる海域はサメが多く、ここのビーチは綺麗ですが、浅瀬で水遊びをする程度で深度があるところで泳ぐ人間はいません。水中の宝物や沈没船を見たり聞いたりした人はいません。」
「そうでしょう。文化・教育省の文化財遺跡担当課にもその様な記録はないそうですし、建設省交通部に沈没船のマップがありますが、そこにもここの海域は何もマークされていません。」
「私は仕事柄麻薬か密輸関係の品物を誰かが海底に隠したか落としたのではないかと考えています。しかしサメが多く出没する海に部下や陸軍水上部隊や沿岸警備隊に潜れとは言いたくありません。」

 そして彼女はケツァル少佐に顔を近づけ、声を低めた。

「一月ほど前に、地元の漁師と観光客が釣り上げたサメから、人間の体の一部が出て来ました。」
「知っています。友人が偶然仕事でこちらを訪れていた時に、浜に揚げられたそうです。」
「そうでしたか。では、乗り捨てられた盗難車が同時期にあったことはご存知ですか?」
「それも聞きました。盗難車とサメの犠牲者に何か関連があるのですか?」
「物証はないのですが、犠牲者の身元が全く不明のままであることと、盗難車を乗り捨てた人物が見つからないことで、両者が同一人物ではないかと憲兵隊が憶測を立てているそうです。国境警備隊は盗難車は密出国者が乗り捨てたのではないかと考えていますが。」

 ケツァル少佐が、それが真っ当な考えだと言うと、大尉は頷いた。

「ただ、その盗難車を乗り捨てた人間と同一人物なのか、これも不明なのですが、車が発見場所に置かれた日に、浜辺で漁師のボートが一艘盗まれました。船外モーター付きの簡単な小型の釣り船です。それが2日後に国境の向こう側の浜辺で転覆した状態で打ち上げられたのです。隣国のオフィスと話し合った結果、密出国者が車を盗んで乗り捨て、ボートを盗んで海から越境しようとして波で転覆し、サメに襲われたのではないかと言うことになり、我々が盗難車を押収しました。」
「そして実際にサメから死体が出たのですね。」
「その通りです。でもこれは考古学者襲撃事件とは関連ないと思います。我々にとって完結した事案です。」

 少佐はグラシャスと言った。グリン大尉が、陸軍側の食堂で食事が取れることを教えてくれた。

「我が方では軽食を温める程度の厨房です。ハラールを気にしなければ、陸軍の食堂で十分ですから。」

 そこでふとケツァル少佐はパエス少尉を思い出した。彼がいた太平洋警備室の厨房ではきちんとハラールの儀式を毎回行ってから調理していたそうだ。それでさりげなく言った。

「先程案内してくれたパエス少尉が前に勤務していた太平洋警備室はハラールを行っていたそうですよ。」

 ああ、とグリン大尉がちょっと困惑した顔をした。

「それが些細な問題を引き起こしました。ここへ着任した当日に彼が陸軍の食堂の食事は食べられないと言い出し、他の隊員達の反発を招いてしまいました。我々は一族の文化を否定する気はありません。しかし国境警備は多忙です。クチナ基地では儀式を行って調理していますが、ここのオフィスは指揮官少佐の許可の元で省略しているのです。陸軍側に強制する権利を持っていませんし、”ティエラ”もハラールの文化を持っていますがクエバ・ネグラの陸軍国境警備班では儀式を行わないのです。理由は我々と同じです。」
「パエス少尉は孤立しているのですか?」
「勤務中は命令に従いますし、同僚とも協力し合っています。しかしプライベイトな時間は一人ですね。奥様を同伴されて部屋を近くに借りているようで、非番の日はそちらへ帰ってしまい、同僚と過ごすことはありません。」

 グリン大尉は若い。年齢的にはパエス少尉とあまり変わらないだろう。彼女はパエス少尉の転属の理由を知らされていた。だからパエス少尉がこのまま国境の町で退役まで暮らすのであれば、同僚と仲良くなって欲しいと願っていた。
 彼女の正直な気持ちを”心話”で伝えられたケツァル少佐は、彼女を励ました。

「貴女が良い指揮官となる試練ですよ。」


2022/03/16

第6部 訪問者    9

  宿舎の入り口を入ったところが隊員達の共有空間なのだろう、古いソファが2台と低いテーブルが置かれ、部屋の端のテレビだけが新しい大型液晶画面だった。パエス少尉が空き部屋がありますと言ったが、ケツァル少佐はギャラガ少尉だけをその部屋へ行かせた。彼女自身は共有スペースのソファに座り、ギャラガが彼女の携帯に転送したクエバ・ネグラ周辺の地図を画面に出して眺め始めた。パエス少尉が戻って来て、コーヒーは如何ですかと尋ねた。少佐が顔を上げて彼を見た。

「貴方は今夜の夜勤当番ですか?」
「ノ、当番はゲイトにいます。私はここで1番の新参者なので、電話や訪問者があれば夜中でも応対する役目になっています。」

 ケツァル少佐はその返答の内容が気に入らなかった。隊員の入れ替えがある迄パエス少尉はずっと夜中の電話番ではないか。

「北部国境警備隊の指揮官はレナト・オルテガ少佐でしたね?」
「スィ。少佐はクチナにいらっしゃいます。」

 クチナは北部の国境線の丁度中央に当たる位置で、道路はないのだが平坦な地面の谷になっており、ラバの様な動物なら歩き易い土地だ。隣国から時々越境して来る人間がいるので、国境警備隊はそこに基地を置いた。緩やかな谷間を挟んで反対側に隣国の国境警備隊が同様の基地を置いている。クエバ・ネグラや西側のオルガ・グランデ北部の様な隣国の兵士との交流はない。
 ケツァル少佐は新入り虐めの様なパエス少尉の待遇をオルテガ少佐に問い質してみようと思った。それともこれはクエバ・ネグラだけの行為なのだろうか。

「コーヒーは今は結構です。貴方は休みなさい。」
「グラシャス。」

 パエス少尉は敬礼して廊下に姿を消した。
 ケツァル少佐はもう一度地図を見た。ギャラガは数種類の地図をダウンロードしており、海底の地形図まであった。それを見ると、確かにクエバ・ネグラから沖に向かって岬の様に伸びている浅い部分が見て取れた。岸に近いところは幅1キロ程か。一番沖までが3キロ程、舌の様な形だ。岬全体がストンと落ちた様に見えた。地震があった時代のヴェルデ・シエロ全員が同時にカラコルの消滅を祈ったとして、こんなに綺麗に地面が沈下するだろうか。そもそもヴェルデ・シエロの呪いはそこまで強力なのだろうか。現代に生きているヴェルデ・シエロの中で最強と言われる純血のグラダ族ケツァル少佐は考え込んだ。建造物の破壊なら簡単だろう。しかし地面を陥没させるのはどうだろう。下に空洞があれば別だが、普通の地面なら物理的に矛盾が・・・。そこまで考えて彼女は、カラコルと言う単語の意味を思い出した。「筒の上」だ。カラコルの都市が建設された岬はどんな地形だったのだ?
 彼女はオルガ・グランデの地下を思い出してみた。金鉱石を掘り出す為に縦横無尽に坑道が掘られている。3本の大きな地下川が流れている。もし大きな地震が起きれば確実に致命的被害が出る。しかし、オルガ・グランデの街全体がストンと落ちることはないだろう。
 もしカラコルに最初に街を造った人々が、岬の地下が空洞だと知っていたのなら、物凄く愚かな行為をやってのけたことになる。地震と火山がある国だ。暴風雨も来る。災害の多い海岸、地下に空洞を抱える岬に大きな街を造った人々。建設したのは何者だ?

第6部 訪問者    8

  上官からの突然の呼び出しにすぐに応じられるのが優秀な軍人だ。アンドレ・ギャラガ少尉は必要最低限の宿泊装備等荷物を入れたリュックを常に持ち歩いている。指定された場所に現れた彼は、微かに中国料理の匂いを漂わせていたので、ケツァル少佐は思わず失笑した。彼と同行していたアスルはテオドール・アルストの家に帰って行った。
 ”心話”で司令部からの情報を伝えられたギャラガは、すぐにクエバ・ネグラの街と海域の地図を検索した。

「襲撃場所は陸上ですか、海上ですか?」
「事件発生は夜になってからですから、陸上だと思います。暗くなってから海の底を見たりしないでしょう。」

 ケツァル少佐はベンツの助手席に彼を乗せ、現地に到着する迄眠るようにと命じた。ギャラガはまだ上官のベンツの運転をさせてもらったことがない。

「ハイウェイ上を走る間は私が運転します、少佐。」
「では、お願いします。私は少し飲んでいるので。」

 ギャラガは運転を申し出て良かった、と内心安堵した。少佐が後部席に移り、ギャラガは初めて運転席に座った。そして座席やステアリングを調整すると、走り出した。少佐はすぐ眠ってしまった。月曜日の夜のセルバ東海岸縦貫ハイウェイは空いていた。ギャラガは快調にベンツを運転して、夜が明けきらぬうちに国境の町クエバ・ネグラの市街地に入った。彼はベンツを国境警備隊の宿舎がある小高い丘へ向けた。町と海岸を見下ろせる場所だ。
 低いフェンスに囲まれた建物が2棟あり、門から向かって左が大統領警護隊、右が陸軍国境警備班だ。ギャラガは声を発した。

「国境警備隊の宿舎前に来ました。これからどこへ行きますか?」

 少佐がむっくりと体を起こした。窓の外を見て言った。

「夜明けまでここで休憩しましょう。貴方は眠らなければいけません。」

 ギャラガは門迄車を進めた。門衛は陸軍兵で、大統領警護隊の徽章を見せるとすぐに宿舎に電話をかけた。そして返答をもらうと、ギャラガに「どうぞ」と言った。

「宿舎の中に入っていただいて良いそうです。」
「グラシャス。」

 ベンツは門の中に進み、軍用車両が並んでいる端に止まった。
 ケツァル少佐とギャラガ少尉が荷物を持って車外に出ると、左の宿舎から兵士が一人出てきた。ケツァル少佐は初対面だったが、彼がルカ・パエス少尉だとすぐわかった。キロス退役中佐やフレータ少尉の”心話”で顔を見たことがあった。

「文化保護担当部の指揮官ミゲール少佐とギャラガ少尉です。司令部の指示で発掘調査隊襲撃事件の捜査に来ました。」

 パエス少尉が敬礼した。

「国境警備隊パエス少尉です。ミゲール少佐とギャラガ少尉の出動に感謝します。」

 彼は建物の入り口を手で示した。

「中でお休み下さい。日が昇らないことには世間は動き出しませんから。」


第6部 訪問者    7

  その夜、テオは仕事を終えると大統領警護隊文化保護担当部の友人達を夕食に誘った。誘いに応じてくれたのはケツァル少佐、ロホ、そしてデネロス少尉だった。アスルとギャラガ少尉はサッカーの練習があると言って別行動だった。

「本当にサッカーに行ったのかどうか、わかったもんじゃありません。」

とデネロスが囁いた。

「最近、あの2人は中国の焼きそばにハマっていて、あちらこちらの店を食べ歩いているんです。」

 彼女の「密告」にテオ達は大笑いした。

「ラーメンじゃなくて、焼きそばかい?」
「スィ。麺の焦げた部分が美味しいそうです。」

 部下達に焼きそばの味を教えた張本人であるケツァル少佐が「責任を感じる」と発言したので、またテオ達は笑った。
 いつものようにバルの梯子をしながら、テオはカルロ・ステファン大尉が無事に3ヶ月の太平洋警備室厨房勤務を終えて首都に帰還したことを告げた。友人達と共にステファンが無事に任務を務め上げたことを喜び、太平洋警備室が新規一転で新しい指揮官と隊員達が地元民と上手くやっていくことを願って乾杯した。
 オルガ・グランデ近辺の遺跡に行くことがあれば、太平洋警備室を覗いて見ることも大事だろうとロホが提案した。本部やグラダ・シティ周辺の同胞から忘れられていると思わせてはならない。リモートの定時報告だけの接触では指揮官も孤独だろう。
 お腹が満たされる頃に、ケツァル少佐の電話に着信があった。少佐がポケットから電話を出し、かけてきた相手を見て、ギョッとなった。急いで店の外に出て行ったので、テオはロホを見た。デネロスもロホを見た。ロホは憶測を言葉に出す人ではないが、この時は少佐の電話の相手に見当がついた。

「司令部からでしょう。」

 彼はバルのスタッフに精算を依頼した。食事代をまとめて払い、それから仲間に店を出ようと合図した。
 テオ達が外に出ると、歩道の端で少佐が電話で話をしていた。意見を言うのではなく、ひたすら相槌を打ち、最後に「承知しました」と言って通話を終えた。デネロスが呟いた。

「深刻そう・・・」

 少佐が仲間のところへ戻って来た。ロホが代表して質問した。

「命令が出ましたか?」
「スィ。」

 少佐はテオをチラリと見た。民間人なのでテオが遠慮して距離を空けようとする前に彼女は言った。

「クエバ・ネグラのモンタルボ教授の調査隊が何者かに襲われたそうです。」

 一同は驚いた。モンタルボ教授はまだ本格的な発掘調査に取り掛かっていない。雨季明けに調査を始める前段階として、最初の発掘範囲を決めるために船の上からカメラを下ろして水中を撮影し、ダイバーが遺跡に触れることはしていない筈だった。トレジャーハンターが欲しがる物と言えば、撮影した画像だろうが、襲撃して奪う価値があるのだろうか。

「怪我人が出たのですか?」

 デネロスの質問に少佐は3人と答えた。

「教授は無事でしたが、助手が2名と撮影スタッフ1名が襲撃者に殴られて軽傷を負ったそうです。国境警備隊から本部への連絡でしたから、本部もその程度の情報しか得ていません。恐らく憲兵隊の方が詳しいでしょう。国境警備隊は遺跡発掘関係者の事件なので、文化保護担当部に知らせておくようにと本部に通報したのです。」
「それはつまり・・・」

 ロホが苦い顔をした。

「我々が発掘調査隊の警護を怠ったと言いたい訳ですね。」
「しかし、発掘はまだだろう? モンタルボは事前調査まで申請内容に含めていたのか?」

 テオの質問に、少佐が指を向けた。

「事前調査は申請内容に入っていません。地上遺跡と違って海面から下を覗くだけですから。我々の警護責任はまだ発生していません。」
「本部は何て言って来たんです?」

 デネロスが不安気に尋ねた。サン・レオカディオ大学発掘隊の警護で船に乗るのは御免被るとその顔が訴えていた。
 少佐が溜め息をついた。

「警護ではなく襲撃者の正体を突き止めよとエルドラン中佐が仰せです。もし我々が動かないのなら、遊撃班を送るそうです。」
「遊撃班は遺跡の知識がありません。カルロはまだ厨房勤務ですから、残りは考古学のど素人ばかりですよ。」

とロホ。

「行くしかないですね。」

と少佐がまた溜め息をついた。雨季前なので雨季明けの発掘申請が多い季節なのだ。

「私が行きます。ロホは指揮官代行をなさい。最終の署名は私がしますが、再検討が必要ないよう、しっかり予算検討を詰めておきなさい。」
「承知しました。」
「マハルダは近郊遺跡の巡回監視をしっかりとしておくこと。こそ泥は容赦しない。」
「承知しました。」
「アスルは申請受付です。今回はアンドレを連れて行きます。」
「アンドレをですか?」
「あの子は海で泳げます。」

 ああ、とロホとデネロスが納得した。
 テオは当然ではあるが蚊帳の外感が拭えなかった。こんな時は民間人であることが寂しい。

「遺伝子分析が必要な捜査はないのかなぁ・・・」

 しかし、デネロスが学生らしい意見を言った。

「アルスト先生は期末試験の準備で忙しいでしょ?」

 そうだ、その仕事がこれから始まるのだ。テオはがっくりときた。



2022/03/15

第6部 訪問者    6

  テオが週末をエル・ティティで過ごし、月曜日の午前にグラダ・シティに戻ると、自宅に客がいた。同居人のアスルは仕事に行っているから、客は無断で入っていたのだ。テオが居間に入るとソファの上でだらしなく手足を伸ばして眠りこけていた。床に大きなリュックサックが置かれていて、微かに潮の匂いがした。テオは午後から大学に出るつもりだったので、荷物を寝室に放り込み、シャワーを浴びた。さっぱりして居間に戻ると、客が目を覚まして起き上がっていた。互いに「Bienvenido de nuevo」と挨拶を交わした。

「これから昼飯に行くけど、一緒に来るかい?」

とテオが声をかけると、カルロ・ステファン大尉は「お供します」と言って、己の荷物を持ち上げた。2人でテオの車に乗り込んだ。
 昼食は途中で見つけた店で取った。テオは人員が入れ替わった太平洋警備室の様子を聞いてみた。ステファンは肩をすくめた。

「本部から派遣されて来た連中です。指揮官以下全部で6人。やっと地理とアカチャ族と港湾労働者達に慣れてきたところですよ。本部にいた時は市民と接する機会があまりなかったですが、外の仕事ではそうもいきません。私は新しい指揮官のコリア中佐に積極的に村民と交流した方が良いと進言しました。」
「聞いてくれたかい?」
「コリア中佐はグラダ・シティのブーカ族です。彼が連れて来た部下達も東部出身者ばかりで、西海岸地方の気候風土が珍しいのでしょう、オフィスの外の巡回が面白くて仕方がない様子でした。」
「それじゃ、村民や陸軍水上部隊、沿岸警備隊、港湾労働者達と接する機会が多いだろうな。」
「スィ。私のアドバイスは不要だったと思います。それに2名女性隊員がいて、早速センディーノ医師と親しくなっていました。」
「厨房は?」
「指揮官以外の全員で順番に担当しています。ですから私はハラールを教えておきました。」

 閉塞的だった大統領警護隊太平洋警備室は隊員全員が入れ替わり、雰囲気がすっかり変わったようだ。テオは少し安心して、ガルソン中尉が警備班車両部にいることを伝えた。ステファン大尉がちょっと困った表情になった。

「車両部ですか。すると遊撃班が外へ出動する時は顔を合わせますね。」
「気まずいかい? 現在の太平洋警備室の様子を教えてやれば、彼も少し安心するんじゃないか? それにフレータ少尉は南部国境で勤務している。電話で話した時、新しい職場の仕事が楽しいと言っていた。パエス少尉も北部国境で元気に働いているところに出会った。話をする時間は殆どなかったけど、クエバ・ネグラの検問所オフィスにいる。それからキロス中佐は退役して子供に体操を教える仕事を始めたそうだ。健康を取り戻して元気にしている。」

 それでステファン大尉も安堵の表情になった。

「彼等がどうなったのか、本部は教えてくれませんから、貴方の報告で安心しました。ガルソンの家族が村から出て行ったことは知っています。」
「彼の家族はトゥパム地区に住まいを見つけて引っ越して来ている。ガルソンは家族持ちなので2週間に1日休日を貰えて、家族と一緒に過ごしているって。」

 ステファン大尉がちょっと拗ねた表情になった。

「それは、私に当て擦りですか?」
「カタリナとグラシエラに会いに行っていないのか?」
「お袋には電話をしていました。残りの3ヶ月の厨房勤めが終われば、休暇をもらえるので、その時に実家で暢んびりさせてもらいます。」
「それじゃ安心だ。俺の気掛かりはパエスの家族だ。まだ村にいるのか?」
「彼は少尉に降格でしたね。給料も下げられた筈です。家族を養うのは厳しい。彼の子供は妻の連れ子でしたから、妻の実家が子供を引き取って、妻だけ夫と共に村を出たそうです。それ以上のことは私も知りません。」

 現実はパエス少尉には厳しかったようだ。ガルソンだって給料を下げられただろう。本部に嘘をついた3年間の代償は大きかった。
 食事を終えて店を出ると、テオは大統領警護隊本部へステファンを送って行った。大尉が文化保護担当部の面々は元気ですか、と訊いたので、全員元気だと答えた。ふと悪戯心が出て、ポケットに入れていた香水の小瓶を出した。

「ちょっと嗅いでみてくれないか?」

 ステファン大尉が怪訝な顔をして小瓶を受け取り、蓋を取った。途端にクシャミをした。

「何ですか、この強烈な・・・ハックション!」

 テオは蓋を閉めろと言い、ジャガーがアレルギーを起こすブタクサの香水だと説明した。ステファンが怒ったふりをした。

「変な物を買わないで下さい。」


第6部 訪問者    5

  Ambrosia artemisiifolia と書かれたラベルをフィデル・ケサダ教授が険しい目付きで見つめているので、テオは苦笑した。

「焼畑農耕民がジャガーの襲撃を避ける為の苦肉の策として、北米のブタクサを移植した様です。毒ではありませんが、花粉が飛散するシーズンになるとアメリカでもアレルギー症状で悩む人口が増えます。」
「するとヴェルデ・シエロでなくてもクシャミが出るのですね?」
「スィ。北米では珍しくない季節的な病気です。香水の成分になるような香りはありませんが、薬効はあるみたいです。」

 小瓶の底に溜まると言うより付着していると表現した方が良い微量な物質を嫌らしそうに見ながら、ケサダ教授は小瓶をカフェのテーブルの上に置いた。

「どんなルートでその小間物屋の先祖が手に入れたのか知りませんが、私は出土物の中にその植物の種が入っていないことを願います。」
「交易で齎されたと言うより、何かの荷物に種が付着して運ばれて来たのでしょう。」

 テオは小瓶をポケットに仕舞った。まだ研究室に香水が残っているが、処分を決めかねていた。量が少ない割に高かったので、捨てる決心がついていなかった。

「兎に角、人体に毒となる物でないことは確かです。」

と彼が締めくくった時、ケサダ教授を呼ぶ声が近づいて来た。テオとケサダ教授が同時にその方向を見ると、ンゲマ准教授がやって来るのが見えた。年齢は教授の方が5歳ほど上だと聞いているが、ンゲマ准教授の方が年嵩に見えた。体型と顔つきが実年齢より老けて見える原因だろうとテオは思った。
 ンゲマ准教授はテーブルのそばに来ると、テオに挨拶をしてから、恩師に向き直った。

「サン・レオカディオ大学のモンタルボが早速船を出したそうです。なんでも、雨季明けから調査に入る範囲を決めておく為だとかで、遺跡には触らずに水中から建造物の撮影をすると言っているそうです。」
「それで君は何を慌てているのだ?」

 水中遺跡に興味がない教授が落ち着いた声で尋ねると、ンゲマ准教授は焦ったそうに言った。

「かなりの人数の撮影隊を引き連れているそうです。映画を撮るとかなんとか・・・」
「好きにさせておけば良い。」
「もしあの海中遺跡が本当にカラコルだったら、私立大学に調査されるなんて、悔しいじゃないですか!」

 テオとケサダ教授はンゲマ准教授の汗ばんだ顔を見上げた。思わずテオは声をかけた。

「貴方はカラコルを見つけたかったんですか?」

 ンゲマ准教授はドキッとした。ちょっと退いたが、それが彼の本音を代弁していた。ケサダ教授が弟子の気持ちを察した。

「未発見の伝説の街を見つけるのは、考古学者の夢ですよ、ドクトル・アルスト。ハイメは伝承を頼りにジャングルを歩き回るが、まだ大きな発見をしていない。しかし、海は専門外なのだから、傍観者に徹した方が良いな。」

 宥めてやんわり叱っている。ハイメ・ンゲマに自分が追い求める物を最後まで諦めるなと注意したのだ。ンゲマ准教授はメディアが大きく取り上げる私立大学の活躍が悔しいのだろう。テオは彼の気持ちを切り替えさせようと質問した。

「貴方は何を探していらっしゃるのです?」

 ンゲマ准教授が溜め息をついてから答えた。

「サラの完璧な遺構です。」

 サラとは、先住民が裁判に使用した洞窟だ。天然もしくは人口的な洞窟をほぼ完全な円形に整え、天井中央に穴を開ける。罪人をその穴の下に立たせ、上から石を落とす。罪人が無傷なら無罪、死んだり怪我をすれば有罪とした、昔の裁判方法だ。但し、これは石を罪人に直撃させるのではなく、罪人は天井の穴から少しだけ離れた場所に立たされる。石が落下した衝撃で飛散する石の破片での傷を見て、判決を下すので、「風の刃の審判」と呼ばれる古代セルバ独特の裁判方法だ。尤もこれはヴェルデ・ティエラの裁判で、ヴェルデ・シエロのやり方ではない。サラと呼ばれるその円形洞窟は裁判のために天井に穴を穿つ。その為に使用されなくなったら天井部分の崩落が起こり、現代それが完璧に残る遺跡がまだ発見されていないのだ。オクタカス遺跡でテオはその完璧な遺跡を目撃したのだが、ある事件で天井を塞いでいた石が落とされてしまい、穴が開いてしまった。雨季が迫っており、サラの底に溜まったコウモリの汚物から外の遺跡を保護するために、大統領警護隊はサラの円形部分を爆破して人為的に崩落させてしまったのだ。ンゲマ准教授はその報告を受けた時泣いて悔しがったと言う話が、グラダ大学考古学部の新しい歴史の1ページに書き加えられたのだ。

「見つかると良いですね。」

 とテオは准教授を慰めた。

「俺もオクタカスでせめて写真を撮っておけば良かったと後悔しています。」

 ンゲマ准教授が首を振った。

「貴方は落盤事故で危うく大怪我をなさるところだったのでしょう。写真なんて撮っていたら、命を失っているところでしたよ、きっと。」

 いや、もっと余裕があった、とテオは思ったが、言葉に出さなかった。何もかもお見通しと言う風情のケサダ教授は、弟子に囁いた。

「カブラロカは行ったのか?」

 ンゲマ准教授が、ハッとした表情になった。

「あそこはまだ未調査で・・・」
「雨季明けに行ってみなさい。小さな遺跡だが、メサがすぐ背後にある。オクタカスと配置が似ている。」

 ンゲマ准教授は頷き、テオに挨拶して人文学舎の方向へ歩き去った。

「彼は焦っていますね。」

とテオが言うと、教授は苦笑した。

「彼が出席した審議会で申請却下した案件が生き返って動き出したからでしょう。それに対して彼が肩入れしてきたフランス隊は最近不祥事続きだ。モンタルボに嫉妬しているのです。」


 

第6部 訪問者    4

  小間物屋の名前はペケニャ・カンシオン・デ・アモール(小さな恋の歌)と言った。いかにも女性が好みそうな色彩豊かで可愛らしい装飾品や衣装が狭い店内にぎっしりと展示されていた。店主は30代半ばのメスティーソの女性で、地元の学生らしい若い女性グループの接客に忙しそうだった。
 テオは彼女に声をかけ、店内を覗いてみた。香水は奥のガラス張りの小さなショーケースの中に小瓶で販売されていた。6種類あって名前がついているが、ベアトリス・レンドイロ記者が付けていた銘柄は紫色の小瓶に入っていた。値段はコーヒー10杯分だ。
 店主が声をかけて来た。

「何をお探しですか?」

 テオは店の外に立っているケツァル少佐とデネロス少尉を見た。

「友達に贈り物をと思って、香水を選んでいるんだが、どんな香りかテスティング出来るのかな?」
 
 すると店主はそばにやって来て、ショーケースの後ろからテスティング用のスプレイを6本出してきた。そこから選ぶように、と言ってまた先客グループのところへ戻った。
 テオは少佐達を手招きして、サンプルを見せた。

「試してみるかい?」

 少佐がスプレイの1本を手に取り、何もしないで噴出口に鼻を近づけた。そしてすぐに顔から遠ざけた。テオは彼女が可愛らしいクシャミをするのを初めて見た。デネロスが別のスプレイを手にした。彼女は何も感じなかったので、スプレイを空中に一押しした。シトロンの様な爽やかな香りが漂った。少佐もそれは反応しなかった。香りが消える頃に3本目を試し、それも2人は反応しなかった。結局5本は何も起こらず、最初のスプレイをデネロスが最後に試し、やはり彼女もクシャミをした。テオはショーケースを見た。間違いなく紫色の小瓶の香水だ。
  店主が戻ってきた。

「お気に召すものがありましたか?」

 テオは紫色の小瓶を指差した。

「これはどんな成分を使っていますか?」

 店主がニヤリと笑った。

「企業秘密ですわ、セニョール。」

 まぁ、そう言うだろう。テオはアンブロシアと名付けられたその小瓶を1本購入した。
小瓶を小さな可愛らしい箱に入れながら店主が囁いた。

「これは神様を見つける香水なんですよ。」

 テオとケツァル少佐は顔を見合わせた。デネロスは平静を装って黙って立っていた。

「神様を見つけるって・・・」
「私の母方の先祖は南部のジャングルで焼畑をしていた部族なんです。時々ジャングルにジャガーが出没して人や山羊を襲うので、ある種の植物を畑の周囲に植えたそうです。ジャガーはその草自体は平気なのですが、花粉に反応してクシャミをするのですって。だから隠れていてもクシャミで存在がわかるので、ジャガーを見つける草、つまり神様を見つける草と先祖は呼んでいたそうです。」
「その植物の成分がこの香水に入っているのですか?」
「色々な成分を混ぜて作っていますけど、代表してその草の特徴を売りにしています。神様を見つけられたら、幸福が来るじゃないですか。」

 小間物屋を出て、テオとケツァル少佐、デネロス少尉は飲食店街に向かって歩いた。デネロスは最後に噴射した香水アンブロシアの影響がまだ鼻に残っており、ハンカチで顔を押さえていた。

「あんな強烈なものだとは思いませんでした。ケサダ教授が悩まれたのも納得です。」
「恐らく、クシャミが出た学生達も先祖にヴェルデ・シエロが混ざっているんだろう。」

 テオは、ブタクサだよ、と少佐に囁いた。少佐はなんとも言えない情けない表情をして見せて、彼を笑わせた。

「まさかブタクサで神を見分けるとは想像もつきませんでした。」
「農民の知恵だな。勿論畑に出没したのは本物のジャガーだったんだろうけど・・・」

 君達の体質はかなりジャガーに近いんだな、とテオは心の中で思った。デネロスが提案した。

「敵が一族の末裔だったら、この香水を使った武器で撃退出来ませんか?」
「止しなさい、しくじると自滅しますよ。」

 テオは香水の香りが漂う戦場を想像して苦笑した。

「買ってはみたものの、分析して残った香水は捨てるしかないな。」


第11部  紅い水晶     18

  ディエゴ・トーレスの顔は蒼白で生気がなかった。ケツァル少佐とロホは暫く彼の手から転がり落ちた紅い水晶のような物を見ていたが、やがてどちらが先ともなく我に帰った。少佐がギャラガを呼んだ。アンドレ・ギャラガ少尉が階段を駆け上がって来た。 「アンドレ、階下に誰かいましたか?」 「ノ...