2022/06/09

第7部 取り残された者      4

  グラダ・シティに帰ると、テオはロホが憲兵隊に引き渡し前に死体から採取した血液が染み込んだ衣服の切れ端を、自宅のD N A分析装置にかけた。ロホはこう言う細かいところに配慮出来る男だ。吹き矢を使った男が普通の人間なのか、それとも大昔にセルバから分派した”ヴェルデ・シエロ”の末裔なのか、テオは調べたかった。
 ケツァル少佐は彼に早く休むようにと言い、彼女自身は出かけてしまった。恐らく分派に関する知識を仕入れに誰か長老のところへ行ったのだろう。
 デランテロ・オクタカスの診療所ではクラーレの解毒剤を注射してもらった。森の中で死んでいても不思議でなかった状況だが、”ヴェルデ・シエロ”のお陰で助かった。医師は彼が気絶していたにも関わらず何故助かったのか、尋ねなかった。大統領警護隊が一緒にいた。その事実さえあれば、セルバ人は余計な質問をしないのだ。
 無理をしないようにと言われ、研究室から出て何もないリビングでぼーっとしていると、隣の居住区画から家政婦のカーラが軽食を運んで来てくれた。彼女は滅多にテオがいる第二区画に来ないので、少し珍しそうに室内を眺めた。

「何もないんですね?」
「ここは余計な物を置かないだけだよ。隣の部屋はゴチャゴチャと機械を入れてある。少佐すら入らない。ぶつかって機械を壊すと大変だと思っているらしい。」

 実際、高価な機械だから、壊れると大変だ。しかし少佐が物にぶつかるなんて想像出来なかった。カーラも早々に退散して行った。女主人の恋人と2人きりで一つの部屋に長居することを警戒したのだ。テオは彼女に子供がいることを知っているが、結婚しているのかどうか聞いたことがなかった。彼女はプライバシーを喋らない。彼も聞かなかった。
 軽食を腹に入れ、コーヒーを飲んで、食器を第二区画のキッチンで洗ってから返しに行った。トレイを受け取ったカーラが言った。

「壁をぶち抜いて通路を作れば便利ですのにね。」

 テオは苦笑した。

「だけど少佐はこのビルの所有者じゃないからな。そんなことをしたら彼女も俺も追い出される。」
「そうなったら、新しい家でも雇って下さいね。」

 2人で笑って、それからテオは研究室に戻った。分析が終了する迄、森であったことを報告書にまとめてみた。大学に提出する為の土壌分析結果も必要だ。土は大学の地質学教室に託してあった。そもそも何の為の土壌調査なのか理由がないので、成分を分析してもらうだけだ。赤い蟻塚の赤土と、普通の蟻塚の土の分析だった。悪霊がいるだけで土の成分が変化するのだろうか。
 大学から送られてくるデータ内容を表にまとめたり、文章にしたりしていると眠たくなってきた。遺伝子と関係ない研究は、彼にとって退屈なことでしかなかった。
 携帯の呼び出し音が鳴った。画面を見ると、アリアナ・オズボーンからだった。テオと同じ施設で生まれ育った、彼の唯一の「親族」だ。電話に出て、「ヤァ」と声をかけると、彼女が画面で満面の笑みを浮かべた。

「ハロー、テオ。元気そうね!」
「元気さ。君も元気そうだね。」

 テオはまだクラーレの影響が少し残って気怠かったが、彼女には伝えたくなかった。アリアナ・オズボーンはグラダ大学医学部病院の小児科病棟で働いている。職場はテオに近いが最近は滅多に出会わなかった。彼女は忙しいし、オフの時は愛する夫シーロ・ロペス少佐と仲睦まじく過ごしているのでテオは邪魔をしたくなかった。だから余計な心配を彼女にかけたくなかったのだ。しかし、彼女は言った。

「ケツァル少佐から聞いたわ。クラーレを塗った毒針の吹き矢で射られたのですって?」
「ああ・・・スィ・・・」
「もし気分が悪くなったら、いつでも私に連絡して頂戴。」

 ケツァル少佐が気を遣ってアリアナに事件のことを喋ったのだ。女性同士の連携が強いので、男達はこんな場合打つ手がない。

「大丈夫だ。少しかったるいだけだよ。今日は一日家にいる。」
「それなら良いけど・・・」

 気のせいか、少し顔がふっくらして見えるアリアナが微笑した。

「少佐は君に電話したのかい?」
「ノ。彼女はシーロに密入国者の状況を訊きに外務省へ行ったのよ。シーロが事件を知って、私に教えてくれて、私はびっくりして彼女に電話して・・・」
「わかった、わかった。君達の連絡網は理解した。」
「悪霊だなんて、危ないものに近づかないで。貴方はただの人間なんだから・・・」

 電話では”シエロ”とか”ティエラ”とか、そう言う単語は極力使わないことにしていた。誰に傍聴されるかわからない。テオは言った。

「近づかないよ。俺は呪術師じゃないんだから。科学者だぞ。」

 アリアナが笑い、「じゃ、またね」と言い、投げキスをして画面を閉じた。
 テオは考えた。シーロ・ロペス少佐が関わってきたと言うことは、今回の件は大統領警護隊の司令部にも報告があがっているな、と。

 
 

2022/06/07

第7部 取り残された者      3

  テイクアウトの夕食を終えて管理人が帰宅した後に、ロホが格納庫へ戻って来た。射殺した吹き矢の男の死体を憲兵隊に引き渡し、憲兵隊が国境警備隊に死体の写真をメールで送って身元確認を行ったので、遅くなったのだ。結果は、トレス村の部隊が担当する国境から少し南にある村の猟師だと言う返答だった。猟師と言っても狩猟だけで家族を養えないので普段は畑を耕していた男だ。
 猟師と言う職業は厄介だった。先住民の権利で、国境を無視して二つの国を行き来して暮らしている。当然ながら獲物を獲る道具も持ち歩いているが、両国の取り決めで先住民の猟師は銃器の使用を禁止されていた。狩猟には昔からの吹き矢や弓矢、罠を用いること、となっていた。だから猟師が吹き矢を使用すること自体は違反でなかった。問題は人間を狙ったことだ。憲兵隊はテオの腕に刺さった矢から猟師の指紋を採取した。そして男とテオの関係を調べたが、大統領警護隊から得られた情報以上のテオの情報はなかった。

「外国人を殺して国際問題にならないか?」

とテオが心配すると、ロホは首を振った。

「なりません。男は両国間の取り決めで許可されている範囲を超えてセルバ側に入り込んでいました。そして人間を狙って吹き矢を射た。貴方が射られたことは医師の証言からも明らかですから、男が死んだのは男自身のせいです。」
「そうか・・・だが、どうして俺を狙ったんだろう?」

 テオはまだ体調が完全に回復していないことを自覚していた。クラーレは植物由来の猛毒だ。獲物の筋肉を弛緩させ、呼吸困難に陥らせて絶命させる。”ヴェルデ・シエロ”はその対処療法を知っていたので、少佐が咄嗟に彼の腕に局所的な衝撃波を送り、一時的に血流を止めた。そして毒を搾り出したのだ。それでもテオを気絶させる威力を毒は持っていた。

「矢に塗られていた毒が猿を殺す量で良かったです。」

とロホが慰めた。テオはむくれた。

「その猟師が何かに憑依されて、俺を猿と勘違いして射たとは考えられないか?」
「悪霊の気配はありませんでした。」

 ロホはケツァル少佐を見た。少佐も彼に同意した。

「猟師は獣に気取られないよう、己の気配を消していました。悪霊はそんなことをしません。眠っていても、私は悪霊が近づけば目覚めます。」
「君なら猟師の接近も気づいた筈だがな・・・」

ついテオが愚痴をこぼすと、少佐もムッとして言い返した。

「貴方がそばにいたので、安心して眠ったのです。」

 2人が喧嘩を始めそうな気配だったので、ロホが素早く割り込んだ。

「憲兵隊が、猟師の仲間を調べるよう相手国の捜査機関に要請する、と言っていました。向こうが何処まで動くかわかりませんが、外国のことに我々は手を出せません。」
「国境の向こうの話か・・・外務省の協力が必要かな・・・」

 テオは大統領警護隊司令部所属で外務省出向組の隊員を思い浮かべた。

「外務省を動かさなくても・・・」

 少佐が少し悪戯っ子の表情を作った。

「様子を伺うだけなら、私達も出来ますよ。」



2022/06/06

第7部 取り残された者      2

  診療所を出ると、ケツァル少佐とテオはデランテロ・オクタカス飛行場の格納庫へ行った。大統領警護隊の格納庫だ。管理人が1人だけ待機していて、テオ達が中に乗り入れた車の掃除を始めた。荷台に死体を載せて戻って来たので、清めの香油を振りかけ、何かお祈りの言葉を呟いていた。裸電球の灯りの下で、少佐が携帯食を使った夕食の支度を仕掛けると、管理人が何か買ってきますと声を掛けた。それで少佐は幾らか紙幣を彼に渡し、彼とロホの分も含めて4人分の食事の調達を命じた。管理人は喜んで出かけて行った。
 テオは格納庫に常備してある椅子とテーブルを出し、腰を下ろした。

「俺が気絶していたのは数時間だったんだな?」
「スィ。息が詰まって死ぬ毒ですから、常に貴方の呼吸があるか確認しながら車を走らせました。」
「どうして狙われたんだろ・・・」

 まさかC I Aの手の者でもあるまい。隣国の大統領や麻薬組織の親分を怒らせた覚えもない。いや、犯罪組織はどこかで繋がっているのかも知れないが、テオの名前は犯罪者に知れ渡っていない筈だ。テロリスト関係だろうか? 

「貴方がテオドール・アルストだから狙われたのではないでしょう。」

と少佐がテーブルの上に足を置いて言った。レディらしからぬ行儀の悪さだ。

「白人を狙ったと思った方が良いと思います。」
「それじゃ、テロリストみたいなものか?」
「隣国からそんな情報は来ていませんが・・・」

 今朝、少佐は国境警備隊と電話で話をした。密入国して物資の売買をしている民間人や、麻薬の取引の話はあったが、反政府ゲリラやテロリストの存在を匂わせる情報はなかった。越境して生活する先住民の情報もなかった。それ故、もし不審な越境者を見たら直ぐに確保して欲しいと国境警備隊に少佐は要請した。

ーー奇妙な気を発する存在が国境に向かって去って行くのを感じましたから。

 彼女がそう告げると、国境警備隊の幹部は不快そうに言った。

ーー南には、昔我々と袂を分かった一族の分派がいると聞いたことがある。一族の気でなく、”ティエラ”でもない気を発する者がいるとするなら、その子孫が考えられる。その者が何を考えて国境を越えるのか、見当がつかないが。

 セルバから出て行った”ヴェルデ・シエロ”の子孫・・・今迄考えたことがなかったので、ケツァル少佐は内心ショックを受けた。
 ”曙のピラミッド”のママコナは地球上の何処でも”ヴェルデ・シエロ”に話しかけることが出来る。隣国で生きている一族がいるなら、彼等にも話しかけていた筈だ。しかし、歴代のママコナにそのことを伝えられていると聞いたことがない。長老達も隣国の一族について何も語ったことがない。隣国にも一族がいるなら、族長達にその情報が教えられて当然だと思うが、ケツァル少佐は聞いたことがなかった。

ーーその南へ移ったと伝えられる一族の分派は、何族なのですか?
ーー知らぬ。我等が一族は七部族のみの筈だ。分派なのだから、七部族のどれかだろう。地理的に一番近いのはグワマナ族だが。

 少佐からその話を聞いたテオはちょっと考え込んだ。確かに”ヴェルデ・シエロ”がセルバと言う限られた範囲の土地にしかいないのは、ちょっと不自然な気もする。世界中には人口が少なくて、消滅してしまった民族もいたし、居住範囲が限定される民族もいる。しかし”ヴェルデ・シエロ”は長い歴史の中で異種族と婚姻して混血の子孫を多く残している。彼等がセルバの外に出て行ってもおかしくない。それなのに、今迄セルバに住んでいる”ヴェルデ・シエロ”は隣国にいるかも知れない一族の末裔を想像したこともなかったのだろうか。 
 彼は少佐に言った。

「もし、南の土地に移住した一族の子孫が本当にいるなら、俺が彼等のD N Aを調べてやろう。君達と同じ祖先を持つ人々なのかどうか、確かめることは出来る。」



第7部 取り残された者      1

  テオが目覚めた時、見知らぬ男性が彼の顔を覗き込んでいた。メスティーソだ。どっちだろう? ”シエロ”なのか、”ティエラ”なのか? 彼がぼんやり考えていると、男性が話しかけて来た。

「私の声が聞こえますか、ドクトル・アルスト?」

 テオは瞬きした。相手は俺の名前を知っている。彼は「スィ」と答えた。喉がカラカラに乾いて、声が出にくかったが、相手は聞き取ってくれた。微笑を浮かべ、頷いた。そして指をテオの目の前に差し出した。

「私の指を目で追って下さい。」

 言われた通りに指が振られる方を見た。男性はまた微笑んだ。

「意識が戻りましたね。もう大丈夫です。」

 彼は横を向いて、そちらに向かって再び頷いた。そして体を退けた。テオは再び瞬きして、それから視野が少し広がった気がした。男性がいた位置に、ケツァル少佐が現れた。

「私がわかりますか?」

 テオは微笑もうとした。多分、微笑みを作れた筈だ。

「スィ。俺の大事なケツァル少佐だ。」

 少佐が笑とも怒りとも取れる複雑な表情をした。そして椅子に腰を落とした。テオは目を動かして、薄汚れた感じのコンクリートの壁を眺めた。前世紀の病院の様に見えたが、多分現代の病院に違いない。
 医師と思われる先刻の男性が、少佐に「お大事に」と言って、部屋から出て行った。テオは上体を起こしてみた。眩暈が少ししたが、体は動かせた。少佐は彼が動くのを止めなかった。ただ彼の様子を観察していた。

「ここは病院?」
「スィ。デランテロ・オクタカスの診療所です。」
「俺はどうしたんだろ?」

 直ぐには思い出せなかった。カブラロカ遺跡のキャンプを出発したことを思い出してから、昼寝をしようと車の後部座席で横になったことまでを思い出せる迄数分かかった。その間、少佐は黙って彼の様子を見ていた。

「トロイ家のそばで昼寝をしたよな? それから・・・畜生! そこから思い出せない。」

 思わず悪態を吐くと、やっと少佐が微かに笑った。

「そこまで思い出せたのでしたら上等です。貴方はクラーレを塗った吹き矢で射られたのです。」
「吹き矢?」

 なんだか赤い物が頭に浮かんだ。そう言えば何かに刺されたような気もする。

「応急処置をして毒が回るのを止めましたが、貴方が意識を失ったままだったので、病院に運びました。」

 なんとなく少佐の口調には、”シエロ”なら直ぐ治るのに、と言うニュアンスが込められている様に聞こえた。どうせ俺は”ティエラ”だから、とテオはちょっと僻みを感じた。

「誰が俺を吹き矢で射たんだ? それからロホは?」
「犯人は直ぐにロホが射殺しました。今、憲兵隊に死体を運んで調べさせています。」
「先住民なのか?」
「服装は私達と変わりませんでした。アマゾンの先住民を想像しているのでしたら、間違いです。中米にそんな生活形態の人はもういませんから。」

 そして少佐は付け加えた。

「所持品は僅かで、所持していたお金は隣国の物でした。」
「それじゃ・・・やはり密入国者か?」
「恐らく。」
「だが、どうして俺を狙ったんだ?」

 少佐は肩をすくめた。射殺してしまったので、尋問出来ないのだ。銃撃する前に超能力で捕まえられなかったのか、とテオは訊きたかったが、きっとロホはテオが射られたタイミングで撃ったのだ。敵の存在に気がついた時は、「手遅れ」だったのだろう。

「俺達が昼寝をしたので、敵の接近を許してしまったんだな。」
「貴方に落ち度はありません。私の落ち度です。」

 ケツァル少佐は苦々しい口調だった。彼女はあの時眠ってしまっていた。休憩すると決めた時は、周囲に異常なしと判断した。人の気配は全く感じ取れなかった。人以外の動物もいなかった。だから結界を張らなかった。油断した。彼女は己の重大なミスを認めざるを得なかった。部下でも同伴者でもない、指揮官の彼女のミスだ。
 テオはベッドから降りた。服装は運び込まれた時のままだ。左腕の袖がなくなっていた。吹き矢が刺さった場所を切り取って、腕の上部を縛ったのだろう。なくなったのが袖で良かった。腕を失っていたかも知れない。

「痺れとかありませんか?」
「大丈夫だ。多分・・・走らなければ平気だ。」

 

第7部 渓谷の秘密      17

  グラダ大学考古学部の考古学上の発見はンゲマ准教授と彼の弟子達に任せ、テオとロホは陸軍のキャンプに戻った。ケツァル少佐とアスルもアレンサナ軍曹と共にテントの外に出て来たところだった。

「国境警備隊に不審な出入国をする人物への警戒を要請しておきました。」

と少佐は報告し、それからちょっと苦笑した。

「向こうは、いつもしていることだと不機嫌でしたけどね。」

 きっと少佐は大統領警護隊の国境警備隊責任者に”ヴェルデ・シエロ”の言語でこちらの状況を説明した筈だ。その証拠に、”ティエラ”のアレンサナ軍曹はテオにそっと囁いた。

「スペイン語で喋って欲しいよな・・・」

 スペイン語で話すとマズい内容だったのだ。テオは肩をすくめただけだった。
 その夜、遺跡のキャンプ地でもう1泊した。朝になると、少佐がアスルとアレンサナ軍曹に挨拶した。

「お邪魔しました。発掘隊が無事に調査を終える可否は、あなた方に掛かっています。任務の成功を祈ります。」
「グラシャス。」

 アレンサナ軍曹とアスルが敬礼した。テオも別れの挨拶をした。軍曹とは握手したが、アスルにはいつもの様に素っ気なくそっぽを向かれたので、苦笑した。ロホは愛想良く陸軍の兵士達に声をかけ、彼等はジープに乗り込んだ。
 来た道を走って戻り、トロイ家のそばへ着いたのは午後になりかけた頃だった。運転していたケツァル少佐が、特殊部隊が野営した岩場に似た更地に駐車して、休憩を宣言した。携帯食と水で昼食を取り、1時間の昼寝をした。木陰が涼しく思えるのだが、案外虫などが落ちてくる恐れがあるので、そこは避ける。車の後部ドアを開いてタープを張った。3人並んで寝るのは狭いので、ロホが車から少し離れて場所を確保した。
 テオは少佐と並んだ。時間を無駄にしない少佐は直ぐに目を閉じて眠ってしまった。テオは眠れなかった。場所が場所だ。すぐそばに惨劇が起きた民家が見えていた。周囲に張り巡らされた黄色いテープがそのままだ。半月も経てば雨風で破れて切れてしまうだろう。民家は近隣の住民が犠牲者の弔いと浄化を兼ねて焼き払うのだと言う。そこで営まれていたトロイ家の平和な生活は2度と戻ってこない。テオは会ったこともない人々の不幸を思い、胸の内で冥福と未来の幸運を祈った。
 アベル・トロイに憑依して家族を殺害させた悪霊は浄化された。しかし別の悪霊の気配が近くにあった。これは偶然なのだろうか。それとも何か関係があるのか。大統領警護隊文化保護担当部は、カブラロカ遺跡の発掘がこれからも続くことを考慮し、この付近の悪霊の管理をしたい様子だ。今の所、悪霊が閉じ込められていると思われる塚は1基だけだった。まだあるのか、それで終わりなのか、全く見当がつかない。

 ドローンで調査してみようか?

 テオがそれを思いついた時、岩陰のロホがむくりと体を起こした。銃を掴んでいるのが目に入ったので、テオも思わず体を起こした。

 何かいるのか?

と思った直後、腕にチクリと痛みを感じた。
え? と腕を見ると、赤い鳥の羽が目に入った。同時にロホが藪に向けて射撃した。ケツァル少佐が跳ね起き、薮の中でこの世の物とも思えない悲鳴が上がった。
 テオは羽を掴んだ。細い小さな針が付いていた。

 吹き矢だ!

 彼は少佐を見た。少佐が彼の肩を掴んだ、彼女が何か言ったが、もう聞き取れなかった。テオの意識は急激に遠ざかり、闇に沈んだ。

 

2022/06/02

第7部 渓谷の秘密      16

  ンゲマ准教授はメサの上で見つけた蓋をされた開口部の写真を見せてくれた。50センチほどの直径を持つ円形の窪みで、石が詰め込まれている様に見えた。

「もしこれがサラの石を落とす穴なら、下の部屋の中心にどの様な計測方法で合わせて穴を開けたのか、研究しなければなりません。」

 考古学者の研究に終わりはない。テオが彼の相手をしている間に、アスルが尾根から降りて来て、ケツァル少佐とロホと共に情報交換を行なっていた。アスルは、この日はもう澱みが見えなかったと断言した。前日の異様な気配を発した人物は、己の活動拠点に帰ったのだろうか。

「追跡して正体を調べたいのですが・・・」

 少佐が残念そうに言った。

「文化保護担当部の担当範囲を超えてしまいます。遊撃班を呼ばなければなりません。」
「衛星電話を使われますか?」

 アスルがチラリと陸軍のテントに視線を向けた。

「遊撃班が来るにしても、2日かかりますね。」

とロホが溜め息をついた。待っている間に怪しげな気を発した人物が遠くへ行ってしまわないか心配していた。追跡の手がかりを失うことも心配だ。少佐がアスルに尋ねた。

「一番近い南部国境警備隊は何処にいます?」

 アスルが携帯を出した。圏外だろうとロホが指摘しようとすると、彼はメモを見て言った。

「トレス村です。ミーヤの国境検問所が本隊で、トレスが分隊ですが、西海岸に検問所がないので、南部の警備隊の4分の1がトレスにいます。連絡を取りますか?」
「スィ。」

 少佐はアスルと共に陸軍のテントへ向かった。残ったロホはテオとンゲマ准教授のところへ行った。
 テオがオクタカスで洞窟に入った時の話をンゲマ准教授と助手達に語っていた。落石事件の話ではなく、洞窟内の壁や足元の様子の説明だった。ンゲマ准教授はテオと共に洞窟に入ったフランスの発掘隊の報告を聞いていたが、写真がなかったのでテオの話に真剣に耳を傾けていた。入り口付近は神殿の様な彫刻で飾られていたが、歩いて数分後にはただの素っ気ない岩壁になったこと。足元はほぼ平らで、いかにも人工的な手が入った床であったこと。オクタカスの審判の部屋はコウモリの巣になっていたので、床にコウモリの排泄物や体毛が山積して、不潔であったこと。

「ここの洞窟の入り口は樹木が茂ってコウモリの出入りの邪魔になっていた様子なので、連中が出入りするのは見たことがないな。」

とンゲマ准教授が助手達に同意を求めた。助手達もそれを認めた。

「だがコウモリがいないからと言って、危険生物がいないとは断言出来ない。」

 ンゲマは強い光を出せる携行ライトを数個持って来ていた。最初からサラの存在を確信していたのだ。テオはもう一度あの奇妙な裁判の場に行きたいと思わなかったので、「成功を祈ります」と言った。ロホを見ると、ロホは肩をすくめただけだった。



2022/06/01

第7部 渓谷の秘密      15

  墓と思われる蟻塚はそれ程の数でもなく、赤く変色していたのは最初に見つけた一つだけだった。テオはあれっきり声も臭いも感じ取れなかったし、”ヴェルデ・シエロ”達も何も見つけられなかった。ただ、ケツァル少佐が人間が歩いた踏み跡とタバコの吸い殻を2本見つけた。テオは慎重にその吸い殻をビニル袋に収納して、リュックサックに仕舞った。

「こんな奥地に来てタバコを吸っていたなんて、尋常じゃないな。」

と彼が感想を述べると、そうでもないですよ、とロホが苦笑いした。

「国境が近いですから、隣国の住民の居住地区がここから歩いて3時間の距離にあります。」
「それじゃ、悪霊使いは隣国から来たのか?」
「古代は国境がありませんでしたからね。カブラ族は隣国にもいるし、今は往来がなくても植民地化前は普通に往来していたでしょう。」

 少佐が肩をすくめた。

「ケサダ教授の研究分野です。」
「陸路の交易路か・・・」

 テオは南の空を見た。

「向こうにも”シエロ”はいるのか?」
「子孫はいるでしょう。でもママコナの声を聞ける能力は失われていると思います。夜目が利く程度でしょう。周囲と異なる能力を持っていると、仲間の近くにいる方が生き安いですから、かなり古い時代にセルバ側へ子孫達は移動した筈ですよ。」

 普通の人間の中で育った少佐が言うと説得力があった。テオは近くの蟻塚に視線を下ろした。

「それじゃ、悪霊使いは”ティエラ”と考えて良いのかな?」
「油断禁物ですが、私は一族の波長を感じませんでした。ですから”ティエラ”の異能者だと思いたいです。」
「私もです。」

とロホが同意した。

「”ティエラ”の異能者にも厄介な力を持つ人がいます。己の能力に気がついてそれを使いこなせる人間が一番手強いです。戦い方が私達と違いますからね。」

 普通の住民の墓地と思われる場所は見つからなかった。罪を犯さない住民は家族の近くに埋葬されたのだろうと少佐とロホは話し合った。テオは、昨夜宿泊した遺跡とこの日見つけた古代の町の跡や罪人の墓地跡を思い出し、ジャングルの中に大きな人間の生活場所があったのだなぁと感慨深く思った。
 再び遺跡のキャンプへ戻った。戻りながらテオは町の遺跡の写真をさらに撮影した。ンゲマ准教授に見せ、ケサダ教授にも土産に見せるつもりだった。ンゲマ准教授はサラの存在を確認しただろうか。
 夕刻、遺跡のキャンプに戻ると、大学のキャンプはちょっと興奮した雰囲気が漂っていた。アレンサナ軍曹に尋ねると、准教授と数名の学生がメサに登り、サラの石を落とす開口部らしき箇所を発見したのだと言う。
 早速テオと少佐はンゲマ准教授のところへ行った。ンゲマ准教授は彼等を見て、幸せそうな笑を見せて出迎えた。

「見つけましたよ!サラに違いない!」
「穴でしたか?」
「蓋をされていますが、円形の穴がメサの上にあります。後は洞窟の中に入って、中に円形の審判の部屋があることを確かめて、天井の穴とメサの穴が同一の物であることを確認しなければなりません。蓋を崩す訳にいきませんから、計測が必要です。」

 クエバ・ネグラの海底遺跡を発見したサン・レオカディオ大学のリカルド・モンタルボ教授に負けない興奮度だ。テオは取り敢えず「おめでとうございます」と言った。少佐は慎重に、「洞窟に入る時は、必ずクワコ中尉を同伴して下さい。」と忠告を与えた。


第11部  紅い水晶     19

  2台目の大統領警護隊のロゴ入りジープがトーレス邸の前に到着した時、既に救急車が1台門前に停まっていた。クレト・リベロ少尉とアブリル・サフラ少尉がジープから降り立った。2人は遊撃班の隊員で、勿論大統領警護隊のエリートだ。サフラ少尉が一般にガイガーカウンターと呼ばれる放射線計測器...