2021/07/09

異郷の空 13

  リビングに行くと、アリアナが誰かと電話で話をしていた。

「・・・だから、逃亡中の泥棒とか黒豹がここへ来たら怖いじゃない? 貴方に来てくれと言ってもどうせ来ないでしょ? テオが一番頼りになるのよ。だから彼に来てもらったの。朝までいてもらうわ。コンピューターには触らせないから安心して。私だってそんなに愚かじゃないわ。」

 相手はエルネスト・ゲイルだ。門衛からアリアナの家にシオドアが来ていると連絡が入ったのだろう。アリアナは彼に、

「もう少し女性に優しくすることを覚えたら?」

と皮肉を言って電話を切った。そしてシオドアを見て言い訳した。

「エルネストが、貴方がここに来ていると門衛に聞いて、電話をかけて来たの。研究には全く関係ない用事だからと言っているのに、しつこいのよ、彼。」

 シオドアは笑った。エルネストの性格は彼女同様よく知っている。

「あいつは、今日の昼間、俺のところに来たぜ。昼寝をしている俺の邪魔をした。それが目的なんだが、趣味の盗聴で知り得た警察の情報を得意げに喋った。お陰で俺は博物館の泥棒のことを知ることが出来た訳だけどね。」
「その泥棒のことだけど・・・」

 アリアナはリビングテーブルの上にラップトップを出していた。画面をシオドアの方に向けた。怪盗”コンドル”のニュースが一覧で出ていた。

「彼がこの泥棒なの?」
「正直に言えば、イエスだ。だけど、金儲けで盗んだのではないんだ。セルバ文明の遺物が盗掘されて博物館に売られていた。セルバ政府は返還を求めて訴訟を起こしているが、博物館は美術品を返すつもりがないので裁判が長引きそうなんだ。それで、セルバ政府の偉いさんが、ステファン大尉ともう1人の軍曹に盗み出してでも先祖の遺物を取り返せと命令したらしい。セルバ以外の美術品も盗んだが、それはダミーだ。見境なく盗んだようにアメリカ側に思わせたかったんだよ。」
「それで、昨日メルカトル博物館に侵入して失敗したのね?」

 カメル軍曹に暗殺されかかったと言えば、また話がややこしくなりそうだったので、シオドアは頷いて見せただけだった。

「彼をどうするの?」

とアリアナが尋ねた。 シオドアはどうしようか、と考えた。

「俺の車に隠して基地から出そう。そしてセルバ大使館へ彼を連れて行く。大使館で彼を出国させてくれると思うよ。」

 その時、シオドアの携帯に電話が掛かってきた。画面を見ると非通知だ。用心しながら出ると、相手はミゲール大使だった。

ーーこの電話は安全ですか?

と大使が尋ねた。シオドアの電話は彼が働いているコンビニで彼が自分で購入した使い捨てだ。彼が「スィ」と答えると、大使が言った。

ーー黒いジャガーを確保しなければなりません。
「大丈夫です。」

 シオドアはちょっと余裕を感じながら言った。

「ジャガーを保護しました。傷の手当も済んで、彼は休んでいます。」
ーーおお、それは有り難い!

 大使が喜びの声を上げた。

ーーすぐ迎えの者を遣ります。この番号をまだ使われますね?
「もう1回程度なら大丈夫です。」
ーーでは、連絡をお待ち下さい。

 大使は神に感謝する言葉を呟き、通話を終えた。シオドアが電話をポケットに仕舞ってアリアナを見ると、彼女はぼんやりとラップトップの画面を眺めていた。彼は彼女を安心させようと声をかけた。

「セルバ大使館が彼を迎えに来てくれるそうだよ。」
「そう・・・」

 心なしか不満気に見えた。なんだ? とシオドアは不審に思った。まさか、ステファンを手放したくないってか? 彼はジャガーで猫なんかじゃないんだぜ。
 シオドアはポットから冷めたコーヒーをカップに注ぎ、口を湿らせた。

「迎えが来る迄俺もここにいてやるよ。」

 まさか、呪いの笛の時の様に大使自ら来るのではなかろうな? と思いつつ、彼はリビングのソファに横になった。アリアナは困惑して彼を見た。

「寝室には彼がいるわ。私は何処で寝れば良いの?」
「客間があるだろう? 彼をあっちへ連れて行くべきだったな。」

 またシオドアの携帯が鳴った。今度も非通知だ。しかし大使が来るには早過ぎる。シオドアは警戒しながら電話に出た。

「ハースト・・・」
ーーラ・パハロ・ヴェルデです。

 想定外の声を耳にして、彼は跳ね起きた。思わず声が弾んだ。

「少佐! まさか、君が迎えの者?」

 ケツァル少佐は余計なお喋りをしない。

ーーシルヴァークリークのラシュモアシアターの前で待っています。

 電話が切れた。料金切れだ。シオドアは電話をテーブルの上に投げ出し、アリアナのラップトップを引き寄せた。シルヴァークリークは隣州の端っこにある小さな町だった。ラシュモアシアターはそこにある映画館だ。シオドア達がいる基地から車で片道2時間かかる。

「なんでそんな遠くにいるんだ? ってか、何時そこへ行ったんだ?」

 思わずシオドアが愚痴ると、ステファン大尉の声が答えた。

「”出口”がそこにしかなかったからでしょう。」

 リビングの入り口にステファンが立っていた。アリアナが彼を見て微笑みかけた。何か飲む?と尋ね、彼は水を所望した。
 シオドアは車のキーを掴んだ。

「”出口”の仕組みがどうなってるのか知らないが、兎に角急いで彼女を連れて戻って来る。何処にも行かずにここで待っててくれ!」

 急いで外へ駆け出したシオドアに、ステファン大尉が軽く頭を下げて謝意を表した。ドアが閉まると、アリアナは再び鍵を掛け、チェーンも掛けた。車のエンジンがかかり、走り出す音がした。彼女は窓から車を見送り、尾行する車両がいないことを彼女なりに確認した。
 振り返ると、ステファン大尉は壁にもたれて水を待っていた。

「お部屋で待ってて。すぐに持って行くから。」

と言うと、彼は素直に寝室へ戻っていった。彼女はキッチンに入り、ウォッカ・マティーニを作った。グラスを2つ、トレイに載せて寝室へ運んだ。ドアをノックして開くと、彼はベッドから大儀そうに体を起こした。まだ体力が戻ったとは言えないのだ。彼は申し訳なさそうに謝った。

「私が貴女のベッドを使ってしまいました。リビングへ移動します。」
「いいの、ここを使ってもらって構わないわ。」

 どうせ直ぐにいなくなるのでしょう? 彼女は自分が見つけた黒猫を手放したくなかった。せめて、迎えが来る迄・・・あの美しいインディオの女が来る迄は、この猫は私のものだ。


異郷の空 12

  カメル軍曹はセルバ共和国陸軍特殊部隊の隊員だった。特殊部隊は普通の人間、つまり”ヴェルデ・ティエラ”とメスティーソの”ヴェルデ・シエロ”で構成されている部隊だ。ここの”ヴェルデ・シエロ”はせいぜい”心話”を使える程度で、本人も出自の自覚がない連中ばかりだ。カルロ・ステファンも大統領警護隊にスカウトされなければ、こちらの部隊に配属される筈だった。だから、部隊で数少ない本物の”ヴェルデ・シエロ”である司令官から、北米の博物館が返還を渋っているセルバ文明の文物を奪還する任務にカメル軍曹を相棒として連れて行くようにと命令された時、若干足手まといだなと感じつつも従った。
 カメル軍曹はステファン同様貧民街の出身で、泥棒の才覚があった。ステファンが子供時代に家族の生活のためにかっぱらいや掏摸やひったくり等の窃盗を重ねていたのと違い、軍曹はトリックを用いて人を騙し金品を巻き上げる詐欺師的な行為が得意だったのだ。だから”コンドル”はカメル軍曹が下見をして計画を立て、ステファンが実行すると言う手口で美術品の”回収”を行った。任務遂行は上手く進んだが、2人が仲良くなることはなかった。カメル軍曹はステファンが放つ強い気を感じていたのかも知れない。任務の相談をする時、彼はステファンの目を決して見なかった。仕事をしない時は常に別行動だった。ステファンも子供の時から周囲の人間が彼に対して取るそんな風な態度に慣れていたので、別段不自然に感じなかった。
 最後の標的であるメルカトル博物館に侵入する時、初めてカメルが一緒に中に入ると言った。ステファンは邪魔だと拒否した。カメルは一旦意見を引っ込めたが、当日実行する段になって再び一緒に行くと言った。そして強引について来た。メルカトル博物館は個人が趣味で経営しているので、あまり高価な品はない。しかしメキシコのコーナーだけは本物の見事なオパールの仮面が展示されていた。小さな物だが、売れば結構な値段が付く。計画では、ダミーとしてその仮面を盗むことになっていた。
 ステファンが警報装置の線を切ってガラスケースから仮面を取り出した時、背後からカメル軍曹が突進して来た。気配を感じたステファンは本能的に体を右へ動かし、左脇腹をナイフで切られた。

「恐らくカメルは私の心臓を背後から狙ったのです。しかし私が動いたので、腹を切られた程度で済みました。」

 驚いたはずみで気の放出が一瞬爆発的になったのだろう、線を切った筈の警報装置が作動してベルがけたたましい音を立てて鳴った。カメル軍曹は慌てた。その隙にステファンは逃げた。カメルが追って来たが、直ぐにパトカーのサイレンが聞こえた。銃声を耳にしたが、ステファンはひたすら走った。切られた脇腹から血が吹き出し、激痛と恐怖が襲ってきた。

「私は無我夢中で逃げました。走っているうちに体が軽くなっていく感覚があり、袋小路に追い詰められた時、夢中でジャンプしたら塀の上に上がれたのです。」
「変身したことに気がついたのは、何時?」
「塀から近くの家の屋根に飛び移った後です。傷が痛むので確認しようとしたら、何故か舌で舐めてしまいまして、血の味で我に帰りました。」
「人間に戻ろうとは思わなかった?」
「その時はただ仰天してしまって・・・屋根の下では警察車両が集まっていましたし、人が大勢いたので、そのまま屋根伝いに移動しました。人間に戻ろうにも方法がわからないし、裸だし、味方もいないし・・・」
「俺のところへ来ることは考えなかった? ああ、住所を教えていなかったな。」
「それに貴方と出会えても、ジャガーが私であると伝えることは出来なかったでしょう。」
「そうだね。犬が導入されたから、逃げ続けて、湖に入って臭いを消したんだね。 この家の庭先に来たのは偶然かい? 偶然だな、君はアリアナを覚えていなかったんだもんな。」

 ステファン大尉は微かに苦笑して見えた。

「彼女に見られた時は、もうお終いだと覚悟しました。通報されて撃たれる、それだけが頭に浮かびました。しかし体力も気力も限界でしたから、地面に横たわっていたら、彼女が戻って来て、声を掛けて来ました。それで、人間に戻ったとわかりました。後は・・・もうどうにでもなれと思って、彼女にされるがまま風呂に入れられて、手当を受けて、寝てしまいました。」

 シオドアはアリアナが猫を抱いて寝たと言ったことを彼に話すのを止めた。言えばこの若い軍人は彼女とまともに顔を合わせられないのではないかと心配したからだ。

「君が逃げ回っていた頃に、ミゲール駐米大使に連絡を取ったんだ。まだ何が起きたのか具体的に分からなくて、俺自身が情報を欲したからね。大使は”コンドル”を知っていた様だが、メルカトル博物館の事件は知らなかった。」

 大尉の目が不安そうに泳いだ。

「大使は何か言いましたか?」
「警察が黒豹を探していると伝えたら、本国に連絡を取ると言って電話を切った。それっきりだ。」

 そしてシオドアは急いで大使の言葉を付け足した。

「電話を切る直前に大使は言った。豹ではなくて、ジャガーだ、エル・ジャガー・ネグロだって。」

 シオドアは、ステファン大尉が弾かれたように立ち上がったので、彼も驚いた。

「どうかした?」
「・・・なんでもありません・・・」

 しかし大尉は何かに激しく動揺していた。顔を背け、自分の腕で自分を抱き抱えるポーズになり、口の中でぶつぶつ呟いた。シオドアには「そんな筈はない」と聞こえた。



2021/07/08

異郷の空 11

  アリアナは黒い大きな猫を庭先で見つけたのだ。人間と同じ大きさの猫だ。鋭い牙を生やし、緑色に輝く目を持ち、太い四肢で大地を蹴って跳躍する、真っ黒なジャガーだった。ただ彼女が見つけた時、黒いジャガーは傷ついていた。左脇腹から血を流し、全身ずぶ濡れでブルブル震えていた。アリアナは博物館の泥棒も黒豹の出没も知らなかったが、目の前にいる動物が尋常でない物だと判じた。急いで家に駆け込んだ。ジャガーが追いかけて来るかと思ったが、その気配はなく、窓から庭を見ると、桟橋へ降りる階段の上で倒れていたのは獣ではなく人間だった。
 アリアナは警察に電話するべきだと心の中で自分に言い聞かせながらも、庭に出て、男に歩み寄った。男は全裸だった。脇腹から出血していた。近づいて来る彼女に気がついて顔を上げた。アリアナは彼の顔に見覚えがあった。何故彼がここに? そして男の目が緑色の猫の目だと気がついて、危うく悲鳴を上げそうになった。しかし彼女が声を出す前に、彼の方が先にぐったりと地面に顔を着けてしまった。
 死にかけている・・・
 彼女は彼の肩に手をかけて言った。

「しっかりして! 家へ連れて行くわ。そこまで頑張って!」

 男は最後の気力を振り絞って彼女に支えられながら立ち上がり、家迄歩き、何とかバスルームまで辿り着いた。そこでアリアナは彼を洗い、傷の応急手当てをした。傷は出血していたが半分ほど塞がっていた。だから縫合は必要ないと彼女は判断して、傷口が開かないよう医療用テープで塞いだ。包帯を胴に巻かれている間も男は一言も発しなかった。そして彼女の寝室へ誘導され、ベッドの上に横たわると直ぐに眠りに落ちた。
 経緯を聞かされたシオドアはアリアナの服装を眺めた。

「君も眠った様だね。」

 アリアナが自分の体を見下ろした。

「彼は熱を出して震えていたの。だから温めただけよ。」
「自分の体温でか。まぁ・・・あの体だから抱き甲斐はあっただろうさ。」

 彼女がムッとして言い返した。

「私は黒い猫を抱いたつもりよ。」

 ピザを2切れ残して、彼等は食事を終えた。

「ジャガーが彼になったと言っても、貴方は驚かないのね。」
「うん・・・彼が初めてじゃないから。」

 アリアナが固い表情でシオドアを見た。

「セルバ人って、皆んなジャガーになるの?」

 シオドアは思わず吹き出した。そして彼女が目に涙を浮かべていることに気がついた。ちょっと反省した。

「ごめん、君は俺ほどにはセルバ人を知らないって忘れていたよ。あの国の国民が皆んな変身する訳じゃない。殆どは俺達と同じ普通の人間だよ。同じって遺伝子操作されたって意味じゃなくて、本当に普通の人間って意味で・・・」
「わかってる。」
「だから、普通のセルバ人は変身しない。消えたりしないし、テレパシーも使わない。悪霊祓いもしない。時間の跳躍もしない。空間の跳躍もしない。」
「貴方はそれを全部体験したの?」

 アリアナに見つめられてシオドアがどう答えようかと迷った時、寝室で物音がした。救われた気分でシオドアは席を立ち、寝室へ行った。ドアをノックして、声をかけた。

「シオドア・ハーストだ。入るぞ、ステファン大尉。」

 そっとドアを開けると、ステファン大尉が慌ててベッドの上で毛布を被るところだった。シオドアは少し安堵した。大尉は動ける様だ。裸なので、ドアを開かれて慌てたのだ。

「君と俺は服が同じサイズだから、俺の家から新しい衣類を持ってきた。趣味に合わないかも知れないが、我慢して着てくれ。俺が過去の村から戻った時に、君に拾われて君の服をもらった。そのお返しだから、気にしないで使って欲しい。」

 大尉が上半身を起こして、グラシャスと言った。

「貴方の声が聞こえたので、まさかと思ってドアで聞き耳を立てていました。そしたらクシャミが出て・・・」
「その格好のままじゃ風邪をひく。残り物で悪いがピザがあるので、持って来る。腹が減っているだろう?」

 すると大尉が尋ねた。

「私を助けてくれた女の人は?」
「アリアナ・オズボーン、俺と同じ研究所で育った。妹みたいな人だ。グラダ・シティの文化保護担当部のオフィスで君と会ったことがあると言っている。」

 しかしステファン大尉は首を傾げただけでコメントしなかった。
 シオドアはダイニングに戻った。残り物のピザを皿に移し、アリアナが温めてくれたミルクと一緒にトレイに載せて寝室に戻った。ステファン大尉は服を着てベッドに座っていた。よほど空腹だったのだろう、ピザをもらうと直ぐに食べてしまった。部屋の隅にあった椅子に座って眺めていたシオドアは、その食べっぷりに思わず笑みを浮かべた。食欲があれば大丈夫だ。

「もう1枚頼もうか?」
「いえ、結構です。落ち着きました。」
「傷の具合はどうだい? 痛むか?」
「大丈夫です。寝ている間にかなり塞がった様です。」

 多分、”ヴェルデ・シエロ”だから言えることだ。シオドアは事件の経緯を知りたかった。

「博物館で何があったんだ? 警察は君達が仲間割れをしたと考えている様だが?」
「私にも訳がわからないのです。」

と大尉は言った。


 


異郷の空 10

  シオドアはミゲール大使から何か言ってこないかと待ったが、夜になっても連絡はなかった。カルロ・ステファンの身が心配だった。射殺されたのがカメル軍曹なら、軍曹は何故ステファンを刺したのだ? 地面に跡を辿れる程の出血をしながら変身したステファンは何処へ行ったのか。
 警察は犬を使って黒豹と泥棒の双方を追いかけているのだが、奇妙なことに両方のチームの犬が同じ場所で重なった。泥棒追跡チームが黒豹追跡チームと同じ経路を追いかけ始めたのだ。そして「追われる者」は湖の岸辺で痕跡を絶った。湖に逃げたのだ。警察はドローンを飛ばし、ボートも出したが泥棒も豹も見つからなかった。何処かで岸に上がった可能性も考えられたが、湖の岸辺の3分の1を占める基地の捜索は難しかった。この基地には国立遺伝病理学研究所と言う関係者以外の立ち入りを厳しく制限している施設があり、部外者の立ち入りにうるさいのだった。居住区ならと言う条件で捜索を許可されたが、個人の住宅が湖岸まで建てられており、プライバシーの問題もあって容易に進まなかった。
 シオドアは昼寝をした分の延長勤務を終えて、疲れて自宅へ帰った。リビングのカウチに身を投げ出して目を閉じた途端に電話が鳴った。渋々携帯を出すと、アリアナ・オズボーンからだった。彼女は彼が出るなり、言った。

ーーうちに来て、テオ。大至急、お願い!

 シオドアはまた目を閉じた。くたびれて動きたくなかった。

「用件を言え。俺は疲れているんだ。」

 アリアナはお構いなしに自分の要求を喋った。

ーー貴方の服を持って来て。下着と靴下とシャツと・・・靴はいいわ、こっちで買う。
「何を言ってんだか・・・」
ーー今必要なのよ。早く来て! 門衛に貴方が来ることを言っておくわ。1時間以内に来てね!

 一方的に喋って切った。シオドアは不快な気分で電話の画面を眺め、そして突然ある考えに至った。
 俺の下着と靴下とシャツだって? 
 一人暮らしの女性の家にない物だ。アリアナが何故そんな物を必要とする? 
 彼女の家に、それが必要な男がいるからだ!
 シオドアは跳ね起きた。急いで袋に新しい下着と靴下とシャツを入れた。ついでにセーターも1枚入れた。ズボンも要るだろう。
 荷造りする程の荷物ではなかったが、思いのほか時間がかかり、急いで車に乗り込んで基地に向かった時は40分も過ぎていた。基地は近い。門衛は彼が追放されたことを知らなかったので、また外国へ出ていたのかと言う顔で迎えた。走り慣れた基地内の道をゆっくり走り、湖畔に家が並ぶ区画へ入った。アリアナ・オズボーンの家は小さい建物が多い古い街並みの中にあった。シャッターが閉まったガレージの前に車を駐車すると、窓のカーテンを寄せてアリアナが外を覗いた。シオドアは車外に出て、衣類が入った袋を掲げて見せた。彼女がカーテンを閉じ、彼が戸口の前に立つと同時にドアが開いた。奇妙なことに彼女はまだ夕方だと言うのにTシャツと短パンの上にナイトガウンを羽織っていた。
 以前と同じ様に、キスで挨拶をすると、彼女は彼を家の中に引き込んだ。ドアを閉め、鍵を掛け、チェーンを掛けた。そして、無言で「こっち」と手を振って彼を寝室へ誘導した。
 アリアナ・オズボーンは滅多に自宅に他人を入れない女性だった。”兄弟”であるシオドアもエルネストも彼女の家に招かれたことがなかった。だからシオドアは歩きながらインテリアを見て、案外普通の女性の一人暮らしの家なんだ、と思った。壁に明るい色調のリトグラフが数点飾っており、棚にニットの縫いぐるみが並んでいる。テーブルには花が生けてあった。
 アリアナは寝室のドアを静かに開いた。低い声で彼に言った。

「あの人を起こしたくないの。」

 シオドアは寝室の中を見た。照明を点けないでカーテンを引いた室内は暗かった。消毒薬の匂いが満ちていた。そんなに広くない寝室の中央に女性の一人暮らしには不似合いなセミダブルのベッドが置かれており、その上で男が1人寝ていた。
 シオドアは静かに室内に入った。セミダブルのベッドの左半分に男は遠慮がちに体を横たえていた。入り口に背中を向けて裸の肩が見えた。逞しい筋肉がついた軍人の体だ。少し長く伸びた黒髪は見覚えがあった。
 シオドアが手で触れられる距離まで近づいても、彼は起きなかった。熟睡している。こんな隙の塊の様なカルロ・ステファンは初めてだ。ロホはナワルを使うと疲弊して2日間寝込むと言っていた。ステファンも疲れ切ったのだ。生まれて初めて変身して、怪我をして、恐らく冬の湖を泳いで逃げたのだ。これで元気いっぱいなら怪物だ。
 シオドアはベッドの右半分が乱れていることに気がついたが、知らんぷりしてそこに衣類が入った袋を置いた。そして寝室から静かに出た。
 ダイニングに行くとアリアナがコーヒーを淹れていた。

「ピザを注文したわ。食べて行って。」

 ステファンと2人きりになるのが不安なのか。それにしても・・・。
シオドアは椅子に腰を下ろしてカップを手に取った。アリアナは化粧をしているが、くたびれた顔をしていた。この化粧は前日のものだな、と思った。彼女は時々研究で徹夜する。一つのことに集中すると中断するのが嫌なのだ。

「昨夜は徹夜したのかい?」
「ええ・・・」
「帰って来たのは何時?」
「今朝の10時頃・・・」
「昨日の事件を知っているかい?」
「何の事件?」

 彼女の怪訝そうな表情で、博物館の泥棒騒ぎも黒豹の出没も彼女は知らないのだとわかった。シオドアは寝室の方を振り返った。

「彼が誰か知っているのか?」

 すると意外にもまともな答えが返ってきた。

「ケツァル少佐の部下よ。」

 シオドアは彼女に向き直った。

「彼が名乗ったのか?」
「いいえ、今朝会った時から彼は一言も言葉を話さないわ。私達はセルバ共和国で1回会っているのよ。貴方が少佐のアパートで消えたとケビン・シュライプマイヤーが報告して来た時に、私はグラダ・シティに行って少佐と面会したの。その時、オフィスに彼がいた。少佐は彼を中尉とだけ呼んでいたわ。」
「彼の名前はカルロ・ステファンだ。君がセルバへ行った時は確かに中尉だったが、今は昇級して大尉になっている。」

 ドアチャイムが鳴って、アリアナは急いで玄関へ行った。デリバリーサービスの男と言葉を交わして、やがて再び戸締りする音が聞こえ、彼女はピザの箱を抱えて戻ってきた。
 空腹だったので、シオドアもアリアナも直ぐに箱を開けて食べ始めた。彼女は彼の好物を覚えてくれていて、チキンとペパロニにチリソースをかけた物だった。

「彼と今朝出会ったと言ったね。何処で?」
「この家の庭先。湖に降りるステップのところよ。」
「彼は裸だったろう? 君は顔見知りなら誰でも平気で家に入れるのか?」

 すると彼女ははっきりと言った。

「私が見つけた時、彼は人間の姿じゃなかったの!」
 

異郷の空 9

  まんじりともしない夜が過ぎた。シオドアはドアの外の音や通りの音に神経を尖らせたが、変わったことは起きなかった。翌日仕事に行くと眠たくて、ミスをしでかしそうになり、同僚に叱られた。

「ごめん、ちょっと1時間だけ休憩させてくれ。すぐに復活するから。」

と断って、店の近くの公園に行った。ベンチで寝転んで休んでいると、思わぬ邪魔が入った。
エルネスト・ゲイルが現れたのだ。

「黒豹が付近を彷徨いているって言うのに、そんな所で昼寝はいけないなぁ、テオ。」

 頭がぼんやりしていたので、シオドアは黒豹のせいで午前中の客が少なかったのか、と納得しただけで、彼がそこに来た理由まで考えが及ばなかった。
 エルネストは己のボディガードを車に待たせて、シオドアのベンチの端にお尻を載せた。

「探しに行かないのかい?」
「何を?」
「黒豹だよ。」

 エルネストはシオドアに顔を近づけた。丸顔だが、カルロ・ステファンと違って野性味が全くない。顎の下に肉が弛んで見えた。こいつ、シェイプアップすれば良いのに、とシオドアはどうでも良いことを思った。
 シオドアが返事をしないので、エルネストはちょっと躊躇ってから打ち明けた。

「面白い話を警察の電話を盗聴していて聞きつけたんだ。」

 エルネストの趣味は盗撮と盗聴だ。彼は異性には興味がない。基地にいる軍人達の訓練の様子や職務上の会話をこっそり覗くのが楽しいのだ。身近にいながら自分が参加出来ない世界に憧れている。近頃は基地の外の警察にまで手を広げていて、もしホープ将軍やヒッコリー大佐に知られれば大目玉を食う筈だ。普段のシオドアなら、彼の盗聴に関心がないのだが、この時は違った。友人が警察に追われているかも知れないのだ。

「どんな話?」

 エルネストがニヤリと笑った。シオドアが興味を示してくれたのが嬉しいのだ。

「巷じゃ警察が怪盗”コンドル”が現れるのを予想してメルカトル博物館を張っていたってことになっているが、あれは間違いなんだ。警察はあの博物館を全くノーマークで、もっと大きな州立博物館を見張っていた。それが、幸運にも、”コンドル”が自分でドジを踏んで警報装置を鳴らしたそうだ。」
「偶然だったのか・・・」
「それが不思議なことに、”コンドル”は警報装置の線を切っていた。それなのにベルが鳴ったんだ。」
「ベルが鳴ったから切ったんじゃないのか?」
「君はバカか? 何処の世界にそんな無駄なことをする泥棒がいるんだ? それに”コンドル”は逃げる時に二手に分かれたんだが、1人は路地に入る前に警察に銃を向けたんで、撃たれた。もう1人は行き止まりの路地に逃げ込んだ。警察が袋の鼠だと思って駆けつけたら、そこには誰もいなくて、服だけ残っていたそうだ。」
「服だけ?」
「そうだ。あの寒い夜に”コンドル”は素っ裸になって飛んで行ったんだよ。」

 シオドアはもう一度確認した。

「つまり、下着も靴も靴下も、全部置いて行った?」
「警察はそう言っていた。しかも、服には刃物で刺した破れ目があって血で汚れていた。」

 エルネストは知り得た情報を得意げに喋った。

「博物館の警報装置が鳴った部屋なんだけど、そこに血痕が残っていたらしいよ。服が残っていた路地の奥までその血痕は続いていた。しかも・・・」

 彼は声を低めた。

「射殺された方の”コンドル”は血がついた軍用ナイフを持っていたそうだ。」

 シオドアは体を起こした。パズルだ。物凄く簡単な筋書きのパズルだが、何故そうなったのかわからない。

「”コンドル”は2人で、メルカトル博物館に侵入したところで仲間割れをした、1人が相方をナイフで刺した、刺されたヤツが咄嗟に警報装置を作動させた、仲間割れをしたから一緒に逃げる筈がない、彼等は別々に逃げて、刺したヤツは警察に撃たれた。刺された方は・・・どうなったんだ?」

 彼とエルネストは互いの顔を見合った。目を見ても、会話は出来ない。

「どうして着衣一切合切捨てて行ったんだと思う?」

とエルネストが尋ねた。

「夜だし、上着だけ捨てれば多少は人の目を誤魔化せるだろう? 」
「捨てられた着衣なんかは、きちんと畳んであったのかい?」
「そこまでは知らない。」

 脱いだ物を畳む余裕などなかった筈だ。服や靴は逃げる経路にバラバラに落ちていたのではないのか。 シオドアは想像して身震いした。 カルロ・ステファンのナワルへの変身は逃げて行く過程で始まったのだ。生きたい、逃れたい、その一心で、あの”出来損ない”の”ヴェルデ・シエロ”は、一族が彼には出来ないと信じていた変身をやってのけたのだ。
 その時、エルネストがシオドアの心臓を掴むような恐ろしい予想を言葉に出した。

「消えた泥棒はセルバ人じゃないかな、テオ?」

シオドアはドキリとした。服の下に冷や汗がドッと出た感じだ。

「どうしてそう思うんだ?」

だってさ、とエルネストは彼の反応を観察するかの様に、じっと彼の顔を見た。

「アリアナも君のボディガードも、セルバ人が消えるのを目撃したって証言したんだぜ。うちの年寄り連中も将軍達も、彼等が薬でもやったんだろうと言っていたけど、僕は違う、アリアナもボディガードも本当のことを語っているんだ。」
「セルバ人は消えるってか?」
「君も消えたんだろ? 」
「記憶にないね。」

 シオドアはエルネストがさっさと立ち去れば良いのに、と思った。

「セルバ人には関わるなよ、エルネスト。俺の様に全てを失うことになりかねないぞ。」


異郷の空 8

  次の日、シュライプマイヤーは去った。シオドアがバイトから帰ると、彼の荷物も部屋からなくなっていた。殆ど口を利いたこともない同居人だったが、いなくなるとアパートの中がガランとして寂しい感じがした。隣の部屋の住人は、シオドア達がルームシェアしていたと思っていたので、顔を合わせた時に、新しい同居人を紹介しようかと言ってくれたが、丁重に断った。
 その2日後の夕方だった。シオドアがコンビニの日中勤務から帰宅して夕食の支度に取り掛かろうとした時、外が騒がしくなった。誰かがスピーカーでがなりたてている様だ。窓を開くと、初冬の冷たい夜風が入ってきた。通りをパトカーが低速で近づいて来るところだった。警察官がスピーカーで怒鳴っていた。

「黒豹が逃げ回っています。危険ですから家から出ないで下さい。黒豹が・・・」

 シオドアは窓を閉めた。黒豹だって? この付近に動物園はなかった筈だ。サーカスが来ていると言う話も聞いていない。誰か酔狂なヤツがペットを逃したか・・・。
 それ以上気にしないで、彼は冷凍のシチューを温めて夕食を取った。アパートの外はまだ騒がしかった。パトカーが何台も走り回り、湖の北岸に点滅するライトの群れが見えた。あの辺りはメルカトル博物館じゃないか?
 突然、シオドアは嫌な予感に襲われた。黒豹と博物館が結びつかないが、博物館とセルバ人の友人は結びついた。北岸の警察車両の群れは黒豹とは関係ないのではないか? 事件は2つ起きていて、美術品泥棒とペットの逃亡が同時進行しているのでは? ステファン大尉とカメル軍曹とやらは、最後の任務を無事にやり遂げたのだろうか。
 彼はテレビを点けた。既に博物館のそばでニュースキャスターが事件を報道している最中だった。

「・・・警察はメルカトル博物館に進入を試みた2人の泥棒を路地に追い込みました。泥棒達は銃器を所持していた模様で、包囲した警察と撃ち合いになり、1名が射殺された模様です。残りの1名は・・・」

 キャスターは横にいたスタッフとちょっと言葉を交わし、またカメラに向き直った。

「失礼しました。残り1名は逃亡した模様です。警察が付近の住宅街を捜索中です。視聴者の皆さん、危険ですから、家から出ないで、ドアと窓をしっかり閉めて下さい。もし不審な人物を見かけたら、すぐに警察か当番組にご連絡を・・・」

 シオドアはパソコンを立ち上げた。先日のウィルス騒動以来、彼のパソコンは研究所や政府・軍関係のウェブサイトにアクセス出来なくなっている。しかし、SNSはまだ自由だ。開くと早速新鮮な情報がゾロゾロ出てきた。

ーー警察が撃ち殺したのは怪盗”コンドル”らしいぜ。
ーーマジか?
ーーすごいじゃん!
ーーだが”コンドル”は2羽いたんだ。1羽逃したんだよ。
ーー何やってんだか・・・
ーーどんな面の鳥なんだ?
ーーまだわからない。
ーーさっき自動車の部品工場へ入って行ったヤツじゃね?
ーー警察に連絡したか?
ーー通報しろよ、バカ!
ーー誰だ、僕をバカ呼ばわりしたのは?
ーー逃げたのはコンドルか? 黒豹じゃないのか?
ーーコンドルと黒豹のペアの泥棒か?
ーー黒豹は別件じゃないの?

 シオドアは深呼吸した。慌てるな、と己に言い聞かせた。警察が射殺した泥棒がセルバ人と決まった訳じゃない。ステファン大尉が殺された筈がない。
 彼はテレビもパソコンも点けっぱなしで暫し呆然と座っていた。”ヴェルデ・シエロ”が失敗する筈がない。きっと警察もメルカトル博物館が狙われると見当つけて張っていたに違いない。”コンドル”は罠に飛び込んでしまったのだろう。ステファン大尉のことだから、きっと逃げ延びたのだ。気の毒に射殺されたのはカメル軍曹だろう。
 シオドアは自分に都合の良いことだけを考えようと努力した。そうでもしないことには、不安で叫び出しそうだ。カルロ・ステファンとはロホ程も気を許し合った仲と言えなかったが、生死を共にする体験を2度も持った間柄だ。素っ気ない態度を取るが実直な男だ。そして使い方がわからない能力を持て余して孤独に耐えている姿は、生まれた場所に戻っても気の置けない仲間を得られないシオドアに共感を与えるのだ。
 ふと思いついて、シオドアはセルバ大使館の電話番号を検索した。以前も調べたのだが、番号を登録した携帯電話はセルバ共和国で失っていた。
 時刻は午後8時を過ぎていた。大使は業務を終えてオフィスにいないだろうと思いつつ、電話を掛けた。呼び出しが5回鳴って、女性の声が聞こえた。

ーーセルバ共和国駐米大使館・・・

繋がった! シオドアは逸る心を抑えて名乗った。

「ハーストと申します。大使とお話がしたい。」

 多分、断られるだろう。ダメ元だったが、相手は「ご用件は?」と尋ねてきた。これは以前と同じパターンだ。彼は思い切って言った。

「”コンドル”についてお尋ねしたいことがあります。」

 女性は少しも慌てず、お待ちください、と言って保留音を流してきた。シオドアは緊張した。大使館は怪盗”コンドル”のニュースを知っている様子だ。2分待たされて、以前出会った男性の声が聞こえた。

ーーセルバ共和国駐米大使 フェルナンド・フアン・ミゲールです。
「シオドア・ハーストと申します。以前、呪いの笛の処分でお世話になりました。」

 相手は5秒程間を空けてから、ご用件は? と尋ねた。シオドアは現在進行形のメルカトル博物館の泥棒騒動を知っていますか、と質問で返した。大使は知らなかった。少なくとも、電話ではそんな印象だ。

ーーあの博物館に泥棒が入ったのですか?
「こちらのローカルテレビで報道されています。泥棒は2名、1名は警察に射殺されました。残る1名は逃亡中。」

 大使が沈黙した。何か言ってくれ、とシオドアは焦った。大統領警護隊の友人は関係ないのだと言って欲しかった。必死で頭をフル回転させ、彼は別の質問を思いついた。

「大使、カルロ・ステファンのナワルは何ですか?」

 電話の向こうで大使が息を呑む音が聞こえた。シオドアがナワルを知っていることに驚愕したのだ。大使が絞り出すような声で呟いた。

ーーありません。
「え?!」
ーー彼は白人の血を持っています。ナワルを使えない・・・
「しかし・・・」
ーー何か見たのですか?
「え?」
ーー誰かのナワルと思われるモノを、貴方は見たのですか?

 シオドアは深呼吸した。正直に答えた。

「俺は何も見ていません。しかし、現在こちらで警察が黒豹を探しています。」
ーー黒豹?
「黒い豹です。」

 シオドアはミゲール大使が「有り得ない」と呟くのを聞いた。シオドアがどう会話を進めたものか迷っていると、大使が言った。

ーー本国と話をする必要があります。切ってよろしいか?
「スィ・・・」

 電話を切る直前、大使は一言、こう言った。

ーー豹ではなく、ジャガーです。エル・ジャガー・ネグロ。


2021/07/07

異郷の空 7

  夕食はシュライプマイヤーと一緒に食べた。長い付き合いだが、守られる人と守る人が向かい合って食事をすることはない。その夜、シオドアはステーキ用の肉を買って、一緒に食べようとボディガードを誘った。

「今夜は出かけないし、明日は昼前に出勤だ。君もたまにはゆっくり飯を食ってテレビを見て寝れば良いよ。」

 ビールも買ってあった。彼は自分でキッチンに立って肉を焼き、付け合わせのポテトを冷凍庫から出して温めた。シュライプマイヤーは黙って彼が忙しく働くのを見ていた。シオドアは彼の好みの焼き具合を知っていたので、ミディアムに焼き上げ、塩胡椒で味付けして皿に載せた。ポテトに塩をふりかけ、2人はテーブルに向かい合わせに座った。

「エル・ティティでさ・・・」

とシオドアは肉を切りながら話し始めた。

「俺は警察官の家で世話になっていたんだ。警察署長の家だから、ちょっとは大きい家なんだ。そこに署長は1人で住んでいる。彼の妻子は伝染病に罹って亡くなっていてね、彼はひとりぼっちなんだ。だからバス事故で記憶を失った俺を引き取って、息子の様に大事に世話をしてくれた。俺も楽しかったんだ。自分が誰なのかわからない不安はあったけど、署長の家で暮らしていた時が、俺にとって最高に幸せな日々だった。
 だから俺は、もう一度あの町へ帰りたいんだ。ここにいても何も面白いことも楽しいこともない。俺を愛してくれる人も俺が愛する人もいないんだ。」

 シュライプマイヤーが溜め息をついた。

「貴方が母国を捨てて外国へ移住したいと仰っても、私は意見する資格はないし、権利もありません。しかし、これだけは言わせて下さい。セルバ共和国は貴方が思っている様な楽園ではありません。あの国には不可解なことが多過ぎます。」

 その不可解なことの正体がわかっているシオドアは、ボディガードの不安を取り除いてやれないことを残念に思った。事実を伝えたところで、シュライプマイヤーの心は安心出来ない筈だ。シオドアの身を案ずるのは勿論のこと、彼自身の安全も脅かされると思うだけだろう。

「不可解なことが多くても、俺は行きたいんだよ。」

 するとシュライプマイヤーはシオドアが忘れかけていたことを持ち出してきた。

「一緒に遺跡発掘現場へ行ったイタリア人の考古学者が亡くなったことはご存知ですか?」
「うん。階段から落ちたんだ。」
「彼は必要以上に”消えた村”にこだわっていました。セルバ共和国では住民の過去に関して外国人が興味を抱くのは良くないと、私は聞かされました。あのイタリア人は誰かを怒らせたのです。」
「リオッタ教授が殺害されたと思うのか?」

 それの真実を知っているシオドアは、ボディガードがあの事件を早く忘れてしまえば良いのにと願った。覚えているから苦しいのだ。恐ろしいのだ。忘れてしまえば、”ヴェルデ・シエロ”は何もしない。

「考え過ぎだよ、ケビン。セルバ人と同じ様に、悲しい出来事はさっさと忘れて仕舞えば良いんだ。」

 するとシュライプマイヤーはシオドアが触れて欲しくないことを言った。

「今日のお昼に、公園で貴方が話をしていた男は、セルバ人でしたね?」
「え?」
「顔をはっきり見た訳ではありません。服装も冬服で厚着をしていたので体型もわかりませんが、歩き方は軍人に見えました。遺跡発掘現場で貴方の護衛をした大統領警護隊の中尉でなかったですか?」
「違うよ。」

 シオドアは否定したが、中尉ではなく今は大尉だと訂正もしなかった。

「ベンチに座っても良いかと声を掛けたら、向こうがスペイン語を喋ったので、懐かしくなってちょっと世間話をしたんだ。プエルトリコ人だと言っていた。」

 シュライプマイヤーはシオドアをじっと見つめていたが、シオドアも頑張って見返した。先に目を逸らしたのはボディガードだった。

「私は明日研究所に辞表を出します。」

と彼は言った。シオドアは黙っていた。驚かなかった。シュライプマイヤーはシオドアの我が儘にずっと我慢を強いられてきた。そしてセルバ人の不可解な能力を見せつけられ、仕事に失敗した。挙句に精神カウンセリングまで受けさせられているのだ。今まで辞めなかった方が不思議なくらいだ。

「辞めて次の仕事の宛てはあるのかい?」
「田舎に帰って兄弟の会社を手伝います。共同経営者ではなく一従業員としてね。その方が気楽だし、護身術教室でも副業でやってみますよ。」
「君なら、きっと面倒見の良い先生になれるさ。」

 シュライプマイヤーはビールをごクリと飲んで、またシオドアを見た。

「正直なところ、私も研究所に雇われて貴方を見張っているのは嫌でした。護衛するだけでなく、貴方の行動を逐一報告させられました。連中は貴方やオズボーン博士やゲイル博士を人間ではなく実験動物の様に考えています。」
「知ってる。生まれた時からずっとそうだった。」

 シオドアは自嘲した。

「連中は俺達を優秀な頭脳を持つ人間を開発する目的で作った。だから俺達の優秀な頭脳は幼いながらも連中の意図がわかっていたんだ。子供の頃はそれに何の疑いも持たなかった。大人になって、外の世界を知って、今までずっと間違った世界に住んでいたことに気がついたんだ。」

 彼はシュライプマイヤーにビールの新しい瓶を渡した。

「君が職業柄口が固いことを承知の上で言うよ。研究所で見たり聞いたりした話は絶対に故郷で喋るなよ。連中はセルバ人じゃないが、君をリオッタみたいな目に遭わせることだって考えられ得るから。」

 するとシュライプマイヤーが初めて表情を和らげた。

「ハースト博士、貴方は事故に遭ってから、本当に良い人になられた。」


第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...