2021/07/20

聖夜 11

  ロペス審査官が大使館へ通じる扉の向こうに消えると、シオドアはリビングへ行った。アリアナがソファに座り、ケツァル少佐が南米のマテ茶を淹れていた。シオドアが入室したので、少佐が飲みますかと尋ね、彼は飲むと答えた。伝統的なストローを入れた容器を少佐は2人に配り、熱いので注意して飲む様にと言った。

「温いのを出すと、『あなたに会いたくない』と言う意味だそうです。」

と彼女が言った。シオドアはミルクや砂糖が欲しいなと思ったが、マテ茶の飲み方をよく知らないので黙っていた。するとアリアナが遠慮なしに砂糖を所望した。少佐が快く砂糖壺を出したので、彼も入れてもらった。

「セルバではマテ茶を飲んだことがないな。」
「カフェで注文したらあったわよ。」

とアリアナ。

「貴方はコーヒーしか飲まないからよ。」
「エル・ティティでもコーヒーしか飲まなかった。お茶はたまにハーブティが出ただけだ。」
「お茶は高価ですから。」

と少佐が2人の言い合いに割り込んだ。

「グラダ・シティは都会なので、アメリカとそんなに変わらない物が手に入ると思います。あなた方は1年間グラダ・シティで暮らすことになります。住む場所やお仕事は明日ロペス少佐から説明があるでしょう。」
「審査に通ったのか?」
「明日の朝になればわかります。」

 セルバ流に答えてから、少佐は付け足した。

「大丈夫、通ります。あなた方はセルバ国民を助けてくれましたから、政府は礼を尽くします。」
「向こうへ行ったら、あなた方と頻繁に会えるのでしょうか?」

とアリアナが質問した。シオドアはドキリとした。彼女はまだ黒い猫に未練があるのだ。少佐は微笑みを返した。

「遺跡発掘のシーズンは忙しくなりますが、監視や護衛の仕事がなければ、オフィスにいます。」
「またマハルダとお話ししたいわ。」

 多分それは口実だ、とシオドアは思ったが黙っていた。アリアナがカップを手にしたまま立ち上がった。

「面接で疲れたので、今夜はもう休みます。お茶をそのまま寝室へ持って行って良いですか?」
「どうぞ。ゆっくりお休み下さい。」
「有り難う・・・グラシャス。」

 アリアナは微笑みを浮かべて挨拶するとリビングから出て行った。
 シオドアは溜め息をついた。

「彼女は審査官にステファンが捕まった時のことを訊かれなかったそうだ。」
「それが何か?」
「彼女は彼に心を奪われている。彼が彼女の初めての男じゃないことぐらい俺は知っている。俺も彼女と経験があるから。だが、今回の彼女の彼への執着はいつもと違う。真剣になってしまっている。それが心配なんだ。」
「何故?」

 シオドアは躊躇った。ケツァル少佐とステファン大尉は上官と部下の間柄だ。しかし昨夜の食事風景で2人はまるで恋人同士に見えた。アリアナには姉弟みたいだと言ったが、シオドアは少佐と大尉の間に他人が入り込めない繋がりが有る様に思えた。
 少佐がもう一度尋ねた。

「ドクトラ・オスボーネがカルロを好きになって何か支障でも有るのですか?」

 シオドアは思い切って言った。

「ステファンは君のことが好きだろう?」

 少佐がちょっと黙ってストローでお茶を一口飲んだ。そして肩をすくめた。

「まぁ、嫌いだったら、こんな我儘な上官の後をついて来ないでしょうけど。」
「そうじゃなくて・・・」

 もどかしかった。

「ステファンは君を愛している。俺は側で見ていてわかるんだ。だが彼は自身を”出来損ない”と卑下して、君とは釣り合わないと思っているんだ。彼は君しか見ていない。だから、アリアナが彼を振り向かせようとどんなに努力しても無駄なんだ。俺はアリアナが絶望した時、どう慰めて良いのかきっとわからなくなる。」

 ああ、成る程、と少佐は呟いた。

「ドクトラ・オスボーネにはもっとお友達が必要ですね。しかし、こんなことを言うと、貴方は怒るかも知れませんが・・・」
「何?」

 彼女はズバリと言った。

「カルロがエル・ジャガー・ネグロなら、複数の妻を持てます。」

 シオドアは数秒間思考が停止した。彼女の言葉の意味はわかった。わかるが、それが解決策になるとは思えなかった。アリアナがステファンの複数の妻の一人になる? ってか・・・

「セルバ共和国はカトリック教国だったよな?」
「スィ。」
「ステファンはカトリックじゃなかったか?」
「セルバ国民は建前上カトリックです。」
「妻は一人だろう?」
「夫も一人です。」

 建前上、と少佐は追加した。シオドアはちょっと胸がドキドキした。

「”ヴェルデ・シエロ”は一夫多妻なのか?」
「違います。」

 少佐は少し考えて、どう説明しようかと迷った様子だった。

「例えばですね・・・貴方と私が夫婦とします。」

 嬉しい例えだが、何か裏がありそうで、シオドアはまたドキドキした。少佐が続けた。

「カルロとロペスとファルコが来て私に求愛するとします。私はカルロとファルコを選んでロペスを断ります。」
「はぁ? 君は俺の妻だろう?」
「でも私はカルロが欲しいし、ファルコも欲しい。だから受け入れます。」
「ロペスは嫌いか?」

 そんな質問をしている場合ではないのだが・・・。 少佐が笑った。

「例え話ですよ。私は子供を産みます。父親が誰かは問題ではありませんが、取り敢えずファルコの子供と言うことにしましょう。でも私の夫は貴方です。だから貴方が私の子供を我が子として育てます。」
「それって・・・夫の立場で言わせて貰えば、損した気分・・・俺は他人の子を育てるんだろ? そしてファルコは自分の子を他人に取られるんだ。」
「でも、貴方はよその夫婦の妻に求愛出来ますよ。貴方はそっちの夫婦に貴方の子供を養育させるのです。」

 混乱しそうだ。それがカルロ・ステファンがアリアナを受け入れる理由になるのか?
 さらにもう一つ疑問があった。

「ステファンがエル・ジャガー・ネグロだったら、どうして複数の妻を持てるんだ?」
「エル・ジャガー・ネグロ、つまりグラダ族の男である証拠です。先刻私が話した婚姻形態は、グラダ族特有のものなのです。」
「え?」

 シオドアは目をパチクリさせた。グラダ族のことを今朝ミゲール大使からレクチャーされたばかりだ。”ヴェルデ・シエロ”の能力を全て持って生まれたオールマイティの部族。だが彼等は近親婚を繰り返して子供が生まれなくなり、古代に滅亡してしまった。今は他部族の中に混血して細々とその遺伝子が受け継がれているだけだと、大使は言った。

「少佐、君は純血種のグラダ族だと大使は言った。」
「スィ。」
「自覚があるのか?」
「ママコナからそう教わりました。長老達もそう言って私を教育しました。」
「ステファンは白人の血が入っている。」
「彼の母親の母親が白人と”ヴェルデ・ティエラ”のメスティーソです。」
「お祖父さんは?」
「遠い祖先にグラダがいるブーカ族です。」
「それじゃ、ステファン自身の父親は?」

 少佐が首を傾げた。

「カルロは覚えていないのです。彼が2歳の時に亡くなったそうです。」

 では黒いジャガーのナワルは、その正体不明の父親から受け継いだのだ。シオドアは遺伝子分析装置が欲しい、と思ってしまった。


聖夜 10

  セルバ共和国駐米大使私邸で開かれた私的な晩餐会は、とても和やかで平和的なものだった。シオドアは大使とロペス移民審査官とスポーツの話を楽しんだ。ロペスはサッカー好きの中米人にしては珍しくバスケットボールが好きで、NBAの試合の話題ではシオドアも彼と贔屓のチームや選手など共通の話題を語り合えた。大使もセルバ人で唯一人選手として活躍している若者を応援しているのだと話に参加した。
 アリアナはケツァル少佐とファッションの話をした。ミゲール大使の妻はヨーロッパで活躍する宝飾デザイナーだったので、食事が終わると少佐が彼女をリビングへ連れて行き、飾られている石やカタログを見せた。綺麗な輝きを見せる宝石にアリアナは魅了された。研究所の女性達とこんな話をしたことがなかった。せいぜい服やお菓子の話題ばかりだった。

「セルバではどんな宝石が採れるのですか?」
「主にクウォーツ系です。オパールやアメジストが多いです。レインボーガーネットが採れたら儲けものですが、まだ発見されていません。」
「メキシコの幻の宝石ですね!」
「それから生物系の真珠やコーラルもあります。」

 少佐は可笑しそうに言った。

「どうして母はコーヒー農園主と結婚したのでしょう。鉱山主と結婚すればもっと材料がたくさん手に入ったのに。」
「コーヒーがお好きなんじゃないですか?」

 アリアナはガラスケースに入っている宝石で作られたコーヒーの木を見た。小さな物だが、綺麗で可愛らしかった。どれほどの価値があるのか見当がつかない。ミゲール夫人(スペイン人は夫婦別姓だが、大使の妻は偶然夫と同じ姓だった)が夫の誕生日プレゼントに贈ったものだと言う。

「貴女はどの宝石がお好きですか?」

と少佐に質問してみると、意外にも少佐は首を振った。

「私は宝石は好きでないのです。子供の頃は工房に近づくことさえ許されませんでした。母は私が石をキャンデーと間違えて飲み込むのを恐れたのです。」
「わかります。」

 アリアナは思わず微笑んだ。ケツァル少佐の食欲を思い出したのだ。少佐が肩をすくめた。

「私は母が忙しくて遊んでくれないのは宝石のせいだと決めつけて、石が嫌いになったのです。大人になった現在は、宝石を見ると遺跡に飾られている仮面や壁画を連想します。休日に仕事を思い出させる物は嫌ですね。」
「私も、コイルやバネを見るとDNAの螺旋構造を思い出してしまいます。」

 2人は顔を見合わせて笑った。
 リビングのドアをノックして、ロペス移民審査官が顔を出した。

「私はお暇する。明日は午前10時に博士達を大使館へ寄越して欲しい。」

とケツァル少佐に言った。少佐が頷いた。

「承知しました。私のパスポートも明日の午前中に出来上がる筈です。一緒にセルバ行きの航空機に乗りましょう。」
「わかった。おやすみ。」

 審査官は少佐とアリアナに会釈して姿を消した。彼が体の向きを変えた時に、胸の緑の鳥の徽章がキラリと光ったので、アリアナは少佐に尋ねた。

「あの人も大統領警護隊なのですか?」
「スィ。事務方です。私の文化保護担当部も事務方ですが、現場で活動することが多いので、戦闘訓練は欠かせません。ロペス少佐はそんな必要がない職場なので、恐らくこの数年はライフルを撃ったことがないでしょうね。」

 


2021/07/19

聖夜 9

  航空機は何度乗っても好きになれない、とカルロ・ステファン大尉は思った。空港迄送ってくれた大使館の書記官は、彼と入れ違いにアメリカに入国する移民審査官を拾って帰ると言っていた。ステファンは一人で飛行機に乗った。ケツァル少佐は今朝迄彼と一緒に帰国するつもりでいたらしいが、パスポートを持って来るのを忘れたことに気がついて、早朝から大騒ぎした。大使館で再発行してもらう迄、カメル軍曹の遺体引き取りを依頼したファルコ少佐の手伝いをすると言って彼女は出かけてしまい、結局彼は一人で帰国したのだ。
 入国審査は直ぐに済んだ。パスポートと共に大使館に預けていた緑の鳥の徽章を係にチラリと見せると、殆どフリーパスで通された。元々荷物らしい物を持っていなかったので、税関も簡単に通った。
 ロビーに出ると、迎えがいた。大統領警護隊の見事なオーラを放ったトーコ副司令官だった。ブーカ族とマスケゴ族のハーフで純血種に違いないのだが、複数部族の血が混ざっているので単独部族の純血を重んじる所謂純血至上主義者と仲が悪い人だ。訓練をサボったり規律を守らなかったりする若い隊員達に大変厳しいが、真面目に軍務に励む者には優しい面も見せる。ステファンは私服であることを後悔した。大使館では目立たない様にと私服着用を命じられたが、母国に帰って来たら、やっぱり軍服を着用したかった。持っていないのだから仕方がなかったが、きちんと軍服で決めている上官に対して失礼だと自身を責めた。
 ステファン大尉は副司令官の前に立って敬礼した。

「大統領警護隊文化保護担当部、カルロ・ステファン只今任務終了にて帰還致しました。」
「ご苦労。」

 副司令官が敬礼を返してくれた。
 距離をおいた場所を歩いて行く観光客が囁きあっているのが聞こえた。軍人だ、かっこいい! セルバの兵隊ってクールだね・・・等々。
 トーコ副司令官はそんな雑音を聞こえないふりをして、来いと合図した。ステファンは大人しくついて行った。実を言えば、迎えが来るなど予想だにしていなかったのだ。自分でタクシーでも拾って大統領警護隊本部へ帰国報告へ行くつもりだった。どうして副司令官が俺の出迎えにお越し下さったのだ? もしかして、これは任務完了出来なかったことのお咎めか? 
 防弾ガラス仕様の大統領警護隊公用車がVIP用出口に停まっていた。普通の隊員が乗るジープや軍用トラックとは違う。どうなっている? ステファンは戸惑った。副司令官が公用車の後部席に乗り込み、彼にも乗れと手を振ったので、ますます混乱しそうになった。せめて”心話”で事情を説明してくれれば良いのに、と思いつつ、彼は上官の隣に座った。
 公用車が走り出した。トーコ副司令官が、窓の外を眺めるふりをしながら話しかけて来た。

「ナワルを使ったそうだな。」

 ステファンはドキリとした。彼は”出来損ない”の隊員で、”心話”しか使えない落ちこぼれだと言うのが、警護隊での常識だったのだ。

「生き延びたい一心で無意識に使ってしまった様です。許可なく変身しました。申し訳ありませんでした。」
「許可なく、か・・・」

 トーコがフッと笑った。

「誰もお前が変身出来るとは想像すらしなかったのだ。許可など要らぬ。」

 彼はやっとステファンを振り返った。

「お前が入隊した時、ケツァルがお前を指してグラダがいると言った。しかし誰も本気にしなかった。だが・・・」

 トーコ副司令官は視線を前に向けた。

「グラダはグラダを見分けたのだ。気づくべきであった。」
「私の母は、遠い祖先にグラダを持っています。しかし、グラダと呼ばれる濃い血は持っていません。」
「本当にそう思っているのか?」

 再びトーコはステファンを見た。

「お前の父親は何者だ?」
「私の父?」

 ステファンは遠い記憶を探ろうとした。彼には2歳年下の妹がいる。その妹が生まれるか生まれないかの内に死んでしまった父を、彼は覚えていなかった。記憶に微かに残っているのは大きな力強い男のぼんやりとした陰だった。
 彼の目を見ていたトーコががっかりした表情になった。

「父親を亡くした時、お前はほとんど赤ん坊だったのだな。」
「母は父のことを何も教えてくれません。尋ねるといつも泣くばかりで話にならないのです。近所の人の話では鉱山で働いていて落盤事故で亡くなったと言うことです。」

 トーコが一瞬緊張した、とステファンは感じた。車内の空気がビーンと張り詰めた感触がした。運転手の隊員もびっくりした様だ。運転席と後部席の間にはシールドがあって会話は聞こえない筈だ。運転手はトーコの気に驚いたのだ。トーコが固い表情で尋ねた。

「鉱山と言ったか?」
「スィ。」
「オルガ・グランデか?」
「スィ。」

 トーコが深く息をした。彼は前を向いた。心の中で呟いた。

 お前の父が誰だかわかったぞ。


聖夜 8

 シオドアとアリアナが応接室でくたびれてぼんやりしていると、フナイ理事官が来て、審査終了を告げた。

「今日は遅くなりましたので、大使私邸へお戻り下さい。ご案内します。」

 2人は大使館と私邸を繋ぐ扉まで案内された。扉を閉じる時に理事官が微笑みを浮かべて言った。

「きっと明日の夕刻にはセルバへ到着出来ますよ。」

 扉が閉じられると、アリアナが全身の力を抜いてふらついた。シオドアは彼女を支え、2階へ上がるとメイドに告げた。メイドが何か温かい飲み物をお持ちしましょうと言ってくれた。彼女はメスティーソで、”ヴェルデ・シエロ”なのか”ヴェルデ・ティエラ”なのか、シオドアにはわからなかった。もしかすると普通のヒスパニックの使用人かも知れない。
 審査官は小部屋で報告書を手早くまとめたが、手の震えがなかなか止められなかった。興奮を感じていた。報告書を送信すると、彼は荷物をまとめ、大使の執務室へ行った。
 執務室には彼の同僚が2人いた。大使館の武官エドガルド・ファルコ少佐と文化保護担当部のシータ・ケツァル少佐だ。審査官はシーロ・ロペス少佐、つまり大使執務室には大統領警護隊の少佐が3人も揃った訳だ。ロペスが入室した時、ファルコ少佐が警察の遺体安置所からカメル軍曹の遺体を無事回収した報告を行っていた。

「棺に入れて、明日ケツァルが付き添って帰国する予定です。これでカメル軍曹もカメルの家族も安心出来るでしょう。」

とファルコ少佐は真面目な顔で報告した。彼は前の晩にケツァル少佐からカメル軍曹の遺体回収の相談を持ちかけられ、この日の朝2人で出かけたのだ。家族が遺体を引き取ると言う簡単な”操心”で安置所からカメル軍曹を運び出し、用意したレンタカーで戻って来た。防犯カメラに映ったのは殆ど後ろ姿かフードを被った人物だけだ。少佐級の2人の共同作業だったので、物事はスムーズに運んだ。

「余計な仕事をさせて申し訳なかった。今日は報告書を提出したらそのまま帰ってよろしい。」

 大使の言葉に武官は敬礼した。そして初めて審査官に気がついたふりをした。

「おや、ロペス、遥々本国から出張か?」

 敬礼で挨拶を交わしてから、ロペス少佐は「珍しい事案があってね」と言った。そして大使に向き直った。

「テオドール・アルスト及びアリアナ・オスボーネの亡命申請に関する面接審査を終了しました。」
「ご苦労。」
「本国からの返答は、問題がなければ、今夜の内に連絡が来るでしょう。」
「問題とは?」

 ロペス少佐審査官はケツァル少佐をチラリと見てから大使に言った。

「大統領警護隊文化保護担当部のカルロ・ステファン大尉がナワルを使った件です。」

 部屋を出ようとしたファルコ少佐が足を止めた。ドアノブにかけた手を引っ込め、ロペスを見た。

「ステファンがナワルを使った?」

 あの”出来損ない”が? と言う響きを聞き取ったケツァル少佐が、何か問題でもあるのかと抗議を込めて言った。

「スィ、彼は使えますよ。」
「使ったどころか・・・」

 ロペス少佐は強ばった表情で大使を見つめた。

「アリアナ・オスボーネが目撃してしまった。しかも、普通のジャガーではない。エル・ジャガー・ネグロです!」

 ファルコ少佐が驚愕して一同を見た。大使が両手を机の上で組んだ。

「私は本国にそう報告した筈だがね、ロペス少佐。」
 
 たじろぐロペス少佐に、ケツァル少佐が微笑みかけた。

「本気にしなかったのですね、本部の連中は?」

 ファルコ少佐が彼女を見た。

「そう言えば、君は新入隊の若者達を見た時、私に『グラダがいる』と言ったな・・・」
「覚えていたのですか? エドガルド、貴方はあの時笑ったでしょう。」
「グラダの血を引く者は多い。殆どはブーカ族かサスコシ族だ。だがグラダを名乗れる様な濃い血統の人間は存在しない筈だ。」 
「では、私は何なのでしょう?」
 
 ケツァル少佐に問われて、2人の男性少佐は黙り込んだ。大使が少佐達のお喋りに終止符を打つために、ロペス少佐に声をかけた。

「ドクトラ・オスボーネがステファンのナワルについて口外することはないだろう。彼女はセルバ人の能力を初めて目撃した折に、他人に喋って精神障害を疑われた。2人の博士の亡命に本国は拒否する理由を持たないと思うが。」

 ロペス審査官は大使の言葉に、彼が渡米してきた本来の役目を思い出した。

「本国から亡命の許可が下り次第、彼等の渡航手続きを開始します。アメリカ側の妨害が入るとウザいので、明日可能な限り早い便で彼等を連れて帰ります。」
「我が国の国民を救ってくれた恩人達だ。丁重に頼むぞ。」

審査官は軽く頭を下げて、承ったと表現した。

「今夜は大使館で休ませていただきます。」
「部屋を用意させよう。食事はうちに来ると良い。」
「グラシャス。」

 ケツァル少佐が武官を見た。

「貴方も来る?」

 ファルコ少佐は首を振った。

「ノ、私は報告書を書いたら自宅に帰る。では、また明日。」

 彼は大使に挨拶をして、ロペス審査官とケツァル少佐には敬礼をして出て行った。ロペスが呟いた。

「相変わらず固い男だ。」
「奥方に忠誠を誓っているだけです。」

 ケツァル少佐も大使に向き直った。

「報告書を書いたら帰宅します。」
「早く行きなさい。」

と大使。

「君達がいると、参事官や書記官が怖がって部屋に入って来ない。」



2021/07/18

聖夜 7

  ミゲール・セルバ共和国特命全権大使は大使館業務が始まると、公使、参事官、武官、書記官、理事官を執務室に集め、1日の業務の打ち合わせを行った。そしてシオドア・ハーストとアリアナ・オズボーンを紹介して、2人の亡命申請を告げた。アメリカからセルバへの亡命申請は初めてのことなので、外交官達に戸惑いの表情が浮かんだのは無理もないことだった。
 シオドアは外交官達の顔ぶれをそれとなく観察した。純血種のセルバ人である武官は間違いなく”ヴェルデ・シエロ”だ。残りの外交官達はメスティーソだが、完全な”ヴェルデ・ティエラ”である筈がない、と彼は思った。その証拠に公使と参事官は、例の麻酔作用を含むタバコの匂いを微かに漂わせていた。書記官も理事官も時々大使と目を合わせる。それぞれが質疑応答を”心話”で行っているのだ。”心話”は嘘をつけない。そして大量の情報を1秒足らずでやり取り出来る。共有情報確認が目と目で一瞬にして行われていた。ほんの数分でセルバ共和国大使館の外交官達はシオドアとアリアナが置かれている立場を理解した。
 リギア・フナイと言う名の女性理事官がシオドアとアリアナを大使館の中の部屋に案内した。応接室の様な場所でソファとテーブルと飾り棚、テレビが置かれていた。

「本国から連絡がある迄、こちらで待機していただくことになります。お手洗い以外は部屋から出ないようお願いします。お昼のお食事は出しますが、飲み物は内線09で頼んで下さい。」

 真面目な顔をして流暢な英語で話した理事官は、そこで声を小さくした。

「もし夜になっても本国がぐずぐずしている様でしたら、大使私邸へお戻りになって結構です。あちらの方が快適ですから。」

 そしてウィンクして出て行った。
 待機は退屈だった。せめて大使館の業務を見学出来れば面白いのだが、訪問客と顔を合わせる訳にいかないので、2人でテレビで映画を見て午前中を過ごした。お昼ご飯はスパイシーなトマトソースのスパゲッティで、アリアナが食べ物だけならいつでもセルバに引っ越しても大丈夫だと冗談を言った。

「昨夜のお魚のソースも、大使と同じ辛いソースでも良かったと思うの。少佐が気を利かせて甘口に替えてくれたけど・・・」
「そうかい? あの辛いソースはもしかするとハバネロかも知れないぞ。」
「ハバネロは肉料理に合うのよ。魚にはあまり使わないわ。」

 無駄口を叩くのは、恐らくステファン大尉が帰国してしまう寂しさを紛らわせているのだろう、とシオドアは思った。大尉は朝食の後、シオドアとアリアナに別れの挨拶をさらりと告げて少佐と共に大使の書斎に去ってしまい、それきり姿を見せなかった。アリアナの為に、彼等は書斎で何をしているのかとシオドアが尋ねたら、大使は大統領警護隊本部へ提出する報告書を作成中だと答えた。
 そして、シオドアだけに聞こえる声で大使は囁いた。

「カルロに暗殺者から身を守る教授もしている筈です。」

 母国に帰っても、あの若い大尉には敵がいるのだ。もしかすると遺伝子学者よりも質の悪い純血至上主義者達が。
 午後になってフナイ理事官が本国から来たと言う移民審査官を伴って部屋に来た。審査官は平服だったが、左の胸に緑色の鳥の徽章を付けていた。大統領警護隊の隊員だ。シオドアはセルバ共和国政府が選挙で選ばれた大統領や議員以外はほぼ”ヴェルデ・シエロ”で占められているのだろうと想像した。
 面接は一人ずつ、小部屋で行われた。シオドアは大統領警護隊文化保護担当部と知り合った経緯を訊かれた。エル・ティティのバス事故で記憶喪失に掛かってから、ケツァル少佐と出会い、オルガ・グランデのアンゲルス邸で悪霊祓いをしたこと迄をかいつまんで話すと、審査官は持参したタブレットで書類を見ながら一々頷いていた。シオドアは審査官が見ている書類が彼の行動を逐一記録したものだと気がついた。これは文化保護担当部が提出した報告書からシオドアに関する記述を抜粋したものなのか、それとも警護隊が独自に調査したものなのか、シオドアは戸惑った。少佐がどこまで本当のことを報告書に挙げたのかわからない。もし彼女が彼を庇って虚偽を書いたとしたら、シオドアの面接の答え方行かんで彼女を窮地に追い込むかも知れない。反対に警護隊独自の調査結果が書類に載せられているのであれば、”ヴェルデ・シエロ”はセルバ共和国にいた頃のシオドアを常に監視していたことになる。気分の良いものではなかった。
 悪霊祓いの後でダブスン博士に連れられてアメリカに帰国した後の行動は、審査官からの質問で確認を取られた。記憶喪失が治らない内にセルバに再入国した理由、オクタカス遺跡での”風の刃の審判”事故、反政府ゲリラによる誘拐事件。シオドアはアスルによって過去の村へ送られたことが報告書に入っていないことを知った。アスルが彼を隠す為に時空を飛んで過去へ行ったことは、一族に秘密になっているのだ、きっと。最後は怪盗”コンドル”事件から前日の夜に大使館へ亡命する為に逃げ込む迄の経緯だった。シオドアはステファンとカメルがセルバ共和国政府の命令で美術品回収をしていた事実を知っていたとは言わなかった。公園でステファンと再会して彼がアメリカに来ていたことを知り、テレビで泥棒騒ぎと黒豹出没を知った直後にアリアナから救援要請を受けて彼女の家に行ったこと、そこで負傷したステファンに会ったこと、大使館に相談したらケツァル少佐が応援に来てくれたこと、遺伝病理学研究所がステファンを超能力者と知って攫ったので、少佐とアリアナと力を合わせて彼を救出したことを語った。語り終わると夕方になっていた。
 セルバ人にとって大切なシエスタの時間を潰してしまったが、審査官はシオドアが「以上です」と締め括ると、暫くタブレットの中に何かを入力していた。超能力者もインターネットを使って通信するんだな、とシオドアは疲れた頭でぼんやり思った。
 審査官がオズボーン博士と交替しなさいと言ったので、応接室にいたアリアナと交替した。すれ違う時に、彼は彼女にありのままを言えとアドバイスした。

「彼等は全部知っている様だ。下手に嘘をつくと亡命させてくれない。」

 アリアナは不安気な表情で小部屋に入っていった。彼女はセルバ共和国に短時間しか滞在しなかった。シオドアが行方不明になったので探しに行き、手がかりを求めてケツァル少佐に面会したこと、少佐が護衛に付けてくれたデネロス少尉がシオドアの遺伝子分析資料をホテルで焼いてしまい、彼女とボディガードの目の前で姿を消したことを語ると、審査官が質問を入れた。

「何故デネロスはアルスト博士の資料を焼いたのです?」
「わかりません。」

と答えてから、アリアナは真っ当な答えを自ら引き出した。

「あれはセルバ人の遺伝子の分析結果の資料でした。シオドア・ハーストは自身の研究が母国の軍事目的に使われるのを恐れていましたから、きっとケツァル少佐を通してデネロス少尉に資料の破棄を要請したのでしょう。」
「だが、貴女はケツァル少佐からそれを預かったのでしょう? 何故少佐は自分でそれを処分しなかったのです?」
「その時少佐はその資料がどれだけの意味を持つものかご存知なかったのです。遺伝子マップを見ても古代文字の解読より難しいと仰いました。ですから私が持っている方が、グラダ大学の研究室に放置したままにするより安全だと考えられた様です。私が資料をホテルに持ち帰った後で、シオドアが少佐に資料の破棄を頼んだのだと思います。」

 審査官は暫くタブレットを眺めていた。ホテルでのデネロス少尉消失騒動は報告がなかった。彼はアリアナに言った。

「目の前で女性が消えて、さぞかし驚かれたことでしょう。」
「それはもう・・・」

 アリアナはその後彼女とボディガードがどんなに訴えても誰も本気で聞いてくれなかった悔しさを審査官に延々と語った。アメリカに帰国後、ボディガードが精神カウンセラーにかかったこともぶちまけた。
 次に審査官は彼女がステファン大尉を救助した話を語る様にと言った。アリアナは緊張した。何もかも話せと言うのか。あの夜のことも?
 彼女は庭先で黒い大きな猫を見つけた話を語った。タブレットに入力していた審査官の手が止まった。彼が顔を上げてアリアナの目を見た。

「本当に、黒い猫だったのですか?」
「猫ではなく、ジャガーだと後でシオドアに教えられました。」
「黒かったのですね?」
「ええ、テレビでも黒豹だと言っていました。私が見つけた動物も真っ黒で、それは本当に・・・綺麗でした。」
「真っ黒なジャガー・・・ですか・・・」

 審査官はタブレットに打ち込んだが、その指が微かに震えていた。

ーー彼女はエル・ジャガー・ネグロを見たと語った。

 審査官はまた顔を上げた。

「その黒いジャガーはどうなりました?」
「男の人になりました。後で、シオドアが彼の名前はカルロ・ステファンだと教えてくれました。」

 審査官はタブレットに打ち込んだ。

ーー彼女の目の前でエル・ジャガー・ネグロはナワルを解き、カルロ・ステファンになった。

 彼はタブレットを閉じた。 そしてアリアナに言った。

「面接を終了します。グラシャス、お疲れ様でした。」



聖夜 6

  グラダ族についてもっと詳細を聞きたかったが、書斎のドアをノックする者がいた。

「パパ?」

 少佐の声が呼んだ。ミゲール大使はシオドアに微笑で「終わり」と告げて、ドアに向かって言った。

「お入り。」

 ケツァル少佐が入ってきた。ふわりとした白いセーターとジーンズのラフな姿だった。シオドアを無視して真っ直ぐ大使の前へ行き、おはようと挨拶のキスをした。それからシオドアに向き直り、おはようございますと挨拶した。男達に何の話をしていたのかと訊いたりしない。彼女は大使の前で真っ直ぐ立った。

「昨夜航空券の手配をしたので、今日の昼過ぎの便でグラダ・シティに帰ります。」
「もう少しゆっくりしていけとも言えないのだろうね。」

と父親が寂しそうに言った。少佐は肩をすくめた。

「直にクリスマスでしょう。ママの帰国に合わせて私も休暇を取ります。」

 飽くまで”少佐流”で話す少佐。クリスマスか、とシオドアは呟いた。

「俺もゴンザレス署長と一緒に過ごせるかな・・・」
「無理でしょう。」

と少佐が遠慮なく言った。

「亡命者は最低でも一年はグラダ・シティの所定の場所から移動出来ません。警察署長をエル・ティティからグラダ・シティに呼ぶとよろしい。」

 それは良いアイデアに聞こえる。しかし・・・

「来てくれるかなぁ・・・都会は苦手だと言っていたし・・・」
「休暇の間だけでも来てもらうことです。さもないと一年会えませんよ。」

 それから少佐は大使に向き直った。

「本題に戻ります。」
「本題?」
「私はパスポートを持たずにアメリカに入国しました。出国に必要ですので、再発行願います。」

 ミゲール大使が笑い出した。シオドアも苦笑するしかなかった。アリアナにパスポートを持って来いと言った本人が、本国に自分のパスポートを忘れて来ていたのだ。

「”通路”にパスポートは必要ないもんな、少佐。」
「カルロ一人だけを連れて帰るつもりだったのです。2人だけなら、あの”通路”でセルバまで帰れました。」
「俺達がお荷物だったんだな?」
「貴方が私を迎えに来ずに、カルロを連れて来てくれていれば、あの騒動はなかったし、早くことが済んだ筈です。」
「俺の判断ミスが原因なのか?」
「違いますか?」
「お止し、シータ。」

 大使に割り込まれて、少佐は黙った。大使は業務時間になればパスポートの再発行手続きをすると言って、彼女を宥めた。

「朝ご飯だから、カルロとオズボーン博士を起こしてあげなさい。」

 少佐が書斎から出ていった。ドアが閉まると、また大使が笑い出した。

「申し訳ない。失敗を指摘されて、彼女はバツが悪かったのです。貴方に八つ当たりさせてしまった。」
「俺の判断ミスがあったのは事実です。」
「過ぎたことです。それに貴方は移住したかったセルバへ行くチャンスを掴めたではありませんか。」
「そう仰っていただけると有り難いです。」
「では、朝食としましょう。私は着替えてきます。先に食堂へ行って始めて下さい。」

 シオドアは礼を言って、書斎から食堂へ行った。女性達はまだ来ていなかったが、ステファン大尉が昨夜選んだ服とは別の暖かそうなセーターとジーンズ姿で窓のそばに立っていた。多分少佐に見繕ってもらったのだ。髭もパスポートの写真に合わせて再び綺麗に剃っていた。朝の挨拶を交わし、シオドアも窓の前に立った。外は明るくなり、庭が雪で真っ白になっているのが見えた。

「雪ですね。」

と大尉がちょっぴり嬉しそうな響きを声に滲ませた。南国生まれなので、初めて本物を見た様だ。これで喜ぶなんて、可愛いじゃないか、とシオドアは思った。

「この程度じゃ日が昇ったらすぐに融けてしまうよ。航空機には影響がないから、君は今日中に帰国出来る筈だ。」

 大尉が少し恥ずかしそうに目線を下へ向けた。

「すっかりお世話になってしまいました。有り難うございます。」
「俺は何も出来なかった。君を助けたのはアリアナと少佐だ。」
「貴方は研究所で私を守り続けてくれました。特にあの変な男から・・・」
「エルネストのことは早く忘れてしまえ。俺もアリアナも彼のことは早く忘れたいんだ。」

 シオドアはエルネスト・ゲイルは今何をしているだろうと思った。破壊されたデータの復旧に取り組んでいるのだろうか。ワイズマン所長はどうなったのか。少佐に心を操られデータを破壊してしまったあの男は、無事では済むまい。そしてホープ将軍は、1時間足を動かさず声を出さずに立っていられただろうか。
 アリアナが入って来た。シンプルなワンピース姿だ。彼女に続いてケツァル少佐も入って来た。ステファン大尉がアリアナに朝の挨拶をするのを横目で見て、シオドアの向かいに座った。最後にミゲール大使が服装を整えて現れた。客がいなければ、業務開始直前までラフな格好でいられたのだろう。
 朝ご飯はセルバ風に ガジョピント(豆ご飯)、卵料理、サルサ(野菜サラダ)果物だった。シオドアとステファン大尉にとっては久しぶりのセルバ料理だったので、喜んで食べた。アリアナはちょっと用心深く一口目を食べたが、好みの味だったのか、すぐにスプーンをせっせと動かした。
 大使が、食べながらで良いから、とその後の予定を話した。シオドアとアリアナはこのまま大使の私邸に留まる。大使は本国に2人から亡命申請が出されたことを伝える。恐らく本国から移民手続きの指示が来るので、2人は面接を受けることになる。それから本国が亡命許可を出す迄大使館に留め置かれる。許可が出れば、その日の内に空港へ移動し、航空機でセルバ共和国へ向かう。大使が関われるのはそこ迄だ。その後のことは、本国から来る面接官から説明があるだろう。
 どのくらいの日数がかかるのか、大使にも見当がつかない。なにしろセルバ流に物事が動くのだ。

「ただ、クリスマス休暇に入る前に仕事を終えたい役人が多いですから、早めに進む筈です。先延ばしはしません。アメリカ政府がドクトル達を取り返しに来ると困りますからね。そこのところは、暢んびり屋のセルバ人も理解しています。」

 アリアナがステファン大尉にではなくケツァル少佐に尋ねた。

「あなた方は今日帰ってしまわれるのですか?」
「スィ。」

と答えてから、少佐は大使をチラリと見て言った。

「私のパスポートの再発行の問題がありますから、私は帰国が遅れる可能性があります。大尉は今日中に帰します。」

 大使が肩をすくめた。アリアナが怪訝な顔をしたので、シオドアが教えた。

「少佐は空間の”通路”を通って来たので、パスポートを持って来ていなかったんだ。」

 アリアナが素朴に尋ねた。

「その”通路”で帰れないのですか?」
「この近所に”入り口”がないのです。」
「昨夜私達が出てきた・・・その・・・空中の”穴”は?」
「あれは”出口”専用です。」
「それに、今朝はもう塞がっている筈です。」

とステファン大尉が言ったので、少佐が彼を見た。

「昨夜は”出口”の位置が高過ぎました。」
「あの部屋の様子をはっきり記憶していなかったからです。」
「ここへ来たのは昨夜で2度目だ。部屋を間違えずに”着地”したのだから、上等じゃないか。」

と大使が大尉に助け舟を出した。少佐が「チェッ」と言う表情をした。シオドアはクスッと笑ってしまい、しまったと後悔した。少佐の攻撃の矛先がこっちへ来る。今朝は一番に彼女の機嫌を損ねてしまったのだ。彼は慌ててコックに卵料理の追加を依頼した。



聖夜 5

  ミゲール大使は時計を見て、まだ時間に余裕があることを確認した。

「我々”ヴェルデ・シエロ”は7つの部族に分かれます。グラダ、ブーカ、オクターリャ、サスコシ、マスケゴ、カイナ、グワマナです。言葉は全部同じですが、持って生まれる能力が部族毎に少しずつ異なるのです。共通しているのは”心話”や空間の歪みを見る能力、他人に幻影を見せたり自分の姿を見えないと相手に思わせる”幻視”です。
 大統領警護隊文化保護担当部を例に挙げれば、アルフォンソ・マルティネス中尉とマハルダ・デネロス少尉はブーカ族です。現在一番純血種の人口が多く、メスティーソの数もかなりいます。他部族のメスティーソの大半の先祖にブーカ族がいると言っても過言ではありません。彼等は友好的で穏和な部族なので人口を減らさずに今日迄生き延びたのです。
 ブーカ族は空間の通り抜けを日常的に行えます。”入り口”を探すのが上手で、”出口”を作るのも上手です。他の部族は修練しなければ出来ません。空間の歪みを見ることは出来ても、”通路”に入るのが容易ではないのです。
 また、ブーカ族は古い石像などに籠る昔の精霊を見たり捕まえたり出来ます。彼等の多くが田舎で拝み屋として生き残っているのは、その能力のお陰です。マルティネスの生家も悪霊祓いを行う祈祷師の古い家柄で、一族の尊敬を集めています。白人の言葉で言えば貴族です。デネロスは白人や他の部族の血が混ざっているメスティーソなので修行を積まなければなりませんが、他の部族の純血種よりは習得が早い筈です。
 キナ・クワコ少尉はオクターリャ族です。この部族は非常に特殊な能力を持っており、時間を跳躍します。子供でも平気でやってのけます。他の部族は厳しい修行を何年も重ねて長老と呼ばれる年齢になる頃にやっと習得出来る力です。ですから、彼等は自ら厳しい掟を設けて、未来へ飛ぶことを死に値する大罪と定めています。
 クワコは12歳の時、1世紀近い過去へ一人で飛んだことがあります。そこで彼は疫病で彼自身の部族が死にかけているのを見たのです。彼は元の時間に引き返し、薬を持って再び過去へ飛びました。」
「ちょっと待って・・・」

 シオドアは慌てた。

「それは時間の掟に反するのではありませんか?」
「誰でもそう思った筈です。しかし、彼は疫病で苦しむ先祖を見捨てられなかった。もし1世紀前に一族が死に絶えていたら、自分は存在しない筈だ、ここで自分が皆んなを救うことが現在の自分に繋がっているのだ、と。薬を渡された人々は彼が掟を破ったことを心配しました。生き延びることに感謝し、彼の身を心配したのです。」
「アスルの判断は正しかった! オクターリャ族は疫病から救われ、キナ・クワコが現代に生きている!!」
「そうです。”ヴェルデ・シエロ”は過去の偉人の名前を記録しません。出来事を記憶するだけです。」

 シオドアは過去の村で知り合った少年がアスルの名前を知っていたことを思い出した。あの村は半世紀前に存在していた。キナ・クワコの名前はまだ人々の記憶に残っていたのだ。オクターリャの英雄として。

 あいつ、本当に物凄い英雄なんだ!

 大使はまた時計を見た。午前6時を過ぎていた。

「”ヴェルデ・シエロ”は、生まれつき持っていない能力でも、修行をすれば他部族が生まれつき持っている能力を習得出来ます。しかし、グラダ族だけは違うのです。」

 階上でドアが開閉する音が微かに聞こえた。誰かが目覚めたのだ。
 大使が声を低くした。

「グラダ族は、その名が首都に付けられる程、強い能力を持っていました。”ヴェルデ・シエロ”界のオールマイティとも言える、あらゆる能力を生まれつき持っていたのです。ですから、”曙のピラミッド”のママコナと政治と祭祀の頂点を司る大神官はグラダ族が独占していました。古代のセルバはグラダ族が支配する世界だったと言っても過言ではありませんでした。けれども、力が強い反面、彼等は人口が極端に少ない部族でした。能力を維持する為に近親婚を繰り返したことも原因だったのでしょう。子供が生まれなくなり、純血種のグラダ族は遠い過去に滅んでしまい、強力な支配者がいなくなったことで、”ヴェルデ・シエロ”がセルバを支配する時代は終わったのです。グラダの血を引く人々の多くはブーカ族の中で生き残りましたが、時代を追う毎に減って行きました。血が薄まっていったと言った方が良いかも知れません。」

 大使は冷えたコーヒーを飲み干した。そしてシオドアには新しいコーヒーを入れてくれた。

「実を言うと、私もシータ・ケツァルが誰の子供なのか知らないのです。ただ、ある日私は大統領警護隊本部の地下にある長老会の大広間に呼ばれました。私が選ばれた理由もわかりません。いきなり家に使者が現れて、連れて行かれたのです。
 大広間には長老達が並び、私は何か大きなミスをして一族の制裁でも受けるのかと震え上がりました。ほんの20代の”出来損ない”の若造でしたし、長老なんかと縁のない生活をしていましたから。一人の長老が赤ん坊を抱いて私の前に来て言いました。
『子供を与える。我が子として育てよ。この子供がどのような人生を歩むかはこの子供自身が決める』
 そして、こう言いました。
『この子供の名はシータ・ケツァル、真に純血のグラダである。心して育てよ。』
と。」

 シオドアはぽかんとしてミゲール大使を見つめた。

「純血のグラダ族・・・オールマイティ?」

 彼は必死で頭を働かせた。

「だけど、今ピラミッドにいるママコナ様は・・・」
「彼女はカイナ族の女です。純血のグラダ族が絶滅して以来数世紀に渡ってママコナは残りの6部族から出ています。先のママコナが亡くなってから最初に生まれた純血種の女の子がピラミッドに迎えられるのです。 ママコナの教育は長老会のメンバーが共同で行います。
 シータ・ケツァルは先代のママコナ存命中に生まれたので、ママコナになる資格はありません。お陰で彼女は自由にのびのびと育ち、私達夫婦は子育ての喜びを体験出来ました。成長した彼女は自分で軍隊に入ることを決めました。理由は実に子供らしいものでした。」

 シオドアは想像して言ってみた。

「軍服がかっこいいとか?」

 大使が笑った。

「ノ。 機関銃をぶっ放してみたかったそうです。」

 シオドアは反政府ゲリラの頭目に思い切り銃弾を浴びせた少佐を思い出した。部下を傷つけられて頭に来ていた彼女のストレス発散だった。彼も苦笑した。

「そう言えば、文化財・遺跡担当課で職員が騒いだ時、少佐がライフルを天井に一発撃って鎮めたんです。空砲でしたけど。」

 ありゃりゃ、と大使が首を振った。

「シータを妻にしたいと申し込んで来る男達が結構いるのですが、彼等は彼女のそんな面を知らないでしょうな。」

第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...