2021/09/04

第2部 地下水路  5

  カルロ・ステファンは”出口”から出た途端に後頭部に打撃を受けて昏倒した。一度目が覚めたが、目を開けないうちに口の中に苦い液体を流し込まれ、また意識を失った。
 2度目に目が覚めた時は、縛られていた。猿轡を噛まされ、目隠しをされ、後ろ手に縛られ、足首もご丁寧に縛られていた。硬い床の上に転がされていた。後頭部がズキズキ傷んだが、手を縛られているので傷の確認が出来ない。
 目隠しされていると言うことは、敵は私が何者かわかっているに違いない。
 手を縛っている物を切ろうとしたが、切れなかった。金属なら簡単に砕けるが、革紐はいけない。もがくと却って皮膚に食い込んだ。ロープだったら良かったのに、と思った。気を放とうとすると頭部の傷がズキリと痛んだ。傷が治るのを待つしかない。
 遠くで人の話し声が聞こえていたが、言葉を聞き取れない。ボソボソと聞こえるだけだ。男が2人、と彼は数えた。言い争っている様にも聞こえた。
 ここは何処なんだ? オルガ・グランデか? それとも何処か地方の村か? ラス・ラグナスの”入り口”に吸い込まれてから何時間経った? 
 声が止んだ。床の微かな振動で人が近づいて来るのがわかった。床は木製だ。じっとしていると錆びた蝶番が軋む音がして、冷たい空気が流れて来た。ドアが開けられたのだ。人の気配があった。戸口で立ち止まってこちらの様子を眺めているのだ。タバコの臭いがした。抑制タバコではない、普通のタバコだ。安物の紙巻きタバコだ。男だ。戸口に1人、向こうの部屋にもう1人。
 戸口の男が近づいて来た。ドアを閉めて、さらに近づいて来た。タバコの臭いは少し薄れた。喫煙者は隣の部屋の男だ。入って来た男がステファンの側で立ち止まり、かがみ込んだ。

「目が覚めたか?」

と若い男の声がした。

「まさか一族の者があの遺跡に行くとは予想外だった。しかも”入り口”を見つけて追いかけて来るとはな!」

 金属音が聞こえた。ステファンは、その余りに聴き慣れた音にドキリとした。彼自身の拳銃の安全装置を外す音だった。銃を奪われたのだ。考えれば当然だった。右腕を吸い込まれ、左手で辛うじてポケットの中の財布やパスケースを地面に落として”入り口”の場所を仲間に教える目印にするのがやっとだった。ホルダーの拳銃を出す余裕がなかった。

「政府支給品の印が付いている。」

と男が言った。

「お前、何者だ? 警察官か? 憲兵か?」

 メスティーソが大統領警護隊だとは思い付かない様だ。ステファンはいきなり冷たく硬い物で頬を軽く叩かれた。拳銃の先で突かれたのだ。

「大人しくここで寝ていろ。そうすれば殺さない。するべきことが終わったら釈放してやる。」

 男が立ち上がり、戸口へ行った。ドアを開ける音がして、タバコ臭い空気が入ってきた。もう1人の男の声が聞こえた。年配の嗄れた声で、”シエロ”の言語で言った。

「ジャガーを生贄に使わせろ。」

 若い方が言った。

「何度言えばわかる、あれはジャガーではない。”出来損ない”だ。ナワルを使えない。」

 ドアが閉じられた。
 ステファンは己がミックスであることに感謝した。



第2部 地下水路  4

  次にケツァル少佐がテオとギャラガを連れて行ったのは、テオには余りにも馴染み深い店だった。セルバ共和国文化・教育省が入居している雑居ビルの1階にあるカフェだ。彼女も朝食はまだだったので、そこで朝ご飯を3人で食べた。正直に言えば、ギャラガにはファストフードの店での食事は初めてだった。ちょっとした弾みで少佐と目が合ってしまった。

ーー何から何まで貴方は初めてなのですね。

と少佐が”心話”で語りかけてきた。

ーー良いことではありません。早いうちに本部から出なさい。

 ギャラガは慌てて目を伏せた。”心話”の拒否は目上の人に対して失礼な態度を取ることになるが、彼は心を読まれたくなかった。テオが提案してくれた文化保護担当部に入れてもらう話を少佐に知られたくなかった。もしここで少佐に拒否されたら、将来が閉ざされた気分になってしまいそうだった。
 テオがカフェの入り口に置かれている無料配布の観光マップを持って来た。グラダ・シティの観光マップだ。

「下水道は描かれていないが、今朝俺達がラス・ラグナスから到着したのはこの辺りじゃないかな。」

 彼は街の一角を指で押さえた。ラ・コンキスタ通りをずっと南下した辺りだ。ギャラガはグラダ・シティっ子なのにグラダ・シティのことをよく知らない。思わず、どんな場所ですか、と尋ねてしまった。少佐が遠慮なく答えた。

「低所得者層の住居が集まっている地区です。スラムではありません。」

 つまり、先刻蒸し風呂に入れてもらった薬屋の様な家屋が密集している地区だ。路地があり、増改築を繰り返した複雑な家があり、中庭があり、迷路の様に入り組んだ道路があり・・・。

「俺達はカルロを追いかけて”入り口”に入った。恐らく彼も俺達が出た場所の近くに出た筈なんだ。」
「下水道か地上かの差でしょう。」

と少佐が意見を述べた。

「それなら、消えてから5時間・・・否、もう6時間以上経っている。何らかの連絡を寄越しても良さそうなものだ。」

 テオの言葉を聞いて、ギャラガはうっかり考えを口に出した。

「気絶しているのかも知れません。」

 少佐が彼を見たので、彼はまた目を伏せた。彼女が溜め息をついた。心を開かない若者にちょっとうんざりした様だ。彼女はテオに話し掛けた。

「遺跡で抑制タバコの吸殻を拾ったそうですね。」
「スィ。カルロとアンドレの意見では、手製だそうだ。」
「遺跡荒らしは一族の者でしょう。カルロは捕まって正体がバレたのだと思います。」
「身分証は置いて行ったぞ。」
「でも通路を通った。だからバレたのです。電話を使えない状態ですが、生きているのでしょう。」

 淡々とした物言いだ。ケツァル少佐にとってカルロ・ステファンは他の男達とは違う存在だ。大事な部下で、可愛い弟で、愛しい男・・・。しかし彼が危機に陥っても彼女は決して慌てない。否、一度慌てて彼女自身が撃たれると言う失態を演じてしまった。だから彼女は今冷静でいる。焦ってもカルロを見つけられないとわかっているからだ。
 テオが小声で尋ねた。

「”離魂”でも探せないか?」
「気絶している間は無理です。彼が私を呼んでくれれば行けますが。」

 り・・・離魂?! ギャラガはびっくりした。そんな長老級の技を”心話”並みの気軽さで口に出すこの2人は・・・? 
 少佐がギャラガを見た。

「ギャラガ少尉、こっちを見なさい。」

 ギャラガはビクッとして上官を見た。少佐が命令した。

「もう一度、今朝歩いた下水道を思い出しなさい。他のことは考えなくてよろしい。」

 あんなトンネルを思い出して何になるのだろうと思ったら、少佐が眉を寄せた。やばい、「聞かれた」。深呼吸して下水道だけを思い出した。カーブや曲がり角や支流管や壁の様子・・・。梯子まで思い出すと、少佐が「グラシャス」と言った。そして彼女は目を閉じた。少し考え込む様子だった。少佐の電話に着信があった。彼女は電話を出すと、見もしないでテオに渡した。テオが見ると、画面に「マハルダ」と出ていた。彼は代理で出た。

「ケツァル少佐の電話だ。」
ーーテオ!

 デネロスが大きな声で叫んだので、テオは電話を耳から遠ざけた。

ーー無事に”着地”したんですね!
「ああ、無事に着いた。グラダ・シティだ。」
ーー良かった! 
「だが、まだカルロは見つからない。現在捜査中だ。」

 テオは少佐を見た。少佐は特にデネロスと話をしたい気配がなかった。目を開いて地図を睨んでいた。それで彼女に尋ねた。

「マハルダを撤収させて良いか?」

 少佐が無言で頷いた。彼は電話に向かって言った。

「少佐が帰って来いってさ。」
ーー承知しました。
「チコとパブロによろしく言っておいてくれ。」
ーーあ・・・

 デネロスが申し訳なさそうに言った。

ーーあの2人はもうあなた方のことを忘れました。


第2部 地下水路  3

  広場から徒歩15分、入り組んだ路地の奥に奇妙な家があった。入り口に獣の頭蓋骨が飾ってある。牛なのか鹿なのか、よくわからない。中に入ると薄暗く、薬の匂いがした。ケツァル少佐が「オーラ!」と声をかけると、先住民の男が現れた。くたびれたTシャツに短パンの軽装で、頭髪は短く刈り上げている。年齢は40絡みか? 少佐が先住民の言葉で話しかけると、向こうも同じ言語で答えた。テオが通訳を求めてギャラガを見たが、ギャラガにも理解出来ない言語だった。”シエロ”の言葉なら大統領警護隊に入隊してから習ったので話すのはイマイチだが聞き取りは出来る。だが、これは未知の言語だ。つまり、”ティエラ”先住民の言語に違いない。絶滅したと考えられている種族の言語を知っていて、現代も生きている言語を理解出来ないなんて奇妙だが、それが”ヴェルデ・シエロ”なのだ。
 少佐が振り返って、ドブ臭い男達を家の主人に紹介した。そしてやっとテオとギャラガに主人を紹介した。

「薬屋のカダイ師です。体を洗ってくれます。1時間後に迎えに来ますから、ここで綺麗にしてもらって下さい。」

 そしてさっさと家から出て行った。呆気に取られている2人にカダイ師が来いと合図した。ついて行くと中庭に出た。石造りの小屋があり、薬の匂いはそこから漂っていた。カダイ師が服を脱げと身振りで命じた。どうやらスペイン語は話さないようだ。2人が服を脱ぐと、小屋の入り口を開けて、中に入れと言われた。
 蒸し風呂だった。入り口に香油が入った瓶が置かれていて、全身に塗るようにと命じられた。ミント系の匂いがする香油を塗りたくり、木製のベンチに座って、そこで蒸された。空腹に高温が辛くなったので、途中で戸を開くと、カダイ師は何かを燃やしていた。水を要求すると、家の中から水の瓶を持ってきてくれた。

「エル・ティティの家も週末は街の共同浴場で蒸し風呂を使うんだ。」

と言うと、ギャラガが微笑んだ。

「大統領警護隊も週に一回蒸し風呂の日があります。」
「やっぱり蒸されるのか。」
「スィ。この地方の伝統です。」
「北米でも先住民の文化にある。医療行為だったり、社交だったり、宗教的意味合いがあったり、色々だね。」

 素っ裸で話をした。テオは遺伝子学者だと言い、バス事故で記憶喪失になったことでセルバ共和国と大統領警護隊文化保護担当部と繋がりが出来たのだと言った。詳細を語らなかったが、母国を捨ててセルバ共和国の国籍を取得し、やっと1年半経ったと言った。

「亡命当初は内務省の監視がついていたけど、やっと自由になれたんだ。今はセルバ国内、何処でも好きな場所に行ける。国外に出る許可をもらえるのはまだ半年かかるらしいが、今のところ外国に用事はないしね。」
「国内何処でも自由に行けるんですか・・・羨ましいです。」
「君も休暇は外出出来るんだろ?」
「そうですが、外に知り合いも友人もいませんし、何処に行けば良いのかわからないので、1人で海岸で海を眺めるか、官舎か訓練施設で過ごします。」
「その若さで籠っているのか?」

 テオが呆れた顔をした。

「それじゃ、次の休暇は俺のところに来いよ。」
「え?」
「大学で学生達と過ごすなり、俺の家で寝泊まりして昼間は何処かへ遊びに行けば良いさ。週末は俺と一緒にエル・ティティに行こう。親父は警察署長で、若い巡査が4人いる。彼等と過ごしても面白いぜ。田舎の警察は市民が職務にくっついて来ても平気だから、警察業務の見物も出来る。」

 ギャラガは何と答えて良いかわからなかった。黙っていると、テオが肩をポンと叩いた。

「兎に角、今はカルロを探し出して、コンドルの目の謎を解くのが先決だな。」

 小屋の戸が開いて、カダイ師が外に出ろと合図した。庭に出ると中年の先住民の女性がいた。素っ裸だったので赤面したが、彼女は一向に気にせずに2人に水を掛け、石鹸を手渡し、香油を洗い流すようスペイン語で命じた。頭のてっぺんから足の爪先まで綺麗になり、臭いも取れた。タオルを手渡され、体を拭いていると、女性が衣服を持ってきた。古着だがサイズは2人それぞれにぴったりだった。靴もあった。

「俺たちの元の衣服と靴は?」

とテオが尋ねると、女性は素っ気なく答えた。

「燃やした。」

 庭の隅の黒い灰の塊を見て、それ以上言うべきことはなかった。所持品を返してもらい、紛失した物がないか調べた。どうやら無事だ。
「店」に戻ると、ケツァル少佐が待っていた。恐らく少佐が衣料品を購入してくれたのだ、とテオには見当がついた。彼女はカダイ師に料金を支払い、しっかり領収書を取った。

「誰に請求するんだ?」

とテオが尋ねると、少佐は領収書をポケットに仕舞いながら答えた。

「本部です。これは捜査の必要経費です。」

第2部 地下水路  2

  どれだけ歩いたのかわからなかった。時計では午前5時だ。8時間も歩いたのか? テオは空腹を感じた。ギャラガも同じだろう。しかしこの悪臭と汚物まみれの世界で食べ物の想像をしたくなかった。本当にカルロ・ステファンはこの下水道へ来たのだろうか。全く見当外れの場所に来てしまったのではないのか?
  疑問に思ううちにいきなり行き止まりになった。細い支流が集まって主管になっているのだった。歩道も行き止まりで、支流は人間が立って歩ける高さではない。その代わり天井から鉄梯子が下りているのがギャラガにはわかった。

「行き止まりです。しかし鉄梯子があるので、上に出られます。」

 テオも微かに上から光が差し込んでいる様な気がした。梯子がぼんやり見えた。

「取り敢えず上に上がろう。ここが何処か確認しなければ。グラダ・シティだったら、一旦ケツァル少佐に連絡を取って、俺の家に送ってもらう。見知らぬ場所でも電話が通じれば、何とかなるさ。」

 楽観的なテオの意見にギャラガはもう驚かなくなっていた。この人は落ち込むことがないのだろうか。いつも前向きで、だから大統領警護隊文化保護担当部はこの人を守り神だと位置付けているのか。彼等は梯子を上っていった。
 グラダ・シティは複雑な街だ。古代都市の上に先住民の町が出来て、そこにスペイン人が植民地を築いた。独立してから近代化が進み、高層ビルが海岸線に並び、オフィス街はピラミッドを超えない高さのビルがひしめき合い、植民地時代の建物を利用した官庁街、商店街、平屋の家屋が建ち並ぶ庶民層の住宅街、瀟洒なコンドミニアムが点在する高級住宅地、それにスラム街もある。
 ギャラガが押し上げるとマンホールの蓋は簡単に開いた。幸い朝が早いので車の通りは少なく、石畳の広場に出た。まだ店開きする前の屋台がシートを被って並んでいた。低い家屋の向こうにグラダ大聖堂の尖塔が見えて、グラダ・シティにいるのだとわかった。ギャラガはテオが這い出すのに手を貸した。

「おめでとうございます。グラダ・シティです。」

 思わず冗談が出た。テオが苦笑して周囲を見回した。何処だか見当がついた。ポケットから電話を出すと、アンテナが立ったのでケツァル少佐にかけた。午前6時前だった。少佐は起床している筈だ。
 5回の呼び出し音の後で、彼女の不機嫌な声が聞こえた。

「ミゲール・・・」
「アルストだ。」
「何か御用ですか?」

 当然少佐はテオがラス・ラグナスにいると思っている筈だ。まだデネロスはオルガ・グランデ基地に戻っていないだろう。テオは言った。

「今、ラ・コンキスタ通りとメルカトール通りの交差点広場にいる。アンドレ・ギャラガと2人だ。迎えを頼む。」

 少佐が30秒沈黙した。いる筈のない場所から電話をかけて来た彼の、そこにいる理由を考えたに違いない。そして言った。

「部下を迎えに遣ります。」

 テオはビニルシートを用意しろと言おうと思ったが、その前にせっかちな少佐は電話を切ってしまった。
 泥だらけで立っている2人の男を、街行く人々が胡散臭そうに見ながら通り過ぎた。何処かで体を洗わなければ、とテオは思った。

「水が使える場所が近くにないかな?」

 ギャラガが通りの向こうを指差した。

「噴水があります。」

 2人は急いで噴水の池に走った。水浴びをしていると警察が近づいて来た。ギャラガは咄嗟に緑の鳥の徽章を取り出して見せた。警察官は、なんで白人が持っているんだ? と言いたげな顔をしたが、君子危うきに近寄らずを決め込み、立ち去った。
 泥を落とせたが、臭いは残っていた。日が上って服が乾くのを待っていると、やっと見覚えのあるベンツがやって来た。テオの顔が綻んだ。

「ヤァ、少佐自らお出ましだ。」

 え? とギャラガは仰天した。
 少佐のSUVが目の前に停車した。出勤前のジーンズにTシャツ姿のケツァル少佐が下りて来た。テオが彼女に駆け寄ろうとすると、彼女が両手を前に突き出して制止した。

「来ないで下さい。あなた方臭いですよ。」
「洗ったんだが、まだ臭うか・・・」

 テオは自分の腕を嗅いでみた。ギャラガが少佐の顔を見た。彼の動きに気がついて、少佐が彼の目を見た。ギャラガは昨晩の出来事から噴水で体を洗うまでのことを思い起こした。一瞬と言う訳ではなかったが、状況を彼女に伝えることに成功した。そして彼の頭に少佐の声が聞こえた。「わかった」と。彼は敬礼した。少佐が頷いた。
 彼女は携帯を出して何処かに電話をかけた。テオはロホにかけたのかと思ったが、違った。彼女は先住民言語で早口に何かを誰かに伝え、それから電話を切ると、男達について来いと手で合図した。
 

 


第2部 地下水路  1

  空間通路を通ったのは、アンドレ・ギャラガにとって初めての体験だった。ほんの一瞬だったが、アンドロメダ星雲と色々な惑星や恒星が見えた・・・と思った。
 いきなり悪臭の中に出た。知っている臭いだ。これは!
 1秒後に後ろに出現したテオドール・アルストに、と言うか、テオの出現によって、彼は前方に突き飛ばされ、汚水の中に落ちた。足元の地面が30センチあるかないかの幅だったのだ。ドボンっと言う水音と、ギャラガの「バスタルド!」と言う叫び声を耳にして、テオは自分がマズイことをやってしまったと知った。
 鼻が曲がりそうな悪臭だ。真っ暗だが、どんな場所なのか彼もわかった。

「大丈夫か、アンドレ?」

 ギャラガは立ち上がった。水は深くない。膝より下だが、まともに顔から落ちたので、全身ずぶ濡れ、汚物まみれだった。

「大丈夫じゃないです。ここは下水道だ!」

 彼の目には石組の長い水路が見えていた。天井が高い。幅もある。セルバ共和国でこんな立派な下水道があるのはグラダ・シティしか考えられない。セルバ共和国だったら、の話だが。
 彼は腕を振って汚物と水を払った。ザブザブ歩いてテオの横に上がった。テオがハンカチを出して、見えないまま彼に向かって差し出した。

「すまん! 横に出れば良かったが、君の真後ろに出てしまったようだ。」
「どんな出方をするのか、その時でないとわかりませんから、貴方が謝ることじゃないです。」

 まるで経験者の様なことをギャラガは言ってしまい、赤面したが、テオには見えなかった。 

「何処かの下水道の様だな。」
「セルバ共和国で下水道設備があるのはグラダ・シティとオルガ・グランデだけだと聞いています。この立派な施設はグラダ・シティでしょう。」
「ここがセルバだったら、だね。ウィーンだったらどうしよう。」
「ウィーンがどうかしましたか?」
「『第三の男』と言う映画を知らないか?」
「ノ。」
「じゃぁ、今の言葉は忘れてくれ。」

 ギャラガは所持品のチェックをした。拳銃が濡れてしまった。身分証は無事だ。セルバ共和国は奇妙なことにパスケースや書類入れなど文具は防水仕様が多い。恐らくバケツをひっくり返した様に雨が塊になって降るスコールや、地図にない場所に突然川が出来たり池が現れたりする土地柄だからだろう。拳銃ホルダーも防水にして欲しかった、と無理な願いを抱きながら、彼はパスケースの水を払った。
 テオが尋ねた。

「カルロか遺跡荒らしがいた形跡はあるかい?」

 ギャラガは左右を見た。石組のトンネルが延々と伸びているのが見えた。天井はアーチ型で、人間が一人やっと通れる歩道らしきものが片側だけ造られていて、彼等はたまたまそこに出たのだ。

「人がいる気配はありません。」

 彼は上着を脱いだ。臭くて着ていられなかった。ジーンズと靴も脱ぎたかったが、これは我慢するしかない。気配でテオが彼が服を脱いだことを知った。

「ここがグラダ・シティなら、後で俺の家に行こう。突き飛ばしたお詫びに、服を進呈する。兎に角、外へ出よう。」

 闇の中では何も見えないテオはギャラガの肩に手を置いて、彼等は歩くことにした。上流へ行くか下流へ行くかと相談していると、上流の方が騒がしくなった。

「何だろう?」

 テオの問いにギャラガは耳を澄ました。

「多分、ネズミでしょう。群れで騒いでいる様です。」
「連中の巣穴に何かが侵入したってことか?」

 テオはステファン大尉に小動物が寄り付かないことを思い出した。

「上流へ行こう。ネズミが騒ぐ場所へ行って見るんだ。」

 ギャラガもその理由を悟った。立ち位置を入れ替わるために彼はもう一度汚水の中に下りて、テオの前に移動した。テオが「グラシャス」と礼を言った。
 水が流れて来る方角へ向かって歩いた。ギャラガの靴の中で水がジクジクと音を立てた。足元がぬるぬるで滑らないよう神経を使わなければならない。所々で細い送水管から地上の汚水が流れ込み、滝になっている場所では飛沫が飛び散っていた。テオもすぐに綺麗な状態でなくなった。壁に体を擦り付けるのも原因だった。

「警護隊の仕事は楽しいかい?」

とテオが話しかけてきた。真っ暗な悪臭の世界にいるので、黙っていると気が滅入るのだ。臭いは多少鼻の感覚が麻痺してきたが、暗闇は目が順応しない。光がないから彼には何も見えない。身軽にと思って携帯ライトをラス・ラグナス遺跡に置いてきてしまったのを彼は悔やんだ。ギャラガは適当に答えた。

「脱走を考えなくて済む程度です。」
「つまらないんだ。」
「そう言う訳じゃなくて・・・」
「文化保護担当部に空きがあるぜ。カルロが抜けたので、人手不足なんだ。」

 それはケツァル少佐の直属の部下になると言う意味だ。そうなれたら光栄だが、絶対に無理だ。

「私は考古学の知識がありませんし、本部の外で暮らした経験もありません。それに能力だって・・・」
「カルロの経験を聞かなかったのか?」
「聞きました。でも私はやっと3日前に”心話”が出来る様になったばかりです。」
「だが、いきなり”通路”で先導をやってのけたじゃないか。立派だぞ。」

 テオの声は耳に心地良かった。

「考古学だって、文化保護担当部の連中は少佐も含めて部を設置してから大学で学んだんだ。通信制で働きながら勉強したんだよ。君だって出来るさ。」
「出来ますか?」
「出来る。俺はグラダ大学の生物学部で働いている。わからないことがあればいつでも来いよ。マハルダだってそうしている。彼女は考古学部を卒業して、今は現代人類学を履修しているんだ。勉強家だよ。」

 テオはグラダ大学の先生なんだ! ギャラガはびっくりした。セルバ共和国の最高学府の先生と一緒に下水道を歩いているのだ。

「ケツァル少佐はこの半年間人手が足りないから補充人員を寄越せと本部へ陳情しているそうだ。だけどカルロが修行を終えたら戻るつもりでいるらしいから、司令部がなかなか新しい人を寄越してくれないと、少佐が俺にこぼすんだよ。」
「貴方は少佐と親しいのですね?」
「まぁ、腐れ縁ってやつだけど・・・俺は一応彼女を口説いているつもりなんだが、彼女はツンデレ女王だから、俺に甘えてくると思ったら冷たくなるし、なかなか落とせないんだ。」

 これまたびっくりだ。伝説のケツァル少佐に白人が求愛している。テオは誰に憚ることもなく堂々と明かしているのだ。

「もし、私が文化保護担当部に入ったら、ステファン大尉が戻る場所がなくなりはしませんか?」
「大丈夫だ。机を置くスペースは余っている。」
「そう言う問題ではなくて・・・」

 突然対岸で汚水の滝の水量が増して、飛沫が飛んできた。テオが英語で「シット!」と叫んだ。正に糞だ。

「ここを出たら、真っ先に熱いシャワーを浴びようぜ!」

 テオが怒鳴ったので、ギャラガは思わず反論した。

「お湯のシャワーがそんなに良いですか?」

 お湯が出るシャワーは金持ちの特権だ。だから、ロホの古いアパートでシャワーからお湯が出た時、ギャラガはびっくりしたのだ。お湯が出るシャワーは常夏の国では必需品ではない。少なくともグラダ・シティや東海岸地方では無用の長物だ。それが一般のセルバ庶民の感覚だった。テオは北の国から来たので、時々お湯のお風呂が欲しくなる。エル・ティティの家は水のシャワーしかない。その代わり町には共同浴場がある。伝統的な蒸し風呂の浴場だ。だからエル・ティティの暮らしに満足している。蒸し風呂がなければゴンザレスをグラダ・シティに引きずって来たかも知れない。

「この汚水はお湯で洗った方が綺麗になるんだぜ。家に帰ったらバスタブにお湯を張って、最初に君を入れてあげるよ。」

  

2021/09/03

第2部 涸れた村  13

  テオが現場へやって来た。石を踏んづけないように用心して歩いて来たので時間がかかった。石は危険だ。足を置いた弾みに石自体が滑って怪我をする羽目になる。石の下に蠍や毒蛇が潜んでいる場合もある。彼はあまり夜間に野外へ出る人間ではなかったが、エル・ティティの町は屋内でも毒がある生物が侵入することがあるので、用心深くなっていた。出来れば”ヴェルデ・シエロ”を一人巡査として雇って欲しいほどだ。ゴンザレス家に下宿させてやるから来てくれないかな、と思いつつ、彼はデネロスとギャラガの2人の少尉が待つ大岩の前へ辿り着いた。

「さっき空気がビーンと震動したが、カルロが気を発したのか?」
「スィ。でも消えてしまいました。」
「誰が?」
「カルロが・・・」

 テオは暗がりの中で光っている4つの金色の目を眺めた。”ヴェルデ・シエロ”の目だ。彼等は夜になると金色に目を光らせる。一人だけ例外を知っているが、そいつがここにいない。
 ギャラガがテオのために地面をライトで照らして見せた。

「大尉の足跡です。ここで引き摺られた様になって、ここで乱れています。抵抗した跡だと思います。」

 テオが犯罪捜査の刑事みたいに地面にかがみ込んで砂の上の痕跡を観察した。ステファン大尉の靴跡はあったが、他の人間の足跡はなかった。デネロスが岩を指差した。

「ここに”入り口”があるんです。カルロはここへ入ってしまったんだと思います。」
「足跡の状態から判断すると、自分から入ったんじゃなくて、引き込まれた感じだな。しかし誰かがいて、彼を捕まえた様な形跡がない。」

 テオは引きずった様な跡の最初の位置と、デネロスが示した空間の”入り口”の距離を見比べて推測った。大人の腕1本の長さしかない。彼はデネロスに尋ねた。

「”入り口”って吸引力があったっけ?」

 彼女は首を傾げた。

「多分、閉じかけている”穴”だったら・・・」

 ギャラガはその言葉を聞いて、空間をじっくり見つめた。心なしか”入り口”がさっきより小さくなっている様な気がした。

「この”入り口”、縮んでいるんじゃないか?」

 テオが立ち上がった。なんとなくカルロ・ステファンの身に何が起きたか想像出来た。

「あいつ、ドジを踏みやがったな。」

と彼は呟いた。

「カルロはその”穴”を見つけて、指か手を入れてみたんだ、きっと。”穴”は閉じかけているから、彼を吸い込もうとした。きっと勢いが強くて、彼は抵抗出来なかったんだ。咄嗟に彼はポケットの中の物を掴み出してばら撒いた。この場所に注意しろと俺達に伝えたかったんだ。恐らく一瞬の出来事だったんだろう。」
「彼、何処へ行っちゃったんでしょう?」

 デネロスの声が微かに震えた。泣き出しそうになっている。テオは暗闇の中の、彼には見えない”穴”を見つめた。これが閉じてしまったら、ステファンの行方が掴めなくなる。
 彼はデネロスに言った。

「俺はこれからカルロを追いかける。」

 え? と2人の大統領警護隊の隊員が驚いて声を上げた。危ないから駄目だ、と言われる前にテオはデネロスに言い聞かせた。

「”通路”は必ず”出口”があるだろう? それもセルバ共和国の何処かにあるに違いない。これが塞がったら、カルロを探すのが難しくなる。だから俺はこれからこの中に入る。君は夜明け迄待って、2人の二等兵を連れて基地へ撤収しろ。そして少佐に連絡を取るんだ。俺はカルロを見つけたら、ここに戻らずに少佐に連絡する。多分、その方が早いからね。」

 デネロスは彼の顔を見つめた。泣きたいのを我慢して、彼女は言った。

「”ティエラ”一人で”入り口”に入るのは無理です。」

 それまで黙って2人のやりとりを聞いていたギャラガは、”入り口”を見た。使ったことはないが、”ヴェルデ・シエロ”なら通れる筈だ。彼は思い切って言った。

「私が先導する。」

 デネロスが彼を見た。駄目だと言われるかと思ったら、彼女は言った。

「お願いするわ。テオを守って。必ず3人で戻って来て。」


第2部 涸れた村  12

  走りながらギャラガは拳銃をホルダーから抜いた。安全装置を外した。デネロスを見ると彼女はアサルトライフルを水平に構えて走っていた。遺跡を走り抜け、坂を少し上り、初めて見る大きな岩の手前で、地面に落ちている物を見つけ、彼は急停止した。思わずデネロスに怒鳴った。

「止まれ! 踏むな!」

 デネロスも何か見えていたのだろう、ピタリと足を止めた。
 砂の上に自然に落ちている筈のない物が散らばっていた。ギャラガは最寄りの物を拾い上げた。黒い革財布だ。中に入っていた紙幣がはみ出していたので、押し込めて、中身を検めた。名前が書かれた物はなかったが、見覚えがあった。
 デネロスも別の物を拾い上げた。こちらは誰の持ち物か明白だった。身分証が入ったカードケースだ。緑色の鳥の徽章も入っていた。彼女がギャラガに囁く様な低い声で言った。

「カルロの身分証よ。」
「こっちは財布だ。」

 地面を見ると何か引きずった様な跡が砂の上にあった。それは長くはなく、すぐに激しく乱れて砂を蹴散らした感じで、そして忽然と岩の前で消えていた。いきなり引っ張られて、抵抗して・・・それからどうなった?
 ギャラガは周囲を見回した。岩が点在しているが、概ね平坦な地面が少し低い位置に広がっていた。昔沼があった場所だ。
 デネロスが足跡を迂回して大岩に近づいた。彼女の目が金色に輝くのが見えた。

「ここに、”入り口”があるわ。」

 ギャラガがそこに近づいた時、遺跡の方からテオの声が聞こえた。

「おーい、何かあったのか?」

 振り返ると携行ライトの光が遺跡の中を動いていた。デネロスが自分のライトを点灯させた。

「ここです! テオ、足元に気をつけて!」

 テオが彼女のライトを発見してやって来るのがわかった。ギャラガは不思議に思えた。

「彼は”ティエラ”だろ? どうして何かが起きたってわかったんだ?」
「彼はわかるのよ。」

とデネロスが答えた。

「さっき私達が感じたカルロの気を、彼も感じたの。よくわかんないけど、彼は少佐とカルロが危険を察知したりする時に発する気の動きを感じ取るのよ。きっとグラダ族の気が凄く強いか、独特の波長をしているのだと思うわ。」
「それでも普通の”ティエラ”は感じる筈がないと思うが・・・」

 デネロスはテオが特殊な生まれの人間であることをギャラガに教えるつもりはなかった。ここで話す場合ではないと心得ていた。彼女はこれだけ言った。

「テオは文化保護担当部のお守りみたいな人なの。だから少佐はこの任務に彼を加えたのよ。」


第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...