2021/10/14

第3部 隠された者  4

  テオの車でロレンシオ・サイスの家の近所まで行った。まだサイスの車は庭にあるのが門扉の隙間から見えたので前を通り過ぎ、デルガドが先日電話に出た場所へ行った。自動車修理工の工場前だ。工場は土曜日なので休業しており、その前に駐車しても文句を言われなさそうだ。それにテオの車にはロス・パハロス・ヴェルデスが2人いる。
 デルガド少尉が車外に出て、ぶらぶらと工場の周囲を歩いた。ピアニストではなく修理工に興味があるふりをして工場内を覗き込んだりしていたが、体の向きを変える時は必ずサイスの家の方を見た。シエスタの時間なので住民は家の中で昼寝か長い昼食を取っているらしく、通りに人影はなかった。
 やがてデルガドが足速に戻って来た。

「サイスが車に乗りました。」

 彼は素早く車内に入った。
 サイスの家の門扉は自動になっているのか、ちょっと金属音を立てながら開き、サイスのイタリア車が出てきた。テオはサイスの車が角を曲がる迄待ってからエンジンをかけ、低速で後を追いかけた。マセラティのグランカブリオだって? ピアニストってどんだけ儲かるんだ?
彼はちょっと心の中でやっかみながら尾行した。彼の中古のトヨタ・クラウンは音が静かだ。グランカブリオのエンジン音を聞きながら追いかけた。Tシャツ姿の助手席のステファンは窓を開けてのんびり腕を外に垂らしていた。尾行なんてしてません、ドライブ中です、って感じだ。
後部席のデルガドは横に置かれたテオのリュックがちょっと気になった。何だか知らないが心をくすぐる様な匂いが微かにするのだ。恐らく普通の”ティエラ”では嗅ぎ取れない程度の匂いだ。
 2台の車は住宅街から市街地に入った。すぐに車の交通量が増えたが、ステファンは高級車のエンジン音を聞き漏らさなかった。

「次の交差点を左へ・・・彼は真っ直ぐシティホールに向かっています。」
「それなら、彼が寄り道しない限りは見失うことはなさそうだな。1人で乗っているのか?」
「スィ。彼のマネージャーは恐らくシティホールで落ち合うのでしょう。」
「マネージャーはセルバ人か?」
「そこまでは・・・」

 ステファンが口籠もった。デルガドも何も言わない。未調査なのだ。テオは調査対象が増えたな、と呟いた。
 グラダ・シティのシティホールは市役所と道路を隔てた向かいに建てられており、古代の神殿をモチーフにした近代的なデザインの建物だった。若者向けの音楽のコンサートから先住民の古代舞踊のショーやオペラまで上演されるセルバ共和国自慢の公共施設でもあった。国立ではなく市立なのだが、その警備は陸軍が行っている。大勢の市民が集まる場所で万が一のことがあれば大変だと言う国防省と内務省の意見が一致した結果だ。大統領警護隊はそこの警備には関知していないので、警備関係者の事務所建物はスルーして一般の駐車場に入った。その日は特にホールでの催し物はない筈だったが駐車場には50台ばかり車が駐まっていた。

「コンサートの打ち合わせにこんなに人が来るのか?」

とテオが素朴に疑問を口に出すと、デルガドが笑った。

「見学者です。催し物がない時は無料で中を見学出来るのです。立ち入り出来る場所は制限されていますが、アーティストや俳優などの練習風景を生で見られるので、結構人気なんですよ。」

 彼は建物の裏手を指差した。

「サイスの車は向こうの関係者限定のスペースに入りました。マネージャーやスポンサーなどはあっちに駐車しています。」
「俺たちは無理か?」
「警備がいます。我々が入れないことはありませんが、言い訳が必要です。」

 大統領警護隊は他人に自分達を見えていないと思わせる能力を持っているが、無闇に使いたくないのだ。今はロレンシオ・サイスがこの日どんな行動を取るのか見るだけなのだから。
 テオ達は車外に出た。遊撃班は外出の際に変装用に私服を持ち出す。デルガドはちゃんとステファンと彼自身の服を官舎から持って来ていた。だからTシャツにジーンズ、拳銃ホルダーを装着してジャケットで隠していた。テオは丸腰だ。リュックを背負って2人の隊員についてホールに入った。
 エントランスは吹き抜けで広い。売店もあるし、チケット売り場もある。スマホ決済が出来る様だ。客席へは中央の階段を上がってから並んでいる7つの扉から入る。その階段がまるでパリのオペラ座の中央階段みたいに凝ったクラシックな装飾をしてあったので、近代的な外観とチグハグでテオは可笑しく思えた。古代神殿ともマッチしない。この建物を設計した人はどんな美意識を持っているのだ? と彼は疑った。
 軍人ではなくホール職員が見学順路を案内しており、テオとステファンはガイドに従って階段を上り、観客席に入った。デルガド少尉は先にお手洗いに行くと言って離れた。
 テオは扇型の客席を想像していたがかなり違っていた。舞台を円形に取り巻くような形に客席があった。少し歪な形のコロシアムだ、と言うのが彼の第一印象だった。ステージは上下に可動式になっているらしく、グランドピアノが一階の客席より高い位置にあった。音楽を聴かせるので、最前列の客がピアニストの姿を見られなくても構わないと言う考え方なのだろう。見学者コースは2階席から始まっており、そこからだとピアノがよく見えた。
 調律師がピアノを点検しているところで、それを撮影している見学者もいた。テオとステファンも最前列の手すりにもたれかかって見物した。

「ジャズは好きかい?」
「嫌いじゃありません。ただ聞くより踊る方が好みです。」
「本部でも踊るのか?」
「まさか・・・」

 ステファンが苦笑した。

「そんなことをしたら営倉行きです。」
「だけど、君達も踊るだろ、クラブとかで・・・」
「休暇で外出する時はね。」

 ステージにピアノ以外の楽器が運ばれて来た。ジャズだからバンド演奏もやるのだ。先住民のピアニストが現れた。ラフな服装だ。プロデューサーやバンドリーダーと打ち合わせを始めた。ピアノの前にすぐに座る訳ではなさそうだ。
 テオは後ろを振り返った。

「エミリオはまだトイレかい?」
「ノ・・・」

 ステファンが声を低くした。

「楽屋でしょう。」

 1人で”幻視”を使って他人に見えないと思わせて忍び込んだのだ。

「サイスは目の前にいるぜ?」
「デルガドはサイスの部屋に怪しい物がないか調べに行ったのです。」
「怪しい物?」
「サイスに無意識にナワルを使わせる要因になりそうな物です。」

  つまり、麻薬や違法薬物がないか調べに行ったのだ。

「貴方はさっき車の中でマネージャーの存在を我々に思い出させてくれました。サイスが何も持っていなくても、マネージャーが何か持っているかも知れません。」
「マネージャーは今ステージにいるのかな?」
「我々は彼のマネージャーの顔を知りません。盲点でした。」

 ステファンはまたテオに一本取られたと言う顔をした。いや、盲点があったことを教えてもらって感謝するべきだろう、と彼は己の心に言い聞かせた。

「君は、サイスが何か薬を使って、その作用で無意識に変身してしまった可能性を考えているんだね?」
「昨夜の女の言葉を考えると、そんな場合もあり得ると思ったのです。」
「ビアンカ・オルティスはサイスが変身した経緯を知っているんじゃないかな?」
「知っているでしょうね。だが彼女と彼の関係が見えてこない。アスクラカンから来た女とアスクラカンに行った記録がない男の接点がわかりません。」
「カルロ、この後で彼女に会いに行ってみないか?」

 ステファンが振り返って彼を見た。

「一緒に行ってくれるのですか?」
「勿論・・・って、1人で会いに行くのはマズイのか?」

 すると大尉が躊躇った。

「向こうは未婚の女性ですから・・・」
「はぁ?」
「ですから・・・」

 ステファンはちょっと顔を赤らめた。

「オルティスがただの女性だったら問題ありません。しかしデルガドと私は彼女が一族の女だと知ってしまった。未婚の男が部族の長老や彼女の親の許しを得ずに未婚の女に接近するのはマズイのです。」
「ただの事情聴取だろ?」
「女の方から来るのは問題ありませんが、男の方から近づくには制約があります。それが一族の掟なのです。」

 面倒臭い一族だなぁとテオはぼやいた。

「ケツァル少佐やマハルダには誰もが平気で近づいているじゃないか!」
「彼女達が何者か、皆知っています。それに仕事仲間ですから平気なのです。彼女達の身分を知らずに、ただの一族の女だと言う知識しかなければ、一族の男は声をかけません。彼女達の部族や家族に対して失礼になるからです。」
「君が問題にしているのはオルティスが一族の女だと言うことだな? でも昨晩は君から声をかけたんだろ?」

 ステファンは渋々認めた。

「周囲に誰もいませんでしたから。彼女は私が声をかけたので怒っていました。」

 テオは溜め息をついた。

「わかった。それじゃ、俺がグラダ大学の准教授として彼女に声をかけよう。」



第3部 隠された者  3

 「寝るなら客間を使えば良いのに。」

とテオがコーヒーを淹れながら言った。カルロ・ステファンは狭いソファで寝て背中の筋肉が強張ってしまい、肩をぐるぐる回している。

「ここのベッドは私には上等過ぎて、よく寝付けないんです。」

 彼は腰も回した。テオが缶詰の煮豆とパンと目玉焼きをテーブルに並べた。

「それなら床の上に寝ろよ。毛布を使えば良いさ。」

 テオが待っているので、ステファンはストレッチを終了してテーブルに着いた。休日なのでテオはいつもより1時間遅く起きて、今は朝の7時だ。ステファンにしても寝過ごしたと言える時刻だが、ここは官舎ではないし、部下もまだ来ていない。

「エル・ティティには帰らないのですか?」
「うん、バスに乗り遅れたし、まだ週明けの試験問題を作らなきゃいけない。だから来週まで楽しみは取ってある。 俺は今日1日家にいる。君も遠慮なく寛いでくれ。」
「いや、サイスは今日の午後、コンサートの打ち合わせでシティホールに出かける予定です。監視します。」
「やっぱり、彼がジャガーかい?」
「スィ。」

 ステファンはテオにビアンカ・オルティスと真夜中に出会ったことを告げた。テオが食事の手を止めて考え込んだ。

「サイスがジャガーだと知っていて、しかもサイスがナワルの知識を持っていないと彼女は仄めかしたんだな?」
「スィ。彼女は若いですが、一人前のツィンルと思われます。長老から彼女に関する情報は何もなかったので、正直なところ昨夜は衝撃でした。」
「彼女は地方から大学に来ているらしいから、長老は彼女を知っているのかも知れないが、彼女がグラダ・シティに住んでいることは知らないのかも知れない。」
「地方にいた彼女が何故サイスを知っているのでしょう? サイスはデビューして7年近くなりますが、活動はもっぱら外国で国内ではグラダ・シティとオルガ・グランデぐらいしか演奏しません。アスクラカンでコンサートを開いた話は聞いていません。」

 グラダ・シティとオルガ・グランデにはそれぞれ集客スペースが広くて音響効果の良い劇場がある。闘牛が禁止される前は、闘牛場もあったのだ。現在はスポーツ施設に造り替えられてしまったが、そこでコンサートを開く人気アーティストもいる。しかしアスクラカンはサッカー場があるだけだ。それも世界大会など開けない、野原の中のサッカー場だ。

「音楽ホールがなくても学校などで弾いて子供達に音楽を教えることもあるさ。」

 テオは試験問題を考えるよりビアンカ・オルティスとピアニストの関係を調査する方が面白そうだと言う誘惑と戦いながら、朝食を終えた。
 ステファンの方はデルガド少尉が来るまではぐーたらするつもりなのだろう、食器洗いを手伝った後はまたソファの上に寝転がってしまった。
 静かな土曜日の朝だった。共有スペースの中庭で同じ長屋の奥さん達がお喋りをしながら畑や花壇の世話を始めた。子供の声が聞こえ、タバコの臭いも漂った。しかしテオの気を散らす様な雑音ではなく、彼はリビングのテーブルに書籍や資料を広げ、ラップトップで試験問題を組み立てて行った。問題は3問、一つは先日学生にネタバラシをした簡単な問題だ。残りはちょっと捻って引っかけ問題と、実際に実験に参加していないと解けない問題だ。問題が出来上がると、解答が複数にならないか検証して、それを主任教授にメールで送った。主任教授が月曜日の朝迄に目を通してくれる保証はなかったが、火曜日午前中の試験には間に合うだろう。 実にセルバ的な進行だ。
 そろそろ昼ご飯の支度をしようかと思う頃に、デルガド少尉がジープでやって来た。ステファンは休憩させるために彼を本部へ帰したと言ったが、規律が厳しい官舎で本当に休息出来たのか、テオは疑問に思った。昼食に誘うと、デルガド少尉は上官をチラッと見た。ステファンが微かに苦笑して、テオに頷いて見せた。

「大した物は出せないよ。期待されても困るんだ。」

 テオはスパゲティを茹でて、唐辛子とベーコンのオイルパスタを作った。そこに目玉焼きを載せて出すと、少尉は予想以上に喜んだ。きっと本部の食事はシンプルなんだろう、と想像がついた。
 セルバ人はメソアメリカ人らしく激辛の唐辛子類が好きだ。テオは少ししか唐辛子を入れていなかったので、ハラペーニョソースをテーブルに出しておいたら、ステファンもデルガドもスパゲティにふんだんにかけていた。

「ところで、サイスの尾行にジープを使うんじゃないだろうな?」
「距離を開けて行きます。大統領警護隊の車はグラダ・シティでは珍しくないですから。」
「しかし目立つぞ。」

 テオは彼等の服装を眺めた。

「軍服も目立つと思う・・・」

 ステファンとデルガドが目と目を合わせて会話した。テオは彼等が結論を出す前に提案した。

「俺の車を貸してやるよ。今日は出かけないから。どうしても、って言う用事があれば近所の誰かに頼むし・・・」

 するとステファンが提案した。

「一緒に出かけませんか? 試験問題も出来たようですし、今日はサイスをただ見張るだけになりそうです。」



2021/10/13

第3部 隠された者  2

  テオは出張の疲れが出たので、ビールを一本空けるとシャワーを浴びて寝てしまった。カルロ・ステファン大尉は彼が寝室で寝息を立て始めたのを確認してから、上着を着て、武器などの装備を身につけた。静かに玄関のドアを開き、外に出て施錠した。そしてマカレオ通り3丁目第3筋に向かって歩き出した。満月が過ぎたが、月はまだ丸い。彼は気を抑制していた。以前はコントロールが出来なくて放出しっ放しだったので、よく犬に吠えられた。いや、犬に吠えられた時は大概気力が弱っている時、母親に叱られた日や喧嘩で負けた日だった。気分が高揚していた時は気力が強かったのだろう、犬の方が怯えて吠えるどころか尻尾を巻いて縮こまっていたのだ。今の彼は普通の人間並みに制御出来ている。犬たちは民家の庭で道を通り過ぎる彼を眺めている。中には尻尾を振っているヤツもいた。

 こいつらと話が出来たら、ジャガーの正確な位置がわかるのにな。

 と彼は思った。雨季が近いせいか空気が湿っていた。だが雨にはなるまい。”雨を降らせるもの”と呼ばれたジャガーは雨が降る時をほぼ正確に察知する。降らせることは出来なくても、降るか降らないかはわかるのだ。
 3丁目の通りに来ると、前方に人影が見えた。ステファンは静かに歩調を変えずに近づいて行った。第1筋、第2筋と通り過ぎて行く間、その人影は1軒の家の前を行ったり来たりしている様子で、近づくステファンには気がついていなかった。
 女だった。ビアンカ・オルティスだ、と彼は判別した。彼はわずかばかり気を発してみた。側の植え込みの中でトカゲか蛇がいたのだろう、ガサリと音をたてて何かが逃げた。同時にオルティスがビクリとして振り返った。タイミングからして植え込みの音を聞いて驚いたのではない。ステファンが気を発したので驚いたのだ。
 数秒間暗がりの中で彼と彼女は互いの姿を見つめ合った。目は合わさない。ステファンは彼女が”ヴェルデ・シエロ”だと確信した。夜目が効いている。彼は低い声で尋ねた。

「こんな時間にそんな所で何をしているのだ?」

 オルティスは彼をグッと睨みつけたが、すぐに視線を逸らし、山側の二階建ての家に顔を向けた。ステファンもチラッとその家を見た。ピアニストのロレンシオ・サイスの家だ。人気アーティストの自宅らしく塀が高く、監視カメラも付いている。周囲の家々の3倍の広さはあるだろう敷地の奥に家があった。家は暗く、住人は就寝しているか留守なのだ。エミリオ・デルガド少尉の報告では、サイスは自宅にいると言うことだった。昼間近所の店でメイドが買い物をしたり、本人が庭でサッカーの真似事をしているのを目撃したと言う。
 ステファンはオルティスにもう一度声をかけた。

「こんな時刻にここにいるとストーカーか泥棒だと思われる。それにジャガーも出没する。」

 オルティスは無言で彼を振り返り、やがて通りの反対側に止めてあった自転車に歩み寄った。彼女は自転車を起こすと押しながら彼の側へやって来た。

「ロレンシオは無知なのよ。」

と彼女は言った。

「彼は自分に何が起きたのかわかっていない。だから・・・」

 彼女は自転車にまたがった。そして懇願の口調で言った。

「見逃してあげて。」

 彼女は地面を蹴り、自転車で走り去った。
 ステファンは彼女の姿が遠ざかって行くのを眺め、再びロレンシオ・サイスの家を見た。先刻の彼が発した気を感じた様子は伺えなかった。周辺の動物達も気がついていない。
 彼はサイスの家があるブロックをゆっくりと周回してみた。特に変わった気配はなかった。サイスの家の裏手に小さなロータリーがあった。中央に生えている大木を切りたくないので残してロータリーを造った、と言う感じの道の構造だった。彼は大木の周囲をぐるりと周り、それから木の上に素早くよじ登った。地面が傾斜しているので、それほど高い位置に登らなくとも目的の家の中が見えた。彼は枝の分かれ目で主幹にもたれかかり、枝にまたがる姿勢でサイスの家を監視した。
 夜明け近く迄そこでそうしていたが、結局動きはなかった。早起きの労働者が出てくる前にステファンは木から下りてマカレオ通りのテオの家に戻った。家の中に入ると玄関を施錠して浴室に行き、さっと水を浴びた。そしてリビングのソファの上で横になった。


2021/10/11

第3部 隠された者  1

  テオが自宅の玄関の鍵を開けると、リビングの照明が点いた。短い廊下の奥のリビングで、カルロ・ステファン大尉がソファに横になっていて、テオが部屋に入ってくると上体を起こした。

「こんばんは。勝手に休ませてもらっています。」
「ヤァ。いつでも使ってもらって構わないって言ってるじゃないか。」

 テオは鞄を己の寝室のドアを開けて中へ放り込んだ。長時間のドライブを2日連続で行ったので、体が強張った感じだ。肩を回しながらキッチンへ行って冷蔵庫を開けた。中身は変化していなかった。ビール以外は。彼はビールを1本取り出し、ステファンを振り返った。

「君も飲むかい?」
「いただきます。」

 もう1本取り出してリビングに戻った。向かい合って座り、栓を抜いた。ステファンが尋ねた。

「また文化保護担当部と出かけたんですか?」
「スィ。少佐の口車に乗せられてまんまと利用された。」
「口車?」

 それでテオは彼にミーヤ遺跡のチュパカブラ騒動を語って聴かせた。大統領警護隊本隊には南の遺跡で起きた吸血鬼騒動を用いた麻薬組織の犯罪情報が伝わっていなかったので、ステファンは驚いた。

「へぇ! そんなことがあったのですか。」
「少佐とアスルは最初からチュパカブラなんか信じていなかったから、発掘隊に何か良からぬ企みがあって警備の目を逸らす為の狂言だろうと睨んでいたんだ。ただ発掘作業自体が停滞するのは困るから、作業員達にチュパカブラはコヨーテだと納得させて欲しいと俺に依頼してきた。俺は君から預かったジャガーの体毛とコヨーテの体毛を前後して分析したのさ。その検査結果を持って少佐とアンドレと一緒にミーヤ遺跡へ行ってきた。昨日の午後だ。南部の国境近くへ行ったのは初めてだった。結構密入国者がいるんだな。」
「海からもジャングルからも入って来ますよ。道路はしっかり警備していますがね。細工を施したトラックやバスは大概摘発出来ます。しかし国境全部にフェンスを設ける訳にいかないのです。野生動物の移動を妨げてしまうことになりますから。」
「今回の案件も密入国者の麻薬密輸だった。それに盗掘も絡んでいた。麻薬組織がチュパカブラ騒動で発掘を中止させて警備が引き揚げた隙に遺跡に麻薬を隠し、後で取りに来る算段だったらしい。ところがアスルが遺伝子分析の専門家の俺を呼び寄せたものだから、麻薬組織の下っ端が焦ったんだ。少佐とアンドレが憲兵隊と一緒に本命のアンティオワカ遺跡のフランス隊を制圧しに行った夜、昨夜だけど、アスルが俺の部屋に泊まってくれた。そしたらチュパカブラの牙を模した槍を持った男が部屋に侵入して来てアスルにとっ捕まった。俺達を刺してチュパカブラにやられた様に見せかけようとしたんだ。」

 ステファンが笑った。

「幼稚ですね。」
「スィ。アスルは連中の企みをお見通しだったが、あまりにも予想通りに動いてくれたんで呆れていたぞ。」

 ステファンはビールをごくりと飲んで、しかし、と言った。

「彼は貴方を利用したのでしょう?」
「そうだけど、俺は腹が立たない。彼はちゃんと俺を守ってくれたから。」

 テオは客間のドアを見た。

「エミリオは捜査に出ているのか?」
「ノ、今夜は官舎に帰らせました。休憩も必要ですから。」
「そうだな・・・それじゃ、今夜は君が出かけるのか?」
「0時になったら出かけるつもりです。夜明け前に戻ります。」
「ジャガーの居場所に見当がついたのか?」
「一応・・・」

 ステファン大尉はちょっと躊躇った。

「ナワルを使ったのが誰か、はわかりました。目的は何だったのか、これからマナーに関する指導を受けるつもりがあるのか、相手に接触しなければなりません。」
「簡単に会える相手じゃないのか?」
「一応有名人ですから。」

 それでテオはジャガーが誰だったのか予想がついた。

「人気者の家に大統領警護隊がいきなり押しかけたらスキャンダルになるよな?」
「忽ち町中の噂になるでしょう。それに”砂の民”が動き始めていると思われます。」
「マズイなぁ。」
「スィ。有名人なので、なおさら長老達が神経質になっているようです。」

 テオはピアニストのロレンシオ・サイスが”ヴェルデ・シエロ”であったことに驚いた。それを告げると、ステファンも頷いた。

「私も知りませんでした。私だけでなく、長老達の殆どがご存知なかったのです。」
「サイスはミックスなのか?」
「そうらしいです。片親が”ティエラ”で片親が”シエロ”であると聞きました。ただ”シエロ”の父親が認知していないのです。サイス自身もウェブサイトのプロフィールで母子家庭で育ったと書いています。父親は彼の養育に関わってもいなかったようで、サイスは恐らく自分が”シエロ”だと言う自覚がないのです。」
「それじゃ・・・」

 テオは考えた。

「君のところに偽りの目撃証言を伝えに来た女子学生は何者だい? ただの見間違いだったのか? それともサイスを庇って情報の撹乱を試みたのか? それだとしたら、彼女はサイスが”シエロ”だと知っていることになるが・・・」

 ステファンが溜め息をついた。

「ビアンカ・オルティスとサイスの関係を調べる時間はあまりないと思います。”砂の民”が本当に動いているとしたら、今この瞬間でもサイスは危険な状況にいることになります。」
「それじゃ、俺がオルティスを調べてみよう。」

 ステファンが携帯電話を出した。ビアンカ・オルティスがジャガーの目撃証言をした時の音声を録音してあったのだ。テオはその声を聞いて記憶した。

「彼女の話し方にはアスクラカン周辺の訛りがあるね。」

 アスクラカンはグラダ・シティからルート43を通ってエル・ティティに向かう途中にある地方都市で、セルバ共和国では3番目に大きな街だ。ジャングルを開墾して出来た農地の中にある。都市と言っても農産物の取引が主な産業で、工場や観光地はなかったので国外では知名度がほとんどない。ただ大きなバスターミナルがあって、セルバ人が自国を地上で東西に移動する時はアスクラカンで乗り換えたり、途中下車して休憩するのが普通だった。だからバックパッカーはそこそこ多かった。

「流石ですね、テオ。貴方の聴力の良さは私以上です。」

 ステファンが素直に褒めた。テオは照れ笑いした。

「いや、エル・ティティとグラダ・シティの往復でいつもアスクラカンのターミナルを経由するからさ。あそこで売っているパイナップルジュースをよく買うんだ。ジューススタンドのお姉さんがひどく訛ってるんだよ。」


 

第3部 潜む者  19

  その日が金曜日だと思い出したのは、車がそろそろグラダ・シティへ入ろうとする頃だった。既に夕食時間になっていた。そしてエル・ティティへ行くバスの時間も迫っていた。これは乗れそうにないと判断したテオは、ケツァル少佐がギャラガ少尉に休憩の為にドライブインに入るよう指示した時に、決意した。車がドライブインの駐車場で止まると、彼は降りる前にゴンザレスに電話をかけた。
 週明けの試験のための問題がまだ出来上がっていないこと、臨時の急用で国の南部へ出かけていたこと、バスに乗り遅れたことを正直に話し、今週末は帰れないと告げた。ゴンザレスはちょっとがっかりした様だが、了承してくれた。そしてテオが「ちょっと珍しい体験をした」と言うと、次回の帰省の時に聞かせてくれることを楽しみにしている、と言った。
 電話を終えると、車外で待っていた少佐が署長には悪いことをしたと言った。テオに謝ったのではなく、ゴンザレスに謝罪を述べたのだ。
 ドライブインで簡単な夕食を済ませ、最後はテオが運転した。門限までまだ時間はあったが、一番最初にギャラガを大統領警護隊本部前で下ろした。

「明日は軍事訓練ですから、いつもの時間にいつもの場所に集合です。」

 少佐は出張で疲れている部下に情け容赦なく翌日の予定を告げた。テオが彼女に確認した。

「土曜日の軍事訓練は任意の参加だったよな?」
「そうですが、それが何か?」

 彼はギャラガに声をかけた。

「疲れが残っていたら休んでも良い筈だ。」

 ギャラガが少佐を見た。少佐は肩をすくめてテオに言った。

「参加するか休むかはアンドレの自由です。」
「明日の訓練は何処でするんだ?」
「明日決めます。」

 彼女はギャラガを振り返った。

「昨日と今日の報告書は週明けに提出しなさい。期日は月曜日の1600です。」
「承知しました。お休みなさい。」

 ギャラガは敬礼して本部の通用門へ走り去った。
 テオはゆっくりと車を出した。

「君をアパートに届けて俺は歩いて帰る。歩きながら試験問題を考えるよ。」
「駄目です。」

と少佐がキッパリと言った。

「考え事をしながら夜道を歩くものではありません。貴方の家の前まで運転して下さい。そこから私は自分で運転して帰ります。」
「じゃぁ、そうする。」

 大統領警護隊本部からテオが住むマカレオ通りを通って少佐が住む西サン・ペドロ通りへ行くにはちょっと遠回りになる。しかし少佐は常にテオや部下の安全を第一に考えるのだ。彼はその心遣いを嬉しく思った。
 走り慣れた道を通り住宅地に入った。週末なので庭で宴会をしている家があったりして、夜遅くなっても賑やかだ。これなら不良ジャガーも出て来ないな、とテオは思った。
 自宅前に来ると、文化・教育省の職員駐車場に駐めておいた筈のテオの車が玄関前の駐車スペースに駐まっていた。テオは念のためにポケットを探った。

「家の鍵も車の鍵も俺のポケットにあるんだが・・・」
「そうですか、不思議ですね。」

と少佐が人ごとみたいに言った。テオは車を停めて、車外に出た。後部席から荷物を下ろしていると、少佐も降りてきた。

「今回は急な協力要請に応じていただいて、感謝します。」

と彼女が業務の終了として挨拶した。テオは微笑んだ。

「俺は滅多にない面白い体験をさせてもらって、感謝している。アスルと連絡が取れたら、俺が家賃を取ることにしたと伝えてくれないか。どうしても彼と同居したい訳じゃないが、彼が中尉に昇級する価値がある仕事をしていると認めている、と言ってくれ。」

 少佐が笑った。

「承知しました。彼も内心は喜んでいますよ。」

 彼女はテオの唇に「おやすみなさい」のキスをして車に乗り込んだ。

2021/10/10

第3部 潜む者  18

  ミーヤ遺跡とアンティオワカ遺跡の2箇所を任されてアスルは荷が重くないのだろうか? とテオは少し心配したが、本人は気にしていない様子だった。それによく考えたら、広いアンティオワカ遺跡に陸軍の警備兵だけが付いていて大統領警護隊がいないと言うのは可笑しいのだ。フランス隊に油断させておいて、実際はアスルがこっそり様子を伺っていたに違いない。
  少佐のベンツに荷物を積んでから、テオはアスルに昨夜の礼を言った。アスルは「仕事だ」といつもの様に無愛想に言ったが、きっと照れ臭かったに違いない。テオは予てから考えていたことを提案してみた。

「大統領警護隊の本部が君を中尉に引き上げたいと思っているのに君に固定の住所がないと言う理由で実現出来ていないと聞いたことがある。もし良ければ、登録の住所だけでも俺の家にしておかないか?」

 アスルが怪訝な表情で彼を見た。何か裏があるのかと疑っている様な目つきだったので、テオは苦笑した。

「家賃の請求なんてしないし、部屋が空いている。俺が予想するに、アリアナはセルバに戻って来るとしても、今の俺の家には住まない。セキュリティが甘いだろう? 彼女は一度恐ろしい目に遭っている。現在のカンクンのアパートも少佐の家並みの強力なセキュリティが売りなんだ。それに兄妹と言っても彼女と俺は血縁関係がない。同居しなきゃいけない理由がない。だから俺は居住場所に関して、彼女の自由にさせようと思っている。だから彼女の部屋は空いているんだ。君に自由に使って欲しい。もし誰かを泊めることになれば、君が使わなくても俺は君に必ずお伺いを立てる。」

 アスルはツンと顔を背けた。

「どこに住所を置こうが俺の勝手だ。」
「無理にとは言わないさ。君の自由だから。でも考えておいてくれ。」

 テオは車に乗り込んだ。帰りも後部席だった。少佐が運転席でギャラガが助手席だ。敬礼で見送るアスルと警備兵を後にして、ベンツは小道を走り、すぐにハイウェイに乗った。
 先刻の話を聞いていたのだろう、少佐が運転しながら尋ねた。

「アスルは貴方の家に今も泊まりに来るのですか?」
「スィ。10日程連泊することもあれば、今のように出張で数ヶ月来ない時もあるがね。朝飯作ってすぐ仕事に行くから、会話をする訳じゃない。」
「家賃を取りなさい。」
「しかし・・・」
「無料だと言ったら、却って寄り付かなくなりますよ。」
「そうか?」
「住所を置くと言うことは、そこに生活の基盤を置くと言う意味です。タダで住めるのはスラムか親の家だけです。家賃を払えと言えば、アスルはちゃんと貴方の家に住み着きますよ。」
「・・・変なヤツだな・・・」

 助手席でギャラガがクスクス笑った。子供時代をホームレスかスラムで暮らした男だ。

「クワコ少尉はプライドが高いんです、ドクトル。無料で住めと言われたら、逃げてしまいます。朝食の支度をするのは、家賃代わりですよ。」

 テオは少佐が彼の言葉を聞いてクスッと笑うのを見た。

「どうも俺はアスルの扱い方を間違えた様だ。」

と彼はぼやいた。前の席でガサガサと音がした。ギャラガが少佐に尋ねた。

「スルメを食べても良いですか? 一袋だけ開けて、3人で食べると言うのはどうです?」

 上官がすぐに返事をしなかったので、彼は言い訳した。

「この干したイカはガムみたいに噛むんです。眠気覚ましになります。」

 数秒間をおいて少佐が「許可します」と呟いた。ギャラガはグラシャスと言い、袋を開いた。後部席に体を向けて、テオに袋を差し出した。

「一つかみどうぞ。ただ指先がちょっと汚れるので気をつけて下さい。」
「グラシャス。」

 テオは初体験の食べ物を掴み取った。確かに指先に何か付着した様な感触があったが、目で見ても何もなかった。1本だけ口に入れてみた。想像したより硬かった。硬いので噛むと甘辛い味がした。焼いたイカの香ばしい味もした。

「あまり一度にたくさん食べないように。」

と少佐が注意した。

「人間には害はありませんが、ジャガーになった時は食べてはいけません。」
「それって・・・」

 テオは記憶を探った。

「生の頭足類だろう? これは加熱してあるし、ちょっと口が寂しい時にかじる程度だ。美味いぞ。」

 すると少佐がちょっとイラッとした声で言った。

「美味しいのは知っています。」

 彼女は前を向いたまま、ボソッと呟いた。

「食べ出すと止まらないのです。」


2021/10/09

第3部 潜む者  17

  昼前にアンティオワカ遺跡からケツァル少佐とギャラガ少尉が引き揚げてきた。憲兵隊はまだ奥地にいる様だ。少佐はアスルからチュパカブラ騒動の顛末の報告を受けると、彼女の方もアンティオワカでの成果を伝えた。フランス隊の盗掘は学者の犯行ではなく、彼等がヨーロッパから連れて来た学生の仕業だった。そして麻薬の方は作業員に混ざっていた密入国者のコロンビア人だった。
 テオとギャラガはテントの下で大人しく彼等の会話を聞いていた。実を言うと2人共寝不足で意識がぼんやりしてきていたのだ。それに気づいた少佐が時間制限を設けて早めのシエスタを宣言した。携行食で簡単な昼食を取って、彼等は1時間ばかり眠った。
 まだ太陽が中空にあるうちにシエスタは終了し、少佐はアスルにアンティオワカ遺跡発掘の中止命令が守られることを監視するよう命じた。

「学者達には気の毒ですが、1人でも不届き者が出ればその時点で発掘を中止させると言うのが我が国の法律ですから。」

と少佐がテオに説明した。テオは近くで彼女の言葉を殊勝な顔で聞いている日本人学者に気がついた。こんにちは、と知っている数少ない日本語で挨拶すると、向こうもこんにちはと返してくれた。

「当方の作業員からもチュパカブラ騒動の関係者が出ました。我々も中止しなければならないのでしょうか?」

 テオはケツァル少佐を見た。少佐が何か言う前に彼は弁護してみた。

「ミーヤ遺跡では盗掘はないよな? 麻薬組織の人間はいたが、作業員に紛れ込んでいただけだろう? 遺跡そのものを傷つけた訳じゃないと思うが?」

 少佐が何か言う前に、ギャラガが鼻をひくつかせた。

「何だろう? 良い匂いがする・・・」
「これかな?」

 とアスルがテーブルの上に置いてあったスルメの袋を手に取った。
 少佐が何か言う前に、ギャラガが叫んだ。

「あー、それ、知ってます! 美味しいヤツだ!」
「スルーメだってさ。」

とテオが言った。少佐が何か言う前に、日本人が言った。

「まだあります。差し上げますよ。」

 素早く自分達のテントへ立ち去ったので、少佐が首を振った。

「賄賂の要求に聞こえましたが・・・」
「そんなつもりは毛頭ない!」

とテオは言った。

「俺はまだそのスルーメを食べたことがないんだ。」
「スルーメじゃなくてスルメだ。」

とアスルが発音を訂正した。ギャラガはかつて陸軍にいた頃に先輩から分けてもらったことがあったので、味を知っていた。

「確か、干した魚でしたよね?」
「干したイカだ。」
「だから魚でしょ?」
「イカは魚類ではない。」

 そう言えばアスルは魚介類が好物なのだ、とテオは思い出した。
 日本人が新しいスルメの袋を4つ持って来た。最初にレディファーストで少佐に手渡された。少佐は気が進まなさそうな顔で受け取った。テオとアスルはその日2つ目のスルメをもらい、ギャラガは数年ぶりに干したスルメイカを手にした。

「発掘の件ですが・・・」

と少佐がやっと口に出した。その場にいた全員が彼女を見た。

「ミーヤ遺跡では盗掘の事実は確認出来ていませんし、チュパカブラ騒動に関わった人間は臨時雇用の作業員でした。従って、ミーヤ遺跡の発掘は続行許可します。」

 小さな遺跡の中に歓声が上がった。  

第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...