2021/10/20

第3部 隠れる者  2

  ロレンシオ・サイスの家のライブラリーは防音仕様になっていた。書斎と言うより音響を楽しむ為の部屋だ。サイスは客を中に入れるとドアを閉じて中から施錠した。
 テオは棚に収録されているレコードやC D、D V Dなどを眺めた。どれもピアノやジャズの媒体だった。サイスはこの部屋で他人の演奏を聴いて勉強しているのだろう。
 ケツァル少佐は興味なさそうだ。そう言えば彼女が何か音楽を聴いているのを見た記憶がないな、とテオは気がついた。彼女はいつも風の音や小鳥や虫の鳴き声を聴いている。聴いて敵が接近して来ないか警戒しているのだ。どんな時でも。
 サイスが客に向き直った。英語で尋ねた。

「ジャガーを追跡されているのですね?」

 と彼が尋ねたので、テオは正直に言った。

「追跡は大統領警護隊遊撃班の仕事で、俺達は遊撃班の手伝いをしている。申し遅れたが、俺はグラダ大学生物学部で遺伝子分析の研究をしている。遊撃班が採取したジャガーの体毛と血痕を分析した。」
「血痕の分析・・・」
「何処か怪我をしたんじゃないか? 有刺鉄線で引っ掛けただろう?」

 サイスが不安でいっぱいの暗い目で彼を見た。

「僕がジャガーだと考えていらっしゃるのですか?」
「違うのかい?」

 テオに見つめ返されて、サイスは目を逸らし、ケツァル少佐を見た。少佐は彼の目を見たが、感じたのは恐怖と不安感と孤独感だけだった。彼女も英語で尋ねた。

「変身したのはあの月曜日の夜が初めてだったのですか?」
「僕は・・・」

 サイスが床の上に座り込んだ。

「何が起こったのか、わからないんです。バンド仲間やファンクラブの人達とパーティーをして、調子に乗ってドラッグに手を出しました。クスリをやったのは初めてです。本当です、信じて下さい。」
「私達は貴方の薬物使用を咎めに来たのではありません。私の質問に答えて下さい。変身を何回経験しましたか?」

 サイスが震える声で答えた。

「1回です。あの時が初めてです。」
「あれから変身していませんね?」
「していません。どうやって変身したのかも覚えていません。本当に変身したのか、自分の記憶も混乱しているんです。でも、家に帰った時、僕は裸で何も身につけていませんでした。脇腹に引っ掻き傷があって、鏡を見たら、僕の目が・・・」
「ジャガーの目だった?」

とテオが声を掛けた。

「金色の目をしていたんだね?」
「はい・・・ドラッグのせいで幻覚を見ているのだと思いました。だけど、家に帰って来る時の身軽さと爽快感は覚えていて・・・」
「ナワルを知っているかい?」

 サイスがこっくり頷いた。

「ファンクラブの人がパーティーの時に話していました。古代の神官や魔法使いが動物に化けるのだと・・・」
「ファンクラブの人がね・・・」

 テオと少佐は顔を見合わせた。ドラッグパーティーにナワルの話など出すか、普通? とテオが心の中で呟くと、少佐がまるで彼と”心話”が通じたかの様に言った。

「不自然な話題の出し方ですね。その話をしたのは女性ですか?」

 サイスがちょっと考えた。そして再び頷いた。

「そうです、生粋のセルバ人で、綺麗な人でした。コンサートの客席で何度か見かけましたが、話をしたのはあの夜が初めてでした。」
「ビアンカ・オルティス、彼女はそう名乗りませんでしたか?」
「名乗ったかも知れませんが、覚えていません。正直なところ、僕は自分の身に起きたことで混乱して、あの夜のパーティーのことは漠然としか思い出せないのです。」
「記憶が曖昧なのはドラッグの影響でしょう。」

 少佐が時計を見た。

「貴方のマネージャーが苛ついています。私達はここで切り上げます。」
「あの・・・」

 サイスが立ち上がってテオの腕に手を掛けた。

「僕に何が起きたのか、ご存知なのでしょう? 助けて下さい。誰にも相談出来ないんです。大統領警護隊がジャガーを探していると言う噂を家政婦から聞いて、捕まるんじゃないかと恐ろしくて堪らないのです。」
「それで昨日まで家に閉じこもっていた?」
「はい・・・」

 勿論、サイスをこのまま放置しておくつもりはないテオと少佐だ。少佐が名刺を出した。

「私の連絡先です。平日は文化・教育省にいます。いつでもいると言う訳ではありませんが、職員に伝言を残して下されば、こちらから接触します。それから、今日のコンサートですが・・・」

 少佐はサイスの目をグッと見つめた。サイスがその眼力にたじろぐのをテオは感じた。少佐が微笑んだ。

「頑張って下さい。成功を祈ります。」



第3部 隠れる者  1

  グラダ・シティのマカレオ通りにあるロレンシオ・サイスの家の前でケツァル少佐とテオドール・アルストは散歩をしているかの様な軽装で立っていた。日曜日の朝なので敬虔なクリスチャンは教会に出かけるだろう。サイスは出かける様子を見せなかった。塀の中の庭に車が2台駐まっていた。1台はサイスのイタリア車で、もう1台はマネージャーの物と思われる中古のドイツ車だった。ドイツ車は昨夜遅くサイスと前後してその家に来たのだ。マネージャーはサイスの家に泊まったと思われる。1人だけなのか、他に連れがいるのかわからない。
 門の内側に先に忍び込んでいたエミリオ・デルガド少尉が近づいた。彼は門扉を内側から解錠し、少佐とテオを中に入れた。少佐は塀の内側に入る直前に通りの向こうの角を振り返った。そこにアンドレ・ギャラガ少尉が立っていて、上官に頷いて見せた。彼は見張りだ。
 中に入ってしまうとデルガドが門扉を閉じた。彼はそのまま車のそばに残り、少佐とテオが玄関のドアの前に立った。

「中の人の気配は感じるかい?」

とテオが小声で尋ねた。少佐が頷いた。

「3人です。全員男性。 起きて活動しています。コンサートに向けて出かける準備中でしょう。」

 テオは頷き、それからドアをノックした。サイスもマネージャーもアメリカ人だが、北米のセレブの様なセキュリティは付けていない様だ。庭の監視カメラも2つしかなかった。デルガドはそれらを無力化してしまっている。
 ドアが少しばかり開いて、中年の男が外を覗いた。メスティーソだ。門扉を施錠した筈なのにドアをノックされて驚いていた。

「どなた?」
「大統領警護隊の者です。」

と少佐がストレートに名乗り、緑の鳥の徽章とI Dカードを提示した。セルバ共和国に住むなら、既に4年も住んでいるなら、大統領警護隊が軍隊であり警察の様なものでもある組織だと言う程度の知識は持っている。逆らってはいけないと周囲のセルバ人から聞かされている筈だ。男は渋々ながら、そして不審気にドアを開いた。

「何の御用でしょう?」

 少佐が彼の目を見た。男も彼女の目を見た。少佐が言った。

「ロレンシオ・サイスに会わせて下さい。」

 男が頷いた。

「こちらへどうぞ。」

 少佐がテオを振り向いて、ウィンクした。テオも微笑した。
 男はテオと少佐をグランドピアノが中央に鎮座している広いリビングに案内した。リビングの片隅でロレンシオ・サイスと30代後半と思える男が向かい合って朝食を取りながらその日の仕事の打ち合わせをしていた。突然の訪問者に2人は驚いて振り返った。
 サイスはミックスだが母親は北米先住民とのことで、顔は純血のセルバ人とそんなに違いはなかった。マネージャーらしき男は白人だ。白人が立ち上がった。

「ハイメ、この人達は何だ?」

 ハイメと呼ばれた最初の男は困惑していた。何故訪問者をリビングに案内したのか彼はわからないのだ。
 少佐が微笑んだ。

「ブエノス・ディアス。」

 白人は彼女を見て、彼女の目を見ずに尋ねた。

「誰なんだ?」

 セルバ人の目を見て話してはいけないと言うマナーを守っている。テオが名乗った。

「こちらは大統領警護隊文化保護担当部のミゲール少佐です。私はグラダ大学の准教授テオドール・アルストです。」

 少佐が身分証を提示した。

「突然の早朝の訪問をお許し下さい。セニョール・サイスに大至急お話ししなければならない用件があります。」
「何ですか? 彼との話は私を通して頂かないと・・・」

 マネージャーが頑固にピアニストを守ろうとした。テオは彼の注意が少佐に向けられている間に、サイスを見た。サイスが不安げにこちらを見ており、テオと目が合った。テオは英語で言った。

「月曜日の夜の散歩はいかがでしたか?」

 テオはサイスがビクッとするのを見た。ピアニストはマネージャーに声をかけた。

「ボブ、お2人をライブラリーにお通しして。」

 マネージャーが彼を振り返った。

「ロー、今はそんな暇は・・・」
「いいから、早く!」

 サイスが立ち上がった。

「出来るだけ早く終わらせるから、僕が良いと言う迄、邪魔しないでくれ。」


2021/10/19

第3部 隠された者  21

  ドロテオ・タムードの次男は話を続けた。

「川向こうの家は我が家と違って伝統を重んじます。ですから男の妻と子は男と同居していましたが、子供の養育費は妻の実家から出ていました。それなのに男は北米の女には自分で養育費を送っていたのです。妻の怒りはお金の問題でした。男と妻の仲は拗れてしまい、男は心の病で亡くなりました。」

 ロレンシオ・サイスの父親は死んでいた? ロホとステファンは再び顔を見合わせた。サイスはそれを知っているのだろうか。ロホが「失礼します」と断ってから質問した。

「その男が亡くなったのは何時ごろのことでしょうか?」
「4年前です。」

 即答だった。サイスがセルバ共和国へ移住して来たのも4年前だ。父親が亡くなって養育費の送金が止まったので、こちらへ来たのだろうか。彼は父親に会えたのだろうか。
 ロホが再度確認の質問をした。

「ロレンシオ・サイスはアスクラカンへ来たことがありますか?」
「ノ。」

 これも即答だった。ドロテオ・タムードが息子の代わりに言った。

「私は今日初めてその話を知ったが、もし川向こうの家の北米の息子がこの街へ来たら、男の妻が大騒ぎした筈だ。私はあの女を知っている。気性の激しい女だ。」
「その川向こうの家に娘はいませんか? サイスと同じ様な年齢の・・・」

 すると後ろにいた三男が答えた。

「男の娘が1人います。妻の子供はその娘1人だけです。」
「純血種ですか?」
「スィ。」

 ステファンはタムードと長男、次男に「失礼」と断って、後ろを振り返った。

「教えて下さい、その娘はこんな顔ですか?」

と言って三男の目を見た。三男も彼の目を見た。そして頷いた。

「ビアンカ・オルトです。」
「グラシャス。」

 ステファンはロホを見た。主人一家に失礼がないように声を出して言った。

「ビアンカ・オルティスはビアンカ・オルトだ。そしてロレンシオ・サイスの腹違いの姉だ。」
「ビアンカは名前と身分を偽ってサイスに近づいたのだな。目的は何だ?」

 するとタムードの次男の方から質問して来た。

「ビアンカ・オルトがロレンシオ・サイスのそばにいるのですか?」

 ステファンとロホは彼等に向き直った。ステファンは今回の訪問の理由を最初から説明することを決心した。

第3部 隠された者  20

 アスクラカンに向かって早朝グラダ・シティを出発したのはステファン大尉とロホだった。2人で大統領警護隊のジープに乗ってルート43を西に向かって走った。ルート43はグラダ・シティからアスクラカン迄は中央分離帯がある立派なハイウェイだ。都会と農業地帯を結ぶ産業道路も兼ねているので、バスやトラックが頻繁に行き来している。ジャングルは開墾され、コーヒーやバナナの畑が続いているし、少し小高い農地では野菜も作られている。つまり、そこに住んでいるサスコシ族は決して田舎者ではないのだ。メスティーソの起業家達に混ざって裕福な農園経営者として成功している”ヴェルデ・シエロ”だ。後進の純血種の”ヴェルデ・ティエラ”達が労働者として働いているのと違って、古代から住み着いていた”シエロ”の方が経営者として栄えている。他の土地に住んでいる他部族がひっそりと慎ましやかに暮らしているのに、アスクラカンのサスコシ族は豊かだった。

「だからミゲール大使は金持ちなんだ。」

とステファン大尉が呟いた。ちょっとやっかみが入っていた。彼は鉱山町のスラム出身だ。イェンテ・グラダ村出身の祖父が出稼ぎに出たのがオルガ・グランデでなくアスクラカンだったら、グラダ・シティから逃げ出した父が逃げ込んだのもオルガ・グランデなくアスクラカンだったら・・・と考えて、すぐに彼は馬鹿馬鹿しい妄想だと気がついた。祖父は故郷より遠く離れた鉱山で働いていたからイェンテ・グラダ村殲滅を逃れられたのだ。アスクラカンはイェンテ・グラダ村があったオクタカスに近い。父もオルガ・グランデに逃げたから母と出会い4人も子供をもうけることが出来た。アスクラカンにいたらすぐに追っ手に見つかってグラダ・シティに連れ戻されただろう。そしてカルロとグラシエラは生まれていなかった。
 フェルナンド・フアン・ミゲール大使の遠縁の農園主の家はハイウェイから横道に入り半時間走った所にあった。民家と畑が混在する平たい土地の中に建てられた大きめの家だった。大地主と言うより何処かの会社の重役と言った感じだ。門扉は開放されたままで、運転しているステファンは停止することなくジープを敷地内に乗り入れた。
 グラダ・シティを出る前にステファン大尉はその家の当主ドロテオ・タムードに電話をかけ、訪問することを告げていた。用件は言っていない。だから家から出て来たタムードは不審そうな表情でジープから降りてくる2人の男を眺めた。タムードは60代前半の純血種だったが、彼の後ろに立っている3人の息子はメスティーソだった。つまり妻もメスティーソだ、とステファンは思った。純血種と白人がいきなり婚姻することは滅多にない。特に地方では。
 ステファンもロホも私服だったが、緑の鳥の徽章は持っていたし、規則に従って拳銃も装備していた。2人は右手を左胸に当ててきちんと挨拶をして、日曜日の朝に訪問したことを詫びた。タムードは若者達が礼儀を守ったので機嫌を直し、客を家に入れた。明るい陽光が入るリビングは窓も開放されていて風通しが良かった。タムードの長男が父親の後ろに立ち、客がその向かいに座ると次男と三男がその後ろに立つと言う伝統的な迎え方だった。つまり客が突然敵意を剥き出しにすると直ぐに応戦出来る態勢だ。
 メイドがコーヒーを運んで来てテーブルに置いて去る迄、室内は静かだった。主人も客も相手の目を見ないで、しかし相手の様子を伺っていた。やがて、タムードが口を開いた。

「ミゲールの娘からの紹介だと言うことだが、どんな用件かな?」

 ステファン大尉が答えた。

「最近グラダ・シティで音楽活動をしているアメリカ合衆国国籍のピアニスト、ロレンシオ・サイスはアスクラカンの一族の人を父親に持つと聞きましたが、ご存知でしょうか。」

 タムードが後ろの長男を振り返った。30代半ばと思しき長男が首を傾げ、それから次男へ目を向けた。次男が答えた。

「ジャズピアニストのサイスのことですね。私が聞いた話で良ければお話しします。」

 父親が頷いて許可したので、次男は立ち位置を父親の後ろへ移動し、長男と並んで立った。

「川向こうの家族に、23年前に北米へ行って現地の女性との間に子供をもうけた男がいました。男はこちらに妻と子供がおり、北米の女と子供をこちらへ呼びたいと希望しましたが、当時まだ元気だった両親に反対され、希望は叶えられませんでした。男は北米での仕事が終わり、アスクラカンに戻って来ましたが、北米に残した女と子供に申し訳なく思い、養育費を送り続けました。彼の妻と子供はそれを知りませんでしたが、北米の子供がピアニストとしてメディアに出て来る様になると、男が隠していた秘密が明らかにされてしまいました。ピアニストは父親にそっくりだったからです。妻は夫が隠れて子供を作っていたことや、養育費を送り続けていたことに腹を立て、家族の家長に訴えました。」

 ロホとステファンは顔を見合わせた。自称ビアンカ・オルティスの話と一致している、と2人は頷き合った。

第3部 隠された者  19

 「自称ビアンカ・オルティスは何の為に大統領警護隊に嘘の情報を流すんだ?」

とロホが疑問を口にした。通常セルバ人は大統領警護隊に嘘を言わない。嘘をついてもすぐにバレると知っているし、バレた時の制裁を恐れているからだ。それは隊員達と同じ”ヴェルデ・シエロ”でも同じことだ。大統領警護隊は一族の中の警察機構同然だから、掟に触れることをしたり、法律違反をすれば処罰されることを知っている。捕縛され長老会の審判を受けることになれば、家族から除名されるし、部族からも追放される。最悪の場合は処刑もあり得る。

「自称オルティスはサスコシ族と名乗りました。確かにあの部族の本拠地はアスクラカン周辺の森林地帯です。しかし、そんなことは一族なら誰でも知っています。少佐・・・」

 ステファン大尉が正面のケツァル少佐を見たので、少佐が首を振った。

「父に訊いても無駄です。父は若い頃に故郷を出ていますし、農園の管理を監督しに年に数回帰郷するだけです。サスコシの部族内の様子は知らないでしょう。」

 純血種のグラダの少佐がそんなことを言ったので、事情を知らないギャラガとデルガドが怪訝な顔をしたが、誰も教えるつもりはなかった。ステファン大尉が頭を掻いた。

「ミゲール大使が駄目なら、市内でサスコシ族を探すか、直接現地へ行ってオルティスの調査をしなければなりません。彼女がサイスのナワル使用とどの様な関わりを持っているのか確かめる必要があります。」
「訊く相手はサスコシ族じゃなくても良いんじゃないか?」

とテオが言ったので、彼は注目を集めてしまった。この場で唯一人の白人である彼は、一瞬躊躇ったが、自説を述べた。

「確かに彼女はアスクラカンの訛りで喋ったから、あっちの出身だろうと推測されるが、あれだけ嘘が上手い女だ、訛りも訓練で話せるのかも知れない。もしそうなら、そうまでしてサイスに近づく必要がある一族の人間は何者かってことだ。」

 ああ、と溜め息混じりの相槌を打ったのはケツァル少佐だった。

「だから、ケサダ教授はピューマもいると仰ったのですね。」

 ロホとステファンが2秒後に同時に彼女の言葉の意味を理解した。

「ビアンカ・オルティスは”砂の民”?!」
「なんてこった!」

 それを聞いて、デルガドとギャラガもギクリとした。特にデルガドはショックを受けていた。彼は横に座っている上官を見た。

「大尉、あのことも報告した方がよろしいですね?」
「スィ。既に少佐には伝わっているが。」

 ロホとギャラガがデルガドを見たので、デルガドはシティホールに建設大臣秘書のシショカが現れたことを語った。彼の後に続けてステファンがシショカと話をしたことを告げると、少佐が苦笑した。

「イグレシアス大臣から、確かに私の携帯にコンサートのお誘いのメールが来ていました。私は先約があるからとお断りしましたけど。」
「シショカはサイスに対して関心を持っている様に見えませんでした。彼はオルティスとも顔を合わせていません。」
「つまり、シショカはサイスがミックスの”シエロ”だと知らない?」

とテオが訊くと、彼は知りません、とステファンは答えた。

「知っていれば、”出来損ない”の私に”出来損ない”のピアニストを見に来たのかとか何とか皮肉を言った筈です。あの男はそう言う性格ですから。」

 ミックスのアンドレ・ギャラガが嫌な顔をした。殆ど白人の容貌を持つ彼は、己より”シエロ”の血が濃い尊敬するステファン大尉が、純血種達から”出来損ない”呼ばわりされるのを耳にするのが本当に嫌なのだ。美しい真っ黒なジャガーに変身する大尉が何故軽蔑されなければならないのだ、とギャラガは己が侮辱される時よりも強い憤りを感じるのだった。

「自称オルティスはシショカがシティホールに行ったことを知らなかった様子だったなぁ。」

とテオが屋上での尋問を思い出した。ロホが言った。

「”砂の民”は全員が同じ命令を受けて動く訳ではありませんから、彼女だけがサイスを嗅ぎ回っていたのではないですか? ただ彼女はまだ若くて経験が浅いのでしょう。いつも取り巻きを連れているサイスになかなか近づけなくて、あの手この手で接近を図っているのかも知れません。」
「それなら・・・」

とステファンは大統領警護隊本部の地下へ降りた時のことを思い浮かべた。

「私が面会した長老は3名だったが、サイスがミックスの”シエロ”だと知っていたのは1人だけだった。だから、あの時点でサイスを粛清する命令は出ていなかったと思う。」
「長老会から命令が出ていないのに、”砂の民”が動いているってことはあるのか?」

 テオの疑問に、少佐がポツンと答えた。

「あります。家族からはみ出し者が出た時に家長が命令を発するのです。」



2021/10/18

第3部 隠された者  18

  エミリオ・デルガド少尉はケツァル少佐の自宅訪問は初めてだったので、勝手がわからず、ステファン大尉が「座れ」と言ったので素直に客用のソファに座った。そして既にこの家に馴染んでしまったアンドレ・ギャラガ少尉がキッチンからグラスと氷を運んで来たのを見て、自分も手伝うべきだったかと、ちょっぴり焦った。しかし誰も気にしていない様子だった。
 少佐は大尉の向かいの彼女専用のソファに座った。専用ではあったが、彼女の隣にテオドール・アルストが自然な形で座り、ロホは床のカーペットの上に座って少佐のソファにもたれかかった。ギャラガもグラスを配り終わるとロホと反対側のカーペットの上に座った。主人である少佐がグラスに購入したばかりの酒を少しずつ注ぎ入れながら、「報告」と言った。それで、ステファン大尉から始めた。

「ある信頼出来る筋からの情報で、アメリカ合衆国に市民権を持つピアニスト、ロレンシオ・サイスが今週の月曜日の夜に現れて市民を不安に陥れたジャガーであると見て間違いないようです。」
「信頼出来る筋?」

とロホが質問した。大尉は短く答えた。

「長老会のメンバーだ。」
「グラシャス。」
「サイスは本人も公表している様に、父親がセルバ人、母親が北米人です。父親は彼を認知しておらず、仕送りだけして彼の養育には一切関わらなかったと、証言する者がいます。その証人の身元については後からデルガド少尉から報告があります。今は、私がその証人ビアンカ・オルティスから聞いた話を言います。オルティスは自らをアスクラカン出身のグラダ大学学生と名乗りました。彼女の証言では、サイスの父親は彼女の祖父違いの叔父だそうで、彼女は彼に身元を隠したまま、ファンクラブのメンバーとして彼と知り合いました。
 月曜日の夜、まだ早い時間だった筈ですが、一部のファンクラブのメンバー達とサイスはドラッグパーティーをしたそうです。サイスが何を摂取したのか知りませんが、セルバへ来て彼がハメを外したのはその時が初めてだったとオルティスは証言しました。ドラッグの影響でサイスは変身してしまい、1人で外へ飛び出した。オルティスは追いかけたそうです。結局彼に追いつけぬまま、彼はマカレオ通りの自宅へ帰ってしまいました。
 オルティスは彼を守らねばと思い、火曜日に大統領警護隊がジャガーを探していると聞いて、大学にテオを訪問した私に声を掛け、実際にサイスが向かったのと反対方向へジャガーが歩くのを見たと証言しました。
 サイスは今日の昼まで自宅から出て来ませんでしたが、明日のコンサートの打ち合わせの為に今日はシティホールへ出かけました。練習風景は特に変わった様子を見受けられませんでした。
 我々はサイスが明日迄は特に問題を起こすこともないと判断して、オルティスの住まいを訪ねました。彼女が嘘の証言をした理由を糺しに行ったのです。そこで彼女の言葉からサイスがピアノの演奏中に気を放出していると推測しました。」

 既に”心話”でこの話を知った少佐は反応しなかったが、ロホとギャラガは驚いた。2人共ファンとは言えないまでもサイスのピアノはテレビやネット配信で聞いたことがあったのだ。

「演奏中に気を放っているのか?」
「スィ。媒体を通しては感じないが、生演奏を聞いた人は彼の音楽に心を奪われてしまう、そんな能力の様だ。だからファンが増えても急激に増加したりしない。」
「それはマズイんじゃないですか?」

とギャラガが心配そうに呟いた。

「一族が事実を知れば、彼を危険分子と看做す筈です。現に私も不安を感じています。歌や音楽で聴衆の心を虜にするのは、古代の神官の技でしょう?」

 ステファンは頷いた。

「だからテオと私はオルティスにサイスを大事に思うなら彼にキャリアを捨てさせる決心で守れと言いました。何故なら彼女は彼が理性で気を抑制していると言ったからです。それが本当なら、サイスは自分の能力を知った上で使っていることになるからです。オルティスは我々の言葉を理解した様に思われたのですが・・・」

 彼はデルガドを見た。デルガド少尉が後を引き継いだ。

「その証人のビアンカ・オルティスがどんな人物なのか、大尉とドクトルがオルティス本人に尋問している間に、私はネットや電話で調べてみました。最初にアパートの管理人に電話して、彼女が家庭教師をしている家の人から彼女を推薦されたので、私も雇いたいと言いました。彼女を紹介して欲しいと言うと、オルティスは家庭教師などしていないと言うのです。管理人が言うには、彼女は大学生ではないとのことでした。」
「大学生でなければ、何をしているんだ?」

とロホが尋ねた。デルガドが肩をすくめた。

「管理人は彼女の仕事を知らないと言いました。家賃をきちんと払ってくれるので、彼女が何をしているのか気にしていない様でした。」
「まぁ、そうだろうな。」

とテオが同意した。彼はオルティスの尋問の後でデルガドから彼女が学生でないと聞かされて仰天した時のことを思い出し、苦々しい気持ちになった。
 デルガドが続けた。

「試しに私は西サン・ペドロ通り1丁目第7筋近辺の各家に片っ端から電話を掛けて、良い家庭教師を探しているので誰か紹介してくれないかと訊いてみました。2、3人の名前が挙がりましたが、ビアンカ・オルティスの名はありませんでした。」

 テオはデルガドの勤勉さに驚いた。彼が屋上でオルティスを尋問している間にそんなことをしていたのか。

「次にグラダ大学の学生名鑑をネットで探しました。セキュリティが固かったのですが、ドクトルのI Dをドクトルのお宅で見てしまいましたので、侵入できました。」
「おいおい・・・」

 これは焦るべきか、怒るべきか、テオはただ苦笑するしかなかった。デルガド少尉はちっともいけないことをした意識はないらしく、話を続けた。

「学生名鑑にビアンカ・オルティスの名がありましたが、20年以上も前に卒業していました。」
「つまり、今は40歳を超えた女性?」
「そうなりますね。 それからサイスのファンクラブのウェブサイトを見ましたが、オルティスと言うメンバーはいません。」
「つまり、我々にロレンシオ・サイスの情報を提供した女は、グラダ大学の学生でなければ、西サン・ペドロ通り1丁目で家庭教師もしておらず、サイスのファンクラブにも属していない訳です。」



第3部 隠された者  17

  どう言うわけだか、大統領警護隊文化保護担当部の「2次会」の場所はいつからかケツァル少佐のアパートに固定されていた。テオの車にこれまた何故だかわからないが少佐とステファン大尉が乗り、少佐の車にロホとギャラガ少尉とデルガド少尉が乗った。バルではそんなに飲まない代わりにたっぷり食べたので、持ち帰りの酒を購入した。
 テオは運転しながら後部席の2人のシュカワラスキ・マナの子供達が静かなのが気になった。勿論”心話”で会話しているのだ。
 ステファン大尉はロレンシオ・サイスがアメリカ国籍のミックスの”ヴェルデ・シエロ”で、一族のことは何も知らずに育った筈だが、ビアンカ・オルティスがポロリと漏らした情報では「理性で気を抑制している」と思われる、と伝えた。オルティスはサイスの変身はたった1回で、それもドラッグの服用が原因だと言った。しかしそのオルティスはグラダ大学の学生と名乗ったにも関わらず、その後のデルガド少尉の調査で偽りの身分を使ったことが判明した。彼女は最初のステファンへの接触の際も、ジャガーが歩いた方向を事実と逆の向きで証言した。サイスの祖父が異なる従姉妹だと名乗ったが、それも怪しい。彼女はサイスを庇っているのか、それとも何らかの理由で捜査を混乱させているのか。
 そしてステファンは、これも言いたくなかったのだが、大学の図書館でケサダ教授に不意打ちを喰らい、”心を盗られた”ことを少佐に伝えた。教授は彼から何かしらの情報を盗み、そのすぐ後でテオにナワルにはピューマもありうることを伝えたのだ。恩師から己がまだ未熟だと思い知らされたステファンはその悔しさを、元上官と言うより、姉に思いきり訴えかけた。”心話”で粋がったり強がったりしても本心を隠すのは不可能だ。だから彼は素直に感情をケツァル少佐にぶっつけた。カルロ・ステファンからそんな感情の波を率直にぶつけられたケツァル少佐は一瞬戸惑った。そして自分の心が彼に伝わる前に、目を逸らし、彼の肩に腕を回して体を引き寄せた。
 テオはルームミラー越に少佐が弟を抱き締めるのを目撃した。彼は急いで目をミラーから外し前方を見た。
  少佐は腕の中でカルロが緊張したことを感じた。うっかり弱みを見せてしまった男の後悔だ。彼が目指しているのは、彼女を超えることだ。彼女より上へ行って、彼女を妻にする、それが彼の目標だった。しかし彼女は彼にそれよりもっと大きな目標を持って欲しかった。身分も階級も血の濃さも関係なく彼女と対等に立ってくれることだ。
 彼女は囁いた。

「私は何も経験せずに少佐の階級を手に入れた訳ではありません。」

 彼女は視線を前に向けていた。

「誰にも知られたくない失態もありました。それを乗り越えたことで今日があります。」

 彼女は顔をステファンに向けた。一瞬目が合った。

ーー貴方にも出来ます。

 そして彼を離した。ステファンは姿勢を整えた。

「失礼しました。ちょっと気張り過ぎたようです。どうも私は女性の扱い方をもっと学ぶ必要があります。」

 復活が早いのは姉弟に共通だ、とテオは思った。
 少佐が提案した。

「大尉の報告から、私にも思うところがあります。私の部下達の安全にも関わると思うので、この後で情報を共有させて欲しいのですが、構いませんか?」

 つまり、ステファンとデルガドが得た情報をロホとギャラガにも教えてやって欲しいと言うことだ。少佐が伝えるのではなく、調査した遊撃班隊員本人達から伝えて欲しいと言う。
 ステファンは素直に答えた。

「承知しました。デルガドにも報告させます。」


第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...