2021/11/27

第4部 嵐の後で     6

  暢んびりした朝食を済ませた後、後片付けをした。その頃にやっと停電が解消した。首都なので、電力会社が大急ぎで電線を復旧させたのだ。少なくとも、国の経済を動かしているセレブが多く住む西サン・ペドロ通りの電力を復旧させれば、電線がつながっている隣の東サン・ペドロ通りもテオの家があるマカレオ通りもその恩恵に預かれるのだ。
 テオは身支度をして、車にアスルとデルガドを乗せて家を出た。同じマカレオ通りの北地区に住むロホのアパートは電力が復活しただろうかと思いながら、車を走らせた。
 路上にはいろいろな物が落ちていた。住民が後片付けをしたり、電力会社の工事車両が点検に回っているのを見ながら、ゆっくりと市街地に入った。
 冠水していた幹線道路も水が引いた。テオは文化・教育省が入居している雑居ビルの前に車を停めた。アスルとデルガドが降りた。デルガドが「グラシャス」と挨拶して、バスターミナルの方向へ歩き出した。アスルは文化・教育省へ入って行った。入り口の番をしている女性軍曹は今朝も出勤済みだ。彼女はどこに住んでいるのだろう、とテオはふと気になった。軍人だから基地で寝起きしている筈だが。
 車を出して、大学へ行った。大学の門は開いていた。暴風雨の後片づけに来た職員の車が駐車場に数台停まっていた。まだ多くの教室は休みを決め込んでいるようだ。テオの研究室は、窓ガラスは無事だったが、隙間から水が侵入していた。壁に滲みがあり、窓際の机には水溜りができていた。テオは拭き掃除で午前中を潰した。

 エミリオ・デルガド少尉はバスターミナルで小一時間待ってから、プンタ・マナ行きのバスに乗車出来た。バスは案外混んでいて、彼はリュックサックを前に抱え込んだ。鮨詰めのバスや列車は中南米では珍しくない。いつもの帰省で彼は慣れていたので、出来るだけ窓が開いた場所に立ち、座っている人の存在を無視して通路を塞ぐ群れに加わった。そして立ったまま目を閉じた。
 バスは南へ向かう基幹道路を走った。路面の汚れは都市部よりマシだった。飛んで来る物が少なかったのだろう。バスの車内はお喋りの声で賑やかだった。この分だと昼過ぎにはプンタ・マナに到着するだろうと、誰もが思っていると、バスの速度が落ちた。
 デルガドは後方からサイレンの音が近づいて来ることに気がついた。バスや周囲の車が速度を落とし始めたのは、緊急車両に左端の車線を譲るためだ。軽い渋滞が発生し始めた。
 デルガドは窓の外をパトカーや陸軍の憲兵隊車両が走って行くのを見た。救急車も走って行った。
 事故か?
 バスの乗客達の中に不安が広がった。道路の先で事故が発生していたら、そのうち車の流れが止まってしまうだろう。そうなったら、この蒸し暑い鮨詰めのバスの中で封鎖が解けるまで待たねばならない。デルガドは実家へ夕刻までに着かないのではないかと心配になった。野宿は構わないが、このバスの中で立ったまま一晩寝るのはごめんだ。そうでなくても昨夜は徹夜で祈って、ナワルも使って疲れているのだ。
 幸い、バスは停止することなく、低速で進み続けた。
 道路が海岸に最も近づく地区に入り、そこで乗客達は緊急車両の目的地が砂浜だと知った。道路から脇道に入り、ビーチに降りられる場所がいくつかあるのだが、その内の1箇所に先ほどのパトカーや憲兵隊車両や救急車が集結していた。地元の人々も集まっているのが見えた。
 なんだろう?と乗客達の視線が海岸に注がれた。誰かが声を上げた。

「難破船だ!」

 大型船舶の姿は見えなかった。バスからは波打ち際に集まって何かを引き上げる警察官や地元民の姿が見えただけだった。ハリケーンに巻き込まれて遭難し、浜に打ち上げられた人がいるのか、とデルガドは思った。セルバの漁師はハリケーンが近づいている時に出漁したりしない。外国船だろう、と彼は思った。

2021/11/24

第4部 嵐の後で     5

 ハリケーンが過ぎ去った後の朝は清々しい・・・ものではない。空気は湿気を持ち去られてサラッとしていたが、地表はゴミや木の枝や飛んできた得体の知れない物で汚れていた。
 テオは掃き出し窓の鎧戸を取り外し、朝日を室内に入れた。風を家の中に通した。
床のカーペットの上で横になっていたアスルとデルガド少尉が起き上がった。何故か2人とも上半身に何も着ていなかった。アスルが顔を手で擦りながら言った。

「少し太ったんじゃないか、マーゲイ?」
「そんなことはない。」

 デルガドは傷ついた様な表情になった。
 テオは朝食の支度をするためにキッチンに入った。電気はまだ復旧しておらず、冷蔵庫の中の傷みやすい食材で急拵えのごった煮スープを作った。 いつも彼より早く起きて朝食の支度をしている筈のアスルが、窓を開ける迄寝ていたのが意外だった。まさか徹夜でチェッカーをした筈はないだろうし。
 鍋を見ていると、アスルがまだ喋っていた。

「昨夜の君のマーゲイは以前より大きくなっている様に見えた。」
「そんなことを言われたのは初めてだ。」
「普段はナワルを使わないから、誰もわからないんだ。君の能力が増大している証拠だ。」
「増大するとどうなるんだ?」

 デルガドの声に不安の響きが入った。テオも気になって耳を澄ませてしまった。
 アスルがしたり顔で言った。

「そのうち太ったマーゲイになる。」

 おい、止めろ、とアスルが怒鳴ったので、きっとデルガドにクッションで叩かれたのだろう。テオはじゃれあっている2人の少尉に、朝飯だよ、と声をかけた。
 テーブルに着いた2人の前に置いた皿に、テオは急拵えのスープを配った。パンとスープとコーヒーだけだったが、誰も文句を言わずによく食べてくれた。テオはアスルに尋ねた。

「昨夜、変身したのか?」

 アスルが「スィ」と答えた。

「任務で祈った。暴風雨を收める時は、祈りの最中にナワルを使う時がある。使わずに済めば良いが、昨日のハリケーンみたいなのは、必要だ。」
「”ヴェルデ・シエロ”全員が変身するのか? それとも大統領警護隊だけか?」
「全員じゃない、風の神の心に同調出来る者だけだ。祈らない者もいるし、祈っても同調出来ない者もいる。風に心を合わせて、鎮めていくんだ。」

 よくわからないが、それが”ヴェルデ・シエロ”の本領発揮なのだろう、とテオは思った。セルバと言う国の国土を守る仕事を彼等は昨夜徹夜でしていたのだ。だから朝だというのに、2人の少尉は憔悴した表情なのだ。

「お疲れ様、”ヴェルデ・シエロ”。」

とテオは言った。

「もう一晩泊まっても良いんだよ、エミリオ。」

 と言ったが、デルガドは首を振った。

「バスの運行が再開次第、故郷に帰ります。あっちの被害も気になりますから。それに、バスの中で眠ります。」

 テオは頷いて、アスルを見た。アスルは言った。

「俺は、ハリケーン休暇だ、と言いたいが、恐らく少佐も中尉もデネロスもギャラガも出勤しないだろうから、俺がオフィスに出る。」
「少佐達は・・・」
「少佐とロホは能力が強い。だから昨夜の祈りに使った体力も半端じゃない。今日は疲れて仕事を休まれる。ギャラガも今年からグラダとして祈祷に入っただろうから、ステファン大尉と一緒にピラミッドの地下で寝てるだろう。エル・ジャガー・ネグロとして、首都防御にエネルギーを使い果たした筈だ。デネロスは、祈りの部屋で雑魚寝しているか、寝た連中の世話で奔走しているか、どっちかだ。ハリケーンがセルバへ来ると、いつもそうなる。」

 デルガドが説明した。

「今年はエル・ジャガー・ネグロが2頭いたから、私達は力の消耗をセイブ出来ました。だから、今こうして貴方と食事をして喋っていられる。」
「つまり・・・グラダの男性が2人いたから、君達は力を使い切らずに済んだってことだね? それじゃ、女性のグラダは・・・」
「少佐は首都ではなく、国全体を守っていた。」

 え? とテオは手からスプーンを落としそうになった。

「国全体?」
「女は、広範囲を守るんだ。だから、デネロスも、特殊部隊の巨乳のお姉さんも、国全体の守護を祈った筈だ。広く、緩やかに・・・首都や町だけ守っても、上流で大雨が降れば下流で洪水が起きるだろ? 女達は国全体に降る雨を多過ぎないように、国全体に吹き荒れる風が強過ぎないように、祈っていた。だから、一族が住んでいない土地でも、そんなに被害は出ていない。」

 テオは、己の親友達が、神々なのだと、改めて感じ入った。




2021/11/22

第4部 嵐の後で     4

  大統領警護隊本部の祈りの部屋にアンドレ・ギャラガ少尉が入ると、既に室内は非番の警備班隊員や遊撃班隊員で鮨詰め状態になっていた。男女入り混じっており、皆床の上に直に座って目を閉じ、瞑想状態に入っているのだった。静かだ。そして空気が冷たい。
 ギャラガは戸口で隙間を探して室内を見回した。突然、後ろから何者かに襟首を捕まれ、引っ張られた。驚いて振り返ると、仮面を被った長老だった。誰なのかは不明だ。長老は仮面を被ると決して己の身元を明かしたりしない。
 仮面のせいで聞き取りにくい低い声が囁いた。

「グラダはこっちだ。」

 長老が襟首から手を離したので、ギャラガはホッとした。そして貫頭衣を着用した長老の後ろをついて行った。
 ハリケーンがセルバ共和国を直撃する時、必ず大統領警護隊は守護任務として国家安泰を祈る。風と雨の神に鎮まっていただくようお願いするのだ。ハリケーンの規模によるが、今回は「手が空いている者は祈れ」のお達しが出ていた。場所は特に言及されていなかったが、居室ではなく祈りの部屋に多くの隊員達は集まった。居室で祈ると休憩を取らなければならないルーティンの隊員に迷惑をかける。やたらと勢力の大きなハリケーンの場合は、全員に集合が掛けられ、祈る場所も地下神殿の大広間になる。ギャラガは幸いなことにまだ全員集合を経験したことがなかった。今回も「手が空いている者は祈れ」の規模だ。
 しかし、グラダ族としてハリケーンを迎えるのは初めてだった。つまり、グラダとして認定されて初めてのハリケーンだ。グラダと他の部族で祈りの場所が違うのか、と未知の体験に彼は緊張した。
 長老は彼を地下へ導いた。地下へ降りるのは入隊式以来だ。普段は佐官以上の階級の者しか降りられない場所だ。尉官の隊員が降りる時は上官の許可をもらうか、よほどの理由がなければ立ち入りを許されない。
 大広間では火が焚かれていた。山羊の匂いがした。ギャラガの血が騒いだ。気が動いたのだろう、長老が振り返った。

「まだだ。」

と長老に制された。大広間を縦断し、奥の扉の前に立った。ギャラガにとって未知の場所だ。長老が扉を押した。冷たい空気が流れ出て来た。山羊の匂いが強くなり、不快なほどだ。
 扉の向こうは、さらに広い空間が広がっていた。沢山の篝火が焚かれ、山羊の脂の匂いが充満していた。 中央に祭壇があり、そこに白い人影が見えた。

ーー見てはならぬ

 脳の奥で声が聞こえた様な気がした。ギャラガは慌てて目を伏せた。

 名を秘めた女の人だ

 入り口から入って10メートルほどのところの床に、裸の男が座っていた。その体格に見覚えがあった。エル・ジャガー・ネグロ、すなわちカルロ・ステファンだ。彼はギャラガが入室しても振り返らなかった。既に瞑想に入っているようだ。
 ギャラガは後ろで扉が閉まるのを感じ、そっと振り返った。長老は姿を消しており、扉の横にきちんと畳まれたステファン大尉の軍服と軍靴が置かれているのが目に入った。
 ギャラガは何をすべきか悟った。すぐに彼も服を脱いで畳み、靴も脱いで、ステファンの衣類の横に置いた。生まれたままの姿になると、先輩の隣に座った。

 

 ケツァル少佐はアリアナ・オズボーンが客間のベッドで眠りについたことを確かめると、静かにアパートの部屋を出た。エレベーターはいつ止まっても不思議ではない夜だ。彼女は階段を登り、屋上へ出る扉がついた最上階の小部屋に到着した。誰も付けて来ていないと確信する迄少し時間を置き、それから彼女は着衣を脱いだ。


 グラダ・シティの地表温度が10度低下し、周辺の東海岸地方のそれも3度から6度ほど一気に低下した、と某国の気象衛星は観測した。急激な地表温度低下によって、ハリケーンの勢力がやや削がれたことは、観測史上の大きな謎だった。どのハリケーンもセルバ共和国に接近すると勢力が衰えるのが常だった。


第4部 嵐の後で     3

  大きな開放的な窓の向こうは真っ黒な雲に覆われ、視界がほとんどなかった。時々稲妻が走るのが見えた。ケツァル少佐はブラインドを閉めた。閉めても閉めなくても部屋の中は暗い。
バスルームからTシャツと短パンの上にバスローブを羽織ったアリアナ・オズボーンが現れた。髪がまだ湿っていた。

「シャワーのおかげで生き返った気分よ、グラシャス、シータ。」

 少佐がソファにクッションを並べた。

「今夜はカーラが来られないから、私が夕食を作りました。味はあまり期待しないで下さい。」
「貴女の煮豆は世界一だって、皆が言ってるわ。」

 アリアナはソファに腰を下ろした。テーブルの上には既に料理が並んでいた。煮豆に焼いたチキンと焼いた野菜の盛り合わせ、トルティージャ。

「私もセルバ料理を本格的に習わなきゃ。」
「メキシコ料理は作れるのでしょう? それで十分じゃないですか?」
「でもセルバ人なんだから、セルバ料理は作れなきゃ。」

 アリアナ・オズボーンは一年半のメキシコでの病院勤務を終えて帰国したばかりだった。当初は半年の予定でカンクンの病院に出向したのだ。しかし、出向先の病院でよく働いたので、「あと半年」「もう半年」と先方の要請で結局一年半も経ってしまった。流石に本人はセルバ共和国の国民として来ているのに、セルバの市民権を取ってセルバに住んだのが半年しかないと言うことが気になってきた。アメリカ合衆国から亡命したのに、すぐ隣にいると言うのも気掛かりだった。セルバ共和国の方が彼女には安全なのだ。それに・・・

「本当に、彼と結婚するのですか?」

 少佐がまだ信じられないと言った表情で、彼女の向かいに座った。アリアナははにかんだ笑みを浮かべた。

「私、異性関係が派手だったから、自分でも信じられないんだけど、でも彼とのことは真剣です。」

 彼女は薬指にはめた指輪を少佐に見せた。

「私がちゃんとセルバの秘密を守って真面目に勤務しているかどうか、彼は月に1回カンクンに通って監視していたんですよ。」
「本当に監視していたのですか?」

 少佐が揶揄い半分で尋ねた。アリアナが笑った。

「真面目な人だから、彼を揶揄わないでね、私は良いけど。」

 そしてフッと心配気な表情になった。

「テオもきっと信じないわよねぇ・・・」
「心配ですか?」

 少佐が彼女の顔を覗き込んだ。アリアナは苦笑した。

「彼、私がまだカルロを思っていると信じているのよ。だから私が新しい恋をしても、彼への片思いを誤魔化すためだと思っている。私だって前に進んでいるってことを、考えつかないのね。確かに、今の彼氏はカルロに比べるとパンチが弱いかも知れないけど、私の仕事を理解してくれるし、私の気持ちもわかってくれる。」
「スィ、彼は紳士です。私は受け合いますよ。」
「それに、別のことでテオは反対するかも知れない。」

 アリアナは少佐の目を見た。

「彼は、私が人工の遺伝子組み換えで生まれた人間だから、”ヴェルデ・シエロ”との間に子供を産むべきじゃないって思っている。」

 少佐の表情が曇ったので、彼女は思わずテーブルの上に手を伸ばして、少佐の手を掴んだ。

「そんなこと、産まなきゃわからないわよね? 絶対に普通の子供が生まれるわ。普通の”ヴェルデ・シエロ”と白人のハーフが生まれるわよ。そうよね?」

 少佐が彼女の手を握り返した。

「私もそう信じます。」

 その時、室内が真っ暗闇に陥った。アリアナが息を呑んだ。少佐が言った。

「停電ですね。すぐにアパートの自家発電に切り替わりますよ。」

 彼女の言葉通り、1分も経たないうちに照明が生き返った。
 少佐が、フォークを持ち直した。

「自家発電は12時で消灯です。早く食べてしまいましょう!」





2021/11/19

第4部 嵐の後で     2

  自宅前の駐車スペースに車を停めると、テオは大事なことを思い出した。

「少し前から、我が家にアスルが下宿しているんだ。キナ・クワコ少尉、知ってるよな?」
「スィ。」

 デルガド少尉が微笑した。

「大統領警護隊で彼を知らなければ、モグリですよ。」
「客間は彼の部屋になっている。君は今夜俺の部屋で寝てくれ。俺はソファで寝るから。」
「お気遣いなく。私は何処でも眠れます。」

 豪雨の中を車外に出て、家の中に駆け込んだ。鍵を開ける手間は不要だった。車の音を聞いたのだろう、アスルが中から開けてくれた。薄暗い屋内にテオとデルガドが入ると、アスルはドアを閉めてから、客を見た。デルガドが敬礼したので、彼も返礼した。アスルが尋ねた。

「遊撃班のデルガドだよな?」
「スィ。バスに乗り損ねた。」

 テオは彼等を置いて急いで寝室に入り、着替えを取るとバスルームへ向かった。濡れた服を早く着替えたかった。家の中はチキンスープの良い匂いが漂っていた。

「最終バスに間に合ったとしてもプンタ・マナ迄は行けなかっただろう。」

とアスルが言っていた。

「途中で運行停止になっている筈だ。バスの中で一夜を過ごすより、ここの方がましだ。あまり娯楽設備は整っていないが・・・」

 下宿人のくせに贅沢を言っている。
 中庭に面した掃き出し窓は外から鎧戸を閉めてあった。長屋の住民総出で昨日の午後に取り付けたのだ。乾季は共同物置に仕舞い込んであるが、雨季は大活躍の鎧戸だった。お陰で部屋の中は暗かった。鎧戸がガタガタ鳴っているのも五月蝿かったが、窓ガラスが飛んで来る物で割れるよりましだ。
 テオがリビングに行くと、アスルはキッチンに入っていた。早々と夕食の支度に取り掛かっているのは、停電する前に料理をしておこうと言う魂胆だ。”ヴェルデ・シエロ”の彼は夜目が効くが、家主のテオはそうはいかないので、気を利かせてくれているのだ。
 デルガドはソファではなく床の上に直に座って瞑想のポーズになっていた。しかしテオがソファに座ると目を開いた。無言だが、話しかけても構いませんよ、と言う意思表示だ、とテオは受け取った。だから尋ねた。

「休暇と任務だと言っていたが、どう言う意味だい?」
「休暇は休暇です。以前から決まっていました。今日から2ヶ月仕事を休みます。」

 そう言えば軍隊の休暇は長い。勤務期間は休みがないから当然だ。

「任務とは? 休暇だろ?」
「そうですが、ハリケーンが来ましたから、その時にいる場所で国の無事を祈るのが任務です。」

 ああ、とテオは納得した。”ヴェルデ・シエロ”はセルバと言う小さな国を古代から守ってきた神様なのだ。知らない人が見れば、彼等は天の神様に救いを求めて祈っているように見えるだろう。しかし、セルバでは彼等自身が神様で、祈ることで暴風雨から本当に国土を守っているのだ。先刻テオの車が一時的に暴風雨から守られたように。もしかすると、デルガドはテオが声をかけなかったら、あのままバスターミナルで祈っていたのかも知れない。
 テオはデルガドの祈りを邪魔しないように、静かに読書をすることにした。テレビは点けない。点けても天気予報しか放送していない。エル・ティティにいれば雨風も東海岸地方ほども大したことはないだろうが、テオは研究室のハリケーン対策が気になってグラダ・シティに戻って来たのだ。家の方はアスルがいるので任せていたが。
 チキンスープが完成した。アスルが「飯だ!」と怒鳴ったので、テオとデルガドは素直に食卓に着いた。デルガドにとって、初めてのアスルの手料理だ。しっかり煮込まれた鶏肉と玉ねぎとジャガイモのスープにクラッカーで3人は黙々と夕食を取った。雨に濡れた後の温かい食事は有り難かった。

「美味い料理だ。」

とテオが呟くと、デルガドが同意した。そしてアスルを見た。

「厨房班へ転属する気はないか?」
「冗談ぬかせ。」

とアスルがいつもの不機嫌そうな顔で言った。

「料理は趣味だ。仕事ではない。」

 デルガドはテオを見て、肩をすくめて見せた。テオはクスッと笑った。アスルは腹を立てたのではない。褒められて照れくさいだけだ。それが彼等にはわかっていた。

「皿洗いは俺がするよ。」

とテオが言った直後に室内が真っ暗になった。停電だ。テオが懐中電灯を取りに行こうと椅子をひきかけると、アスルが止めた。

「座っていろ。俺が取ってくる。」

 暗闇の中で、テオはデルガドが食事を続けている気配を感じた。もしかして、大統領警護隊本部の食堂って普段から真っ暗じゃないのか? と彼は余計な想像をしてしまった。
 懐中電灯の灯りの中で食事の続きをして、懐中電灯の灯りの中で食器を洗った。読書は出来ないしテレビもインターネットも使えないので、テオは早く寝ることにした。彼が水仕事を終えてリビングに戻ると、2人の少尉は暗闇の中でチェッカーをしていた。こんな停電の夜は夜目が効く連中が羨ましかった。

 ってか、こいつら、お祈りをサボってるんじゃないのか?


2021/11/18

第4部 嵐の後で     1

  ハリケーンが近づいていた。今年で4つ目のハリケーンだ。先の3つは東へ行ってくれたのでセルバ共和国に被害をもたらさなかったが、今回は来なくても良いのに西へ迂回してやって来る。グラダ・シティは商店街も官公庁も商社も教育機関も全て閉じられ、公共交通機関も運休となった。
 テオはハリケーンが上陸する前に急いで大学の研究室へ行き、窓の戸締りを確認した。万が一窓ガラスが割れた時の用心に濡れて困る物は全部窓から遠ざけた。作業は2時間ばかりかかった。平時なら学生に手伝わせるが、外出に危険を伴う天候だ。学生達に出て来いと言えなかった。学舎ではいくつかの部屋で職員達が対策を講じているらしく、照明が点いていた。もしかすると自宅より学舎の方が安全だと考えて泊まり込んでいる人もいるのかも知れない。
 テオは強風と叩きつけるような雨の中を走って駐車場へ辿り着き、運転席に飛び込んだ。すっかり衣服がびしょ濡れになった。レインコートも役に立たない。
 テオの自宅は古い住宅だ。風に吹き飛ばされるのではないかと心配したが、隣人達は意外に呑気だった。

「マリア様と”ヴェルデ・シエロ”が守ってくるよ。」

とキリスト教の聖母と古代の神様の名前を言った。
 実際、気象の歴史を見ると、セルバ共和国は毎年ハリケーンの被害を受けているが、近隣諸国に比べると軽度で済んでいる。洪水に悩まされることも、高潮の被害を受けることも、強風で家屋が飛ばされることも、土砂崩れで集落が飲み込まれることもなかった。風で物が飛んできて当たって怪我をしたとか、増水した川に落ちて流されたとか、そう言う人間の不注意と自然の猛威がぶつかり合った結果の損害は多かったが、所謂国土が暴風雨の被害を受けたと言う記録はないのだ。
 テオは車を駐車場から出した。がらんとした幹線道路を低速で走った。スピードを出すと風に煽られて車が転覆しそうだ。洪水とはいかないまでも路面は冠水している。水飛沫を上げながら彼は車を進めた。
 中央バスターミナルに差し掛かると、バス停に人影が見えた。こんな天候でバスが運行している筈がない。だがその人は強風で破れそうなテント張りのバス停で立っていた。男性だ。ほっそりした、若い・・・
 見覚えがある様な気がして、テオは車を近づけた。向こうも近づくヘッドライトに気がついてこちらを見た。雨の中で見えづらかったが、テオは知り合いだと認識した。だからターミナルの中に入り、バス停の前に車を停めた。窓を開けると忽ち雨が降り込みかけた。

「エミリオ、エミリオじゃないか!」

 大声で怒鳴ったのは、風で声をかき消されそうになったからだ。男が近づいてきた。車内を覗き込み、精悍な顎の細い顔に笑みを浮かべた。

「ドクトル・アルスト、こんな天気にどこへお出かけです?」
「それはこっちの台詞だ。バスは運休しているぞ。兎に角、車の中に入れ!」

 一瞬雨風が止んだ。否、テオの車の周囲だけ、エミリオ・デルガド少尉が風雨を追い払ったのだ。そして、助手席のドアが開き、デルガドが入ってきた。彼がドアを閉め、窓を閉じると、忽ち車は暴風雨に襲われた。

「ハリケーンの最中に、バス停で何をしているんだ?」

 すると若い少尉が頭を掻いた。

「正直に報告しますと、バスに乗り遅れました。」
「乗り遅れた?」
「任務と休暇を兼ねて、プンタ・マナへ帰ろうとしたのですが・・・」

と言いかけて、彼はテオを見た。

「ドクトルはどちらへ?」
「家に帰るんだよ。君をうちに連れて帰って良いかな? プンタ・マナ迄は無理だから。」
「どうぞ・・・助かります。」

 あれほどの悪天候の中にいたにも関わらず、エミリオ・デルガドは濡れていなかった。軍服もリュックサックも靴も乾いていた。

「任務と休暇って?」

 と尋ねてから、テオは別のことを思い出して、デルガドを見た。

「もう怪我は治ったんだね? 体調は良いのかい?」
「グラシャス、すっかり治りました。」

 デルガドは前を向いて、ヘッドライトに照らされていない前方を見通そうとしていた。

「角に看板が落ちています。気をつけて。」
「グラシャス。」

 結局、世間話はお預けにして、テオはデルガドの助けを借りながら自宅まで運転した。一度などは、道路脇の木の枝が折れてフロントガラス目掛けて飛んできたが、デルガドが気で弾き飛ばしてくれた。
 普段なら10分ほどで帰れる道のりを、彼等は30分かけてテオの自宅に辿り着いたのだった。


2021/11/14

第3部 終楽章  13

  ケツァル少佐は暫く考え込んだ。そして、彼女なりの見解を引き出した。

「ビアンカ・オルトは私達が知らない間に、既に長老会で問題になっていたのではないですか? ムリリョ博士は誰か配下の人に彼女の追跡を命じられたのでしょう。でも、その命じられた人はケサダ教授ではない。命令を受けた”砂の民”はオルトを探して、彼女がグラダ大学で貴方と接触したことを掴み、博士に報告した。大学は博士にとって大事な職場であり、学生達は博士が守っている大事な国民です。それに・・・」

 少佐はチラリとステファンを見たが、言葉に出さなかった。

 博士の大事な女性の息子である貴方に、逸れピューマが接触したことは許し難い屈辱だったでしょう。

「博士はその時点ではまだオルトの処分を決めかねていたのかも知れません。女のピューマは非常に稀ですからね。ケサダ教授は四六時中大学を守っている訳にいきませんから、博士の叱責に戸惑われたことでしょう。ですから、貴方がテオに連れられて再び大学に現れた時、教授は貴方からオルトの情報を盗んだのです。どんな人物を相手にしているのか、知りたかったに違いありません。
 一方、オルトは”砂の民”が彼女を追いかけているのではなく、サイスのジャガーを探していると思い込みました。」
「私がそんなことを彼女に言ったからですね?」
「そうですね、彼女は貴方に嘘をつきましたが、反対に貴方の間違った情報で彼女自身も振り回されたのかも知れません。彼女はサイスを狙うのを先延ばしして、麻薬運搬の方を優先させようとアンティオワカへ行き、アスルと遭遇したのです。アスルに撃たれて、グラダ・シティのアパートに戻り、傷が癒えるのを待つつもりでいたところへ、私と貴方が迫ったので、彼女は逃亡しようとした。デルガド少尉は災難でした。彼女にもう少し理性があれば、彼は怪我をせずに済み、彼女もまだ生きていたでしょう。少なくとも・・・」

 彼女は小さな声で囁いた。

「生きながらワニの池に放り込まれる迄は。」
「ワニぐらい倒せますよ。」

 イキがって言う弟に、彼女は顔を顰めて見せた。

「ナワルを使って、でしょ!」

 そして、少しだけ悲しそうに付け加えた。

「異種族の血が入っていても弟は可愛いのに、あの女はそれを知らずに死にました。」

 弟・・・ステファンが心の中でその言葉を呟いた時、シータ! とケツァル少佐を呼ぶ女性の声が聞こえた。少佐が立ち上がった。
 上等のスーツを着こなした中年のスペイン女性が足速に近づいて来るのが見えた。

「ごめんなさい、待たせちゃったわね!」

 カルロ・ステファンも立ち上がった。ここは退散した方が良さそうだ、と判断した彼が立ち去ろうとすると、少佐が養母を見つめたまま、彼の手を掴んだ。驚いた彼が足を止めると、そこへマリア・アルダ・ミゲールがやって来た。彼女は目敏く娘がハンサムなメスティーソの若い男と手を繋いでいるのを見つけた。

「シータ、その人はどなた? ボーイフレンド?」

 何故だかもの凄い期待感で、セニョーラ・ミゲールがステファンを見つめたので、彼は赤くなった。ケツァル少佐が「ノ」と強く否定した。

「ママ、紹介するわ。この前、話したでしょう? 私の弟のカルロよ。」


 

 

第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...