2021/12/01

第4部 忘れられた男     1

  ロカ・ブランカの村には宿屋兼食堂が1軒だけあり、ハリケーンの後であったが営業していた。混雑しており、ロペス少佐が交渉して、なんとか一部屋を確保した。緑の鳥の徽章を見せれば2部屋ぐらいなんとか出来たかも知れないが、そんな「ズル」をしないところが、このシーロ・ロペスと言う男の良さなのだろう、とテオは思った。

「ベッドは2つだ。私は床で寝るから・・・」

とロペス少佐が言いかけると、ケツァル少佐が店の外を眺めて言った。

「大きな木が生えています。私はあの上でも大丈夫です。」

 はぁ?とテオが呆れると、ロペス少佐も顔を顰めた。

「野獣ではないのです、淑女らしくベッドで寝て下さい。」

 テオが笑い出し、ケツァル少佐がむくれた。ロペス少佐は気にせずにテーブルを確保して、同伴者の希望も聞かずに店のお勧め料理を3人前注文した。食事は心配の必要がない美味しさだった。

「明日の朝9時に、ロカ・ブランカの警察署で憲兵と落ち合います。」

とロペス少佐が予定を告げた。

「先に警察が回収した漂流物と救命筏の中にあった物を検証します。それから病院へ行って、生存者に面会の予定です。」
「意識を取り戻していれば良いが・・・」

 テオは生存者が白人だろうが有色人種だろうが構わなかったが、事情聴取出来る状態に回復していることを願った。
 食事を終えると、2階の部屋に上がった。狭いベッドを見て、ケツァル少佐が溜め息をついた。

「2人で1台を使用するのは無理ですね。」
「俺が床に寝る。」

 テオはグラダ・シティを出発する時に自分の車に積んでいた宿泊用鞄を積み替えるのを忘れたことに気がつき、悔やんだ。着替えも寝袋もない。2人の少佐は大統領警護隊の常識なのか、リュックサックを持ってきており、着替えを持っていた。寝袋はないが軍人は野営に慣れている。生温い水のシャワーを浴びて、テオは上半身裸でベッドに入った。スーツを脱いだロペス少佐はTシャツと短パン姿になり、シャワーを浴びに行ったが、間もなく戻ってきた。

「女性用に一部屋空けてもらった。ケツァルはそっちへ行ってくれないか?」
「それは残念。」

 とケツァル少佐が言って、自分の荷物を持って部屋から出て行った。テオは半分がっかりして、半分安堵した。


2021/11/30

第4部 嵐の後で     12

 「本気で言ってるんですか、少佐?」

とテオは尋ねた。シーロ・ロペス少佐が他人を揶揄って喜ぶ人でないことは知っている。しかし、これは余りにも唐突過ぎる。さっき文化・教育省でベンツに乗り込む時、そばにアリアナ・オズボーンがいたじゃないか。2人揃ってあの場で言ってくれた方が衝撃が少なくて済んだのに。

「私は本気です。」

とロペス少佐が言った。

「そして彼女も本気です。」

 テオは深呼吸した。水が欲しかったが、道路側で路駐している車の中だ。ケツァル少佐が非常用の水を車中に常備しているとも思えない。彼はカラカラになった喉を堪えて尋ねた。

「何時からあなた方は交際していたんです?」
「何時からと訊かれましても・・・」

 ロペス少佐はきっと困った表情をしているに違いない。暗いのでテオには見えなかったが。

「彼女がメキシコに行った最初の半年は折に触れて様子を伺いに、私はカンクンに通っていました。彼女には会わずに、彼女の安全を確認するだけの出張でした。」
「ご存じかどうか知りませんが・・・」

 テオは妹の悪口を言いたくなかったが、後でアリアナの不利になる事態を避けたかったので、ここで言ってしまう決心をした。

「彼女は男性との交際が派手です。アメリカ時代も男友達が大勢いましたし、セルバでも・・・」

 彼は勇気を振り絞って言った。

「彼女はカルロ・ステファン大尉やシャベス軍曹と関係を持ちました。この俺も、血が繋がっていませんから、アメリカ時代には関係を持ったことがあります。」
「知っています。」

とロペス少佐が遮った。

「私が結婚を申し込んだ時に、彼女が全て話してくれました。」
「それでも?」
「それでも、私は一向に構いません。メキシコへ行ってからの彼女は、貴方が先刻仰った様な生活をしていたとは信じられない程真面目で身持ちが固かったのです。私は最初の半年、彼女に見つからない様に観察していました。彼女の生活態度が真面目で仕事も熱心に取り組んでいたので、次の半年の勤務延長をメキシコ側から要請された時に、許可を出しました。その時点で彼女は正式にセルバ国籍を取得しました。私が彼女の前に出て、隠れて観察していたことを打ち明けても彼女は怒りませんでした。それから私は一月に一回の割合で彼女の様子を見にメキシコへ通いました。彼女は生活と勤務のリポートを書いて提出しました。それから半年後の最後の延長手続きの後、私達は一緒に食事をしたり仕事の後の時間を過ごす様になりました。
 アリアナ・オスボーネは貴方が知っている昔のアリアナ・オズボーンとは違うのです。」

 テオが黙り込んだ。ケツァル少佐が車を再び動かした。外はもう真っ暗だ。
 テオは一般人がいる場所では話せない問題をぶつけてみた。

「アリアナと俺は人工的に遺伝子操作されて生まれた人間であることは、話しましたね。俺達と普通の人間の間に子供を作れるのかどうかわかりません。作れたとして、どんな子供が生まれてくるのか、それもわかりません。ましてや・・・」
「ましてや”ツィンル”との間に生まれる子供は想像つかないと?」

 ロペス少佐は己のことを”ヴェルデ・シエロ”とは呼ばずに”ツィンル”と敢えて呼んだ。ナワルを使って動物に変身する”ヴェルデ・シエロ”のことだ。変身出来ない”ヴェルデ・シエロ”は含まれない。ロペス少佐は決してミックスを”出来損ない”とは考えていない、と以前テオはケツァル少佐から聞かされたことがある。ミックスが失敗して正体を一般人に知られそうになるのを心配しているだけだ、と。もしそうなったら、そのミックスは”砂の民”に抹殺されてしまうからだ。”ツィンル”は普通の人間とは遺伝子的に離れているのだろう。だから、テオは人工的に遺伝子操作された自分達と”ツインル”の間に子供が出来ることを心配している。
 テオは首を振った。ロペス少佐は楽観主義者に見えなかったが、こう言った。

「子供が生まれてみないとわからないことでしょう。」

 彼はテオから目を逸らした、とテオは思った。金色の光が前を向いたのだ。ロペス少佐は囁くような低い声で言った。

「あなた方”ティエラ”から見れば、現在の我々だって十分怪物ですよ。」

 テオはハッとした。”ヴェルデ・シエロ”だって人類だ。非常に稀な遺伝子を持ち、非常に稀な能力を持った、非常に極少数の現存数しかいない一つの人種だ。彼等は絶滅すまいと大昔から必死で種を守ってきたに過ぎない。

 決して特別な存在ではないのだ

 ロペス少佐はそう言いたいのだ。アリアナもテオも特別な存在ではない、地球上に住んでいる人間の1人に過ぎない、と。考えれば、一番最初に”ヴェルデ・シエロ”との間に子供を作った人は、難しいことなど考えなかっただろう。自然に愛の営みを行なって、子供を生んだのだ。

「俺が間違っていました。」

とテオは言った。

「アリアナは幸せになる権利を持っています。それは貴方も同じだ。」

 彼は手を少佐に差し出した。

「どうか幸せになって下さい。もし・・・」

 彼はちょっと相手を揶揄いたくなった。

「彼女の扱いに困ったら、何時でも相談して下さい。アリアナ・オズボーンの対策法を伝授しますよ。」
「グラシャス!」

 いきなりロペス少佐の手が彼の手を掴み、力強く揺さぶった。事務方にしては力の強い手で、やっぱり軍人だ、とテオは感心した。

 

第4部 嵐の後で     11

  テオはてっきり大統領府の近くの国防省ビルへ行くのかと思ったが、ケツァル少佐のベンツは大通りを走り、そのまま南へ向かって走り出した。

「ええっと・・・何処へ向かっているのか、訊いても良いかな?」

と声をかけると、ケツァル少佐が運転しながら答えた。

「ロカ・ブランカです。」

 グラダ・シティとプンタ・マナの中間地点よりややグラダ・シティ寄りのビーチだ。テオの知識では観光客向けと言うより寧ろ地元民向けの海水浴場がある村だった筈だ。綺麗な砂浜があるが、飲食店やシャワーの設備はない、着替えの為の小屋だけが貸し出されている浜辺だ。泳いだ人は、体を洗わずに服を着て帰る。水着の上にそのまま服を着て帰る人もいる。遠方からの客はいないから、それで良いのだ。荷物の管理は自分でしなければならないし、ビーチの監視員もいないから、外国からの観光客は滅多に来ない。偶に白人や外国人らしき人を見かけても、大概は地元に住み着いている人だった。白い大きな岩がビーチから100メートル程沖にあり、それが地名になっていた。その岩も日が暮れた後に行けば見えないだろう。
 
「ロカ・ブランカに病院も憲兵隊の駐屯地もなかったよな?」

とテオが確かめると、ロペス少佐が前を向いたまま首を振った。

「ありません。しかし警察署はあります。」

 どうでも良いけど、とテオは胸の内で呟いた。晩飯はどうするんだ?
 軍人2人はそんな彼の心配など思いつかない様子で、全く別の話を始めた。ケツァル少佐が最初に質問した。

「式は何時挙げるのです?」
「雨季が明けたら。」

とロペス少佐が答えた。

「教会で?」
「スィ。その方が彼女も喜ぶ。伝統的な部族の結婚式は馴染まないだろうから。」
「貴方の親族はそれで納得しているのですか?」
「私の親族は父が残っているだけだ。広い意味での親族を考えればキリがない。それに彼女の方の親族も1人だけだ。」

 彼はケツァル少佐に顔を向けた。

「立会人になってくれるかと言う依頼の返事をまだもらっていないが?」

 ああ、とケツァル少佐が曖昧な返事をした。そして言った。

「彼女の親族の了承を得ないと、返事を差し上げにくいです。」

 ロペス少佐は結婚するのか、とテオは思った。既婚者だとばかり思い込んでいたが、独身だったのだ。それで、彼は声をかけた。

「ロペス少佐、結婚されるのですね。おめでとうございます。」

 少し奇妙な間を置いて、ロペス少佐が前を向いたまま、グラシャスと返事をした。するとケツァル少佐が彼に言った。

「ここで了承を得ておきなさいよ。」
「ここで?」

 とテオとロペスが同時に声を発した。しかしニュアンスは全く違った。ロペス少佐は「こんな場所と場合に?」だったし、テオは「何故ここで彼が婚約者の親族に了承を得なければならないんだ?」と思ったのだ。
 ケツァル少佐がベンツを道端に寄せて停めた。そして助手席のもう1人の少佐に言った。

「早く!」

 訳がわからないテオは、ロペス少佐が車外に出るのを眺めた。そして、少佐が後部席に入ってきたので、驚いた。
 シーロ・ロペス少佐はネクタイを直し、軽く咳払いして、テオに向かい合った。そして言った。

「私とアリアナ・オズボーンとの結婚を了承して頂きたい。」
「え?」

 テオは直ぐに理解出来なかった。暗い車内で、金色に光る”ヴェルデ・シエロ”の目を見つめた。そして、徐々に事態を理解した。彼は大声を出した。

「ええっ!!」



第4部 嵐の後で     10

  店の外に出ると、ロホとギャラガが待っていた。テオに夕刻の挨拶をしてから、ロホはアリアナには「お帰りなさい」と言った。そして直ぐにケツァル少佐からの指示を伝えた。

「ちょっと国防省からテオに仕事の依頼が入りました。それで少佐が案内されます。」

 彼はアリアナに顔を向けた。

「貴女は私が少佐のアパートまでお送りします。今日の午後から家政婦が出て来ているので、お食事の心配はありません。」
「俺の車は?」

とテオが尋ねた。

「少佐の車で俺は国防省へ行くのだと思うが・・・」

 するとアスルが口を挟んだ。

「俺があんたの車で帰る。」

 デネロスとギャラガは普段通りバスで大統領警護隊本部へ帰るのだ。テオは素直にアスルに車のキーを渡した。キーがなくても彼等はエンジンぐらいかけられるが、ここは普通にキーを使って欲しかった。アリアナはギャラガとは初対面だった。ロホが2人を紹介して、挨拶の遣り取りが始まった。
 そこへ少佐がベンツを運転して路地から出てきた。停車したベンツを見て、テオは「あれ?」と思った。助手席に男性が乗っていた。アスルが先刻言及した「客」だが、テオがよく知っている男だった。

「ロペス少佐じゃないか。」

え?とアリアナも振り返った。彼女の顔に当惑の色が浮かんだが、すかさずデネロスが彼女に囁いた。

「ロペス少佐も国防省からお呼びがかかってます。呼ばれているのは、ロペス少佐とテオの2人なんです。」

 大統領警護隊の隊員で外務省で移民・亡命審査官として勤務しているシーロ・ロペス少佐は事務方でずっと働いてきた人だ。ケツァル少佐が、「彼は随分長い間銃を扱ったことがないのではないか」と揶揄した程、ビジネススーツとアタッシュケースが似合う男性だ。純血種の”ヴェルデ・シエロ”で、テオは彼がどの部族なのか聞いたことはないが、恐らくブーカ族だろう。一族の中で一番人口が多く、大統領警護隊の隊員の多くは純血種、メスティーソを含めて殆どがブーカ族だ。つまり、ロペス少佐は戦闘から遠い場所で働いているが、超能力はかなり強いのだ。とても落ち着いて見えるし、真面目な人なので年嵩に思えたが、デネロスから聞いた話ではまだ30代前半だそうだ。
 テオは亡命して最初の1年間観察期間に置かれていた。度々文化保護担当部の友人達と事件に巻き込まれたり、遊びに行ったりして羽目を外し、ロペス少佐から叱られたことがよくあった。だから、観察期間を満了させて晴れてセルバ市民になった今でも、この男性少佐がちょっと苦手だ。
 クラクションが鳴り響き、テオは我に帰った。運転席のケツァル少佐が、早く乗車しろと鳴らしたのだ。彼は慌ててロホや他の友人達に「また明日!」と挨拶して車に向かって走った。
 助手席が塞がっているから、後部席だ。車内に入ってドアを閉めると、直ぐにケツァル少佐はベンツを出した。
 テオは前を向いたままのロペス少佐に後ろから声をかけた。

「ブエナス・ノチェス、ロペス少佐。」

 ロペス少佐は挨拶を返してくれたが、振り返らなかった。典型的な”ヴェルデ・シエロ”の神様態度なので、テオは気にせずに質問した。

「国防省の仕事って何です?」
「わかりません。」

と素気なく答えてから、それはやはり失礼だろうと思い直したのか、ロペス少佐は前を向いたまま言った。

「ハリケーンで遭難した船の乗員の身元調査に関する事案だと思います。」

 ああ、とテオは少しだけ理解した。

「俺はD N A鑑定でも依頼されるんだな。だけど、移民や亡命者の審査をする貴方がどうして呼ばれるんです?」

 ロペス少佐は直ぐに答えなかった。するとケツァル少佐が彼に尋ねた。

「遭難者は密入国者の疑いがあるのでしょう?」

 ロペス少佐が溜め息をつく音が聞こえた。

「この事案が国防に関することなのか、治安に関する外務の仕事なのか、まだ上は判断つけかねている様だ。」
「遭難船は何処の船です?」

 テオの質問に、初めてロペス少佐が振り返った。

「どの国籍の船か手がかりになるものが一つもない。故に憲兵隊はスパイ活動か犯罪を試みた組織ではないかと疑っている。」
「乗員は生きているんですか、それとも・・・」
「船と言うか、救命筏ですが、中に死者が1名、生存者2名がいました。生存者の1名は低体温症で救助後に死亡、1名はまだ意識が戻りません。ですが・・・」

 彼は前に向き直った。

「生きている男は白人です。」



2021/11/29

第4部 嵐の後で     9

  民間企業などは午後7時まで仕事をしている国だが、省庁は6時で閉庁になる。カフェで時間を潰しているテオとアリアナの所へ最初に現れたのはアスルとデネロス少尉だった。デネロスはアリアナと仲が良い。アリアナが初めてセルバ共和国に来た時以来の付き合いだ。それにデネロスの英語の論文指導をしたのもアリアナだったので、この2人は師弟関係でもあった。既にアリアナの帰国を知っていたデネロスは(女性達はメールや電話で常に情報交換していたのだ。)、テオ達のテーブルに真っ直ぐやって来た。アリアナが立ち上がって彼女を迎えると、2人はハグし合った。テオはデネロスの後ろからゆっくりやって来るアスルを見た。
 以前アスルはアリアナに片思いしていると文化保護担当部の仲間内では噂になっていた。”ヴェルデ・シエロ”達は仕事やプライベイトで”心話”を使うことが多いが、この超能力はちょっと厄介な問題があって、個人的な思考も相手に伝えてしまうことが偶にあるのだ。使い手は幼少期に親から情報をセーブすることを教えられるのだが、精神的に弱っていたり、酒に酔ったりした時にうっかり心の底にしまってある私的感情を他人に伝えてしまう「事故」だ。アスルは普段は寡黙な男なのだが、アルコールに弱い。飲み会でうっかり先輩達に初恋を読まれてしまったのだ。揶揄われたりしていたが、結局アスルが自分から告白することはなく、アリアナはメキシコで働くためにセルバを離れた。あれから一年半経った。
 前夜、テオはアスルにアリアナの帰国を伝えた。アスルは反応しなかった。ふーんと言った感じで、何もコメントしなかった。もう恋の熱は冷めたのか、とテオはちょっぴり安堵した。アリアナはアスルより9歳年上だ。それに遺伝子操作されて生まれた人間だ。テオは彼女と超能力を持つ”ヴェルデ・シエロ”の間に子供が出来る場合を想像すると、不安を感じざるを得なかった。普通の人間と”ヴェルデ・シエロ”との間のミックスの子供達は、親に負けない強さの超能力を持って生まれてくる。だが彼等は純血種と違って親に教わらなければ超能力を使いこなせない。純血種の様に生まれながらに自由に使える訳ではないのだ。
 自分達の様な遺伝子操作された人間と”ヴェルデ・シエロ”の間に生まれる子供は、どんな能力を持って来るのだろう。自分達親は子供を上手く教えることが出来るのだろうか。
 テオはそれを考えると、ケツァル少佐に愛の告白をするのを躊躇ってしまう。少佐も何か不安を感じているのか、彼に親しい振る舞いをしても一線を越えようとはしない。
 もし、アスルがアリアナへの恋を過去のものにしてしまったのであれば、それはそれで良い、とテオは思うのだ。アスルには彼女よりもっとふさわしい女性がいくらでもいる。
 ハリケーン接近時のフライトはどうだったと尋ねるデネロスの横をアスルは通って、テオのそばに来た。そしていつものぶっきらぼうな口調で言った。

「あんたに客が来ている。」
「客?」
「もうすぐ上官達が連れてくる。」

と言ってから、彼は付け足した。

「客も上官だ。」

 つまり、大統領警護隊の隊員だ。アスルは少尉だから、「上官」は中尉以上の将校だ。一瞬カルロ・ステファン大尉かと思ったが、それならアスルははっきり名前を言う。ステファンは元文化保護担当部所属でケツァル少佐の副官だったのだ。
 店の入り口に、文化保護担当部の末席にいるアンドレ・ギャラガ少尉が現れた。テオが彼に気づくと、ギャラガが腕を振って、来いと合図した。目上の人に対して失礼な振る舞いだが、店内は賑わっており、大声を出す訳にもいかないのだ。テオはアリアナやデネロス、アスルに声をかけた。

「店から出ろってさ。少佐の命令だな。」


第4部 嵐の後で     8

  セルバ人はハリケーンに慣れている。次の日には電力問題もすっかり解消されて、グラダ・シティは日常を取り戻していた。海がまだ荒れているので漁業の方はまだ数日お休みになるだろう。テオはグワマナ族のデルガド少尉の実家は大丈夫だろうかと心配した。ゲンテデマと呼ばれる漁師だったら、暫く仕事が出来ないだろうと言うと、アスルは心配ないと言った。

「あいつは泳ぎは得意だが、漁師の子供ではない。俺の記憶が正しければ、あいつは土産物屋の子だ。」

 それはまた意外だった。精悍な顔つきと敏捷な身のこなし、己より強い力を持つ敵に怯まず対峙する勇敢な若者エミリオ・デルガドが、土産物屋の息子? テオはもう少しで笑いそうになって慎んだ。土産物屋だって立派な職業だ。欧米の観光客は人形などの民芸品や伝統工芸品を喜んで購入する。南の楽園セルバ共和国のリゾートの記念として。しかし、デルガド少尉が土産物を白人相手に売っている姿をどうしても想像出来なかった。
 大学に学生達が戻って来て、新学期がまだ始まっていないのに活気が蘇った。進級が決まった学生達は熱心で次の教室や研究に移動する準備を始めたし、落第した学生は敗者復活戦になる次の試験期間に向けて既に勉強を始めていた。セルバ人で真面目なのは、子供や若者達だ。この情熱を大人になっても失わないで欲しい、とテオは願った。
 アリアナ・オズボーンは医学部に帰国報告に行った。テオは彼女がグラダ大学の医学部で研究者として働くものと思っていたが、その日の夕刻に出会った時、彼女は大学病院の小児科病棟で医師として実務に抵ると告げた。メキシコでの実績を買われて正式にセルバ共和国の医師免許を取得したと言う。テオは彼女に関して彼が知らないところで物事がどんどん進んでいるような気がした。

「それで? 今夜も少佐のアパートに泊まるのか?」
「スィ。でも明日は出て行くわ。大学の職員寮に空き部屋があると聞いたので、今日早速手続きして来たの。」
「セキュリティは良くないぞ、職員寮は出入りが自由だ。」
「私は大丈夫よ。それにまたすぐに別の場所へ移る予定だから。」

 彼等は文化・教育省が入っている雑居ビルの1階にあるカフェテリア・デ・オラスにいた。アリアナはケツァル少佐を、テオはアスルを待っていた。アスルが必ずしも彼の家に帰るとは限らないが、一応省庁が業務を終える時刻に来て10分だけ待つと言う約束ができていたのだ。アスルは車もバイクも持っていない。テオの車に乗らなければ、彼なりの方法で帰って来るだけだ。

「別の場所って?」

 テオはアリアナが昨日出会った時から奥歯に物が挟まった様な話し方をすることが気になった。何か隠しているのか? 
 アリアナがミルクラテのカップを持ち上げて一口飲んでから、言った。

「本当に鈍感なのね、貴方は。」
「はぁ?」

 彼女はカップを置き、左手の甲を彼の方に向けて掲げた。薬指に金色の指輪が光った。石は付いていない。しかし、指輪が持つ意味はテオに伝わった。彼はぽかんと口を開け、それから我に帰って尋ねた。

「婚約指輪?」
「スィ。」
「相手は?」

 アリアナはフフっと笑った。

「貴方が知っている人。」


2021/11/28

第4部 嵐の後で     7

  セルバには、欧米のようなスーパーマーケットはないが、大きな建物の中にいろいろな店舗が入っているメルカド(市場)がある。テオは研究室の片付けを終えると、大学のカフェがまだ休業していたので、街に出た。一番近いメルカドへ行き、入り口でカートを調達すると、それを押しながら中を歩いた。ハリケーンの影響で海鮮を売っている店は閉まっていたが、八百屋や精肉店は既に店を開けていた。馴染みの店で値段交渉をして、揚げパン屋で昼食を済ませた。その日の夕食の食材を調達した。アスルが作るか彼自身が作るか、それは関係ない。その日食べる物を買うだけだ。支払いを済ませた商品をカートに入れて行く。未払いの物はカートに入れてはいけない。それがセルバのルールだ。
 3軒ある果物屋の中で一番大きな店の前で、アリアナ・オズボーンとバッタリ出会った。正直なところ、テオは驚いた。

「帰国は明日じゃなかったか、アリアナ?」

 アリアナがちょっと顔を顰めた。

「会うなり最初の言葉がそれ?」

 そして説明した。

「カンクンのアパートを引き払って飛行機に乗るまでホテルに泊まるつもりだったの。でもハリケーンが来るって言うので、満室になってしまったのよ。途方に暮れかけたら、今度はキャンセル待ちを入れておいた二日早い便に空席が出来たって航空会社から連絡が入ったの。乗らないとハリケーンが来てしまうでしょ? 泊まる所もないのに。だから乗っちゃいました。」
「すると、グラダ空港に着いたのは昨日か?」

 テオは呆れた。一番風雨が強かった時ではないのか? 

「風が出る直前に到着したのよ。」

とアリアナがちょっぴり自慢げに言った。

「でも雨がひどくなって、タクシーも来ないし、こっちのホテルも塞がってしまったから、どうしようかとターミナルビルの出口で迷っていたら、女神様が通りかかったの。」

 テオは黙って彼女の顔を見つめた。気のせいか、アリアナは彼が最後に彼女を見た時より逞しく見えた。以前は不安と不満に苛まれて頼りない雰囲気だった。孤独感と焦燥感で心から疲弊して見えた。しかし、一年半のメキシコでの一人暮らしで、彼女は強くなって戻ってきた感じだ。
 テオが黙っているので、彼女は種明かしをした。

「ケツァル少佐が仕事を早退きして、市内を巡回していたの。何処かに守護の不具合が出ていないかチェックしていたんですって。彼女が先に私を見つけて、車を止めてくれたの。貴方と同じように、帰国は2日後の筈では?って聞かれたので、さっきの説明をしたら、うちに来なさいって言ってくれたの。それで彼女の車に乗せてもらって、市内巡察を付き合って、そのまま彼女のアパートへ行って、泊めてもらった訳。」
「俺に連絡をくれれば、迎えに行ったのに。」

とテオは言ったが、内心は少佐に感謝していた。彼の家にはアスルとデルガドがいたのだ。アリアナの場所がない訳ではなかったが、狭い家に4人でハリケーンをやり過ごすのはそれなりに気苦労があったかも知れない。第一アリアナとデルガドはまだ会ったことがないし、アスルは以前アリアナに片思いをしていた。(今はどうなのか、不明だが。)
 アリアナは肩をすくめた。

「懐かしくて、2人でお喋りに夢中になって忘れたのよ。」

 彼女はテオのカートを見た。

「たくさん買うのね。」
「同居人の分も買ったからね。」

 ああ、とアリアナは以前電話で聞いたアスルの下宿の件を思い出した。

「要するに、私の居場所がない訳ね。」
「済まない。君の新しいアパートを探すつもりでいたら、ハリケーンが来たんで忘れてしまった・・・」

 テオもアリアナのカートの中身を見た。大量の野菜と果物と肉の包みが入っていた。これは現在の「家主」の食べる分だろう。

「今夜も少佐のアパートに泊まるのかい?」
「スィ。まだ家政婦さんは来られないのよ。子供の学校が再開されるまで家にいるのですって。だから、私が家事を引き受けたの、宿泊費の代わりにね。」
「少佐は、今・・・」
「今日は一日寝ているわ。昨夜祈祷して疲れたんですって。大統領警護隊って、自然災害の時は祈祷も任務になっているのね。」

 アリアナが遠くを見る目になった。テオは彼女がカルロ・ステファンを思い出したのかと思ったが、実際はそうではなかったと後で知らされることになる。


 

第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...