2021/12/08

第4部 忘れられた男     10

  エルネスト・ゲイルの事情聴取やその後の扱いについては、憲兵隊に権限があるので、テオは大統領警護隊の仲間の元に戻った。ケツァル少佐とロペス少佐は待合スペースで退屈そうに座っていた。周囲の患者は彼等が何者か気がついていないので、何か勘違いした年配の女性がケツァル少佐に、「おめでたか?」と尋ねて彼女を赤面させた。2人の少佐を夫婦と勘違いした様だ。テオが近づくと、どちらもホッとした表情で立ち上がった。

「彼は大丈夫でしたか?」

とケツァル少佐が尋ねたのは、エルネストの体調のことだ。テオは頷いた。

「彼は元気だ。どうやらパナマへ行く途中だったらしい。ここがセルバだと言うことを知って、ちょっと驚いていた。」

 ロペス少佐が廊下の奥のドアを見た。

「憲兵隊が指導権を持つ様ですね。」
「スィ。今のところ遭難者として事情聴取を受けるらしいです。」

 アウマダ大佐が出てくるのが見えた。ロペス少佐はケツァル少佐を振り返った。

「貴女はもう撤収してもらって結構だ。運転手を頼んですまなかった。」

 ケツァル少佐が微かに笑った。

「これで終われば良いのですが・・・」

 彼女はテオを見た。

「アリアナとテオをあまりあの男の件に巻き込まないよう気をつけて下さい。」
「アリアナには彼の話は聞かせません。」

とロペス少佐は言い、彼もテオを見た。 テオに、アリアナにはエルネストの出現を言うなと暗に要請したのだ。テオは、承知したと首を振った。やっと精神的な落ち着きを得て、幸福を掴もうとしているアリアナに、過去の亡霊を見せたくなかった。
 ケツァル少佐はテオの帰りの足のことをちっとも心配していないようで、「ではまた」と言って、病院から去って行った。その後ろ姿を見送って、テオはロペス少佐を振り返った。ロペス少佐はアウマダ大佐がそばに来るのを待ってから、エルネスト・ゲイルをどうするのかと尋ねた。
 アウマダ大佐は大統領警護隊の目を見ないように努めながら答えた。

「今日のところは南基地の憲兵隊分室へ連れて行きます。」
「事情聴取の後は?」
「宿舎を用意します。見張りは付けます。パスポートも何も持っていない外国人を野放しには出来ませんから。」
「少なくとも、彼は今のところハリケーンの遭難者で、我が国へ移民する為に来たのでも亡命に来たのでもない様だ。移民・亡命審査官の私に用はないと思うが?」

 アウマダ大佐はチラリとテオを見てから、ロペス少佐の意見を認めた。

「我が国へ入国するのは目的でない様です。しかし調査は必要です。アルスト博士をもう暫くお貸し願いたい。」

 ロペス少佐が顔を向けたので、テオは溜め息をついた。

「まぁ、ずっとここに詰める訳ではないでしょうから、俺は良いですよ。」

第4部 忘れられた男     9

  エルネスト・ゲイルは呻き声を立てながら目を開け、起き上がろうとした。点滴も酸素マスクも何も装着されていないから、簡単に体を動かせる。医師も憲兵も黙って彼の動きを見ていた。
 ゲイルが上体を完全に起こした時に、テオはムンギア中尉の後ろから声を掛けた。

「おはよう、ゲイル博士。」

 アウマダ大佐と医師がチラリと彼を見たが、何もコメントしなかった。エルネスト・ゲイルは手で顔を擦り、英語で「おはよう」と答えた。それから、ふと気がついた様に視線を上げた。メスティーソの中米人の医者と軍人が彼を取り囲んでいるのを見て、一瞬不思議そうな顔をした。それから、ハッとして周囲を見回した。

「ここは?」

 医師が英語で答えた。

「グラダ・シティのブルノ・リベロ病院です。」
「グラダ・シティ?」

 エルネストは怪訝な表情になった。

「パナマですか?」
「ノ。セルバ共和国です。」
「セルバ?」

 彼はピンと来なかった様だ。もう一度病室内を見回し、憲兵の後ろに立っているテオを見つけた。え? と言う驚きの表情になった。

「テオ? シオドア、君か?」

 テオは中尉の横に進み出た。

「そうだよ、君の昔馴染みのシオドアだ。今はテオドール・アルストと名乗っているがね。」
「それじゃ、ここはセルバ・・・」
「だから、ドクターがそう言ったじゃないか。」

 やっとエルネストの顔に不安そうな色が現れた。

「どうして僕はセルバにいるんだ? パナマへ行く筈だったのに・・・」
「ハリケーンで遭難したんだ。」

 とムンギア中尉が言った。

「貴方は救命筏に乗って、我が国の浜辺に打ち上げられていた。」

 ああ、とエルネストが枕に頭をどすんと落とした。少し安堵の表情になった。

「それじゃ、助かったってことか・・・」

 医師が憲兵にエルネストの診察をして良いかと尋ねた。

「問題がなければ退院させて結構です。」
「では、診察をお願いする。」

 医師が聴診器でエルネストの胸の音を聴き、目や舌をチェックし、脈や血圧を測って、憲兵大佐に頷いて見せた。大佐が中尉を振り返った。

「この男に着せる衣類が必要だな。」

 テオは大佐に尋ねた。

「彼をどうなさるおつもりですか?」
「遭難の状況を事情聴取する。船が遭難したとわかれば、関係ありそうな国に連絡して救助を促す。手遅れかも知れないがね。取り敢えず、彼を何処かのホテルに泊めることになるだろう。貴方がこの男性の身元をご存知で手間が省けた。」

 大佐は廊下の方へ視線を遣った。

「大統領警護隊のお出ましは、その後にお願いすることになるだろう。」


 

 

2021/12/07

第4部 忘れられた男     8

  エルネスト・ゲイルはまだ目を閉じていた。痩せたな、と言うのがテオが抱いた最初の印象だった。以前はぽっちゃりした体型だったが、かなり贅肉を落としていた。しかし美男子には程遠い顔立ちだ。太っていた時の方が可愛いかった、とテオは思った。やつれているのかも知れない。生まれてからずっと特別な子供扱いされ、大事に養育された男が、人生で最大の失敗をしたのだ。エルネストが生け捕った超能力者がとんでもないヤツで、その仲間もとんでもない女で、軍の基地内にある警戒厳重な研究所をメチャクチャにして、研究データを全て消去してしまって逃亡した。しかも2人の、やはり大事に育てた筈の研究者を道連れにして。軍は、あるいは国は、エルネストの失敗をどう処理したのだろう。エルネストは汚名返上の為に新しい仕事を背負い込んだのか? それとも母国に未来はないと諦めて逃げて来たのか?
 アウマダ大佐がテオを見た。大統領警護隊と何の話をしていたのか、と問いたげな表情だったので、彼は囁いた。

「この男は俺の知っている人間です。アメリカ人です。」

 それ以上の説明は、医師や看護師の前で言うのを憚られた。それにこの2人の憲兵は”ティエラ”だ。アメリカで起きた事件を全く知らない普通の人々だった。

「科学者ですか?」

とムンギア中尉が尋ねた。テオは頷いた。

「アメリカ合衆国陸軍の研究施設で働いていた男です。」

 それだけで、憲兵にエルネスト・ゲイルに対する警戒感を持たせるに十分だった。身元を徹底的に隠した装備を持ったアメリカ軍関係者だ。セルバ共和国と敵対している訳ではないが、友好的な活動をしていたとは言い難い。

「何処か南の方の国で活動していて、ハリケーンでセルバへ流された可能性も考えられるな?」

とアウマダ大佐が呟いた。漂流して来たと考えれば、大佐の意見が正しく思えた。パナマやコロンビア辺りが目的地だったのかも知れない。
 その時、エルネストがうーんと声を上げた。アウマダ大佐がテオに尋ねた。

「彼の名前は?」
「エルネスト・ゲイル。」
「アーネストではなく、エルネストですか?」
「スィ。何故かその発音で彼は子供の時から呼ばれていました。」
「子供の時から?」
「幼馴染です。」

 兄弟とは言いたくなかった。言えば、また話がややこしくなる。大佐がベッドの上の男に英語で声を掛けた。

「エルネスト、起きなさい。」



第4部 忘れられた男     7

  生存者は2階の病室にいた。医師の説明では、外傷はなく、低体温と脱水症状が酷かったのだと言う。救命筏に乗り込んだ時には既に着衣全部がずぶ濡れだったのだ。船から退避するタイミングを誤ったに違いない。殆ど手遅れのギリギリ一歩手前で救命筏に乗り込んだのだ。
 医師が先頭になり、2人の憲兵の後ろにテオ、ケツァル少佐、ロペス少佐の順で病室に入りかけた。しかし、ベッドで寝ている男の顔を見た瞬間、テオは回れ右して、2人の大統領警護隊の少佐の前で両腕を広げて通せんぼした。思わず低い声で言った。

「駄目だ、入るな。」

 少佐達が怪訝な顔をするよりも早く、彼は彼等を数歩押し戻した。そしてケツァル少佐に言った。

「エルネスト・ゲイルだ。」

 ケツァル少佐は2年も前に1度きりしか会っていない男を覚えていなかった。誰?と目で彼に問いかけた。テオは彼女を見て、後ろのロペス少佐を見た。そして簡単に、しかしわかりやすく説明した。

「アメリカで、カルロ・ステファンを拐った男だ。」

 2秒後にケツァル少佐が、ああ、と思い出して頷いた。ロペス少佐はまだピンと来ない様だ。ケツァル少佐が彼を振り返り、目を見て”心話”で説明した。ロペス少佐もそれで理解した。テオとアリアナ・オズボーンと共に遺伝病理学研究所で遺伝子操作されて生まれた男だ。C C T Vで黒いジャガーを見て、カルロ・ステファンが変身した姿だと知り、ステファンを拉致して超能力者の研究に使おうとした科学者だ。ケツァル少佐の”操心”でテオと彼女を研究所の所長室へ案内した後、ステファンに殴られて昏倒した。テオ達は彼をそこに放置して逃げたのだ。
 テオは彼女に尋ねた。

「君はエルネストの記憶を消したかい?」

 ケツァル少佐が首を振った。

「研究所の人間全員から私達の記憶を消した筈です。でも、貴方に私達の”操心”が効かない様に、彼にも効かなかった恐れは十分にあります。」
「じゃぁ、彼は君を覚えているかも知れない。」

 テオは病室の入り口を見た。エルネスト・ゲイルが何故セルバの海岸に打ち上げられていたのか知らないが、身元を隠す必要がある行動をしていたのだ。ここは用心するに越したことはない。
 テオは少佐達に向き直った。

「医者と憲兵は”ティエラ”だな?」
「スィ。セルバ人の90パーセントは確実に”ティエラ”です。」
「それじゃ、彼には俺が憲兵と一緒に面会する。君達は出来るだけ彼に近づかないでくれ。必要な時は俺が呼ぶから。」

 エルネスト・ゲイルに”ヴェルデ・シエロ”の細胞を手に入れる機会を与えてはならない。2人の少佐は純血種なのだ。エルネストがまだステファンを諦め切れていなければ、”ヴェルデ・シエロ”達を彼と接触させたくなかった。エルネストが”シエロ”の遺伝子を手に入れたとしても、無事にアメリカに戻ることは出来ないだろう。ここには”砂の民”と呼ばれる人々がいるのだ。テオは彼を愛せないでいるが、それでも一緒に育った”弟”だ。この国で死なせたくなかった。
 テオは1人で病室に入った


第4部 忘れられた男     6

  市営病院は初代院長の名前でも付いたのか、ブルノ・リベロ病院と言う名前だった。ロカ・ブランカではちょっと腹痛や頭痛したぐらいでは病院に行かない。町の薬局(と言えるのかわからないが)で薬を買って飲むだけだ。病院へ行くのはお産か重症患者だけだった。しかしそれは単に町と病院の距離が遠いからと言う理由だけのようで、実際に病院のロビーに入ると市民が普通に待合で順番待ちをしていた。決して診療費が高い訳ではないのだろう。市営病院だから、グラダ大学の大学病院の様な高度な技術はないかも知れないが、まともな医者がまともな診療を行っている様だ。
 テオはバス事故から救出されて入院していたエル・ティティの病院を思い出した。田舎の小さな町の小さな病院だったが、親身になって治療をしてくれた。唯一人の生存者だったテオを必死で看護してくれた。今でも時々彼は思う、自分が遺伝子分析学者ではなく、アリアナの様に医師免許を取って患者を診る遺伝病理学者であったならば、彼女の様に方向転換して臨床医になってエル・ティティの町に恩返し出来たのに、と。
 ロカ・ブランカの警察とは町から出る時にお別れしたので、病院での面会交渉は憲兵隊が行った。生存者はまだ眠っているが、容態は落ち着いたので間もなく目が覚めるだろう、と医者は言った。それで、先に冷蔵保存されている遺体の方を見ることにした。
 テオはミイラをたくさん見た経験はあるが、生の死体はない。少なくとも、意識してじっくり見た経験がない。死体安置室へ案内される時、彼はケツァル少佐に囁いた。

「俺が部屋から逃げ出しても笑わないでくれないか?」

 少佐が眉を上げて彼を見た。そして囁き返した。

「私が幽霊を見て逃げ出しても追わないで下さいね。」

 それで彼は少しだけリラックス出来た。
 死体安置室は地下にあり、薄暗くて、嫌な臭いが漂っていた。憲兵隊が首元に常に巻いているスカーフを鼻の上へ引き上げた。病院職員が言い訳した。

「換気扇がハリケーンで故障してしまってね・・・」

 シーロ・ロペス少佐はハンカチを出してお上品に鼻を押さえ、ケツァル少佐はスカーフをポケットから出して顔に装着した。テオも仕方なく皺だらけのハンカチを出して鼻を押さえた。
 室内は冷んやりとしていた。アメリカの様な遺体冷蔵保存用の引き出しがある訳でもなく、2体の遺体が台の上に並べて横たえられ、シートをかけられていた。職員が右側の遺体の前に立った。

「こっちが、漂着した時に既に死んでいた人です。救命筏の中に乗せられていました。救命胴衣を着けていましたが、頭部に傷があり、船から乗り移る時に怪我をして亡くなったものと思われます。他に外傷はありません。」

 シートを捲って顔を見せた。アフリカ系に見えた。まだ若い。30代前半だろう。

「発見時の服装は?」

 アウマダ大佐が尋ねた。職員が部屋の隅っこに重ねて置かれた衣類を見た。白っぽいグレーの作業服に見えた。蛍光色のラインが腕や肩の部分に入っている。同じ服が3人分あったので、もう1人の遺体と生存者も着ていたのだとわかった。
 ロペス少佐が遺体のシートをさらに捲る様に合図して、それから手袋を要求した。職員が薄いラテックスの手袋を客に配布した。テオは、それならマスクもくれれば良いのに、と思ったが黙っていた。職員は自分だけマスクをしていたのだ。
 手袋をはめたロペス少佐は遺体の手を眺めた。憲兵が彼の横に来て、一緒に眺めた。

「船乗りの手に見えますが?」

とムンギア中尉が感想を述べた。少佐と大佐が頷いた。力仕事をしていた手だ。
 次の遺体は前日に死んだ人だ。こちらはメスティーソで、やはり若かった。外傷はなかったが、全身ずぶ濡れで低体温症で亡くなったのだ。ロペス少佐はこの遺体の手も眺め、それから自分の手を見て、隣にいたムンギア中尉の手をいきなり掴んで眺めた。ムンギア中尉がギョッとした。テオは笑いそうになって堪えた。ロペス少佐は今完全に大統領警護隊の士官モードに入っており、”ティエラ”の将校は格下と見做しているのだ。彼は中尉の手を離すと言った。

「この遺体の男は、銃を扱い慣れていた。」


2021/12/06

第4部 忘れられた男     5

  海図を管理しているのは沿岸警備隊だったので、警察署長ではなく憲兵隊が連絡を入れた。テオはふと疑問に感じた。何故今回の遭難者の調査を沿岸警備隊が行わないのだろう、と。セルバ人達は何も疑問を感じないのか、それから半時間無駄話をして沿岸警備隊がファックスを送ってくるのを待った。主に次のサッカーのワールドカップの話題だったので、テオとケツァル少佐はテーブルの上の残りの備品をチェックした。

「非常食が2つだけありましたが、北米で手に入りやすいレトルト食品ですね。」

とケツァル少佐が言った。

「リオグランデから南で買えるとしたら、メキシコあたりでしょうか。 私個人の印象では、これは北米から来た様に思えます。こんなに用心深く身元を隠した避難用具を見たのは初めてです。」
「俺もそう思う。」

とテオは嫌な予感を抱きながら言った。

「これはスパイ活動をしていた船のものじゃないかな。犯罪組織がここまで身元を隠すとも思えない。」

 ロペス少佐が振り向いたので、彼は言い足した。

「どこの国がどの国を探っていたのかは、わからない。潮流を見ないとね。」

 ピーッとアラームが鳴り、警察署のファックスが数枚の紙を吐き出した。大統領警護隊と憲兵隊からの合同要請なので沿岸警備隊が超特急でこの過去3日間のロカ・ブランカを含む東海岸沖の潮流の様子を描いた図を送信してきた。
 大統領警護隊も憲兵隊も陸軍がメインなので、海図の読み取りは苦手だ。警察署長が初めて水を得た魚の様に図面を解読しながら潮流の向きを説明した。

「我が国の東を流れる潮流はメキシコ湾流で、南から北へ北上しています。まず逆流はありません。漂流物は南の方からやって来ます。今回の救命筏も南から流されて来たと思われます。何処の国の船のものかわかりませんが、セルバより南で遭難して、暴風で海岸に押し寄せられたのでしょう。」
「海流の速さと風向き、風速から船舶が遭難したと思われる海域はわかりますか?」

 テオの質問に署長が首を振った。

「無理でしょう。穏やかな状態の海で遭難したのでしたら計算も出来ますが、あの暴風雨の中ではね。生存者が回復したら訊いて見る方が良いでしょうな。」

 警察署を出ると、大統領警護隊と憲兵隊はそれぞれの車に乗ってグラダ・シティ南部の市営病院に向かった。そこに死者2名と生存者1名がいた。



2021/12/03

第4部 忘れられた男     4

  憲兵隊のアウマダ大佐とムンギア中尉は年齢も体格も違っていたが、テオにはなんとなく2人が兄弟の様に似ている感じがした。恐らく同じ制服を着て、同じ様な口髭を生やしているからだろう。彼等は私服姿のロペス少佐とケツァル少佐を、本当に大統領警護隊なのかと疑っている様な目だった。
 明るい屋外から小屋に入ると最初は真っ暗に感じる。ロペス少佐は全く気にせずに中に入り、真っ直ぐ中央に置かれたテーブルの前に進んだ。署長が戸口にあった照明のスイッチを押した時、彼は既に救命胴衣を手に取り、国籍の手掛かりを探るかの様に眺めていた。テオはムンギア中尉が上官に「本物ですよ」と囁くのを聞いてしまった。大統領警護隊の夜目が利くことは憲兵隊や軍隊では周知の事実なのだろう。
 ケツァル少佐は床に置かれた膨張式救命筏を調べ始めた。アウマダ大佐が男性少佐を引き受け、ムンギア中尉は女性少佐の相手をすることにしたのだろう、中尉がケツァル少佐に救命筏の構造の説明を始めた。
 テオはテーブルの上に並べられた備品を眺めた。ありふれた非常用装備に見えるが、セルバ共和国で簡単に手に入るとも思えなかった。メルカドに非常用装備を販売している店などないし、グラダ・シティのショッピングモールでも見たことがない。セルバ人は漁師を生業にしている人以外は沖に出て遊んだり作業をしたりしない。漁師だって救命胴衣を着用するようになったのはつい最近のことで、非常食や発煙筒や水の容器など船に装備しない。テオはふと何か足りない様な気がした。
 ケツァル少佐がテオと呼んだ。彼がそばに行くと、彼女が尋ねた。

「海軍には詳しいですか?」
「ノ。俺が育ったのは陸軍基地だから。」
「セルバ共和国には沿岸警備隊がありますが、海軍はありません。」

と彼女は言った。軍艦を持つ余裕が国にないのだ。空軍だって中古の戦闘機と輸送機、ヘリコプターしか持っていない。救命筏はセルバ人が所有するには高度な技術が使われていた。テオは彼女が指差した装置を見た。

「ええっと、それは?」
「SARTです。」

 ロペス少佐とアウマダ大佐が振り返った。ムンギア中尉も興味津々で彼女が指し示した赤いロケット状の装置を見た。ケツァル少佐は男達がそれ以外の反応を示さなかったので、説明した。

「捜索救助用レーダートランスポンダです。捜索救難を行う機関から発せられたレーダー波、質問波と言いますが、それを受信した際、SARTから応答波送信を行うことで捜索機関のレーダー画面上に救命筏の位置表示が行われます。この装置を装備している救命筏を搭載しているセルバの船はないと思います。」
「よくご存知で・・・」

 ムンギア中尉が感心すると、彼女は肩をすくめた。

「3年前に海底遺跡を調査するイギリス船に乗った時に教えてもらいました。」
「セルバに海底遺跡があるのかい?」

 テオはちょっと好奇心が湧いて尋ねた。ケツァル少佐は己の専門分野ではあったが、この場で必要な話題ではないと思ったので、「スィ」と短く答えて遺跡の話を終わらせた。
 アウマダ大佐が彼女に尋ねた。

「どこの製品かわかりますか?」
「恐らく・・・」

 ケツァル少佐は装置をじっくり眺めた。

「日本でしょう。」
「と言うことは・・・?」
「どこの国でも取引があれば購入出来ます。軍事的な物ではなく、遭難した時の救難信号用装置ですから。」
「でもセルバの船ではない?」
「セルバの企業が所有していても船籍を外国に置いていれば、セルバの船ではないですね。」

と言ったのはアウマダ大佐だ。ケツァル少佐が肯定した。彼女の養父の会社も船籍を税金対策でパナマに置いている。ムンギア中尉が調査してきた内容を報告した。

「ハリケーンでセルバの企業が関係した船が被害を受けたと言う報告は上がっていません。また、北米やメキシコ、あるいは南のベネズエラやブラジルからもそんな報告はきていないと外務省が言っています。」
「では、遭難したのは当局に船の運航を届け出ていないところ、と言うことになります。」

 ロペス少佐が警察署長に顔を向けたので、それまで黙って大統領警護隊と憲兵隊の会話を聞いていた警察署長がハッと姿勢を正した。楽に、と言って、ロペス少佐は頼み事をした。

「生存者に面会する前に、この沖の潮流がわかる海図とかあれば見せていただきたい。」




第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...