2022/01/26

第5部 山の向こう     6

  テオはキロス中佐の現状に部下が心を痛めていることは言わなかった。その代わりに、3年前にアスクラカンに行ったことを覚えていますか、と尋ねた。
 キロス中佐はボーッと前方を力のない目で見ていた。それから、ゆっくりと答えた。

「覚えています。バルセル医師を追いかけて行きました。」
「バルセル?」
「エンジェル鉱石の産業医でした。」

 スペインっぽくない名前だが、この際医師の先祖が何処の国の出身かは問題ではない。テオは誘導したくなかったが、中佐があまり喋りたがらない様子なので、ガルソン大尉から聞いた話をしてみた。

「エンジェル鉱石が健康診断で集めた従業員の血液をアメリカに売却していたことを知って、貴女はバルセル医師にその真偽か目的を追求しようとされ、アスクラカン迄追いかけたのですか?」

 キロス中佐は反応しなかった。言いたくないのか、それとも意識が飛んでしまったのか。目は虚空を見ていた。テオはどう話を進めるべきか考えた。

「貴女はバルセル医師に会われたのですか?」
「ノ。」

今度は即答だった。

「会えなかったのですか? 会わなかったのですか?」

 答えが直ぐに返って来なかったので、別の質問をしようと考えかけると、中佐が呟いた。

「会えなかった。」

 テオは彼女の視界に入るように椅子の位置を少しずらした。

「どうして会えなかったのですか?」

 キロス中佐がギュッと眉を顰めた。何か不愉快な記憶が蘇った様だ。そして片手を額に当てた。頭痛でもするのか下を向いてしまった。テオは優しく声をかけた。

「水をお持ちしましょうか?」

 返事がないので、彼は立ち上がり、戸口へ行った。キロス中佐が後ろで何か呟いた。彼は振り返った。中佐は体を前に折り曲げ、苦痛に耐えている様に見えた。
 テオは急いでドアを開けた。ガルソン大尉がパソコンで作業中だったが、素早く振り返った。テオは彼に伝えた。

「中佐は気分が悪い様です。指導師かセンディーノ医師を呼んだ方が良いでは?」

 ガルソンが立ち上がり、中佐の部屋を覗き込んだ。中佐の状態を確認すると、彼は携帯を出して誰かにかけた。

「ステファン、オフィスに戻ってくれ。指導師が必要だ。」

 その時、キロス中佐が顔を上げた。彼女が何か言ったが、テオには理解出来ない言葉だった。ガルソン大尉がギョッとした表情になった。彼は”ヴェルデ・シエロ”の言葉で彼女に言葉をかけた。中佐が頭を両手で抱え、首を振った。
 オフィスのドアが勢いよく開き、ステファン大尉が駆け込んで来た。

「どうしました?」
「中佐を診てくれ。」

 テオとガルソン大尉がほぼ同時に同じことを言ったので、彼は急いでオフィスを横切り、指揮官の部屋に入った。テオには、彼が一瞬何かに押し戻されかけた様に見えた。しかしステファンは両足を踏ん張り、それから力強い足取りで前に進んだ。

「中佐、どうされました?」

 キロス中佐は再び何かを言った。テオにステファンは背を向けていたので、テオは彼がその時、どんな表情をしたのか分からなかった。ステファンは優しい声根で指揮官に話しかけた。彼等の母語だったので、テオには理解出来なかった。だがステファンが机を回り込み、キロス中佐の上半身をそっと抱き締めた時、あまり驚かなかった。ステファンは指導師としての治療行為を行なっているのだ、とわかった。ステファンがオフィスの方へ顔を向けた。次の瞬間ドアがバタンと音を立てて閉まった。誰が閉めたのか分からなかったが、テオは指導師の仕事が見られないと悟った。
 ステファンの席に行って椅子に腰を下ろすと、ガルソン大尉が声をかけて来た。

「何か分かりましたか?」
「何も・・・」

 テオは溜め息をついた。

「中佐がエンジェル鉱石の産業医だったバルセル医師を追ってアクスラカンに行かれたことは分かりました。でも医師に会えなかったそうです。その理由を訊こうとしたら、中佐の気分が悪くなった様です。」

 するとガルソン大尉が頷いた。

「私が訊いた時も同じでした。アスクラカンでの出来事を訊くと、あの様な症状が出るのです。」



第5部 山の向こう     5

  宿舎に帰ると、2人の院生はそれぞれの部屋で真面目に日中のサンプル採取に関するレポートを作成中だった。テオは彼等の邪魔をしないように、静かにキッチンで湯を沸かして体を拭き、ベッドに入った。
 キロス中佐がバスを崖から落とした説はどうしても考えたくないが、アスクラカンに彼女がいた時期がはっきりしないことには彼女の無実も考え辛い。今もバスが崖から転落した原因は不明だ。道幅が狭い未舗装の道路だったが、バスの運転手はベテランだったと聞くし、天候も良かったと聞いている。テオを含めた37名の乗客の数も定員オーバーではない。もっと詰め込みで客を乗せて走るバスはいくらでもあった。車両故障か、運転手の突然の病気発症か、それとも何者かの破壊行為か、とゴンザレス署長は捜査したが、転落の衝撃で破壊され、焼け焦げたエンジンや車体から何も手がかりを掴めなかった。
 テオは己がエンジェル鉱石が売却した血液から発見された超能力者かも知れない人間に会いに行ったのだろうと言う、セルバ渡航の動機を捨てていない。その動機を何らかの経緯で”砂の民”が知って、彼の暗殺を図ったのだとしたら、と考えたこともあった。しかし基本的に”ヴェルデ・シエロ”達は自身の存在意義を「セルバ国民を守護する」ことに置いている。”砂の民”がテオ以外の37名を殺害してでも彼を暗殺しようとしたとは考えられない。寧ろ彼を生かしても構わないからバスを救おうとした筈だ。
 色々考えが頭の中を駆け巡り、テオはそのまま訳のわからない夢を見ながら眠った。だから翌朝目覚めた時は、頭がボーッとしてしまった。カタラーニが、気分が悪ければ一人で採取してきます、と言ったので、彼はガルドスと一緒に行ってみれば、と提案した。ガルドスも診療所ばかりで採取していても人数を稼げないだろうし、村の中の様子を見て歩くのは悪くないだろうと。ガルドスも彼の提案に喜んで同意したので、カタラーニはちょっと照れながらも女性と2人で歩くことにした。
 若い2人が出かけると、テオは朝食の後片付けをして、身支度した。キッチンのテーブルで採取した検体の分類整理をしてラップトップにデータを入力していると、ステファンからメールが入った。1030にオフィスへ来て欲しいと言う内容だった。キロス中佐は話が出来る状態らしい。テオは少しだけ安心した。
 入力作業を済ませ、サンプルが入っている冷蔵庫の電源が切れていないことをチェックして(地方ではよく停電が起きる。)約束の時間に太平洋警備室に出かけた。
 オフィスではガルソン大尉一人が机で仕事をしていた。パエス中尉は前日修理したエンジンを沿岸警備隊へ届けに行ったのだと言う。ラバル少尉はいつもの様に港湾施設のパトロールに出かけており、ステファン大尉とフレータ少尉は食材購入に出かけている。
 大尉はテオと挨拶を交わすと、奥のドアの前へ行き、ノックした。そしてドアを少し開いて中の人に声をかけた。

「ドクトル・アルストがお見えです。」

 そしてテオには中の人の声が聞こえなかったが、大尉は頷いて、テオに中へどうぞ、と手を振った。それでテオは奥の事務室に入った。
 薄暗い室内の執務机の向こうに、一見70歳かと思える様な疲れた顔の女性が座っていた。テオが「ブエノス・ディアス」と挨拶すると、彼女も同じ言葉で返礼した。そしてミイラの様にやせ細った手を持ち上げ、椅子を指差した。

「どうぞおかけになって・・・」

 消え入りそうな低い声だった。テオは椅子に座った。中佐が息を吸い込み、それから言葉を発した。

「ガルソンとステファンから話を聞きました。3年前の私の行動についてお聞きになりたいと。」

2022/01/25

第5部 山の向こう     4

  明朝にキロス中佐がオフィスに出て来たら、直接彼女にテオと面会出来るか訊いてみる、とガルソン大尉は言った。もしその時点で彼女自身に判断能力がなければ、昼休みに厨房棟へ来てもらえないか、と彼はテオに頼んだ。
 セルバの神様が病気の仲間を救おうとして、白人に協力を仰いでいる。テオは事態の深刻さを理解した。
 大統領警護隊と夜の挨拶を交わして、彼はオフィスを出た。ステファン大尉が送りましょうかと声をかけてくれたが、辞退した。歩いてもそんなに遠くない距離だ。だがステファンは先輩達に向かって言った。

「”ティエラ”は夜目が利きません。転ばないよう、見守って来ます。」

 テオは勝手にしろよと笑い、2人は外に出た。少し歩いてから、ステファンが質問した。

「オルガ・グランデに来ているピューマと言うのは誰です?」

 テオは肩をすくめた。

「何時来るのか、実は知らないんだ。俺の同僚になる人だ。」

 それでステファンは、テオが示唆した”砂の民”が彼自身の恩師だと悟った。

「あの先生が来られたら、中佐の件は隠しようがありません。」
「教授はこっちへ来る訳じゃない。新しく発見された”ティエラ”の墓所遺跡を見学に来るんだ。だから文化保護担当部に遺跡立入許可を申請してパスをもらっていた。恐らく”シエロ”のミイラが混ざっていないか、地下墓地を歩くつもりだろう。君達の方から彼に接触しなければ、中佐の件に気づかずに帰ると思う。」
「そうだと良いのですが・・・」

 暗かったので、テオにはステファン大尉がどんな表情をしているのか見えなかったが、声は憂を帯びていた。

「”砂の民”は大統領警護隊に匹敵する情報網を持っています。”耳”と”目”と呼ばれる情報収集を司どる”ティエラ”を各自持っています。”耳”と”目”は自分達が操られているとは知らずに情報を集め、”砂の民”に報告するのです。無報酬ですが、”砂の民”の守護を受けているので身の安全は保障されます。教授がオルガ・グランデに”耳”や”目”を持っているかどうか知りませんが、西部地方は昔マスケゴ族の勢力範囲でした。殆ど”ティエラ”同然のマスケゴの子孫が大勢います。族長の身内である教授がオルガ・グランデに来れば、当然そう言う人々が集まるでしょう。教授が”砂の民”なのかどうか、彼等は知りません。それでも部族の長の家族は近づきになって損をしない存在ですからね。」

 カルロ・ステファンは以前大学の図書館で油断してケサダ教授に心を盗まれた苦い経験がある。ケサダは休憩していた彼に声をかけ、無防備に返事をしてしまった彼は教授と視線を合わせてしまい、強引に記憶をごっそり読まれてしまったのだ。お陰でステファンは人前で気絶すると言う失態をやらかしてしまい、姉のケツァル少佐から長い間揶揄われる羽目に陥った。(少佐は弟の油断から来る失敗には容赦しない。)それ以来、ステファンはフィデル・ケサダを警戒していた。
 テオはステファンが教授を警戒する理由を理解しているが、そんな必要はないのに、とも思う。教授は悪気があってステファンの心を盗んだのではない。大勢の人間がいる場所で大統領警護隊が油断して隙だらけで座っていたから、注意を与えただけだ。教授にすれば、ちょっとした悪戯心だったのだろう。何故なら、あの教授は白人の血を持つミックスのステファンより遥かに大きな力を持つ真の純血のグラダだからだ。

「ケサダはこっちには来ないさ。ここの海岸には遺跡がないから。」


第5部 山の向こう     3

  太平洋警備室のオフィスに別棟から戻って来たステファン大尉、フリータ少尉、ラバル少尉がその順番で入って来た。彼等はテオを見て、それからオフィス内の雰囲気で会談が既に始まっていることを知った。ガルソン大尉がステファンに”心話”でテオとの会談を伝えた。ステファンは頷き、2人の少尉にも情報提供を、と彼に言った。それでガルソンはラバルとフレータにも”心話”で伝えた。2人の少尉はテオがバス事故の生き残りだと知って驚いたが、その驚き方は同じではなかった。フレータは単純にびっくりした様子だったが、ラバルは却って警戒する様な目でテオを見た。記憶喪失を疑っているのかも知れない。
 ステファンがそばに来たので、彼の席に座っているテオは立ちあがろうとした。ステファンはそのままと手で合図した。テオは尋ねた。

「キロス中佐はきちんと夕食を取ったかい?」

 ステファンは肩をすくめた。フレータ少尉が答えた。

「出された物は全部召し上がりました。でも元気を失う前の半分の量です。」
「少しずつ量が減っている。」

とラバル少尉が呟いた。テオはキロス中佐をまだ見たことがないことに気がついた。こんな時は”心話”を使える”ヴェルデ・シエロ”達が羨ましい。彼はステファンを見上げ、尋ねた。

「君の任務は、ここで何が起きているかを調べることだろう? 本部に報告するかい?」

 ステファン大尉は室内を見回した。ガルソン大尉、パエス中尉、ラバル少尉、そしてフレータ少尉が彼を見つめていた。指揮官を救えないだろうか、と彼等の目が訴えていた。彼はテオに言った。

「実際に何が起きているのか、私はまだ掴みかねています。キロス中佐は確かに心の病に罹っておられる様に見えます。しかし、何故そうなったのか、原因を探る必要があります。」
「我々は3年間調べ続けた。」

とラバル少尉が抗議口調で言った。

「だが、何もわからない。」

 テオはガルソン大尉に向き直った。

「俺をキロス中佐に会わせて頂けませんか?」
「何の為に?」
「バス事故のことを教えてもらいます。」

 彼はちょっと考え、それからこう言った。

「もしかすると彼女は俺に何か語ってくれるかも知れません。あるいは、彼女はバス事故と全く無関係かも知れませんが。」

 ガルソン大尉はパエス中尉を見て、ラバル少尉を見た。それからフレータ少尉にも視線を向けた。最後にテオを見た。

「中佐が普通に会話が出来る状態なのか、私には判断が難しいのです。挨拶程度の短い会話なら出来ますが、5分も保ちません。座ったまま眠った状態になります。」

 テオはステファンを振り返った。ステファン大尉は仕方なく食事の時の中佐の様子をテオに語った。

「食事はされますが、時々動かなくなります。食べている最中に意識が混濁しているのではないかと思われる様な・・・」
「それは重症じゃないのか?」

 テオは心配になった。彼は室内の誰へともなく言った。

「あなた方は、中佐の異常をもっと早く本部に報告すべきだった。どんな結果になろうと、彼女の命を守ることが先決じゃなかったんですか?」


第5部 山の向こう     2

 不気味な程長い沈黙があった。ガルソン大尉もパエス中尉も黙ってテオを見ていた。テオは真っ暗な窓の外に目を遣った。2人の”ヴェルデ・シエロ”の沈黙が彼の質問への肯定を表していた。
 テオは深呼吸した。

「あなた方は、キロス中佐があのバスを道路から崖下に落としたと考えておられるのですね?」

 ガルソン大尉がゆっくりと首を傾げた。

「問題の医者がそのバスに乗っていたのです。だが、あそこで彼を殺す理由がない。少なくとも、我々には理解出来ない。」

 パエス中尉も言った。

「医者はアメリカ人をエンジェル鉱石に紹介しただけです。いくらか謝礼は取ったかも知れないが、彼は我々の存在を知らなかったし、アメリカ人の目的も知らなかった筈です。 中佐があの医者を殺す理由はありません。ましてや罪のない37人の命を奪うなど・・・」
「だが、あの事故がキロス中佐に何らかの心理的プレッシャーを与え、彼女の生気を奪ってしまった?」
「我々には彼女の心の病の原因がそれしか思いつかないのです。」

 テオは考え込んだ。超能力を使って直接人間を死なせることは、”ヴェルデ・シエロ”にとって絶対にしてはならない掟だ。人望厚かったカロリス・キロス中佐がそんなことをする筈がない、と部下達は信じている。だが何が起きたのか、中佐自身は語ろうとしない。ただ内に篭ってしまい、日々生きているだけの存在になってしまった。

「大罪を犯すことは、”砂の民”でさえ避ける。バス事故は本当にただの事故だったんじゃないのか? キロス中佐はもしかするとあのバスに乗っていて、自分だけ助かってしまったと思い込んでいるんじゃないか? 守護しなければならない国民を目の前で死なせてしまって、心が壊れてしまったのだと考えれないか?」

 ガルソンもパエスも答えなかった。
 テオは事故当時の記憶がない己が歯痒かった。事故に遭う前の記憶は戻ったのに、あのバスに乗った所から病院で目覚める迄の記憶だけが彼の脳から抜け落ちているのだ。

 もしかすると、キロス中佐の心の病の原因を知っているのは、この俺なのかも知れない。

 テオは気分が悪くなってきた。しかし、ここで逃げ出す訳にいかなかった。ガルソン大尉とパエス中尉は太平洋警備室の重大な秘密を打ち明けてくれたのだ。だから、テオもその行為に報いなければならない。

「その事故を起こしたバスに、俺も乗っていたんですよ。」

 室内の気温が1度下がった気がした。2人の”ヴェルデ・シエロ”が動揺したのだ。テオは彼等に余計な期待をさせたくなかったので、素早く続けた。

「俺はあの事故の唯一人の生存者で、記憶を失ったのです。そしてケツァル少佐と出会った。過去の記憶は戻りましたが、どう言う訳か、あのバス事故だけは思い出せないのです。バスに乗る所から、エル・ティティの病院で目が覚める迄の間の記憶が今もすっぽり抜け落ちて、何も思い出せない。それが何とかなればキロス中佐の病気の原因もわかるんじゃないかな、と思うのですが。」

 その時、ガルソンとパエスが戸口の方へ視線を向けた。


第5部 山の向こう     1

 「今から3年程前のことです。」

とガルソン大尉が語り始めた。

「港で働いているアカチャ族の現場監督にお会いになりましたか?」
「スィ。ホセ・バルタサール氏ですね?」
「彼がラバル少尉にある情報を伝えました。アンゲルス鉱石、当時はエンジェル鉱石と言いましたが、オルガ・グランデ最大の金鉱山を所有している鉱山会社が従業員の健康診断を行いました。」

 テオはドキリとした。それは彼が「7438・F・24・セルバ」とタグ付けされた血液サンプルの存在を知ることになった健康診断ではないのか?
 ガルソンが続けた。

「バルタサールはエンジェル鉱石がその健康診断で採取した血液をアメリカの会社に売却しているらしいと我々に伝えたのです。」
「内部告発ですか。」
「スィ。そのアメリカの会社が何者なのか我々にはわかりませんでした。しかしアメリカ先住民の血液を研究している製薬会社の話は聞いたことがあります。ワクチンの研究などに長い間外部との婚姻が行われたことがない人間の遺伝子を分析して使うのだと・・・私達には意味がよくわかりませんが。」
「まぁ、俺は理解出来ますが、説明しても一般の人にはわからないでしょう。それにキロス中佐の病気と遺伝子が関係しているとは思えませんが?」
「中佐は遺伝子の分析と言う言葉に懸念を抱かれました。」
「従業員に”ヴェルデ・シエロ”の血筋を持つ人がいると、アメリカの会社にあなた方の存在を知られてしまうと心配されたのではありませんか?」

 ガルソンとパエスがギクリとした表情でテオを見た。だからテオは率直に語ることにした。

「ステファン大尉や本部からの噂話で俺のことを少しはご存じかと思いますが、俺はその先住民の血液をエンジェル鉱石から買っていた会社、本当は政府の研究機関で働いていた科学者でした。」
「では、貴方がぶっ潰して逃げた研究所と言うのは・・・」

 テオは苦笑した。

「ぶっ潰しはしません。ただ、ケツァル少佐がデータを消去してコンピュータの中身をメチャクチャにしただけです。その研究所は超能力者の開発をしていたのです。軍で使えるように兵士に超能力者の遺伝子を注射で与えるようなものを。だから俺達はセルバ人のデータも彼等が北米で集めたデータも全部消して記憶媒体も復元不可能な状態に破壊したのです。」
「そうでしたか。だからグラダ・シティの本部は貴方を特別な存在として保護しているのですな。」

 ガルソンの目付きが柔らかくなった。パエス中尉も少し肩の力を抜いた様子だった。
 テオは逆に胸の奥に不安を感じながら、ガルソンに話の先を促した。

「キロス中佐はエンジェル鉱石に何か働きかけたのですか?」
「私達は彼女が何をなさったのか知らされていません。中佐は一人でオルガ・グランデのエンジェル鉱石へ出かけられました。血液の売却先を探りに行かれたのでしょう。
 鉱山会社の社長ミカエル・アンゲルスはアメリカ人から金を受け取った後のことは知らないと言ったそうです。それで中佐はアメリカ人を会社に紹介した医者を探しました。」
「医者?」
「健康診断を指導した医者です。オルガ・グランデで大きな診療所を経営している男でした。彼は中佐が探し当てた時、アスクラカンにいました。それで中佐はアスクラカンへ出かけられた。」

 テオはドキドキした。何故だかわからないが、凄く嫌な予感がした。

「中佐は10日後に帰って来られました。疲れ果てて、一度に老け込んだ感じで・・・。」
「大罪を犯したのだ。」

とパエス中尉が消えそうな低い声で囁いた。ガルソン大尉は黙って首を振った。

「誰も見た者はいない。誰にも何が起きたのかわからん。」
「何か起きたのですか?」

 テオが尋ねても、彼等は黙っていた。だから、テオは勇気を振り絞って言った。

「エル・ティティから少し山を登った辺りのハイウェイから乗合長期距離バスが転落したんじゃないですか?」

 

第5部 西の海     24

 テオが外に出ると、暗がりから声をかけられた。

「ドクトル・アルスト、私はパエス中尉です。そちらの道は厨房棟の横を通ります。まだキロス中佐が食事中なので、こちらへ迂回して下さい。」

 目を凝らして見ると、男が一人立っていた。昼間会った時パエス中尉は座っていたし、じっくり顔を見た訳でもなかったので本人なのか判断出来なかったが、テオはそちらへ足を向けた。そばに来た彼に、パエスが言った。

「素直なのですね。私を警戒しないのですか?」
「ここで俺の名前を知っている人はそんなにいませんからね。」

 パエスは腕を振って歩こうと合図した。並んで静かに村の中を海に向かって下った。

「今夜は中佐の食が進まなくて、ステファン大尉もラバル少尉もフリータ少尉もまだ厨房棟から出られません。中佐が退席しないことには、彼等の食事も終わらないのです。」
「貴方は?」
「ガルソン大尉と私は家庭持ちなので自宅で食べます。ですから、私達は帰宅したことになっています。お話はガルソンと私からすることになります。」

 太平洋警備室は灯りが灯っていた。宿直があるので、夜間も照明は点けているとパエス中尉が言った。

「今夜の宿直当番はラバルなのですが、中佐はそれに気がついていません。だから今の時間に照明が点いていても気になさらない。」

 オフィスの中は昼間と違って空気が冷たかった。海からの夜風が窓から吹き込んでいた。ガルソン大尉は窓辺で真っ暗な海を眺めていたが、テオが入室すると、「どこでも自由に」と椅子を勧めた。それでテオはステファン大尉の席に座った。ガルソンとパエスもそれぞれ自席に座った。

「昼間の報告でステファン大尉にここへ来た本当の理由を尋ねました。」

とガルソンが言った。

「本当の理由?」
「スィ。普通、指導師の試しに通った隊員は本部の厨房で半年修行します。しかし彼はいきなりこちらへ派遣された。我々は彼が来ると本部から聞かされた時に、覚悟を決めていました。」

 彼は溜め息をついた。

「本部が不審を抱くのも時間の問題だと思っていました。キロス中佐は、貴方が考えておられる通り、心の病に罹っています。仕事への情熱を失い、日中はオフィスでただ座っておられるだけです。本部への定時報告は、私が彼女の動画を作成し、毎日少しずつ変化を加えて流していました。」
「本部を騙していたのですか?」

 テオはびっくりした。大統領警護隊の規則は知らないが、これはどんな企業でも軍隊でも違反行為だろう。ガルソンは再び溜め息をついた。

「キロス中佐は素晴らしい指揮官でした。気の力が大きく、技も長けていました。そして部下にも住民にも人望がありました。サン・セレスト村の住民もポルト・マロンの労働者も彼女を敬愛していたのです。だから、我々は彼女に回復して欲しかった。本部が彼女の状態を知ったら、きっとグラダ・シティに召喚して国防省病院に閉じ込めてしまうでしょう。そして新しい指揮官が送られて来る。私達はそれを避けたかったのです。しかし・・・やはり本部を騙し切れるものではない。」

 パエス中尉が言った。

「処分を受けるのはガルソン大尉と私の2人で留めて頂きたい、とステファン大尉に告げました。彼はもう暫く様子を観察してから本部に報告すると言いましたが、恐らく中佐の病は治らないでしょう。ラバルとフレータは地元出身ですから、ここに残してもらえるよう司令部に頼むつもりです。新しい指揮官にこの土地の特性を教える人間が必要ですから。」

 テオは2人を見比べた。どちらも感情を表さない先住民らしい顔で彼を見返した。テオは言った。

「話はわかりました。でも、貴方達は家族がいるでしょう? 処罰されたら彼等はどうなりますか?」

 ガルソンが言った。

「妻はアカチャ族です。身内でなんとかしてくれるでしょう。」
「そんな・・・」

 テオは言った。

「家族の為に最善の策を考えるべきです。中佐は一体、いつから今の状態になったのです?」


 

第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...