2022/03/22

第6部 七柱    3

  アンドレ・ギャラガが日焼けして赤くなった顔をさらに赤くして、申請書の山に目を通していた。受付仕事は先輩のアスルがしてくれたのだが、どんな申請が来ているか知っておけ、とアスルが彼に命じたのだ。審査はしなくて良いが、内容を読まなければならない。アスルの審査は厳しいので、朱筆が入っている申請書が多かった。これらは隣の文化財・遺跡担当課に差し戻して申請者に返却させるか、文化保護担当部に申請者を呼び出して書き直しさせるか、判別しなければならない。ギャラガが溜め息をつくと、近郊遺跡の監視から戻って来たデネロスが、「明日雨が降ったら手伝ってあげる」と言ってくれた。かなり当てにならない援護だ。
 ケツァル少佐は最終段階の書類を眺め、それを手に取ると、パラパラと流し読みした。そして、机に戻し、ペンを手に取ると猛然と署名を始めた。ロホがホッと息を吐いた。来季の発掘申請者はアメリカの大学とフランスの大学がメインで、多額の協力金が見込める。スポンサーも有名企業ばかりだ。ただ、あまり外国に手柄を立てさせると、国内の考古学者達から不満が出る。だからロホは遺跡の位置や発掘調査の目的を十分考察して、グラダ大学やセルバ国立民族博物館との合同調査が出来る形に持って行ったのだ。グラダ大学考古学部の主任教授で博物館の館長であるムリリョ博士を説得するのは至難の業だったが、なんとかやり遂げた。
 夕方6時になると、文化・教育省の職員達は一斉に帰り支度をして、省庁が入っている雑居ビルから退出した。出口でテオドール・アルストが待っていた。彼はアンドレ・ギャラガを捕まえた。

「官舎に帰るなよ。出張の話を聞かせてくれ。」
「少佐が許可して下さるなら・・・」

 ギャラガもまだ出張の余韻を消したくないのだ。2人で待っていると、数分後にケツァル少佐とロホが前後して出てきた。後ろにはデネロス少尉とアスルもいた。久しぶりに全員揃って食事だ、とテオは喜んだ。すると少佐が言った。

「出張帰りで疲れているので、私のアパートで食べましょう。カーラに既に用意してもらっているので、このまま直行です。」
「酒は?」
「不要。」

 それで宴会ではないと判明した。ケツァル少佐は何か宿題を持って帰って来たのだ。3台の車に分乗して大統領警護隊文化保護担当部とテオは少佐のアパートに向かった。高級コンドミニアムには来客用駐車スペースが10台分もあり、テオとロホはそこに自分達の車を駐めた。
 7階の少佐の部屋に上がると、既にトマト風味の煮込み料理の良い香りが室内に満ちていた。少佐の出張がいつまでかわからなかったので、家政婦のカーラは休みをもらった筈だったが、少佐が帰って来たので、休みは1日だけだった。そしてこの日は急な来客だ。恐らくカーラにとっては珍しくないことなのだろう。もしこれが他の人なら仕事に来ないかも知れない、とテオは内心思った。日給で働いているカーラは、定休日を必ず守ってくれる主人が平日休みをくれても、急な呼び出しがある可能性を考えて自宅待機しているのだ。もしかすると、オンコール手当てをもらっているのかも知れない、とテオは想像した。
 アスルが早速厨房に入って家政婦の手伝いを始めた。既に料理は出来ていたので、盛り付けの手伝いだ。普段台所仕事をしないデネロス少尉が珍しく盛り付けが終わった皿から順にテーブルに運んで手伝った。恋でもしたのかとテオは揶揄おうとしたが、他の人達が無視しているので止めた。
 急拵えの料理だったので、シンプルに鶏肉のトマトソース煮込みと蒸した野菜のサラダだけだった。アスルが席に着くと、少佐が直ぐに食事開始の合図をした。

「食べながらで良いので、聞いて下さい。」

 猫舌の少佐は湯気が立っている皿を目の前にしたまま、語り始めた。テオはパンが欲しいなと思ったが、スプーンで煮込み料理を掻き回してみると底にマカロニがたくさんあったので、それで良しとした。少佐が話を始めた。

「サン・レオカディオ大学考古学部の水中調査隊を襲って撮影機材を強奪したのは、地元の建設業者クエバ・ネグラ・エテルナ社の社長カミロ・トレントでした。実行犯は彼の”操心”で動いた地元の漁師や労働者達です。」

 テオは質問したいことがあったが、少佐は口を挟まれるのを嫌がるので、我慢して黙っていた。

「トレントはグラダ・シティの本社ロカ・エテルナ社からの指示で動きました。ロカ・エテルナ社は彼にサン・レオカディオ大学の人達が海底で何を撮影したか探れと指示したそうです。」

 テオはロカ・エテルナ社を知っていた。セルバ共和国で1、2位を争う大手建設会社だ。グラダ・シティのオフィスビルの多くを手掛け、公共施設も造っている。一般の住宅ではなく、大規模建設を担う会社だった。

「トレントは”操心”をかけた”ティエラ”を使ってモンタルボ教授から撮影機材とデータ記録媒体のU S Bを奪いました。ただ、彼は本社が何を知りたがっているのかわからなかったので、自分で画像を分析せずにU S Bを送りました。郵送ではなく、社員を遣いに出したのです。」

 そこで少佐は話を終えた。彼女はスプーンを手にして、食事を始めた。
 テオが質問した。

「ロカ・エテルナ社って言うのは、”シエロ”の会社なのか?」

 驚いたことに、大統領警護隊の友人全員が頷いた。”ヴェルデ・シエロ”の社会では常識なのだろう。ロホが説明した。

「経営者も重役達もマスケゴ族です。経営者以外は部族ミックスですが、マスケゴ族であると言う誇りはかなりのものです。ブーカの血が濃くても、彼等はマスケゴを名乗ります。」

 デネロス少尉が素早く付け足した。

「経営者はムリリョ家とシメネス家です。この2つの家系は交互に婿の遣り取りをしてマスケゴの血統を維持しています。」

 テオはびっくりした。ムリリョ家とシメネス家だって? 

「まさか、ムリリョ博士の親戚じゃないだろうな?」
「親戚どころか、あの博士の家族です。」

 ロホがちょっと不安気に少佐を見た。しかし少佐は食事に専念していた。


第6部 七柱    2

  真の名はテオドール。 ただそれだけのフレーズなのに、テオの心にしっかりと刻み込まれた。ジーンときた。感激してしまった。だから、教授達がそれぞれ休憩を終えて、一人ずつ挨拶して席を立っても生返事で送ってしまった。
 気がつくと、フィデル・ケサダ教授だけが残って、まだコーヒーカップを片手に新聞を読んでいた。彼はテオの微かな戸惑いを察して、視線を向けてきた。

「随分ぼんやりしておいででしたね。」

 ウリベ教授の言葉に感激するあまり茫然自失になっていたことを、教授はお見通しだった。テオは極まり悪くて、苦笑するだけだった。

「テオドール・アルストが真の名前だと言われて、ちょっと訳なく感激してしまったんです。尤も大勢に知られているから、真の名の縛りはないですけどね。」

 ケサダ教授は微笑んだだけだった。テオは挨拶して研究室に戻ろうとした。すると携帯電話に着信があった。ポケットから出して画面を見ると、ケツァル少佐からメッセージが届いていた。夕食のお誘いだ。思わず彼は呟いた。

「帰って来たのか。」

 早速誘いに応じる返信を送った。時間と場所はいつも同じだから、わざわざ書いたりしない。ケサダ教授は知らん顔をして新聞を読んでいた。テオはふと思った。彼はモンタルボ教授が襲撃されたことを知っているだろうか。グラダ・シティでは北部国境の町で起きた強奪事件は報じられなかった。地方で起きた強盗事件を首都の住民は気にしないのだ。だが、考古学界ではどうだろう。テオはケサダ教授に声をかけてみた。

「サン・レオカディオ大学のモンタルボ教授が事前調査の撮影機材や記録映像を強奪されたことはご存知ですか?」

 ケサダ教授が新聞から顔を上げて彼を見た。

「モンタルボが襲われたと仰いましたか?」

 すっとぼけているのか、本当に知らないのか、テオは判断がつかなかった。仕方なく、己が知っていることだけ伝えた。

「一昨日、彼等は本格的に潜って調べる前段階の調査で、船の上から海底を撮影したそうです。ところが港に戻ると、いきなり目出し帽を被った男達に襲われて、撮影機材や映像を記録した媒体を奪われたとか・・・」
「モンタルボやスタッフに怪我は?」
「軽傷だと聞いています。俺が知っているのは、それだけです。」

 ケサダ教授が新聞を畳んだ。

「お話だけ聞くとただの強盗事件の様に聞こえますが、大統領警護隊文化保護担当部が出動したのですか?」
「スィ。事件があった夜に、本部から少佐に電話がかかって来て、調査の為に少佐とアンドレ・ギャラガがクエバ・ネグラに向かいました。」

 ケサダ教授が怪訝な表情になった。

「大統領警護隊本部がどう言った理由で、考古学者襲撃事件の調査をケツァルに命じたのですか?」
「そこのところは俺もよく理解出来ないのですが・・・」

 テオは一昨夜のバルの前でケツァル少佐が語った命令の内容を思い出そうと努めた。

「襲われたモンタルボが、文化保護担当部に連絡しようとして、間違えて国境警備隊に電話をしたらしいのです。国境警備隊は強盗事件の捜査なんてしませんから、きっとそう言うことなのだろうと、ロホが言ってました。国境警備隊が考古学者の事件なので、文化保護担当部に連絡してくれと本部の司令部に連絡したので、ケツァル少佐が司令部の命令を受けた形で出動したのです。」

 ケサダ教授はニコリともせずに感想を述べた。

「つまり、責任のたらい回しですね。」
「でも、発掘が実際に始まった訳ではないので、文化保護担当部の警護責任はまだ発生していないでしょう?」

 テオが抗議に似た口調で言ったので、教授は初めて苦笑した。

「確かに、その通りです。強盗事件は憲兵隊に任せておけば良いのです。文化保護担当部はとばっちりを受けたのです。」
「きっとただの強盗事件だったんですよ。だから少佐とアンドレは今日帰って来た。」

 ケサダ教授もあっさりと彼に同意を示した。元からカラコルの海底遺跡に興味がない人だ。モンタルボは私立大学の教授で彼の同僚ではない。友人でもなさそうだ。モンタルボに付いたスポンサーも撮影協力者の動画サイト制作会社も、奇妙な問い合わせ電話をかけて来た男も、ケサダ教授とンゲマ准教授は全く気にしていない。恐らくムリリョ博士は歯牙にもかけないだろう。

「もし、発掘調査が上手く進んで、カラコル遺跡の全容が明らかになったら、その時は貴方も多少興味を持たれますか?」

 テオが質問すると、教授は微笑して頷いた。

「我が国の遺跡ですから、調査結果には大いに興味があります。だが、私は水に潜って調べたくない、それだけです。」


第6部 七柱    1

  テオドール・アルストは期末試験の問題を作り終えて主任教授に提出した。ひどく肩が凝った。早く終わらせようとパソコンの画面に集中し過ぎたせいだ。カフェでコーヒーでも飲んで、後は何もせずに夕方迄過ごそうと思いつつ、キャンパス内のカフェに行くと、考古学部のケサダ教授とンゲマ准教授、宗教学部のウリベ教授、それに文学部先住民言語学のオルベラ教授が、それぞれ別のテーブルなのに席だけは固まって座っているのが目に入った。一つのテーブルに1人ずつだ。
 こんな場合、俺は何処に座れば良いんだ?
 テオは戸惑いつつ、彼等に近づいた。「オーラ!」と声をかけると、多少の時間差はあったが全員が彼を見た。口々に「オーラ!」と返事が戻ってきた。唯一人の女性であるウリベ教授が彼女のテーブルを指した。

「どうぞ、お掛けになって。」

 椅子が3脚空いていたので、テオは取り敢えず彼女に近い椅子に座った。向かいに座るべきかと思ったが、それでは男性教授達と遠くなってしまう。オルベラ教授はあまり出会うことがない人だったが、テオの顔を見て笑いかけてきた。

「お疲れの様ですね。試験問題は完成しましたか?」
「スィ。なんとか作りました。主任教授から合格だと連絡が来れば、安心して眠れます。」

 試験はレポート重視の考古学部の教授達は優しく微笑んだだけだった。ウリベ教授は論文形式の試験問題を出すことで有名で、それがかなりの難関だと評判だ。普段の和やかな講義風景とは全く異なる地獄の試験だと学生の間で噂されていた。
 今期の学生達は勉学に真面目に取り組む者が多かったと、教授達は教え子達の評価を交わし合った。テオ以外は人文学系なので、テオが知っている学生の名前は出てこなかった。そのうちに、ンゲマ准教授がテオの興味を引く話を始めた。

「私の研究室の学生が2名、先週喧嘩をしましてね・・・」

 男子学生が恋愛問題で口論になったのだと言う。

「学生達の喧嘩に私が口出しすることでもなかったのですが、片方がどう言う訳か、相手の真の名を呼んでしまいまして、怒った相手と取っ組み合いとなり、引き離すのに苦労しました。」
「それは、呼ばれた方にとっては一大事でしょう。」

とウリベ教授が苦笑した。オルベラ教授もケサダ教授も首を振ってウリベ教授の言葉に同意した。テオは不思議に思った。インディヘナが真の名を持つことは知っている。彼等が普段使っている名前は書類上の本名で、名付け親や親からもらう真の名は決して他人に明かさないものだ。恐らく大統領警護隊の友人達も真の名を持っている筈だが、絶対に教えてくれないだろう。そう言う大事なものを、何故他人が知っているのだ?

「その学生の真の名を、どうして喧嘩相手が知っているのです?」

 彼が質問すると、「さあ?」とンゲマ准教授は肩をすくめた。

「それが呼ばれた方は全く心当たりがなかったのですな。家族でない人間に教える筈がないし、彼の家族も他人に彼の真の名を教えたりしないでしょう。」
「偶然罵った言葉が、真の名だったのではないですか?」

とオルベラ教授。ンゲマ准教授は首を振った。

「いや、罵り言葉になるような名前ではありませんでした。流石にここで彼の真の名を言ってしまうことは出来ませんが・・・」

 すると呪いなどの研究をしているウリベ教授が言った。

「もしかすると、その喧嘩相手の真の名を呼んでしまった学生は、相手の心を読んでしまったのかも知れませんね。」

 男性達は一斉に彼女を見つめてしまった。

「心を読んだ?」
「テレパシーですか?」

 ウリベ教授は肩をすくめた。

「さぁ・・・」

 するとケサダ教授がボソッと呟いた。

「恐らく、聞こえてしまったのでしょう。」

 一同は彼を見た。教授は紙コップのコーヒーを啜ってから言った。

「たまにあるでしょう、誰かの心の呟きが聞こえる、と言うか、聞こえたような気がすることが。意図して読んだのではなく、偶然聞こえてしまったのでしょう。」

 それはテオも経験があった。なんとなく隣に座っている友人が何か言ったようなので顔を見ても、向こうは知らん顔しており、何も喋った風でないことがある。実際、「何か言った?」と尋ねても、「何も言っていない」と言われるのだ。アメリカ時代でもそう言う経験があった。超能力者を研究している施設だったから、そう言うこともあるだろうと気にしなかった。セルバに来ても、”ヴェルデ・シエロ”の血を遠い祖先に持つ国民が多いので、気にしていない。だが、真の名を他人に知られるのは一大事だ。セルバ人は、他人に自分が支配されるのではないかと心配する。

「それで、喧嘩した学生達はどうしたのですか?」

 オルベラ教授の問いにンゲマ准教授は苦笑した。

「別の学生の仲裁でなんとか収まりました。彼等があの喧嘩をきっかけに親友同士になれば、問題は起こらないと思いますがね。」

 メスティーソの彼は、純血の先住民であるウリベ教授とケサダ教授を見た。

「先生方は、真の名をお持ちですか?」

 ウリベ教授もケサダ教授も当然だと言う顔で頷いた。

「スィ。持っていますよ。明かしませんが。」
「私も名付け親から貰いました。今では年寄りがいなくなって、私しか知りませんけれど。」

 彼等はオルベラ教授を見た。オルベラとンゲマはどちらもメスティーソだ。オルベラ教授は首を振り、ンゲマ准教授も「持っていません」と言った。そして彼等はテオを見た。テオは苦笑した。

「俺は、M3073 って言う名前をもらってました。」

 セルバ人の教授達が無言で見つめるので、彼は告白した。

「遺伝子の研究施設で生まれたので、シオドアって名前をもらう前は、試験管番号で呼ばれていたんですよ。勿論、物心つく前ですけどね。」
「それは真の名前じゃありませんわ。」

とウリベ教授が悲しそうな目で言った。

「貴方の真の名前はテオドール、それで良いじゃありませんか。」

 

2022/03/21

第6部 訪問者    21

 国境警備隊の宿舎に戻ると、丁度ルカ・パエス少尉も勤務を終えて戻って来たところだった。ケツァル少佐に気がついて彼が敬礼したので、少佐はギャラガ少尉を先に行かせ、ドアの外でパエス少尉に向き合った。

「これから自宅に戻って夕食ですか?」

 パエスが小さく溜め息をついた。

「グリン大尉からお聞きになられたのですね。」
「スィ。偶々ハラールの話題から、貴方の話になりました。昔からの伝統を破るのは気持ちが良くないでしょうが、貴方一人が同僚と違う生活を続けるのはどうでしょう。疲れませんか。」
「ハラールの問題もありますが・・・」

 パエスは顔を町の方へ向けた。

「妻の為でもあります。妻は不始末をしでかして転属になった私について来てくれました。子供達を実家に置いて、私を選んでくれたのです。しかし国境警備隊の休暇は半年毎に一月です。見知らぬ土地で妻は一人で半年暮らさなければなりません。ですから、私は1日に1度、食事の為に彼女の元に帰るのです。」

 少佐も溜め息をついた。

「貴方の気持ちはわかります。しかし、貴方は軍人で、彼女は軍人の妻です。貴方の同僚達も家族と会えない半年間を我慢して勤務しているのです。彼等の家族はクエバ・ネグラに住んでいないでしょう。電話をかけることさえ我慢している隊員もいるのです。奥さんと会うなとは言いませんが、軍人らしくケジメをつけなさい。」

 年下の上官から注意されて、パエス少尉はムッとした様子だった。太平洋警備室で勤務していた頃は毎日自宅から通勤していたのだ。 いきなり生活習慣を変えるのは難しいのだろう。ケツァル少佐はパエス少尉に思い入れはなかったが、同じ太平洋警備室から転属させられたガルソン中尉やフレータ少尉が新しい職場に馴染んで落ち着いていることを考えると、パエスにももっと気楽に働いて欲しかった。そうでなければ、太平洋警備室の問題を発見して事件の解決に奔走した彼女の弟カルロ・ステファン大尉や友人のテオドール・アルストが後々後悔することになってしまう。あの男達は他人の問題を見捨てておけないお人好しなのだから。

「国境警備隊の隊則がどの様なものか知りません。しかし家族が住む場所が勤務場所に近いのであれば、そこから通えないのですか? 本部の家族持ちの隊員達は自宅に帰る時間を十分もらっていますよ。一度グリン大尉に相談してみなさい。大尉は決して話のわからない人ではありません。クチナ基地のオルテガ少佐に話をしてくれるかも知れません。大統領警護隊は決して石頭ばかりでない筈です。」

 無言のままパエス少尉がもう一度敬礼した。ケツァル少佐はドアを開き、宿舎の中に入った。少し遅れてパエス少尉も入り、これから勤務に出て行く隊員と引き継ぎを行う為に共有スペースと廊下の角にある事務室に入った。
 少佐は真っ直ぐ寝室に割り当てられた部屋へ行った。ギャラガ少尉が簡易ベッドの上に座っていた。男女別ではなく、一部屋に男女2人だ。空き部屋が一部屋しかないので、仕方がない。しかも簡易ベッドを入れたので、かなり狭かった。最初に連絡を受けて部屋の準備をした隊員は「ミゲール少佐」が「有名なケツァル少佐」と同一人物であると知らなかったので、男性だと思っていたのだ。昨夜到着した時、この部屋を使ったのはギャラガだけだった。少佐は道中車の中で眠ったので使わなかった。昼間シャワーを使った時は交代で部屋を使ったので、一緒に部屋に入ったのはこれが初めてだ。

「共有スペースのソファで寝ます。」

とギャラガが言うと、少佐は首を振った。

「それではここの隊員達が気まずい思いをします。私は平気ですから、貴方も気にせずにお休みなさい。」

 彼女はさっさと装備していた拳銃を枕の下に置き、靴を脱ぐと着衣のままベッドに横になり、すぐに目を閉じた。
 ギャラガは簡易ベッドから下り、ドアへ行って取り敢えず施錠した。そして靴を脱ぐと、拳銃と財布を枕の下に置き、ベッドに横になった。ここは野宿と同じ、別々の木の上で寝ているんだ、と己に言い聞かせ、彼は目を閉じた。

第6部 訪問者    20

  船を下りると、ケツァル少佐とギャラガ少尉は船長に教えてもらったバルへ行った。「小さなホアン」の紹介だと言うと、新鮮な魚介類のセビーチェを出してくれた。その後も地元の料理を次々と注文し、国境警備隊の食堂では決して味わえない美食を、2人は時間をかけて堪能した。

「建設会社が何を隠そうとしているのか、わかった様な気がします。」
「何ですか?」

 ギャラガの言葉に少佐が興味深げに彼を見た。ギャラガはクラッカーを4枚、箱の壁の様に四角く立てた。その上に器用に天井部分のクラッカーを重ねて置いた。さらにまた上に箱を積み上げた。彼は2階以上の部分を指した。

「カラコルです。」

 そして下の部分を指した。

「地下の貯水槽です。この壁を崩すと・・・」

彼はクラッカーの1枚を強引に押し倒した。クラッカーのカラコルは、3枚の壁に支えられて保たれた。

「壁の一角が崩れただけでは、街は保たれています。しかし、貯水槽の中の水が流れてしまって空になると、壁の外の海水の圧が残りの壁を崩してしまいます。」

 少佐が考え込んだ。

「壁の一角が崩れ、貯水槽の中の水が流れ出て貯水槽が空になる・・・どう言うことですか? 壁が崩れたら海水がすぐに流れ込んで来るでしょう?」
「最初に崩れた壁は、海に面した三方ではなく、陸と繋がっている面です。恐らく、貯水槽の水は本土の地下に流れて行ったのです。」

 ギャラガはクラッカーの積み木を片付けた。

「船長のホアンは、大昔のクエバ・ネグラは海のそばまで森林が迫っていたと言いました。今は低木と草が生えているだけです。塩気に強い植物ばかりですよ。もう少し南へ行けばマングローブがありますが、ここはありません。土に塩分が多いんじゃないですか。」
「そう言えば、船長が昔の水は売れるほど美味しかったが今はそのままでは飲めないと言ってましたね。」
「壁が崩れて貯水槽の真水が本土側に流れてしまい、海からの圧力に耐えきれなくなった壁が崩れてカラコルの街は陥没したのでしょう。そこにまた海水が流れ込んだ。本土へ流れる水路は崩落した地面で塞がれた筈ですが、海水はずっと少しずつ染み込んでいるのだと思います。」
「それにロカ・エテルナ社がどう絡んでいるか、ですね。」

 エビのペーストをクラッカーに載せてギャラガは口に入れた。それをもぐもぐと食べてしまってから、白ワインのグラスを見ている上官に考えを述べた。

「私は一族の歴史に詳しくありません。でも古代の神殿などの建築に携わった部族がいた訳でしょう? カラコルの町が築かれる頃にそうした技術集団が雇われて、密かに町の下にそんな仕組みを造ったとしたら、どうでしょう?」
「その仕組みを造った目的は?」
「海の交易で栄えていた町ですね? もし外国から侵略を受けて町を占領された場合を想定し、町ごと敵を海の底に沈めてしまう、と言う対策を取っていたとしたら?」

 少佐が彼を見た。

「侵略されなかったが、町は神を冒涜した。だから、神の怒りによって沈められた?」

 暫く2人は黙って口を動かしていた。不意に少佐が呟いた。

「地震は本当にあったのでしょうか?」
「山に登った時、断層を見ました。しかし・・・地面がずれた方角が違いましたね。あれなら、カラコルがあった岬は持ち上がってしまう・・・」
「岬は実在したのですか?」
「少佐・・・」

 ケツァル少佐は頭に浮かんだ突拍子もない考えに、自分で苦笑した。

「岬は存在しなかったけれど、カラコルの町は存在したのかもしれませんよ、アンドレ。」


第6部 訪問者    19

  街に下りて住民に船に乗って海を見たいと言うと、浜辺で漁師を雇えば良いと教えてくれた。仕掛けの手入れが終わっていれば、小遣い稼ぎに観光客や釣り人を乗せるのだと言う。そこで砂浜に下りると、丁度古い大型の船と中型の漁船を並べて数人の漁師が夕刻の出漁までの時間を潰していた。ギャラガが声を掛けると、彼等はちょっと相談して、ホアンと言う男が名乗り出た。時間と値段の交渉の後で、ケツァル少佐とギャラガ少尉は普通の観光客のふりをして中型の漁船に乗せてもらった。
 規則に従ってオレンジ色のライフジャケットを着用し、彼等は穏やかな海の上に出かけた。

「いつもこんな穏やかな海なのかな?」

とギャラガが話しかけると、船長のホアンが舵輪を回しながら頷いた。

「セルバの海は穏やかさ。ハリケーンさえ来なければ、いつでもご機嫌さね。」

 彼は速度を落とした。

「エンバルカシオンの縁は浅くなっているから、通り道を決めてあるんだ。」

 エンバルカシオンとは、海中に没した岬があると言われている海域の地元での呼び方だ。「器」と言う意味で、地元民は大きな縁高の皿に見立てているのだった。

「サメが多いんだって?」

 ギャラガが無難な話題から話を進めた。ホアンはパイプタバコを吸いながら、海面を見た。

「多いと言っても、この船ほどの大きさのヤツはいない。でも先日、俺の従兄弟のホアンが、俺と同じ名前なんで皆こんがらがるんだがね、そのホアンがもっと沖で馬鹿でかいのを釣り上げたんだよ。」
「腹から人が出て来たサメかい?」
「ああ、新聞に載ったから、あんたも読んだんだね。」

 ホアンはパイプを咥えたまま笑った。

「安心しなよ、エンバルカシオンは浅いから、そんなでかいのはいない。ほら、底が見えるぜ。」

 船の速度がさらに落ちて、ホアンは停止させた。ギャラガと少佐は甲板から下を見た。珊瑚や魚が見えた。水深は7〜8メートルか? 数分後、再び船が動き出し、エンバルカシオンの中心部へ進んだ。

「この辺りは底の岩が凸凹して、隠れ場所が多いから魚が多い。だからサメも住んでいる。」

 海面から見た限りでは、珊瑚や藻で海底が人工的に加工された岩なのか天然の岩なのか判別出来なかった。ケツァル少佐がホアンに尋ねた。

「平らな岩が並んでいる箇所があると、ホテルで出会った考古学者が言ってました。場所は分かりますか?」

 ああ、とホアンが頷いた。

「カラコルを見つけたって騒いでいる学者だな。場所は知っている。この先だ。」

 彼は船を進め、やがて停船した。 少佐とギャラガは覗いて見たが、波が光ってよくわからなかった。少佐がホアンに尋ねた。

「貴方はその平らな岩を見たことがありますか?」
「うん、道みたいに岩が並んでいる。所々にそう言う風になっている箇所があるんさ。でも不思議じゃない。カラコルが沈んでいるんなら、当然だろう。」

 地元民は古代の町が沈んでいることを疑っていない。しかし、学者が大騒ぎする理由がわからない、そんな雰囲気だった。ギャラガが観光客らしく質問した。

「宝を積んだ沈没船とか、古代の町の財宝とか、そんな伝説や噂はないのかい?」

 ホアンが大声で笑った。

「他所から来る人は皆そう訊くんだなぁ。確かにカリブ海には海賊や沈没船の伝説がわんさとある。だけど、残念ながら、クエバ・ネグラにはないんさ。ここはね、金は積み出していなかったんだ。オルガ・グランデの金はここへ来なかった。昔は北のルートを通って隣国へ運ばれていたからね。ここは、船の水を補給する港だったんだよ。クエバ・ネグラの水は旨かったそうだ。今じゃミネラルが多過ぎてそのままじゃ飲めないがな。」
「水で富を得ていたのですか?」
「そりゃ、水以外にも何か売っただろうけど・・・」

 ホアンは陸の方向を見た。

「大昔は、海岸近くまで森だったそうだ。だから動物を狩ることが出来た。綺麗な毛皮の獣や、美しい羽の鳥とかね。罰当たりだよ、ジャガーなんか狩って売ろうなんて考えてさ・・・」

 彼は少佐を振り返った。

「あんた達、都会から来ただろ? グラダ・シティでもやっぱりジャガーは神様だろ?」
「スィ。雨を呼ぶ大切な神様です。」
「カラコルの町はジャガーを外国に売ろうとして、”ヴェルデ・シエロ”の怒りを買ったんだ。地震が来て、町を支えていた柱が全部折れて、一晩で岬が海の底に沈んだって、婆ちゃんが語ってくれたっけ。この辺りの人間は皆そう言う言い伝えを聞かされて育ったんだよ。神様を冒涜して罰せられた恥ずかしい話だから、外の人間にはあまり話さないがね。だけど、俺は今話すべきだと思うんだ。だって森林伐採でどんどん森が減っているじゃないか。森がなくなると、海も痩せてくるって、テレビで偉い先生が言ってた。ジャガーが住めなくなるセルバはセルバじゃない。昔話に教訓が含まれているってことを、学校で教えるべきさ。」

 思いがけず漁師から深い地球環境問題に関わる意見を聞かされ、少佐は相槌を打つしかなかった。 ギャラガはホアンの話の最初の部分が気になった。

「町を支えていた柱が折れたって、どう言うことだろ?」
「だから、柱の上に町が築かれていたんさ。水を売っていた町だから、地面の下に水を溜めていたんだろ。地震で床が崩れて、柱が折れて、町がドシンと落っこちたのさ。」


2022/03/20

第6部 訪問者    18

  カミロ・トレントが立ち去ると、ギャラガ少尉は上官を振り返った。

「クエバ・ネグラ・エテルナ社の親会社は、ロカ・エテルナ社です。トレントに指図して海底の映像を奪わせたのは、ロカ・エテルナ社の人間ではありませんか?」

 少佐が目を閉じた。

「厄介な相手です。社長はムリリョ博士の長子、アブラーン・シメネス・デ・ムリリョです。」
「”砂の民”ですか?」
「知りません。私が明確に”砂の民”だと知っているのは、首領のムリリョ博士とセニョール・シショカだけです。」
「ケサダ教授は・・・」
「彼もそうではないかと思っていますが、本当のところ、確認出来ていません。」
「でも、教授がドクトル・アルストに”砂の民”はピューマだと教えてくれたでしょう?」
「教えてくれただけですよ、アンドレ。そして彼はムリリョ博士の養い子で娘婿でもあります。”砂の民”の知識を持っていても不思議ではありません。」
「でも、”砂の民”は家族にも秘密を打ち明けないんじゃないですか?」
「常識的に考えれば、その通りです。ですが・・・」

 少佐は目を開いた。

「ムリリョ博士とケサダ教授の関係は簡単ではありません。兎に角、今回の件はアブラーンにぶつかってみなければわかりません。8世紀に海の底に沈んだと言われる伝説の町と、現代の建設会社が発掘調査を妨害する理由がどう結びつくのか、訊いてみましょう。」
「グラダ・シティに帰るのですか?」

 心なしかギャラガが残念がっている様に聞こえた。彼女は滅多に遠出しない若い部下を見た。ギャラガが遠出しないのは、遠出に慣れていないだけだ。出張を命じれば躊躇なく何処へでも行く。だが自発的に休暇に遠出したりしない。子供の頃は貧しくてその日の糧を得るので精一杯だったし、生きる為に軍隊に入り、休暇をもらっても帰る家も遊ぶ友人も持たなかったから、官舎から近くの海岸へ行くだけだった。

「帰るのは明日にしましょう。」

と少佐は言った。

「これから自由時間にします。好きに過ごしなさい。明朝700にここに集合。」

 喜ぶかと思ったが、ギャラガはぽかんとして上官を見つめるだけだった。だから少佐も戸惑ってしまった。

「遊びに行って良いですよ。」

と言うと、逆に「貴女は?」と訊かれた。実を言うと少佐も午後の予定などなかった。カミロ・トレントが現れなければ彼を探しに行くつもりだったのだ。彼女は両手で髪をかき上げた。

「どうしましょう・・・」

 ギャラガが窓の外を見た。

「もし宜しければ・・・」

と彼が言った。

「船を雇って、カラコルを海の上から見てみませんか?」


第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...