2022/04/11

第6部  赤い川     8

  ベンハミン・カージョは「神託」によって占いをしていると客に語っていたそうだ。それは珍しいことではない。辺境の村で医者の代わりに仕事をしている祈祷師や占い師は、神霊の力によって病気の治療を施したり、未来の運命を告げたりするのだ。憲兵隊の捜査は、恐らくカージョのそんな商売が原因で客とトラブルになり、逃げたカージョの代わりにルームメイトが拷問され殺害されたのだろう、と言うことになった。そう言う状況も珍しいことではない。多くの祈祷師は住民から尊敬されているが、中にはその仕事ぶりに不満を抱く客もいるのだ。
 テオはオルガ・グランデ陸軍基地の大統領警護隊控え室で昼寝をしながら、携帯でネットニュースを眺めていた。ベアトリス・レンドイロの行方を知っているかも知れない男は、ロホの呼びかけに応えないかも知れない。占いで日銭を稼ぐなんて、”ヴェルデ・シエロ”のやることじゃない。”ティエラ”の占い師なのだろう、と彼は思った。
 シエスタが終わり、基地内が再び活気を取り戻したようになった。交代で勤務しているからシエスタの時間帯でも誰かが働いているのだが、やはり全員で活動している方が活気がある。
 テオとロホはオルガ・グランデ聖教会へ出かけた。まだ日は高いが、夕方の礼拝が始まる頃だ。陸軍から車を借りたが、運転手は付けなかった。オルガ・グランデ最大のキリスト教会は時間に関係なく誰かが出入りしている観光スポットでもあった。尤も、グラダ・シティから西部までやって来る外国人観光客は少ない。北側の隣国から西の太平洋岸へ来るのは鉱石を買うバイヤーばかりで、観光目的で来る人はいない。つまり、オルガ・グランデは”ティエラ”の町だが、セルバ人色が濃い場所でもあった。目に付くヨーロッパ系の人間は鉱山関係者ばかりだ。
 ロホは車を教会前の広場の隅に駐車した。そこは特に駐車場の表示がなかったが、多くの車が駐められていた。ロホは「大統領警護隊使用車」と書かれたプレートをフロントガラスの内側に置いた。車上狙い防止の処置だ。
 聖堂の中に入ると、陽光が遮られ、ステンドグラスを通った色が着いた光が差し込んで床に綺麗な模様が浮かんでいた。それを撮影しているアマチュアカメラマンを避けて歩き、祭壇の前まで行った。ヒヤリとした空気が気持ち良かった。ベンハミン・カージョは来るだろうか。テオとロホは長椅子に座った。何時間待てば良いのかわからない。
 暫く2人は黙って座り、それからどちらからともなく世間話を始めた。テオはロホとグラシエラ・ステファンの恋愛の進み具合が知りたかった。順調に愛を育んでいるのか、結婚する予定はあるのか、ロホの実家は彼女のことをどう考えているのか、等々。余計なお世話なのだろうが、セルバ人は案外この手の話をずけずけと他人に質問する。だからテオもセルバ流にやってみた。ロホは照れながらも、彼女と週末の軍事訓練の翌日にデートしていること、結婚は彼女が教師の資格を取得して何処かの学校に配属される迄考えられない(考えるのが難しい)こと、彼の実家は現在のところ彼が半グラダの女性と交際している事実に何も意見を言わないこと、などを語った。
 テオは周囲で耳を澄ませている人がいないか確認してから、尋ねた。

「君の両親は、純血種の家系に白人の血が入ることを反対しないのか?」
「私の両親は時代の変化と言うものを承知しています。純血にこだわれば近親婚が多くなってしまうことも理解しています。実際、一族と見做されている人々の4分の1は既に異種族の血が入っています。グラシエラを拒めば、それらの人々の存在さえ拒むことになるでしょう? 私の家系の偉い人々は、それをわかっています。現在のところ、彼女と私の交際を禁止する言葉は誰からも出ていません。」
「良かった。」

 テオは微笑んだ。グラシエラも兄のカルロもロホの実家マレンカ家に拒否されていないのだ、今のところは。
 質問される側にいるのが飽きたのか、ロホからも難問の質問が出された。

「貴方は、少佐とどこまで進んでいるんですか、テオ?」
「え?」

 テオは顔が熱くなった。薄暗いので赤面したのを気づかれずに済んだだろうか?

「どこまで、と訊かれてもなぁ。泊まりがけで出かけても、宿は別々の部屋だし、一つの部屋しかない場合も、何もない・・・」
「まさか・・・」

とロホが本気で驚いた。何を期待されているんだ? テオは躊躇してから言った。

「軽く挨拶程度のキスならしたことがある。彼女は・・・君も知っていると思うが、男性の部下の前で肌を露わにしても平気な女性だ。」
「まぁ・・・確かに・・・」

 ロホも上官の特異な性格を渋々認めた。

「だから、俺はどの段階で彼女が俺に誘いをかけているのか、判断出来ないんだ。判断を誤ってうっかり手を出したら張り倒されそうな気がする。」

 テオの告白を受けて、ロホは笑い声を忍ばせるのに必死だった。テオは彼が全身の震えを止める迄待った。やがてロホが目の涙を拭って顔を上げた。

「失礼しました。しかし、テオ、遠慮は無用だと思いますよ。少なくとも、彼女は嫌いな相手と同じ部屋で休まないだろうし、何処かへ出かける時は貴方を同行者に指名するし、本来なら部外者を参加させない会合や行事に貴方が加わることを許可しています。一度エル・ティティへ帰省する時に彼女を誘ってみては如何です?」

 和やかに恋愛談義をしていると、一人の男性が彼等に近づいて来た。


2022/04/08

第6部  赤い川     7

 オルガ・グランデ陸軍基地には基地を利用して活動する大統領警護隊の為の休憩室が設けられている。決して豪華でもなく、快適でもない、普通の兵士の大部屋と変わらない質素なベッドと机があるだけの殺風景な部屋だが、寝るだけに使うので、大統領警護隊から文句が出たことは一度もない。オルガ・グランデは砂漠に近い気候で、昼間は乾燥した空気が暑く熱中症の恐れがあるし、夜間は冷え切って下手をすると凍死することもある。 そんな厄介な土地だから、野宿より、質素でも無料で屋根のある場所で眠れる方が遥かにマシなのだ。
 テオがその部屋に入るのは3度目で、今回は宿泊するか否か予定も定まらなかった。ロホは慣れているから、基地司令に挨拶して部屋に戻ってくると、厨房でもらって来たチョコレートをテオにくれた。

「ベンハミン・カージョが何者か、知りたいですね。」

 ロホはベッドの上にあぐらをかいて座った。

「ちょっと呼びかけてみます。もし彼が”シエロ”なら、感応して動くでしょう。どこに呼び出しましょうか?」

 テオはちょっと考えて、オルガ・グランデ聖教会の名を言った。他に知っている場所はなかった。ロホは目を閉じた。テオは黙って彼を見ていた。ロホが何かをした気配も様子もなかったが、2分程経って、彼は目を開いた。

「呼びかけてみました。この力の欠点は、先方がこちらのメッセージを受け取ったか否か、こちらではわからないってことです。」
「何だい、それ?」

 テオは思わず呆れた。そんな一方通行のテレパシーって・・・あるか、あるだろうな。彼が育った国立遺伝病理学研究所でも、捕まって実験に協力させられていた人に、そう言う能力者がいた。他人の脳に話しかけられるが、相手の思考を読み取れない人や、相手の考えは読めるが自分の意思を伝えられない人がいたのだ。
 ”ヴェルデ・シエロ”は思考ではなく、ただ「呼ぶ」のだ。呼ばれた者は応答できない。呼ぶ側が受信出来ないからだ。だから呼ばれた者は呼んだ者を探しに来る。本来は親が子を呼び集める能力なのだとテオはケツァル少佐かデネロス少尉から聞いたことがあった。

「今夜、彼が教会に現れなければ、彼は”ティエラ”か、来る意志がないと判断しましょう。」

 ロホはゴロリとベッドに横になった。夜に活動するので今のうちに寝ておこうと言う、セルバ流の考えだ。余計な仕事はしない。
 テオは時計を見た。まだシエスタの時間迄1時間以上あった。彼はロホに声をかけた。

「車両部で知り合いのリコって奴に会って来る。」

 するとロホが体を起こした。

「私も行きます。」
「君は休んでいて良いさ。」
「そうは行きません。ここは陸軍基地です。貴方は民間人で、ビジターパスもない。荒くれ兵士に絡まれたら、外へ叩き出されます。」

 そう言われると仕方がない。それにシエスタの時間に寝れば良いのだ。テオはロホに連れられて車両部へ行った。
 リコはかつてアントニオ・バルデスの下で使いっ走りや用心棒みたいな仕事をしていた男だ。偶然テオと知り合って、ついでに大統領警護隊をアンゲルス前社長の家に引き入れる羽目になってしまい、彼はバルデスから制裁を受けるのではないかと恐怖した。実際のところバルデスはリコみたいなチンピラを歯牙にもかけておらず、すっかり忘れ去っているのだが、リコは身を守るためにケツァル少佐が世話してくれた陸軍基地での仕事に真面目に励んでいるのだった。そして彼はテオと大統領警護隊文化保護担当部を命の恩人と信じて止まなかった。
 大統領警護隊にも車両部はあるが、そこに属する隊員は車の点検、配備、運転を担当するだけで、実際にエンジンや部品を触って整備することはない。専属の業者に委託する。陸軍では、軍属の整備士達が車の部品を取り替えたり、修理している。リコは整備士の資格を取って、一人前に働いていた。たまには個人的用件で軍用車両を使うこともあるようだ。規則違反なのだが、車両部の指揮を取っている士官は目を瞑っている。セルバ共和国では、下の者が倫理違反や法律違反をしなければ、上の者は多少の規則違反を見逃してやるのだ。
 テオとロホが車両部の建物へ行くと、整備士達が固まってタバコを吸いながら休憩していた。そこへ大統領警護隊の制服を着た軍人と白人が現れたので、彼等は慌てて散開して仕事の続きを始めた。テオは周囲を見回し、リコがトラックの下に潜り込もうとしている現場を見つけた。名を呼ぶと、リコは叱られるものと覚悟して顔を出し、やっとテオを認めた。

「アルストの旦那!」

 己よりずっと年下のテオに、彼は腰を低くして応対した。テオだけの時はもう少しリラックスしているので、ロホに対して緊張を覚えているのだ、とテオは感じた。
 テオは「元気かい?」と声をかけ、近況を尋ねた。驚いたことに、リコは結婚していた。整備士仲間の妹を妻にしたのだと言う。テオが祝福すると、彼は照れた。

「ところで、今日も遺跡絡みのお仕事ですか?」

とリコがロホをチラリと見て尋ねた。彼が知っている大統領警護隊は文化保護担当部だけだ。他の隊員は陸軍基地を利用することはあっても、車両部まで来たりしない。軍属の労働者達にとって、大統領警護隊は雲の上の人々だった。

「遺跡絡みと言えばそうなるかなぁ・・・」

 テオは曖昧に答えた。

「最近テレビで捜索願いを出されていた行方不明の女性がいただろ?」
「ああ、新聞記者か何かでしたっけね。」
「雑誌記者だ。仕事で出会ったことがあった。知り合いと言える程会っていないがね。」
「そう言えば、オルガ・グランデに来る予定だったって言ってましたね。」
「ベンハミン・カージョって男と会う約束だったらしいんだ。」

 すると、思いがけず、リコの後ろにいた男が振り返った。

「ベンハミン・カージョ? ありゃ、インチキ占い師だ。」
「占い師?」

 テオが聞き返すと、ロホも耳をすませた。リコの同僚は頷いた。

「失せ物探しや、行方知れずの人を占いで探し当てるって評判だった。だけど、嘘っぱちさ。当たる時は当たるけど、当たらない時は全然当たらねぇ。当たる時は、誰も部屋に入れないんだそうだ。だから、誰かから情報を貰ってるんだよ。」


2022/04/07

第6部  赤い川     6

  車内で待つ間、テオはチコにラス・ラグナスに一緒に行ったもう一人の運転手パブロの近況を尋ねたい衝動に駆られた。しかし、チコと初対面と言う状況を保たなければならない。テオがパブロを知っていることは、チコにとってもパブロにとっても奇妙に思えるだろう。それで間を保つために、テオは行方不明の記者の話を知っているか、と運転手に尋ねた。チコは知っていた。ベアトリス・レンドイロの失踪は今やセルバ共和国中の話題になっていたのだ。オルガ・グランデ陸軍基地の中では、彼女は強盗に遭って何処かで殺害されたのだろうと言う考え方が一般的だとわかった。ゲリラに誘拐されたなら、とっくに身代金の要求が来ているだろうと言うのだ。テオも身代金目当ての反政府ゲリラに誘拐された経験があるので、その考えは理解出来た。ゲリラは人質を連れてジャングルの中を移動するが、身代金要求を必ずする。町に連絡用の窓口を持っているのだ。

「犯罪に巻き込まれたのでなければ、誰かと駆け落ちでもしたんでしょう。」

とチコは他人事なので暢気なことを言った。
 ロホが足速に戻って来た。

「なんだか拙いことになっています。」

 彼は車内に戻るなり、不吉な知らせを伝えた。

「ベンハミン・カージョのルームメイトが殺害され、カージョが行方不明です。」

 テオは暫く何も言えなかった。ショックだったが、カージョと言う人物と会ったことがなかったし、顔も知らない。SNS上でも話したことがなかった。

「カージョがルームメイトを殺したのか?」
「私が見たところ、殺害された男性は拷問された様に見えました。憲兵隊も同じ見解です。」
「つまり・・・」

 テオが考えを言いかけると、思いがけずチコが先に言った。

「殺害犯は、そのカージョと言う男の居場所を聞き出そうとしたんですかね?」

 ロホが眉を上げた。彼は大統領警護隊の大尉だ。陸軍兵から見れば大佐クラスの身分だから、二等兵が会話に割り込んだので驚いたのだ。彼はまだ23歳だが、今迄何度も陸軍の護衛部隊を率いて遺跡発掘隊の警護を指揮してきた。大統領警護隊文化保護担当部の部下以外に、会話に割り込まれた経験がなかった。チコの方も、相手が何者か思い出した。思わず、「申し訳ありませんでした!」と敬礼した。テオは2つの軍人のグループの間で、どう言うべきか躊躇した。しかし心配は無用だった。ロホは大人だ。彼は穏やかに言った。

「きっとそう言うことだろう、二等兵。」

 チコはもう一度敬礼した。テオはルームミラーに映った彼の額にうっすらと汗が浮かんでいるのを見た。大統領警護隊を怒らせたかと肝を冷やしたに違いない。
 テオは急いで話題を現状に向けた。

「カージョは逃げたのだろうか? それとも犯人に捕まったか?」
「逃げたと思いたいですね。もしかすると彼はレンドイロがどうなったのか知っているのかも知れません。」

 ロホはチコにオルガ・グランデ陸軍基地へ戻れと命令した。

「基地で少し考えましょう。」

 チコはエル・パハロ・ヴェルデの気が変わらぬうちにと思ったのか、複雑なオルガ・グランデの道路をすっ飛ばし、市街地を横切って、北部の丘陵地帯に広大な敷地を占領している陸軍基地へ向かった。
 走行中にテオの携帯に電話がかかってきた。画面を見ると、アントニオ・バルデスからだった。大企業の経営者は、テオが電話に出るなり、画面いっぱいに顔を寄せて囁くように質問した。

ーードクトル、ベンハミン・カージョの家で殺人事件があったと聞いたが、あんたが関係しているんじゃないでしょうな?

 テオはムッとした。

「失礼だな、俺はさっきやっとカージョの家のそばへたどり着いたばかりだ。既に警察と憲兵隊が来ていた。誰が死んでいたのか、俺は名前さえ知らないんだ。」

 バルデスが電話から顔を遠ざけてくれた。

ーーあんたもエル・パハロ・ヴェルデも関係ないのであれば、私にも関係ありませんな?
「そう願っている。」

 テオはちょっと意地悪く言ってみた。

「俺とエル・パハロ・ヴェルデがカージョを訪ねる予定だと知っていたのは、貴方だけだから。」

 フン、とバルデスが鼻を鳴らした。

ーーただの強盗の仕業であれば良いですがね。カージョも、雑誌記者も、誰かの機嫌を損ねたみたいだから。

 そして彼は「ご機嫌よう」と言って電話の画面から消えた。テオはロホを振り返って言った。

「犯人はバルデスの旦那でもなさそうだな。」
「あの男は生粋のセルバ人です。何を恐れているのか、実に分かりやすい人だ。」

とロホが苦笑した。


第6部  赤い川     5

  翌朝、テオがセラードホテルのフロントロビーまで降りると、そこにロホがいた。テオは苦笑するしかなかった。ケツァル少佐が送り込んで来たのだ。

「ブエノス・ディアス! 俺の護衛かい?」
「ブエノス・ディアス! 当然でしょう。」

 ロホは大統領警護隊の制服を着ていた。私用ではなく、正規の任務としてテオの護衛を命じられたのだ。テオは確認した。

「バスで来たんじゃないよな?」
「勿論です。航空機でもありません。」

 ブーカ族らしく、空間通路を使ってやって来た。テオがバスの中から送ったメールを見て、ケツァル少佐はロホに出張を命じたのだ。ロホはオフィス仕事の時の私服を脱いで、制服に着替え、何処かでオルガ・グランデに通じる”入り口”を探し出し、やって来た。セラードホテルは彼が最初にテオと出会った場所だ。だから彼は真っ直ぐここへ来た。テオを探す手がかりの第一の場所として。そして、ビンゴ! 彼は労を要せずにテオを見つけたのだ。

「朝飯に行く。君もまだだろ?」
「スィ。」
「昨夜は寝たかい?」
「寝ました。貴方の隣の部屋で。」

 2人は笑い、ホテルを出た。カフェまでの道はバルデスが付けた護衛がついて来ていたが、ロホがカフェの前で立ち止まって振り返ると、さっさと立ち去った。恐らく、バルデスに「エル・パハロ・ヴェルデが来ている」と報告して、撤退命令を受けたのだろう。

「貴方が記者の失踪に責任を感じる必要はありません。」

とロホが朝食を食べながら言った。テオは首を振った。

「わかっている。でも、やっぱり放っておけないんだ。彼女の家族がテレビに出て、情報提供を訴えていただろう。俺がバス事故に遭った時、誰もあんなことをしてくれなかった。同じバスに乗り合わせた人間として、彼女の家族に少しでも何かしてあげたいと思ってしまったんだ。」

ロホが優しい微笑みを浮かべた。

「貴方って人は・・・本当に優しいんですね。」
「昔は冷酷だったそうだよ。」

 テオは苦笑した。バス事故で人が変わってしまったのだ。もし元の性格に戻ったら、と不安もあったが、グラダ大学の精神科医は、それは滅多にないことだと言ってくれた。記憶が戻ったのに優しい人格のままなのだから、性格が戻ってしまうことはないだろう、と。

「きっと根は良い人だったんですよ。教育方法が間違っていたんだ。」

 ロホは食べながらも周囲を警戒していた。緊張していないし、キョロキョロもしていないが、テオはそれぐらいのことはわかった。地元でないから、警戒して当然だ。それに軍人が一人で出歩くと、大統領警護隊でなくても敵対心を抱く輩がいるものだ。オルガ・グランデは”シエロ”より”ティエラ”の勢力が強い町だ。金を求めて外国から集まった労働者が多い。古代の神様を怖がらない人間もいる。
 バルデスに呪詛で排除されたアンゲルス鉱石の創業者ミカエル・アンゲルスもそんな人間だった。そして腹心と信じていたバルデスに、神を恐れない不遜な人物と見做され、排除されたのだ。アンゲルスは地下に埋没していた遺跡や古い墓所を平気で破壊したと噂されていた。バルデスはそんな経営者の下で働く多くの労働者の安全を心配した。だから、呪いの神像を手に入れて社長を抹殺したのだった。
 朝食が終わると、ロホは事前に呼んでおいた陸軍の車にテオを案内した。運転手はリコではなく、兵士だった。小柄なアフリカ系のムラートと”ティエラ”のハーフで、テオは彼を知っていた。チコと名を呼ぶと、相手は不思議そうな顔をした。それでテオは失敗したと感じた。チコは以前、ある事件でテオが北部のラス・ラグナス遺跡へ行った時に運転手を務めてくれた。しかし、普通の人間には言えない事故が起こり、マハルダ・デネロス少尉がチコともう一人の兵士からテオ達の記憶を抜いたのだ。だから、チコにとってテオは、この日初めて会う人物だった。テオは言い訳した。

「知っている人とよく似ていたものだから・・・」

 チコが以前と同様に朗らかに笑った。

「スィ、私はチコって呼ばれてます。それで結構です、セニョール。」

 チコが運転する軍用オフロード車に乗った。2年も前のことをテオはぼんやり思い出していた。チコは歌が上手だった。それに砂漠地帯を上手に運転する技術も持っていた。だけど、今の君は俺のことを何も覚えていないんだな。
 クーリア地区のベンハミン・カージョの住まいに近づくと、警察車両や憲兵隊の車が集まっているのが見えた。チコが速度を落とした。事故でしょうか、と彼が後部席のテオとロホに尋ねた。ロホが首を伸ばして前方を見た。

「事故には見えない。事件か?」

と彼は独り言を呟き、チコに停車を命じた。
 車が停まると、ロホが外に出た。

「様子を見てきます。ここで待っていて下さい。」


第6部  赤い川     4

  オルガ・グランデへ出かけて来ると言ったら、ゴンザレス署長は遺伝子の研究の為だろうと思った。テオは本当のことを言うと止められると予想したので、ちょっと嘘をついたことを後ろめたく感じた。ケツァル少佐には、オルガ・グランデへ向かうバスの中からメールした。

ーーレンドイロとS N Sでやり取りをしていたベンハミン・カージョに会いに行く。

 少佐から返事はなかった。ないと言うことは、怒ったな、と彼女の性格を理解しつつあったテオは予想した。彼女は彼が一人で危険な場所へ行くことを好まない。グラダ・シティでも夜間の一人歩きを許してくれないのだ。しかしテオも男性としてプライドがある。何時までも子供扱いして欲しくない。”ティエラ”だってセルバ人だ。一人で行動出来る。
 バスがオルガ・グランデに到着したのは夕方だった。取り敢えず、今日は宿を見つけて休もう、と彼はバスから降りて歩き出した。歩き出してすぐに尾行に気がついた。バス停で数人の男達が固まって話をしていたのがチラリと見えたのだが、その中の一人が仲間から離れてついて来るのだ。テオはバックパッカーではないし、ビジネスマンの様な格好もしていない。荷物は小さなリュックサック一つ切りで、次の日にはエル・ティティに帰るつもりだから、荷物らしい物は持っていなかった。男は一定の距離を空けてついて来る。あまり気持ちの良いものではない。
 リオ・ブランカ通りのセラードホテルに行った。記憶を失って、初めてオルガ・グランデに来た時に泊まったホテルだ。ケツァル少佐が指定した宿だった。彼がホテルの入り口に立つと、尾行者が立ち止まった。テオは彼を見ないように心掛けながら、中に入った。
 フロント係は以前とは別の人間だった。幸い部屋が空いていて、テオはシングルを取ることが出来た。着替えしか入っていないリュックサックをベッドの下に置いて、彼は食事に出掛けた。尾行者はホテルの外で待っていた。テオが歩くと再び尾行を始めたので、盗賊ではなさそうだな、とテオは思った。
 手頃なバルを見つけ、そこで食事をした。ベンハミン・カージョが住んでいると思われる住所を訊くと、市内を走る路線バスで15分程の場所だと教えてもらえた。
 店を出ると、まだ尾行者はいた。テオはなんとなく相手の正体と言うか、役目に見当がついたので、そいつのそばへ歩いて行った。尾行者がびっくりして、狼狽するのがわかった。

「アンゲルス鉱石の人ですか?」

 テオが尋ねると、男は渋々頷いた。バルデスが妙に気を回して護衛をつけてくれていたのだ。だからテオは言った。

「今夜はホテルから出ません。だから、もう帰ってもらって良いです。明日はクーリア地区へ行きます。多分、バルデス社長は承知されているでしょう。余計なことはしません。お気遣い感謝しています、と社長に伝えてください。」

 そしてくるりと向きを変え、ホテルに向かって歩き出した。歩きながら、軍属のリコを呼んでも良かったな、と思った。

第6部  赤い川     3

  テレビの画面にレンドイロ家の人々が映っていた。母親が娘ベアトリスの顔写真を貼ったボードを掲げ、父親が涙ながらに娘の行方を知っている人がいたら連絡して欲しいと訴えた。ベアトリスの弟妹は無言で固い表情をカメラに向けていた。家族と共に出演したシエンシア・ディアリア社の社長もベアトリスがいかに優秀な記者で素晴らしい記事を書いてきたかを語り、彼女の無事を祈っていると言った。最後にテレビ局のスタッフが登場し、連絡先としてシエンシア・ディアリア社の電話番号とメールアドレスを告げた。
 テオは溜め息をついた。ベアトリスと最後に言葉を交わした人間として、憲兵隊から事情聴取を受けたが、彼とて何も情報を持っていなかった。そもそもレンドイロ記者がどんな要件でオルガ・グランデに向かっていたのかも知らなかった。彼女がアスクラカンでバスを降りてからの目撃情報が少し出て来たのは翌日だったが、彼女がバスターミナルの公共トイレを使用したことや、売店でコーラを買って飲んだ、と言う程度だった。彼女が何時バスターミナルを離れたのか、誰も知らなかった。
 アスクラカンから行ける遺跡は、どこもジャングルの中を数時間車で移動しなければならない。彼女が気を変えてカブラロカ遺跡に向かったとしても、車を雇うしか方法がない。憲兵隊は白タクも含めて運送業者を調べたが、女性を乗せて遺跡へ行った人間はいなかった。
 ベアトリス・レンドイロ記者の失踪が大きな話題になったのには、理由があった。シエンシア・ディアリア誌とは趣が異なるゴシップ誌が、この事件を取り上げ、こんなことを書いたのだ。

 シエンシア・ディアリア誌のベアトリス・レンドイロ編集長が失踪したのは、彼女が”ヴェルデ・シエロ”の遺跡の秘密に迫ったからである。

 ”ヴェルデ・シエロ”の名前を誌面に出すこと自体がタブーに近かったセルバ社会で、この記事は大きな衝撃を市民に与えた。噂話をタブーとするセルバ人達が、連日カフェやバルでこの話をネタにして語り始めた。ゴシップ誌”ティティオワの風”は一躍雑誌の売り上げが伸びた。田舎町でも販売されたので、テオも買って読んでみた。”ティティオワの風”はアスクラカン出身の経営者が運営する雑誌社と雑誌の名前で、本社はグラダ・シティにあった。雑誌は、レンドイロ記者が失踪する前の1ヶ月間、ある人物と頻繁にSNS上でやり取りしていたこと、その内容は、”ヴェルデ・シエロ”の遺跡の建築特性に関するものであったこと、やり取りの相手はオルガ・グランデに住んでいるとプロフィールに書かれているが、まだその身元の確認は取れていないこと等が書かれていた。
 オルガ・グランデは古代”ヴェルデ・シエロ”社会で建築に携わっていたマスケゴ族の子孫が多く住んでいた都市だ。セルバが植民地化された頃にマスケゴ族の主力はグラダ・シティへ移住したが、マスケゴ系の住民が鉱山地帯にまだ多く住んでいる。そうした人々は現代でも純血種のマスケゴ族がオルガ・グランデを訪れると、彼等を慕って集まったり、仕事の下請けを買って出たりすると、テオは聞いたことがあった。もしそうした人々の中で、純血種に不満を抱いていたり、或いは既に”ヴェルデ・シエロ”と認められない程血が薄くなった人がいたりして、先祖の文化や文明を調べて雑誌記者に情報を売っていたとしても、おかしくないだろう。
 レンドイロとS N S上でやり取りをしていた相手は、記者が行方不明になったと最初にシエンシア・ディアリア誌の社員がS N S上に書き込んで以来、沈黙してしまった。ゴシップ誌”ティティオワの風”は、その相手こそレンドイロ記者失踪の鍵を握るのではないか、と締め括っていた。
 テオは雑誌の記事を見つめ、暫く考え込んだ。レンドイロとやり取りをしていた人物は、彼女の味方だったのか、敵だったのか。会ってみなければわからない。彼がこの事件に首を突っ込むことに、ケツァル少佐は反対するだろう。しかし、レンドイロと最後に出会った人間の一人として、テオは何もしないでいることが歯痒かった。散々考え抜いてから、彼はある人物に電話をかけた。取り次いでもらえると期待していなかったが、先方の秘書は取り次いでくれた。
 見慣れた顔が画面に現れ、聞き覚えのある声が電話の向こうから聞こえてきた。

ーーアンゲルス鉱石取締役社長、アントニオ・バルデスです。
「テオドール・アルストです。」

 数秒黙ってから、バルデスが「お元気ですか?」と訊いてきた。テオは型通りの挨拶を手早く済ませ、すぐに要件に入った。

「貴社に迷惑をかけたくありません。ただコンピューターを使わせて欲しい。通信システムの解析が出来るコンピューターをお持ちですよね?」

 アンゲルス鉱石はセルバ共和国で1、2を争う大企業だ。最新技術のI T技術も持っている。そんな企業の頭脳と言うべき場所に、部外者を入れる筈がなかった。果たしてバルデスは言った。

ーーどんな要件です? 時間がかかるのですか?

 テオは正直に答えた。

「今、セルバ社会を賑わせている雑誌記者の失踪事件をご存知ですね?」
ーースィ。
「彼女がS N S上でやり取りをしていた相手を特定したいのです。氏名と住所が分かれば、それで十分ですが・・・」

 バルデスがちょっと考えてから確認してきた。

ーーベアトリス・レンドイロと言う女の、話相手ですか?
「スィ。その正体を知りたい・・・」
ーー調べさせます。結果は今お使いの電話にメールで送らせて宜しいですか?

 アントニオ・バルデスは決して善意の人ではないが、セルバ共和国を愛している。そして古代の神を信仰している。彼は決して大統領警護隊を怒らせたくない。ケツァル少佐の機嫌を損ねて遺跡が埋もれている地下の坑道採掘権を失いたくない。だから少佐と仲良しのテオの細やかな要求をあっさり受け容れてくれた。
 1時間後、テオの携帯にメッセージが入った。バルデスからだった。 男性の名前とオルガ・グランデ市内の住所が書かれていた。


2022/04/06

第6部  赤い川     2

  ムリリョ家の一階の庭園に設けられたプールの周囲はライトアップされていた。長いテーブルの上に料理や飲み物が並べられ、ポップな音楽が賑やかにその場を盛り立てた。踊ったり、歌ったり、食べたり飲んだりしているのは、若者達だ。現当主アブラーン・シメネス・デ・ムリリョの次男坊が留学先のフランスから帰国して、彼の兄弟姉妹、従兄弟姉妹、近所の幼馴染を集めてパーティーを開いているのだった。招待されているのは全員”ヴェルデ・シエロ”だ。純血至上主義者ファルゴ・デ・ムリリョの孫らしく、招待した友人は全員純血のマスケゴ族、或いはマスケゴ系のブーカ族や他の部族の若者達で、異人種の血が入った者はいない。だが流れている音楽は白人の音楽だし、アフリカ系の音楽もあった。若者達は異文化を一向に気にしない。楽しければ良いのだ。
 ファルゴ・デ・ムリリョは3階のテラス庭園、即ち2階の家の屋上庭園で椅子に座ってシエンシア・ディアリア誌に掲載された直近のベアトリス・レンドイロの記事を読んでいた。照明は薄暗かったが、”ヴェルデ・シエロ”の彼には十分だった。彼と屋外用テーブルを挟んで座っていたのは、末娘の夫フィデル・ケサダだった。雑誌は彼が持ち込んだもので、義父が記事を読み終えるのを静かに待っていた。
 ムリリョ博士は雑誌をテーブルの上にバサリと音を立てて置いた。

「見飽きた内容だな。」

と彼は呟いた。

「手下を動かす必要もない。遺跡を見て我々の祖先が実在したことを証明したがっている、それだけだ。我々がここで生きていることに触れてもいないのだからな。」
「スィ、その記者は放置しておいても害にならぬ存在でした。闇に動く者がわざわざ仕事をするとも思えません。」
「では、何故ンゲマが騒いでおる?」
「行方不明になった記者は、彼が雨季明けに発掘するカブラロカ遺跡を取材する予定でした。彼女の消息が途絶えたので、雑誌社が騒ぎ出しました。ンゲマは、もし彼女がゲリラに誘拐されたり野盗に襲われたりしたのであれば、遺跡発掘の開始が遅れるのではないかと心配しているのです。」
「ケツァルは発掘の中止を考えているのか?」
「まだです。彼女は憲兵隊に記者の捜索を任せました。遺跡とは関係ない事案だと考えている様です。」

 ムリリョ博士は雑誌をチラリと見た。

「その女は何処で消息を絶ったのだ?」
「彼女を最後に見た人間の証言では、アスクラカンで女はいなくなったそうです。」
「その証人は信用出来るのか?」
「ドクトル・アルストです、義父上。」

 ムリリョ博士が視線を養い子に移した。ケサダ教授は説明を追加した。

「アルストは雨季休暇をエル・ティティの養父の家で過ごします。そこへ向かうバスの中で、女記者と出会ったとケツァルに語りました。彼女は彼にオルガ・グランデへ行くと言ったそうです。バスはアスクラカンで長時間停車します。大半の乗客はバスから降りて休憩します。再びバスが動き出した時、彼女はバスに戻って来なかったとアルストは証言しました。」

 ムリリョ博士は彼等がいる庭園の縁から見えるプールの青い水の輝きを眺めた。

「アスクラカンか・・・」

と彼は呟いた。

「またパジェの家系が絡んでいるのではなかろうな?」

 ケサダが黙っていると、不意に博士が「フィデル」と彼の名を呼んだ。教授が「スィ」と答えると、ムリリョは言った。

「最近、お前はアスクラカンへ行ったか?」
「ノ。」

 ケサダは平然と答えた。最近、とはいつのことだ?と思いつつ。
 ムリリョは階下の大騒ぎしている若者達を見て、眉を顰めながら言った。

「お前はグラダ・シティから出てはならん。儂が良いと言う迄、ここに留まっておれ。」





第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...