2022/11/24

第9部 シャーガス病     1

  国立感染症センターが微生物学者アーノルド・マイロをセルバ共和国に派遣したのは、シャーガス病の研究の為だった。シャーガス病は中南米の風土病で寄生性の原虫であるクルーズトリパノゾーマによる感染症である。人の住居に住み着くサシガメ類の昆虫の糞に含まれる原虫が原因で、原虫の侵入した部位の腫れや炎症、リンパ節腫腸で始まり、発熱、肝脾腫に進行し、一部の患者は急性心筋炎・髄膜脳炎で死亡することもある。さらに数年後、20~30%の患者に、慢性心筋炎、巨大食道、、巨大結腸などが起きることもあり、それらはやがて死に繋がる可能性が大きい。急性期に抗原虫薬による治療を開始しなければ完治は困難で、慢性期に移行してしまうと、薬物療法の効果はあまり期待できない。そのため、この病気は本当に感染しないことが重要で、サシガメ類の昆虫に刺されないことが予防方法としか言いようがない。
 だが、中南米で唯一箇所、この病気の発症例が認められない国がある。それが、セルバ共和国だった。マイロはサシガメ類昆虫がセルバ共和国に生息するにも関わらず、病気が発生しないことに興味を抱いた。セルバのサシガメにはクルーズトリパノゾーマが寄生しないのだろうか。他の中南米諸国のサシガメとセルバのサシガメはどう異なるのか、彼はそれを調査する為に派遣された。セルバ人の体質に原因がある可能性もあるのだが、それは万が一のこととして、先ずは昆虫の研究だ。
 マイロがグラダ・シティ国際空港に降り立ったのは、雨季明けの蒸し暑い晴れた日だった。晴れていたが、空の一部には分厚い雲が浮かんでいた。いつでもスコールが始まるよ、と言う雰囲気だ。空港は南国ムードいっぱいで、褐色の肌のメスティーソ達が荷物を運んだり、再会を喜び合ったり、足早に歩いていたりと賑やかだった。知名度の低い国だから、もっと田舎っぽいと想像していたマイロは、空港ビルを出て、近代的ビルが並ぶ方角を眺めた。高層ビルと言うものは見当たらなかった。どれも4、5階建てだ。予備知識では、セルバ共和国では首都にある”曙のピラミッド”を超える高さの建築物は禁止されているとあった。だが空港から見る限り、そのピラミッドは見当たらなかった。同じような高さのビル群に埋もれているのだろう。
 湿った生暖かい空気を吸い込んだ時、左脇から声をかけられた。

「ドクトル・ミロ?」

 マイロをミロと発音するのは、英米圏の外の人間だ。マイロはその程度の覚悟はしていた。振り向くと、1人の女性が立っていた。30歳前後と見える女性で、スマートな体型だが、これはこの国ではスリムな方になるのではないかな、と彼は勝手に思った。

「そうです、アーノルド・マイロです。微生物学者です。」

 女性は薄い赤系統の花柄ワンピースの胸元にぶら下がっていたI D証を提示した。

「グラダ大学医学部微生物研究所のドクトラ・イメルダ・バルリエントスです。貴方と同じ微生物学者です。」

 そして彼女は握手する前に言った。

「申し訳ありませんが、パスポートで確認させて頂きます。」

 それでマイロは慌ててパスポートを出した。アメリカを出る前に、煩く注意されたのだ。セルバ共和国では身分証を求められたら、必ず素直に見せること、と。
 ビザを取得する時に、セルバ共和国大使館で亡命・移民審査官と言う肩書きの男性と数回面接した。そのロペスと言う男は大使館職員かと思ったが、彼自ら出した身分証には、大統領警護隊司令部外交部少佐とスペイン語で書かれていた。ビザが降りる迄、何度も入国目的を尋ねられ、シャーガス病の講義を少佐に行う羽目になった。何らかのスパイ目的かと疑われているのかと当初は腹が立ったが、よく考えると、セルバ共和国にはシャーガス病が存在しないのだ。その原因を調べに行くのだから、シャーガス病を知らない人々に調査目的を理解してもらわねばならないのだ、と彼自身が理解した。
 パスポートと国立感染症センターのI Dをじっくり吟味してから、バルリエントス博士は彼に書類を返した。そしてやっとニッコリして手を差し出した。

「セルバ共和国にようこそ!」


2022/11/23

第8部 シュスとシショカ      20

  軍事演習は確かに生やさしいものではなかった。大統領警護隊文化保護担当部の部下達は遠慮容赦無く上官に攻撃を仕掛けてきた。テオにはペイントボールを当てなければならないから、邪魔なケツァル少佐の注意を逸らすのが目的だが、石が降ってくるわ、実弾で撃ってくれるわ、でテオは生きた心地がしなかった。少佐も時々彼を岩陰に隠すと、部下を狩りに出かけた。
 真っ先に倒されたのはアスルだった。ある意味猪突猛進型の彼は強い気を放ったので、少佐に位置を正確に補足され、奇襲された。テオは気絶したアスルが少佐に引き摺られて集合地点に運ばれるのを呆然と見ていた。
 次に降伏したのはギャラガだった。少佐とグラダ族同志の力の出し合いをして、砂嵐で競ったが、結局押し切られた。砂や小石で全身をズタズタにされる前に、彼は白旗を掲げ、降参した。少佐は彼にアスルの番を命じ、残る2人のブーカ族を探しながらテオを頂上へ導いた。
 もうすぐ頂上付近の池の縁に辿り着くと言う時に、拳大の石がバラバラと飛んで来た。少佐が石を気の力で砕き、テオに岩陰に身を伏せて置くようにと言いつけた。それから大きな気配を感じた地点へ走った。テオは彼女の後ろ姿を見送り、それから飛んで来た石を見た。少佐に砕かれた石の断面がきらりと輝いた。

 え? オパール?!

 石を拾うと腕を伸ばした時、視野の隅に小柄な綺麗な毛皮のネコ科の猛獣が入った。そのネコはボールを咥えていた。

 オセロット? 

 マハルダ・デネロスだ、と気がついた時は遅かった。オセロットはパッと跳躍して、彼の背中に跳びついて来た。テオは思わず「ワァッ」と叫び声を上げた。背中にペイントがベッタリと飛び散った。オセロットは彼の背中を蹴って、その勢いで大岩の向こうへ走り去った。
 テオの叫び声を聞きつけた少佐が戻って来た。そしてペイントで汚れたテオの合羽を見た。

「あーあ・・・」

 彼女は悔しげにアサルトライフルの台尻を地面に打ち付けた。テオは言い訳した。

「マハルダがナワルを使ったんだ。それってあり?」
「軍事訓練ですから、必要と判断すれば・・・」

 少佐が舌打ちした。

「彼女はずっと気配を消していました。男達は石や砂や銃で攻撃を仕掛けて来ました。彼等の気の力に私が注意を向けている間に、彼女は変身して貴方に近づいたのです。気の大きさでは彼女が一番弱いのですが、知恵は回りますからね。」

 彼女はライフルを空に向けて続け様に2発撃った。訓練終了の合図だ。 集合場所ではなかったが、池の縁の向こう側からロホが姿を現し、やって来た。ギャラガも目を覚ましたアスルと一緒に登って来た。

「マハルダ!」

 少佐が呼ぶと、少し離れた所で少尉は答えた。

「もう少ししたら行けます。」

 人間に戻って服を着ているのだ。
 テオはペイントでベトベトになった合羽を脱いだ。それから、光る断面の石を拾い上げた。ロホがそばに来たので、それを見せた。

「君が飛ばして来た石だ。光っているんだが・・・」

 ロホが眺めて、ニヤリと笑った。

「ラッキーですね! 見事なオパールの原石ですよ。」
「君が選んでくれたのか?」
「まさか! 私は鉱物師じゃありませんよ。」

 そこへケツァル少佐が近づいて来たので、テオは石をポケットに突っ込んだ。

「昼飯の前に終わったな。」

と言うと、彼女は苦笑した。

「オセロットにしてやられました。ところで、帰り道、あの子はきっと眠たくなるでしょうから、背負ってやって下さいね。」
「マハルダなら、喜んで・・・痛!」

 少佐はテオの足の甲を踏んづけて、アスルとギャラガの方へ行ってしまった。

2022/11/22

第8部 シュスとシショカ      19

  土曜日の朝、テオのアパートに泊まった大統領警護隊文化保護担当部の男達は、隣のケツァル少佐の部屋のダイニングで早い朝食を取り、同じく少佐のアパートに泊まったデネロス少尉と共に少佐に引き連れられて週末の「軍事訓練」に出かけた。テオも同伴させてもらったが、行き先は近所ではなかった。
 まだ薄暗い早朝の通りで、”ヴェルデ・シエロ”達は空間の歪み、彼等が「入り口」と呼んでいる場所を見つけ、1人ずつ入って行った。最初に入った者と同じ場所に出る練習だと言う。当然ながら最初に入ったのは大尉であるロホで、少し時間を置いてから、中尉のアスル、少尉のデネロス、ギャラガの順に「入り口」に入った。テオは最後にケツァル少佐に手を引かれて入った。少佐はあまり空間移動が得意でない。目的地へは間違いなく到着したが、「着地」は下手だ。テオは最後に入った筈なのに、先に出てしまい、少佐が彼の背中に乗っかる形で地面に押し付けられた。

「君はどうしていつもこうなんだ!」

 思わずテオが呻くと、少佐が反撃した。

「すぐに場所を空けてくれないからです。」

 先に到着していた部下達がクスクス笑って見ていた。
 少佐が立ち上がり、軍服の泥を落とさずに部下達を見た。

「全員揃っていますね。」

 そしてテオが立ち上がるのを横目で見た。

「手足も全部ついていますね、ドクトル?」
「バラバラになって移動するなんて聞いたことがないぞ。」

 テオは周囲を見回した。見覚えがある風景だった。地面が斜めになっていて、膝までの高さの草が生えている。斜面の下は森が広がっていた。斜面の上は砂利と岩の山の頂だ。

「ティティオワ山か・・・」

 少佐がテオに大きなサイズの合羽を手渡した。頭からフードですっぽり入る形だ。

「私とドクトルはこの山の山頂から今いる高度までの間をぐるりと散歩します。あなた方は、今朝アパートで渡したカラーペイントのボールをドクトルに投げて下さい。ボールは1人5個。ドクトルに当てられたら、今夜夕食でビールを2本追加してよろしい。」

 つまり、少佐がテオにボールが命中するのを妨害するので、彼女の隙をついてみろ、と言う訳だ。いかにも”ヴェルデ・シエロ”らしいゲームだが、ちょっと子供染みていないか? とテオは内心感じた。しかし黙っていた。部下達が真剣な表情になったからだ。これは、上位の超能力者と戦う時の訓練だ。
 少佐が時計を見た。

「今、0700です。1130迄、訓練時間とします。休憩は各自の判断で取ること。1130にここへ集合。では、散開!」

 部下達が一斉に散って行った。緊張と楽しげな雰囲気が混ざっている。文化保護担当部の軍事訓練はいつもこんな調子だ。他の部署の隊員達からは遊んでいる風に見えるらしい。だが他部署の指揮官達はケツァル少佐も部下達も真剣なのを知っている。
 部下達が見えなくなると、少佐はテオを振り返った。

「頂上へ行きましょう。」
「ただ歩くだけかい?」

 標的にされてテオはちょっと不満だったが、この山には忘れられない思い出がある。

「歩くだけですが・・・」

 少佐が岩場を指差した。

「部下達が私の隙を突くために、土砂崩れや落石で攻撃して来ますから、斜面の変化に注意を払って下さい。油断すると死にますよ。」


2022/11/21

第8部 シュスとシショカ      18

  久しぶりにテオはロホ、アスル、ギャラガとゆっくり世間話が出来た。全員で夕食の後片付けをして、テオの区画のリビングで男だけの寛ぎの時間を持ったのだ。ケツァル少佐は一向に気にせず、デネロスと女のお喋りを楽しんでいた。金曜日の夜だ。
 ロホとグラシエラ・ステファンの交際がどこまで進んだか、とか、アスルが昇級に再び無関心でサッカーに熱中するので、少佐がトーコ中佐からお小言をもらったとか、ギャラガが大学の論文大会に出場することになって、壇上に立って話す練習をしているとか、そんな他愛ない話だ。友人達を揶揄ったり、笑ったりしているテオに、アスルがいきなり反撃に転じた。

「そう言うドクトルは、いつ少佐と正式に結婚するんだ?」
「え・・・?」

 テオは固まってしまった。彼の顔を見つめ、ロホが吹き出した。

「一緒に住んでいるんでしょ? 結婚のお試し期間ってことなんだから、少佐のご両親も、ゴンザレス署長も早く結果を聞きたいと思いますよ。」
「そんなこと、言われても・・・」

 テオは撫然とした。

「俺1人で結論を出せる筈ないじゃないか。」
「でも少佐は出しておられる筈ですよ。」

 ロホがニヤリとした。

「女性が嫌だと言わないのは、O Kってことでしょ?」
「そ・・・そうなのか?」

 テオはアスルとギャラガを見た。2人とも澄ました顔で彼を見返した。ロホと違って女性との噂話が全くない2人だ。

「実を言うと、君達”ヴェルデ・シエロ”が求婚する時の作法を知らないんだ。」

 テオが白状すると、3人が笑った。

「古式床しいプロポーズの作法なんて今時流行りませんよ。」

とロホが言った。アスルが肩をすくめた。

「俺は習ったことがない。」
「私も作法なんて何も知りません。」

 ギャラガもあっけらかんと言い放った。

「軍隊ではそんな作法なんて教えてくれませんから。」
「知りたけりゃ、ケサダ教授に聞けば良いじゃん。ムリリョ博士の娘と結婚しているんだから、正しい礼儀作法で求婚したんじゃないか?」
「貴方の国のやり方で十分でしょう。」

 ロホが優しく言った。

「セニョール・ミゲールは奥様にスペイン流で求婚なさったのだと思いますよ。ゴンザレス署長だって、そうじゃなかったんですか? 少佐に限って言えば、どこの作法でも気になさらないでしょう。」

 それでテオは彼女の指のサイズを手を握って測ったことを告白した。3人の友人達は彼の才能を疑わなかった。

「それじゃ、石は何にするんだ?」
「ドクトル、ダイアモンドを買えるんですか?」
「ダイアモンドじゃなけりゃ、駄目なのか?」
「まさか!」

 するとロホが溜め息をついて教えてくれた。

「セルバでプロポーズに使う石は、オパールと言うのが定石ですよ。ティティオワ山の麓で算出する綺麗なヤツです。」



第8部 シュスとシショカ      17

  翌日、仕事を終えるとケツァル少佐は部下達を彼女のアパートに集めた。テオの帰宅を待ってから、カーラの美味しい手料理を味わい、それからアーバル・スァット盗難事件捜査の終結を宣言した。

「あなた方には中途半端な印象しか残らないでしょうが・・・」

 少佐は向かいに座っているテオにウィンクした。それでテオが言葉を継いだ。

「許される範囲で俺達・・・君達と俺が調べたことをまとめてみよう。事件の真相はかなり古くから根があって、それは君達の文化や掟の問題にも繋がるから、触れないことにする。
 簡単に言えば、シショカ・シュスと言う家族には2系統あって、昔から族長をどちらから出すか、どちらが主流になるかで争ってきたと言うこと。そして君達が突き止めたカスパル・シショカ・シュスと言う男性が、個人的な怨恨で恋人の実家であり、彼自身の近い親族であるシショカ・シュスを神像の呪いで殺害しようと考えたことだ。
 恋人の実家は、カスパルの恋人がカスパルを裏切って結婚した白人の家族を様々な卑怯な方法で殺害し、その家の財産を乗っ取っていた。カスパルがその家族を呪い殺そうと考えた原因は、財産乗っ取りでなく、ただ恋人を奪われた恨みだったらしいけどね。
 問題は彼の心の闇を、もう一つのシショカ・シュスの系統が何らかの形で知ったことだ。そっちの系統は、カスパルの恋人の実家を追い落とす機会を幾つかの世代を超えて狙っていた。だからカスパルに近づき、彼に神像を用いて報復する方法をそれとなく伝えたに違いない。
 カスパルはアルボレス・ロホス村の住民だったチクチャン兄妹を利用し、操って神像を盗んだ。2回盗んで、1回目は利用しようとしたロザナ・ロハスが想定外の行動を取った為に失敗し、2回目は遺跡の警備員を爆裂波で傷つけてしまった。何とか神像を建設省に送りつけたが、それは大臣を呪い殺すのが目的ではなく、セニョール・シショカに恋人の実家が犯した悪事を調べて欲しかったのだと、大統領警護隊の取り調べでパスカルは白状したそうだ。
 俺達から見れば随分ぶっ飛んだ方法と言うか、理屈だけど、カスパルはセニョール・シショカが神像を送りつけたのがチクチャン兄妹だと突き止めるだろうと予想した。兄妹の調査からアルボレス・ロホス村の不幸をシショカが知り、村に投資したマスケゴ族の家族、つまりカスパルの恋人の実家が投資に失敗して没落した筈なのに、直ぐに立ち直った理由を探るだろう、とそこまで考えたそうだ。つまり、シショカと言う家系の総帥であるセニョール・シショカを使って、恋人の実家に復讐しようとしたんだ。だが、君達文化保護担当部の捜査でカスパルの関与が判明し、彼は捕縛された。」

 テオは口を閉じた、一気に喋ったので、喉がカラカラだった。彼が水のグラスを手に取って、口に冷たい水を流し込むと、マハルダ・デネロス少尉が質問した。

「チクチャン兄妹はどうなりますか?」

 ケツァル少佐が溜め息をついた。

「難しい質問ですね。彼等は一族ではありません。遠い祖先に一族の血が入っていて、”心話”や”感応”受信を使えますが、一族とは認められないし、一族のことを何も知りません。ですから、大統領警護隊は彼等に接触した警護隊の隊員に関することを一切口外しないよう言い含めてから、グラダ・シティ警察に引き渡すことにしました。セルバ人ですから、大統領警護隊に逆らうとどうなるか、彼等は承知しているでしょう。」
「つまり、ただの遺跡泥棒と言うことですか?」
「スィ。あまり罪を増やすと、箝口令を守ってくれなくなる恐れがありますからね。刑期を終えたら社会に戻れると言う希望を与えてやります。」
「理解しました。」

 デネロスがホッと肩の力を抜いた。彼女はチクチャン兄妹と直接対峙したことがなかった。しかし彼等を追跡調査したので、ちょっと思い入れがあるのだろう。アンドレ・ギャラガ少尉は別の人間を心配した。

「カスパルに爆裂波を喰らった警備員は、元の体に戻れますか?」

 これにはロホが答えた。

「記憶障害と言語障害が少し残るが、体はもう大丈夫だそうだ。アンゲルス鉱石は彼に簡単な仕事を用意して、これからも雇用すると約束した。」

 セルバ共和国では珍しいことだが、労災があまり補償されない国でその待遇はラッキーだ。

「カスパルは大罪人だから、当然の処分が下されるでしょうね?」

とアスルが確認した。少佐が無言で頷いた。それから、ちょっと思い出したように言った。

「バスコ診療所でアラム・チクチャンを治療した代金を、大統領警護隊はカスパルの口座から引き出してピア・バスコ先生に支払いました。」

 思わず一同は笑ってしまった。司令部ではなく、ステファン大尉がそう判断したのだろう、とその場にいた誰もが確信した。

「騒動の大元の2つの家系の方は何か処分とかあるんですか?」

 デネロスが興味を抱いて尋ねた。ロホが彼女を嗜めた。

「それは長老会レベルの話だよ、マハルダ。マスケゴ族の部族政治に絡むから、私達他部族は触れてはいけないんだ。」
「俺はセニョール・シショカが何かするんじゃないかと、心配だよ。」

とテオが正直に言った。

「族長のムリリョ博士が彼を呼びつけていたけど、あのシショカのことだ、シショカ一族の総帥として、あるいは”砂の民”として、きっと動くだろう。」
「動いても、あの男の仕事だ、誰も不自然と感じない形で粛清が行われるに決まっている。」

とアスルが囁いた。
 暫く一同は黙っていた。それぞれコーヒーや軽くワインを口にして、それからギャラガが思い出して尋ねた。

「アーバル・スァット様を遺跡に戻すのは誰です? セニョール・シショカが持って行くのですか?」

 全員が不安そうに少佐を見た。シショカは神像の扱い方を知っているだろうが、悪霊祓いや封印に関して素人だ。大統領警護隊文化保護担当部はそれが心配なのだ、とテオは理解した。少佐が大きな溜め息をついた。

「私が持って行きましょう。」



2022/11/20

第8部 シュスとシショカ      16

  アブラーンの妻がテラスへ出る掃き出し窓からカサンドラを呼んだ。カサンドラが振り返ると、彼女は来客を告げた。

「チャクエク・シショカさんが来られました。」

 テオとケツァル少佐が驚いていると、ムリリョ博士が娘の代わりに返答した。

「こちらへ通せ。」
「承知しました。」

 テオは博士に尋ねた。

「セニョール・シショカも呼ばれたのですか?」
「シショカ・シュスの人々の代表としてな。」

 ムリリョ博士は族長の顔になっていた。そして娘に言った。

「客人達を中の部屋へご案内しろ。」

 つまり、テオとケツァル少佐には話を聞かせたくないと言うことだ。族長と家系の代表としてではなく、”砂の民”としての話し合いなのだろうとテオは見当をつけた。
 カサンドラが立ち上がったので、テオ達も席を立った。3人がリビングに入ると同時に、セニョール・シショカが反対側の入り口からリビングに入って来た。テオ達を見ても驚かなかったのは、車を見ていたからだろう。

「今晩は」

と彼はケツァル少佐とカサンドラに挨拶した。それから、テオにも不承不承会釈して、テラスに出て行った。その後ろ姿をカサンドラは無言で眺め、それからテオ達に向き直った。

「今夜はこれでお終いにしましょうか?」
「そうですね。」

と少佐が応じた。何も意見することはなかったし、出来ることもなかった。
 テオは気になることを尋ねた。

「カスパル・シショカ・シュスと言う男は、やはり大罪を犯したとして処罰されるのですか?」
「人間に対して爆裂波を使いましたからね。」

とカサンドラが冷ややかに答えた。ケツァル少佐も頷いた。

「彼の行動には、何一つ同情の余地はありません。遺跡の警備員とアラム・チクチャン、2人に対して爆裂波を使ったことは、被害者が生存していようがいまいが、大罪です。それに恋人の家族を呪い殺すつもりだったのでしょう?」
「そうだけど・・・」

 テオはケマ・シショカ・アラルカンの必死な表情を思い出した。

「甥っ子の助命嘆願は無駄なのか・・・」
「減刑の理由がありません。」

 カサンドラは硬い表情で言った。

「助命嘆願に来た若者の母方の叔父がカスパルでしたね。若者の家族はこれから針の筵に座る思いで一族の中で生きていかねばなりません。大罪を犯した事実は、一族全般に触れられますから。」
「”ティエラ”として生きていけば良いのです。」

とケツァル少佐が言った。

「私もそうやって成長して来ましたから。」

 少佐の産みの両親は大罪人だった。母親は死ぬ間際に減刑されたのだ。父親は汚名を着せられたまま殺害された。ケツァル少佐は殆ど白人同然の養父に預けられ、何も知らない白人の養母に育てられた。少佐は・・・幸福いっぱいに育った。
 カサンドラが少佐を見て微笑んだ。

「大人になってから”ティエラ”として生きるのも楽ではないと思いますが、その若者は既に社会に出ているのでしょう?」
「市の職員です。」

とテオが答えると、彼女は頷いた。

「それなら乗り越えられますよ。親戚付き合いをしなければ良いと言うだけです。理性的に振る舞って、真面目に生きていれば、早晩一族の社会に戻れます。」


第8部 シュスとシショカ      15

 「ファティマのシショカに勝つことを目標としてきた煉瓦工場のシショカ達は起死回生を図って、投資をしたのです。」
「アルボレス・ロホス村・・・」
「スィ。馬鹿な投資です。今時生ゴムなど企業を立て直せるようなお金になりません。しかし彼等は賭けたのです。そしてご存知のように、あの村は泥に埋まりました。煉瓦工場は殆ど倒産寸前となりました。一族は金銭的な援助をしません。異種族から攻撃を受けて困っていると言うなら助けますが、経済的な援助はしないのです。そして我々は経済的に困窮しても一族に助けを求めません。自力で切り抜けるしかありません。」

 カサンドラはそこで冷めたコーヒーを少し口に入れた。唇を湿らせてから、彼女は続けた。

「煉瓦工場が突然借金を完済した時、正直我々は驚きました。一族だけでなく、”ティエラ”の同業者や債権者も驚いたのです。彼等はどこからお金を調達したのかと。銀行からも見放されていた会社が生き返ったのですから無理もありません。アブラーンは私に調査を命じました。煉瓦工場のシショカ達が外国から資金を得たかも知れないと危惧したのです。外国人からお金を借りたら、外国人に会社を乗っ取られる恐れがあります。セルバ共和国の守護者を自負する我々にとって、それは憂うべき事態です。煉瓦工場への出資者が外国人であれば早急に手を打たねばなりませんでした。」
「でも、出資者はいなかった・・・」

 テオの言葉に、彼女は同意した。

「いませんでした。彼等は借り入れもしていませんでした。お金は奪ったものでしたから。」

 ケマ・シショカ・アラルカンがテオとムリリョ博士に語ったことは事実だったのだ。

「彼等は娘を金持ちの白人に嫁がせました。婿を操って財産の乗っ取りを企んだのです。しかし肝心の娘がお産に失敗して死んでしまいました。そこで彼等は暴挙に出たのです。」
「ケマ・シショカ・アラルカンが俺に言った、カスパルの言葉は真実だったと言うことですか?」

 すると初めてムリリョ博士が反応した。小さく頷き、吐き捨てるように言った。

「煉瓦工場の奴らは、白人の家族を事故や病気に見せかけて皆殺しにしたのだ。連中自身は娘の敵討ちだと自分達に言い訳してな。」
「勿論、我々は今までそんな悪事が行われていたことを知りませんでした。」

 カサンドラが言い訳した。

「私は彼等の取引先や銀行ばかり調べていました。姻戚関係となった白人の身元も調べましたが、スペイン系の金持ちだとわかった以外のことに、つまりその家族が次々と死んでいることに調査を及ばせることをしなかったのです。」

 ムリリョ博士はチラリと娘を冷たい目で見た。娘や息子の仕事が完璧でなかったことへの苛立ちだ。しかしカサンドラもアブラーンも”砂の民”ではない。父親の様に各地にスパイの様な手下を持っているのでもないのだ。会社の名前で動かせる人間はいるだろうが、”砂の民”の情報収集能力とは少し違うだろう。

「私達ロカ・エテルナ社にとって、件の煉瓦工場のシショカは無視出来る存在の筈でした。ですから私も真剣さが足りなかったのです。これは父に責められても仕方がありません。」

 この場合の「父」は”砂の民”ではなく”族長”だ。カサンドラは「しかし」と続けた。

「ロカ・エテルナ、或いはムリリョやシメネスにはどうでも良いことでも、別のシショカやシュスにとって、煉瓦工場の不思議な復活は重要でした。彼等の血族の中の主導権争いになりますから。だから、ファティマのシショカが動いたのです。彼等は煉瓦工場の死んだ娘の元の許婚だったカスパル・シショカ・シュスに接触して、彼女の死の真相を探れと持ちかけたのです。」

 だが、カスパルは恋人の死の責任は彼女の実家にあると信じ、白人の婚家の死人については重要視しなかった。ファティマのシショカが望んだ煉瓦工場の足を引っ張ることではなく、煉瓦工場の人々を呪い殺すことを思いついたのだ。呪いを使えば、己が大罪に問われることはない、と考えた訳だ。

「それでカスパルは、最も簡単に、最も早く呪いの効果が出せる方法を探り、アーバル・スァット様の神像を見つけたのですね?」

 ケツァル少佐の質問に、カサンドラは頷いた。

「アーバル・スァット様が非常に気難しく扱いにくい神様であることは、オスタカン族に神像を作って与えたブーカ族の氏族の間では今でも語り伝えられています。この氏族とシュスの家で配偶者のやり取りがありました。それでカスパルは遠い親戚であるブーカ族から神像の知識を得たのです。」
「彼はオスタカン族の子孫からも情報を集めたようです。そして恋人の実家が没落する原因となったアルボレス・ロホス村の元住民を利用したのですね?」
「スィ。用心深い男でした。」
「しかし間抜けだ。」

 とムリリョ博士が吐き捨てる様に言った。

「利用しようとした村人の遠い祖先に一族の血が流れていた。そしてマヤ人の血も流れていた。だから”操心”を完全に成し得なかった。己の力を過信して、誰でも操れると思い込んだのだ。」
「それでチクチャン兄妹に反抗された・・・」

 カサンドラが薄笑いを顔に浮かべた。

「ファティマのシショカ達が全てをカスパル・シショカ・シュスに任せた訳ではありません。彼等はずっとカスパルを監視していました。いつでも煉瓦工場のシショカ家族の足を引っ張る材料を見つけるためにです。だから2人のチクチャンからカスパルの不完全な”操心”を解くと言う妨害もしたのです。」
「それじゃ、チクチャン兄妹の反抗は・・・」
「ファティマのシショカの仕業です。カスパルが焦って恋人の家族に暴挙を仕掛けることを期待したのです。」

 少佐がテオに向かって言った。

「煉瓦工場の家族に騒ぎが生じれば、建設省の秘書が動きます。セニョール・シショカは送り付けられた神像と煉瓦工場の不祥事を結びつけ、煉瓦工場の家族に粛清を与える・・・そこまでファティマの連中は考えたのでしょう。」

 テオは頭をかいた。

「君達一族は人口が少ないじゃないか。それなのに身内でそんな蹴落とし合いをして、どうするんだ? 族長に選ばれる為に、もっと理性的に一族に尽くさなきゃいけないんじゃないのか?」
「私に言わないで下さい。」

 ケツァル少佐はそう言って、カサンドラにウィンクした。カサンドラが苦笑した。

「我が部族の女は投票権がありません。父は族長職を退くので、最後の同点の場合のみ投票します。ですから、今ここで話をしている4人は、投票をしない人間です。候補者がどんな人格なのか私は知りませんから、今した話が選挙に影響があることなのか否かもわかりません。ただ、長老会は部族に関係なく選挙が公明正大に行われたことを審査します。少しでも不正があると判断されたら、その疑われた人はもうお終いです。カスパルは大統領警護隊でどこまで喋るか知りませんが、煉瓦工場もファティマも良い結果を得られないでしょう。」


第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...