2023/01/27

第9部 エル・ティティ        3

  夕食はバルで取った。エル・ティティには食事が可能な店は3軒しかなく、マイロは宿に一番近い店に入ったのだが、他の店も同じ通りにあった。セルバ流に少量の料理を小皿で数種類注文してビールを飲みながらつまむ。ハンバーガーやピザもあるが、地元民が食べている物と同じ料理を選ぶと確実に外れがない。マイロは食生活にあまりこだわらない方だったが、セルバに来てからは、食べることより味わうことが楽しくなってきた。エル・ティティは肉料理や青いバナナの料理が多く、魚料理はなかった。
 食事中、地元民が数人話しかけて来た。どこから来たのか、どんな仕事をしているのか、エル・ティティの印象はどうか。ありきたりの質問だ。そしてマイロがアメリカ人でグラダ大学で働いていると答えると、ほぼ全員が同じことを尋ねた。

「テオドール・アルストを知っているかい?」

 どうやら帰化したアメリカ人はこの街の超有名人らしい。だが、こんなちっぽけな街に、どうしてアメリカ人が住み着いたのだろう。それを尋ねると、また返答は誰もが同じ内容だった。

「それは、彼がこの街を好きになったからさ。」

 遺伝子学者はきっとバックパッカーか何かで、旅行の途中にこの街に立ち寄ってそのまま足を止めたのだろう、とマイロは考えた。
 食事が終わった時は既に午後10時を過ぎていた。セルバでは遅い時刻と言うことでない。小さな街の短い通りはまだ賑やかだった。しかし運転の疲れもあったし、翌日はオルガ・グランデまで運転するので、マイロとチャパは気の良い住民達と別れて、宿に向かった。
 「ホルヘの宿」の前に警察官が立っていた。年齢は50代半ばから60前半か?がっしりした体格で、日焼けした顔が街灯に照らされていた。着ている制服には金星や勲章の様な飾りが付いていた。平の巡査ではあるまい。マイロは「今晩は」と声をかけた。

「今晩は」

と警察官が答えた。

「こちらに宿泊しているアメリカ人とは、貴方ですか?」
「スィ、アーノルド・マイロです。」

 マイロはチャパを見た。

「こちらは僕の助手でセルバ人です。」

 チャパも自己紹介した。

「ホアン・チャパです。グラダ大学の医学部院生です。マイロ先生の助手をしています。」
「アケチャ?」
「スィ。」

 アケチャ族はセルバ共和国東部に住む部族で、多くのメスティーソ住民はアケチャ族の末裔だ。セルバ人は互いの家族の詮索をしない割に、どの部族の出身かと言うことは尋ねることがある。警察官は周囲をぐるりと見回した。

「この街はティティオワの子孫の街だ。だがアケチャの血も流れている。だから貴方は親戚だ。」

 チャパが右手を左胸に当てて、先住民の言葉で挨拶した。マイロはセルバへ来てから数回似たような光景を見たことがあった。彼の目には全部同じに見えたのだが、チャパが言うには、若輩者が目上の者へ挨拶する仕方、対等の立場で挨拶する仕方、族長や長老などの偉い人同士が挨拶する仕方、それぞれ異なっているのだそうだ。もしかすると言葉が違うのかも知れないが、彼は覚えられなかった。耳にする機会が少な過ぎた。
 多分、今のチャパの挨拶は若輩者から目上の者へのやり方なのだろう、と思った。警察官は「うん」と頷いた。そしてマイロに向き直った。

「私の倅がグラダ大学で働いています。倅は貴方に会ったことはないがお噂は耳にしていると言っていました。」

 つまり、「倅」に電話をかけてマイロの身元調査をしたのだ。マイロは少し不愉快に感じた。警察官はマイロを眺めながら言った。

「気を悪くされたと思います。だが、こちらにはこちらの事情があります。」

 警察官が続けて何かを言おうとしたのに、それをチャパが遮るように口を挟んだ。

「まさか、また反政府ゲリラが活動を始めたんじゃないでしょうね?」

 警察官が微笑んだ。意味不明の微笑だ。

「ゲリラは最近出没していません。しかし、野盗はたまに現れますからな。こちらには数日の滞在ですか?」
「ノ、明日にはオルガ・グランデに向けて発ちます。」

 マイロの言葉に、彼は「そうですか」と呟いた。

「山道を車で走っている時に、道端で呼び止めようとする人間がいても無視なさい。野盗の手先かも知れません。街に着くまで止まらないように。」

 そして、「おやすみ」と言って彼は立ち去った。
 マイロはチャパを振り返った。

「まさか、僕等を野盗の手先じゃないかと調べたのか?」
「どうでしょう。」

 チャパは肩をすくめただけだった。

 

2023/01/26

第9部 エル・ティティ        2

  どうしてもそのアメリカから帰化した遺伝子学者に会わねばならない、と言うことではなかったので、アーノルド・マイロとホアン・チャパはジューススタンドの陽気な若者と別れて散策を続けた。カリブ海沿岸ではアフリカ系の肌の黒い人は珍しくないのだが、セルバ共和国はメスティーソの比率が高いせいか、エル・ティティの様な内陸の田舎町では、マイロは目立ってしまった。どこへ行っても他人の視線を感じた。それは同伴しているチャパも同じだったらしく、彼はマイロにそっと囁きかけた。

「もし不快に感じられたら、仰って下さい。早めに晩飯を食って宿に引き上げましょう。明日はオルガ・グランデに行けると思います。向こうはましですよ。」
「何がましなんだ?」

 マイロは気を遣って欲しくなかった。母国でも保守的な色合いの強い場所へ行けば、同じ経験をするのだ。少なくともエル・ティティの住民は彼を拒絶していない。どちらかと言えば好奇心で見ている感触だった。ボリス・アキムが「人懐こい」と言ったが、マイロが抱いた感じでは、住民達は新規の旅人に恥ずかしがっている様に思えた。
 小さな町だから、散策しているうちに街外れに来てしまった。グラダ・シティやアスクラカンと違って空気が乾いている。乾燥地帯程ではないものの、過ごしやすい気候だ。

「サシガメがいるといるとしたら、民家の壁だろうな。」
「しかし他所者がいきなり訪問しても、入れてもらえません。少なくとも、さっきのジューススタンドのニイさんみたいにちょっと言葉を交わして知り合いにならないと・・・」
「あの程度で、家に招待してもらえるのか?」
「先住民でなければ、大丈夫です。」

 セルバ人は開放的だが、先住民はガードが固い。マイロは医学部で数人の先住民の学生を見かけたが、彼等は挨拶する程度で新入りの研究者に話しかけて来なかった。他の学生達がアメリカ合衆国の話を聞きたがって近づいて来るのに、連中は無関心なのだ。

「先住民の方が病気に関して情報を持っていそうだがなぁ・・・」

 マイロは細く浅い川の流れを見た。この川はアスクラカンまで流れ、そこで別の川と合流してさらに大きな川となってグラダ・シティを通り、カリブ海に流れ込むのだ。地図では単に「川」と書かれているだけだった。

2023/01/20

第9部 エル・ティティ        1

 エル・ティティの街はアスクラカンに比べるとかなり小さかった。ルート43沿いに土壁や煉瓦壁の家が立ち並び、真ん中に教会がある。ハイウェイは教会前の広場の横をかすめるように通っていた。 広場を横切ったりはしない。グラダ・シティとオルガ・グランデを結ぶ長距離路線バスはこの広場で一旦停車するらしいが、町の住民以外に乗り降りする人はいないだろう。広場には観光客や旅人の為の休憩用施設は何もなく、ただ住民が野菜や果物を持ち寄る朝市などが開かれると思われた。アキム夫妻に教えられた宿は教会の裏手の通りにあり、教会前広場からその裏通りまでの道に、地元民が利用する店舗が集まっていた。
 「ホルヘの宿」と言う小さな看板が掲げられた宿は、ホテルと言うより民宿に見えた。車は宿の前の道路脇に停めると良いと言われ、マイロとチャパは取り敢えずチェックインした。朝食は出るが夕食はないので、食事は通ってきた広場から裏通りの間の道に面した並びから飲食店を探さねばならない。
 部屋に入ったマイロは、いきなりサシガメを探し始めた。建物の外観を見ると、いかにも害虫が壁の隙間に潜んでいそうだったのだ。しかし屋内の壁は綺麗で、清潔そうだ。虫の死骸すら見つからなかった。ベッドも点検した。ノミやシラミを警戒した。毛布やシーツは洗い立てのように綺麗だった。
 隣の部屋のチャパも同じ行動を取ったようだが、空振りだったらしい。階段や廊下は古い感じだったので、夜になったら、チェックしてみようと言うことになった。
 夕刻まで時間があったので、街中を散歩することにした。サシガメは夜行性だから、昼間は物陰に隠れて出てこない。
 町の周囲はバナナ畑で、畑の南西に不活性火山ティティオワが聳えていた。斜面の下半分は緑色で、上は青みがかった黒っぽい色をした山だ。南側の山頂付近は抉れていて、それがなければ綺麗な円錐形になっただろう。
 町の住民は開放的で、他所者のマイロとチャパにも道ですれ違うと挨拶してくれた。路地に即席のジューススタンドが出ていたので、そこでパイナップルジュースを買って喉を潤した。

「どこから来たの?」

と売り子の若い男が尋ねた。

「アメリカから。今はグラダ・シティに住んでいる。」

 マイロがそう答えると、その若者は、「へぇ!」と言った。

「それじゃ、テオを知ってる?」
「テオ?」
「テオドール・アルスト・ゴンザレス。」

 すると、マイロの隣でチャパが、「ああ!」と声を上げて、マイロを驚かせた。マイロは思わず助手を振り返った。

「知っているのかい、そのテオ・・・」
「テオドール・アルスト・ゴンザレス、うちの大学の准教授ですよ。」

 若者が「スィ、スィ」と嬉しそうに頷いた。

「エル・ティティの有名人! 最近は忙しくて月に1回ほどしか帰って来ないけど、戻ってきたら必ず僕等と一緒に遊ぶんだ。」

 チャパはその准教授に関する知識を出来るだけ捻り出した。

「生物学部で遺伝子工学の教室を持っている人です。なんだか訳ありでアメリカからセルバ共和国に帰化されたんですが、アメリカの話はほとんどされないそうです。」
「テオは北米が好きじゃないんだ。」

とジューススタンドの若者が言った。

「何か辛いことがあって、故郷を捨てて来たんだよ。でもセルバで幸せに暮らしているから、みんな気にしないことにしている。」
「遺伝子工学の先生だから、原虫の遺伝子や治療法に関するヒントも研究されていないかな。」

 チャパが呟くと、若者は首を振った。

「ノ、ノ、テオはエル・ティティに息抜きに帰って来るんだから、ここでは仕事の話をしないよ。それに、こっちでは代書屋をしてるしね。」
「代書屋?」

 若者が道端の一軒の家を指差した。

「会計士のホアン・カルロスの手伝いをしているのさ。書類の作成や手紙の代書をしてくれるので、カルロスは助かってる。僕等も役所に出すややこしい書類なんかはテオに頼むんだ。」

 准教授を気軽に「テオ」と呼ぶ若者をマイロは眺めた。

「その准教授は、次はいつ帰って来るのかな?」
「いつかな? 多分、ゴンザレス署長が知ってる。テオのセルバでの親父さんだから。」


2023/01/18

第9部 ボリス・アキム       8

  明日はオルガ・グランデに向かって出発すると告げると、ボリス・アキム夫妻は寂しそうな顔をした。アメリカ人のマイロや息子と同年代のチャパと別れるのが寂しいのだ。

「しかし、アスクラカンにシャーガス病の原虫はいないと言うことですね?」
「原虫を媒介するサシガメが見つからないと言うことです。」

 マイロとしてはアスクラカン中のサシガメを採取したいが、それは無理な相談だった。兎に角、虫そのものが見つからない。中南米でこんな清潔な街があるだろうか。少なくとも、ハエや蚊はいるのだが街中ではあまり見かけない。だから露店でも生物を平気で販売している。グラダ・シティの方がもっと雑然としていた様な気がした。

「オルガ・グランデへ直行する前に、エル・ティティに立ち寄られてはいかがです?」

とアキムが提案した。

「エル・ティティですか?」

 地図に載っている街だ。ルート43が通る町でアスクラカンの次に大きいが、グラダ・シティの人々の話では、「町の機能が整っている村」と言う見識だった。
 アキムが頷いた。

「建物は庶民的な土壁や煉瓦壁が多い。住民は人懐こい。それに、多少は設備が整った病院があって、医者達と専門的な話も出来ます。少なくとも、アスクラカン市民病院よりは、話をまともに聞いてくれますよ。」

 マイロが頷くと、せレーヌが「でも」と言いかけた。そして夫の表情を窺った。アキムが微笑して頷いたので、彼女は続けた。

「宿泊出来る場所は一ヶ所だけです。満室はあり得ないと思いますが、もしいっぱいだったら、教会に行って下さい。神父がなんとかしてくれます。」


2023/01/16

第9部 ボリス・アキム       7

  翌日の朝からマイロとチャパはアスクラカン市街地の南半分で昆虫採集を始めた。吸血をするサシガメは人家の壁に住み着くので、空き家を探しても意味がない。住民がいる家で、出来れば裕福でなさそうな家庭、と言えば失礼になるのだが、土壁を使った家屋を探して、外側から出来るだけ隙間などを探した。のんびり屋のセルバ人も流石に彼等の行動に不審を抱いたのか、昼ごろに警察が現れた。

「何をしているんです?」

 捕虫網と飼育容器を抱えた2人の男に、警察官はパトカーを停め、車から降りて声を掛けて来た。両手を腰に当てている。何か不審な動きがあれば拳銃を抜けるようにしているのだろう。マイロは捕虫網をそばの壁に立てかけた。そして、「身分証を出します」と言った。チャパには少し待てと言い、彼はゆっくりとポケットからグラダ大学の職員I Dを出した。

「パスポートは宿にありますが、要りますか?」

 警察官は彼の身分証を眺め、それからそれを持ったままチャパを見た。それで、チャパもゆっくりと身分証を出した。

「大学の研究者?」

と警察官が確認の意味を込めて尋ねた。マイロは頷いた。

「スィ。伝染病を媒介する恐れがある昆虫を探しています。ただ、この街ではまだそれらしき虫がいないので、探しあぐねているところです。」

 チャパが陽気な声で尋ねた。

「虫に刺された後で心臓疾患に罹ったりした人の話を聞いたことはありませんか? サシガメに刺された後ですが・・・」

 警察官がフッと笑った。

「お祓いを受けて建てた家には、そんな虫は寄り付かない。セルバの常識だろうが。」

 マイロが何か言う前に、チャパも笑った。

「ですよね!」

 警察官は彼の上司らしいマイロに向き直った。

「伝染病を探しているなら、このアスクラカンじゃなく、オルガ・シティに行った方が良いですよ。あっちは広いし人口も多い。”シエロ”だって面倒見きれないでしょう。」

 マイロはポカンとして警察官がパトカーに乗り込んで走り去るのを見送った。
 チャパが声を掛けた。

「先生、お巡りさんの言う通りですよ。この街はがっちり守られています。オルガ・グランデに行きましょう。」

 マイロは彼を振り返った。

「”シエロ”って何だ?」

 チャパが肩をすくめた。

「セルバの守り神です。古代のね・・・」


2022/12/12

第9部 ボリス・アキム       6

 「もし差し支えなければ、奥様もこちらのテーブルにお呼びして構わないでしょうか?」

 マイロが訊くと、アキムは首を振って、隣室の妻に声を掛けた。

「せレーヌ、こっちへ来ておくれ。」

 セレーヌが同席していた使用人達に断って、食堂へ入って来た。夫の隣の空いた席に着いた。マイロとチャパは改めて彼女に挨拶した。それでセレーヌも挨拶を返した。セルバ流に右手を左胸に当ててする挨拶だ。

「妻はアケチャ族のメスティーソです。」

とアキムが紹介すると、チャパが頷いた。

「僕もです。アケチャ族はセルバの東海岸から内陸に分布している先住民です。僕はグラダ・シティで生まれ育ちました。」

 セレーヌは夫をチラリと見て、自由に喋っても構わないことを確認でもしたのだろう、やっと普通に客に向かって口を開いた。

「私はアスクラカン出身です。でも早い時期にグラダ・シティの学校に送られ、そこで教育を受けて医療に従事することになりました。故郷に戻ったのは、夫と知り合ってからです。親族とは付き合いがありますが、友達はみんなグラダ・シティにいます。ですから、街のこちら側はよく知っていますが、旧市街や北部のことはあまり馴染みがありません。もし、シャーガス病の調査で市北部に行かれる場合は、知人を紹介させて下さい。」

 地方訛りがない首都で使われているスペイン語で彼女は喋った。夫と普段会話している言葉なのだろう。地元民と話す時は、地元方言を話すのかも知れない。セルバ人の中年女性はぽっちゃり体型が多いが、セレーヌは都会派らしく、スリムで化粧も垢抜けていた。
 マイロは一見愛想なしに見える彼女の好意的な言葉だと解した。

「いや、昆虫を探すのが今回の目的なので、病気の発症例などは病院で聞いてみます。昆虫は民家の壁などにいるもので・・・」

 アキムが遮った。

「いや、案内人がいる方が安全です。」
「安全?」

 アキムとセレーヌが視線を交わした。アキムがマイロに向き直った。

「アスクラカン市北部の先住民の中にはちょっと閉鎖的な思想の人々がいます。同じ部族でも南部の住民は開けていて、他部族や異人種、外国人を好意的に受け入れてくれますが、北部の住民達はかなり警戒心が強いのです。外国人を攻撃することはないと思いますが、その、失礼ですが、貴方の肌の色が・・・」

 マイロは溜め息をついた。

「目立つのですね?」
「スィ。グラダ・シティや東海岸の町村では珍しくない肌の色ですが、内陸になると保守的です。白人もあまり歓迎されません。」
「あの人達だけです。」

 セレーヌが言い訳するかの様に口を挟んだ。

「3つか4つの家族が保守的なのです。ただ、その家族が財政的にも政治的にもかなり力を持っているので、北部地区の住民達は逆らわないのです。他所者が案内なしに足を踏み入れると、忽ち監視されます。手を出さなくてもジロジロみられるのです。早く川を渡って帰れと無言の圧をかけられます。本当に不愉快なんです。」

 アキムが無理に笑顔を作った。

「北部地区は狭い範囲ですから、川の南側の方が資料を集めるのに適していますよ。案内が不要と仰るなら、南部だけにして下さい。アメリカから来られた方にアスクラカンの恥ずかしい部分を見せたくないのです。」

 ああ、とチャパが声を出したので、マイロはそちらを見た。チャパが肩をすくめた。

「アスクラカン出身の学生仲間からも同じ話を聞いたことがあります。なんだか小説が書けそうな謎に満ちた家族だそうですよ。結婚も自分達の親戚の間で行うので、南部の同じ部族の家族とは付き合いが殆どないそうです。」

 先住民を怒らせてはいけない。セルバ共和国に入る前に、亡命・移民審査官からそんな忠告を受けていたっけ。マイロは素直に「わかりました」と答えた。

2022/12/11

第9部 ボリス・アキム       5

  ボリス・アキムはちょっと謎めいた微笑みを浮かべた。

「お2人は私がロシア人だと思っていらっしゃいますね?」
「スィ・・・街の食堂でそう聞いて来ました。」
「違うのですか?」

 マイロとチャパが戸惑いの表情になったので、アキムは笑った。

「祖父母はロシアからの移民です。だが、私はアメリカで生まれました。ニューヨーク出身ですよ。」
「え? アメリカ人なんですか?」

 マイロはびっくりした。アキムのスペイン語が完璧なので、中米生まれのロシア系住民だと思っていた。アキムはビールをグッと喉に流し込んでから、続けた。

「両親の親達はロシア出身です。私が生まれた頃はまだソ連だったかな・・・亡命と言うか、兎に角第二次世界大戦の前後にロシアを逃げ出してアメリカに渡って来たそうです。私はロシア系移民の3世として育ちました。だから、ロシア語は話せないんですよ。親の世代も殆ど英語で通していましたから。だけどロシア系のコミュニティの中で暮らしていたので、キリル文字を読んだり、多少の単語などは理解出来ます。私は高校に入る頃にコミュニティを出たくて、親に無理を言って全寮制の学校に入りました。コミュニティは貧しい家庭が多くて、嫌だったんです。犯罪に関わる人もいてね・・・」

 マイロは理解出来た。アフリカ系のアメリカ市民も同じだ。彼の実家は裕福で、彼は希望する医学の道に進めたが、マイノリティには違いない。
 アキムはまたビールを飲んだ。

「奨学金で大学に入り、医学を学びました。開業出来る金銭的余裕はありませんでしたから、研修で行った病院でそのまま働いていたのですが、中米の病院で働かないかと言う誘いがあったのです。まだ医師免許を取って2年目のことでした。聞いた限りでは条件が良かったので、応募したんです。しかし・・・」
「想像していたのと違ってました?」

とチャパがニッと笑って言った。アキムが苦笑した。

「スィ。設備も薬剤もお粗末で、だけど患者は多い。医者達はふんぞり返って治療は適当、私が勉強して行ったスペイン語ではなかなかコミュニケーションが取れなくて、ホームシックになりました。その頃に妻に出会ったのです。」

 彼は隣室の妻を見た。

「せレーヌはセルバ人で看護師の修行に外国に出ていたのです。彼女もその国の医療の実態にうんざりしていて、私とよく愚痴を話し合いました。私のスペイン語はお陰で上達したのですが・・・」

 彼はクスクス笑った。

「彼女がセルバに帰国すると言うので、私は勤めを辞めて、彼女について来ました。就労ビザを取らなかったので、観光ビザで・・・所謂不法滞在で違法就労です。彼女が戻った病院で臨時雇いの医者として働き出しました。」

 マイロはびっくりした。それではボリス・アキムは密入国扱いになるのではないか? 彼が驚いた表情をしたので、アキムがニヤッとした。

「私がやばい立場にいるとお考えですね?」
「違うのですか?」
「確かに、最初の1年間はいつ捕まるかとビクビクしていました。しかし、ある日、当時働いていた病院に大統領警護隊がやって来たんです。」

 アキムはマイロに念を押す様に尋ねた。

「ご存知ですよね、大統領警護隊のことは?」
「あ・・・大統領府の隣に本部があって・・・」
「この国に入国する時に、面接を受けたでしょう?」
「スィ・・・亡命・移民審査官に・・・」
「あの役職は、大統領警護隊の隊員が就くのです。つまり、病院に来た隊員は、正に亡命・移民審査官でした。私が何者か、何をしているのか調査に来たのです。」

 アキムは遠くを見る目をした。

「彼等は私に色々な質問をしました。私の出身地、家族、学歴、職歴、そしてセルバでの活動、根掘り葉掘り聞かれました。そして最後に、いつアメリカに帰るのか、と質問されました。」

 彼は視線をマイロに戻した。

「私は、帰るつもりがないことを告げました。その時、私はもうセレーヌと離れられなくなっていました。彼女のお腹には私の子供がいました。病院も私を頼りにしてくれていました。祖国アメリカでも任地の国でも、私は必要とされていなかった。しかし、セルバでは私を必要としてくれる。私の居場所はここしかないと思いました。私は、セルバ共和国に帰化を申請しました。永住権が欲しいと言ったんです。」

 アキムは当時のことを思い出したのか、ふっと大きな溜め息をついた。

「3ヶ月間、グラダ・シティの不法滞在者収監施設に入れられました。そこでは他の収監者達の健康管理を任されました。その間にきっとアメリカ政府とセルバ政府の間で私の処遇について話し合ったのでしょう。私は釈放され、1年間グラダ・シティの病院で働くことを命じられました。1年間、首都から出てはいけないと言われ、せレーヌと電話でのみ接触を許されました。彼女がグラダ・シティに行くことも1年間禁止されたのです。彼女が言うには、不法滞在者を隠していた罰だと言うことでした。」
「試されたんですよ。」

とチャパが言った。

「本当に貴方と奥さんがこの国で暮らしていく決心をしていることを。もし奥さんを首都に行かせて、夫婦で外国へ逃亡しちゃったら大統領警護隊の面目丸潰れでしょ?」
「そう思います。」

とアキムが笑った。

「1年間会えませんでしたが、せレーヌは出産して、私を待っていてくれました。子供は男の子で・・・今はアスクラカンの市民病院で働いています。」
「それじゃ、ハッピーエンドなんだ!」

 チャパが嬉しそうに声を上げ、マイロも笑顔が出た。アキムもニッコリした。

第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...