2023/02/17

第9部 セルバのアメリカ人      2

  マイロは微生物研究室の人々に、シャーガス病に感染した臓器を回復させる薬を研究している人はいないか期待して、セルバ共和国へ来た。しかしセルバ共和国には感染症例が極めて少なく、病気の研究者そのものがいなかった。僻地では患者がいたのだが、報告されていないのだ。グラダ大学で研究を続けても無駄だと感じた。家屋を消毒してサシガメの侵入を阻止するだけしか予防策がない。トリパノソーマ・クルージを殺す薬剤はある。高価なので開発途上国の庶民にはなかなか手が出ない。

 僕の仕事は、安価な薬の開発に繋がる原虫の研究だな・・・

 国立感染症センターに戻って研究を続けよう、と決心した。本国にその旨を伝えると、大学の次の学期が始まる迄待てと言われた。大学との契約があるのだ。
 それなら待ち時間を利用してトリパノソーマ・クルージの遺伝子分析をもう一度じっくり勉強しようと思った。そして、グラダ大学生物学部遺伝子工学科のテオドール・アルストのことを調べてみた。だがどうにもよくわからない人物だと言う印象をネットデータから得ただけだった。
 テオドール・アルストは5年前に突然アメリカから移住して来た。移住や帰化した理由は一切ネットでは拾えなかった。いきなりグラダ大学の生物学部に採用され、遺伝子学者として講師から准教授へと進んだ。遺伝子マップの解析に非常に優秀だと言う話だが、何か大きな発見をした訳ではない。ただ何百年も経ったミイラの遺伝子を分析して、性別のみならず出身部族まで読み解いてしまうところは、他の遺伝子学者には出来ない芸当だった。さらに遺伝子からその人物や生物の個体が持つ特徴、個性まで分析してしまえるのだ。
 こんな才能を持ちながら、何故この准教授は無名なのだろう。
 マイロは大学の内線電話の番号を押してみた。

ーー准教授テオドール・アルスト・ゴンザレスの研究室です。

 若い女性の声が聞こえた。多分秘書か助手だ。マイロは名乗り、准教授と面会したいと伝えた。すると女性が言った。

ーードクトル・アルストは、今日朝から東パスカル公園の池に学生達と共に蛙を捕まえに行っています。帰りは未定です。

 マイロは時計を見た。

「昼には戻られますか?」
ーー午後には戻られるでしょうが・・・

 女性はのんびりと言った。

ーー多分どこかで泥を落として食事をされてシエスタになさる筈ですから、もしかするとそのまま帰宅されるかも知れません。

 悠長だな、とマイロは思った。アルストはアメリカ人じゃなくセルバ人になりきっている。

「君はそこで留守番しているの? 夕方迄?」
ーー私は定時になれば帰ります。

 そして女性はマイロにアドバイスした。

ーー東パスカル公園に行かれたら、ドクトル・アルストに会えますよ。アポなしでも大丈夫です。公園ですから、誰でも行きます。


2023/02/16

第9部 セルバのアメリカ人      1

 グラダ大学に戻ると、マイロは忙しかった。先ず、旅行のレポートを医学部微生物研究室の室長ベンハミン・アグアージョ博士に提出しなければならなかった。さらに文化・教育省にも国内旅行が終了した報告を怠る訳にいかなかった。その前に、盗まれたクレジットカードの処理をカード会社に連絡し、新しいカードを作ってもらう手続きをしなければならなかった。パスポートは戻って来たが、もしかするとコピーされて悪用されるかも知れない。アメリカ大使館にも連絡を入れておいた。銀行にアクセス出来るようになると、真っ先にホアン・チャパに立て替えてもらった旅行費用を返済した。大学から一部の費用は出る筈だが、それがいつになるか見当がつかなかったので、チャパには出してもらった全額を返したのだ。
 寮友のアダン・モンロイにお守りを返して、役に立ったと告げると、モンロイは真面目な顔で話を聞いてくれた。

「僕の先祖は大昔に神と友達になったそうだ。その神がこの世から去って行く時に、僕の先祖にこの牙をくれたんだと、と言う話が家に伝わっている。」
「君の先祖はジャガーと友達だったのかい?」
「神様はジャガーなんだ。」

 モンロイはマイロの狭い部屋で、彼のベッドに腰掛けてビールを飲んでいた。ビールは彼の差し入れだ。

「この国では、森に住んでいるジャガーやマーゲイやオセロットは神様なんだ。ピューマも神様だけど、ピューマは恐ろしい神で、審判を行うと言われている。彼等を怒らせちゃいけない。」
「よその国の伝説や神話を馬鹿にするつもりはない。」

 とマイロは言った。

「でも呪いを信じて、防疫を疎かにするとシャーガス病などの厄介な病気に罹る。君も気をつけろよ。」

 すると、モンロイが首を傾げた。

「同じアメリカ人でも、君とドクトル・アルストは正反対だな。」
「ドクトル・アルスト?」

 名を口にしてから、マイロは思い出した。生物学部で遺伝子工学を教えている准教授だ。確かアメリカから帰化したと誰かが言っていたな。モンロイが窓の外に目を向けた。文化系や理系の、医学部以外の学部がある方角だ。

「アルストはセルバ人の信仰を迷信と片付けずに、真面目に受け容れるそうだ。それに彼はロス・パハロス・ヴェルデスと友達だからな、神様に守られている人って先住民の学生達は呼んでいる。」



2023/02/15

第9部 古の部族       21

  翌日、マイロはオルガ・グランデを出た。所持金を盗まれたし、セルバ共和国にシャーガス病が存在しないと言う伝説が嘘だと判明したからだ。アメリカへ報告されていたのは、東部の清潔な都会での話だった。郊外に出れば、病気は存在したし、患者も死者もいたのだ。
 帰りも車だった。ただ、同乗者が一人増えた。グラダ・シティに行くから乗せてくれと頼んで来た兵士がいたのだ。胸に緑色の鳥を象った徽章を付けた軍服姿の若い男だった。メスティーソだったが、チャパが大統領警護隊の隊員だと教えてくれた。太平洋警備室所属ブラス・オルニト少尉、と兵士は名乗った。

「本来は空軍の航空機で本部へ一時帰還する予定でしたが、空軍の整備が遅れているので、車で帰還することにしました。バスは週末にしか走らないので、便乗を願います。」

 「願う」と言っているが、この国で軍人に物を頼まれて断る人間はいない。最初から「乗せろ」と要求しているのと同じだ。チャパが囁いた。

「承諾して下さい。エル・パハロ・ヴェルデが一緒に居れば、どんなトラブルにも巻き込まれずに済みます。」

 生きている魔除けか、とマイロは思った。

「当然、ガソリン代は出ないんだろうな?」
「向こうは公務なので、普通は出ません。」

 微生物の研究も公務なのだが、と思いつつ、マイロは若い兵士を後部席に乗せた。兵士の荷物は足元の床に置かれた。しっかりアサルトライフルもあったので、マイロは余り良い気持ちがしなかった。
 道中、オルニト少尉は静かで、全く話しかけてこなかった。マイロがチラリと後ろをミラーで見ると、彼は寝ていることもなく只窓の外の風景を眺めているだけだった。
 往路と同じくバス事故の現場に来ると、チャパが車を停めた。短い祈りを捧げ、マイロが先に目を開けて後ろを見ると、兵士も殊勝に祈っていた。
 エル・ティティで水とガソリンを補給した。マイロは全てチャパに立て替えてもらっていたので、使用した金額をきっちりメモしておいた。
 夕刻、アスクラカンに到着した。宿を探さなければならない。するとオルニト少尉が携帯電話でどこかにかけて、それからチャパに道を教えた。

「もしかして、アスクラカン出身ですか?」

とチャパが尋ねると、少尉は「スィ」と答えた。

「乗せてもらった礼に、私の実家で泊まってもらおうと思うが、かまわないですか?」
「グラシャス。」

 思いがけず宿代がただになった。マイロは伝統的な先住民の家を想像したが、メスティーソのオルニト少尉の実家は普通の庶民が暮らす住宅地にある、普通のコンクリートの家だった。息子同様に口数の少ない父親と、陽気な母親はどちらもメスティーソで、突然の客を温かくもてなしてくれた。
 食事をしている間、オルニト親子が殆ど会話をしないことにマイロは気がついた。時々目を合わせるだけだ。しかし仲が悪い様に見えず、母親は嬉しそうだ。
 美味しい夕食で満腹になると、「狭くて申し訳ないが」と言いながら、少尉の個室で3人一緒に寝る準備が出来ていた。床にマットレスを敷いて、薄い毛布だけの寝床だが、家の中は清潔でサシガメの心配は不要だった。

「実家によく帰るのですか?」

とチャパが横になってから質問した。すると、初めて少尉が恥ずかしそうに笑顔を見せた。

「ノ、2年ぶりです。本当は航空機で帰る予定だったので、この帰省はない筈でした。しかし、飛行機が飛べないとわかり、太平洋警備室に報告すると、上官から、誰かの車に便乗させてもらえと指示がありました。その時、彼が言ったのです、途中アスクラカンで宿泊するようなら、実家に立ち寄って構わない、と。」

 厳しい表情しか見せなかった兵士が、普通の若者に見えた一瞬だった。マイロは彼を乗せて良かった、と思った。
 翌日、朝食の後で、オルニト親子は丁寧に先住民式挨拶を交わし、マイロとチャパには握手をしてくれた。最後に母親が息子をハグして、普通に親子の情愛を見せた。
 グラダ・シティまでの道中は順調で、首都に入るとマイロはホッとした。大統領警護隊本部前で、オルニト少尉は車から降りて、丁寧に敬礼でマイロとチャパに別れを告げた。
 

2023/02/13

第9部 古の部族       20

  アンドレ・ギャラガがグラダ大学考古学部のキャンプに歩いて戻ると、敷地の端っこで石の上に座ってケサダ教授が星を見上げていた。一見物思いに浸っている様に見えたが、実際は星の角度を測っているのだとギャラガにはわかった。セルバの古代遺跡は建築される向きが決まっている。それが地下墓地にも適用されているのかどうか、教授は計測しているのだ。地下墓地は見えないが、彼の頭の中には墓所の通路や遺体を置く棚の位置がしっかり入っていて、地上にいても己がどこの棚の上にいるのかわかっている。ギャラガは素直に恩師の能力を尊敬していた。自分は今遺跡の上にいるのか否かもわからないのだから。
 彼が少し距離を置いて立って眺めていると、ケサダ教授が気がついて振り向いた。ギャラガは邪魔をしてしまったと思い、謝罪した。教授は黙って己の隣を指差した。座れと言うことだ。ギャラガは仕方なくそばへ行って石の上の恩師の隣に腰を下ろした。

「ドクトル・マイロはママコナが首都を虫の害から守護していることも、一族が地方の家を一軒ずつ守っていることも気がついていません。」
「気がつかれてたまるか。」

とケサダが苦笑した。

「虫にだけわかる微量の気だ。人間は感じない。」
「鉱山会社の社長はわかっている様です。だがあの男は喋らないでしょう。」
「口が固いから今日の地位を手に入れたのだ。あの男はあの男なりに己の街を守護しているのさ。」

 ギャラガは彼を見た。

「先生はマイロが落ちて来ることがわかっていたのですか?」
「どう言う意味だね?」
「つまり・・・」

 彼は少し躊躇った。恩師を怒らせたくなかったが、素直に言わなければもっと怒られるだろう。

「誰かが彼を粛清しようとしたことをご存じだったのかと・・・」

 ハッと教授が短く笑った。

「私が連中の仕事を知る筈がない。それにあのアメリカ人は本当に只の強盗に襲われたのだ、アンドレ。偶然私が立っていたそばに通風孔があって、地上で強盗どもが話している声が聞こえてしまった。悪党どもはアメリカ人を殺すつもりだったが、彼はジャガーの牙のお守りを持っていた。だから強盗どもは彼を殺せず、仕方なく穴に捨てたのだ。直接手を下すのが怖かったのだろう。それがマイロにとっては幸いしたのだ。」
「牙のお守りですか・・・強盗を退ける力を持っている、かなり霊力の強い人の形見ですね。」

 ギャラガは首を傾げた。

「マイロは何処でそんな物を手に入れたのでしょう。」
「さぁな・・・知りたければ君が自分で彼に訊いてみると良い。」

 教授は再び空に目を向けた。

「アンドレ、ここの墓所も定型通りの向きで造られているぞ。」


第9部 古の部族       19

  アントニオ・バルデスはペンションの建物を出ると駐車場に待たせていた車に乗り込んだ。後部席に既に乗り込んで彼を待っていた人物がいた。彼にバルデスが言った。

「マイロは何も知らない。シャーガス病を媒介する虫を予防する手段を考えているだけだ。」
「それじゃ、このまま放置しておいて大丈夫と言うことですね。」

と呟いた男は、ほっと一息ついた様子だった。バルデスが尋ねた。

「君を何処まで送って行けば良い?」
「発掘隊のキャンプで結構です。まだ掘らなきゃならないので。」

 バルデスが町名を告げると、車が動き出した。 バルデスが更に尋ねた。

「学生達にマイロのことはどう説明しているんだ?」
「何も・・・」

 男はクスッと笑った。

「ケサダ教授とサンチョ・セルべラス先輩が上手く誤魔化してくれた筈です。誰もマイロのことなんか覚えちゃいません。」
「その・・・」

 バルデスは頭を掻いた。

「教授と君の先輩のことを俺は忘れた方が良いんだろうな。」
「そうですね。忘れた方が気が楽ですよ。」
「それじゃ、忘れよう。」

 オルガ・グランデの実力者が苦笑した。

「マイロも運の良いヤツだ。遺跡に落っことされるなんて。廃坑だったら、死んでいた。」
「そうですね。」

 男も笑った。

「あの教授は結構気まぐれなところがある方なので、たまたま墓所の奥まで足を伸ばされたんです。発掘現場に留まっておられたら、誰もあのアメリカ人が落ちて来る音を聞かなかったでしょう。」

 そして彼はバルデスに言った。

「貴方にスパイの様な役目を頼んでしまって、すみませんでした。グラシャス。」
「気にするな。俺はあの程度の腹の探り合いに慣れている。」

 やがて遺跡に通じる坑道の入り口に近づくと、男は「ここで」と言い、車が停止した。ドアを開いて外に出た男は、バルデスに挨拶した。

「グラシャス、セニョール。貴方の協力を少佐に伝えておきます。」
「別に恩に着せる様なことはしていない。それにこれは、本来君等の仕事じゃないだろう。」
「そうです。では、ブエナス・ノチェス。」
「ブエナス・ノチェス。」

 ドアが閉まり、走り去る車に向かって、アンドレ・ギャラガ大統領警護隊文化保護担当部所属少尉は敬礼して見送った。



2023/02/11

第9部 古の部族       18

  マイロはバルデスの申し出をどうしても素直に受け入れることが出来なかった。マフィアの首領の様に市民から恐れられている男が、市民の為に研究資金を出すと言う、その親切心が胡散臭く感じてしまった。

「大変有り難いお話ですが、私個人が援助を頂くことは出来ません。私はアメリカ合衆国の研究者の一人として来ている訳で・・・」
「賄賂の様に聞こえたのなら、申し訳ない。」

とバルデスが笑みを浮かべた。

「個人で受け取るのが無理でしたら、グラダ大学医学部へ寄付の形で資金を提供しましょう。それなら貴方の本国も我が国の文化・教育省も文句を言わないでしょう。」

 大学への寄付か。マイロはそれで折れることにした。恐らく大学は断らないだろう。全額がマイロの研究に充てられるとは思えないが、援助はあった方が良い。彼もバルデスに微笑で答えた。

「有り難うございます。」

 コーヒーが運ばれて来た。芳しい香りを嗅ぎながら、マイロはその日の朝からの出来事を思い返した。ペンディエンテ・ブランカ診療所を訪問してメンドーサ医師から呪い師の話を聞いた。そして呪い師に会えるツテを探してスラム街を歩いている時にひったくりに遭った。犯人を追いかけて走り、角を曲がったところで後ろから襲われたのだ。そして穴に捨てられ、地下遺跡を発掘中の考古学者達に偶然救助された。随分昔のことの様に思えた。

「ところで、セニョール・バルデス、貴方は呪い師がサシガメから住民を守る御呪いをする話を聞いたことがありますか?」

 バルデスが笑った。

「サシガメと言うより、病気から住民を守るのです。迷信です。本当に力を持つ呪い師なんて滅多にいるもんじゃありません。」

 彼は腕時計を見た。

「そろそろ私はお暇します。どうぞゆっくり休んで下さい。このペンションの費用は会社が出しますから、ご遠慮なくバルでもジムでも使って下さって結構です。」

 彼はマイロとチャパに握手して食堂を出て行った。彼が出て行くと、チャパがふーっと息を吐いた。

「緊張した・・・」
「大物だもんな。」

とマイロが笑うと、助手はふくれっ面をした。

「先生はあの男の評判をご存知ないから、呑気に会話出来たんです。」
「どんな評判だ?」

 チャパはそっと周囲を見回した。他のテーブルの客はお喋りに夢中だ。

「彼自身が言ってたでしょ、先代に拾われたって。ただの孤児だった男が、大企業の経営者にのし上がったのは、単に先代に気に入られたからじゃないです。彼自身がライバルを蹴落として、幹部になって、先代の腹心にまで出世したからです。蹴落とす方法がどんなものか、ここじゃ言えません。誰が聞いているかわかりませんからね。でもオルガ・グランデの市民には常識みたいな噂です。それに先代の亡くなり方も異常だったと聞いています。屋敷の使用人は怖がって誰にも言わないそうですが・・・」
「何だ、それは? 要するに誰も知らないことを、みんな怖がっているのか?」

 チャパは黙って目をパチクリさせた。

「そう言えばそうですね・・・僕も実際のところ何も知りません。」

 マイロが噴き出したので、彼も笑った。

2023/02/10

第9部 古の部族       17

 「私は医学には疎いし、高等教育を受けたこともありません。先代に拾われて、会社の経営のノウハウを叩き込まれた時に、教養として多くのことを少しずつ勉強させられた程度です。まぁ、先代が一番力を入れて教えてくれたことは、いかに人間を動かすかと言うことですがね。」

 バルデスが語り始めた。

「貴方が研究されているシャーガス病は知っています。中南米では珍しくない厄介な感染症ですな。私どもの鉱山では外国人労働者も多く働いています。その中にはセルバ国外でサシガメに刺されてあの忌々しい病気に感染したことを知らずにやって来る者が少なくありません。発症して、初めて自分に何が起きているのか知るのでしょう。アンゲルス鉱石は、先代のエンジェル鉱石時代から陸軍病院や市民病院に寄付をして、労働者の健康管理に気を配ってきました。しかし、あの病気は、労働者が医者にかかる頃にはもう手に負えない。薬剤は高価で治療に時間がかかります。労働者階級では治癒は無理なのです。」

 マイロはつい口を挟んでしまった。

「セルバ人の発症例は少ない様ですが・・・」
「東部では滅多に出ないだけです。向こうには・・・」

 バルデスは何かを言いかけて止めた。そしてオルガ・グランデの話に戻した。

「一応オルガ・グランデ市当局は年に1回市内の家屋の消毒を行なっています。昔疫病が流行って国全体で多くの死者を出してから、政府の方針なのです。費用は市民持ちですが、そんなに高価ではないので、比較的多くの市民が申し込んで消毒してもらっています。シャーガス病が標的の消毒ではないが、運よくあの虫も防げる様なのです。だからサシガメとか言う虫は、市街地では見かけません。しかし、スラム街は別です。住民は貧しく、市の援助があっても申し込む金銭的余裕がありません。ボランティア団体も治安が比較的良い地区にしか入らない。貴方が強盗被害に遭ったペンディエンテ・ブランカ地区などは論外です。」

 ああ、とマイロは納得しかけた。消毒と言う国全体の方針があるのか。しかし大学では耳にした記憶はないのだが。チャパを見ると、助手は黙って食事を続けていた。オルガ・グランデの有力者の話にうっかり割り込んで逆鱗に触れたくないのだろう。

「貴方が研究されているサシガメを防ぐ有効的な手段が、安価で為されるなら、この国は大歓迎です。そう言う国の役に立つ研究をされている方が、この国で強盗に遭われたと聞いて、私は情けない気持ちになったのです、ですから、これは私から貴方の研究への支援です。もしよろしければ、貴方がこの国に滞在中の資金援助をさせて頂きたい。」
「嬉しいのですが・・・貴方の会社に直接の見返りはないでしょう。」
「労働者の健康管理に使用する金を考えたら、大したことはありません。」

 バルデスは沈んだ表情をして見せた。

「セルバ人労働者は外国人労働者に病気が発生すると、その坑道で働くのを嫌がるのです。自分達に移りはしないかとね。消毒の必要がない病気でも坑道を消毒して安全だと言い聞かせなければなりません。その費用は馬鹿にならないのです。」





第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...