2024/02/18

第10部  粛清       5

  ケツァル少佐と別れたアンドレ・ギャラガ少尉はバス停に向かって走った。セルバ共和国の路線バスの運行は、首都に関して言えば概ね時刻表通りに運んでいる。ギャラガは官舎の夕食の時間に間に合わせたかった。食事をして通信制大学の課題に取り組む時間が欲しかった。

 そうか、官舎を出ればバスで往復する時間も消灯時間も気にしなくて済むんだ。

 ”ヴェルデ・シエロ”は照明がなくても書籍を読める。それでも写真などの色彩は照明の下で見たかったし、大部屋の他の隊員達に気を遣わずに勉強するのも良いだろう。
 バス停に着くと、すぐに大統領府行きのバスがやって来た。首都の中心地で飲食店街から外れるので、夕刻にこの方向のバスに乗る客は多くなかった。列の前の方にデネロス少尉がいるのが見えた。彼女も官舎組だ。女性なので、アスルは同居を誘っていない。彼女が官舎を出る出ないは彼女自身がその気になったら決めるだろう。

 女性も同じ大部屋だ。彼女の方が独立したいんじゃないのかな。

 列が動き出し、並んでいた客が乗り込み始めた。ギャラガは最後尾で、彼が乗り込むとすぐにドアが閉まった。空いている席を探して車内を見ると、デネロスが彼に気づいて手を挙げた。隣席が空いていたのだ。ギャラガは「グラシャス」と言って、先輩の隣に座った。

「明日は今季の発掘許可決定の最終選考日ですね。」

 ギャラガが囁くと、デネロスは頷いた。

「最近選考を通る団体が固定されてきましたね。」
「アンティオワカはまだどこの団体とも決まっていないわ。フランス隊の不祥事の後、閉鎖されたままだから。」
「ミーヤ遺跡の日本隊がそろそろアンティオワカへ希望を申請する頃だと思いましたが、今季は出しませんでしたね。」
「ミーヤの発掘が完全に終わっていないからよ。日本隊は予算の都合上、一度に複数の遺跡を掘ったりしないの。エジプトやアンデスの遺跡と違ってセルバの遺跡にはスポンサーが少ないのよ。」

 2人でボソボソと仕事の話をしていると、出発してから3つ目のバス停が近づいて来た。後ろの座席から立ち上がった気の早い男の客が通路を歩いて2人の横を通り過ぎた。するとデネロスの斜め前の席にいた男も立ち上がった。先に席を立った客の背後について行く。
 ギャラガは不意に空気が少し震えた様な気がした。誰かが”気”を使った? 直後にデネロスが声を出した。

「駄目よ!」

 周囲の乗客が彼女を振り返った。ギャラガも彼女を見た。先に立った男も彼女を振り返った。彼の背後に立った男は振り返らなかった。
 デネロスがギャラガに顔を向けて言った。

「特定の団体に便宜を図ったりしては駄目よ。」

 なんのこと? とギャラガは一瞬ポカンとして先輩少尉を見返した。デネロスが”心話”で事情を説明した。

ーー誰かが”操心”を使おうとしたから止めた。
ーーもしかして、あの前に立っている男ですか?
ーー多分。標的はその前にいる男。

 ミックスで白人の血が混ざっていてもマハルダ・デネロスは”ヴェルデ・シエロ”で2番目に強い部族ブーカの娘だ。そしてギャラガが最強の部族と呼ばれたグラダ族だ。2人はブーカやグラダより弱い力を持つ部族が強力な力を使えば、察知することが出来た。
 バスが停車した。最初に立った客が降車し、バスから出た途端に走り出した。後から立った客も降りたが、追いかけずに反対方向へ歩き出した。
 バスが動き出した。ギャラガは歩道を歩く男がバスの窓越しにこちらを睨みつけるのを見た。純血種の”ヴェルデ・シエロ”だ。

ーー”砂の民”じゃないですか?
ーーそうだとしたら、逃げた方は密猟者ね。

 

2024/02/17

第10部  粛清       4

  その日の夕方、勤務を終えて庁舎から外へ出たケツァル少佐は、アンドレ・ギャラガ少尉が階段の下で彼女を待っていたので、少し驚いた。夕食を共にする約束をしていなかったし、仕事中彼から何も意思表示がなかったので、部下が待っていると予想していなかった。

「少しお時間を頂けますか?」

とギャラガが遠慮勝ちに声を掛けてきた。彼女は他の部下達が既に銘々帰宅にかかっていることを確認した。これはギャラガ単独の誘いだ。彼女は無言で頷くと、カフェ・デ・オラスを顎で指した。

「そこで良いですか?」
「スィ。」

 2人はカフェに入った。夕食時間までにはまだ早く、お茶の時間はとっくに過ぎている。カフェはそろそろバルが開くのを待つ客が増える時間だった。テーブルに着くと、少佐がコーヒーを2人前注文した。部下の希望は聞かなかった。ギャラガも特に希望を言わなかった。

「それで?」

と少佐が声をかけた。ギャラガは率直に相談を始めた。

「クワコ中尉が、私に官舎を出てマカレオ通りの家で同居しないかと言って下さいました。」

 少佐が尋ねた。

「何か問題でもあるのですか?」

 ギャラガは躊躇った。

「私は普通の家に住んだことがありません。」

 少佐は数十秒間彼を見つめ、やがてプッと吹き出した。

「普通の家に住むのが不安なのですか?」
「不安ではありません。」

 ギャラガはちょっと赤くなった。意気地なしと思われたくなった。

「ただ・・・規律がない場所で寝起きする習慣がないので・・・監視業務や出張の時は時間を守ることや、面会する人との約束がありますから、行動の目的があります。官舎の様に食事や入浴や清掃や運動の時間が決まっています・・・」
「アスルと同居すれば、掃除や入浴の順番があるでしょう。炊事は彼が独占するでしょうけど。」
「でも、自由時間があり過ぎるでしょう?」

 ケツァル少佐は目の前の男がまだ本当に自由に生きることを知らないのだと気がついた。幼少期、彼は唯一の肉親だった母親に育児放棄されて一人で物乞いをして生きていた。やがて生きるために(誰かの入れ知恵で)年齢を偽って軍隊に入り、ずっと軍律の下で成長してきた。休暇を与えられても何をして良いのかわからず、一人海岸で海を眺めて過ごすことしか知らなかったのだ。

「自由時間は好きに過ごすものです。貴方は大学の勉強があるでしょう。アスルとサッカーの練習にも行くでしょう。それが官舎の門限や時間割に煩わされることなく出来るのです。」

 彼女はキッパリと言った。

「上からの指図に従って生きるのではなく、自分のことを自分の責任で決めて行動することを学びなさい。そのためにアスルは貴方を誘っているのです。」

 ギャラガはハッとして上官を見た。アスルが同居を提案したのは、彼を教育するため? 彼に独立心を養わせるためなのか? 

「私は・・・」

 ギャラガは言葉を探した。

「これから門限に縛られることなく任務に励むことが許される・・・と考えてよろしいのですか?」

 少佐が天井へ顔を向けた。

「貴方は、仕事のことしか考えられないのですか?」
「今の私には、仕事が一番の大事です。」
「よろしい。」

 少佐は彼に視線を戻して溜め息をついた。

「それなら当分は、好きなだけ仕事をする時間が得られると考えて、官舎の外で暮らしなさい。そのうちに自分でやりたいことが出来る時間を手に入れたのだと思える様になるでしょう。」

 ギャラガが座ったまま敬礼した。アスルの提案を受け入れる意思表示だ。少佐は別の大事なことを思い出した。

「ところで、アスルは現在家主であるテオに家賃を払っています。貴方が同居するなら、家賃を折半するのかどうか、アスルと相談する必要があります。今のままだとテオと契約しているのはアスルだけですからね。」


2024/02/16

第10部  粛清       3

  食事を終えたケツァル少佐は、若い掃除夫は元気ですか、と尋ねた。テオは彼女と一緒に食器を返却口に運びながら、周囲を見回した。勿論昼食時間真っ最中のカフェに掃除夫がいる筈がない。

「昨日も今日も見かけていないなぁ。」

 ちょっと不安になった。父親の逮捕であの若者の身に好ましくないことが起きたのかも知れない。職場を解雇されたとか、故郷へ戻ったとか、想像したくないが”砂の民”に何かされたとか。
 少佐と別れてから、テオは事務局へ行って、掃除夫のことを尋ねてみた。しかし大学は清掃会社と契約しているのであって、掃除夫個人の勤務状況も氏名も把握していなかった。清掃会社の連絡先を教えてもらい、テオはそこへ電話してみた。昼休みなので誰も電話に出なかった。
 仕方なく、心の中に気になるものを抱えながら、その日の仕事を夕刻までこなして、それからもう一度清掃会社にかけてみた。掃除夫は夜間に仕事をする場合もあるのだ。
 電話口に出た男性は、ホルヘ・テナンが大学で何か問題でも起こしたのかと心配した。だからテオは嘘を言うしかなかった。

「彼が俺の落とし物を拾ってくれたんで、礼を言いたかったんです。でも今日は見かけなかった。」

 すると電話口の男性が彼に尋ねた。

ーーすると貴方はお医者さんですか?
「は?」
ーーテナンは大学病院が担当なんですが・・・
「そうなんですか? 俺は自然科学学舎で彼と出会いました。」
ーーああ・・・また勝手に持ち場を交換しやがったな・・・

と男性が舌打ちするのが聞こえた。

ーー若い連中は遊びに行く都合で勝手に持ち場を交換するのでね、こっちは何か問題が起きた時に誰が担当か調べなきゃいけないんですよ。
「すると、ホルヘは、今日普通に仕事に出ているんですね? 大学病院の方に?」
ーーその筈です。タイムカードを押しているからね。

 テオはひとまず安堵した。ホルヘ・テナンはテオに会う為に会社に無断で学舎担当の掃除夫と勤務場所を1日だけ交換したのだろう。会社にバレてしまって悪いことをした。きっと本人は勤務場所交換も記憶から消されているだろうに、上司から叱られてしまう。

「俺は落とし物が戻って感謝しています。どうか彼を叱らないでやって欲しい。それから普段の掃除夫もしっかり働いてくれていますから。」

 フォローになったかどうかわからないが、テオは誤魔化して電話を切った。

2024/02/15

第10部  粛清       2

 「ああ・・・面白かった!」

とケツァル少佐が呟いた。テオは彼女を振り返った。少佐は口元に微かに笑みを浮かべながら、最後の料理に取り掛かっていた。テオは彼女に同意した。

「シショカの奴、ビビってたな。」

 少佐が視線を彼に向けた。

「貴方にもわかりましたか?」
「スィ。教授は縄張りを荒らされるのを警戒して威嚇しに現れたんだろ?」
「スィ。政治家秘書が場違いな場所に来たからです。あの男が相手にするのは、イグレシアス大臣の政敵です。恐らく、大臣が推し進めようとしている北部のダム建設に反対する建築工学の教授を説得に来たのでしょう。私は建築に詳しくありませんが、新聞やネット記事によれば、大学は大臣が採用しようとしている建築方法が自然破壊と災害を齎しかねないと、反対しているのです。でも自然科学の分野からは何も意見が出ていません。」
「ダム建設って?」
「ほら、以前コンドルの神様の目が盗まれたラス・ラグナス遺跡や移転したサン・ホアン村がある地域です。」
「砂漠で地下水脈が変化して地上の水源が枯渇しかけている所だったな? ダムなんて造って意味があるのかい?」
「イグレシアスは水を貯めるのではなく、土砂の流出を防ぐ砂防ダムを大規模に造ろうとしているのだそうです。もしいきなり大雨が降って、土石流が下流の集落を襲うと大災害になるだろう、と。」
「うーん・・・」

 テオは腕組みした。

「国民を守る気持ちは誉めてやるよ。だけど、あの位置に砂防ダムを造ったって、一番近い集落までどれだけ距離があると思ってるんだ?」
「イグレシアスは建設会社に仕事を与えたいのです。大統領の失業対策にも繋がりますから。」
「その政策にロカ・エテルナ社は関係しているのか?」

 ロカ・エテルナ社は、ムリリョ博士の息子や娘達が経営しているセルバ共和国最大手の建築会社だ。公共施設などのビルを得意としている筈だった。少佐が首を傾げた。

「私は知りませんが、アブラーン(ムリリョ博士の長男)はダムに興味を持っていないと思います。」

 利権争いなどは、テオもケツァル少佐も預かり知らぬことだ。だがアブラーン・シメネス・デ・ムリリョの義理の弟であるケサダ教授が大臣秘書のシショカに敵意を示したのは、ちょっと気になった。単純に縄張りを守っただけとは思うが。
 すると少佐はテオが気付けなかったことを教えてくれた。

「教授はこのカフェで寛いでいるメスティーソの学生達を気にかけていましたよ。一族の血を引く学生も何人かいますからね、シショカが嫌うミックス達です。シショカの注意をご自分に向けて学生達から秘書の気を逸らしていました。」
「そうか・・・子供を守る親の役目をしたんだな。」

 少しだけテオは安心した。

「だが、行き先を間違えるなんて、シショカらしくないんじゃないか?」

と指摘すると、少佐は鼻先で笑った。

「若いミックスが大勢いるので、覗きに来たのでしょう。強い力を持つ人間の驕りですよ。」

2024/02/14

第10部  粛清       1

  セニョール・シショカは”砂の民”だが、ムリリョ博士の手下ではない。マスケゴ族だが、そのナワルはジャガーではなくピューマで、だから”砂の民”の仕事をしている。だが建設大臣の私設秘書はそんなに暇な立場ではない筈だ。彼の仕事は大臣の仕事がスムーズに行く様に障害となる人物や厄介事を取り除くことだ。主に政治的に反対の立場の陣営や大臣と同じ政党のライバルの足を掬ったり、選挙で不利になるよう工作する訳だ。わざわざ森に出向いて密猟者を粛清したりしないし、ムリリョ博士の手下達が活動していると分かっていて横から手を出したりしない。
 テオはシショカが好きでなかったが、その男の筋を通すところは評価していた。

「博士に用ですか?」

とケサダ教授がシショカに尋ねた。”砂の民”は身分を秘匿するものだが、シショカは一族の間で非常に有名な男だ。少なくとも、同じ部族のマスケゴ族達は彼の顔と名前を知っているし、公の立場も知っていた。ケサダ教授はマスケゴ族として当然彼を知っていたし、シショカの方も教授がムリリョ博士の養い子で学問の弟子で、さらに博士の娘婿であることを承知していた。そして2人の間には、不思議な緊張感が存在した。
 教授は”砂の民”としてのシショカの出現を警戒していた。大学内で問題を起こして欲しくないのだ。学生も職員も、ケサダ教授が日頃守護しているセルバ国民だ。いかなる理由であれ、己が守護している場所で他人に勝手をされては困るのだ。
 シショカの方はケサダ教授が彼より強い能力を持っていることを直感で悟っていた。目の前の男は同じマスケゴ族とは思えない様な強力な超能力の持ち主だと、シショカの本能が告げていた。”ヴェルデ・シエロ”は保有する能力が強ければ強いほど、同族の者が持つ力の大きさを正確に察知する。例えばケツァル少佐のグラダ族純血種の能力を正確に悟れるのは、ブーカ族の純血種だ。ブーカ族より力が劣る他部族やメスティーソのブーカ族は、グラダ族が強いと言うのは感じ取れるが、それがどの程度強いのかは測れない。測れないから、彼等はグラダ族を怒らせることを恐れる。下手すると己の命を失いかねないからだ。シショカはブーカ族より弱いマスケゴ族だが、純血種で、”砂の民”としての修行を積み重ねてきた。だから彼はグラダ族の力を押し測ることが出来る。今、彼の目の前に立っている考古学教授は・・・ブーカ族よりも強い、と彼の本能が告げていた。
 テオは、ジャガーとピューマが牙を見せ合って威嚇し合う姿を想像してしまった。この対決は、ピューマに分が悪い。ここは大学で、ケサダ教授の縄張りだ。大臣の秘書が気張っても不利なだけだ。

「考古学の博士に用があって来たのではありません。」

と、いつもの様に、上部だけは慇懃にシショカは答えた。

「建設大臣の使者として、建築工学部の教授に面会に来たのです。」

 建築工学部はテオにはあまり接点がない場所だった。そこの教授陣も予算会議で顔を見るだけだ。大臣とどんな話をするのか、テオには見当がつかなかった。

「成る程・・・」

とケサダ教授が言った。牙を収めたがまだ飛びかかる体勢のジャガーだ。

「建築工学部は逆方向の学舎です。」

 指摘されて、シショカはハッと後ろを振り返った。本当に方向を間違えて歩いて来たのだろうか。

「ご指摘、感謝致します。」

 と彼は挨拶すると、くるりと体の向きを変え、教授が指差した方向へ歩き去った。
 テオはちょっと呆気に取られた。ケツァル少佐もちょっと笑いたいのを我慢している表情で陰気な男の姿が遠ざかって行くのを見送った。
 テオは既にケサダ教授がいなくなっていることに気がついた。ジャガーはピューマの気配を察知して追い払いに出て来ただけだった様だ。

第10部  追跡       22

  結局エンリケ・テナンの逮捕は翌日の新聞の片隅に小さく「密猟者逮捕」と出ただけだった。テナンが犯した殺人の話は載っていなかった。

「まだ2人逃亡中ですから。」

とケツァル少佐はテオに言った。

「逃げている2人が自棄にならないよう、報道を抑えているのでしょう。憲兵隊は2人の氏名と写真を持っていますから、各地の警察に手配しています。」
「すると”砂の民”が連中の名前や顔を知っていると思って良いのだな。」
「仕方がありません。彼等は実際に目撃したのです。テナンと一緒にサバンの遺体を焼いて、コロンの遺体をバラバラにした。粛清は免れません。」
「テナンも捕まったと言っても安全じゃないだろう?」

 テオは麻薬関係で捕まった人間が口封じのために刑務所内で殺害される話を聞いたことがあった。麻薬組織と”砂の民”、どちらも執拗で執念深く、無慈悲だ。
 テオと少佐は大学のカフェで昼食を共にしていた。少佐はいつも食事を取るカフェ・デ・オラスが臨時休業だったので、安くてボリュームがある食事を取れる大学のカフェに来ただけで、特にテオに用事がある訳ではなかった。テオも偶々売店で買った新聞にエンリケ・テナンの記事があったので、話題にしただけだ。

「今日はあの掃除夫は元気にしていましたか?」
「彼は総合学舎のロビーを掃除しているのを朝見かけた。ちょっと元気がなかったが、それは父親が密猟で捕まったからだろう。まさか殺人を犯しているとは分からない筈だ。多分、昨日の夕方帰宅してアパートの住人から父親が憲兵隊にしょっ引かれたことを聞いたに違いない。憲兵隊に問い合わせても、会わせてもらえないだろうし、説明も密猟のことだけだったと思う。」
「憲兵隊の一族の人は上手く誤魔化せたと信じています。テナンの記憶から殺人の部分を消すことは出来なくても、世迷ごとで済ませるでしょう。」

 そしてちょっと怖いことを言った。

「テナンの父親を普通の殺人罪で済ませるために、逃亡中の2人には粛清を受けてもらった方が良いかも知れません。」

 テオは無言だった。ジャガーが人間になった、と同じ証言を3人がしたら、面倒なことになる。それは理解出来た。一人だけなら、そいつはちょっとおかしいのだ、と言えるから。
 ふとケツァル少佐が視線をテオの背後に向けた。一瞬彼女が警戒したことを、テオは空気の微妙な変化で気がついた。少し空気が固くなった感じがして、すぐに緩んだ。

「ブエノス・ディアス」

とケサダ教授の声が聞こえ、テオは後ろを振り返った。長身でハンサムな考古学教授が立っていた。但し、彼が声をかけたのはテオではなくケツァル少佐でもなかった。白いスーツに黒いシャツを着た建設大臣の私設秘書セニョール・シショカがいたのだ。テオはぎくりとした。シショカは筋金入りの”砂の民”だ。大学に何の用だ?

2024/02/13

第10部  追跡       21

  ムリリョ博士が溜め息をついた。

「手下達の仕事に細かく指図する権限は、儂にはない。」
「しかし・・・」
「お前は誤解している様だが、我々は上下の命令系統を持たない。儂は仲間に何が起きているのかを伝えただけだ。粛清するかしないかと決めるのは手下達だ。」
「では・・・」
「その掃除夫が父親とこれ以上接触せず、聞いた話を全て忘れているなら、お前が案ずる必要はない。マレンカの若造(ロホのこと)がどれだけ能力を発揮したか、それが決め手だ。」

 博士は立ち上がった。

「儂はこれから昼に行く。お前も来ると良い。」

 断れない雰囲気だったので、テオは博士に続いて部屋から出た。ムリリョ博士と食事だなんて、光栄なのだろうが、恐ろしい気もした。歩いて行くと、パティオに出る出入り口に差し掛かった。博士が外を見た。ロホがやって来るのが見えた。ホルヘ・テナンはどうしたのだろう。
 ロホがそばへ来るまで博士は立ち止まって待っていた。ロホはケサダ教授の直弟子で、博士から見れば孫弟子になる。大師匠にロホは右手を左胸に当てて敬意を表した。ムリリョ博士は頷いた。そしてロホの目を見た。”心話”だ。ホルヘ・テナンに対するロホの対処方法をそれで確認したのだろう。

「掃除夫は一族にとって無害だと言うのだな?」

と言葉で博士が確認した。ロホが「無害です」と答えた。

「彼は清掃会社から派遣されて、この大学で毎日掃除をしています。父親と会ったのは2年ぶりだと彼の心が言っていました。昨日父親と会って聞いた話を記憶から消し去れば、彼は父親はまだ故郷の村にいると信じたままです。」
「では、憲兵隊が父親をどう扱うかが問題だ。」

 憲兵隊はセルバ野生生物保護協会の職員を惨殺した密猟者を逮捕したことを公表するだろうか。もし公表してテレビや新聞に出たら、ホルヘ・テナンは父親の罪を再び知ることになる。だが彼はショックを受けるだけで済む。父親が殺害した人間が何者だったのか知らずに済むから。
 問題は殺害犯のエンリケ・テナンだ。憲兵隊に何を喋るだろう。憲兵隊は彼の言葉をどこまで信じるだろう。
 ムリリョ博士はそこまで考えないことにしたのか、ロホも昼食に誘った。ロホはぎくりとしてテオを見た。テオは肩をすくめて見せるしかなかった。断って良いことでもあるだろうか。

第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...