2024/05/05

第11部  紅い水晶     15

 在野の”ヴェルデ・シエロ”が大巫女ママコナに直接テレパシーを送ることは不敬に当たる。しかしママコナが何か不穏な気を感じていたのなら、それを知っておかねばならない。ケツァル少佐は2秒程躊躇ってから、大統領警護隊副司令官トーコ中佐に電話をかけた。その日の昼間の当直はトーコ中佐だった。シエスタの時間だから、会議中ではないだろう、と思った。電話の向こうから男の声が聞こえた。

ーートーコだ。
「文化保護担当部のミゲールです。」

 軍部の連絡は形式的な挨拶を抜く。少佐はすぐに本題に入った。

「民間から悪霊の仕業かも知れない事案の通報を受けて出動しています。”名を秘めた女性”(ママコナのこと)から何かお言葉はありませんでしたか?」

 トーコ中佐がフッと息を吐く音が聞こえた。

ーー今、チュス・セプルベダ少佐が”彼女”から何かお言葉を頂いて、ステファン大尉とこの部屋へ来たところだ。

 ママコナはマスケゴ族では埒があかぬと判断して、大統領警護隊遊撃班の指揮官にメッセージを送ったのだ。だが、彼女の言葉はいつも曖昧だ。セプルベダ少佐は優秀だが、彼女が何を心配しているのか、まだ掴めていないだろう。
 ケツァル少佐はママコナがトーレス技師が直面している災難を承知していることに、少しだけ安堵した。セルバの人民を災難から守護する、それが大巫女の役割だ。まだ20代半ばで、生まれてから一度もピラミッドから出たことがないカイナ族の娘でも、しっかりと役目を果たしているのだ。

「詳細を説明することは後に致します。私が受けた通報は、正に”彼女”が憂いている内容と同じだと確信しますので、これから私の部署で対処します。」
ーー何が起きているのか、簡単に教えてくれないか。
「”ティエラ”(普通の人間)の男が、ラス・ラグナス遺跡の近くで何かを拾ったのです。彼はロカ・エテルナ社の社員で、副社長のカサンドラ・シメネスが彼と連絡がつかなくなったと心配して私に相談して来ました。彼女は彼が遺跡近くで何かを拾ったのを目撃していますが、それが何かはわからないと言っています。」

 少佐は現在地の住所を告げた。トーコ中佐は文化保護担当部が出動することを理解した。

ーー君達に任せる。だが、遊撃班を待機させておくから、何か問題が起きた場合は直ぐに連絡を寄越せ。
「承知しました。」

 少佐が通話を終えた時、大統領警護隊のロゴマークが入ったジープが彼女の車の後ろに停車した。

2024/05/04

第11部  紅い水晶     14

  ロカ・エテルナ社を出たケツァル少佐は自分の車に乗り込むと、電話を出して副官のロホにかけた。

ーーマルティネスです。

 ロホが正式名で名乗った。勿論かけて来た相手が誰かはわかっている。少佐は「ミゲールです」とこちらも正式名で応えた。

「まだ詳細は不明ですが、霊的な現象による事案が発生した模様です。これから告げる住所に手が空いている者は全員集合のこと。」

 カサンドラ・シメネスから教えられたディエゴ・トーレス技師の住所を早口で告げた。ロホは正確に聞き取った。復唱して、すぐに行きます、と言った。

ーーオフィス窓口を閉鎖します。
「許可します。では、現地で会いましょう。」

 大統領警護隊文化保護担当部は緊急事案が発生した場合は、事務的業務を臨時休業して全員オフィスの外に出かけてしまう。彼等は軍人で、軍務がその仕事の最優先事案だからだ。文化・教育省は決して彼等の軍務遂行に口出ししてはならない。
 ケツァル少佐は車をロカ・エテルナ社の車庫ビルから出した。トーレス技師は少佐やテオが住んでいる西サン・ペドロ通りから東サン・ペドロ通りへ抜ける南北の坂道の中程、東側に住んでいた。東西サン・ペドロ通りは富裕層が住む地区だから、トーレス技師はロカ・エテルナ社の中では高級取りなのだ。
 トーレス技師の戸建住宅に近づいて、少佐は車を路肩に駐車した。目を閉じて神経を周囲の空気の流れを読み取ることに集中させた。悪霊がいれば何か感じる筈だ。しかし彼女は何も感じ取れなかった。アンヘレス・シメネス・ケサダは感じたのだ。ムリリョ博士も落ち着かなかったのだ。特定の人間にしか感じ取れない気配なのか? それとも悪霊は動く時だけ気配を発して、普段は眠っているのか? 
 ケツァル少佐は大巫女ママコナから何も言ってこないことに気がついた。人間に害を及ぼす悪霊が首都に入ると大巫女様は感じとる。そして汚れがピラミッドに近づくことを嫌う。
 トーレスが拾った「何か」は悪霊ではないのか? あるいは「汚れ」ではないが人間に害を及ぼすものなのか? そんな物があるのか?
 少佐はそこで気がついた。

 ママコナは気がついていた。だから、汚れに最も近いアンヘレスに警告を出したが、アンヘレスはまだ子供だ、大巫女の警告を十分に理解しきれなかったのだ。いや、半分だけのグラダのアンヘレスにはママコナからのメッセージが上手く伝わらなかったのかも知れない。マスケゴ族のムリリョ博士はママコナのメッセージを感じたが、理解出来る力はなかった。彼は男だし、マスケゴだから・・・カサンドラが感じなかったのも同じ理由だ。マスケゴ族ではママコナのメッセージを十分に理解出来ない。今のママコナはグラダではなく、マスケゴより力が弱いカイナ族の女だから・・・。


2024/05/02

第11部  紅い水晶     13

  カサンドラ・シメネスはケツァル少佐にラス・ラグナス遺跡視察旅行の経緯を”心話”で語った。そして言葉で告げた。

「それっきりディエゴ・トーレスと連絡がつかなくなりました。」

 ケツァル少佐は腕組みした。ロカ・エテルナ社の土木設計技師ディエゴ・トーレスが何か悪い物を遺跡近くの山で拾ったことは確実だ、と思った。カサンドラは彼が転んだ時に何かを拾ってポケットに入れたのを見たのだ。しかし彼女は重要と思わなかったので、彼女の記憶の中の「何か」は殆ど認識不可能な形だった。大人の男性の手の中に収まってしまう大きさ。

「石でしょうね。」

と少佐は呟いた。カサンドラも少佐が何について言ったのか、すぐに理解した。

「やはり、彼が山で拾った物が原因と思いますか?」
「他には考えられません。」

 少佐は副社長を見た。会社経営には優秀な能力を発揮する女性だが、呪いや祈祷とは無縁な人なのだ、と確信した。ムリリョ博士は己が純血至上主義者で古代からの掟や風習を守る長老会の重鎮にも関わらず、己の子供達を古い因習や呪術からは遠ざけて育てたのだ。家族を現代社会で生き延びさせて栄えさせるために必要だと信じているのだろう。だからカサンドラは一族に伝わる伝承やしきたりは知っているし守っているが、それ以外の悪霊や邪神に関する知識を持っていないのだ。

「貴女はトーレスと一緒に山を歩いている間、何も感じなかったのですか?」
「感じませんでした。2人とも周囲の地形を記録することやダムの影響を考えることで頭がいっぱいでした。だから、トーレスも何かを拾った直後はその影響を受けなかったのかも知れません。」
「ホテルで一人になって気が緩んだところに悪霊がつけ込んだのでしょう。」

 カサンドラは電話を出して、もう一度技師の電話にかけてみた。しかし虚しく呼び出しが鳴るだけだった。

「その技師は独り身ですか?」
「スィ。田舎に親兄弟がいると聞いていますが、ここでは一人暮らしです。同居人もいないようですね・・・同居人も何か災難に遭っていることも考えられますが・・・」

 少佐が立ち上がった。

「技師の家の住所を教えて頂けますか? これはどうやら大統領警護隊の仕事の様です。」


2024/05/01

第11部  紅い水晶     12

  カサンドラの父ファルゴ・デ・ムリリョ博士が彼女に「山で変わったことはなかったか」と尋ね、姪のアンヘレス・シメネス・ケサダが「ホテルに悪い気が漂っている感じ」と言った。カサンドラは不安になったが、姪にそれを気取られぬよう用心して、その夜は何事もなく過ごした。
 翌朝、朝食の席に技師のディエゴ・トーレスが遅れて現れた。彼はひどく疲れた顔で、カサンドラが大丈夫かと声をかけると、山歩きの疲れが出ただけです、と答えた。しかしアンヘレスが彼を見て嫌そうな表情をして、急いで食事を済ませ、ムリリョ博士も孫と一緒にさっさと席を発ってしまった。
 カサンドラと博物館員のアントニア・リヴァスはトーレスの食事が終わるのを待ってやったが、トーレスは食欲がないのか少ししか食べなかった。彼の顔色が悪いとリヴァスが心配したが、トーレスは平気だと言い切った。
 空港に到着すると、ムリリョ博士がチケットカウンターに行き、帰りの便の予約をしていたにも関わらず、新しいチケットを1枚持って一行のところに戻って来た。そしてトーレスにそのチケットを手渡した。
ーー君は体調が悪そうだから、半時間後の便で先に帰りなさい。
 カサンドラはびっくりした。急な便の変更は既に不可と言える時間だったからだ。しかし、ムリリョ博士は、恐らく”操心”を用いて、強引にチケットを手に入れたのだろう。トーレスの手にチケットを押し込み、搭乗手続きのゲートへ連れて行ってしまった。
 リヴァスは普通の人間で、博士が”ヴェルデ・シエロ”であるなんて想像すらしていなかったが、彼女は発掘旅行で上司の奇妙な行動に慣れているのか、「また博士の魔法ですね」と言って笑った。
 カサンドラは父がトレースを先に帰したことが気になった。だから博士が自分達のところに戻って来ると、”心話”で何かトーレスに良くないことが起きているのか、と尋ねた。しかし博士は答えなかった。
 帰りの飛行機は時間通りに離陸し、無事にグラダ国際空港に到着した。トーレスが乗った飛行機も無事に着いており、カサンドラが電話をかけると、技師は既にタクシーで自宅に向かっていた。
 空港にカサンドラの見知らぬ男性が彼等を待っていて、博士に挨拶すると少し2人だけで話をしていた。ムリリョ博士はとても不機嫌になり、男性と別れると、カサンドラにアンヘレスを家に連れて帰るよう言いつけ、己はリヴァスと博物館へ向かった。
 カサンドラはアンヘレスと一緒にタクシーに乗った。 ”心話”で姪に尋ねた。
ーー貴女のお祖父様は何を怒っているのかしら?
ーー知らない。
とアンヘレスは答えた。
ーーお祖父様はセニョール・トーレスを助けたかったの。だけど、何かが上手くいかなかったみたい。

2024/04/30

第11部  紅い水晶     11

  ラス・ラグナス遺跡はムリリョ博士にとってもあまり魅力がない遺跡だったようだ。祭祀に使われたと思しき石像などはサン・ホアン村の住人達が持ち去ったのだから、尚更だった。グラダ・シティから遺跡まで片道1日、遺跡と山の散策で1日、結局2日目の夜に一行はオルガ・グランデのホテルに引き上げてしまった。ロカ・エテルナ社の社用旅行と言う名目だから、豪華なリゾートホテルという訳に行かなかったが、それなりに高級なホテルに彼等は宿泊した。夕食は一応全員一緒にホテルのレストランで取った。アンヘレス・シメネス・ケサダが上手にその場の雰囲気を盛り上げてくれて、カサンドラと博物館員アントニア・リヴァスも砂漠の風景をネタにして会話を楽しんだ。博士はいつものことながら無口で食べることに専念し、技師のディエゴ・トーレスは博士を会話に引っ張り込もうと何度か声をかけて、カサンドラとリヴァスをハラハラさせた。博士は孫娘の手前、大人気なくヘソを曲げたりせずに、適当に技師の言葉に相槌を打っていた。
 食事が終わって各自が部屋へ引き上げる段になってから、博士がカサンドラに囁いた。
ーーお前達、山で何か変わったことはなかったか?
 カサンドラは何もなかったと答えた。彼女は実際何もないとその時思っていた。逆に遺跡で何か面白い物を見つけたのですかと尋ねると、博士はツンとして、何もないと言った。
 部屋割りはカサンドラとアンヘレスがツインで、他のメンバーは3人ともシングルだった。シャワーを浴びてベッドに入る前にアンヘレスが何時帰るのかと訊いた。
ーー明日の昼前の飛行機で帰るわよ。
とカサンドラが答えると、彼女は安心した様な顔をした。
ーーそれじゃ、朝ご飯の後、すぐにこのホテルを出る? それとも朝ご飯は外で食べる?
ーー貴女のお祖父様次第ね。でも、どうしたの? このホテルは好きじゃないの?
ーーわからない。
とアンヘレスは言った。
ーーさっき夕ご飯の時、とても嫌な気分がしたの。何か悪い気が漂っている感じ。
 カサンドラは姪がそんなことを言うのを初めて聞いた気がした。妹夫婦は子供達を普通の人間の子供同様に育てている。巫女の様な訓練は受けさせていないし、アンヘレスはピアノの教師になりたいと音楽教室で頑張っている少女だ。普段は悪霊や死霊と無縁な生活をしている。
 しかし義弟フィデルは考古学者で、時々古代の死人を扱うことがある。彼はシャーマンの訓練を受けていないが、”ヴェルデ・シエロ”らしく我が身と近くにいる人々を悪霊から守る力は十分に持っているし、カサンドラの妹のコディアだって同程度の力はある。純血種なのだから。成年式を終えたばかりのアンヘレスが、何かを感じてもおかしくない。ただ、カサンドラもムリリョ博士も熟年した”ヴェルデ・シエロ”だ。彼等が何も感じなかったのは、どうしてだろう。

 ケツァル少佐は内心動揺しかけて、堪えた。カサンドラに知られてはいけない。カサンドラは義弟フィデル・ケサダがマスケゴ族だと信じているし、姪のアンヘレスとその弟妹達もマスケゴ族だと思っている。

2024/04/28

第11部  紅い水晶     10

  ケツァル少佐がロカ・エテルナ社の駐車場に車を停めたのは午後1時を少し回った頃だった。セルバ人なら昼食を楽しみ、昼寝を考える時間だ。少佐は指示された階の指示された場所に車を置いて、すぐ背後にあった扉の中に入った。ガラス張りの渡り廊下を通り、次の扉を開くと、そこはロカ・エテルナ社の最上階だった。本来は地上階の受付を通さないと入れない区画だ。扉が開いていたのはカサンドラ・シメネスが開けてくれていたからで、彼女が扉の内側の通路で待っていた。彼女は少佐を見るなり右手を左胸に当てて挨拶した。

「ご足労お願いして申し訳ありません。どうぞこちらへ・・・」

 ロカ・エテルナ社は各部屋の壁がガラスになっている。しかしそれぞれの部屋の内部にはブラインドが装備されており、スイッチ一つで外からは不可視の状態にすることが出来た。
 カサンドラは彼女のオフィスに少佐を招き入れた。執務机が奥にあるが、部屋の中央は会議用のテーブルが設置され10人ばかりが座れる様になっていた。テーブルの上に軽食の準備がなされていた。

「大至急ケータリングを頼んだので、こんな物で申し訳ありませんが・・・」

 ケツァル少佐はトルティーヤとトマトソースの煮込み料理を見て微笑んだ。

「十分です。お心遣い有り難うございます。」

 2人の女性は無意味な挨拶交換はしなかった。すぐにテーブルに向かい合って座った。

「まず、何が起きたか、”心話”で報告したいのですが、よろしいですか?」
「スィ、お願いします。」

 彼女達は互いの目を見つめ合った。”心話”は秒単位で大量の情報を伝達交換出来る”ヴェルデ・シエロ”の能力だ。生まれつき持っている能力だが、正しい使い方は親が子に教える。そうでなければ、一方的に他人に己の情報を吸い取られてしまうだけだ。必要な情報だけを伝達して、他人に知られたくない情報はセイブする、それが正しい使い方だ。
 ケツァル少佐は、カサンドラ・シメネスが父ファルゴ・デ・ムリリョ博士、姪のアンヘレス・シメネス・ケサダ、彼女の部下で設計技師のディエゴ・トーレス、ムリリョ博士の助手で博物館員のアントニア・リヴァスと共に車に乗ってラス・ラグナス遺跡に到着したところから情報を見せてもらった。博士とアンヘレス、リヴァスの3人は遺跡に向かい、カサンドラとトーレスは遺跡を見下ろす丘へ登った。徒歩だ。カサンドラは彼女自身が丘で何をしたかは受け渡す情報から省いた。少佐が見せられたのは、彼女が時々目撃したトーレス技師の行動だった。トーレスは地形を撮影し、谷と尾根の高度差を測定し、地形図と照らし合わせて他社が建築する予定の砂防ダムの影響を推測していた。ダム自体はもっと下流に建設されるので、遺跡を直接破壊する物ではない。谷の深さや建設予定地からの距離を考えても遺跡が土砂に埋もれるのは何十年も先の話だと、カサンドラとトーレスは言っていた。
ーー何十年どころか、何百年後かも知れません。
とトーレスは言い、2人は日陰がない丘を下りて休憩することにした。地面は乾いた硬い土の道だった。道なき道だが、歩きやすい地面を探して登ったので、帰りも同じルートを辿った。トーレスは普通の人間だ。建設現場を実地調査で歩くことに慣れていたが、”ヴェルデ・シエロ”のカサンドラがいつしか彼を追い越して先に歩いていた。
 ズサッと滑る音が聞こえ、カサンドラが後ろを振り返った。トーレスが浮石を踏んで足を滑らせ、尻餅をついていた。彼女は直ちに部下が大きな怪我をしなかったことを目視で確認した。”ヴェルデ・シエロ”の目視は人間の肉体の内部を見ることが出来る。トーレスは足を挫くことなく、骨折もしなかった。それでも一応彼女は「大丈夫ですか?」と声をかけてやり、トーレスは無様な姿を見られたことを恥じらいながら立ち上がった。立ち上がる時に彼は手をついた場所にあった何かを掴んでいて、衣服の埃を払う際にそれをズボンのポケットに入れた。
 ケツァル少佐の頭の中にカサンドラの言葉が入った。

ーーあの時、私は彼に何を拾ったのか尋ねるべきでした。


第11部  紅い水晶     9

 ”ヴェルデ・シエロ”と付き合うと、その物事への周りくどい対処の仕方や、やたらと遠回しな表現とかで苛々させられることが度々ある。ケツァル少佐は生粋の”ヴェルデ・シエロ”で、生まれながら大ピラミッドのママコナ(巫女)からテレパシーで一族の作法を教わったが、育て親は殆ど普通の人間に等しいメスティーソの養父と完全に普通の人間の養母だったので、白人社会で育ったも同然だった。だから今でも時々一族の伝統を重んじる人々と接すると内心ストレスが溜まることが多い。自分がこんなだから、白人のテオはもっと辛いだろう、と彼女は想像出来た。テオはアメリカ人らしく感じたことをズバズバ口に出すので、それでストレス発散が出来るようだが。
 テオから「ムリリョ博士に連絡を取って欲しい」と言うケサダ教授からの伝言を聞いて、彼女は溜め息をついた。博士は慣習を守って異性である彼女に直接電話をかけない、と言う訳ではなく、博士は自分の都合でかけたりかけなかったりするだけだ。教授の方は恐らく今回の要件に関わりたくないのだ。博士から大統領警護隊に連絡を付けろと命じられて、渋々テオに声をかけたに過ぎないのだろう。
 港湾での職務を終えると、昼になっていて、少佐は昼食をどうしようかと考えながら、車に乗り込み、ムリリョ博士に電話をかけた。博士は誰からの電話かすぐわかったのだろう。3回目の呼び出し途中で出てくれた。そしていきなり言った。

ーーカサンドラに電話してくれ。

 一方的にカサンドラ・シメネスの電話番号を告げて、彼は電話を切った。
 ケツァル少佐は腹が立つよりも、何となくことの厄介さを想像してうんざりした。さっさと面倒を片付けてしまおうと言う考えの下で彼女は教えられた番号を入力した。呼び出し音が5回を超えて、切ろうかと思った時、声が聞こえた。

ーーカサンドラ・シメネスです。
「大統領警護隊文化保護担当部指揮官ミゲール少佐です。」

 正式名を告げると、先方は「ああ」と安堵したかの様な声を出した。

ーー少佐、グラシャス、すぐお会いできますか?

 急いでいる。少佐は物事がただならぬものであると予感した。

第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...