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2021/07/08

異郷の空 10

  シオドアはミゲール大使から何か言ってこないかと待ったが、夜になっても連絡はなかった。カルロ・ステファンの身が心配だった。射殺されたのがカメル軍曹なら、軍曹は何故ステファンを刺したのだ? 地面に跡を辿れる程の出血をしながら変身したステファンは何処へ行ったのか。
 警察は犬を使って黒豹と泥棒の双方を追いかけているのだが、奇妙なことに両方のチームの犬が同じ場所で重なった。泥棒追跡チームが黒豹追跡チームと同じ経路を追いかけ始めたのだ。そして「追われる者」は湖の岸辺で痕跡を絶った。湖に逃げたのだ。警察はドローンを飛ばし、ボートも出したが泥棒も豹も見つからなかった。何処かで岸に上がった可能性も考えられたが、湖の岸辺の3分の1を占める基地の捜索は難しかった。この基地には国立遺伝病理学研究所と言う関係者以外の立ち入りを厳しく制限している施設があり、部外者の立ち入りにうるさいのだった。居住区ならと言う条件で捜索を許可されたが、個人の住宅が湖岸まで建てられており、プライバシーの問題もあって容易に進まなかった。
 シオドアは昼寝をした分の延長勤務を終えて、疲れて自宅へ帰った。リビングのカウチに身を投げ出して目を閉じた途端に電話が鳴った。渋々携帯を出すと、アリアナ・オズボーンからだった。彼女は彼が出るなり、言った。

ーーうちに来て、テオ。大至急、お願い!

 シオドアはまた目を閉じた。くたびれて動きたくなかった。

「用件を言え。俺は疲れているんだ。」

 アリアナはお構いなしに自分の要求を喋った。

ーー貴方の服を持って来て。下着と靴下とシャツと・・・靴はいいわ、こっちで買う。
「何を言ってんだか・・・」
ーー今必要なのよ。早く来て! 門衛に貴方が来ることを言っておくわ。1時間以内に来てね!

 一方的に喋って切った。シオドアは不快な気分で電話の画面を眺め、そして突然ある考えに至った。
 俺の下着と靴下とシャツだって? 
 一人暮らしの女性の家にない物だ。アリアナが何故そんな物を必要とする? 
 彼女の家に、それが必要な男がいるからだ!
 シオドアは跳ね起きた。急いで袋に新しい下着と靴下とシャツを入れた。ついでにセーターも1枚入れた。ズボンも要るだろう。
 荷造りする程の荷物ではなかったが、思いのほか時間がかかり、急いで車に乗り込んで基地に向かった時は40分も過ぎていた。基地は近い。門衛は彼が追放されたことを知らなかったので、また外国へ出ていたのかと言う顔で迎えた。走り慣れた基地内の道をゆっくり走り、湖畔に家が並ぶ区画へ入った。アリアナ・オズボーンの家は小さい建物が多い古い街並みの中にあった。シャッターが閉まったガレージの前に車を駐車すると、窓のカーテンを寄せてアリアナが外を覗いた。シオドアは車外に出て、衣類が入った袋を掲げて見せた。彼女がカーテンを閉じ、彼が戸口の前に立つと同時にドアが開いた。奇妙なことに彼女はまだ夕方だと言うのにTシャツと短パンの上にナイトガウンを羽織っていた。
 以前と同じ様に、キスで挨拶をすると、彼女は彼を家の中に引き込んだ。ドアを閉め、鍵を掛け、チェーンを掛けた。そして、無言で「こっち」と手を振って彼を寝室へ誘導した。
 アリアナ・オズボーンは滅多に自宅に他人を入れない女性だった。”兄弟”であるシオドアもエルネストも彼女の家に招かれたことがなかった。だからシオドアは歩きながらインテリアを見て、案外普通の女性の一人暮らしの家なんだ、と思った。壁に明るい色調のリトグラフが数点飾っており、棚にニットの縫いぐるみが並んでいる。テーブルには花が生けてあった。
 アリアナは寝室のドアを静かに開いた。低い声で彼に言った。

「あの人を起こしたくないの。」

 シオドアは寝室の中を見た。照明を点けないでカーテンを引いた室内は暗かった。消毒薬の匂いが満ちていた。そんなに広くない寝室の中央に女性の一人暮らしには不似合いなセミダブルのベッドが置かれており、その上で男が1人寝ていた。
 シオドアは静かに室内に入った。セミダブルのベッドの左半分に男は遠慮がちに体を横たえていた。入り口に背中を向けて裸の肩が見えた。逞しい筋肉がついた軍人の体だ。少し長く伸びた黒髪は見覚えがあった。
 シオドアが手で触れられる距離まで近づいても、彼は起きなかった。熟睡している。こんな隙の塊の様なカルロ・ステファンは初めてだ。ロホはナワルを使うと疲弊して2日間寝込むと言っていた。ステファンも疲れ切ったのだ。生まれて初めて変身して、怪我をして、恐らく冬の湖を泳いで逃げたのだ。これで元気いっぱいなら怪物だ。
 シオドアはベッドの右半分が乱れていることに気がついたが、知らんぷりしてそこに衣類が入った袋を置いた。そして寝室から静かに出た。
 ダイニングに行くとアリアナがコーヒーを淹れていた。

「ピザを注文したわ。食べて行って。」

 ステファンと2人きりになるのが不安なのか。それにしても・・・。
シオドアは椅子に腰を下ろしてカップを手に取った。アリアナは化粧をしているが、くたびれた顔をしていた。この化粧は前日のものだな、と思った。彼女は時々研究で徹夜する。一つのことに集中すると中断するのが嫌なのだ。

「昨夜は徹夜したのかい?」
「ええ・・・」
「帰って来たのは何時?」
「今朝の10時頃・・・」
「昨日の事件を知っているかい?」
「何の事件?」

 彼女の怪訝そうな表情で、博物館の泥棒騒ぎも黒豹の出没も彼女は知らないのだとわかった。シオドアは寝室の方を振り返った。

「彼が誰か知っているのか?」

 すると意外にもまともな答えが返ってきた。

「ケツァル少佐の部下よ。」

 シオドアは彼女に向き直った。

「彼が名乗ったのか?」
「いいえ、今朝会った時から彼は一言も言葉を話さないわ。私達はセルバ共和国で1回会っているのよ。貴方が少佐のアパートで消えたとケビン・シュライプマイヤーが報告して来た時に、私はグラダ・シティに行って少佐と面会したの。その時、オフィスに彼がいた。少佐は彼を中尉とだけ呼んでいたわ。」
「彼の名前はカルロ・ステファンだ。君がセルバへ行った時は確かに中尉だったが、今は昇級して大尉になっている。」

 ドアチャイムが鳴って、アリアナは急いで玄関へ行った。デリバリーサービスの男と言葉を交わして、やがて再び戸締りする音が聞こえ、彼女はピザの箱を抱えて戻ってきた。
 空腹だったので、シオドアもアリアナも直ぐに箱を開けて食べ始めた。彼女は彼の好物を覚えてくれていて、チキンとペパロニにチリソースをかけた物だった。

「彼と今朝出会ったと言ったね。何処で?」
「この家の庭先。湖に降りるステップのところよ。」
「彼は裸だったろう? 君は顔見知りなら誰でも平気で家に入れるのか?」

 すると彼女ははっきりと言った。

「私が見つけた時、彼は人間の姿じゃなかったの!」
 

異郷の空 9

  まんじりともしない夜が過ぎた。シオドアはドアの外の音や通りの音に神経を尖らせたが、変わったことは起きなかった。翌日仕事に行くと眠たくて、ミスをしでかしそうになり、同僚に叱られた。

「ごめん、ちょっと1時間だけ休憩させてくれ。すぐに復活するから。」

と断って、店の近くの公園に行った。ベンチで寝転んで休んでいると、思わぬ邪魔が入った。
エルネスト・ゲイルが現れたのだ。

「黒豹が付近を彷徨いているって言うのに、そんな所で昼寝はいけないなぁ、テオ。」

 頭がぼんやりしていたので、シオドアは黒豹のせいで午前中の客が少なかったのか、と納得しただけで、彼がそこに来た理由まで考えが及ばなかった。
 エルネストは己のボディガードを車に待たせて、シオドアのベンチの端にお尻を載せた。

「探しに行かないのかい?」
「何を?」
「黒豹だよ。」

 エルネストはシオドアに顔を近づけた。丸顔だが、カルロ・ステファンと違って野性味が全くない。顎の下に肉が弛んで見えた。こいつ、シェイプアップすれば良いのに、とシオドアはどうでも良いことを思った。
 シオドアが返事をしないので、エルネストはちょっと躊躇ってから打ち明けた。

「面白い話を警察の電話を盗聴していて聞きつけたんだ。」

 エルネストの趣味は盗撮と盗聴だ。彼は異性には興味がない。基地にいる軍人達の訓練の様子や職務上の会話をこっそり覗くのが楽しいのだ。身近にいながら自分が参加出来ない世界に憧れている。近頃は基地の外の警察にまで手を広げていて、もしホープ将軍やヒッコリー大佐に知られれば大目玉を食う筈だ。普段のシオドアなら、彼の盗聴に関心がないのだが、この時は違った。友人が警察に追われているかも知れないのだ。

「どんな話?」

 エルネストがニヤリと笑った。シオドアが興味を示してくれたのが嬉しいのだ。

「巷じゃ警察が怪盗”コンドル”が現れるのを予想してメルカトル博物館を張っていたってことになっているが、あれは間違いなんだ。警察はあの博物館を全くノーマークで、もっと大きな州立博物館を見張っていた。それが、幸運にも、”コンドル”が自分でドジを踏んで警報装置を鳴らしたそうだ。」
「偶然だったのか・・・」
「それが不思議なことに、”コンドル”は警報装置の線を切っていた。それなのにベルが鳴ったんだ。」
「ベルが鳴ったから切ったんじゃないのか?」
「君はバカか? 何処の世界にそんな無駄なことをする泥棒がいるんだ? それに”コンドル”は逃げる時に二手に分かれたんだが、1人は路地に入る前に警察に銃を向けたんで、撃たれた。もう1人は行き止まりの路地に逃げ込んだ。警察が袋の鼠だと思って駆けつけたら、そこには誰もいなくて、服だけ残っていたそうだ。」
「服だけ?」
「そうだ。あの寒い夜に”コンドル”は素っ裸になって飛んで行ったんだよ。」

 シオドアはもう一度確認した。

「つまり、下着も靴も靴下も、全部置いて行った?」
「警察はそう言っていた。しかも、服には刃物で刺した破れ目があって血で汚れていた。」

 エルネストは知り得た情報を得意げに喋った。

「博物館の警報装置が鳴った部屋なんだけど、そこに血痕が残っていたらしいよ。服が残っていた路地の奥までその血痕は続いていた。しかも・・・」

 彼は声を低めた。

「射殺された方の”コンドル”は血がついた軍用ナイフを持っていたそうだ。」

 シオドアは体を起こした。パズルだ。物凄く簡単な筋書きのパズルだが、何故そうなったのかわからない。

「”コンドル”は2人で、メルカトル博物館に侵入したところで仲間割れをした、1人が相方をナイフで刺した、刺されたヤツが咄嗟に警報装置を作動させた、仲間割れをしたから一緒に逃げる筈がない、彼等は別々に逃げて、刺したヤツは警察に撃たれた。刺された方は・・・どうなったんだ?」

 彼とエルネストは互いの顔を見合った。目を見ても、会話は出来ない。

「どうして着衣一切合切捨てて行ったんだと思う?」

とエルネストが尋ねた。

「夜だし、上着だけ捨てれば多少は人の目を誤魔化せるだろう? 」
「捨てられた着衣なんかは、きちんと畳んであったのかい?」
「そこまでは知らない。」

 脱いだ物を畳む余裕などなかった筈だ。服や靴は逃げる経路にバラバラに落ちていたのではないのか。 シオドアは想像して身震いした。 カルロ・ステファンのナワルへの変身は逃げて行く過程で始まったのだ。生きたい、逃れたい、その一心で、あの”出来損ない”の”ヴェルデ・シエロ”は、一族が彼には出来ないと信じていた変身をやってのけたのだ。
 その時、エルネストがシオドアの心臓を掴むような恐ろしい予想を言葉に出した。

「消えた泥棒はセルバ人じゃないかな、テオ?」

シオドアはドキリとした。服の下に冷や汗がドッと出た感じだ。

「どうしてそう思うんだ?」

だってさ、とエルネストは彼の反応を観察するかの様に、じっと彼の顔を見た。

「アリアナも君のボディガードも、セルバ人が消えるのを目撃したって証言したんだぜ。うちの年寄り連中も将軍達も、彼等が薬でもやったんだろうと言っていたけど、僕は違う、アリアナもボディガードも本当のことを語っているんだ。」
「セルバ人は消えるってか?」
「君も消えたんだろ? 」
「記憶にないね。」

 シオドアはエルネストがさっさと立ち去れば良いのに、と思った。

「セルバ人には関わるなよ、エルネスト。俺の様に全てを失うことになりかねないぞ。」


異郷の空 8

  次の日、シュライプマイヤーは去った。シオドアがバイトから帰ると、彼の荷物も部屋からなくなっていた。殆ど口を利いたこともない同居人だったが、いなくなるとアパートの中がガランとして寂しい感じがした。隣の部屋の住人は、シオドア達がルームシェアしていたと思っていたので、顔を合わせた時に、新しい同居人を紹介しようかと言ってくれたが、丁重に断った。
 その2日後の夕方だった。シオドアがコンビニの日中勤務から帰宅して夕食の支度に取り掛かろうとした時、外が騒がしくなった。誰かがスピーカーでがなりたてている様だ。窓を開くと、初冬の冷たい夜風が入ってきた。通りをパトカーが低速で近づいて来るところだった。警察官がスピーカーで怒鳴っていた。

「黒豹が逃げ回っています。危険ですから家から出ないで下さい。黒豹が・・・」

 シオドアは窓を閉めた。黒豹だって? この付近に動物園はなかった筈だ。サーカスが来ていると言う話も聞いていない。誰か酔狂なヤツがペットを逃したか・・・。
 それ以上気にしないで、彼は冷凍のシチューを温めて夕食を取った。アパートの外はまだ騒がしかった。パトカーが何台も走り回り、湖の北岸に点滅するライトの群れが見えた。あの辺りはメルカトル博物館じゃないか?
 突然、シオドアは嫌な予感に襲われた。黒豹と博物館が結びつかないが、博物館とセルバ人の友人は結びついた。北岸の警察車両の群れは黒豹とは関係ないのではないか? 事件は2つ起きていて、美術品泥棒とペットの逃亡が同時進行しているのでは? ステファン大尉とカメル軍曹とやらは、最後の任務を無事にやり遂げたのだろうか。
 彼はテレビを点けた。既に博物館のそばでニュースキャスターが事件を報道している最中だった。

「・・・警察はメルカトル博物館に進入を試みた2人の泥棒を路地に追い込みました。泥棒達は銃器を所持していた模様で、包囲した警察と撃ち合いになり、1名が射殺された模様です。残りの1名は・・・」

 キャスターは横にいたスタッフとちょっと言葉を交わし、またカメラに向き直った。

「失礼しました。残り1名は逃亡した模様です。警察が付近の住宅街を捜索中です。視聴者の皆さん、危険ですから、家から出ないで、ドアと窓をしっかり閉めて下さい。もし不審な人物を見かけたら、すぐに警察か当番組にご連絡を・・・」

 シオドアはパソコンを立ち上げた。先日のウィルス騒動以来、彼のパソコンは研究所や政府・軍関係のウェブサイトにアクセス出来なくなっている。しかし、SNSはまだ自由だ。開くと早速新鮮な情報がゾロゾロ出てきた。

ーー警察が撃ち殺したのは怪盗”コンドル”らしいぜ。
ーーマジか?
ーーすごいじゃん!
ーーだが”コンドル”は2羽いたんだ。1羽逃したんだよ。
ーー何やってんだか・・・
ーーどんな面の鳥なんだ?
ーーまだわからない。
ーーさっき自動車の部品工場へ入って行ったヤツじゃね?
ーー警察に連絡したか?
ーー通報しろよ、バカ!
ーー誰だ、僕をバカ呼ばわりしたのは?
ーー逃げたのはコンドルか? 黒豹じゃないのか?
ーーコンドルと黒豹のペアの泥棒か?
ーー黒豹は別件じゃないの?

 シオドアは深呼吸した。慌てるな、と己に言い聞かせた。警察が射殺した泥棒がセルバ人と決まった訳じゃない。ステファン大尉が殺された筈がない。
 彼はテレビもパソコンも点けっぱなしで暫し呆然と座っていた。”ヴェルデ・シエロ”が失敗する筈がない。きっと警察もメルカトル博物館が狙われると見当つけて張っていたに違いない。”コンドル”は罠に飛び込んでしまったのだろう。ステファン大尉のことだから、きっと逃げ延びたのだ。気の毒に射殺されたのはカメル軍曹だろう。
 シオドアは自分に都合の良いことだけを考えようと努力した。そうでもしないことには、不安で叫び出しそうだ。カルロ・ステファンとはロホ程も気を許し合った仲と言えなかったが、生死を共にする体験を2度も持った間柄だ。素っ気ない態度を取るが実直な男だ。そして使い方がわからない能力を持て余して孤独に耐えている姿は、生まれた場所に戻っても気の置けない仲間を得られないシオドアに共感を与えるのだ。
 ふと思いついて、シオドアはセルバ大使館の電話番号を検索した。以前も調べたのだが、番号を登録した携帯電話はセルバ共和国で失っていた。
 時刻は午後8時を過ぎていた。大使は業務を終えてオフィスにいないだろうと思いつつ、電話を掛けた。呼び出しが5回鳴って、女性の声が聞こえた。

ーーセルバ共和国駐米大使館・・・

繋がった! シオドアは逸る心を抑えて名乗った。

「ハーストと申します。大使とお話がしたい。」

 多分、断られるだろう。ダメ元だったが、相手は「ご用件は?」と尋ねてきた。これは以前と同じパターンだ。彼は思い切って言った。

「”コンドル”についてお尋ねしたいことがあります。」

 女性は少しも慌てず、お待ちください、と言って保留音を流してきた。シオドアは緊張した。大使館は怪盗”コンドル”のニュースを知っている様子だ。2分待たされて、以前出会った男性の声が聞こえた。

ーーセルバ共和国駐米大使 フェルナンド・フアン・ミゲールです。
「シオドア・ハーストと申します。以前、呪いの笛の処分でお世話になりました。」

 相手は5秒程間を空けてから、ご用件は? と尋ねた。シオドアは現在進行形のメルカトル博物館の泥棒騒動を知っていますか、と質問で返した。大使は知らなかった。少なくとも、電話ではそんな印象だ。

ーーあの博物館に泥棒が入ったのですか?
「こちらのローカルテレビで報道されています。泥棒は2名、1名は警察に射殺されました。残る1名は逃亡中。」

 大使が沈黙した。何か言ってくれ、とシオドアは焦った。大統領警護隊の友人は関係ないのだと言って欲しかった。必死で頭をフル回転させ、彼は別の質問を思いついた。

「大使、カルロ・ステファンのナワルは何ですか?」

 電話の向こうで大使が息を呑む音が聞こえた。シオドアがナワルを知っていることに驚愕したのだ。大使が絞り出すような声で呟いた。

ーーありません。
「え?!」
ーー彼は白人の血を持っています。ナワルを使えない・・・
「しかし・・・」
ーー何か見たのですか?
「え?」
ーー誰かのナワルと思われるモノを、貴方は見たのですか?

 シオドアは深呼吸した。正直に答えた。

「俺は何も見ていません。しかし、現在こちらで警察が黒豹を探しています。」
ーー黒豹?
「黒い豹です。」

 シオドアはミゲール大使が「有り得ない」と呟くのを聞いた。シオドアがどう会話を進めたものか迷っていると、大使が言った。

ーー本国と話をする必要があります。切ってよろしいか?
「スィ・・・」

 電話を切る直前、大使は一言、こう言った。

ーー豹ではなく、ジャガーです。エル・ジャガー・ネグロ。


2021/07/07

異郷の空 7

  夕食はシュライプマイヤーと一緒に食べた。長い付き合いだが、守られる人と守る人が向かい合って食事をすることはない。その夜、シオドアはステーキ用の肉を買って、一緒に食べようとボディガードを誘った。

「今夜は出かけないし、明日は昼前に出勤だ。君もたまにはゆっくり飯を食ってテレビを見て寝れば良いよ。」

 ビールも買ってあった。彼は自分でキッチンに立って肉を焼き、付け合わせのポテトを冷凍庫から出して温めた。シュライプマイヤーは黙って彼が忙しく働くのを見ていた。シオドアは彼の好みの焼き具合を知っていたので、ミディアムに焼き上げ、塩胡椒で味付けして皿に載せた。ポテトに塩をふりかけ、2人はテーブルに向かい合わせに座った。

「エル・ティティでさ・・・」

とシオドアは肉を切りながら話し始めた。

「俺は警察官の家で世話になっていたんだ。警察署長の家だから、ちょっとは大きい家なんだ。そこに署長は1人で住んでいる。彼の妻子は伝染病に罹って亡くなっていてね、彼はひとりぼっちなんだ。だからバス事故で記憶を失った俺を引き取って、息子の様に大事に世話をしてくれた。俺も楽しかったんだ。自分が誰なのかわからない不安はあったけど、署長の家で暮らしていた時が、俺にとって最高に幸せな日々だった。
 だから俺は、もう一度あの町へ帰りたいんだ。ここにいても何も面白いことも楽しいこともない。俺を愛してくれる人も俺が愛する人もいないんだ。」

 シュライプマイヤーが溜め息をついた。

「貴方が母国を捨てて外国へ移住したいと仰っても、私は意見する資格はないし、権利もありません。しかし、これだけは言わせて下さい。セルバ共和国は貴方が思っている様な楽園ではありません。あの国には不可解なことが多過ぎます。」

 その不可解なことの正体がわかっているシオドアは、ボディガードの不安を取り除いてやれないことを残念に思った。事実を伝えたところで、シュライプマイヤーの心は安心出来ない筈だ。シオドアの身を案ずるのは勿論のこと、彼自身の安全も脅かされると思うだけだろう。

「不可解なことが多くても、俺は行きたいんだよ。」

 するとシュライプマイヤーはシオドアが忘れかけていたことを持ち出してきた。

「一緒に遺跡発掘現場へ行ったイタリア人の考古学者が亡くなったことはご存知ですか?」
「うん。階段から落ちたんだ。」
「彼は必要以上に”消えた村”にこだわっていました。セルバ共和国では住民の過去に関して外国人が興味を抱くのは良くないと、私は聞かされました。あのイタリア人は誰かを怒らせたのです。」
「リオッタ教授が殺害されたと思うのか?」

 それの真実を知っているシオドアは、ボディガードがあの事件を早く忘れてしまえば良いのにと願った。覚えているから苦しいのだ。恐ろしいのだ。忘れてしまえば、”ヴェルデ・シエロ”は何もしない。

「考え過ぎだよ、ケビン。セルバ人と同じ様に、悲しい出来事はさっさと忘れて仕舞えば良いんだ。」

 するとシュライプマイヤーはシオドアが触れて欲しくないことを言った。

「今日のお昼に、公園で貴方が話をしていた男は、セルバ人でしたね?」
「え?」
「顔をはっきり見た訳ではありません。服装も冬服で厚着をしていたので体型もわかりませんが、歩き方は軍人に見えました。遺跡発掘現場で貴方の護衛をした大統領警護隊の中尉でなかったですか?」
「違うよ。」

 シオドアは否定したが、中尉ではなく今は大尉だと訂正もしなかった。

「ベンチに座っても良いかと声を掛けたら、向こうがスペイン語を喋ったので、懐かしくなってちょっと世間話をしたんだ。プエルトリコ人だと言っていた。」

 シュライプマイヤーはシオドアをじっと見つめていたが、シオドアも頑張って見返した。先に目を逸らしたのはボディガードだった。

「私は明日研究所に辞表を出します。」

と彼は言った。シオドアは黙っていた。驚かなかった。シュライプマイヤーはシオドアの我が儘にずっと我慢を強いられてきた。そしてセルバ人の不可解な能力を見せつけられ、仕事に失敗した。挙句に精神カウンセリングまで受けさせられているのだ。今まで辞めなかった方が不思議なくらいだ。

「辞めて次の仕事の宛てはあるのかい?」
「田舎に帰って兄弟の会社を手伝います。共同経営者ではなく一従業員としてね。その方が気楽だし、護身術教室でも副業でやってみますよ。」
「君なら、きっと面倒見の良い先生になれるさ。」

 シュライプマイヤーはビールをごクリと飲んで、またシオドアを見た。

「正直なところ、私も研究所に雇われて貴方を見張っているのは嫌でした。護衛するだけでなく、貴方の行動を逐一報告させられました。連中は貴方やオズボーン博士やゲイル博士を人間ではなく実験動物の様に考えています。」
「知ってる。生まれた時からずっとそうだった。」

 シオドアは自嘲した。

「連中は俺達を優秀な頭脳を持つ人間を開発する目的で作った。だから俺達の優秀な頭脳は幼いながらも連中の意図がわかっていたんだ。子供の頃はそれに何の疑いも持たなかった。大人になって、外の世界を知って、今までずっと間違った世界に住んでいたことに気がついたんだ。」

 彼はシュライプマイヤーにビールの新しい瓶を渡した。

「君が職業柄口が固いことを承知の上で言うよ。研究所で見たり聞いたりした話は絶対に故郷で喋るなよ。連中はセルバ人じゃないが、君をリオッタみたいな目に遭わせることだって考えられ得るから。」

 するとシュライプマイヤーが初めて表情を和らげた。

「ハースト博士、貴方は事故に遭ってから、本当に良い人になられた。」


異郷の空 6

  基地からの帰路、シオドアはメルカトル博物館近くの公園で車から降りた。彼を途中下車させることにシュライプマイヤーは迷ったが、シオドアは公園を散歩して歩いて帰ると言い張った。

「今日一日休みをもらったんだ。のんびりさせてくれよ。」

 ボディガードに帰宅して夜まで自由にしていろ、と言った。そして返答を待たずにコートのポケットに手を突っ込んで晩秋と言うより初冬の気配が濃い湖畔の細長い公園を歩き出した。平日のお昼で、あまり人は多くなかった。散歩をしたりジョギングをしているのは時間を気にしない年配者達だ。若い人は夜の仕事へ行く前の運動だろうか。小さい湖は泳いで横断できるので夏場はビーチが賑わうのだが、流石にこの季節の水辺は閑散としていた。
 空腹を覚えたシオドアはホットドッグスタンドを見つけてホットドッグとコーヒーを買った。両手が塞がってしまい、何処かで座って食べようと周囲を見回すと、水際に近い所にベンチがあった。男が1人、右端に座ってコーヒーを飲んでいた。シオドアは左側へ行って、相手をよく見ないで声を掛けた。

「こちら側に座って良いですか?」

 すると、男が湖を見ながら答えた。

「どうぞ。」

 スペイン語だったので、シオドアは思わず相手の顔を振り返り、もう少しでコーヒーとホットドッグを落としそうになった。

「前を向いて。」

と男が囁いた。シオドアは英語で有り難うと言って、前を向いた。公園内には所々防犯用のC C T Vが設置されていた。彼は湖を見ながら、ゆっくりとホットドッグを齧った。自然に頭がスペイン語に切り替わった。

「とっくに帰国したと思っていた。」
「一度帰りました。今は別件で任務に就いています。」

 シオドアは間違いであって欲しいと思いつつ、予想していたことを尋ねた。

「”コンドル”は君かい?」

 相手は否定しない代わりにこう言った。

「そんな名前を名乗った覚えはありません。」

 やはり美術品泥棒は大統領警護隊のステファン大尉だったのだ。

「3件の訴訟対象を処分するのに、ダミーを12件も盗むなんて無謀じゃないか?」
「ダミーはいずれ警察が見つけるようにしてあります。」
「セルバのものだけ足りなければ、怪しまれるぞ。」
「ダミーのうち、本当に博物館に置く値打ちのないものは捨てました。偽物を本物として展示して金を取るのは詐欺ですよ。警察は捨てられたと知らずに、売り捌かれたと思うでしょう。」

 シオドアはなんと評価して良いのかわからなかった。

「いつまで続けるんだ?」
「あと1件で終わりにします。」

 シオドアは思わずメルカトル博物館がある方向を向きそうになって、自重した。

「悪いことは言わない、今止めて帰れよ。」
「・・・」
「君1人かい?」
「部下が1人います。飛行機の中で見たでしょう?」
「スィ、彼も君の一族かい?」
「彼は”ヴェルデ・ティエラ”です。だが特殊部隊の人員で、私とは別の上官の指示で私と行動を共にしています。」
「特殊部隊でも盗難品の処理に当たるんだ。」
「実を言うと、私達も初めての経験で戸惑いました。特殊部隊の方から外国での任務だからと申し出があったのです。」
「少佐は承知したのか?」
「特殊部隊の隊長から警護隊の司令に強い要請があったそうです。特殊部隊の隊長は一族の人間で、古い家柄です。司令も少佐も反対出来る立場ではありません。」

 もしかすると泥棒行為もその古い家柄の軍人からの提案かも知れない、とシオドアは思ったが、あまり複雑な話し合いが出来る場所ではなかった。
 彼はホットドッグを食べてしまい、温くなったコーヒーを啜った。

「俺はコンピューターウィルスを作って、研究所の全てのコンピューターからセルバに関するデータを全部消してやったよ。お陰で研究所も基地も追い出されて、今は外で暮らしている。コンビニの店員をしているんだ。食い物に困ったら、援助するよ。」

 ステファン大尉が微かに笑った。それは頼もしい、と彼は呟いた。
 大尉のポケットで携帯が鳴った。大尉は画面をチラリと見た。

「カメル軍曹が呼んでいるので行きます。」

 互いの顔をまともに見ることもなく、ステファン大尉は立ち上がり、空になったコーヒーカップをゴミ入れに突っ込んで去って行った。シオドアは湖を見ながら、彼の無事を祈るしかなかった。


2021/07/06

異郷の空 5

 季節は秋になろうとしていた。テレビや新聞を賑わせているニュースがあった。東海岸で博物館や大学、個人宅で中南米の石像や壁画の欠片を盗まれる事件が15件も連続して起きていた。取材する人間によって伝える内容が微妙に異なっていて、マヤやアステカ、シカン、インカなど、古代文明の名前がごっちゃになっていたので、メソアメリカと中央アンデス文明の文物を見境なく盗む泥棒の様に考えられた。しかしシオドア・ハーストは泥棒の本当の目的は一つだと分かった。盗難に遭った15件のうち3件が、返還訴訟問題の最中にあった古代セルバ文明の石像と壁画の破片だったからだ。セルバ共和国文化・教育省は盗難にあったのは博物館のセキュリティが甘かったからだと非難し、訴訟を取り下げるつもりはないと言い張った。博物館の方は返すつもりがなかったが、肝心のものが盗まれて手元にないので、訴訟を取り下げろと要求した。 
 15件の盗難事件のうち12件はカモフラージュだ、とシオドアは思った。3件のセルバ文明の美術品は盗賊に盗まれたのではない、セルバ政府が取り返したに違いない。中南米諸国で一番マイナーで無名に近いセルバ文明の出土品が5分の1の確率で狙われるとは信じ難い。恐らく、遠くない未来にセルバ共和国は訴訟を断念する筈だ。
 メディアは正体がわからない中南米美術品泥棒を”コンドル”と勝手に名付けて、色々な憶測を書いたりコメントを述べたりしていた。彼等の一致した意見は、怪盗コンドルは古美術品マニアと言うものだ。
 シオドアはメソアメリカ文明専門の博物館でまだ”コンドル”の被害を受けていない所が、自宅近くにあることに気がついた。例のメルカトル博物館だ。あそこのセルバ文明の出土品は大統領警護隊文化保護担当部がマークするような重要な物ではなさそうだったが、アステカの綺麗な壺が展示されていた。いかにも泥棒が狙いそうだ。”コンドル”が世間の目を欺くのに都合の良い美術品だ。”コンドル”はセルバ人だと見当をつけたシオドアは、それが”ヴェルデ・シエロ”なのだろうかと気になった。大統領警護隊に所属していなくても政府の裏の仕事をする人間がいる可能性はあった。セルバ共和国政府は文化財をただ取り戻そうとしているのではない、古代の神様の存在を匂わせる物を回収しているのだ。それは神様の存在が現代に繋がっているからだ。回収された美術品はただの石像や壁画ではない。きっとオルガ・グランデの実力者ミカエル・アンゲルスの生命を奪ったネズミの神像の様に、今も生きたパワーを持っている石物なのだ。神様の力が目覚める前に回収して災いを防ぐ。

 それが大統領警護隊文化保護担当部の真の役目だ!

 シオドアは頭をポカリと殴られた気分になった。ただの盗掘の取り締まりなら、セルバ国家警察や憲兵隊に任せれば済む。”ヴェルデ・ティエラ”、即ち普通の人間でも出来る仕事だ。それを”ヴェルデ・シエロ”自ら先祖が残した物を管理して守っているのは、神像などに残る先祖の力の名残を抑え切れるのが子孫である彼等しかいないからだ。
 シオドアは突然不安に襲われた。彼が北米に送還された時、同じ航空機に乗り合わせたカルロ・ステファン大尉と部下は、帰国したのだろうか。
 そんな時、エルネスト・ゲイルから久しぶりに電話がかかってきた。メルカトル博物館の土産物屋で買った呪いの笛で人事不省に陥り傷害事件を起こした元助手のデイヴィッド・ジョーンズが退院するので、会ってやってくれと言うのだった。シオドアもジョーンズのことは気にかかっていたので、翌日仕事を休んで基地へ出かけた。勿論シュライプマイヤーが運転する車で行ったのだ。彼1人で基地に出入りすることは警戒されていた。 
 ジョーンズとは陸軍病院の面会室でワイズマン所長とエルネストと共に面会した。酷くやつれた元助手の姿はシオドアにとって悲しみでしかなかった。ジョーンズは呪いを解く笛のお陰で正気に戻ってから、自身が犯した罪をどうしても思い出せず、鬱状態になっていた。抗鬱剤とセラピーのお陰で精神状態が安定し、3ヶ月間穏やかに過ごせたので、故郷に帰ることになったのだ。結局のところ警察は、彼が狂気に陥った原因を笛に古い麻薬の成分が残っていて、それを吸ってしまったのだろうと結論づけた。
 シオドアはジョーンズに新しい生活が良いものとなるように祈っていると言って、励まして別れた。
 彼は病院で落ち合ってから別れる迄ワイズマンとエルネストが彼を観察していることを意識していたが、気づかないふりをした。ジョーンズの退院は彼を呼び出す口実だったのかも知れない。

異郷の空 4

  シオドアは2日程アパートに閉じこもってパソコンで何やら作業していた。食事を運ぶアリアナとも口を利かず、エルネストは門前払いを食った。
 3日後、国立遺伝病理学研究所の旧シオドア・ハーストの研究室のメンバー達のパソコンにシオドアからメールが届いた。メールには”7438”と言う名前の添付ファイルが含まれていた。遺伝子分析研究室の科学者達は、シオドアがサンプル”7438・F・24・セルバ”の元の人間を探しに行ったことを知っていた。だから数人がほぼ同時にその添付ファイルを開いた。
 数10秒後、研究室の全ネットワークがダウンした。研究所だけでなく基地が大騒ぎになったのは言うまでも無い。シオドア・ハーストがウィルスを仕込んだメールを研究所内に拡散させたのだ。直ちにシステム復旧の作業が始まり、知らせを受けたホープ将軍はシオドア・ハーストを拘束した。目的を訊かれてもシオドアは黙りで通した。やがて被害の実態が判明すると、研究所の人々はシオドアの行為に首を傾げた。
 ”セルバ”と言う単語を含む文章、遺伝子分析ファイル、グラフ、表などが消されていた。キーワードが”セルバ”と言う単語であることに気がついたのはエルネスト・ゲイルだったが、それがわかったのはウィルス騒動から4日も経ってからだった。大量のデータが消されたことはわかっていても、消されているので内容の確認に時間がかかったのだ。

「シオドア・ハーストは狂っているらしい。」

とホープ将軍がワイズマン所長に言った。

「脳の働きが優秀過ぎると、こう言うことが起きやすいのだろうな。」

 将軍の根拠のない偏見に、シオドアの遺伝子組み替えの指揮を執ったワイズマン所長はムッとなったが、将軍をこれ以上怒らせたくなかった。

「ハーストを基地の外へ出します。監視付きで外で生活させます。」
「病院に入れた方が良いのではないか?」
「彼は重度の統合失調症ですが、他人に危害を加える恐れはありません。静養させます。時間がかかっても治してやりますよ。」

 そう言う経緯で、シオドア・ハーストは研究所からも基地からも追い出され、近くの小さな住宅街にアパートを与えられた。但し一人暮らしではない。ケビン・シュライプマイヤーが監視を兼ねて同居だ。シオドアは彼と日常の会話を交わしたが、どちらもセルバ共和国の思い出は話さなかった。シュライプマイヤーはシオドアがコンビニのレジ係のバイトを始めたと報告して、研究所を驚かせた。彼がそんな普通の庶民が行う仕事をするなど、誰も想像しなかったからだ。
 ダブスンは彼がいよいよ本格的におかしくなったと言い、エルネスト・ゲイルは何か裏があると疑った。アリアナは彼が本気で過去を捨てたがっていると確信した。
 シオドアが消したデータは復旧に時間がかかった。元データをシオドア自身が所持していたので、それを本人が復旧不可能な状態に破壊していたからだ。
 シュライプマイヤーは毎日コンビニの外で車中に座ってシオドアが接客するのを見ていた。シオドアは裏方の商品搬入やゴミ出しも行っていて、バイト仲間と交代で夜勤も行った。普通の店員だ。店の客は選べない。ヒスパニック系の客が来ると、シュライプマイヤーは彼自身の血圧が上がるのを感じた。彼もセルバ共和国にわだかまりがある。それをどうしても拭い去ることが出来ないでいた。彼の場合、接触したのはケツァル少佐とデネロス少尉だけだ。女性だ。彼はコンビニにヒスパニック系の女性が買い物に来ると、どうしても車から降りて様子を伺いに店内に入ってしまった。

「君みたいにいかつい男が来ると、客が怯えるんだよ。」

とシオドアから苦情まで言われた。

「オーナーだって良い顔しないし。セルバ人なんかこんな所にいないんだから、家に帰ってろよ。」

 実を言うとオーナーは用心棒が睨んでいるので質の悪い客が寄り付かなくて良いと喜んでいたのだが。
 その翌日、夕方帰宅するとシュライプマイヤーが地方紙を見せてくれた。シオドアは新聞を購読する習慣がなかったし、地方紙は全く関心がなかった。しかしボディガードがここを読んでくれと指した記事には思わず目を通してしまった。 
 それはアメリカ国内の3つの博物館にセルバ共和国文化・教育省が所蔵品の返還を要求したと言うものだった。セルバ共和国の遺跡から盗掘された壁画や彫刻が北米で売買されていると言う情報を得たセルバ共和国大統領警護隊文化保護担当部が現地調査して、正規のルート以外で国外に持ち出された美術品を発見した。それで政府の関係機関が当該美術品を所蔵・展示している博物館に返還を求めたのだ。博物館側は盗難品だとは知らなかったと主張した。1軒はセルバ共和国に買い取りを求め、残りの2軒は頑なに返還を拒んだ。セルバ共和国は盗まれた物にお金を払って返してもらう気はさらさらなく、訴訟問題に発展する兆しが見える、と記事は伝えていた。

「お金が絡んで来ると厄介だな。」

 シオドアはシュライプマイヤーに新聞を返した。

「俺には、壁画や彫刻の価値がわからない。ヨーロッパの美術品だったら、多少の値段の見当はつくけど、考古学的なものはさっぱりさ。」

 彼は関心なさげに夕食の準備をしにキッチンに入った。コンビニでもらったお手軽ミールだ。シュライプマイヤーの分もある。その分給料から引かれるのだが、彼は文句を言わなかった。金銭感覚は鈍いのだ。


2021/07/05

異郷の空 3

  1週間程してエルネスト・ゲイルがシオドアのアパートに訪ねて来た。この男も遺伝子操作で生まれた人間だ。アリアナやダブスンに言わせると特別選抜の3名の子供の中で一番劣っていたそうだが、今は最優秀児だったシオドアが使い物にならなくなったので、やっと出番が回ってきた感があった。彼は手土産にチョコレートとブランデーを持って来た。

「ヤァ、兄弟。調子はどうだい?」

 シオドアは彼が何か探りに来たのだとしか思えなかった。

「体調は良いよ。」

と彼は言った。

「だが過去は一切思い出せないし、仕事に戻りたいと言う意欲も湧かない。研究所は俺を養う無駄な費用を打ち切って、俺を外へ放り出してくれないかな。俺は肉体労働でも何でも生きて行くためにやってみせるさ。セルバ共和国でもそうやって暮らしていたんだから。」
「冗談だろう。」

 エルネストが作り笑いを浮かべた。

「君がただの市民のふりをして暮らしていたとは思えないな。探していたんだろ?」
「何を?」

 彼はシオドアの目を見つめた。シオドアも相手の目を見たが、互いの言いたいことは全く伝わらなかった。遺伝子構成が似ていると言っても、”ヴェルデ・シエロ”と俺達は全く違うんだ。遺伝子を組み替えても、普通の人間は”ヴェルデ・シエロ”にはなれない。
 エルネストが言った。

「セルバ共和国の伝説の神様さ。」

 ドキリとした。エルネストはシュライプマイヤーやアリアナが目撃した”消える女”の話を聞いたのだ。そしてシオドアが記憶を失う前にこだわったセルバ人労働者のサンプルに思い当たったのだろう。助手のデイヴィッド・ジョーンズが呪いの笛でおかしくなった時、あの小さな私立の博物館でセルバ共和国の神話が書かれた説明板を読んだ可能性も合った。

「神様がいる筈ないじゃないか。」

 シオドアはぶっきらぼうに言い返した。

「コカインの産地が近いんだ。俺が何かおかしな物をゲリラに飲まされた可能性の方が、俺が話したと言う奇妙な体験話の真相への説得力がある。」
「アリアナやケビンもコカインをやったのかい?」
「彼等のことなんか俺が知るものか。」

 その夜、食事を届けに来たアリアナに、エルネストとの会話を語って聞かせた。彼女はコカインを摂取したと言うシオドアの説に憤慨した。

「本当に私達の目の前で、あのセルバ人の女の子は消えたの! そして不意に現れた。3人同時に同じ幻覚を見る筈がないわ。」

 そして涙ぐんだ。

「私だって精神科医から色々聞かれたのよ。でも本当に見たことしか言えないじゃない!」

 彼女の剣幕にシオドアは黙り込むしかなかった。彼女もボディガード達も実際に”ヴェルデ・シエロ”の能力を目撃してしまったのだ。 だが、まだ3人だけだ。同じ場所で同時に見た。まだ何かトリックが存在したと誤魔化せる。

「もし、本当にセルバ人が姿を消せるのだとしたら、君は正常だと納得出来るかい? 」

 アリアナは硬い表情で彼を見たままだった。

「私は正常よ。ケビンも正常。貴方だって本当は見たのでしょう? 」
「幽霊やジャガー男を?」

 シオドアは自分で笑って見せた。出来るだけ自然に見えるように、目が笑っていると見えるように。しかしアリアナは誤魔化されなかった。

「貴方はセルバの神様に魅入られているのよ。」
「神様なんていないよ。セルバ人は俺達と同じ人間だ。」
「それじゃ、どうして貴方は遺伝子分析を止めたの? 彼等の正体を暴くのが恐ろしいからじゃないの?」
「俺は記憶を失ってから遺伝子に興味を失った。前回サンプル集めに行かせて欲しいと要求したのも、セルバに逃げ出したかっただけで、出国の言い訳を作ったんだ。神様の遺伝子なんか俺には関係ないね。」

 アリアナが溜息をついて彼から離れた。帰り支度をしながら彼女は最後に言った。

「エルネストは本気よ。私とケビン、それに貴方が見た者を探っているわ。」

 彼女が帰ると、シオドアはパソコンを立ち上げた。博物館とセルバをキーワードで検索すると、確かに5軒の博物館が確認出来た。1軒は有名な大きな博物館で、残りは小さな所だった。研究所から近い、シオドアの助手が呪いの笛を買った博物館もあった。メルカトル博物館だ。展示物の写真を見ると、大統領警護隊文化保護担当部が国外持ち出しを辛うじて目溢しする割れた土器やレプリカの壁画が殆んどだった。本物の出土品を展示しているのは一軒だけ、メルカトル博物館だ。ステファン達は来るだろうか、とシオドアはちょっと期待した。セルバ人と話をしたかった。

2021/07/04

異郷の空 2

 2日後、シオドアはロバートソン少佐と共にグラダ・シティ国際空港から飛行機に乗って母国へ飛び立った。民間機なので 様々な乗客が一緒だった。軍用機で強制送還されるかと思っていたシオドアは少しだけリラックス出来た。セルバ人のビジネスマンや旅行者も多い。機内は英語とスペイン語が飛び交って賑やかだった。飛行距離も長くないので、エコノミークラスだ。シオドアは窓側の席を与えられたが、トイレは自由に行かせてもらえた。
 通路を歩いて行くと、セルバ人の団体が固まって座っていた。旅行に行くのだろう、ツーリズムガイドをめくっていたり、地図を広げて隣の人と喋っていたり、楽しそうだ。何気なく彼等の様子を眺めながら歩いていたら、いきなり知った顔を見つけてしまった。
 錯覚かと思ったが、間違いなかった。浅黒い肌に白人の血が混ざった顔、髭は剃っているが鋭い目付きは変わらない。
 カルロ・ステファン?! どうしてここに?
 目が合った。残念なことにシオドアは”心話”が出来ない。ステファンが唯一生まれつき自由に使える”ヴェルデ・シエロ”の能力なのに。挨拶代わりに、シオドアは微かに微笑みかけた。向こうもウィンクした。そして隣席のシオドアが知らない若い男に話しかけた。

「セルバの遺跡から出た彫刻等を所蔵している博物館はそんなに多くないな。」

 話しかけられた男もメスティーソで、5館ほどですね、と答えた。それなら検索ですぐに出てくるな、とシオドアは思った。ステファンはさりげなく行き先を教えてくれた、と彼は思った。恐らく国外に流失したセルバ共和国の文化財の調査に行くのだろう。古代の神様の子孫が飛行機に乗っていると言うことが予想外だったので、ちょっと可笑しく思えた。
 トイレで用を足して出ると、驚いたことにステファンが順番待ちをしていた。シオドアは短く尋ねた。

「公務だね?」
「スィ。」

 シオドアは早口で国立遺伝病理学研究所の場所を告げた。

「居住区域だったら民間人でも入れるんだ。」

 困ったことがあれば何時でも訪ねて来いと言う意味で言った。勿論、シオドア自身が自由に面会者を迎えられるかどうか不明だったが。ステファン大尉は「グラシャス」と言って個室の中に入った。
 それから飛行機が着陸して入国審査を済ませる迄、セルバ人達と言葉を交わす機会はなかった。空港のロビーで3人のスーツ姿の男が待ち構えており、シオドアは窓を黒く塗られたバンに乗せられ、真っ直ぐ国立遺伝病理学研究所へ連れて行かれた。
 それから半月余り地獄の様な日々が続いた。ホープ将軍とその子飼いの科学者達はシオドアがセルバ共和国で行方不明になっていた期間に、何をしていたのか知ろうと躍起になった。まるでスパイの尋問みたいにシオドアは質問攻めにされ、薬剤を打たれ、催眠術も試された。シオドアは友人達の秘密を守るために頑張った。他人とは違う脳の働きを最大限にフル回転させ、催眠術も薬剤も乗り切った。

「頑固な記憶喪失だな。」

とワイズマン所長が評した。

「バス事故で記憶を失った上に、ゲリラに襲われてまた記憶喪失の上書きか?」

 薬剤を打たれた時に喋ってしまったのは、反政府ゲリラに誘拐された時の体験だった。縛られて頭から袋を被せられ、ジャングルの中を歩かされたこと、服の中にムカデが入ってきたこと。そして科学者達を困惑させたのは、シオドアが語った真実だった。

「石の家の中にいたら幽霊の声が聞こえた。」
「ジャガーが助けてくれた。」
「ジャガーは友達のナワルだったんだ。」
「俺が暮らした村はまだJ・F・Kが生きていた時代に存在したんだ。」
「太陽に背中を向けて歩くと、時間を早回しで現代に戻ってこられるんだ。」

 精神科医はホープ将軍とワイズマン所長にシオドア・ハーストは統合失調症の可能性があると報告した。
 シオドアは研究室への出勤を止められ、無期限の休業を言い渡された。研究所にあるかも知れないセルバ人の遺伝子情報の確認は出来なくなったが、シオドアには休息が必要だった。半月間の尋問は流石の彼も気力を失う程に精神的にこたえた。休業を言いつけられて3日間、彼はアパートで寝ていた。メイドは彼が些細なことで癇癪を起こして以来怖がって来なくなったので、アリアナ・オズボーンが世話をしに来てくれた。
 遺伝子工学に全く興味を失ってしまったシオドアに、アリアナは仕事以外の話をしようと努めた。

「セルバの女性は神秘的よね。」

 お茶を淹れて一緒にテレビを見ながら、彼女が囁いた。シオドアはカウチにもたれかかって、つまらないコメディドラマを眺めていた。

「どう神秘的なんだ?」

 アリアナは、彼を刺激する恐れのある話題は避けろと精神科医から忠告されていたが、他に話題を思いつかなかった。

「彼女達はとても親切で優雅で美しいの。でも隠し事が上手。どこまでが本当のことを言っているのか、わからない。」
「彼等は軍人だ。ここの連中だって、本当のことを言わないだろう。国家機密を扱うのだから、当たり前さ。」

 アリアナは彼を見ないで呟いた。

「マハルダは、私達の目の前で消えたのよ。」

 彼女には気の毒だったが、シオドアは声をたてて笑ってしまった。

異郷の空 1

  大使館では、シオドアがケツァル少佐の部屋を訪ねてから行方不明になり、出頭する迄の約2ヶ月間の行動をしつこく聞かれた。特にケツァル少佐のアパートから姿を消した時の経緯を大使館は知りたがった。彼がアパートの建物から出たところを誰も目撃しておらず、防犯カメラにも写っていなかったからだ。しかしシオドア自身、どんな方法で少佐の部屋から出たのか知らなかったし、時空の狭間に飛ばされていたなどと誰も信じないと分かっていたので、記憶にないとひたすら突っぱねた。
 本国からホープ将軍の部下であるキャサリン・ロバートソン少佐がやって来た。彼女は昔のシオドアを知っている口ぶりだったが、彼は彼女のことを全く思い出せなかった。彼女はブロンドだったが眉が濃いブラウンだったので、髪を染めているのかと余計なことを言って機嫌を損ねた。同じ女性の少佐でもケツァル少佐より10歳以上は上で、体格も大きい。シオドアに白人に対して蔑視するつもりはなかったが、ロバートソン少佐に少しも魅力を感じなかった。

「ケビン・シュライプマイヤーは覚えているわよね?」

ときつい口調で彼女が質問した。シオドアは覚えていると答えた。海兵隊出身のボディガードに恨みはなかったが、散々迷惑をかけてしまったと言う自覚はあった。

「ケビンは今、メンタル・カウンセリングを受けているわ。」
「俺のせいで?」

 ちょっと驚いた。そんなダメージを与えることをしただろうか。ロバートソン少佐はファイルをめくりながら言った。

「貴方が大統領警護隊の女性のアパートから消えた件。ケビンは貴方が建物に入るのを確かに見たと主張している。正面入り口の防犯カメラにも入って行く貴方は映っていました。でも出て行く姿はどこにも映っていない。」
「他に目撃者は?」
「ケビンの相棒のジョン・クルーニー。彼も知っているわね?」
「うん。だけど・・・俺はその日の記憶がないんだ。」

 シオドアは考えるふりをした。

「ケツァル少佐に会って、彼女の車に乗ったのは覚えている。降りたのも覚えている。だけどアパートに入ったかどうか、記憶がない。防犯カメラに出て行く姿が映っていなかったのは、俺だけかい? それともケツァル少佐も映っていなかったのかな?」
「ケツァル少佐は映っていました。部下の男性は映っていなかったわ。でも彼が少佐のアパートを出たと証言した時刻、防犯カメラは故障していたの。」
「それじゃ、俺はアパートに入らなかった。」
「ケビンとジョンが嘘をついていると?」
「俺は記憶がないから、肯定も否定も出来ない。」

 ロバートソン少佐はページをめくった。

「アリアナ・オズボーン博士がグラダ・シティに来た日の出来事。」
「アリアナがここへ来た?」

 シオドアは初耳だと言うふりをした。ケツァル少佐にアリアナが来ていることを教えられた時、少佐がアリアナに渡したサンプル”7438・F・24・セルバ”の資料を処分してくれと頼んだのは彼自身だった。

「いつ?」
「貴方が消えてから4日後。」

 ロバートソン少佐は彼をじっと見つめた。

「この時も、ケビンとジョンは不思議な証言をしているわ。」
「不思議な証言?」
「オズボーン博士はケツァル少佐を役所に訪ねた。その時に貴方の資料をケツァル少佐から渡されたと言っている。」
「どうして俺の資料をケツァル少佐が持っていたんだろう?」

 シオドアはわざととぼけて見せた。ロバートソン少佐はそれに答えずにファイルを読み続けた。

「オズボーン博士はそれをホテルに持ち帰った。その際、ケツァル少佐の命令でデネロスと言う若い女性が彼女の護衛と言う名目でホテルの部屋迄同行した。」
「デネロス?」
 
 シオドアはまたとぼけた。マハルダ・デネロス少尉とは一回しか会っていない。知らないふりをするのは簡単だった。

「その夜に、デネロスはオズボーン博士の隙を見て、貴方の資料を焼いてしまった。」
「ええ!」

 我ながら上手い演技だ、とシオドアは内心己を褒めた。

「俺の大事な資料を焼いてしまっただと!」

 ロバートソン少佐は無視した。ケツァル少佐並にクールだ。

「オズボーン博士はデネロスが書類を焼いた時、火事が発生したと勘違いした。彼女は2人のボディガードを呼び、室内に入れた。その時、ケビンもジョンもデネロスの姿を見ていない。それなのに、デネロスは不意に戸口に姿を現し、廊下へ逃げた。ケビンは追いかけたが、トイレに追い込んだ筈なのに、デネロスの姿は消えていた。それきり、彼はデネロスを見ていない。」

 つまり、最低でも2回、シュライプマイヤーはマハルダ・デネロスの姿を見失ったのだ。消える筈のない場所で。
 シオドアは”赤い森”に捕虜にされたロホを救出に行った時の様子を思い出した。ステファンの陽動作戦でディエゴ・カンパロと手下達がキャンプから走り去った後、ロホのそばに1人だけゲリラが残った。そのそばにケツァル少佐が歩み寄った時、ゲリラは全く気づかなかった。彼女の姿が見えなかったのだ。シオドアには見えていたのだが。
 ”ヴェルデ・シエロ”は消えることが出来るのではなく、他人に己を見えないと思わせることが出来るのだ。

「不思議だなぁ。」

とシオドアは言った。

「人間が消えたり現れたり・・・ケビンはカウンセリングを受けて当然かもな。疲れているんだよ、俺が勝手に家出したりしたから。」
「どうして家出したのかしら?」
「今迄の生活に飽きたからじゃない?」

 他人事の様に言って、ロバートソン少佐にグッと睨みつけられた。

「貴方はアメリカ政府のものなのよ。貴方の人生は貴方だけのものではないの。」

 だから嫌なんだよ、とシオドアは心の中で呟いた。

第11部  紅い水晶     21

  アンドレ・ギャラガ少尉がケツァル少佐からの電話に出たのは、市民病院に到着して患者が院内に運び込まれた直後だった。 「ギャラガです。」 ーーケツァルです。今、どこですか? 「市民病院の救急搬入口です。患者は無事に病院内に入りました。」  すると少佐はそんなことはどうでも良いと言...