2021/06/27

はざま 5

  アリアナ・オズボーンは自国の役所も外国の役所も彼女自ら出かけたことがない。だから雑居ビルの前にシュライプマイヤーが停車して、ここが文化・教育省です、と言った時は冗談かと思った。ボディガードの説明に従って入り口にいる女性軍曹にパスポートを提示し、リストに名前を記入した。軍曹がラップトップに彼女の氏名を入力し、入館パスを発行してくれた。シュライプマイヤーが彼女に続こうとすると、軍曹は彼を引き留めた。

「身分証。」
「今朝も来たじゃないか。」
「身分証。」

 顔パスは通じない様だ。アリアナは早く目的の人物に会いたかったので、彼に外で待機してくれと頼んだ。シュライプマイヤーは仕方なく承知し、少佐は4階です、と教えた。
 階段を上りながら、アリアナはケツァル少佐はどんな女性だろうと想像してみた。シオドアが女友達のことを話すような感じで彼女を語ったことはなかった。何か世話になった人、頼りになる人、と言う口振りだった。きっと大柄でどっしりとした体格の南米女だろう、と彼女は想像した。シオドアが惹かれるタイプではない筈だ。彼は細身でキリリっとした顔立ちでロングヘアの女性が好みだった。私みたいに・・・。
 3階と4階の中間の階段が折れ曲がったところにトイレがあった。トイレであることは分かった。壁の表示は M と H、一文字ずつだった。アリアナは立ち止まり、考えた。女性用はどっち?  そこへ下から上がって来た男性が彼女をチラリと見て、H のドアの向こうへ消えた。 そうか、hombre (男性)とmujer (女性)か! 空港のトイレ表示と違っていたので、迷ってしまったのだ。空港では caballero (紳士)と dama(淑女)だった。彼女は女性用に入った。昂った気分を鎮めるために化粧直しをしたかった。
 トイレの中は清潔だった。掃除が行き届いており、開発途上国のトイレは汚いと言う彼女の偏見を払拭してくれた。綺麗な鏡の前に立った時、後ろの個室から水を流す音が聞こえた。先客がいた。アリアナがパフで顔を軽く叩いていると、個室から若い女性が出て来た。細身でキリリっとした顔立ちの先住民で、黒いロングヘアは艶々だった。背はアリアナほど高くなかったが、アメリカ女性の平均身長より低くもない。カーキ色のTシャツとジーンズ姿で、アリアナの隣に立って手を洗った。ラフな服装だが、職員だろうか、客だろうか、と彼女はぼんやり考えた。綺麗な人だわ。

「何でしょうか?」

 突然女性の方から声をかけて来て、彼女はびっくりした。ドキドキした。向こうは直接こっちを見ている。アリアナはハンサムな男性に声を掛けられた様な気分で、狼狽えた。思わず英語で応じた。

「考え事をしていました。貴女を見ていたのではありません。」
「遠くから来られたのですか?」

 アリアナは気が動転していたので、相手が英語に切り替えたことに気づかなかった。

「ええ・・・あの、ケツァル少佐に面会に来ました。彼女は席にいますか?」
「今は席にいません。」

と女性。

「戻られるまで待ちます。」
「アポは取っておられますか?」
「いいえ、今日、この国に来たばかりです。」

 アリアナはパスポートを出した。目の前の女性はこの役所の職員だろうと見当が付いた。女性は彼女のパスポートを開いて眺め、直ぐに返してくれた。

「4階は考古学関係の部課です。遺跡発掘の申請ですか、それとも見学ですか?」
「違います。」

 アリアナは本当の用件を無関係の人間に言いたくなかった。少し迷ってから、研究所のI Dを出した。

「これをご覧になれば、少佐は私に会って下さる筈です。」

 女性は関心なさそうに彼女の身分証を見て、それから手を振った。

「ご案内します。ついて来なさい。」

 トイレから出て4階へ上がると、広い空間で大勢の職員が事務仕事をしていた。大声で電話相手に怒鳴っている男性や、カウンターで職員相手に喋りまくっている女性、旧式のタイプライターを叩いている初老の職員、その横のパソコンで何やらCGを用いて遺跡の立体地図を表示して数人に見せている女性・・・。 想像したより賑やかな場所だった。
 アリアナを案内してくれた女性は、カウンターの奥に目を遣り、すぐにアリアナに向き直った。

「アンティオワカ遺跡は既に受付が終了しています。見学だけでしたら、グラダ大学考古学部に申し込めばすぐに許可が下りるでしょう。こちらから連絡を取りましょうか?」

 何のことだろう? アリアナは一瞬ぽかんとした。意味がわからない。しかし、女性がウィンクした。イエスと言え、と言われた気がした。彼女は言った。

「ええ、お願いします。」

 女性はアリアナをカウンターの中に招き入れ、一番奥の区画へ案内した。書類が山積みされた机が5つ集まっており、男が3人いた。
 1人は女性と同じカーキ色のTシャツにジーンズ姿の若い男性で、まだ幼く見える顔立ちだった。もう1人はベージュの開襟シャツにジーンズで、火が点いていないタバコを咥えていた。ゲバラみたいな髭を生やしているが、これも若い。この2人はパソコンで作業中だった。最後の男は、ちょっと異なる雰囲気を漂わせていた。黒いTシャツの上に白い麻のジャケットを着込み、白い麻のズボンを履いている。靴も白い革靴だ。この中年の男性と若い男は先住民の顔立ちだった。髭面はセルバ人の平均的な人種メスティーソだろう。白人の要素が濃い顔立ちだ。
 ジャケット姿の男が近づく2人の女性を見て、椅子から立ち上がった。右手を左胸の心臓のあたりに置いて、頭を下げた。

「今日もご機嫌麗しく・・・」

 アリアナは彼のスペイン語を全部は理解出来なかった。ただ、最後に彼がケツァル少佐と言ったのは聞き取れた。
 え? と彼女は案内してくれた女性を見た。女性は、男の挨拶に返礼することもなく、”S ・Q・ミゲール”とネームプレートが置かれた机の前に座った。彼女は敢えて英語で言った。

「今日は何の御用です、セニョール・シショカ。私はお客様をお待たせしたくありません。1分以内に用件を言わないと、中尉にカウンターの外へ叩き出させますよ。」
 
 アリアナは、男が自分の方を見たので、ドキッとした。男の目は黒く冷たかった。初対面なのに憎悪さえ感じられた。何なの、この男? 気持ちが悪い・・・。
 男が、女性に向き直った。相手の意を汲んだのか、これも英語で答えた。

「オクタカス遺跡の事故の件についての報告を、建設大臣が詳しくお聞きしたいと仰っています。」

 女性が髭面の男性を見たので、髭面の男性が答えた。これも英語だ。

「事故報告はエステベス大佐に提出済みです。大臣は大佐からお聞きになればよろしいかと。」
「大臣は少佐から直接お聞きしたいのだ。」
「私は忙しいのです。」

 少佐と呼ばれた女性は机の上の書類の束とUSBを手に取った。

「見ていない現場の話を大臣に語る暇はありません。語って大臣に理解出来るとも思えない。」

 尊大な態度で彼女は言って、中尉と呼ばれた髭面の男に声をかけた。

「セニョール・シショカがお帰りですよ、中尉。」

 髭面中尉が立ち上がったので、シショカと呼ばれた男も渋々歩き出した。男性2人がカウンターの向こうへ出て行き、階段を下りて姿を消す迄、少佐はその後ろ姿をじっと見つめ、若い男性は全く無関心を装って仕事を続けていた。アリアナはどうして良いのかわからず、その場に立ち尽くしていた。
 少佐が書類とU S Bを持ったまま立ち上がった。

「お待たせしました、こちらへどうぞ。」

 彼女が指したのは、”エステベス大佐”と書かれたプレートが付いたドアだった。


2021/06/26

はざま 4

  その日の午後、北米の国立遺伝病理学研究所からアリアナ・オズボーンがやって来た。メアリー・スー・ダブスンが来ると思っていたシュライプマイヤーはがっかりした。ダブスン博士のことは好きでなかったが、彼女は推しが強い。シオドア・ハーストの捜索に力を入れるよう、セルバの役所に交渉してくれることを期待していたのだ。しかし来たのはアリアナだった。ヨーロッパでの学会には何度も出席しているが、中南米へ来るのは初めての、スペイン語も碌に出来ない箱入り娘だ。

「メアリー・スーは駄目なの。テオが嫌っているから、彼女が来たら絶対に出て来ないわ。」
「すると、貴女はハースト博士が自分の意思で身を隠したとお考えですか?」
「可能性はあるわ。彼は記憶を失ってから、ずっとセルバの話ばかりしていたから。」

 連絡を受けて空港に彼女を迎えに行ったシュライプマイヤーは、最初に駐セルバ・アメリカ大使館へ行った。アメリカ大使は隣国との兼任で、この日は不在だった。書記官にアメリカ市民の行方不明と捜索願を届け出た。シオドアが行方をくらませた当時の状況を説明すると、書記官が顔を曇らせた。

「本件は大統領警護隊が絡んでいるのですか?」
「どんな形で関係しているのか不明ですが、ハースト博士が最後に会った人物が大統領警護隊の少佐なのです。」

 書記官は考え込み、それからセルバ政府の関係当局に捜索を依頼しておきます、と言った。
 次にグラダ大学へ行った。アリアナがシオドアの研究の進み具合を見たいと言ったからだ。大学は部外者を入れたがらなかったが、アリアナ・オズボーン博士の名前を知っている研究者が彼女を歓迎して案内してくれた。施錠されていたシオドアの研究室に入った彼等は、シオドアが何かのサンプルを分析していたらしい形跡を認めた。しかしコンピューターを立ち上げてもパスワードがわからない。ファイルやノートをめくってみても何もなかった。誰かがページを破り取っており、部屋の隅に灰の塊が見つかった。アリアナがシオドアの他に誰がこの部屋に入れるのかと尋ねると、医学部の教職員なら誰でも入れると言う呆れた返事だった。
 アリアナはシオドアが遺伝子分析の研究に情熱を持てなくなったことをぼんやりと察していた。記憶喪失だけが原因とは思えなかった。彼はセルバ共和国で何か強く心惹かれるモノを見つけてしまったのだ。生まれ育った環境に疑問を抱き、それ迄好きだったことに嫌悪感を抱き、恵まれた生活を捨ててしまう程に惹きつけられる何かを。
 大学を出ると、車に乗り込むなり、彼女はシュライプマイヤーに要求した。

「テオは少佐と言う人の話をしたことがあったわ。貴方もさっき大使館でその名を言ったわね。」

 シュライプマイヤーは嫌な予感がした。大統領警護隊のあの女性少佐に今朝会ったばかりだ。大勢の前で不快な目に遭わせてくれた、あの先住民の女に、また会いに行けと言うのか? 

「ケツァル少佐は大変忙しい人なんですよ。」

 それは事実だ。今朝、彼は少佐に詰め寄った後、実に不愉快な目に遭った。彼がハースト博士の居所をなおも問いかけようとした時、カウンターの彼の側にいた男達が彼に近寄って来たのだ。彼等は地方から出て来た農民や学校関係者、また考古学関係の研究者やメディア関連の人間だった。彼等は口々にシュライプマイヤーに苦情を言い立てた。

「大統領警護隊文化保護担当部に面倒を持ち込むな!」
「ここの連中は忙しいのだ!」
「ロス・パハロス・ヴェルデスの仕事が10分遅れたら、私達の申請が通るのが1週間遅れる。」
「お前のせいで、私の時間が1時間無駄になるぞ。」
「アメリカ人はすっこんでろ!」

 スペイン語でがなり立てられて、ほうほうの体で退散したのだ。そこへまた行けと言うのか?
 アリアナは研究所で可愛がられ大切にされてきた。ボディガードの事情など知る由もない。

「私はその人に会いたいわ。英語は通じるでしょ?」


はざま 3

 事態はシュライプマイヤーが最も恐れていた方向へ向かっていた。彼と相棒は当初、シオドア・ハーストがグラダ・シティの高級コンドミニアムに入ったきり出て来ないのはケツァル少佐の家に入り浸っているからだろうと軽く考えていた。彼女とシオドアがコンドミニアムに入って直ぐ後に来た若い先住民の男も、建物に入ったきり出て来なかった。午後9時半に、何処かの家の家政婦と思える女性が建物から出て来て、迎えに来たタクシーで去って行った。
 翌朝、ケツァル少佐が午前8時過ぎに出て来て、自分でベンツのSUVを運転して職場へ出勤して行った。午前10時に前夜見かけた女性が誰かの車に送られてやって来た。シュライプマイヤーは相棒と交代で休憩を取り、コンドミニアムを見張った。夕方、午後6時半に少佐が帰宅した。1人だった。ボディガード達は、シオドアが美人の家に居座っているものと思っていた。彼が彼女にご執心なのは薄々勘づいていた。北米にいる時も、ふとした会話で彼女の名前が出ていたのだ。我儘博士が女性を口説いて部屋に篭っている、と思っていたのだ。
 ところが3日目の午後に、北米の研究所から電話がかかってきた。グラダ大学がハースト博士の無断欠勤を研究所に連絡したのだ。大学もシオドアの動向を見張るようにと依頼されていたのだから、無理もない。シュライプマイヤーは相棒にコンドミニアムの監視を任せ、シオドアのアパートへ行ってみた。彼等もそこで寝起きしているのだから、入るのは問題なかった。シオドアが戻った気配はなかった。何処かへお泊まりで出かけた様子もなかった。
 シュライプマイヤーは文化・教育省へ行ってみた。すると雑居ビルの前でアスルを見かけた。シュライプマイヤーはコンドミニアムを見張っている相棒に電話をかけて、アスルは何時少佐の家があるアパートから出たのかと訊いた。返事は「出ていない」だった。シュライプマイヤーは慌てた。相棒に、コンドミニアムに裏口がないか調べろと命じた。非常口があったが、そこの防犯カメラを見せてもらいたいと要請したら、警察を通せと管理人に言われた。
 4日目の朝、少佐がいつもの様に出勤した後で、シュライプマイヤーは警察官と一緒に防犯カメラを見せてもらった。誰も映っていなかった。コンドミニアムの住人達は表から堂々と出入りしている。裏口を使った人はいなかった。
 シュライプマイヤーは腹を決めて文化・教育省を訪ねた。入り口の軍曹に拳銃を預け、入館パスをもらった。ケツァル少佐は何処にいるのかと尋ねたら、一言4階と答えが返ってきた。
 大統領警護隊文化保護担当部は、他の部署と変わらない事務職の部課に見えた。書類が積まれた机の前に座った若い私服姿の男女がパソコンの画面を眺めたり、キーボードを叩いて書類を作成したりしている。だが3人の男達は全員シュライプマイヤーが知っている人物だった。軍服を着ていないだけだ。火が点いていないタバコを咥えて書類作成をしている髭面の男はステファン中尉で、電話でずっと喋っている背が高いイケメンはマルティネスと名札が置かれているが、シオドアがロホと呼んでいたもう1人の中尉だ。パソコン画面と書類を交互に睨んで顰めっつらしている一番若いのが、何時の間にかコンドミニアムから出ていたヤツだ。
 メスティーソの若い女は見覚えがなかった。黒いサラサラの髪の毛をポニーテールにして、青いビーズの髪留めでまとめている。彼女は隣の部署の男性と書類を一緒に眺めながら話し合っているところだ。
 一番奥の机のケツァル少佐は書類に目を通して署名し、目を通して署名し、を繰り返していた。
 軍人なら事務仕事の時も軍服を着用すべきだ、と元海兵隊員のシュライプマイヤーは思いながら、秘書はいるのだろうか、と目で探した。するとポニーテールの女性が彼に気がついた。

「何か御用ですか?」

 市場で果物や野菜を売っていそうな健康的な艶のある肌、人懐っこい目をした丸顔の娘だった。いかついシュライプマイヤーにも優しく微笑みかけている。彼は奥の机を手で指した。

「ケビン・シュライプマイヤーと言います。 ケツァル少佐と話がしたい。」

 ステファンとロホがチラリと彼を見た。アスルは無視した。女性が躊躇なく上官に呼びかけた。

「少佐、お客さんです!」

 ケツァル少佐が書類から目を上げてこちらを見たので、シュライプマイヤーは片手を上げて挨拶の代わりにした。彼女はシオドアと一緒にいる彼を何度か見ているから、用件はわかっている筈だと思った。しかし、少佐は部下に言った。

「陳情の内容を聞いて、該当する申請書を提出してもらいなさい。」

 それで、シュライプマイヤーは意地悪く言ってみた。

「貴女のアパートに篭っている男の件で来ました。」
「失礼な!」

と声を張り上げたのはステファンだった。しかし少佐に睨まれ、口を閉じた。少佐がシュライプマイヤーに顔を向けた。

「私の家に男が篭っていると仰いました?」

 シュライプマイヤーは4階のフロアにいる全員が自分を見つめていることに気がついた。後には退けない。彼はそうですと答えた。

「グラダ大学医学部で講師をしているアメリカ人、ハースト博士です。」
「それは一大事・・・」

 ケツァル少佐は携帯電話を出して、何処かにかけた。何をしているのかと彼が訝しんでいると、電話の相手が出た。少佐が喋った。

「カーラ? シータ・ケツァルです。貴女の他に誰かうちにいますか?」
ーーノ、ラ・コマンダンテ、私1人だけです。

 少佐がわざわざスピーカーで通話を聴かせた。

「誰か訪ねて来ました?」
ーーノ。今日はどなたも来られていません。

 シュライプマイヤーは怒鳴った。

「今週の月曜の夜だ!」

 少佐は平然と電話に言った。

「月曜の夜ですって。」
ーークワコ少尉が来られましたね。私のお料理を褒めて下さいました。
「覚えています。あれは美味しかった。また作って下さいね。」
ーー何時でもお申し付け下さい。御用はそれだけでしょうか? 

 少佐がシュライプマイヤーに尋ねた。

「何か彼女に訊いておくことがありますか?」
「少尉の他にもう1人いただろう?」
「カーラ、クワコの他にもう1人客がいました?」
ーーノ。 どうしてそんなことをお訊きになるのです? 

 家政婦が電話の向こうでクスクス笑った。

ーーラ・コマンダンテ、何かのゲームですか、これ?

 シュライプマイヤーはイラッときたが、我慢した。

「少尉は何時帰ったのかな?」

 すると本人が答えた。

「2200前。危うくサッカーの試合を見逃すところだった。」

 少佐が電話の向こうの家政婦に「有り難う」と言って通話を終えた。そしてボディガードに言った。

「貴方が仰っているハースト博士を存じ上げていますが、私の家には来られていません。」
「しかし、彼は月曜日の夜、貴女と食事の約束をしていた。」
「約束はしましたが、彼は来ませんでした。」
「嘘だ! 私は貴女の車に彼が乗り込んで、貴女のアパートに入るのを見た。」

 少佐がフロアを見回した。職員達は仕事に戻っていた。

「困りました。人間が1人消えてしまった様ですね。」

と彼女が言った。


はざま 2

  エル・ティティの町より質素な生活。10日目に子供達が朝早く何処かに出かけた。夕方帰ってきた彼等が麻の袋の中にノートと鉛筆を入れているのをシオドアは目撃した。学校へ行ったのか? スペイン語がわかるのか? 
 シオドアは余計な質問を控えた。子供達は村の北の方角から戻って来た。北へ行けば村か町があるに違いない。
 翌日、畑へ向かう女達の後ろをついて行き、途中で横道へ入った。北に向かって走った。木の枝や草で手足を傷つけたが、夢中で走った。後ろから追いかけて来る人がいるのではないか、矢で射られるのではないか、と不安だったが、誰も追いかけて来なかった。
 何時間走ったかわからなかった。喉がカラカラになり、体はヘトヘトだった。前方で人の話し声が聞こえた。誰かいる! 助かった!
 シオドアは茂みから開けた場所へ飛び出した。
 そこは、朝までいた村だった。樹木の中から飛び出した彼を、村人達が不思議そうに見た。決まり悪さと腹立たしさで、彼は充てがわれた小屋に入り、水瓶の水を瓢箪の柄杓でゴクゴク飲んだ。
 入り口に誰かが立った。振り向くと少年がいた。確かニートと呼ばれていたな、とシオドアは思い出した。年齢は14、5歳だろうか。この村では大人として扱われる年頃だ。青いサッカー用のTシャツと白い短パン姿で、ほっそりとした手足が長く見えた。ヤァ、と声をかけると、ニートが初めてスペイン語を喋った。

「畑に来なかったので、女達が心配していた。」

 訛りのない、綺麗なセルバ標準語だ。言葉が通じるんだ。 シオドアは力が抜けて、その場にヘナヘナとしゃがみ込んだ。

「済まない・・・町へ行きたかった。」

 正直に言った。ニートがそばへ来た。シオドアの横にしゃがんで、同じ目の高さで話しかけてきた。

「貴方はここにいる。ここにいれば安全だ。」
「安全?」

 シオドアは顔を上げてニートを見た。

「それは、アメリカ政府から俺を隠してくれているってことか?」

 ニートが肩をすくめた。

「わからない。俺は外の世界のことを知らない。」

 そして彼はシオドアが首を傾げるような質問をした。

「次のアメリカの大統領選に、ケネディは出馬するのか?」
「ケネディ? 彼は半世紀も前に死んだ。」

  小屋の中を暫し沈黙が支配した。ニートが少しずつ彼から遠ざかり、立ち上がって小屋から出て行く迄、互いに見つめ合っていた。
 シオドアは1人になると、ハンモックに寝転がった。体に震えが来た。

 ここは何処なんだ? 何時の時代なんだ?


はざま 1

  シオドアはジャングルの中にいた。木の枝と葉っぱで造られた簡素な小屋が彼の空間だった。同じ様な造りでもう少し大きな小屋が10ばかり集まっている小さな集落だ。住民は50人程。純粋な先住民で老若男女入り混ざっている。裸ではなく、Tシャツやジーンズを着ているし、キャップを被っている人もいる。足元はスニーカーを履いていたり、サンダルだったり、素足だったり様々だ。集落から少し行った所に畑があって芋とトウモロコシを栽培している。成人した男達は全員よく切れそうな山刀を持っており、たまに弓矢を持って森に出かけて行った。
 シオドアは彼の小屋で目覚めて以来、村人達から親切にしてもらっていた。女達は蒸した芋やトウモロコシを持って来てくれたし、子供達は水を瓶に汲んできてくれた。男は肉が焼けると分けてくれた。一つ困ったことは、言葉が全く通じないことだ。少なくとも、シオドアは彼等が話す言葉を理解出来ない。完全に未知の言語だ。耳を澄ませて聞いていても、文法がさっぱりわからない。だが向こうは、彼が手振り身振りを交えながら話すと、大体言いたいことを理解してくれた。彼の名前がテオだとわかってくれた。
 ここは、オクタカスから消えたボラーチョ村なのだろうか。シオドアは身振りを入れながら尋ねたが、住民達はポカンとした表情で彼を見ているだけだった。
 目覚める前の記憶はちゃんとあった。ケツァル少佐のアパートで、少佐とアスルと3人で食事をして、彼自身の身の上話をした。セルバ共和国で暮らしたいと少佐に訴えかけた。そして、アスルに名前を呼ばれ・・・
 少佐とアスルが俺に何かをしたのだ。そしてこんなジャングルの奥地に置き去りにした。何の為に? 俺が人為的に遺伝子操作された人間だから、捨てたのか? 俺は見捨てられたのか?
 少佐に会って話を聞かなければ。それにはジャングルから出なければ。
 食事時間は、村の広場で全員一緒だった。男も女も年寄りも子供も一緒だ。焚き火を囲んで、彼等はシオドアが理解出来ない言葉でペチャクチャ喋っている。楽しい家族団欒の時間。シオドアが見た限りでは、彼等は4家族だった。家は2軒ずつ持っているのか、何か空間を分けるルールがあるのかわからない。自由に出入りしているから、あまりプライバシーの保守は関係ないようだ。シオドアは食べ物を皆んなと平等に分配してもらったが、彼に話しかけてくれる人はいなかった。話しかけても言葉がわからないと思われている節もあった。
 学習すればすぐに話せる自信があったので、シオドアは彼の方から話しかけてみた。村人達は当惑した表情で互いに見合った。

 目で会話している!

 シオドアは心臓が高鳴った。ここはやはり少佐達の部族の村なのだ。彼等は部外者がいない場所では声で会話する。しかし部外者に聞かれて困る内容は目で伝え合うのだ。
 シオドアは彼等をあまり刺激しないことに決めた。警戒されるとジャングルから出られなくなる。
 村に来てから8日目に男達が狩に出かけたので、彼はついて行った。男達は初めは彼がついて来ることに戸惑って何度か振り返って様子を見ていた。しかし彼が静かに歩き、狩の邪魔をせずに見守っているだけだと知ると、自分達の仕事に専念した。その日は太った野豚が獲れた。その場で解体する。血を流さず、皮、肉、内臓、骨と分けて、それぞれが葉っぱや持参した麻袋に入れて村へ運んだ。シオドアも臓物を運ばされた。生温かい荷物は、臭いがしなかった。包装に使用された葉っぱに秘密があるようだ、とシオドアは思い、植物の遺伝子を調べたいと思い、何を馬鹿なことを考えているんだ、と思った。
 1頭の野豚は均等に分けられ、各家族に配分された。男の1人がシオドアを指差して何かを語ると、女性達が笑顔で彼を見た。きっと狩に協力したと言ってもらえたのだろう。少し村人達の警戒が緩んだ。
 次の日は畑で女性達と一緒に芋を掘った。男女の役割が分かれているので敬遠されるかと思ったが、女性達は彼を歓迎し、芋を運ばせた。
 夜、焚き火の周囲で食事をして寛いでいると、年寄りがタバコを吸い出した。葉っぱを巻いただけの簡単なものだ。爽やかな香りがした。シオドアの記憶にある香りだった。
 ステファンが吸っていたタバコと同じ匂いだ!
 だがタバコ畑は何処にもない。彼等は葉っぱを買っているのだろうか。Tシャツやパンツや、家の中で見かける小さなプラスティックの生活用品、洗面器や子供用の腰掛け、女性が耳に付けている綺麗なピアス・・・ここの人々は決して外界から孤立していない。何処かで外の世界と接触しているのだ。


2021/06/25

風の刃 22

 「俺に協力出来ないってことか?」

 シオドアは2人のセルバ人を見比べた。アスルが4杯目のワインをつごうとしたので、少佐が彼の名を呼んで止めた。

「飲み過ぎです。」
「すみません。」

 アスルが素直に手を引っ込めた。少佐がテーブルの上で手を組んだ。

「サンプルの話を研究所に話さなければ、ことはもっと簡単だったのですが、貴方は情報を拡散させてしまいました。」
「それはどう言う・・・」
「貴方に消えてもらいましょう。」

 シオドアは彼女の言葉の意味を推し測りかねて、見つめた。すると横からアスルが彼を呼んだ。

「シオドア・ハースト。」
「うん?」

 振り返ったシオドアは、彼と真面に目を合わせてしまった。

 こいつの目はなんて深い・・・なんて深遠な・・・

 それが彼が意識を失う直前に頭で思った言葉だった。
 ダイニングテーブルから崩れ落ちたシオドアを、席を立った少佐が眺めた。アスルが額の汗を拭った。メイドに聞こえない低い声で話した。

「不意打ちで何とか仕留めました。こいつ、ロホもカルロも歯が立たなかったんですよ。」
「脳の組織が”ヴェルデ・ティエラ”とは異なっているからでしょう。」
「しかし、我ら”ツインル”と同類と言う考えは持てません。」
「当然、”ツィンル”ではない。人造の人間です。でも、我々に救いを求めて来ました。」
「助けてやるのですか?」
「貴方は、手元に飛び込んで来た小鳥を鷹の前に放り出せますか?」

 アスルは溜息をついた。

「俺なら、小鳥を食っちまいますがね。」

 そしてキッチンに行った。メイドがデザートのタイミングを待ちながら雑誌を読んでいた。アスルは、カーラ、と彼女の名を呼び、振り返った彼女の目を見た。倒れかかった彼女を椅子から落ちないように支えてやり、楽な姿勢で壁にもたれかけさせた。

「少し休憩していてくれ。あの白人を隠さねばならん。」


風の刃 21

 シオドアが今夜はケツァル少佐の家に招かれていると言うと、シュライプマイヤーがあからさまな嫌な顔をした。彼はセルバ人が嫌いだった。感情を表に出さない先住民のセルバ人はもっと嫌いだった。それが軍服を着ていたりすると、本当に嫌いだった。しかしシオドア・ハーストは記憶を失う前同様にボディガードの意見を無視して、ワインと花束を買って、午後6時に文化・教育省の前に立った。ボディガードの2人は車で待機だ。
 時間にルーズなセルバ人も仕事終わりの時間はしっかり守る。午後6時になると、雑居ビルから職員達が一斉に帰宅するために出てきた。4階の人々も少し時間差を置いて出て来た。ケツァル少佐とアスルことクワコ少尉も出入り口の番をしている軍曹に敬礼で挨拶をして出て来た。シオドアがカフェの入り口近くで立っているのを見て、少佐がポケットから鍵を出してアスルに渡した。アスルが雑居ビルの間の路地へ走って行った。
 自宅に帰るだけの少佐はお洒落をしていなかった。通りの向こう側に駐車しているボディガードの車を見て、

「彼等の食事は用意していませんよ。」

と冷たく言った。シオドアは構わないよ、と言った。どうせそんなことだろうと思ったので、シュライプマイヤーに夕食は自分達で何とかしろよと言ってあった。
 アスルがベンツを運転して戻って来た。GクラスのSUVだ。シオドアは後部席に乗った。少佐が隣に乗ってくれるかと思いきや、彼女は助手席に座った。
 少佐のアパートは職場と大統領府を挟んだ反対側で、車で10分ばかり走った住宅地にある高級コンドミニアムだった。車寄せにベンツを乗り入れたアスルは、少佐とシオドアが降車すると地下の駐車場へ走り去った。シオドアは夕暮れ時の高層ビルを見上げた。

「一戸建てに住んでいると思った。」
「軍の給料では買えません。」
「ここの家賃も馬鹿にならないだろう?」

 少佐は意味深な微笑みを浮かべただけだった。キーボードパネルでガラス扉を開き、2人は中に入った。アスルは暗証番号を知っている筈だが、シュライプマイヤー達は入って来られない。
 2人はエレベーターで7階迄上がった。メスティーソのメイドが出迎え、シオドアは綺麗なダイニングルームに案内された。シェリー酒を出されたところで、ドアチャイムが鳴り、メイドに案内されてアスルが入室した。
 料理は セビーチェ で始まった。中南米の生魚料理だ。アスルは好物なのか、機嫌が良かった。シオドアは赤ワインを土産に持って来たので、魚を見た時にしくじったかなと思ったが、次の皿はコシードで、豚肉の塊を切り分ける役目をもらった。

「腕の良いコックを雇っているんだね。」

とシオドアが褒めると、少佐が、カーラに伝えておきます、と応じた。アスルが口元を拭いながら言った。

「貴方のお陰だ、ドクトル。普段は煮豆しか出ない。」
「お黙り、アスル。」

 シオドアは笑った。

「オクタカスのベースキャンプでも毎日豆だったよ。でも、研究所で食べた食事よりずっと美味かった。」

 2人のセルバ人の視線に気がついて、彼は腹を決めた。

「俺の本当の身の上を話すよ。まだ記憶が戻らないし、一般の人には俄かに信じられない内容だけど、俺は実際に向こうで見たし、聞かされた。俺は、複数の人間の遺伝子を分解して組み替えて創られた人間なんだ。場所は・・・ミゲール大使が知っている。陸軍基地の中にある国立遺伝病理学研究所で、優秀な頭脳を持つ人間や、強靭な肉体を持つ人間の開発をしている所だ。俺はそこで生まれた20人ばかりの子供の1人だ。20人の中の3人だけが残されて研究所で特別教育を受けて、次世代の遺伝子組み替え研究をする為の科学者として育てられた。」

 一気に喋った。まるで映画や小説の中の話だ。だが、不思議と彼には確信があった。このセルバ人達は俺の言葉を信じる。何故なら、彼等自身が常識では考えられない人々である可能性があるから。

「俺が何をしにセルバ共和国に来て、バス事故に遭ったのか、誰にもわからない。俺はある日突然何かを探しに出かけたそうだ。アンゲルスの邸から米軍のヘリコプターで研究所に連れ戻されてから、俺は俺が何者なのか探っていた。だけど、何もわからない。記憶を失った俺を警戒して研究所が何か重要なことを隠した可能性もあるし、俺が他人に自分の研究を見せたくなくて隠した可能性もあるんだ。俺は研究所に馴染めなかった。生まれ育った場所だと言われたが、記憶喪失の俺にはどうしても好きになれない場所なんだ。セルバに戻りたくて、セルバに来た理由を探していたら、資料の中である遺伝子情報を見つけた。」

 シオドアは、オルガ・グランデのアンゲルス鉱石が健康診断と称して従業員から採取した血液を研究所に売却していたことを語った。そのサンプルの一つ、「7438・F・24・セルバ」の遺伝子情報の特異性も語った。

「脳を形成する時の情報だけど、俺にはその遺伝子を持っている人間が、他の人間とどう違うのか想像がつかなかった。今でもつかない。だから、昔の俺は、それを確かめに、”7438・F・24・セルバ”の遺伝子の持ち主を探しに行ったのだと思う。」
「探して、どうするつもりだった?」

とアスルが尋ねた。彼はシオドアの手土産のワインが気に入ったらしく、3杯もお代わりしていた。未成年じゃないのか、こいつ・・・?
 シオドアは彼に殴られるかも知れないと思いつつ、真実を明かした。

「試しに、俺自身の遺伝子と比較したんだ。そうしたら、2人の遺伝子はよく似ていた。」

 少佐がグラスを取って、残っていたワインを飲み干した。

「貴方とそのサンプルの人は同類だと?」
「わからない。だが、俺のオリジナルの遺伝子を提供した人々が誰なのか、俺は資料を持っていない。見ることを禁じられているんだ。だから・・・もしかすると、俺はそのサンプルの人が親の1人、又はその親族かも知れないと思って会いに行ったのかも知れない。」
「まさか、俺達に、その人物を探せと言うんじゃないだろうな?」

 アスルの言葉に、シオドアははっきりと首を振った。

「そんなつもりで来たんじゃない。さっきも言った通り、俺は研究所が嫌いなんだ。連中は人間をモノ扱いしている。俺は兵器ではないし、人間兵器を作る気もない。だが、これは国家機密の研究だ。わかるだろう?」

 少佐とアスルが互いの目を見合った。まただ、とシオドアは思った。彼等は目で会話をしている。彼は今夜相談したい核心にやっと入った。

「研究所は、俺が死なない限り、俺を自由にはしてくれない。だけど、俺はエル・ティティの町で暢んびりと代書屋をしていたいんだ。ゴンザレスと一緒に暮らしたいんだ。だから、研究所に、”7438・F・24・セルバ”を探しに行くと行って、今回のグラダ大学の職を世話してもらった。本当は、サンプルの人はもうどうでも良い。俺はこの国の人間になりたい。どうすれば良い?」

 少佐が彼を見た。

「貴方は、そのサンプルの情報を研究所に話したのですね?」
「スィ。だけど、誰もその遺伝子情報が何を意味するのか、わかっていない。だから俺に、サンプル提供者を探して来いと渡航許可をくれたんだ。」
「貴方が政府機関の研究所で創られた人間であるならば・・・」

 少佐が冷めた目をした。

「アメリカ政府はどんな手段を使ってでも、貴方を取り戻そうとするでしょうね。」


第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...