2021/06/30

アダの森 6

 斜面を登るケツァル少佐の足取りが重たかったので、シオドアは足を止めて彼女を待った。

「幽霊が見えているのかい?」
「明瞭に見えている訳ではありません。白い人影があちらこちらに浮かんでいるのです。」

 シオドアは周囲を見回した。霧が漂っているだけだ。まさかこの霧が幽霊と言う訳でもあるまい。

「俺には霧にしか見えない。だけど、昨夜は声を聞いた。」

 先を登っていたステファン中尉がチラッと振り返り、また前を向いた。シオドアは昨夜耳にした不思議な声の説明をした。

「楽しそうな感じだった。きっと誰かを呪ったり恨んだりはしていないよ。生きていて楽しかった日々を思い出して語り合っていたに違いない。」

 少佐が彼の横に並んだ。しげしげと彼を眺めた。

「貴方は本当に不思議な人ですね、ドクトル。私達は亡者を見たり感じたりしますが、声は聞こえないのです。貴方に彼等の言葉が理解出来たら、簡単に済む物事もあるでしょうね。」

 幽霊の声が理解出来たら皆んなで祓い屋でもするかな、とシオドアは冗談を言った。大統領警護隊は多分、そう言う能力を持つ人々なのだ。しかし職業にはしていない。”ヴェルデ・ティエラ”の拝み屋はいても”ヴェルデ・シエロ”の祈祷師はいないのだ。正体を隠しているから。

「今朝、俺が目を覚ましたのは、空気がビリリと振動したからなんだ。あれも幽霊の仕業かい?」

 するとステファン中尉が足を止めて振り返った。少佐がまたシオドアをじっくりと見つめた。

「あれを感じたのですか?」
「スィ。君達も感じたのかい?」

 すると彼女が、

「あれは私です。」

と言った。

「ロホを心の力で呼んだのです。でも彼は応えてくれません。」

 シオドアは彼女が死者の村へ行きたがらない理由を突然悟った。彼女はもしロホが亡者の群れの中にいたらと不安なのだ。彼は彼女を励まそうと言った。

「ロホは本当に疲れているんだよ。変身後は2日程寝込むと言っていたから、今頃何処か安全な場所で休んでいるに違いない。」
「早く安全な場所で休憩しましょう。」

とステファン中尉が少し苛っとして言った。それで3人は再び歩き始め、シオドアが隠れていた小屋に辿り着いた。中の安全を確認して、中尉はシオドアと少佐を中に入れ、彼自身は外の草の中に座った。見張りながらの休憩だ。彼が背負っていたリュックを少佐が受け取り、中から携行食を出してシオドアに食べさせてくれた。シオドアは母国の軍事食糧を試食したことがあるが、セルバ共和国の物は超シンプルだと思った。ロホにもらった干し肉もそうだったが、少佐とステファン中尉が持って来たのはパサパサに乾燥させたジャガイモと硬いチーズだけだった。もっとも彼等は短期の活動を想定しているのであって、長期戦をするつもりはないのだ。真空パックに入ったオレンジジュースが一番美味しかった。

「ディエゴ・カンパロと言う男なのだが・・・」

とシオドアはお腹が落ち着くと、誘拐されている間に得られた情報を出した。

「アメリカ政府がCIAを使って俺を探していると言っていた。普通のセルバ人がそんなことをどうやって知る? 口から出まかせなのか、それとも彼に情報を流している人間が政府関係者の中にいるってことだ。そう思わないか?」
「お金で繋がっている政治家とゲリラは珍しくありません。」

 少佐が溜息をついた。

「セルバ人は天使ではないし、聖人でもありません。私達の一族にもお金を稼ぐのに夢中で優しい心を忘れた人は大勢います。」
「そりゃ、人間だもの、欲はあるさ。だけど、俺が北米政府のお尋ね者で、エル・ティティに隠れているってカンパロに教えたヤツがいるらしいんだ。」
「私のチームにとってカンパロと”赤い森”は天敵です。遺跡発掘調査団を狙う不埒な連中ですから、繋がりを持つことはありません。」
「わかってる。多分、俺はグラダ・シティから脱出する時に誰かに見られたんだ。大学関係者に知り合いが多かったからね。友達じゃなくても、北から来た講師って言うので注目を集めたことは確かだ。その目撃者がアメリカ大使館の動きを知っていて、カンパロと繋がりを持っている。」

 シオドアは食べた後のゴミを小さくまとめた。遺跡に残さないように、袋に入れてリュックに仕舞った。

「出かけるかい? ”赤い森”がキャンプを移動させていなければ、俺も何となく位置がわかる。逃げたのが夜中だったから、方角にちょっと自信がないけど。」

 しかし少佐はもう少し休みましょう、と言った。

「闇雲にジャングルの中を歩いても消耗するだけです。午後迄休憩です。」
「ロホと何処かで行き違いになった可能性もあるしね。」



2021/06/29

アダの森 5

  待つ身は辛い。狭い隠れ場所から出るのは用を足す時だけ。水場はゲリラに見張られている可能性があるので近づかないように、とロホから釘を刺されていた。小さな水筒の水を大切に、口の中を湿らせる程度に飲み、干し肉を齧ると言うよりしゃぶった。退屈を紛らわせるのは、遺伝子マップだった。石の上に石で図を描いていった。ジャガーに変身する遺伝子とは、どんなものだ? サンプル”7438・F・24・セルバ”の情報は、これも含んでいるのか? 過去に捨てた筈の遺伝子分析が退屈凌ぎに役立った。
 2度目の夜は寒かった。標高がそこそこあるので夜間は気温が下がる。石の床が冷たかった。昔の人はここにハンモックをぶら下げたのか? この天井の高さでは無理だろう。きっと木でベッドを作ったに違いない。
 眠れないでいると、小屋の外で人の話し声が聞こえた。追手か? シオドアは壁に身を寄せ入り口から覗かれてもすぐには見られない様に試みた。話し声は次第に大きくなってきた。大勢がてんで勝手に喋っている様だ。男の声、女の声、子供らしい甲高い声もする。何だか楽しそうだ。棄てられた村で真夜中に人が集まるのか?
 シオドアは不思議に思い、そっと小屋から顔を出してみた。誰もいなかった。声はパタリと止み、それっきり聞こえなくなった。風が草の上を吹き抜け、ザワザワと葉が鳴っただけだ。
 シオドアは空を見上げた。雨季の空は雲に覆われ星は見えなかった。さっきの賑やかな声は何だったのだろう。幽霊なのか? 
 小屋に戻り、寒さに震えながら再び声が聞こえて来るのを待つ内に、いつの間にか膝を抱えて座ったまま眠りに落ちた。
 

 ビリリっと空気が震えた感触がして、シオドアは飛び起きた。危うく低い天井に頭をぶつけるところだった。床の一角に太陽の光が当たっていた。朝が来ていた。
 シオドアは小屋から顔を出した。雲が去って青空が見えていた。空気が冷たく肌に気持ちが良かったが、空腹で喉も渇いていた。
 さっきの空気の震えは何だったのだろう? 幽霊の悪戯か? シオドアは用心深く外に出た。死者の村の周辺には誰もいない様だ。水を探しに行こう、と思った。まだロホも少佐も来ないだろう。ゲリラに見つかりさえしなければ、少しの間留守にしても大丈夫だ。彼は身を低くして斜面を歩いた。沢が出来る地形を考え、滑らないように足元に注意しながら森へ近づいて行った。
 茂みの中から水音が聞こえた。水が流れている。シオドアは嬉しくなり、一瞬注意が散漫になった。低木を押し分けた途端、目の前に迷彩色の服が見えた。
 カンパロだ!
 固まってしまったシオドアに、向こうも咄嗟に腰だめでアサルトライフルを向けた。迷彩色のヘルメットの下は、ちょっと丸味のある顔にゲバラ髭、目元に傷はない。5秒後、同時に相手が誰だかわかった。
 シオドアは全身の力が抜けて、その場にヘナヘナとしゃがみ込んだ。

「ステファン中尉・・・君にここで出会うとは・・・」

 向こうも銃口を下に向けた。息を吐いて囁いた。

「ドクトル、もう少しで撃つところでした。」

 ステファン中尉の背後から音を立てずにケツァル少佐が姿を現した。彼女も迷彩服で同色のヘルメットを被っていた。アサルトライフルを持っている姿は初見だ。シオドアを眺め、それから周囲を見た。低い声で尋ねた。

「ドクトル、ロホと出会いませんでしたか?」
「会ったよ。彼が俺をゲリラのキャンプから助け出してくれたんだ。」

 少佐がステファン中尉と目を合わせた。そして直ぐにシオドアに向き直った。

「何時のことです?」
「2日前の夜。俺がカンパロに捕まったその夜さ。」

シオドアは斜面の上の方を振り返って指差した。

「あの上に棄てられた古い村の跡があって、そこに案内された。俺は彼の言いつけを守って昨日1日村の跡に隠れていたんだ。彼はオルガ・グランデ基地へ向かった。君と合流するつもりだった筈だけど・・・」

 物凄く嫌な予感がした。その予感が的中したことを、少佐が教えてくれた。

「彼は基地に戻っていません。貴方が誘拐されたとゴンザレス署長から連絡を受けて、私は電話で彼に現地の偵察を命じました。本来なら、昨日の昼迄に戻っている筈でした。」
「俺のせいだ。」

 シオドアは泣きたくなった。あの優しい若者の身に良くないことが起きたのは明白だ。

「彼はジャガーに変身して偵察に来たんだ。そして偶然俺を見つけて、敵の隙を突いて助け出してくれた。変身したら酷く疲れると言っていたんだ。だから俺は足手まといにならないよう、ここに残って、彼は基地へ報告の為に戻ると言って、隠れ家から出て行った。まだ基地に戻っていないのだとしたら・・・」

 少佐が溜息をついた。

「変身する必要があったとは思えません。ナワルは無闇に使うものではないのです。ロホはナワルを使う方が効率が良いと考えたのでしょうが、それなら基地に帰り着く迄そのままの姿を保っていれば良かったのです。」
「ジャガーの姿では俺と話せないだろう?」

 多分、ケツァル少佐もステファン中尉もジャガーに変身出来るんだ、とシオドアは確信した。少なくとも少佐は変身が自分達の体にどんな影響を与えるか理解している。

「君達はロホが戻らないから探しに来たのかい?」
「スィ。」
「勿論貴方の救出も目的です。」

 少佐の相変わらずの愛想なしの返事を、中尉が慌ててフォローした。そして少佐に提案した。

「少し休憩しましょう。ドクトルが隠れていた村の跡へ行きませんか。」

 ケツァル少佐は斜面を見上げて、不満そうな顔をした。

「あそこへ行くのですか?」

 シオドアは彼女が嫌そうに呟くのを聞いた。

「亡者がいっぱいいますよ。」

 ステファン中尉がシオドアの目を見た。 え? シオドアはびっくりした。今、俺に何か言おうとしたのかい? 中尉が頬をぽりぽりと掻いた。

「ドクトルが平気なのですから、大丈夫ですよ。」

 もしかして、少佐は幽霊が見えているのか? 彼女は幽霊が怖い? 悪霊は平気なのに? ステファン中尉はちょっと焦れた。 シオドアに手を差し出して立たせると、少佐に手を振って、来いと合図した。シオドアは少佐の為に少しだけ時間稼ぎをすることにした。

「実は水汲みに来たんだ。近くに水場はないかな?」

 

アダの森 4

  鳥の囀りでシオドアは目が覚めた。朝だ。狭い窓から朝日が差し込んでいる。彼は体を起こした。四角い石に囲まれた空間だった。屋根がある。下は石畳だ。壁を形成している石はきちんと四角く整えられていた。出口は小さいが縦長の長方形だ。牢獄ではなさそうだ。シオドアは引っ掻き傷だらけの自身の腕や脚を見た。シャツの前は開いており、ボタンがなくなっている。胸にも枝で付いた傷があった。
 昨夜の出来事は夢ではなかった。彼はジャガーに導かれ、急斜面を上り、ジャングルの中の廃墟に隠れたのだ。ジャガーは石の小屋の前で立ち止まり、彼の顔を見て、小屋を見た。入れと言われている、と感じたシオドアは素直に小屋に入った。それっきりジャガーを見ていない。疲れていたシオドアはそのまま眠ってしまったのだ。
 喉が渇いていたので、シオドアは小屋から出た。昨夜は暗かったので、どんな場所だかわからなかったが、石で出来た建造物が深い草に覆われた斜面にポツポツと顔を出しているのが見えた。遺跡だ。神殿や道路の様な物は見当たらなかった。シオドアが寝ていた小屋と同規模の同型の物が10ばかりあるだけだ。下の方にはテラス状の土地が数段あり、その下にジャングルが広がっていた。昔の村の跡地か?遺跡は白い霧で包まれていたが、斜面の下の風景は見ることが出来た。 
 ふと横を見ると、迷彩服の男が1人近づいて来るところだった。アサルトライフルを腰だめで撃てる形に持って草の中を足音を立てずに歩いていた。胸に緑色の徽章が光った。シオドアは一気に緊張を解き、石壁にもたれかかった。

「ブエノス・ディアス、ロホ。」

 シオドアが挨拶すると、向こうも挨拶を返してくれた。

「ブエノス・ディアス、テオ。」

 そばに来ると、ロホが腰から小さな水筒を外して渡した。シオドアは夢中で中の水を飲んだ。ロホが彼の全身を眺めた。

「昨夜は無理をさせてしまいましたね。しかし、あのまま貴方をあそこに置きたくなかったのです。」

 シオドアはびっくりして水筒を持つ手を下げた。

「何のことを言ってるんだ? 俺はジャガーに助けられて・・・」

 彼はそこで言葉に詰まった。彼を見つめているロホの目がいつもと違っていた。金色の眼球に細い縦長の瞳孔。白目の部分がない。まるで猫の目みたいだ。
 ロホがそばの壁にもたれかかった。疲れ切っている。それでも彼はシオドアに言った。

「ここはまだ奴等に知られていません。知っていても近づくのを嫌がる筈です。」
「遺跡だからかい?」
「遺跡と言うより、棄てられた死者の村です。疫病が流行ったので、住人が村を捨てて他所へ引っ越したのです。」
「君はここを知っていたんだね。」
「この山の反対側にあるディエロマ遺跡調査隊の護衛を指揮したことがあります。その時に山の周辺を調べたのです。」
「この山はティティオワ山だよね?」
「南斜面です。北側にディエロマ、東にエル・ティティ、西の斜面を降ればオルガ・グランデです。」
「君は何処から来たの? まさか、1人で俺の救助に来た訳じゃないよね?」

 ロホは困ったと言う表情をした。

「オルガ・グランデ基地で司令達と雨季明けの発掘調査の護衛隊を編成する相談をしていました。そこへケツァル少佐から、貴方がカンパロに誘拐されたと連絡が入りました。」

 少佐から? シオドアは一瞬心が弾んだ。彼が洗濯場所に置いた手紙を、ゴンザレス署長は正しく解釈して、政府軍ではなく、州警察本部でもなく、大統領警護隊文化保護担当部に連絡してくれたのだ。

「少佐が君に俺の救出を命じてくれたんだ!」
「ノ、違います。」

 ロホは申し訳なさそうに説明した。

「少佐は、昨夜グラダ・シティを発たれました。私は貴方が連れて行かれた場所を特定せよと命じられただけです。」
「つまり・・・救助の下見?」
「そうです。」
「もしかして、彼女はまだ車の中・・・とか?」
「スィ。」

 セルバ共和国では夜間航空機を飛ばさない。山が高く乱気流が発生しやすい地形と、古い航空機の性能の脆弱さ故だ。外国から来る航空機は海側から来る。国土上空を横断するのは昼間だけだ。
 シオドアは頭を掻いた。

「救助の下見に来て、うっかり救助しちゃった訳だ・・・」
「スィ。」
「有り難う。」

 ロホの肩に手を置いた。振り返ったロホの目は黒い人間の目になっていた。

「昨夜のジャガーは君だったんだね?」

 スィ、と答えてしまってロホはちょっと狼狽えた。

「信じられないでしょう?」
「信じるさ。」

 シオドアは微笑んで見せた。

「だって、あのジャガーは人間みたいな行動を取ったんだ。それにさっきの君の目はジャガーの目だった。」

 ロホが慌てて手で目を覆った。その仕草が可愛らしかったので、シオドアは笑った。

「もう人間の目に戻っているよ。」
「貴方は本当に不思議な人です。」

 ロホが彼らしい優しい表情で彼を見た。

「我々を怖がる人の多くは、ジャガーに食い殺されないかと心配するのです。我々のナワルがジャガーであると言い伝えが残っているからです。でも貴方はジャガーを見ても怖がらなかった。」
「否、十分怖かった。悲鳴を上げようと思ったけど、声が出せなかった。それだけ恐ろしかったんだ。刺激しないように、ひたすら無抵抗で動かずにいた。」
「怖がらせてしまってすみません。お陰でゲリラに見つからずに貴方を助け出せた。」

 シオドアとロホは笑い合った。
 ところで、とロホが言った。

「これからオルガ・グランデ基地に行かなければなりません。エル・ティティへ行く経路はゲリラが抑えているでしょうから、西へ行きます。しかし・・・」

 彼は疲れた顔でシオドアを見た。

「ご覧の通り、私は疲れています。ジャガーに変身するとエネルギーを恐ろしく消耗するので、普段2日程寝込むんです。 私1人なら今日中に基地迄帰れますが、貴方を連れて行くのは難しいです。」
「俺はジャングル歩きに慣れていない普通の人間だからね。」
「悪く思わないで下さい。ゲリラに追跡されたら、貴方を守りきれません。少佐が来られる迄、ここで隠れていて下さい。食料はこれしかありませんが。」

 ロホが迷彩服のポケットから紙で包んだ一握りの大きさの物を出した。干し肉だった。


アダの森 3

  ”赤い森”はかつて小作農民や低所得層労働者が支配階級に抵抗し、人権救済を求めて組織した政治団体だった。だがまとまりの悪い組織で、結成されて数年も経たぬうちにゴロツキの集団と化した。銀行強盗、トラック襲撃、外国人誘拐で資金を集め、民衆の支持を失い、革命思想から頓挫した。今は市民から忌み嫌われる存在だ。セルバ共和国政府軍は彼等を何度か追跡し、アジトを襲撃したが、いつも幹部に逃げられた。巷の噂では、”ヴェルデ・シエロ”の血を引くメンバーがいるのではないかと囁かれていた。ジャングルの中を縦横無尽に移動し、神出鬼没のゲリラ活動に、官憲は手を焼いていたのだ。しかし国防大臣は大統領警護隊に協力を求めなかった。協力を要請しても拒否されることはわかっていた。”国家の存亡に関わる問題”ではないからだ。
 シオドアは頭から目隠しの袋を被されて森の中を歩かされ、”赤い森”のキャンプに連れて行かれた。感覚では半日歩いた気分だった。色々と障害物を迂回したり坂を上がったり下ったりしたので、時間がかかったのだ。川を2回渡ったが、同じ川なのか川が2本あるのか不明だった。
 テントの中で袋を外された。縛られたまま箱の上に座らされ、写真を撮られた。身代金要求に使うのだ。蒸した芋と水だけの食事の間だけ、手を縛っている縄を解いてもらった。ゲリラ達はシオドアの前に来る時はスカーフで顔半分を覆っていた。カンパロだけが顔を曝していたのは、本人も有名だとわかっていたからだろう。特徴である目の下の傷痕はスカーフでは隠せない位置だ。
 日が落ちてからカンパロがシオドアが軟禁されているテントに来た。

「アメリカ政府と交渉する。」

とゲリラの頭目が言ったので、シオドアは笑った。

「無駄だよ、連中は俺なんぞに身代金を払ったりしない。」

 シオドアは政府が作った人間だ。いなくなっても悲しむ親族はいないし、救出を求める友人もいない。第一、俺がいなくなってもアメリカ国民は誰も気が付かない。俺は普通の市民ではなかったから。アメリカ政府は俺を使い捨て出来るんだ。

「お前を探してアメリカ政府のスパイどもがグラダ・シティの中を探っているそうじゃないか。」

 とカンパロが言ったので、

「誰からそんな話を聞いたんだ?」

と尋ねてみた。カンパロがニヤリと笑った。

「お前のことを教えてくれた人さ。」
「だから、誰なんだ?」

 カンパロはククッと喉の奥で笑ってテントから出て行った。
 ジャングルの奥で盗賊紛いの行いをしている連中が、どうしてCIAが俺を探しているって知っているんだ? シオドアは木箱の上に座ったまま眠る訳にいかないので地面に腰を下ろした。土の上に直に座るのは嫌だったし、毒のある生き物に噛まれたり刺されたりする危険があったが、体を休めるには地面に座って木箱にもたれかかるしかなかった。
 カンパロは外務省の人間や政府軍の幹部と繋がりでも持っているのか? それを考えて、シオドアはゾッとした。それなら”赤い森”の幹部が捕まらない理由がわかる。誘拐した外国人の身代金を交渉する窓口を何処かに持っているのだ。窓口の人間が上手く立ち回らなければ、身代金を取っても人質を殺害してしまう。窓口の人間の正体を人質が知ってしまったから? 
 ”赤い森”のメンバーに”ヴェルデ・シエロ”の血を引く者がいると言う噂は本当だろうか。カンパロのあの自信に満ちた態度は、超能力を持っているからか? 大統領警護隊文化保護担当部の隊員達からは感じ取れなかったが、”ヴェルデ・シエロ”は他人の心を読めるのではないのか? それなら”赤い森”のメンバーがCIAの情報を得られることも考えられる。まさかカンパロがその能力を持っているんじゃないだろうな。しかし、あの男はメスティーソだ。ステファン中尉が言っていた、純血至上主義者が呼ぶところの”出来損ない”だ。メスティーソに人間の心を読む力があるのか?
 シオドアは体に何かモゾモゾとした気色の悪い感触を覚えた。暗くて見えないが、何かが服の中に入って来た様だ。彼は叫んだ。

「毒虫だ、助けてくれ!」

 テントの入り口が揺れた。誰かが怒鳴った。

「静かにしろ!」
「体の上を何か這っているんだ。取ってくれ、早く!」

 シオドアの悲痛な声に、男が1人入ってきた。時代がかった石油ランプを木箱に置いて、シオドアの上体を起こした。シオドアは胸の上だと訴えた。男が乱暴に彼のシャツの前を開いた。ボタンが千切れて飛んだ。シオドアは男が大きなムカデを指で摘んで捕まえるのを呆然と眺めた。

「そんな物がテントに入って来るのか?」
「何故俺達セルバ人がハンモックで寝るのかわかっただろう。」

 男はムカデをシオドアの顔にわざと近づけ、彼が怯えるのを見て笑った。そして片手にムカデ、片手にランプを持ってテントから出て行った。
 ドサっと大きな物が倒れる音がした。何だろう? シオドアはテントの出入り口を見て、次の瞬間凍りついた。
 大きな獣が見えた。黒い影がテントに入って来た。シオドアは口を開けたが悲鳴は出なかった。上げたかったが声が出なかった。必死で頭を回転させた。動かない方が良い、じっとしていろ、シオドア・・・
 獣が足音もなくテントの中を歩き、シオドアの横に来た。シオドアは目だけ動かしてその動物を見た。大きな頭、小さな耳、半開きの口から見える鋭い牙・・・獣が前足を上げてシオドアの背中を押した。シオドアは無言のまま体を折り曲げた。どうするつもりだ? 手に硬い物が触れてそれが牙だと悟った時は、また悲鳴を上げそうになった。手首が引っ張られた。獣は彼の手首ではなく、縛っている縄を引っ張ったのだ。ググッと2度3度引っ張られ、突然両手が自由になった。
 獣は直ぐに彼から離れ、テントの出口へ向かった。外を伺い、振り返った。

 「来い」と言っているのか?

 シオドアは立ち上がった。獣は彼がそばに来ると、一気にテントの外へ走り出した。シオドアも後に続いた。テントのすぐ脇で男が1人倒れていた。地面に転がったランプから漏れた油に火が点いている。もう直ぐテントに油が流れ着く。
 シオドアは獣の後をついてジャングルの中に走り込んだ。背後のキャンプで人の声が聞こえたが、振り返らなかったし、立ち止まらなかった。脚を木に引っ掛け、枝で額を打ったが、ひたすら走った。獣はしなやかに夜の闇の中を走って行く。途中で立ち止まる時は、彼がちゃんとついて来れているか確認している様子だった。
 これは虎か? 否、違う、斑紋が月明かりで見えた。豹? 南米の豹? 
 シオドアは目の前を走る美しい獣に魅了された。これはジャガーだ。太古からこの地で神と崇められてきたジャガーだ。

 俺は今、神に導かれている。


2021/06/28

アダの森 2

  夕刻、セルバ共和国の首都グラダ・シティにある雑居ビルに入っている文化・教育省の4階の電話が鳴った。職員はほとんど退庁しており、最後迄残っていた男性職員と大統領警護隊文化保護担当部の指揮官ケツァル少佐の2人が帰宅しようと立ち上がったところだった。男性職員は一瞬少佐を見たが、目を合わせる前に慌てて電話に出た。

「文化・教育省・文化財・遺跡担当課・・・」

 ケツァル少佐はショルダーバッグを肩に掛けた。どうか電話がこっちへ回って来ませんように。

「スィ、私がミゲールです。え? 女性のミゲール?」

 少佐は早く帰ろうと歩きかけた。ミゲール氏が彼女の机の上のネームプレートを見た。彼女とは決して目を合わさない。大統領警護隊との付き合い方ルールその1だ。

「文化財・遺跡担当課に女性のミゲールはいません。」

 頼むから、こっちへ回してくれるな、と少佐は心の中で願った。私の目を見ろ。私はいない。
 ミゲール氏は彼女を見ない様に努力しながら言った。

「大統領警護隊文化保護担当部のミゲール少佐ならおられますが?」

 馬鹿者! なんでそれを言うかな? 

 ミゲール氏が電話の転送ボタンに指を置いた。

「ケツァル少佐、5番にお電話です。」

  少佐の机の電話が鳴った。ケツァル少佐はバッグを机の上に置いて、電話に出た。

「大統領警護隊文化保護担当部、ミゲール少佐・・・」
ーーセニョリータ、ラ・パハロ・ヴェルデの少佐?

 中年の男の声が聞こえた。ケツァル少佐は声の主を思い出せなかったが、向こうは安堵した様子だった。

ーーやっと捕まった! もう半時間も電話をたらい回しされたんだ。
「何方様?」
ーーエル・ティティ警察署長のゴンザレスです。

 少佐は小さな田舎町を直ぐには思い出せなかった。遺跡があれば忘れないのだが。ちょっと沈黙していたら、ゴンザレス署長が早口で言った。

ーー助けて欲しい。テオがゲリラに攫われちまった!
「テオ?」
ーーテオドール・アルスト、貴女がエル・ティティに来られた時は、ミカエル・アンゲルスって名乗ってた。

 ああ、とやっと思い出した。一月以上前に、アメリカ政府を怒らせ、一族の長老達を怒らせ、セルバ共和国の裏の世界を引っ掻き回して行方をくらませた男だ。本人が望み、大統領警護隊文化保護担当部の隊員達も身の安全の為に、その存在を忘れた男だ。本人の希望通りにエル・ティティに行ったのか。ゴンザレスと再会出来たのか。しかし・・・なんですって?

「ドクトル・アルストがゲリラに攫われたと仰いました?」
ーースィ、セニョリータ。今朝、川に洗濯に行ったきり帰らないんで、巡査を迎えに遣ったら、洗濯物と手紙が残っていた。ミゲールに連絡を、って書いてあった。だから、貴女を探していた。貴女が私にくれた名刺に、ミゲールって書いてあっただろ?

 ケツァル少佐は溜息をついた。あのアメリカ人は何処まで騒動を引き起こすのだ?

「ゲリラは政府軍の担当です。オルガ・グランデ基地に連絡なさっては?」
ーーそんなことをしたら、テオがここにいることがアメリカ政府に知られてしまう。

 つまり、エル・ティティ警察は首都警察が全国に手配した行方不明のアメリカ人を隠していた訳だ。
 ゴンザレスが訴えた。

ーーテオは、大学の仕事をほっぽり出して私の所へ来てくれた。息子同然なんだ。カンパロなんぞに殺させたくないんだ。

 ケツァル少佐の頭の中で警鐘が鳴った。 カンパロ?

「今、貴方はカンパロと言いました?」
ーースィ。ティティオワ山周辺を縄張りにしている反政府ゲリラだ。実態はただの誘拐ビジネスで稼ぐ山賊だがね!
「ゲリラの頭目は、ディエゴ・カンパロなのですね?」
ーースィ、セニョリータ。テオを助けてやってくれるか?
「努力します。通報を有り難う。」

 ケツァル少佐は電話を切った。既にミゲール氏は帰宅していた。
 少佐は数秒間考え、携帯電話を出した。部下の携帯にかける。相手はまだ運転中なのか、すぐには出なかった。彼女が一旦切ると、5秒後に相手からかかってきた。少佐は直ぐに出た。

「ケツァルです。」
ーーステファンです。何か?
「ティティオワ山へ行きます。同行を命じます。」
ーー今夜ですか?
「スィ。」
ーー1時間後に本部へお迎えに上がります。
「よろしく。」


 

アダの森 1

 エル・ティティの町はテオドール・アルストを歓迎してくれた。代書屋が戻って来てくれたのだ。”ミカエル・アンゲルス”が町から出て行って以来口数が減っていたゴンザレス署長が元気を取り戻した。町の若者達が毎晩の様に誘いに来て、シオドアと一緒にバルで飲んだ。女性達が畑で穫れた野菜を持って家に訪ねて来た。巡査達は首都から回って来た行方不明のアメリカ人の手配書を黙って破り捨てた。
 シオドアの頭から方程式も遺伝子解析も組み替えも、全て消え去った。毎朝ゴンザレスと自分の朝食を作り、掃除をして洗濯をして、シエスタの準備をする。ゴンザレスや巡査達とお昼を食べて、軽く昼寝をしてから、会計士事務所へ出勤し、仕事を手伝う。誰かが代書が必要な文書を置いていたら、それをパソコンで清書して印刷しておく。いつの間にかそれは消えていて、代わりに野菜や僅かばかりの現金が置いてある。
 シオドアの居場所がそこにあった。必要とされ、自分も必要としている。誰も命令しない。付き纏わない。

「だが、運転免許証や病院に掛かる時の身分証はいつか作らねばなるまいよ。」

とゴンザレスが心配した。なんとかするよ、とシオドアは言った。大統領警護隊にこれ以上頼る訳に行かないので、本当になんとかしようと考えるのが、日課の一つになった。正式な市民権を取得するには、どうすれば良いのだろう。今のままでは不法滞在になる。
 エル・ティティに戻って37日目。彼は川で洗濯をしていた。ゴンザレスと彼自身の物に加えて独身の巡査の衣服も洗ってやっていた。代書屋に加えて洗濯屋もしようかな、と思った。エル・ティティには以前洗濯屋がいたのだ。歳を取って引退してしまい、後継者がいない。働く時間は十分ある。元洗濯屋の爺さんに道具を借りて商売を始めようか、と思った。

「グラダ・シティとその周辺でCIAが血眼になってアンタを探してるって言うのに、当の本人は川で洗濯かい? いい気なもんだぜ。」

 対岸で男がそう言った。シオドアが顔を上げると、男が1人、AKを抱えて立っていた。迷彩服を着ているが、セルバ共和国政府軍の徽章は何処にもない。大統領警護隊の緑の鳥の徽章もない。
 もしかして、コイツ、やばいヤツじゃないか?
 シオドアは男に言い返した。

「CIA相手に隠れん坊している覚えはないがね。」

 彼は最後の濯ぎを終えたシャツを絞った。洗濯籠に放り込むと、男をもう一度見た。髭面で四角い顔の、よく見るタイプのメスティーソだ。日焼けして、左目の下に横一文字の白い傷痕がある。警察署に手配書が回って来ていた。

「反政府ゲリラの”赤い森”のリーダー、ディエゴ・カンパロだな?」

 フンっとカンパロが笑った。

「署長の家の居候のことはある。手配書を見たんだな。」
「町の至る所にコピーを貼り出してあるさ。何か用か?」

 カンパロはCIAが俺を探していると言った。反政府ゲリラがなんでそんな情報を持っているんだ? コイツらこそアメリカの敵じゃないか。麻薬を売った金で武器を買い、外国人を誘拐しては身代金を要求する。身代金を受け取ったら人質を解放するかと思えば、必ずしもそうではない。3人に1人は殺害されている。逃げようとして、あるいは拘束中に抵抗したり、見張りの機嫌を損なって。
 気がつくと、川のこちら側にもゲリラが居た。シオドアは5丁の銃に囲まれていた。

「アンタを捕まえたら、北の国の政府はいくら払ってくれるかなぁ。」
「無駄だ。特殊部隊を送り込まれて、君達は全滅する。」
「アンタも道連れにされるぜ。」
「どうかな? 一応、俺が生きていることが、彼等にとっては重要なんだよ。面子があるからね。」

 カンパロはシオドアとの言葉のやり取りに早くも飽きた。仲間に合図を送った。

「縛り上げて連れて行け。」

 シオドアは銃を見た。”風の刃”から逃げるより難しそうだ。

「わかった。大人しくついて行く。だけど、署長に手紙を書かせてくれ。CIAに連絡してくれるだろう。」


はざま 13

  マハルダ・デネロス少尉にエレベーターに押し込まれたシュライプマイヤーが閉じかけた扉を押し開き、辛うじて脱出した時、デネロスはその真横に立っていた。大柄なアメリカ人が拳銃を片手に廊下を走ってトイレに入った時も、そこで動かずに立っていた。ボディガードがトイレを点検している間もじっと立っていた。彼がトイレから出て、歩いてアリアナ・オズボーンの部屋に戻り、ドアを閉じると、もう1度エレベーターのボタンを押した。扉が開いた箱の中に入り、下へ降りた。深夜にも関わらず人が出入りしている高級ホテルのロビーをTシャツとジーンズ、スニーカーの姿で堂々と歩いて横断し、正面玄関から出た。
 彼女が住んでいる官舎に向かって歩いていると、後ろからベンツのSUVが近づいてきた。運転席の女性が声を掛けた。

「良かったらお乗りなさいな、セニョリータ。」

 デネロスの笑顔が返事だった。彼女はサッと助手席側に回って、中に滑り込んだ。

「任務を半分完了しました!」

と報告した。ハンドルを握るケツァル少佐が半分?と尋ねた。デネロスは申し訳なさそうに答えた。

「ファイルとUSBは焼き捨てましたが、ドクトラの護衛は中途半端で放棄して来ました。」
「許します。」

 少佐がクスッと笑った。

「ファイルを焼いたのでは、残って護衛をするのは不可能です。」
「ファイルを外に持ち出そうかと思ったのですが、ドクトラの用心棒が2人いて、交替で廊下で見張っていましたので、キッチンで焼きました。」
「火災報知器はどうしました?」
「スキレットとミルクパンを重ねて煙が出ないように蒸し焼きにしました。でもU SBが弾けちゃって、ドクトラを起こしてしまいました。」
「まぁ、初めてにしては上出来です。」

 デネロスは遠ざかって行く高層ホテルの建物を振り返った。ちょっぴり悲しげに彼女が言った。

「ドクトラには優しくしてもらったのに、裏切る形になって申し訳ないです。」
「貴女は任務を遂行しただけです。」
 
 ケツァル少佐は若い部下が納得出来る説明をさらりとした。

「あのファイルが北米の人間の手に渡れば、全ての”ツィンル”の安全が脅かされることになっていたでしょう。あのファイルを作成したドクトル・アルストがそう言ったのです。ファイルの破壊はドクトル自身の希望でもありました。貴女は一族を救ったのです。」
「そうなんですか!」

 さっきまでしょげていたのが嘘みたいに、デネロスの目が輝いた。思わず運転中の上官の頬にキスをした。

「有り難うございます、少佐! 私、ちょっと自信がつきました。明日からもお仕事頑張ります!!」

 ケツァル少佐は微笑んだ。そして心の中で呟いた。

 これで貴女を”出来損ない”などと呼ばせない。

 半時間後、マハルダ・デネロス少尉を大統領警護隊官舎に送り届けた少佐は、車内からステファン中尉の携帯電話に掛けた。

「デネロス少尉は任務を完了しました。ドクトル・アルストに伝えなさい、明日の午前中に好きな所へ行って下さいと。」


 

第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...