2021/07/10

異郷の空 15

  アリアナ・オズボーンはカルロ・ステファンの逞しい筋肉質の体を優しく何度も撫でていた。彼はウォッカマティーニ1杯で酔ってしまった。逃亡と変身と負傷で消耗した体力が戻っていなかった。だから彼女にされるがままになって、彼女が求めるままに体を動かした。アリアナは今まで味わったことがない快楽を体験した。シオドアも研究所の他の若い科学者達も助手達も、こんなに素晴らしい体を持っていない。この猫を手放したくない。
 だがカルロ・ステファンの方は違った。命の恩人の要求に応えただけだった。上官の、と言うより士官学校時代の上級生の命令に従う感じで「仕事をした」。終わると全身が溶けてしまう様な疲労感が残っただけだった。もうすぐ上官が迎えに来てくれると言うのに、眠たくて仕方がない。彼はシーツに顔を押し付けて目を閉じた。
 アリアナがベッドから出た。彼女ももうすぐシオドアがケツァル少佐を連れて戻って来ることを忘れていなかった。素早く服を身につけた。

「お水を持って来るわ。貴方も服を着て。」

 彼女が寝室から出ると、彼は仕方なく体を起こしてベッドから降りた。ズボンを履いた時、キッチンの方で物音がした。彼女は水を汲みに行ったのだから当然かと思ったが、彼の本能が警戒せよと言った。素足のまま、彼はドアに近づき、耳を澄ました。音は聞こえない。彼女が水を汲む音も冷蔵庫を開け閉めする気配もない。感じるのは複数の人間の張り詰めた緊張感だ。

 敵が家の中に入ってきている

 武器はない。ナイフもアサルトライフルも拳銃も何もない。変身も出来ない。今は指先さえ変化させる体力が残っていない。寝室の窓を見た。外にも人間の気配があった。
 彼はシャツを着た。捕まるとしても、みっともない姿で捕虜になるのは嫌だと思った。それにアリアナ・オズボーンがどうなったのか気になった。命の恩人だ。そして大事な友人テオドール・アルストの”妹”だ。
 靴がないので素足のまま、ドアを開き、廊下に出た。真っ暗だった。アリアナが照明を消した筈がない。シオドアが帰って来るのだから。キッチンとリビングの方へ歩き出すと、前方に人影が現れた。奇妙な頭部だったので、一瞬ギョッとしたが、赤外線スコープ付きのヘルメットを被っているのだとわかった。銃をこちらへ向けている。左右に1人ずつ。撃つなら撃て。彼はゆっくりと進んだ。暗闇は”ヴェルデ・シエロ”にとって色彩がないだけで普通に見える世界だ。キッチンの方でアリアナの匂いがした。血の匂いはしないから、彼女は抑えられているだけだ。彼が進むと、赤外線スコープの連中が後退りした。
 小さな家だ。すぐにリビングに到達した。部屋に入った途端に照明が点いた。強烈なライトを顔に浴びせられ、ステファンは手で顔を覆った。

「美術品窃盗犯の”コンドル”だな?」

と男の声がした。男はライトの横に立っているので顔が見えなかった。相手の目を見ることが出来ない。胴に銃口が押し当てられた。彼は仕方なく両手を挙げた。まだライトを顔に当てられたままなので目を前へ向けられなかった。ヘルメットを脱ぐ男達がチラリと見えた。
 警察ではない? 彼は軍人だ。外国の軍隊の制服の知識は持っていた。アリアナ・オズボーンの家の中にいるのはアメリカの陸軍だ。
 キッチンでアリアナのヒステリックな声が聞こえてきた。

「私の家の中で何をしているのよ! 彼は友達よ! 銃を向けないで!」

 するとステファンが知らない別の男の声が言った。

「君にセルバ人の友人がいたなんて、初めて知ったよ、アリアナ。今夜はテオが泊まる筈じゃなかったかい?」

 その男はライトの横の男にも声をかけた。

「そのセルバ人の頭に袋を被せなさい、ヒッコリー大佐。目を使わせちゃ駄目だ。ダブスンがそう言ってる。」

 ステファン大尉はアリアナとその若い男が言い合いを始めたのをぼんやり聞いていた。兵士が彼の腕を掴み、背中で緊縛した。そして若い男の希望通りに黒い不織布製の袋を頭部にすっぽりと被せられた。これじゃゲリラの誘拐と同じじゃないか、と彼は思った。急に恐怖が襲ってきた。2度と生きて故郷に帰れない。彼は心の中で叫んだ。

 ケツァル少佐、早く来てください!

 彼の腕を掴んでいた兵士が後ろに吹っ飛んだ。ライトの電球が破裂し、他の兵士達が手に電気の様な衝撃を感じて危うく手にしていた銃を落としそうになった。エルネスト・ゲイルは全身が痺れる様な感覚を覚え、ライトの破片を浴びて呆然としている制服姿のヒッコリー大佐を見た。

「何が起こったんだ?」

 大佐が呟いた。アリアナが床に膝を突いたステファン大尉に駆け寄った。

「大丈夫?」

 咄嗟に彼女は彼の名前を偽った。

「しっかりして、コンドル。」

 ステファン大尉は袋の中で微かに頷いた。エルネストが彼女の肩を抱いて引き起こした。そして大佐を振り返った。

「見たでしょ? 今のがこいつの力ですよ。凄い、本物だ!」

 ヒッコリー大佐は服に飛び散ったガラス片を手袋で払い落とした。兵士達は距離を空けてステファンを取り巻いている。少しでも変わったことをしたら撃ち殺しかねない雰囲気だ。 エルネストはアリアナを振り返った。

「こいつを説得しろ。大人しく従えば、傷つけたりしないと言うんだ。研究に協力すれば窃盗の罪は見逃してやると言え。」

 アリアナは彼を睨みつけ、それから再びステファンの横に膝を突いた。恐る恐る彼の背中に手をかけると、彼は微かに緊張したが、何も起こらなかった。彼女はそっと囁いた。

「貴方の遺伝子を調べさせて。痛い思いは決してさせないわ。だから、彼等に逆らわないで。わかるでしょう? 今の貴方に戦うのは無理よ。」

 彼女は彼が抵抗しないことを示す目的で彼を抱き締め、それからエルネストに頷いて見せた。
 ヒッコリー大佐がセルバ人を家の外に連れ出すと、エルネスト・ゲイルはアリアナにもついて来いと言った。

「テオが戻るのを待つわ。」

と彼女が逆らうと、彼は彼女の体を見ながらニヤニヤ笑った。

「だけど、サンプルは新鮮なうちに採取しておかないとね。」
「どう言う意味?」
「人前で僕に言わせる気かい? さっきまで彼と寝室にいたんだろ?」

 アリアナは耳まで真っ赤になった。それでも行かないと頑張った。それなら、とエルネストが彼なりに譲歩した。

「自分でサンプルを採取して明日の朝一番に持って来いよ。そうすれば彼に恥ずかしい思いをさせずに済むぜ。」

 彼は彼女を家に残し、外に出た。窓を黒く塗ったバンがエンジンをかけたまま待っていた。彼は中央の席に乗った。後部席を見ると、2人の兵士に挟まれて座ったセルバ人がぐったりしているのが見えた。ただし、袋を被せられているので顔は見えない。

「そいつ、どうしたんだ?」
「具合が悪そうです。」
「観察していろ。折角生け捕ったのに死なれては困る。」

 前に向き直った彼は呟いた。

「アリアナのヤツ、かなり弄んだ様だな。」

 研究所はすぐそこだった。


異郷の空 14

 シルヴァークリークが東海岸の先住民の町だと気がついたのは、目的地のラシュモアシアターに到着した時だった。すっかり夜中になっていたが、週末の映画館の前では若者達が酔っ払って騒いでいた。彼等の顔付きがとても懐かしいものに見えた。シオドアは駐車場の中をゆっくり車を走らせ、女性の姿を探した。多分迷彩服を着た人を探していたのだ。だからコーナーを曲がるためにうんと速度を落とした時に、派手な赤いジャンパーを着た女性にいきなり横から窓を叩かれてびっくりした。
 ケツァル少佐は黒っぽい色のTシャツの上に防寒用のド派手な赤いジャンパーを着ただけだった。腰から下は迷彩柄のパンツだ。シオドアがドアを開けると素早く助手席に乗り込んで来た。シオドアは来た道を逆に走り始めた。片道2時間の行程をまた運転するのだ。

「”出口”はここしかなかったのかい?」
「都会のど真ん中に出てしまうより安全でしょう。」
「好きな場所に出られるんじゃないのか?」
「目的地の近くに出られますが、希望通りの場所に出られるとは限りません。」
「俺には仕組みがまだよく分からないんだが・・・」
「空間は均一ではないのです。渦が所々にできて、常時移動しています。渦が”入り口”です。入ると自分が行きたい方角を念じます。”出口”が出来て外に出られます。達人は”入り口”を見つけるのが早いし、”出口”を作るのも上手です。」

 シオドアはゲリラから逃げた時、バナナ畑に落ちたことを思い出した。ステファン、シオドア、ロホの順に上下に重なって落ち、少佐はバナナの木に引っかかっていた。ステファンが上官に苦情を言っていたっけ。もっと上手になってくれ、と。多分、上手な人がいれば地面に立った状態で出られたのだろう。
 今度は少佐が質問した。

「私の部下に何があったのですか?」
 
 それでシオドアはステファンから聞かされた話を語って聞かせた。ミゲール大使がメルカトル博物館の泥棒騒動を知らなかったように、少佐も知らなかった。アメリカの小さな私立の博物館で起きた窃盗未遂事件など外国で報道されたりしないのだ。陸軍特殊部隊のカメル軍曹がステファンを殺害しようとしたと聞いて、少佐は難しい表情を浮かべた。

「本当に殺したいのなら、銃を使えば確実でしょうに。軍曹は拳銃を所持していたのでしょう?」
「俺はそこまでは知らない。だが、警察に向けて発砲したから撃たれたんだ。何か銃器を持っていたのだろう。 ナイフで心臓を刺すのは何か意味があるのかな?」

 すると彼女は嫌そうに顔を顰めた。

「心臓を汚したかったのかも知れません。」
「心臓を汚す?」
「古代の儀式で、勇士の心臓を神に捧げ、神官達が食べると言うものがあります。」

 シオドアは運転しながら、はぁ? と声を上げた。

「食人じゃないか!」
「スィ。メソアメリカ文明ではしばしば見られる過去の文化です。他国の遺跡でも同様の儀式を表すレリーフなどが残っています。食べられる心臓の持ち主は、その勇気と戦歴を讃えられるのです。」
「・・・理解出来ない・・・」
「生贄の文化を私も支持している訳ではありません。今は、カメルの行動を分析しようと試みているだけです。」
「それにしたって・・・心臓を刺すと汚すことになるのか?」
「生贄の心臓は、血を流さずに取り出されなければなりません。食べられる者の名誉です。しかし、心臓自体を刺して血を流せば、勇者は汚され、名誉も汚されます。」

 少佐の声に怒りが滲んだ。

「混血の”ヴェルデ・シエロ”が大統領警護隊の上位将校へ昇ることを我慢出来ない奴等がいるようです。」

 シオドアは以前に少佐やステファン大尉から聞いた純血至上主義者の話を思い出した。純血の”ヴェルデ・シエロ”こそが人間で、他は認めないと言うファシスト達の存在だ。

「純血至上主義者の長老がカメルにステファン大尉の暗殺を命じたと言うことか?」
「誰が命令を出したのか知りませんが・・・」

 少佐は考え込んだ。

「外国で自国民を殺害する様な愚かなことを彼等は喜ばない筈です。私達の存在を外国に知られる恐れがあります。彼等自身が最も心配することです。ですから、カメルのことは・・・」

 シオドアは先に推論を述べた。

「個人的怨恨かな。ステファンに出世を邪魔された誰かの一族が怒っているとか?」

 少佐は否定しなかった。

「私もそれ以外に思いつきません。カメルは”ヴェルデ・ティエラ”、つまり貴方と同じ普通の人間ですから、心を操る術をかけられていたのではないかと思われます。”操心”は非常に高度な術です。長老の誰かが関係しているのでしょう。」

 シオドア達は高速道路に入った。ステファン大尉暗殺未遂はこれ以上考えても埒があかなかったので、彼は話題を転じた。

「ステファンが黒いジャガーに変身したことも聞いた?」
「スィ。」

 少佐の雰囲気が一変した。明るくなったのだ。

「驚きました。誰もが彼はナワルを使えないと諦めていたのですから。私も彼をどう指導すべきか分からなかったのです。今回は酷い状況だった様ですが、一回変身に成功すれば、後は訓練次第で好きな時にナワルを使える様になります。ロホの様に軽はずみに使わないよう、釘を刺す必要はありますが。」
「ミゲール大使は、彼が変身したと聞いて慌てていた様だけど・・・」
「変身出来る”ヴェルデ・シエロ”を私達は”ツィンル”と呼びます。意味は正に”人間”です。本国の長老会は国中の”ツィンル”を登録しています。未登録の”ツィンル”は危険人物扱いされるので、カルロの身の安全の為にも一刻も早く長老会へ報告することが必要だったのです。」
「変身できなければ”出来損ない”で、変身出来たら出来たで危険人物扱いかい? 君達の世界も厄介な決まりが多いなぁ。」

 少佐は肩をすくめただけで、シオドアの言葉を否定しなかった。

「彼は白人の血が入っているので、何が出来て何が出来ないのか、本人も私達もわかりません。ただ普段放出しっぱなしの彼の気がかなり強いので、年長者達は彼を警戒しています。感情のコントロールが出来なければ、気を爆発させてしまう恐れがあるからです。」
「ステファンはカメルに脇腹を切られた時、びっくりして電線を切った筈の警報装置を鳴らしてしまったと言っていた。」
「その時点で気の制御が効かなくなっていたのでしょう。だから逃げたい一心で速く動けるジャガーに変身したのです。」

 シオドアは何か言い忘れているような気がしたが、思い出せないでいた。

「君達純血種は、誰でもジャガーに変身出来るんだね?」
「純血種は、スィ、誰でもナワルを使えます。」
「君も?」
「スィ。」
「混血の人は無理なのか?」
「その人の気の大きさによります。”うちの”マハルダ・デネロス少尉は白人の血の割合が多いのですが、彼女自身の気は大きいので、ナワルを使えます。ただし、ジャガーではなく、オセロットです。」
「可愛い!」
「でも獰猛なオセロットですよ。」

と言いながらも、少佐が微笑んだ。年下の部下達の話をする時、彼女は家族を思う母親の様な表情になるのだ、とシオドアは気がついた。ケツァル少佐にとって、文化保護担当部は家族なのだろう。だからどんな危険な状況でも、部下が困難に直面すると助けにやって来る。シオドアは羨ましいと思った。彼も早くエル・ティティに戻って、ゴンザレス署長や若い巡査達と一緒に暮らしたい。
 そんな温かい感情が、いきなり破られた。
 ケツァル少佐が突然ビクリと体を震わせた。 ドクトル! と彼女がシオドアを呼んだ。

「急いで下さい。今、カルロが私を呼びました。」


2021/07/09

異郷の空 13

  リビングに行くと、アリアナが誰かと電話で話をしていた。

「・・・だから、逃亡中の泥棒とか黒豹がここへ来たら怖いじゃない? 貴方に来てくれと言ってもどうせ来ないでしょ? テオが一番頼りになるのよ。だから彼に来てもらったの。朝までいてもらうわ。コンピューターには触らせないから安心して。私だってそんなに愚かじゃないわ。」

 相手はエルネスト・ゲイルだ。門衛からアリアナの家にシオドアが来ていると連絡が入ったのだろう。アリアナは彼に、

「もう少し女性に優しくすることを覚えたら?」

と皮肉を言って電話を切った。そしてシオドアを見て言い訳した。

「エルネストが、貴方がここに来ていると門衛に聞いて、電話をかけて来たの。研究には全く関係ない用事だからと言っているのに、しつこいのよ、彼。」

 シオドアは笑った。エルネストの性格は彼女同様よく知っている。

「あいつは、今日の昼間、俺のところに来たぜ。昼寝をしている俺の邪魔をした。それが目的なんだが、趣味の盗聴で知り得た警察の情報を得意げに喋った。お陰で俺は博物館の泥棒のことを知ることが出来た訳だけどね。」
「その泥棒のことだけど・・・」

 アリアナはリビングテーブルの上にラップトップを出していた。画面をシオドアの方に向けた。怪盗”コンドル”のニュースが一覧で出ていた。

「彼がこの泥棒なの?」
「正直に言えば、イエスだ。だけど、金儲けで盗んだのではないんだ。セルバ文明の遺物が盗掘されて博物館に売られていた。セルバ政府は返還を求めて訴訟を起こしているが、博物館は美術品を返すつもりがないので裁判が長引きそうなんだ。それで、セルバ政府の偉いさんが、ステファン大尉ともう1人の軍曹に盗み出してでも先祖の遺物を取り返せと命令したらしい。セルバ以外の美術品も盗んだが、それはダミーだ。見境なく盗んだようにアメリカ側に思わせたかったんだよ。」
「それで、昨日メルカトル博物館に侵入して失敗したのね?」

 カメル軍曹に暗殺されかかったと言えば、また話がややこしくなりそうだったので、シオドアは頷いて見せただけだった。

「彼をどうするの?」

とアリアナが尋ねた。 シオドアはどうしようか、と考えた。

「俺の車に隠して基地から出そう。そしてセルバ大使館へ彼を連れて行く。大使館で彼を出国させてくれると思うよ。」

 その時、シオドアの携帯に電話が掛かってきた。画面を見ると非通知だ。用心しながら出ると、相手はミゲール大使だった。

ーーこの電話は安全ですか?

と大使が尋ねた。シオドアの電話は彼が働いているコンビニで彼が自分で購入した使い捨てだ。彼が「スィ」と答えると、大使が言った。

ーー黒いジャガーを確保しなければなりません。
「大丈夫です。」

 シオドアはちょっと余裕を感じながら言った。

「ジャガーを保護しました。傷の手当も済んで、彼は休んでいます。」
ーーおお、それは有り難い!

 大使が喜びの声を上げた。

ーーすぐ迎えの者を遣ります。この番号をまだ使われますね?
「もう1回程度なら大丈夫です。」
ーーでは、連絡をお待ち下さい。

 大使は神に感謝する言葉を呟き、通話を終えた。シオドアが電話をポケットに仕舞ってアリアナを見ると、彼女はぼんやりとラップトップの画面を眺めていた。彼は彼女を安心させようと声をかけた。

「セルバ大使館が彼を迎えに来てくれるそうだよ。」
「そう・・・」

 心なしか不満気に見えた。なんだ? とシオドアは不審に思った。まさか、ステファンを手放したくないってか? 彼はジャガーで猫なんかじゃないんだぜ。
 シオドアはポットから冷めたコーヒーをカップに注ぎ、口を湿らせた。

「迎えが来る迄俺もここにいてやるよ。」

 まさか、呪いの笛の時の様に大使自ら来るのではなかろうな? と思いつつ、彼はリビングのソファに横になった。アリアナは困惑して彼を見た。

「寝室には彼がいるわ。私は何処で寝れば良いの?」
「客間があるだろう? 彼をあっちへ連れて行くべきだったな。」

 またシオドアの携帯が鳴った。今度も非通知だ。しかし大使が来るには早過ぎる。シオドアは警戒しながら電話に出た。

「ハースト・・・」
ーーラ・パハロ・ヴェルデです。

 想定外の声を耳にして、彼は跳ね起きた。思わず声が弾んだ。

「少佐! まさか、君が迎えの者?」

 ケツァル少佐は余計なお喋りをしない。

ーーシルヴァークリークのラシュモアシアターの前で待っています。

 電話が切れた。料金切れだ。シオドアは電話をテーブルの上に投げ出し、アリアナのラップトップを引き寄せた。シルヴァークリークは隣州の端っこにある小さな町だった。ラシュモアシアターはそこにある映画館だ。シオドア達がいる基地から車で片道2時間かかる。

「なんでそんな遠くにいるんだ? ってか、何時そこへ行ったんだ?」

 思わずシオドアが愚痴ると、ステファン大尉の声が答えた。

「”出口”がそこにしかなかったからでしょう。」

 リビングの入り口にステファンが立っていた。アリアナが彼を見て微笑みかけた。何か飲む?と尋ね、彼は水を所望した。
 シオドアは車のキーを掴んだ。

「”出口”の仕組みがどうなってるのか知らないが、兎に角急いで彼女を連れて戻って来る。何処にも行かずにここで待っててくれ!」

 急いで外へ駆け出したシオドアに、ステファン大尉が軽く頭を下げて謝意を表した。ドアが閉まると、アリアナは再び鍵を掛け、チェーンも掛けた。車のエンジンがかかり、走り出す音がした。彼女は窓から車を見送り、尾行する車両がいないことを彼女なりに確認した。
 振り返ると、ステファン大尉は壁にもたれて水を待っていた。

「お部屋で待ってて。すぐに持って行くから。」

と言うと、彼は素直に寝室へ戻っていった。彼女はキッチンに入り、ウォッカ・マティーニを作った。グラスを2つ、トレイに載せて寝室へ運んだ。ドアをノックして開くと、彼はベッドから大儀そうに体を起こした。まだ体力が戻ったとは言えないのだ。彼は申し訳なさそうに謝った。

「私が貴女のベッドを使ってしまいました。リビングへ移動します。」
「いいの、ここを使ってもらって構わないわ。」

 どうせ直ぐにいなくなるのでしょう? 彼女は自分が見つけた黒猫を手放したくなかった。せめて、迎えが来る迄・・・あの美しいインディオの女が来る迄は、この猫は私のものだ。


異郷の空 12

  カメル軍曹はセルバ共和国陸軍特殊部隊の隊員だった。特殊部隊は普通の人間、つまり”ヴェルデ・ティエラ”とメスティーソの”ヴェルデ・シエロ”で構成されている部隊だ。ここの”ヴェルデ・シエロ”はせいぜい”心話”を使える程度で、本人も出自の自覚がない連中ばかりだ。カルロ・ステファンも大統領警護隊にスカウトされなければ、こちらの部隊に配属される筈だった。だから、部隊で数少ない本物の”ヴェルデ・シエロ”である司令官から、北米の博物館が返還を渋っているセルバ文明の文物を奪還する任務にカメル軍曹を相棒として連れて行くようにと命令された時、若干足手まといだなと感じつつも従った。
 カメル軍曹はステファン同様貧民街の出身で、泥棒の才覚があった。ステファンが子供時代に家族の生活のためにかっぱらいや掏摸やひったくり等の窃盗を重ねていたのと違い、軍曹はトリックを用いて人を騙し金品を巻き上げる詐欺師的な行為が得意だったのだ。だから”コンドル”はカメル軍曹が下見をして計画を立て、ステファンが実行すると言う手口で美術品の”回収”を行った。任務遂行は上手く進んだが、2人が仲良くなることはなかった。カメル軍曹はステファンが放つ強い気を感じていたのかも知れない。任務の相談をする時、彼はステファンの目を決して見なかった。仕事をしない時は常に別行動だった。ステファンも子供の時から周囲の人間が彼に対して取るそんな風な態度に慣れていたので、別段不自然に感じなかった。
 最後の標的であるメルカトル博物館に侵入する時、初めてカメルが一緒に中に入ると言った。ステファンは邪魔だと拒否した。カメルは一旦意見を引っ込めたが、当日実行する段になって再び一緒に行くと言った。そして強引について来た。メルカトル博物館は個人が趣味で経営しているので、あまり高価な品はない。しかしメキシコのコーナーだけは本物の見事なオパールの仮面が展示されていた。小さな物だが、売れば結構な値段が付く。計画では、ダミーとしてその仮面を盗むことになっていた。
 ステファンが警報装置の線を切ってガラスケースから仮面を取り出した時、背後からカメル軍曹が突進して来た。気配を感じたステファンは本能的に体を右へ動かし、左脇腹をナイフで切られた。

「恐らくカメルは私の心臓を背後から狙ったのです。しかし私が動いたので、腹を切られた程度で済みました。」

 驚いたはずみで気の放出が一瞬爆発的になったのだろう、線を切った筈の警報装置が作動してベルがけたたましい音を立てて鳴った。カメル軍曹は慌てた。その隙にステファンは逃げた。カメルが追って来たが、直ぐにパトカーのサイレンが聞こえた。銃声を耳にしたが、ステファンはひたすら走った。切られた脇腹から血が吹き出し、激痛と恐怖が襲ってきた。

「私は無我夢中で逃げました。走っているうちに体が軽くなっていく感覚があり、袋小路に追い詰められた時、夢中でジャンプしたら塀の上に上がれたのです。」
「変身したことに気がついたのは、何時?」
「塀から近くの家の屋根に飛び移った後です。傷が痛むので確認しようとしたら、何故か舌で舐めてしまいまして、血の味で我に帰りました。」
「人間に戻ろうとは思わなかった?」
「その時はただ仰天してしまって・・・屋根の下では警察車両が集まっていましたし、人が大勢いたので、そのまま屋根伝いに移動しました。人間に戻ろうにも方法がわからないし、裸だし、味方もいないし・・・」
「俺のところへ来ることは考えなかった? ああ、住所を教えていなかったな。」
「それに貴方と出会えても、ジャガーが私であると伝えることは出来なかったでしょう。」
「そうだね。犬が導入されたから、逃げ続けて、湖に入って臭いを消したんだね。 この家の庭先に来たのは偶然かい? 偶然だな、君はアリアナを覚えていなかったんだもんな。」

 ステファン大尉は微かに苦笑して見えた。

「彼女に見られた時は、もうお終いだと覚悟しました。通報されて撃たれる、それだけが頭に浮かびました。しかし体力も気力も限界でしたから、地面に横たわっていたら、彼女が戻って来て、声を掛けて来ました。それで、人間に戻ったとわかりました。後は・・・もうどうにでもなれと思って、彼女にされるがまま風呂に入れられて、手当を受けて、寝てしまいました。」

 シオドアはアリアナが猫を抱いて寝たと言ったことを彼に話すのを止めた。言えばこの若い軍人は彼女とまともに顔を合わせられないのではないかと心配したからだ。

「君が逃げ回っていた頃に、ミゲール駐米大使に連絡を取ったんだ。まだ何が起きたのか具体的に分からなくて、俺自身が情報を欲したからね。大使は”コンドル”を知っていた様だが、メルカトル博物館の事件は知らなかった。」

 大尉の目が不安そうに泳いだ。

「大使は何か言いましたか?」
「警察が黒豹を探していると伝えたら、本国に連絡を取ると言って電話を切った。それっきりだ。」

 そしてシオドアは急いで大使の言葉を付け足した。

「電話を切る直前に大使は言った。豹ではなくて、ジャガーだ、エル・ジャガー・ネグロだって。」

 シオドアは、ステファン大尉が弾かれたように立ち上がったので、彼も驚いた。

「どうかした?」
「・・・なんでもありません・・・」

 しかし大尉は何かに激しく動揺していた。顔を背け、自分の腕で自分を抱き抱えるポーズになり、口の中でぶつぶつ呟いた。シオドアには「そんな筈はない」と聞こえた。



2021/07/08

異郷の空 11

  アリアナは黒い大きな猫を庭先で見つけたのだ。人間と同じ大きさの猫だ。鋭い牙を生やし、緑色に輝く目を持ち、太い四肢で大地を蹴って跳躍する、真っ黒なジャガーだった。ただ彼女が見つけた時、黒いジャガーは傷ついていた。左脇腹から血を流し、全身ずぶ濡れでブルブル震えていた。アリアナは博物館の泥棒も黒豹の出没も知らなかったが、目の前にいる動物が尋常でない物だと判じた。急いで家に駆け込んだ。ジャガーが追いかけて来るかと思ったが、その気配はなく、窓から庭を見ると、桟橋へ降りる階段の上で倒れていたのは獣ではなく人間だった。
 アリアナは警察に電話するべきだと心の中で自分に言い聞かせながらも、庭に出て、男に歩み寄った。男は全裸だった。脇腹から出血していた。近づいて来る彼女に気がついて顔を上げた。アリアナは彼の顔に見覚えがあった。何故彼がここに? そして男の目が緑色の猫の目だと気がついて、危うく悲鳴を上げそうになった。しかし彼女が声を出す前に、彼の方が先にぐったりと地面に顔を着けてしまった。
 死にかけている・・・
 彼女は彼の肩に手をかけて言った。

「しっかりして! 家へ連れて行くわ。そこまで頑張って!」

 男は最後の気力を振り絞って彼女に支えられながら立ち上がり、家迄歩き、何とかバスルームまで辿り着いた。そこでアリアナは彼を洗い、傷の応急手当てをした。傷は出血していたが半分ほど塞がっていた。だから縫合は必要ないと彼女は判断して、傷口が開かないよう医療用テープで塞いだ。包帯を胴に巻かれている間も男は一言も発しなかった。そして彼女の寝室へ誘導され、ベッドの上に横たわると直ぐに眠りに落ちた。
 経緯を聞かされたシオドアはアリアナの服装を眺めた。

「君も眠った様だね。」

 アリアナが自分の体を見下ろした。

「彼は熱を出して震えていたの。だから温めただけよ。」
「自分の体温でか。まぁ・・・あの体だから抱き甲斐はあっただろうさ。」

 彼女がムッとして言い返した。

「私は黒い猫を抱いたつもりよ。」

 ピザを2切れ残して、彼等は食事を終えた。

「ジャガーが彼になったと言っても、貴方は驚かないのね。」
「うん・・・彼が初めてじゃないから。」

 アリアナが固い表情でシオドアを見た。

「セルバ人って、皆んなジャガーになるの?」

 シオドアは思わず吹き出した。そして彼女が目に涙を浮かべていることに気がついた。ちょっと反省した。

「ごめん、君は俺ほどにはセルバ人を知らないって忘れていたよ。あの国の国民が皆んな変身する訳じゃない。殆どは俺達と同じ普通の人間だよ。同じって遺伝子操作されたって意味じゃなくて、本当に普通の人間って意味で・・・」
「わかってる。」
「だから、普通のセルバ人は変身しない。消えたりしないし、テレパシーも使わない。悪霊祓いもしない。時間の跳躍もしない。空間の跳躍もしない。」
「貴方はそれを全部体験したの?」

 アリアナに見つめられてシオドアがどう答えようかと迷った時、寝室で物音がした。救われた気分でシオドアは席を立ち、寝室へ行った。ドアをノックして、声をかけた。

「シオドア・ハーストだ。入るぞ、ステファン大尉。」

 そっとドアを開けると、ステファン大尉が慌ててベッドの上で毛布を被るところだった。シオドアは少し安堵した。大尉は動ける様だ。裸なので、ドアを開かれて慌てたのだ。

「君と俺は服が同じサイズだから、俺の家から新しい衣類を持ってきた。趣味に合わないかも知れないが、我慢して着てくれ。俺が過去の村から戻った時に、君に拾われて君の服をもらった。そのお返しだから、気にしないで使って欲しい。」

 大尉が上半身を起こして、グラシャスと言った。

「貴方の声が聞こえたので、まさかと思ってドアで聞き耳を立てていました。そしたらクシャミが出て・・・」
「その格好のままじゃ風邪をひく。残り物で悪いがピザがあるので、持って来る。腹が減っているだろう?」

 すると大尉が尋ねた。

「私を助けてくれた女の人は?」
「アリアナ・オズボーン、俺と同じ研究所で育った。妹みたいな人だ。グラダ・シティの文化保護担当部のオフィスで君と会ったことがあると言っている。」

 しかしステファン大尉は首を傾げただけでコメントしなかった。
 シオドアはダイニングに戻った。残り物のピザを皿に移し、アリアナが温めてくれたミルクと一緒にトレイに載せて寝室に戻った。ステファン大尉は服を着てベッドに座っていた。よほど空腹だったのだろう、ピザをもらうと直ぐに食べてしまった。部屋の隅にあった椅子に座って眺めていたシオドアは、その食べっぷりに思わず笑みを浮かべた。食欲があれば大丈夫だ。

「もう1枚頼もうか?」
「いえ、結構です。落ち着きました。」
「傷の具合はどうだい? 痛むか?」
「大丈夫です。寝ている間にかなり塞がった様です。」

 多分、”ヴェルデ・シエロ”だから言えることだ。シオドアは事件の経緯を知りたかった。

「博物館で何があったんだ? 警察は君達が仲間割れをしたと考えている様だが?」
「私にも訳がわからないのです。」

と大尉は言った。


 


異郷の空 10

  シオドアはミゲール大使から何か言ってこないかと待ったが、夜になっても連絡はなかった。カルロ・ステファンの身が心配だった。射殺されたのがカメル軍曹なら、軍曹は何故ステファンを刺したのだ? 地面に跡を辿れる程の出血をしながら変身したステファンは何処へ行ったのか。
 警察は犬を使って黒豹と泥棒の双方を追いかけているのだが、奇妙なことに両方のチームの犬が同じ場所で重なった。泥棒追跡チームが黒豹追跡チームと同じ経路を追いかけ始めたのだ。そして「追われる者」は湖の岸辺で痕跡を絶った。湖に逃げたのだ。警察はドローンを飛ばし、ボートも出したが泥棒も豹も見つからなかった。何処かで岸に上がった可能性も考えられたが、湖の岸辺の3分の1を占める基地の捜索は難しかった。この基地には国立遺伝病理学研究所と言う関係者以外の立ち入りを厳しく制限している施設があり、部外者の立ち入りにうるさいのだった。居住区ならと言う条件で捜索を許可されたが、個人の住宅が湖岸まで建てられており、プライバシーの問題もあって容易に進まなかった。
 シオドアは昼寝をした分の延長勤務を終えて、疲れて自宅へ帰った。リビングのカウチに身を投げ出して目を閉じた途端に電話が鳴った。渋々携帯を出すと、アリアナ・オズボーンからだった。彼女は彼が出るなり、言った。

ーーうちに来て、テオ。大至急、お願い!

 シオドアはまた目を閉じた。くたびれて動きたくなかった。

「用件を言え。俺は疲れているんだ。」

 アリアナはお構いなしに自分の要求を喋った。

ーー貴方の服を持って来て。下着と靴下とシャツと・・・靴はいいわ、こっちで買う。
「何を言ってんだか・・・」
ーー今必要なのよ。早く来て! 門衛に貴方が来ることを言っておくわ。1時間以内に来てね!

 一方的に喋って切った。シオドアは不快な気分で電話の画面を眺め、そして突然ある考えに至った。
 俺の下着と靴下とシャツだって? 
 一人暮らしの女性の家にない物だ。アリアナが何故そんな物を必要とする? 
 彼女の家に、それが必要な男がいるからだ!
 シオドアは跳ね起きた。急いで袋に新しい下着と靴下とシャツを入れた。ついでにセーターも1枚入れた。ズボンも要るだろう。
 荷造りする程の荷物ではなかったが、思いのほか時間がかかり、急いで車に乗り込んで基地に向かった時は40分も過ぎていた。基地は近い。門衛は彼が追放されたことを知らなかったので、また外国へ出ていたのかと言う顔で迎えた。走り慣れた基地内の道をゆっくり走り、湖畔に家が並ぶ区画へ入った。アリアナ・オズボーンの家は小さい建物が多い古い街並みの中にあった。シャッターが閉まったガレージの前に車を駐車すると、窓のカーテンを寄せてアリアナが外を覗いた。シオドアは車外に出て、衣類が入った袋を掲げて見せた。彼女がカーテンを閉じ、彼が戸口の前に立つと同時にドアが開いた。奇妙なことに彼女はまだ夕方だと言うのにTシャツと短パンの上にナイトガウンを羽織っていた。
 以前と同じ様に、キスで挨拶をすると、彼女は彼を家の中に引き込んだ。ドアを閉め、鍵を掛け、チェーンを掛けた。そして、無言で「こっち」と手を振って彼を寝室へ誘導した。
 アリアナ・オズボーンは滅多に自宅に他人を入れない女性だった。”兄弟”であるシオドアもエルネストも彼女の家に招かれたことがなかった。だからシオドアは歩きながらインテリアを見て、案外普通の女性の一人暮らしの家なんだ、と思った。壁に明るい色調のリトグラフが数点飾っており、棚にニットの縫いぐるみが並んでいる。テーブルには花が生けてあった。
 アリアナは寝室のドアを静かに開いた。低い声で彼に言った。

「あの人を起こしたくないの。」

 シオドアは寝室の中を見た。照明を点けないでカーテンを引いた室内は暗かった。消毒薬の匂いが満ちていた。そんなに広くない寝室の中央に女性の一人暮らしには不似合いなセミダブルのベッドが置かれており、その上で男が1人寝ていた。
 シオドアは静かに室内に入った。セミダブルのベッドの左半分に男は遠慮がちに体を横たえていた。入り口に背中を向けて裸の肩が見えた。逞しい筋肉がついた軍人の体だ。少し長く伸びた黒髪は見覚えがあった。
 シオドアが手で触れられる距離まで近づいても、彼は起きなかった。熟睡している。こんな隙の塊の様なカルロ・ステファンは初めてだ。ロホはナワルを使うと疲弊して2日間寝込むと言っていた。ステファンも疲れ切ったのだ。生まれて初めて変身して、怪我をして、恐らく冬の湖を泳いで逃げたのだ。これで元気いっぱいなら怪物だ。
 シオドアはベッドの右半分が乱れていることに気がついたが、知らんぷりしてそこに衣類が入った袋を置いた。そして寝室から静かに出た。
 ダイニングに行くとアリアナがコーヒーを淹れていた。

「ピザを注文したわ。食べて行って。」

 ステファンと2人きりになるのが不安なのか。それにしても・・・。
シオドアは椅子に腰を下ろしてカップを手に取った。アリアナは化粧をしているが、くたびれた顔をしていた。この化粧は前日のものだな、と思った。彼女は時々研究で徹夜する。一つのことに集中すると中断するのが嫌なのだ。

「昨夜は徹夜したのかい?」
「ええ・・・」
「帰って来たのは何時?」
「今朝の10時頃・・・」
「昨日の事件を知っているかい?」
「何の事件?」

 彼女の怪訝そうな表情で、博物館の泥棒騒ぎも黒豹の出没も彼女は知らないのだとわかった。シオドアは寝室の方を振り返った。

「彼が誰か知っているのか?」

 すると意外にもまともな答えが返ってきた。

「ケツァル少佐の部下よ。」

 シオドアは彼女に向き直った。

「彼が名乗ったのか?」
「いいえ、今朝会った時から彼は一言も言葉を話さないわ。私達はセルバ共和国で1回会っているのよ。貴方が少佐のアパートで消えたとケビン・シュライプマイヤーが報告して来た時に、私はグラダ・シティに行って少佐と面会したの。その時、オフィスに彼がいた。少佐は彼を中尉とだけ呼んでいたわ。」
「彼の名前はカルロ・ステファンだ。君がセルバへ行った時は確かに中尉だったが、今は昇級して大尉になっている。」

 ドアチャイムが鳴って、アリアナは急いで玄関へ行った。デリバリーサービスの男と言葉を交わして、やがて再び戸締りする音が聞こえ、彼女はピザの箱を抱えて戻ってきた。
 空腹だったので、シオドアもアリアナも直ぐに箱を開けて食べ始めた。彼女は彼の好物を覚えてくれていて、チキンとペパロニにチリソースをかけた物だった。

「彼と今朝出会ったと言ったね。何処で?」
「この家の庭先。湖に降りるステップのところよ。」
「彼は裸だったろう? 君は顔見知りなら誰でも平気で家に入れるのか?」

 すると彼女ははっきりと言った。

「私が見つけた時、彼は人間の姿じゃなかったの!」
 

異郷の空 9

  まんじりともしない夜が過ぎた。シオドアはドアの外の音や通りの音に神経を尖らせたが、変わったことは起きなかった。翌日仕事に行くと眠たくて、ミスをしでかしそうになり、同僚に叱られた。

「ごめん、ちょっと1時間だけ休憩させてくれ。すぐに復活するから。」

と断って、店の近くの公園に行った。ベンチで寝転んで休んでいると、思わぬ邪魔が入った。
エルネスト・ゲイルが現れたのだ。

「黒豹が付近を彷徨いているって言うのに、そんな所で昼寝はいけないなぁ、テオ。」

 頭がぼんやりしていたので、シオドアは黒豹のせいで午前中の客が少なかったのか、と納得しただけで、彼がそこに来た理由まで考えが及ばなかった。
 エルネストは己のボディガードを車に待たせて、シオドアのベンチの端にお尻を載せた。

「探しに行かないのかい?」
「何を?」
「黒豹だよ。」

 エルネストはシオドアに顔を近づけた。丸顔だが、カルロ・ステファンと違って野性味が全くない。顎の下に肉が弛んで見えた。こいつ、シェイプアップすれば良いのに、とシオドアはどうでも良いことを思った。
 シオドアが返事をしないので、エルネストはちょっと躊躇ってから打ち明けた。

「面白い話を警察の電話を盗聴していて聞きつけたんだ。」

 エルネストの趣味は盗撮と盗聴だ。彼は異性には興味がない。基地にいる軍人達の訓練の様子や職務上の会話をこっそり覗くのが楽しいのだ。身近にいながら自分が参加出来ない世界に憧れている。近頃は基地の外の警察にまで手を広げていて、もしホープ将軍やヒッコリー大佐に知られれば大目玉を食う筈だ。普段のシオドアなら、彼の盗聴に関心がないのだが、この時は違った。友人が警察に追われているかも知れないのだ。

「どんな話?」

 エルネストがニヤリと笑った。シオドアが興味を示してくれたのが嬉しいのだ。

「巷じゃ警察が怪盗”コンドル”が現れるのを予想してメルカトル博物館を張っていたってことになっているが、あれは間違いなんだ。警察はあの博物館を全くノーマークで、もっと大きな州立博物館を見張っていた。それが、幸運にも、”コンドル”が自分でドジを踏んで警報装置を鳴らしたそうだ。」
「偶然だったのか・・・」
「それが不思議なことに、”コンドル”は警報装置の線を切っていた。それなのにベルが鳴ったんだ。」
「ベルが鳴ったから切ったんじゃないのか?」
「君はバカか? 何処の世界にそんな無駄なことをする泥棒がいるんだ? それに”コンドル”は逃げる時に二手に分かれたんだが、1人は路地に入る前に警察に銃を向けたんで、撃たれた。もう1人は行き止まりの路地に逃げ込んだ。警察が袋の鼠だと思って駆けつけたら、そこには誰もいなくて、服だけ残っていたそうだ。」
「服だけ?」
「そうだ。あの寒い夜に”コンドル”は素っ裸になって飛んで行ったんだよ。」

 シオドアはもう一度確認した。

「つまり、下着も靴も靴下も、全部置いて行った?」
「警察はそう言っていた。しかも、服には刃物で刺した破れ目があって血で汚れていた。」

 エルネストは知り得た情報を得意げに喋った。

「博物館の警報装置が鳴った部屋なんだけど、そこに血痕が残っていたらしいよ。服が残っていた路地の奥までその血痕は続いていた。しかも・・・」

 彼は声を低めた。

「射殺された方の”コンドル”は血がついた軍用ナイフを持っていたそうだ。」

 シオドアは体を起こした。パズルだ。物凄く簡単な筋書きのパズルだが、何故そうなったのかわからない。

「”コンドル”は2人で、メルカトル博物館に侵入したところで仲間割れをした、1人が相方をナイフで刺した、刺されたヤツが咄嗟に警報装置を作動させた、仲間割れをしたから一緒に逃げる筈がない、彼等は別々に逃げて、刺したヤツは警察に撃たれた。刺された方は・・・どうなったんだ?」

 彼とエルネストは互いの顔を見合った。目を見ても、会話は出来ない。

「どうして着衣一切合切捨てて行ったんだと思う?」

とエルネストが尋ねた。

「夜だし、上着だけ捨てれば多少は人の目を誤魔化せるだろう? 」
「捨てられた着衣なんかは、きちんと畳んであったのかい?」
「そこまでは知らない。」

 脱いだ物を畳む余裕などなかった筈だ。服や靴は逃げる経路にバラバラに落ちていたのではないのか。 シオドアは想像して身震いした。 カルロ・ステファンのナワルへの変身は逃げて行く過程で始まったのだ。生きたい、逃れたい、その一心で、あの”出来損ない”の”ヴェルデ・シエロ”は、一族が彼には出来ないと信じていた変身をやってのけたのだ。
 その時、エルネストがシオドアの心臓を掴むような恐ろしい予想を言葉に出した。

「消えた泥棒はセルバ人じゃないかな、テオ?」

シオドアはドキリとした。服の下に冷や汗がドッと出た感じだ。

「どうしてそう思うんだ?」

だってさ、とエルネストは彼の反応を観察するかの様に、じっと彼の顔を見た。

「アリアナも君のボディガードも、セルバ人が消えるのを目撃したって証言したんだぜ。うちの年寄り連中も将軍達も、彼等が薬でもやったんだろうと言っていたけど、僕は違う、アリアナもボディガードも本当のことを語っているんだ。」
「セルバ人は消えるってか?」
「君も消えたんだろ? 」
「記憶にないね。」

 シオドアはエルネストがさっさと立ち去れば良いのに、と思った。

「セルバ人には関わるなよ、エルネスト。俺の様に全てを失うことになりかねないぞ。」


第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...