2021/07/12

異郷の空 22

  ステファン大尉に与えられた新しい牢獄は、シオドアの要求通り3方がコンクリートの壁で1面がガラス張りだった。ガラス面にはブラインドが取り付けられていて、着替えや室内の隅に設置されたトイレを使用する際は囚人が自分で閉じられるようになっていた。シオドアは彼がその部屋で最初の食事を終える迄付き添った。食事の内容はマッシュポテトに牛肉のシチューをかけた物で、チョコレートクッキーと苺ゼリーが付いていた。飲み物は低カロリーのミルクだった。げっそりとその食べ物を見つめる大尉に、シオドアが半分食べてやろうかと提案すると、結構ですと断られた。

「もし毒が入っていたら、貴方と私は共倒れじゃないですか。」
「毒殺なんかここじゃやらないよ。」

とシオドアは蘇った過去の記憶を元に言った。

「出来るだけ自然死に見せかけるからね。」
「貴方も手を下したことがあるのですか?」

 ギョッとする質問をされて、彼は黙り込んだ。必死で頭の中を検索した。己の過去が決して綺麗な物でないことは、既にわかっていた。それでも他人の死に関わったかも知れないと思うのは辛かった。

「被験者を死なせたことはない。俺はそう言うことをする担当じゃなかったから。だけど加担していたことに変わりはないよな。」
「貴方の国は一体どこと戦っているのです?」

とステファン大尉が尋ねた。

「人間を兵器に作り変える必要がある戦争がどこで行われているのですか?」
「戦争は銃器や爆弾で行うものばかりじゃないんだ。国同士で情報の奪い合いや嘘をつき合うのも戦争だ。インターネットで攻撃し合うのも戦争だ。そこに人間の脳が必要なんだよ。普通の脳より大きな可能性を持った脳がね。」
「私はそんなものに関われる様な頭じゃありません。」
「君は興味なくても、君の遺伝子を受け継ぐ人間がやるだろう。」
「無理です。」

 彼が小さく笑った。

「ママコナの声を聞けないのに、まともな力を出せる筈がない。」
「それじゃ、君はママコナの声を聞けるんだ。」

 シオドアの言葉に彼は黙り込んだ。恐らく、彼の頭の奥で蜂の羽音がブンブン唸っているんだ、とシオドアは思った。”曙のピラミッド”に住まう巫女様の”声”はセルバから遠い異国にいる”ヴェルデ・シエロ”にも聞こえるのだ。だから、諸外国を仕事で旅していたミゲール夫妻に引き取られた純血の”ヴェルデ・シエロ”の女の子は正しく能力の使い方を学んだ。

「あれは偶然です。」

とステファンは言った。

「私は恐怖に襲われて、必死で生き延びようとした。だから警報装置を鳴らし、医療機器を破壊出来た。ナワルを使えたのも奇跡です。私はエル・ジャガー・ネグロなどではありません。」
「黒いジャガーだろ? 君が変身したんだ。どうしてエル・ジャガー・ネグロでないなんて言うんだ。」

 しかし彼はそれっきり黙してしまい、シオドアの質問に答えなかった。
 シオドアはワイズマン所長との約束を守って、囚人の食事が終わると空になった食器が下げられる時に一緒に部屋から出た。牢獄の天井に人が通りぬけられる大きさの通風孔が設置されていることを確認して。
 所長室に行くと、ワイズマンとヒッコリー大佐が待っていた。ホープ将軍がいなかったのでシオドアはホッとした。彼はあの将軍が大嫌いだった。記憶を失う前も失ってからも嫌いだった。シオドアをまるで自分の持ち物を見るような目で見つめるのだ。愛情の欠片をその眼差しから伺うことは一度もなかった。
 ワイズマンがブランデーをグラスに注いでシオドアに振る舞ってくれた。

「さっきはよくやった。」

 彼はポケットから小さな時計の様なものを出した。

「あのセルバ人が心電図計を破壊した時、お前と私はまだ通路の角を曲がる前だったが、強力な磁場の変化を計測した。普通ならあのフロアの電子機器の多くが狂った筈だ。しかし、あの男はあの部屋の中の物だけを破壊した。常識では考えられない現象だ。ピンポイント攻撃が出来る恐るべき能力の持ち主だ。」

 シオドアはステファンの為に真実を語った。

「あの男は自分で能力の制御が出来ないのです。機械を壊しましたが、壊すつもりはなかったのです。」
「狙って壊したのではないと?」

とヒッコリー大佐が尋ねた。今まで多くの超能力者やそれらしき人々を攫って来た男だ。彼の捕虜は捕まる時に抵抗したが、超能力を使えた試しがなかった。静かな部屋で精神を集中させて物を動かしたり、隣の部屋のカードの絵を読んだり、そんな程度だ。抵抗して物を破壊したり、特殊部隊の兵士を手を触れずに弾き飛ばした人間は、今回のセルバ人が初めてだった。あの能力が自制出来ないと言うのか?

「そうです。ですから彼を刺激することが一番危険です。研究に使うにも彼の承諾を得てからにしなければなりません。彼が腹を立てたりすると非常に危険なのです。」

 大佐が所長を見た。

「眠らせて飼うことは出来ないのか?」
「それではどんな能力を持っているのか、調べようがない。」
「だが、能力を使わせることが危険なのだろう?」

 シオドアは黙って2人の会話を聞いていた。どんな結論を彼等が出すとしても、俺達はここに長くいるつもりはないんだ。
 ワイズマンがシオドアを振り返った。

「テオ、お前の今の態度がどこまで信用出来るのか、私には判断つかない。だが、エルネストやダブスンでは、あのセルバ人は言うことを聞かないだろう。お前を研究に参加させることは出来ないが、あの男の世話を任せたい。」
「わかりました。」
「基地の外の家を引き払って、こっちへ戻れ。何かあればすぐに呼び出しに応じられるようにしておけ。」
「わかりました。」

 シオドアはしおらしくして見せた。そこで好奇心が首をもたげた。先刻の騒動を目撃したヒッコリー大佐に尋ねてみた。

「ところで大佐、エルネストはどんな理由で”コンドル”を抱き締めたのです? 俺は”コンドル”に訊いてみたのですが、彼も訳がわからないと言っていました。いきなり抱きつかれたのでびっくりして機械を壊したのです。」

 するとヒッコリー大佐はしかめっ面をした。

「我々にもわからない。麻酔から目覚めた”コンドル”を宥める為に彼は部屋に入った。優しく話しかけていただけに見えたのだが・・・いきなり”コンドル”に抱きついた。あんなことをされたら、俺でも仰天する。」

 そして多くの超能力者達を捕らえてきた男は囁いた。

「俺の目に”コンドル”は戦闘のプロに見える。その男が本気で怯えていた。それだけゲイル博士の行動は意味不明だったってことだ。」


異郷の空 21

  カルロ・ステファンは誰かに名前を呼ばれた様な気がした。まだ目蓋が重たかったが、彼は目を開いた。眩しかったが、天井と大きな照明器具が見えた。直ぐそばで男の声が聞こえた。

「目を開けたぞ!」
「馬鹿な、麻酔は効いている筈だ。」

 彼は起きあがろうとした。両手が引っ張られ、動けなかった。一瞬腹が立った。バキッと金属が折れる音がして両手が自由になった。男達が騒いだ。

「目を覚ました。」
「危険だ。退避しろ!」

 足音。ステファンは上体を起こした。白衣姿の男が2人、ガラス扉の向こうへ駆け出して行くのが見えた。扉が閉じられると同時に戸口の上で赤色灯が点滅を始め、アラームが鳴り出した。訳がわからないまま、彼は両腕に刺さっていた点滴の針を引き抜いた。頭部にも胸部にも足首にも端子が装着されていたが、それも一気にむしり取った。
 室内を見回すと、心電図や脳波計のモニターが目に入った。ガラス張りの狭い部屋だ。病院の様だが、何かおかしい。腰に薄いブランケットが掛けられていた。めくると、申し訳程度に下着だけ履かされていた。ベッドから降りると脚に力が入らず、転倒しかけた。ベッドの縁を掴んでなんとか体を支えたが、腕の力も頼りなかった。点滴の薬のせいだ、と彼は思った。脳の奥で声が聞こえていたが、言葉を聞き取れない。
 ガラス壁の向こうに兵士が駆けつけた。ヘルメットを被り、自動小銃をこちらへ向けて待機の姿勢で上官を待つ彼等は全員サングラスをかけていた。
 ステファンは無駄な戦いをしない主義だ。そんなものは少年時代の喧嘩で十分やってしまったし、セルバ共和国陸軍でみっちり教育された。もし今の状況が本当に絶望的なものであれば最後の意地で暴れたかも知れない。しかし彼の脳の奥でブンブン唸っている蜜蜂の羽音に似たものは、彼に理解出来ないまでも希望を与え続けていた。

 ママコナが俺に語りかけている・・・

 ガラス戸が開いて、ぽっちゃり顔の男が入って来た。男は用心深くゆっくりと近づいて来て、ベッドの縁を掴んで体を支えている彼のそばに立った。それから身を屈めて、彼と同じ目の高さで話しかけて来た。初めて見る顔だったが、声は聞き覚えがあった。アリアナ・オズボーンの家で捕まった時に、袋越しに耳にした声だ。

「君に痛い思いをさせたくないんだ。大人しくベッドに戻ってくれないか。今は君の健康状態を調べているだけだ。僕は君の友達のシオドア・ハーストの弟のエルネスト・ゲイルだ。」

 ステファンが点滴の針に視線を向けると、エルネストがちょっと笑って見せた。

「ああ、あれは痛いよなぁ。栄養剤だけど、君が目を覚ましたから、もう必要ないな。後でちゃんと食事を出す。だから心電図と脳波を測らせてくれないか。」

 彼はベッドの柵に掛けられた手錠を見た。捕虜の手首に掛けられていた方の輪っかは左右ともに砕かれていた。ピンポイントで確実に念力を使って標的を破壊している。凄い、本当にこいつは凄い。
 ステファンの頭の中の声が途絶えた。一瞬希望も途絶えた気分に陥ったステファンは思わず呟いた。

「ママコナ?」

 それをエルネストは聞き間違えた。彼が「ママ」と呼んだと誤解したのだ。こいつはやっぱりまだ幼いんだ。故郷に帰りたがっている。
 咄嗟に彼はセルバ人を引き寄せ、抱き締めてやった。この暴挙にステファンはパニックに陥った。心電図計や脳波計が火花を噴いた。ガラス壁の向こうの兵士達がいろめきたった。

「馬鹿野郎、エルネスト! 何をやってんだ?!」

 シオドア・ハーストの怒鳴り声が響いた。エルネストは頭の中が真っ白になった状態でガラス部屋の戸口を見た。ステファンも彼に抱き抱えられたままそっちを見た。シオドア・ハーストが立っていた。顔はやや青褪めていたが、目は怒りで燃えていた。シオドアの後ろにワイズマン所長がこれも強張った表情で立っていた。
 シオドアがヒッコリー大佐に向けて腕を伸ばし、抑えて、と合図を送った。そしてワイズマンを振り返った。

「部屋の中に入ります。」

 ワイズマンが頷いて許可を与えた。 シオドアが静かに部屋に足を踏み入れた。友人と言えどセルバ人は今興奮状態にいる。刺激するのは危険だった。

「彼から離れろ、エルネスト。君が彼を脅かしたんだ。」

 まだ頭が空白になったままのエルネストがその言葉を理解する前に、ステファンが彼を押しのけて立ち上がった。まだ足元がおぼつかないが、床に尻餅を付いたエルネストを見下ろす目に威圧感があった。だからシオドアは忠告した。

「君もエルネストを怖がらせないでくれ。目を逸らせてくれ。」

 武器となる目を塞がせるな、と暗に注意を与えた。ステファンは彼を見て、それからベッドの縁にドサリと腰を下ろした。その隙にエルネストが半分腰を抜かした状態で部屋の外へ逃げて行った。シオドアはステファンの隣に座った。室内を見ると計器類から煙が出ていた。点滴の針から薬剤がポトリと落ちた。神経の興奮を抑える鎮静剤だ。この薬は”ヴェルデ・シエロ”には効力がないのか。それとも”ヴェルデ・シエロ”はすぐに抵抗力をつけてしまうのか。

「気分はどう?」

 外の人間に余計な詮索をされないよう、英語で話しかけた。ステファンも英語で答えた。

「最低です。」

 シオドアは彼の脇腹の傷を見た。

「傷はまだ痛むかい?」
「こっちは大丈夫です。そろそろ痒くなって来ました。」

 彼はステファンの肩を軽く叩いた。そして立ち上がるとワイズマンに声を掛けた。

「室内の計器類は使い物になりません。部屋を掃除して機械を入れ替えるか、新しい部屋へ移してやって下さい。新しい部屋は出来れば3方は壁にして欲しい。プライバシーを守られないと、被験者が落ち着けない。それから、服を着せてやって下さい。普通に人並みに扱っていれば、彼も暴れたりしません。」

 そしてステファンを見て、「だろう?」と念を押した。ステファンも同意した。 ワイズマンも異論がなかった。

「新しい部屋を用意する。ただし、用意が出来るまでは見張りを残す。」

 彼は情けをかけてやることにした。

「移動まで一緒にいてやれ。ここで生活する心得でも教えてやることだ。出来るだろう? 君が記憶喪失になる前にやっていた仕事だ。」

 彼は立ち上がったエルネストを睨みつけ、ついて来いと合図して立ち去った。エルネストはガラス部屋を振り返った。シオドアを睨みつけたが、怒りと言うより嫉妬の炎をその視線に感じて、シオドアはびっくりした。
 部屋の外のヒッコリー大佐の特殊部隊は2人の見張りを残して引き上げた。
 シオドアはスペイン語でステファンに話しかけた。

「エルネストが君をどう扱うのか心配になって、ワイズマンに掛け合ったんだ。昔やっていた仕事内容を思い出してね・・・捕まえた超能力者の世話を指示していたのは俺なんだ。だから、素人のエルネストなんかに君を任せたら君も研究所も危険な状態になると訴えたら、中に入れてもらえた。」
「来ていただいて感謝しています。」

とステファンが元気のない声で言った。

「実際、私はもう少しでさっきの男の首を折るところでした。」
「何があったんだ?」
「わかりません。」

 彼は肩をすくめた。

「いきなり抱きついて来たんです。衆人環視の中で襲われるなんて思っても見ませんでした。」
「君を襲った訳じゃないだろうけど・・・」

 シオドアも肩をすくめた。

「俺も時々あいつが理解出来ないから。 兎に角、あいつ、エルネスト・ゲイルとダブスンって言う中年女性の博士には用心しろよ。ダブスンは時々オルガ・グランデへ研究サンプルを採取しに行っていたから、神様の扱いを現地の人間から聞かされている節がある。目を塞がれたら、君が困るだろう?」
「忠告有り難うございます。」
「俺はエルネストが持っている君のデータを消さなきゃならない。連中に寝返ったふりをするから、我慢していてくれ。」

 そしてシオドアは、ケツァル少佐から教わった”ヴェルデ・シエロ”の言葉で囁いた。

「彼女がここに来ている。」

 ステファンの目が希望で明るく輝いた。


2021/07/11

異郷の空 20

  エルネスト・ゲイルはアリアナ・オズボーンの家に仕掛けた盗聴器をシオドアに発見され破壊されたが、気にしなかった。シオドアが言った通り、昔から彼等の間ではイタチごっこで遊び感覚だったのだ。それに今回の「ハンティング」では十分役に立った。
 居住区の湖岸に設置されたC C T Vに黒い大きな獣が映っているのを発見したのは、エルネストだった。覗き見が趣味だから、警察や警備の防犯カメラ回線に侵入するのは得意だ。テレビで報道されていた「黒豹」だと直ぐにわかった。「黒豹」は湖を泳いでやって来て、あろうことかアリアナ・オズボーンの家の桟橋付近に上陸した。彼はアリアナに注意喚起の為に電話をしようと思ったが、「黒豹」が岸に上がって直ぐに蹲ってしまったので、電話するのを止めた。彼女が獣を見つけた時の反応を見たかった。獣は朝の太陽の光を浴びてキラキラと輝いていた。真っ黒な見事な毛皮だった。防犯カメラの解像度の高くない映像でも、綺麗な動物だとわかった。
 アリアナは彼が予想した時刻に帰宅した。研究所から車で5分の距離だ。何時、あの獣に気がつくだろう。エルネストはドキドキしながら自宅に造ったモニター室で見ていた。仕事もリモートだからモニター室に座っていれば出来た。アリアナの家の前にある防犯カメラに彼女が帰宅するのが映っていたが、裏庭は住民の要望でカメラがない。庭と公共の岸辺を仕切る植え込みの切れ目で蹲る「黒豹」は映っていたが、庭に出るアリアナは見えなかった。
 そのうち、「黒豹」が動いた。頭を上げ、何かを見た。彼女が来たのだ。エルネストは彼女が見えないことを悔やんだ。きっと悲鳴を上げたに違いない。「黒豹」が体を持ち上げた。這うように前進したので、エルネストはモニターの前で思わず怒鳴ってしまった。

「動くな! 見えなくなる!」

「黒豹」は尻尾だけカメラの中に残してまた動きを止めた。エルネストはアリアナが逃げてしまったのだろうと思った。実際、彼女はその時一旦家の中に逃げたのだ。彼は盗聴器の音声を聞くために機械を操作した。モニターから目を離した数秒間に、「黒豹」の尻尾がカメラから消えた。
 エルネストが期待したアリアナの救援要請の電話はなかった。彼女が「黒豹」に食われたのかと思ったが、そのうちリビングとキッチンに仕掛けた盗聴器から彼女が室内を動き回る音が聞こえ、彼はがっかりした。彼女は「黒豹」に気づかず、獣は場所を移動したのだろう、と思った。その後道路や他の湖岸のカメラをチェックしたが、何処にも「黒豹」は映っていなかった。民家の庭から庭を移動していると思われた。これは警備兵に連絡した方が良いかも知れない、と彼は思い、同時に面倒臭いと感じた。彼は気晴らしに基地の外に出かけ、公園のベンチで昼寝しているシオドアを発見した。昼寝の邪魔をして、警察無線で知り得た情報を聞かせてやると、シオドアはちょっと動揺したかに見えた。しかし、この時エルネストはまだ博物館の泥棒と「黒豹」を結びつけて考えていなかった。
 夜になる頃、アリアナがシオドアに電話をかける声が聞こえてきた。聞くともなしに聞いていると、彼女が彼に衣類を持って来てくれと要請した。男物の衣類だ。奇妙な要請だと思いつつ、エルネストは夕食の為に一旦モニター室を離れた。
 モニター室に戻ると、盗聴器からアリアナとシオドアの会話が聞こえてきた。その内容は不思議なものだった。彼女の家の中にシオドア以外の男がいるらしかった。しかもセルバ人だ。さらにエルネストを驚かせた会話が聞こえた。

ーー彼と今朝出会ったと言ったね。何処で?
ーーこの家の庭先。湖に降りるステップのところよ。
ーー彼は裸だったろう? 君は顔見知りなら誰でも平気で家に入れるのか?
ーー私が見つけた時、彼は人間の姿じゃなかったの!

 それからアリアナは信じられないような、御伽噺としか思えない話を語った。庭先で黒い獣を見つけ、その獣が人間の男に変化したこと、大怪我をしていたので家に連れ帰って手当してやったこと。熱を出して震えていた獣から変化した男を抱いて温めたこと。
 シオドアはアリアナの証言に驚かなかった。それどころか、セルバ人の中にはジャガーに変身する者がいると受け取れる発言をした。
 シオドアの声が聞こえなくなったので、エルネストはアリアナに電話を掛けてみた。門衛からシオドアが基地に入ったと報告を受けたと出まかせを言うと、アリアナも適当な嘘をついた。エルネストが電話を切ると、アリアナとシオドアが彼の悪口を言ったので、ちょっと腹が立った。我慢して聞いていると、彼等の会話でさらに驚きの事実が判明した。博物館の泥棒と「黒豹」男が同一人物で、セルバ共和国の政府が絡んでいると言うのだ。しかもシオドアの携帯に電話を掛けて来た人物はセルバ大使ともう1人「少佐」と呼ばれる人間だった。シオドアが「彼女」と言ったので、少佐は女性だと推測された。その時、第3の人物の声が聞こえた。男の声でスペイン語訛りのある英語だった。「黒豹」のセルバ人だ。
 シオドアは「少佐」を迎えに出かけた。アリアナと「黒豹」男だけが家に残った。
 エルネストは決心した。迎えが到着する前に、「黒豹」男を確保しなければならない。彼はヒッコリー大佐に電話を掛けた。大佐は研究所で研究に使われる超能力者達を集める任務を負ったプロだ。超能力者の存在は信じているが、「黒豹」に変身する人間の話は笑い飛ばされた。しかしエルネストが録音したアリアナとシオドアの会話を聞かせると、大佐は直ぐに部下を招集した。「黒豹」男は怪我をして弱っている。捕獲するなら今夜しかない。プロの超能力者ハンター達はアリアナ・オズボーンの家に集結した。エルネストはアリアナを抑える役目を自ら申し出た。彼女の家の鍵は持っていた。
 捕獲劇は短時間で終了した。「黒豹」男はエルネストの予想以上に衰弱していた。原因はアリアナだ、とエルネストには直ぐわかった。彼の好色な”妹”は昔から基地で訓練している兵士達の体を見るのが好きだった。大人になると時々若い兵士をつまみ食いしていた。親代わりのライアン博士もワイズマン所長も彼女が妊娠さえしなければ構わないと放任した。基地の外の男に夢中になられるよりましだと思ったのだ。セルバ人は正に彼女好みの肉体の持ち主だった。そして若かった。研究所へ運び込んで体を洗浄した際に髭も剃ってやったのだが、ゲバラ髭を剃り落とすと、意外に幼い顔立ちだったのだ。もしかするとアリアナが初めての女性体験ではないか、とエルネストは思った。
 ダブスンがアリアナの体からセルバ人の精子を採取した。彼女がどれだけ遺伝子解析の腕前を発揮させられるのか、エルネストは疑問だった。遺伝子情報の分析はシオドアの独壇場だったのだ。折角本物の超能力者の遺伝子を手に入れたのに分析出来ないのでは意味がない。だが研究所に反旗を翻したシオドアを研究に加える訳にはいかない。どうしたものか、とエルネストは考えながら、昨夜から今朝にかけての捕獲劇の報告書を作成していた。
 モニターの一つに、捕獲したセルバ人が映っていた。両手を手錠でベッドに繋がれている。頭部や胸部に脳波計や心電図の端子を付けられ、腕には栄養剤と麻酔剤の点滴を刺されていた。裸の左脇腹にガーゼを当ててテープで止めてある。大きな刃物傷があったが半分治りかけていた。警察の鑑識に頼み込んで送ってもらった博物館に残されていた泥棒のものと思われる血痕の分析結果と、捕らえたセルバ人の血液の分析結果が一致した。セルバ人が怪盗”コンドル”だと判明したので、研究所でのコードネームも”コンドル”に決定した。ただし、警察には泥棒を捕まえた報告をしていない。

「博物館に残っていた血痕から、警察は逃走した2人目の泥棒はかなり出血しているものと考えている。怪我をしてから今日で2日目だ。常識では治療しなければ命の危険があるそうだ。しかし、”コンドル”の傷は既に治りかけている。」

 ワイズマン所長が感動とも聞こえる微かに震える声で言った。エルネストはこの件に関しては驚かなかった。

「シオドア・ハーストもあの程度の傷なら直ぐ治りますよ。治癒能力の遺伝子は兵士に必要でしょう。」
「兵士が直接戦闘を行う場面は限られてくる時代だ。しかし、確かに場合によって人間を投入しなければならない戦場はまだ残っている。治癒能力の遺伝情報を解析するように。」

 ダブスンは所長に視線を向けられて頷いた。エルネストは彼女の能力を高く評価していないので、内心大丈夫かなと思った。分析に失敗して新しい精子の採取が必要になれば、”コンドル”が気の毒だ。


異郷の空 19

 アリアナが寝室から出て来ないので、シオドアは様子を見に行った。ドアをノックすると、中で「来ないで」と声が聞こえた。彼は無視して中に入った。アリアナはベッドの上に突っ伏していた。

「今日は休むんだろ?」
「ええ・・・」
「少し眠ると良い。」

 シオドアはベッドの端に腰かけて、彼女の髪を優しく撫でてやった。

「エルネストは君に酷い扱いをした様だな。」
「彼じゃないわ。ダブスンよ。」
「ああ・・・あのオバサンか。」

 メアリー・スー・ダブスンも先住民の遺伝子に関心を持っていた。ただ彼女の場合は超能力より人間の「原種」から新しい品種を作って戦略的に使える才能を開発しようとしていたのだ。たまたまセルバ人の遺伝子の中に奇妙なものを見つけたと言うだけで、それを解析した共同研究者がシオドアだった。 

「ステファン大尉には会えたか?」
「会わせてもらえる筈がないでしょう。」

 アリアナは顔を上げた。怒っていた。シオドアにではなく、無力な彼女自身に。

「エルネストは興奮しているわ。まるでライオンを生け捕ったハンターみたいに得意満面よ。ダブスンはセルバ人の扱い方を知っていると主張して、何とかして彼のチームに加わろうとしている。だけど・・・」

 彼女は体を起こした。

「超能力者の遺伝子分析の担当は貴方だったのよ、テオ。まだ思い出さない? 研究所は貴方が必要になると思う。それに彼・・・研究所は彼に”コンドル”ってコードネームを与えたわ。コンドルを扱えるのは貴方だけよ。彼に言うことを聞かせようと思ったら、貴方が必要ね。」
「それじゃ・・・」

 シオドアは提案した。

「俺を研究所に連れて行ってくれないか? エルネストがステファンを本気で怒らせる前に、俺が扱い方をレクチャーしてやる。下手なことをすれば、怪我人が出る。」

 アリアナは、投光器が破裂して、特殊部隊の兵士が見えない力で弾き飛ばされたことを思い出した。あの時は訳が分からなかったが、ステファン大尉が1人でやったことであれば、確かに危険だ。大尉はあの時酷く衰弱していた。もし元気な状態の彼を怒らせたら、どんな惨状になるだろうか。

「今から研究所に行くの?」
「直ぐにとは言わない。お昼も食べたいしね。冷蔵庫に何かあるか?」
「何か作るわ。待ってて。」

 彼女はクローゼットに向かった。

「彼女に何が食べたいか訊いてくれる?」
「自分で訊けば?」

 シオドアは彼女が感じている後ろめたさを解消するには、それ以外にないだろうと思った。
 彼がリビングに戻ると、ケツァル少佐はまたアリアナのラップトップを眺めていた。今度はGoogleの衛星写真だ。基地周辺だが、肝心の基地は映っていない。辛うじて居住区が見られるだけだが、ストリートビューはない。彼がそばを通ると、彼女が画面を指差した。

「これは何ですか?」

 シオドアは覗いて見たが、余り関心がなかった区域だったので、分からなかった。彼女はある赤い屋根の建物を指差したのだ。そこへ着替えたアリアナがキッチンへ入る為にやって来た。少佐が声を掛けた。

「ドクトラ、この赤い屋根の建物は何ですか?」

 アリアナは一瞬固まったが、直ぐにテーブルに近づいてラップトップを覗き込んだ。

「給食センターだわ。高齢者の住宅などに食事を宅配しているの。」

 少佐が考えこんだ。それっきり何も言わないので、アリアナは肩をすくめてキッチンに入った。シオドアはもう一度画面を見た。少佐が拡大して写真を眺めている。給食センターが何を意味するのか、彼は見当がつかなかった。
 アリアナが作ったのはカリカリベーコンと胡瓜のサンドウィッチと温めた冷凍ポテトだった。特に美味しいと言う訳ではなかったが、ないよりましだ。

「乾燥ジャガイモと硬いチーズよりは美味いよ。」

とシオドアが変な誉め方をしたので、少佐が次はペミカンにしますと言った。アリアナがクスッと笑った。シオドアと少佐が同時に彼女を見たので、彼女は慌てて言い訳した。

「あなた方が喋っているのを聞いていたら、まるで兄妹みたいだなって思ったの。」
「俺の兄妹は・・・」

 シオドアはちょっと躊躇ってから言った。

「君だよ、アリアナ。それから認めたくないがエルネストだ。」
「エルネストは外しても良いわよ。」

 アリアナが少佐に話を振った。

「貴女は兄妹がいますか?」

 いない筈だ、とシオドアは思ったが、少佐は答えた。

「弟と妹がいます。」
「え? 君は一人っ子じゃなかったっけ?」
「そんなことを言った覚えはありません。」
「でも、生まれて直ぐにお母さんが亡くなったと・・・」
「私を産んだ母親は亡くなりました。」

 少佐はいつも自分のことになるとはっきり言わない。彼女は父親もいないと言った。それはつまり、彼女の両親は正式に結婚していなかったと言うことなのか? それ以上プライベイトなことにツッコミを入れるのは良くない。彼は自重した。アリアナはあまり深く考えずに、

「弟妹がいるって良いですね。」

と言った。少佐はコメントしなかった。
 美食とは程遠いランチを終えて、シオドアは皿洗いを担当した。少佐はセルバ流にシエスタだ。ソファの上に横になって直ぐに睡眠状態に入った。アリアナは書斎に入り、ドアを開いたまま、仕事用のパソコンを開いたが、彼女も昨夜は一睡もしていない。椅子に座ったままうたた寝を始めた。
 皿洗いを終えたシオドアもリビングの椅子に座って目を閉じた。研究所に行って、どこまで奥へ行けるだろう。ステファン大尉は超能力者達を閉じ込めておくエリアにいる筈だ。昔のシオドアなら自由に出入り出来た区画だが、今は無理だ。

異郷の空 18

  昼前にアリアナ・オズボーンが帰宅した。酷く焦燥感を漂わせながら、家に入ると出迎えたシオドアに抱きつき、それから鞄をソファの上に投げ出してバスルームに真っ直ぐ向かった。

「君に挨拶ぐらいすれば良いのにな。」

 シオドアは”妹”の無礼をケツァル少佐に謝った。少佐は鞄が投げ出されたソファの真ん中に座っていたのだ。少佐はコメントせず、窓の外を振り返って見た。アリアナの車が車庫の外にある。シオドアの車を車庫に入れたからだ。路上に1台セダンが停まっていて、運転席と助手席にいる男達がこちらを見ていた。

「彼女は監視されていますね。」
「俺達も見られたかな?」
「貴方は車があるから、ここにいると連中はわかっているでしょう。」
「君は見られた?」
「見えていないと思います。」

 少佐は「私は猫ですから」と意味不明のことを呟いた。シオドアは先刻まで座っていた彼女の向かいの椅子に座った。

「アリアナは今朝風呂に入らなかった。彼女の習慣じゃない。清潔好きなんだ。」

 少佐がフンと鼻先で笑った。

「彼女の体からカルロの匂いがプンプンしていました。」

 シオドアはある考えに至って、ドキッとした。バスルームの方を見て、寝室の方角を見た。アリアナは庭先で拾った黒い猫に魅了されていた。彼を手当てして自身の体温で彼を温めてやった。それだけで満足しただろうか? シオドアが少佐を迎えに出ていた時間、2人はどうやって過ごしたのか。

「やばいかも・・・」

と彼が呟くと、少佐が不思議そうに彼を見た。

「どうしてです? カルロも彼女も大人ですよ。」

 シオドアは彼女を振り返った。少佐はアリアナがステファン大尉を誘惑したことに気がついていたのだ。だが、その行為の重要性には気がついていない。

「エルネストは彼女がステファンに何をしたか悟ったんだ。彼女の体にはステファンの遺伝子が残っている可能性があった。だから、エルネストは彼女に体を洗わずに研究所に来いと命じたんだ。」

 ケツァル少佐はやっとシオドアの憂慮の内容を理解した。ああ、と軽く相槌を打った。ちょっと痛ましいものを見るようにバスルームの方を見た。

「彼女には侮辱的な体験だったでしょうね。」
「それは・・・確かに彼女は気の毒だが・・・」

 どうも少佐と物事の見解がズレている、とシオドアは感じた。

「”ヴェルデ・シエロ”の遺伝子を研究所が手に入れてしまったってことだ。」

 彼はテーブルの上に体を乗り出して、少佐に顔を近づけた。

「いいかい、連中はステファンを捕まえた。だけど、彼はしっかりした自我を確立させた成人で、他人に操られることはない。薬やなんかで意識を混濁させて精神状態を弱らせ、研究所の言うことを聞かせる方法があるが、彼の様に強力な超能力を持つ人間を調教なんて出来っこないんだ。つまり、彼は本当に研究所が手に入れた初めての”本物”だから、まだ誰も調教の仕方を知らないんだ。操ろうとしても、絶対に無理だ。彼の力の本当の大きさを誰も知らないからね。無理やり従わせたら却って危険な事態になる。その程度の予測は連中も出来る。
 ステファン本人は兵器として使えないから、彼の遺伝子を使って使える人間を作るんだ。普通の人間の遺伝子情報に組み込んで超能力を使えるようにする。或いは時間はかかるが、彼の子供を作って研究所が操れる人間に育てる。」

 シオドアは自嘲した。

「思い出したんだよ、少佐。 俺がやっていた研究が、正にそれだったんだ。俺は変わった能力を持つ人間の遺伝子を集めて、分析して、兵器として応用出来る方法を研究していたんだ。だから、研究所は俺を野放しにしてくれないんだ。」

 少佐が理解した、と頷いた。

「カルロは種馬として捕まえられたのですね。」

 シオドアの目に、彼女はそんなに重要なことと考えていない様に映った。

「セルバの人口は120万です。そのうち純血の先住民は5パーセント、そのうち”ヴェルデ・シエロ”はその0.5パーセントです。メスティーソの”ヴェルデ・シエロ”が何人いるのか、私にはわかりませんが、かなりの人口になります。種馬の価値は大したことではありませんが・・・」
「そう言うことじゃなくて・・・」

 アリアナがバスルームから出て来た。バスローブを纏って、真っ直ぐ寝室へ入って行った。

「セルバ共和国は国を挙げて神様の遺伝子を守っているじゃないか。血液サンプルの持ち出しだって難しい。現にアンゲルス鉱石で採取したサンプルも全く偶然に”それらしい”ものが1件あっただけだ。セルバ人は外国に行っても、多分正体がバレないように用心している筈だ。研究所が手に入れられる遺伝子は、捕まえた男のものだけなんだ。」

 シオドアは結論を言った。

「ステファンを救出するのが一番の目標だが、遺伝子のデータも消さないといけない。」

 少佐が天井を見上げた。暫く考えてから、視線を彼に戻した。

「では、役割分担をしましょう。カルロは私が救出します。貴方はデータを消して下さい。」

 そんなに簡単に言って良い訳? シオドアは彼女の楽観主義は何処から来るのだろう、と疑問に思った。


2021/07/10

異郷の空 17

  ケツァル少佐が目を覚ますと、外はまだ暗かった。時計を見るとセルバ共和国なら既に太陽が昇っている時刻だ。彼女は隣の運転席で寝ているシオドア・ハーストの頬を手でピタピタと叩いて起こした。

「オズボーン博士の家に行きましょう。」

 シオドアは逆らわずに基地へ向かって走った。門衛はシオドアの顔見知りで、助手席で赤いフードをかぶっている人物をチラリと見た。詮索するつもりなどなかったのだが、フードの人物がフードを取ったので思わず顔を見た。目を見てしまった。そしてシオドアに行っていいよと手を振った。車が基地内に入った後、彼はシオドアが戻って来たことを研究所に報告するのを忘れた。
 居住区の道路には当然C C T Vが至る所に設置されていたが、故障している物もある。アリアナ・オズボーンの家のそばのカメラが突然火花を出して停止したが、誰も気が付かなかった。
 シオドアと少佐はアリアナの家の前で車を停めた。シオドアが提案した。

「エルネスト・ゲイルは昔から盗聴や盗撮が趣味なんだ。皆んなが知っているし、彼自身も知られていることを知っている。この家にも盗聴器が仕掛けてある筈だ。俺が見つけて壊しても、あいつは気にしない。これも昔からやってるイタチごっこだからね。少佐、お手数だが、これからこの家の盗聴器を探してくれないか?」
「承知しました。」

 ドアチャイムを鳴らすと、かなり待たせてからアリアナがドアを開けた。シオドアはドアチェーンが断ち切られているのを見たが、コメントはしなかった。鍵が無事だったのは、特殊部隊がステファンに気づかれないよう、静かに侵入したからだ。
 アリアナが抱きついて来たので、シオドアは彼女がどんなに怖かったか訴えるのを聞いてやった。その間にケツァル少佐が屋内を歩き回り、リビングとキッチンで1個ずつ盗聴器を発見した。シオドアはそれを彼が見つけたふりをして踏み潰した。寝室と客間、アリアナの書斎は無事だった。日頃から彼女が客を入れない場所だ。エルネストも入れてもらえなかったのだ。シオドアはステファンと美術品回収任務や暗殺未遂、ナワルに変身した話をしたのが寝室で良かった、と安堵した。
 アリアナがキッチンのテーブルにパンとジャムを出した。

「朝食にして頂戴。私は食欲がないから、食べずに出勤するわ。」

 シオドアはびっくりした。

「研究所に行くのか?」
「私の職場だもの・・・」

 彼女は着替える為に寝室へ行った。シオドアは少佐がキッチンでパンにジャムを塗るのを見た。女達は何か重大な危機があっても日常の習慣を変えないようだ。彼はキッチンに入り、インスタントのコーヒーを淹れた。少佐がラズベリージャムを塗ったパンをくれた。彼女はブラックベリーのジャムだ。

「彼女について行きますか?」

と少佐が尋ねた。シオドアは考えた。

「歓迎してもらえるとは思えないな。俺は追放された身だから。」
「でも研究所に入らなければ、何も出来ませんよ。」
「多分、ここで待っていれば迎えが来ると思う。」

 そこへ着替えたアリアナが戻ってきた。くたびれた顔で、なんとか化粧を直して髪を整えた程度だ。シャワーを浴びずに出かけるのが意外だったので、シオドアは不審を覚えた。それにまだ外は薄暗い。

「仕事を休めよ。」

 シオドアは精一杯思いやって声をかけた。アリアナは首を振った。

「行かなきゃ駄目なの。彼の為にも・・・」

 彼女はケツァル少佐を見る勇気がなかった。このインディオの女性は私が彼にしたことを絶対に気がついている。だから盗聴器を壊した後も私に一度も声をかけて来ない。
 アリアナは職場に出かけて行った。車で5分の距離だ。
 シオドアはリビングの床に散乱している投光器のレンズの破片を片付けた。特殊部隊は強烈な光をステファンの顔に当てて”ヴェルデ・シエロ”の最も手頃な武器である目を眩ませたのだ。エルネストにそんな知識はない。恐らくオルガ・グランデに遺伝子サンプルを集めに足を運んでいたダブスン博士がアンゲルス鉱石の連中から仕入れた”ヴェルデ・シエロ”の対処法だ。
 少佐はアリアナのラップトップを見つけた。アリアナが職場とは別に使っている物だ。昨夜はシオドアが少佐との落合場所を検索するのに使用した。今度は少佐が使い始めた。研究所の見取り図を探し出し、部屋数や配置を見ていた。シオドアが横から覗くと、今度は設計図を出していた。何処からそんなものを探し出したのだ? とシオドアは驚いた。国の研究施設だ。民間人がアクセス出来るものではない。しかし少佐は水道の配管や下水施設や通風孔の位置やゴミのダストシュートまでチェックした。

「ドクトル、彼等はカルロを何処に収容していると思いますか?」

 訊かれてシオドアは地下の特別区画を指した。

「ここは特定のメンバーしか入れない。アメリカ全土から攫われてきた超能力者達が収容される場所だ。検査と実験を行なって、使い物にならないと判断されたら記憶を消されて元の場所に戻される。世間じゃ、U FOに攫われて戻されたと騒いでいるがね。 ステファンを閉じ込めるなら、ここしかない。」
「貴方は入れるのですか?」
「以前は入れた。」

 何故そんなことを思い出せるのだろう。シオドアは自分で驚いた。さっきまでそんな研究所の暗部を思いつきさえしなかったのに。

「I Dカードとパスワードがあれば入れた。俺が生まれた場所でもあったから。超能力者を検査する場所は網膜認証が必要なんだ。」
「コンピューター相手では”幻視”は使えませんね。」

 と少佐は言ったが、特に諦めた感じではなかった。

異郷の空 16

  男達が去ってしまうとアリアナはリビングをぼんやり眺めた。割れた投光器のレンズが落ちている。ステファンの気の力で吹っ飛ばされた兵士がぶつかったテーブルがひっくり返り、上にあったラップトップが床に落ちていた。シオドアが置いていった料金切れの使い捨て携帯電話も転がっていた。
 彼女は携帯電話を拾った。ボタンを押すと一瞬だけ生き返った。最後の通話の番号を彼女はチラリと見た。彼女の脳はそれだけで十分だった。死んでしまった携帯電話を置いて、自分の電話でその番号にかけた。エルネストが部屋の何処かに盗聴器を仕掛けている筈だが、どうでも良かった。向こうに言いたいことが伝われば良いのだ。
 呼び出し1回で先方が出た。アリアナは相手に名乗る暇を与えずに喋った。

「オズボーンです。ここへ来ては駄目。テオと一緒に逃げて下さい。」

 数秒間を置いて、シオドアの声が聞こえた。

ーーアリアナ、どうした?

 アリアナはその声を聞くと涙が出てきた。しかし泣いていては伝えたいことが伝わらない。

「エルネストとヒッコリー大佐が来たの。彼を連れて行ってしまった・・・」

 シオドアも数秒間沈黙した。そして向こうで「あの盗聴オタクめ!」と喚く声が聞こえた。

ーー今、君の家か?
「そう・・・」
ーー来たのは2人だけか?
「いいえ、全部で8人いたわ。多分特殊部隊だと思う。彼はもう力が残っていなかったから、戦わずに捕まったわ。目隠しされたから、ダブスン博士がエルネストにセルバ人について何かアドバイスしたのよ。あの人、よくセルバの太平洋岸へ行っていたから。」
ーー君は何もされなかったのか? 怪我とかしていないか?

 シオドアはいつから他人を気遣うようになったのだろう。

「私は大丈夫。でも明日の朝、研究所へ来いと言われてる。」
ーー取り敢えず、逆らわずに従っていろ。こっちで何か手を考える。

 シオドアの方で電話を切った。アリアナは深呼吸した。そしてケツァル少佐の名前を出さずに会話出来たことに気がついた。盗聴されていても、エルネストに彼女の名前はわからない。否、今頃あの男は捕まえたセルバ人に注意を集中させて盗聴どころでないだろう。
 彼女は寝室へ行った。部屋の中にまだあの男の匂いが残っていた。日向ぼっこしている猫の毛皮に似た匂いだ。彼女はベッドに身を投げ出し、泣いた。

 シオドアとケツァル少佐はメルカトル博物館の近くの公園に車を停めていた。まだ早朝の午前2時だ。真っ暗で星は見えていない。月もない。空は曇っているのだ。雪が降るかも知れない。南国育ちのセルバ人はきっと寒い筈だ。シオドアは助手席の少佐を見た。彼女は先刻から腕組みして目を閉じたままじっとしていた。体に触れるな、声をかけるなと言われているので、彼も背をシートにもたれかけて目を閉じた。
 エルネストは門衛からシオドアがアリアナの家に呼ばれたことを聞いていた。だがステファン大尉が彼女の家にいることをどうやって知ったのだろう。室内に盗聴器を仕掛けているとしたら、ミゲール大使との電話も、大尉がカメル軍曹と行った任務や暗殺未遂の話も聞いた筈だ。あいつはセルバ共和国の秘密をどこまで知ってしまったのだろう。もしあの国が超能力者の国だと知ったら、アメリカ政府はどうするつもりだろう。今まで地球の片隅でひっそりと暮らしてきた古代の神々の子孫達をそっとしてやってくれないか。
 少佐が大きな息を吐いたので、彼は目を開いた。彼女が何処かに心を飛ばしていたのだろうと思ったが、質問しなかった。

「何かアイデアを思いついたかい?」

 すると彼女は言った。

「お腹が空きました。何か食べましょう。」

 シオドアは勤めているコンビニへ彼女を連れて行った。そこでブリトーとコーヒー、使い捨て携帯電話を2つ買った。少佐も使い捨て電話を使用していたのだが、アリアナとの通話が終わった後で捨てたのだ。
 お腹が膨れると少佐はシートを倒して寝てしまった。シオドアは彼女が豪胆なことは分かっているつもりだったが、ちょっと呆れた。アパートに帰ろうかとも思った。しかし建物のそばまで行くと、見慣れない車両が2台ばかり前の道路に駐車していたので、停止せずに通り過ぎた。公園に戻り、そこで彼も少し眠った。

 

第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...