2021/07/15

異郷の空 27

  ケツァル少佐はシオドア・ハーストが知らなかった研究所の地下通路を設計図から見つけていた。食堂の厨房の冷蔵室から入って行くのだ。シオドアと警備兵から奪った制服を着たステファン大尉、それに赤いジャンパーを着た少佐は職員達が食事をする食堂を横切った。地下施設では超能力者達が収容室から逃げ出し、騒動になっているのに、誰も気が付かない。彼等の職場のコンピューターが狂ってしまっていることにまだ気が付かない。シオドアが連れている警備兵が捕虜だった男だとも思わないし、ましてや場違いな姿の少佐にも関心を持たない。
 シオドアは内心ケツァル少佐の人間の心を操る能力はどれだけの規模なのだろうと、畏怖を覚えていた。神様を敬う古代の民衆の気持ちがわかる気がした。”ヴェルデ・シエロ”は民衆を操り国家を維持し、天文学で気候を観測して神託で民衆に農作物の収穫時期や天災からの避難を伝え、栄えていた筈なのに、どうして歴史に痕跡を残さず表舞台から消えてしまったのだろう。生き残った子孫達が細々とその能力を生業に使い、普通の民衆に敬われながらも畏れられ、出自を隠して生きて来たのは何故だろう。
 冷蔵庫の奥にある扉を開けると、暗い通路が伸びていた。だが決して不潔な場所ではなかった。シオドアが中に足を踏み入れると自動的に照明が点灯した。最後に中に入った少佐が扉を閉じた。

「このトンネルは何処に繋がっているんだ?」
「赤い屋根の給食センターです。」
「はぁ?」
「貴方は、毎日食べていた食事が何処から運ばれて来ているのか、知らなかったのですか? 研究所の厨房はセンターで作られた料理を温めているだけですよ。」

 勿論少佐の知識も昨日インターネットで得たものだ。彼女は時計を持っていなかったが、シオドアより時間感覚は正確だった。

「1600過ぎにセンターから夕食が運ばれます。其れ迄にこの通路を抜けましょう。カートに通り道を塞がれたら面倒ですからね。」

 彼等は歩き始めた。人感センサーになっているらしく、歩く先々で照明が点灯し、歩いた背後で消灯されていく。シオドアの足音だけが響くので、彼は気になった。軍靴を履いているのに、セルバ人達は足音を立てない。こいつら、猫の足を持っているのか?
 冷蔵庫ほどではないが、通路内の空気は冷たく、乾いていた。シオドアは天井を見た。照明は埋め込み式だ。声を響かせたくなかったが、黙っていると息が詰まりそうな気がして、彼はステファン大尉に話しかけた。

「ここにコウモリはいないよな?」

 彼等が出会ったオクタカス遺跡の洞窟を思い出した。ステファンも同じことを思い出したのだろう、ちょっと笑った。

「コウモリが飛んで来たら、追い払ってあげますよ。」
「石は飛んで来ないだろう。」
「しかし銃弾が飛んで来る可能性は否定出来ません。」

 男達の無駄口を最後尾で聞いていた少佐が呟いた。

「そもそも、何故あの"風の刃の審判”があの時に起きたのか?」

 シオドアは彼女を振り返った。

「古い建造物が劣化して崩れたんだろう?」
「天井の穴を塞いでいた木や石が落ちた程度で、サラではなく通路にいた発掘隊に重軽傷者が出る事故になるとは思えません。”風の刃の審判”にかけられる咎人は、天井の穴の下に立たされるのです。」
「つまり?」
「落ちた石の破片が吹き飛ぶ様な力が人為的に加えられたと考える方が妥当です。」

 ステファン大尉が足を止めたので、彼女も止まった。シオドアも立ち止まった。大尉が少佐に尋ねた。

「あれは事故ではなく、何者かが発掘隊を狙った事件だと仰るのですか?」
「恐らく・・・」

 少佐はシオドアを見た。

「あの時、ドクトルはママコナの興味を引いてしまい、私が彼をオクタカスに隠しました。”砂の民”はママコナが興味を失えば、ドクトルを追跡したりしません。一族の脅威でない者を殺しては、却って危険だからです。」
「リオッタ教授は・・・」

 シオドアは当時のことを思い出そうとした。

「まだあの時、”消えた村”の話を知らなかった。だから、彼が狙われた訳じゃない。俺も脅威じゃないと思ってもらえたのなら、俺が狙われた訳でもない。」

 彼はステファンを見た。少佐も見たので、ステファンはたじろいだ。

「私が狙われたとでも?」

 彼は鼻先で笑い飛ばした。

「私はドクトルの護衛をしていたのです。ドクトルの行動を知っておかなければ、私があの洞窟に入ると知ることは出来ない。あの日、ドクトルは現場に行ってから、洞窟に入ることを決めたのでしょう?」

 シオドアは記憶の中を必死で検索した。

「洞窟に入ろうと誘われたのは、遺跡へ行く途中のトラックの上だ。そこで洞窟に入ることを決めて、君のキャンプ迄登るのを止めた。メサへ行かないと君への伝言を警護隊の兵士に頼んだんだ。」

 一瞬、通路内の空気が緊張した様な感覚をシオドアは覚えた。気温が摂氏で1度ほど下がった様な感覚だ。 少佐が部下を見つめた。

「カルロ、何か思い当たる節でもあるのですか?」

 ステファンが上官を振り返った。

「誓って言います、私はあの日、伝言を持って来た筈の兵士に会った覚えはありません。」
「ええ?!」

 シオドアはびっくりして声を上げてしまい、慌てて自分の口を手で塞いだ。通路内に彼の声が響いた。それが静まるのを待ってから、彼は言い張った。

「兵士は君に伝えると言って、確かにメサの方角へ車で走って行った。」
「私はその男に会っていません。ドクトルとボディガードが来なかったので、自分でメサを下りて様子を見に行ったのです。そしたらドクトルは発掘隊と一緒に洞窟に入る準備中でした。」
「その兵士は・・・」

 少佐が少し考えてから質問した。

「メスティーソでしたか、それとも純血種?」

 シオドアはまた考え込んだ。兵士達は軍服を着てヘルメットを被り、誰もが同じに見えた。だが、伝言を引き受けた兵士は、トラックの上で何度か彼やリオッタ教授に話しかけて来た。発掘隊のメンバーが話をしていると、近くに立っていることが度々あった。

「彼は先住民だったと思う。はっきり覚えていないんだ。」

 また気温が1度下がった気がした。今度はステファンが少佐を見つめた。

「少佐、何か思い当たることでも?」

 しかし、ケツァル少佐は答えなかった。進みましょう、と彼等を促しただけだった。

2021/07/14

異郷の空 26

  シオドア・ハーストは昔の自分の研究室にいた。助手達はお昼ご飯を食べに食堂へ行っている。彼はセルバ人のデータを消すために来たのだが、彼の目の前でコンピューターが狂いつつあった。理由は分からないがデータが崩れていく。ケツァル少佐が何かしたに違いない。しかし彼女はデータ消去をシオドアに任せてくれた筈だ。担当外のことを彼女がしたからと言って腹を立てたりしないが、データの崩れ方が尋常ではない。メインのディスクが壊れたとしか思えない。これは大騒ぎになるぞ、と思っていると、部屋の外が騒がしくなった。ガラス越しに通路を見ると、収容していた筈の男が1人警備兵から奪い取った銃で出くわした科学者を脅していた。
 これはやり過ぎだぞ、少佐・・・
 ステファン大尉1人を逃がす為の作戦が大ごとに発展していた。収容室から逃げた超能力者は今見えている男1人だけではあるまい。その証拠に建物の別の場所からも銃声が聞こえた。シオドアはもう一度研究室のパソコンを見た。画面がぐちゃぐちゃになっていた。隣のパソコンの画面は巨大な ? を映し出していた。
 シオドアは銃を持った男が立ち去るのを待って部屋から出た。通路を走って来る音が聞こえた。警備兵かと思ったが、エルネスト・ゲイルだった。

「テオ!」

とエルネストがシオドアを見つけて怒鳴った。

「一体何をやらかしてくれたんだ?!」
「俺は何もしていないさ。」

 シオドアは階段を目指して歩き始めた。エレベーターは逃げ出した超能力者が制圧した恐れがあった。エルネストが追ってきた。

「僕のデータが滅茶苦茶だ。助手達のも壊れている。そんなことが出来るのは君しかいない。」
「買い被るのは止してくれ。俺のデータも壊されたんだ。メインがどうかなったに違いない。これから所長に相談に行く。」
「逃げるつもりだろ!」
「何処へ? どうやって逃げるんだ? ここは基地の中だ。厳戒態勢を敷かれたら、俺は何処にも行けないぜ。」

 2人で押し問答していると、横で咳払いが聞こえた。2人同時に振り返った。赤いフードのケツァル少佐が立っていた。エルネストはうっかり彼女と目を合わせてしまった。少佐が囁きかけた。

「所長室へ案内して下さい。」

 エルネストはこっくり頷いた。そしてシオドアの胸ぐらを掴もうとしていた手を下ろし、歩き始めた。シオドアは少佐と目を交わした。

「ステファンは?」
「所長室にいます。」

 それ以上の説明は不要だ。シオドアと少佐はエルネストの後ろについて歩いた。

「他の収容者も釈放したな。ややこしい事態になっているぞ。」
「私達の狙いが彼1人だと思われたくなかったからです。セルバ共和国とアメリカ合衆国がこれからも仲良く付き合って行くために必要なことです。」

 つまりこの騒動は、ステファン大尉救出ではなく暴動だと認識させたいのだ。

「たった1人でテロかい? しかも武器はその目だけだ。」

 少佐は何もコメントを返さなかった。
 エルネスト・ゲイル、シオドア・ハースト、そしてケツァル少佐は階段を用心深く上り、地上階に出た。警報が鳴っても良さそうなのに、何も聞こえない。しかし警備兵達が走り回っていた。逃げた超能力者は複数だ。
 ワイズマン所長の部屋の前にある秘書室では秘書がコンピューターを見つめて座っていた。画面には「?」が表示されているだけだ。だが秘書は何も感じないのか、スクリーンを見ているだけだった。エルネストが執務室のドアの前に立った。

「所長、ゲイルです。入ります。」

 エルネストは返事を待たずにドアを開けた。そして中に足を踏み入れるなり、ステファン大尉に素手で頭をポカリとやられて昏倒した。

「お見事!」

とシオドアが呟いた。

「多少はスカッとしたかい?」
「もう2、3発お見舞いしたかったです。」

 シオドアは室内を見た。ワイズマンが額に脂汗を浮かべながらコンピューターにコマンドを送り続けていた。既に彼が使っている端末も言うことを聞かなくなっていると言うのに。
 少佐が2人の男達に声をかけた。

「外へ出ましょう。」


異郷の空 25

  ワイズマン所長が昼食を取るために部屋から出る準備をしていると、室内に人の気配があった。秘書が入って来た筈もなく、彼は片付けていたファイルを閉じてパソコンから視線を上げた。
 執務机の反対側に黒いTシャツに赤いジャンパーを来た若い女性が立っていた。アメリカ先住民だ、とワイズマンはわかった。だが、何処から来た? 何時部屋に入った? 彼は机の裏面に設置されている非常ボタンを押そうと思った。しかし彼の両手はキーボードから離れなかった。彼の目は吸い寄せられた様に彼女の黒い目から離れなかった。
 女性が優しい声音で話しかけてきた。後にワイズマンは彼女のことも彼女が言ったことも何も思い出せなかった。彼はメインコンピューターのデータベースを開き、全てのデータの初期化に着手した。
 メアリー・スー・ダブスンはパウダールームで化粧直しをしていた。ランチを外で取る予定で、その店のギャルソンが彼女のお気に入りの男性だった。基地内の高級フランス料理店だ。彼女の月一の楽しみだった。パウダールームのドアが開閉した。
 鏡に映った彼女の背後に誰かが近づいて来た。大柄な彼女の体に隠れて見えないが、確かに誰かが後ろに歩み寄って来たのだ。後ろに忍び寄るなんて、失礼だわ、と彼女は思い、勢いよく振り返った。黒いTシャツに赤いジャンパーを来た若い先住民の女性が立っていた。ダブスンの頭の奥で警鐘が鳴った。セルバ人に語り継がれている伝説の神様!
 彼女は携帯電話を出そうとしたが、手が動かなかった。目を閉じなければ。焦ったが、相手の目を見てしまった。女性が優しい声音で話しかけて来た。何を言われたのか、彼女は後日何も思い出せなかった。
 超能力者収容フロアへダブスンは向かった。後ろから女性がついてきた。すれ違う人々はフードを目深に被ったその人物が女性だと見当はついたが、誰だか分からなかった。ダブスンはコントロールルームに入った。職員が振り返ると、彼女は彼等に退室を命じた。2人の職員が部屋を出て行くと、フードの女性が彼等に言った。

「お昼ご飯を食べて来なさい。」

 職員達は振り返らずにエレベーターに乗って去った。
 ダブスンはコントロールパネルを操作し、収容されている全ての捕虜の部屋の解錠を行った。そしてお気に入りのギャルソンがいるお店に急いで出かけた。
 収容されている人々は10名ほどだった。彼等が逃げるか逃げないかは、彼等の自由だ。その時は収容者達に昼食が提供されていた。ステファン大尉もハンバーガーとチョコレートクッキーとプラムジェリー、コーヒーの食事を与えられた。しかし運動をしていないので食欲が湧かなかった。職員は食事のトレイをテーブルに置くと部屋から出て行き、当然ながら施錠した。ステファンは溜め息をついた。食べなければ、またあの小太りの男が来て文句を言うのだろうか。彼はハンバーガーを両手で押さえてからかぶりついた。味は悪くなかったが、2分の1まで食べて満腹になった。彼が皿にハンバーガーを戻した時、ドアの鍵がカチリと言った。振り返ると、誰もおらず、見張りは少し離れた通路の椅子に座って携帯の画面を眺めていた。気のせいか、と思った時、通路の向こうの角を曲がって赤いジャンパー姿の人物が近づいて来た。その顔を見て、彼は思わず微笑んでしまった。それなら、さっきの音は空耳ではない。彼はドアを引いてみた。ドアが開いた。彼は見張りに声を掛けた。

「おい、鍵が開いているぞ。」

 見張りがはじかれた様に立ち上がった。あってはならないミスだ。彼は囚人に言った。

「退がっていろ。施錠する。」

 その彼の首を後ろから赤いジャンパーの人物が殴りつけた。見張りは昏倒した。
 ステファン大尉が部屋から出ると、彼の上官が彼の足を見て眉を顰めた。

「裸足ですか?」
「スリッパしかもらえなかったのです。」

 ケツァル少佐は気絶している兵士を見た。ステファン大尉は素早く兵士の服を奪い、足から靴を脱がして、自分の足を入れた。多少窮屈だが動けるので暫しの我慢だ。彼の作業中に少佐は彼が閉じ込められていた部屋に入り、ハンバーガーを掴んだ。大口を開けて彼に断りもなく食べてしまった。大尉は勿論承知していた。能力を最大限に使う時の"ヴェルデ・シエロ”はエネルギーの消費量が物凄いのだ。彼自身まだ本調子ではない。体力を変身と脇腹の傷の治癒に使ってしまったのだから。プラムジェリーも食べてしまうと、彼女は部屋から出てきた。彼にクッキーを差し出した。食べろと言う無言の命令だ。口の中の水分を奪われるのが嫌だったが、ステファンはクッキーを口に詰め込んだ。コーヒーは無視して部屋に常時備えられている水で2人は水分補給した。その間10分と掛からなかった。
 少佐は彼について来いと合図して足早に歩き始めた。走ったりはしない。足元は軍靴なのだが足音も全く立てない。ステファンも多少サイズの小さな軍靴で彼女の後ろを追いかけた。途中で他の収容室の前をいくつか通った。解錠されたことに気づかない男性や、既に廊下に出て途方に暮れている女性、エレベーターを目指して走って行く男性等行動は様々だった。2人のセルバ人は彼等の存在を無視して歩き続けた。研究所が捕まえていた超能力者達に彼等の姿は見えなかった。ステファンは今まで自分の姿を他人に見られない”幻視”を使ったことがなかった。だから最初に警備兵と出会った時、一瞬身構えた。素手で戦うつもりだった。しかし少佐が振り返って”心話”で命じた。消えなさい、と。彼は咄嗟に念じた。消えろ、と。彼自身の体には何の変化もなかったので、彼は失敗したと思った。しかし警備兵が腰を抜かした。

「人が消えた!」

 警備兵が銃を構えて屁っ放り腰で近づいて来たので、ステファンは通り道を空けてやった。彼の目の前を警備兵は通り過ぎて行った。少佐が”心話”で言った。簡単でしょう、と。2人は地上階に出た。彼女が部下を案内したのは、ワイズマン所長の部屋だった。ワイズマンはまだメインコンピューターのコマンドに取り組んでいた。少佐はステファンに”心話”で命じた。

ーー見張っていなさい。この男の作業を妨害しようとする者は容赦なく叩きのめしなさい。

 ステファン大尉は命令を承った。
 ケツァル少佐はシオドア・ハーストを迎えに再び地階へ降りて行った。





2021/07/13

異郷の空 24

  シオドアが研究所に戻ったのは午前11時を過ぎた頃だった。ワイズマンに基地の外のアパートを引き払いコンビニのバイトも辞めた旨を伝えると、所長は少しだけ表情を和らげた。

「お前の居場所はやっぱりここなのだ、テオ。お前の以前の研究室はダブスンが引き継いでいるが、彼女1人では手に負えないことも多い。助手達も君の方を信頼している。今日は少しだけで良いから、顔を出してやれ。」
「わかりました。ところで、”コンドル”は大人しくしていますか?」

 ワイズマンが渋い顔になったので、ステファン大尉が逆らったのかと思ったが、原因はエルネスト・ゲイルの方だった。

「昨日エルネストに”コンドル”に近づくなと言ったのだが、今朝早速言いつけを無視した。」
「あの部屋に入ったのですか?」

 ワイズマンは頷き、シオドアに監視カメラの映像を見せた。 
 ステファンがベッドに腰かけてテレビを見ているシーンから始まった。朝食を終えた後であることは画面右下に表示されている時刻で分かった。捕虜を退屈させないようにテレビとオフラインのテレビゲーム、雑誌などが与えられている。他の被験者と同じ扱いだ。右端手前のドアからエルネスト・ゲイルが入って来た。ドアの外にヒッコリー大佐の部下がいるのが見えた。銃ではなく、棒状のスタンガンを所持していた。
 部屋に入って来たのがエルネストだと気がついたステファンが立ち上がった。明らかにエルネストを警戒していた。エルネストが持参した検査キットを出して、何か話しかけた。細胞採取の道具だ。被験者を傷つけずにDNAを採取出来るのだが、ステファンは拒否した。遺伝子を取られることを拒んだのではなく、エルネストを拒否したのだ。エルネストが彼を説得しようとした。恐らく前日の抱きつき騒動の言い訳でもしたのだろう。しかしその言い訳の内容をステファンは気に入らなかったのだ。首を振って、出て行けと言う素振りを見せた。才能より遥かに高いプライドの持ち主エルネスト・ゲイルは、犬を追い払う様なセルバ人の動作に気分を害した様だ。いきなりステファンに掴みかかった。監視についていた兵士が慌てて室内に駆け込んだ。ステファンはシオドアの言いつけを守って、エルネストを相手にしなかった。着ていたスウェットを掴まれ、引っ張られたが、兵士が彼からエルネストを引き剥がす迄我慢していた。エルネストは室外に引き摺り出された。
 そこで録画を止めて、ワイズマンが深い溜め息をついた。

「全く・・・彼はどう言うつもりなのだ? 」
「彼は言い訳したのですか?」
「うむ。彼が”コンドル”を抱き締めたのは、”コンドル”が母親を恋しがったからだと言った。抱き締めて慰めたかったと彼は言うのだ。」
「はぁ?」
「”コンドル”は今朝彼の言い訳でそれを聞いて気分を害した、と見張りが言っていた。」
「”コンドル”は母親を恋しがった覚えはなかったのでしょう。」
「エルネストは、君が”コンドル”と親しくしていることや、アリアナが彼と関係を持ったことで、自分だけが疎外されていると感じているのだろう。」
「つまり、”コンドル”に相手にして欲しいとエルネストは焦っている訳ですか?」
「自分が捕まえた獲物だから、自分に従わせたいのだろう。」

 シオドアは呆れた。ワイズマンも口の中で「くだらん」と呟いた。エルネスト・ゲイルには超能力者収容フロアへ当分立ち入らせないと所長は言った。それから書類を数枚挟んだクリップボードを出してきた。

「”コンドル”のカルテだ。タブレットに入力する前に紙で記録してくれないか。空欄のところを本人に質問して書き込んでくれ。」

 シオドアが見ると、最初の氏名の欄が空白だった。ステファンも射殺されたカメル軍曹もパスポートや運転免許証の類を一切所持していなかった。母国政府の命令で泥棒行脚をしていたのだから、身元を隠したのは当然だった。シオドアは取り敢えず姓の欄にカメルと書き込んだ。死んだカメル軍曹には悪いが名前を暫く使わせてもらおう。
 それから彼はクリップボードを持って収容フロアへ降りて行った。ワイズマンがタブレットの電子カルテを貸してくれないのは、シオドアをまだ信用していないからだ。それでも今日は単独で所内を歩く許可が出た。エルネストの愚行が酷かったせいだろうとシオドアは思った。
 ステファン大尉は昼食迄の暇つぶしにテレビゲームをしていた。オフラインだし、興奮させるといけないと言う理由で戦闘ゲームではなく、穏やかなR P Gだ。やっている本人はあまり面白くなさそうだ。銃火器をバンバン撃つゲームの方が性に合っているに違いない。それでも髭がない彼の顔は確かに幼い印象で、エルネストが抱き締めたくなったのも少しわかる気がした。恐らく普段のステファンがゲバラ髭を生やしているのも、きっと同じ理由からだ。軍人として敵を威嚇する為と、身を守る為に必要なのだ。
 シオドアは監視役に挨拶して、室内に入れてもらった。ドアを開く時に声を掛けたので、ステファンはゲームを終了させて彼を迎えた。シオドアは、”弟”が再び無礼を働いたことを詫びた。ステファンは苦笑いして、「あれは懲罰房行きですよ」と言った。
 シオドアはクリップボードを出して、質問に答えてくれと頼んだ。ステファンはそれをチラリと見て、氏名の欄にカメルと書かれているのを見た。

「氏名を教えてくれ。」
「ハイメ・カメル。」
「出身地?」
「オルガ・グランデ。」
「年齢?」
「21。」

 本物のカメル軍曹はもう少し老けて見えたが、ステファンがどこまで真実を言っているのか、シオドアにも分からなかった。血液型や体重などは既に計測や検査が済んでいる。シオドアが質問するのは個人的な生活面に関する情報だった。

「親は?」
「いない。」
「亡くなったと言うこと?」
「スィ。」
「兄弟姉妹は?」
「いない。」

 もしステファンに兄弟姉妹がいれば、研究所はその人々の情報も求めるだろう。親類の情報を質問する項目もいくつかあったが、どれもステファンは「知らない」「いない」「分からない」で通した。勿論、研究所も彼が素直に喋ると思っていない。質問が2つだけになった。

「結婚しているか?」
「ノ。」
「子供はいるか?」
「ノ。」

 シオドアは書類を並べ直した。

「質問は終わりだ。お疲れ様。」
「どの捕虜にもこんなことをしているのですか?」
「うん。自国民でも情報を正確に得られるとは限らないけどね。」

 
シオドアは立ち上がった。そろそろお昼だった。

異郷の空 23

  シオドアはアリアナの家に戻った。そこからコンビニの店主に電話をかけ、仕事を辞めると告げた。いきなりの退職願だったので店主は怒ったが、シオドアは電話を切った。基地から外へ出るつもりはなかった。監視が付いているのを知っていたし、基地の外では警察がまだ泥棒と黒豹を探しているのだ。
 ケツァル少佐はシオドアが研究所に行った時、一緒について来た。誰も彼女の姿が見えなかったらしく、彼とワイズマン所長が所長室で話をしている間もそばにいて、所長がパソコンを触る時はじっくり後ろから眺めていた。シオドアは彼女の存在がいつバレないかと内心冷や汗ものだったのだ。
 地下の超能力者隔離区画で警報が鳴った時、ワイズマンはすぐに電話連絡を受けた。セルバ人が目覚めたと言う報告だった。予定より早い目覚めに、ワイズマンはシオドアに同行を求め、2人は一緒に室外に出た。少佐は残り、それっきりシオドアは彼女を見ていなかった。
 夜中近くにアリアナ・オズボーンの家に戻った時も、アリアナしか家にいなかった。彼女は夜食にピザを取ってくれた。そして彼は客間のベッドで1人で寝た。
 翌朝、まだ日が昇る前に目覚めた。掛け布団が重たくて体を動かせなかったのだ。顔を上げると、布団の上でケツァル少佐が寝ていた。シオドアは布団から静かに体を出して、リビングへ行った。朝食の支度をした。家の中には女性が2人いたがどちらも料理に関して当てにならなかった。
 野菜スープを作り、卵とベーコンを焼いて皿に盛りつけたところで少佐が起きてきた。寝起きの少佐はバスルームではなくキッチンで顔を洗った。お金持ちのお嬢様より軍隊の人間の方が彼女の中で割合が大きいのだろう。

「ステファンに会ったかい?」
「ノ。逃走経路の確認をしただけです。」

 彼女は皿をダイニングに運んでコーヒーを淹れた。アリアナがやっと起きてきた。彼女は野菜スープだけ口をつけた。彼女のベーコンエッグは少佐が食べてしまった。

「お2人の今日の予定はどうなっていますか?」

と少佐が質問した。シオドアは適当な時刻に研究所に行くと言った。

「ステファン大尉が虐待されていないか監視しないとね。俺達ばかりが監視されるのは割りに合わないし。」
「私は定刻に出勤するわ。」

とアリアナ。すると少佐が彼女に言った。

「退勤は何時ですか?」
「研究の内容によります。今は・・・暇ね。昨日は休んだから前日の研究結果の確認をします。それから明日の準備をするから、夕方迄に帰れます。」
「1600には職場を出られますか?」

 アリアナはシオドアを見た。少佐の質問の意図がわからなかった。シオドアは少佐が何か作戦を考えているとしか分からない。黙ってアリアナを見返しただけだった。仕方なくアリアナは答えた。

「必要なら、指示された時間に帰ります。」

 すると少佐が立ち上がり、リビングへ行った。直ぐに戻ってきたが、アリアナの個人用ラップトップを持って来た。それをアリアナに見せた。

「1630迄にここへ行って待機して下さい。」

 シオドアが覗き込むと、赤い屋根の給食センターだった。少佐は建物の裏口あたりに指を置いていた。シオドアが

「そこに何かあるのか?」

と尋ねても彼女は答えず、アリアナに確認した。

「1630迄に行けますか?」

 シオドアが通訳した。

「午後4時半迄に行けるか、と彼女が訊いている。」
「行けます。」

 アリアナは決意した。これはステファン大尉を救い出す為に必要なのだ。
 少佐は「ブエノ」と呟いて頷いた。

「もし貴女さえよろしければ、パスポートを持って来て下さい。ドクトル、貴方のパスポートは何処にありますか?」
「え?」

 シオドアも少佐を見た。パスポート? そして彼は少佐の考えに思い至った。

「セルバへ逃げるのか?」

 少佐は即答しなかった。

「最寄りの安全圏に行くだけです。」

 それでも敵から逃げられるのであれば、文句はない。シオドアは言った。

「アリアナが仕事に行く時に、俺は一旦基地を出る。ワイズマンに研究所に戻れと言われて、コンビニの仕事を辞めたんだ。アパートを引き払ってくる。監視がついて来るだろうが、俺がパスポートを取りに行っても誰にも分からない。」

 彼はアリアナを見た。彼女は生まれたこの基地の外に住んだ経験がない。生まれてから今日迄の全てを捨てて逃げる覚悟があるだろうか。
 少佐がアリアナに言った。

「私達と一緒に行く決心がつかなければ、車だけ置いて帰って下さい。車をお返し出来る保証はありませんが。」
「行きます。」

 アリアナがキッパリと言った。少佐は頷いた。

「エンジンをかけたままでお願いします。もし私達が1630を過ぎても現れなければ、家にお帰り下さい。待っていては、貴女が危険です。」

 アリアナが硬い表情で頷いた。

「わかりました。でも・・・必ず無事に戻って来て下さい。お願い。」


2021/07/12

異郷の空 22

  ステファン大尉に与えられた新しい牢獄は、シオドアの要求通り3方がコンクリートの壁で1面がガラス張りだった。ガラス面にはブラインドが取り付けられていて、着替えや室内の隅に設置されたトイレを使用する際は囚人が自分で閉じられるようになっていた。シオドアは彼がその部屋で最初の食事を終える迄付き添った。食事の内容はマッシュポテトに牛肉のシチューをかけた物で、チョコレートクッキーと苺ゼリーが付いていた。飲み物は低カロリーのミルクだった。げっそりとその食べ物を見つめる大尉に、シオドアが半分食べてやろうかと提案すると、結構ですと断られた。

「もし毒が入っていたら、貴方と私は共倒れじゃないですか。」
「毒殺なんかここじゃやらないよ。」

とシオドアは蘇った過去の記憶を元に言った。

「出来るだけ自然死に見せかけるからね。」
「貴方も手を下したことがあるのですか?」

 ギョッとする質問をされて、彼は黙り込んだ。必死で頭の中を検索した。己の過去が決して綺麗な物でないことは、既にわかっていた。それでも他人の死に関わったかも知れないと思うのは辛かった。

「被験者を死なせたことはない。俺はそう言うことをする担当じゃなかったから。だけど加担していたことに変わりはないよな。」
「貴方の国は一体どこと戦っているのです?」

とステファン大尉が尋ねた。

「人間を兵器に作り変える必要がある戦争がどこで行われているのですか?」
「戦争は銃器や爆弾で行うものばかりじゃないんだ。国同士で情報の奪い合いや嘘をつき合うのも戦争だ。インターネットで攻撃し合うのも戦争だ。そこに人間の脳が必要なんだよ。普通の脳より大きな可能性を持った脳がね。」
「私はそんなものに関われる様な頭じゃありません。」
「君は興味なくても、君の遺伝子を受け継ぐ人間がやるだろう。」
「無理です。」

 彼が小さく笑った。

「ママコナの声を聞けないのに、まともな力を出せる筈がない。」
「それじゃ、君はママコナの声を聞けるんだ。」

 シオドアの言葉に彼は黙り込んだ。恐らく、彼の頭の奥で蜂の羽音がブンブン唸っているんだ、とシオドアは思った。”曙のピラミッド”に住まう巫女様の”声”はセルバから遠い異国にいる”ヴェルデ・シエロ”にも聞こえるのだ。だから、諸外国を仕事で旅していたミゲール夫妻に引き取られた純血の”ヴェルデ・シエロ”の女の子は正しく能力の使い方を学んだ。

「あれは偶然です。」

とステファンは言った。

「私は恐怖に襲われて、必死で生き延びようとした。だから警報装置を鳴らし、医療機器を破壊出来た。ナワルを使えたのも奇跡です。私はエル・ジャガー・ネグロなどではありません。」
「黒いジャガーだろ? 君が変身したんだ。どうしてエル・ジャガー・ネグロでないなんて言うんだ。」

 しかし彼はそれっきり黙してしまい、シオドアの質問に答えなかった。
 シオドアはワイズマン所長との約束を守って、囚人の食事が終わると空になった食器が下げられる時に一緒に部屋から出た。牢獄の天井に人が通りぬけられる大きさの通風孔が設置されていることを確認して。
 所長室に行くと、ワイズマンとヒッコリー大佐が待っていた。ホープ将軍がいなかったのでシオドアはホッとした。彼はあの将軍が大嫌いだった。記憶を失う前も失ってからも嫌いだった。シオドアをまるで自分の持ち物を見るような目で見つめるのだ。愛情の欠片をその眼差しから伺うことは一度もなかった。
 ワイズマンがブランデーをグラスに注いでシオドアに振る舞ってくれた。

「さっきはよくやった。」

 彼はポケットから小さな時計の様なものを出した。

「あのセルバ人が心電図計を破壊した時、お前と私はまだ通路の角を曲がる前だったが、強力な磁場の変化を計測した。普通ならあのフロアの電子機器の多くが狂った筈だ。しかし、あの男はあの部屋の中の物だけを破壊した。常識では考えられない現象だ。ピンポイント攻撃が出来る恐るべき能力の持ち主だ。」

 シオドアはステファンの為に真実を語った。

「あの男は自分で能力の制御が出来ないのです。機械を壊しましたが、壊すつもりはなかったのです。」
「狙って壊したのではないと?」

とヒッコリー大佐が尋ねた。今まで多くの超能力者やそれらしき人々を攫って来た男だ。彼の捕虜は捕まる時に抵抗したが、超能力を使えた試しがなかった。静かな部屋で精神を集中させて物を動かしたり、隣の部屋のカードの絵を読んだり、そんな程度だ。抵抗して物を破壊したり、特殊部隊の兵士を手を触れずに弾き飛ばした人間は、今回のセルバ人が初めてだった。あの能力が自制出来ないと言うのか?

「そうです。ですから彼を刺激することが一番危険です。研究に使うにも彼の承諾を得てからにしなければなりません。彼が腹を立てたりすると非常に危険なのです。」

 大佐が所長を見た。

「眠らせて飼うことは出来ないのか?」
「それではどんな能力を持っているのか、調べようがない。」
「だが、能力を使わせることが危険なのだろう?」

 シオドアは黙って2人の会話を聞いていた。どんな結論を彼等が出すとしても、俺達はここに長くいるつもりはないんだ。
 ワイズマンがシオドアを振り返った。

「テオ、お前の今の態度がどこまで信用出来るのか、私には判断つかない。だが、エルネストやダブスンでは、あのセルバ人は言うことを聞かないだろう。お前を研究に参加させることは出来ないが、あの男の世話を任せたい。」
「わかりました。」
「基地の外の家を引き払って、こっちへ戻れ。何かあればすぐに呼び出しに応じられるようにしておけ。」
「わかりました。」

 シオドアはしおらしくして見せた。そこで好奇心が首をもたげた。先刻の騒動を目撃したヒッコリー大佐に尋ねてみた。

「ところで大佐、エルネストはどんな理由で”コンドル”を抱き締めたのです? 俺は”コンドル”に訊いてみたのですが、彼も訳がわからないと言っていました。いきなり抱きつかれたのでびっくりして機械を壊したのです。」

 するとヒッコリー大佐はしかめっ面をした。

「我々にもわからない。麻酔から目覚めた”コンドル”を宥める為に彼は部屋に入った。優しく話しかけていただけに見えたのだが・・・いきなり”コンドル”に抱きついた。あんなことをされたら、俺でも仰天する。」

 そして多くの超能力者達を捕らえてきた男は囁いた。

「俺の目に”コンドル”は戦闘のプロに見える。その男が本気で怯えていた。それだけゲイル博士の行動は意味不明だったってことだ。」


異郷の空 21

  カルロ・ステファンは誰かに名前を呼ばれた様な気がした。まだ目蓋が重たかったが、彼は目を開いた。眩しかったが、天井と大きな照明器具が見えた。直ぐそばで男の声が聞こえた。

「目を開けたぞ!」
「馬鹿な、麻酔は効いている筈だ。」

 彼は起きあがろうとした。両手が引っ張られ、動けなかった。一瞬腹が立った。バキッと金属が折れる音がして両手が自由になった。男達が騒いだ。

「目を覚ました。」
「危険だ。退避しろ!」

 足音。ステファンは上体を起こした。白衣姿の男が2人、ガラス扉の向こうへ駆け出して行くのが見えた。扉が閉じられると同時に戸口の上で赤色灯が点滅を始め、アラームが鳴り出した。訳がわからないまま、彼は両腕に刺さっていた点滴の針を引き抜いた。頭部にも胸部にも足首にも端子が装着されていたが、それも一気にむしり取った。
 室内を見回すと、心電図や脳波計のモニターが目に入った。ガラス張りの狭い部屋だ。病院の様だが、何かおかしい。腰に薄いブランケットが掛けられていた。めくると、申し訳程度に下着だけ履かされていた。ベッドから降りると脚に力が入らず、転倒しかけた。ベッドの縁を掴んでなんとか体を支えたが、腕の力も頼りなかった。点滴の薬のせいだ、と彼は思った。脳の奥で声が聞こえていたが、言葉を聞き取れない。
 ガラス壁の向こうに兵士が駆けつけた。ヘルメットを被り、自動小銃をこちらへ向けて待機の姿勢で上官を待つ彼等は全員サングラスをかけていた。
 ステファンは無駄な戦いをしない主義だ。そんなものは少年時代の喧嘩で十分やってしまったし、セルバ共和国陸軍でみっちり教育された。もし今の状況が本当に絶望的なものであれば最後の意地で暴れたかも知れない。しかし彼の脳の奥でブンブン唸っている蜜蜂の羽音に似たものは、彼に理解出来ないまでも希望を与え続けていた。

 ママコナが俺に語りかけている・・・

 ガラス戸が開いて、ぽっちゃり顔の男が入って来た。男は用心深くゆっくりと近づいて来て、ベッドの縁を掴んで体を支えている彼のそばに立った。それから身を屈めて、彼と同じ目の高さで話しかけて来た。初めて見る顔だったが、声は聞き覚えがあった。アリアナ・オズボーンの家で捕まった時に、袋越しに耳にした声だ。

「君に痛い思いをさせたくないんだ。大人しくベッドに戻ってくれないか。今は君の健康状態を調べているだけだ。僕は君の友達のシオドア・ハーストの弟のエルネスト・ゲイルだ。」

 ステファンが点滴の針に視線を向けると、エルネストがちょっと笑って見せた。

「ああ、あれは痛いよなぁ。栄養剤だけど、君が目を覚ましたから、もう必要ないな。後でちゃんと食事を出す。だから心電図と脳波を測らせてくれないか。」

 彼はベッドの柵に掛けられた手錠を見た。捕虜の手首に掛けられていた方の輪っかは左右ともに砕かれていた。ピンポイントで確実に念力を使って標的を破壊している。凄い、本当にこいつは凄い。
 ステファンの頭の中の声が途絶えた。一瞬希望も途絶えた気分に陥ったステファンは思わず呟いた。

「ママコナ?」

 それをエルネストは聞き間違えた。彼が「ママ」と呼んだと誤解したのだ。こいつはやっぱりまだ幼いんだ。故郷に帰りたがっている。
 咄嗟に彼はセルバ人を引き寄せ、抱き締めてやった。この暴挙にステファンはパニックに陥った。心電図計や脳波計が火花を噴いた。ガラス壁の向こうの兵士達がいろめきたった。

「馬鹿野郎、エルネスト! 何をやってんだ?!」

 シオドア・ハーストの怒鳴り声が響いた。エルネストは頭の中が真っ白になった状態でガラス部屋の戸口を見た。ステファンも彼に抱き抱えられたままそっちを見た。シオドア・ハーストが立っていた。顔はやや青褪めていたが、目は怒りで燃えていた。シオドアの後ろにワイズマン所長がこれも強張った表情で立っていた。
 シオドアがヒッコリー大佐に向けて腕を伸ばし、抑えて、と合図を送った。そしてワイズマンを振り返った。

「部屋の中に入ります。」

 ワイズマンが頷いて許可を与えた。 シオドアが静かに部屋に足を踏み入れた。友人と言えどセルバ人は今興奮状態にいる。刺激するのは危険だった。

「彼から離れろ、エルネスト。君が彼を脅かしたんだ。」

 まだ頭が空白になったままのエルネストがその言葉を理解する前に、ステファンが彼を押しのけて立ち上がった。まだ足元がおぼつかないが、床に尻餅を付いたエルネストを見下ろす目に威圧感があった。だからシオドアは忠告した。

「君もエルネストを怖がらせないでくれ。目を逸らせてくれ。」

 武器となる目を塞がせるな、と暗に注意を与えた。ステファンは彼を見て、それからベッドの縁にドサリと腰を下ろした。その隙にエルネストが半分腰を抜かした状態で部屋の外へ逃げて行った。シオドアはステファンの隣に座った。室内を見ると計器類から煙が出ていた。点滴の針から薬剤がポトリと落ちた。神経の興奮を抑える鎮静剤だ。この薬は”ヴェルデ・シエロ”には効力がないのか。それとも”ヴェルデ・シエロ”はすぐに抵抗力をつけてしまうのか。

「気分はどう?」

 外の人間に余計な詮索をされないよう、英語で話しかけた。ステファンも英語で答えた。

「最低です。」

 シオドアは彼の脇腹の傷を見た。

「傷はまだ痛むかい?」
「こっちは大丈夫です。そろそろ痒くなって来ました。」

 彼はステファンの肩を軽く叩いた。そして立ち上がるとワイズマンに声を掛けた。

「室内の計器類は使い物になりません。部屋を掃除して機械を入れ替えるか、新しい部屋へ移してやって下さい。新しい部屋は出来れば3方は壁にして欲しい。プライバシーを守られないと、被験者が落ち着けない。それから、服を着せてやって下さい。普通に人並みに扱っていれば、彼も暴れたりしません。」

 そしてステファンを見て、「だろう?」と念を押した。ステファンも同意した。 ワイズマンも異論がなかった。

「新しい部屋を用意する。ただし、用意が出来るまでは見張りを残す。」

 彼は情けをかけてやることにした。

「移動まで一緒にいてやれ。ここで生活する心得でも教えてやることだ。出来るだろう? 君が記憶喪失になる前にやっていた仕事だ。」

 彼は立ち上がったエルネストを睨みつけ、ついて来いと合図して立ち去った。エルネストはガラス部屋を振り返った。シオドアを睨みつけたが、怒りと言うより嫉妬の炎をその視線に感じて、シオドアはびっくりした。
 部屋の外のヒッコリー大佐の特殊部隊は2人の見張りを残して引き上げた。
 シオドアはスペイン語でステファンに話しかけた。

「エルネストが君をどう扱うのか心配になって、ワイズマンに掛け合ったんだ。昔やっていた仕事内容を思い出してね・・・捕まえた超能力者の世話を指示していたのは俺なんだ。だから、素人のエルネストなんかに君を任せたら君も研究所も危険な状態になると訴えたら、中に入れてもらえた。」
「来ていただいて感謝しています。」

とステファンが元気のない声で言った。

「実際、私はもう少しでさっきの男の首を折るところでした。」
「何があったんだ?」
「わかりません。」

 彼は肩をすくめた。

「いきなり抱きついて来たんです。衆人環視の中で襲われるなんて思っても見ませんでした。」
「君を襲った訳じゃないだろうけど・・・」

 シオドアも肩をすくめた。

「俺も時々あいつが理解出来ないから。 兎に角、あいつ、エルネスト・ゲイルとダブスンって言う中年女性の博士には用心しろよ。ダブスンは時々オルガ・グランデへ研究サンプルを採取しに行っていたから、神様の扱いを現地の人間から聞かされている節がある。目を塞がれたら、君が困るだろう?」
「忠告有り難うございます。」
「俺はエルネストが持っている君のデータを消さなきゃならない。連中に寝返ったふりをするから、我慢していてくれ。」

 そしてシオドアは、ケツァル少佐から教わった”ヴェルデ・シエロ”の言葉で囁いた。

「彼女がここに来ている。」

 ステファンの目が希望で明るく輝いた。


第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...