2021/07/22

博物館  6

 シオドアはティティオワ山の”死者の村”で聞いた亡者のお喋りに似た話し声をセルバ国立民族博物館の地下で聞いた。話し声は”死者の村”同様、彼が階段を降りた突き当たりのドアを開けた瞬間に聞こえなくなった。しかしそんなことはどうでも良かった。シオドアは目の前にずらりと並ぶ棚に置かれた物を目にして呆然と立ち尽くした。階段を吹き上がっていた黴臭い風の原因がわかったのだ。

「これ・・・全部ミイラ?」

膝を抱えたポーズで座る何十体と言う干からびた人間の遺体が棚をぎっしりと占めていた。

「スィ、セルバ人の祖先達です。」

 地下の部屋に入った途端に元気を取り戻したケツァル少佐は、シオドアの手を離し、室内に呼びかけた。

「ドクトル・ムリリョ、ケツァルです。呼び出しに応じて来ました。」

 シオドアは少佐から紹介があるまで口を利くなと言われていたので黙っていた。少佐が声をかけてからたっぷり2分も経ってから、棚の向こうから一人の高齢の男性が姿を現した。すっと背筋の伸びた背が高い純血種の先住民だ。日焼けした皮膚はなめし皮の様で、頭も眉毛も真っ白だった。鼻は高く目が鋭い。真一文字に結ばれた薄い唇は薄情そうに見えた。 服装は普通にノータイのワイシャツにコットンパンツだ。シオドアがミイラが服を着て歩いて来たのかと思ったほど痩身だった。何歳なのだろう。

「よく来た。」

とムリリョが低い声で言った。

「昼間、ケサダがお前が怒っていると言ったので、来ないかと思っていた。」
「人を呼び出しておいて場所も時間も告げないから、文句を言った迄です。」
「グラダなら、私が何処にいるかわかるだろうに。」
「私はママコナではありません。」

 少佐がミイラの棚にもたれかかった。

「ご用件は?」

 それ迄老人はシオドアを全く無視していた。そしてこの時、初めて彼を見た。

「この白人は何者だ?」
「グラダ大学の教授ともあろうお方が、彼を知らないのですか?」

  ケツァル少佐は恩師に対してかなり失礼な態度を取った。シオドアは老人が怒り出さないかと心配になった。だからつい言いつけを破って、自己紹介してしまった。

「生物学部で遺伝子工学の講師をしているテオドール・アルストです。」

 少佐が睨んだ。勝手に喋るなと言ったでしょ! と言われた気がした。ムリリョが首を傾げた。

「この白人は無礼だな。何故彼を連れて来た?」

 ケツァル少佐は投げ槍に答えた。

「彼自身にお訊き下さい。」

 シオドアも先住民流の直ぐに用件に入らない”ヴェルデ・シエロ”同士の会話にうんざりしたので、頭に浮かんだことを言った。

「女性を夜に呼び出すには似つかわしくない場所じゃないですか。彼女を呼んだ理由をさっさと説明なさっては如何です? まさかミイラや亡霊達に囲まれた黴臭い部屋で彼女を口説こうってんじゃないでしょうね。」

 あちゃーっと言いたげに少佐が顔に手を当てて下を向いた。失敗したかな?とシオドアは心配になった。”砂の民”で純血至上主義者を怒らせた?
 ファルゴ・デ・ムリリョがケツァル少佐を見た。深い皺を額に寄せたが、それは驚きの表情で眉を上げたからだった。

「ケツァルよ。」

と彼が少佐に呼びかけた。

「この白人は亡霊を見ることが出来るのか?」
「ノ! 見えません!」

 シオドアは慌てて否定した。

「幽霊なんて見たことありません。声が聞こえるだけです。」

 ムリリョがまた少佐に声をかけた。

「ケツァル、この白人が言ったことは本当か?」

 ケツァル少佐は正直に答えた。

「私は亡者の声を聞けませんので、彼が何を聞いているのか私にはお答え出来ません。」

 ムリリョがシオドアに顔を向けた。シオドアは彼が口角を上げるのを見た。


博物館  5

  セルバ国立民族博物館は午後7時閉館だ。午前9時に開館し、正午にシエスタで閉まり、午後2時に再開する。正面玄関を入ったところに巨大な壁画が展示されている。頭部に翼がある神やジャガーの上半身に人間の下半身を持つ神、槍を持った兵士の軍団、月や星を操る女性達、トカゲやワニや鹿の様な動物・・・シオドアが眺めていると、少し遅れてケツァル少佐が入ってきた。文化・教育省は午後6時に閉庁するので、彼女は多分何か軽く食べて来たのだろう。シオドアは自分も何か食べてくれば良かったと後悔した。アリアナは医学部の新しい友人の家に招かれて泊まりになるのだ。運転手は先に帰らせた。メイドは夕食の準備を終えたら帰らせる様に運転手に指図し、シオドア自身はタクシーで帰宅するつもりだ。
 少佐が壁画の前で足を止めた。

「これは本物です。」

と聞かれもしないのに彼女が説明した。

「遺跡に置いたままにしておくと崩壊が進むばかりだったので、分割してここへ運び、修復しました。10年かかりました。描かれた当時の絵の具を再現するのに時間がかかったのです。」
「職人技だね。元の絵が素晴らしいのは勿論だけど、それを現代に蘇らせる技術を持つ人々も凄い。」

 シオドアが賞賛すると、少佐は自分が褒められたみたいにちょっと頬を赤らめた。

「コンピューターで再現映像を作りましたが、実際に石に塗ってみると色調などが微妙に異なるので、皆んな苦労した様です。」
「君達の先祖だね。」

 シオドアは中央に大きく描かれている頭部に翼がある神を指差した。少佐が苦笑した。

「そんな頭をした人間がいたら、私は神様どころか化け物だと思いますけど。」

 子孫にそんなことを言われては神様は立つ瀬がないだろう。
 閉館を告げるチャイムが鳴り、玄関の扉が自動的に閉じられた。ガチャリと施錠される音が響いた。これから朝まで、中の人間は裏の通用口しか使えない。館内の照明が順番に消されていく。少佐がシオドアについて来いと合図した。
 現代のセルバ共和国で生産されている工業製品や農作物の標本が並ぶケースの間を通り、奥の「関係者以外立ち入り禁止」のドアを2人は潜った。ドアの向こうは職員や学芸員達の事務所で、帰り支度をしている人々の間を通り抜けた。ケツァル少佐は博物館関係者と顔馴染みなので簡単な挨拶だけで立ち止まらずに歩き続けた。シオドアもビジターのプレートを入り口で少佐にもらったので、彼女の真似をして「オーラ」だけで通した。職員の多くはメスティーソで白人もいた。館長が純血至上主義者の”砂の民”とは信じられない構成だ。
 事務室の奥にあるドアを抜けると、今度はラボだった。遺跡から運ばれた出土品の修復作業をする場所で、そこではまだ数人の職人が働いていた。作業に一区切りつけないと帰れない心境なのだろう、とシオドアは思った。
 ラボから更にドアを通り抜けた。階段だった。下から埃の様な黴臭い風が緩々と吹いていた。ケツァル少佐が足を止めた。

「いつもながら、ここを降りるのは嫌いです。」

と彼女が囁いた。シオドアは彼女の横に立って、階下を見下ろした。階段は途中に踊り場があって、180度ターンしていた。降りた先は見えなかったが、人の話し声が聞こえた。ザワザワと、不明瞭で大勢がてんでバラバラに喋っている。

「地下室だね。大勢いるみたいだが?」

 すると少佐が彼を振り返った。

「聞こえるのですか?」
「何を? 人の話し声かい? スペイン語じゃないと思うけど、10人かそこらの人数が話をしているみたいだ。」

 シオドアは何処かで同じような物を聞いたことがあると思ったが、思い出せなかった。少佐が階段をゆっくり降り始めた。彼は彼女の後ろに着いた。すると少佐が囁いた。

「後ろではなく隣にいて下さい。」
「良いけど?」

 心なしか彼女の勢いが落ちた感じがしたと思ったら、シオドアは彼女に手を握られて驚いた。それもただ握ったのではない、彼女は彼の手をギュッと力を入れて握りしめた。まさか? シオドアは新しい発見をした思いだった。

「少佐、ここの地下が怖いのか?」
「怖くなどありません。」

 少佐が強がって言った。

「足元が滑らないよう、用心しているだけです。」

 シオドアは階段の人感センサーが作動して照明が灯るのを見ながら、ケツァル少佐の弱点発見にちょっとホッとするものを感じていた。オールマイティの”ヴェルデ・シエロ”の女性は、悪霊や反政府ゲリラは平気なのに亡者が苦手なのだ。

博物館  4

  週明け、シオドアは大学で偶然ケツァル少佐を見つけた。少佐はキャンパスの中庭でベンチに座り、タブレットに何か打ち込んでいた。学生達が彼女に気づいて振り返る。特に男子学生は興味津々だ。無理もない、ミリタリールックの先住民美女は人目に付く。セルバ人なら彼女が何者か見当がつくだろう。武器を持っていなくても、彼女の身分はわかる。セルバの若者の憧れと畏怖の対象、大統領警護隊だ。
 シオドアが彼女に近づいていくと、数人の学生が足を止めて彼女に話しかけた。少佐が顔を上げ、彼等の質問に答えた様だ。学生達は喜んで彼女を囲む半円を築き、シオドアは少佐が見えなくなってちょっとがっかりした。授業が始まる。歩調を早めてベンチの近くを通ると、学生達が古代遺跡の話をしているのがチラッと耳に入った。考古学部の学生達が、文化保護担当部に質問をしている。全く自然なことだった。発掘の相談でもしているのだろう。
 午前中の授業をこなすと、大学は2時間のシエスタに入った。企業が4時間のシエスタを取るのと違って学生にはちょっと厳しい。教授達にも厳しい。冬とは言え南国の太陽は容赦無く照りつけていた。シオドアは大学のカフェへ昼食を取りに行った。この日アリアナは医学部の教授達と付属の病院へ実際の患者を見に出かけており、彼は一人だった。医学部にはアメリカ人の教授がいるし、病院にもアメリカ人の医師が働いているとかで、アリアナは居心地が良いらしい。
 ビュッフェ形式のカフェでポージョエンセボジャードとご飯を取って、シオドアは木陰のテーブルを探した。良い場所は殆ど先客がいたが、4人がけのテーブルを一人で占領している人がいた。シオドアは邪魔が入らぬうちに急いでそこへ行った。

「同席を願います、ケツァル少佐。」

 彼と同じポージョエンセボジャードの皿とご飯、フライドチキンをテーブルに置いたケツァル少佐がテーブルの残りに広げていた新聞を仕方なく畳んだ。同席を許可する言葉はなかったが、こんにちはと言ってくれた。シオドアはトレイを置いて、椅子に座った。

「金曜日の夜、ロホとマハルダは門限に間に合ったかい?」
「辛うじて。営倉に入れられずに今朝出勤していたので、セイフだったのでしょう。」
「カルロはアパートに帰ったのか?」
「他に何処へ帰るのです?」

 まだステファン暗殺未遂事件は解決していないだろうと、シオドアは言いたかったが控えた。ステファン大尉は自分で自分の身を守れる、と少佐は言いそうだった。

「アスルがお世話になったそうで、礼を言います。」

と少佐が話の方向を変えた。アスルは結局あのままシオドアの寝室の床で朝まで爆睡していた。シオドアは彼の頭の下に枕を置いてやり、毛布をかけてやったのだ。土曜日の朝、彼とアリアナはアスル特製の美味しい朝食にありつけた。ペピアンの爽やかな味に感動した。アスルは週末はメイドが休みなのを知っていて、夕食の下拵えまでして置き去りになっていたステファン大尉のビートルで帰って行った。

「アスルがあんなに料理上手だとは知らなかった。」
「では、コックの友達の家に寝泊まりしているのでしょう。」

 愛想が悪い男だが、アスルは意外に交友関係が広い様だ。少佐が次の野外業務に彼を同伴させようと呟いた。竈門の前で鍋のお守りに明け暮れるアスルを想像して、シオドアは笑った。

「カルロは虫除けで、アスルは料理番なんだな。ロホは運転手だったっけ?」
「本人の前でそんなことを言わない様に。転職されると困ります。」

 少佐も笑いながら言った。シオドアは彼女の大学での用事が気になった。

「今日は考古学関係の用事でここへ来たのかい?」
「スィ・・・ノ・・・」

 少佐はちょっと視線を周囲に巡らせた。他人に聞かれたくない用件なのか? 

「考古学部の教授に会いに来たのですが、なかなか掴まらないのです。」
「考古学部の教授達から、なかなか掴まらない、と言われている君が掴まえられない人なのか?」

 ちょっと驚きだ。余程多忙なのか、それとも余程人嫌いなのか? 

「私の考古学の担当教授だった方で、マハルダの担当教授をしているフィデル・ケサダの先生でもある人です。」

と言われても、シオドアはフィデル・ケサダ教授を知らない。しかし大統領警護隊の隊員を教えるのだから、恐らくその教授もケサダ教授も”ヴェルデ・シエロ”なのだろう。 少佐が言葉を足した。

「亡くなったリオッタ教授も彼に教授を受けていました。」
「それは・・・」

 複雑な心境になった。リオッタ教授は”ヴェルデ・シエロ”に興味を持ち、消えた村を探ろうとして純血至上主義者の怒りを買ったのだ。そして事故死させられた。”ヴェルデ・シエロ”は超能力を使って直接人間を殺害したりしない。どうやらそれは厳しく掟で禁止されているらしい。だが、物に何らかの力を与えて落ちたり転がる勢いを増加させ、標的の人間を事故で死なせることをやってのけるのだ。リオッタ教授は調査しようとしていた”ヴェルデ・シエロ”が目の前にいる恩師だと気付かなかったのだ。

「その教授の教授というのは?」
「ファルゴ・デ・ムリリョ、人類学者でセルバ国立民族博物館の館長でもあります。」

 シオドアは声を低めた。

「もしかして、”ツィンル”?」
「スィ。」

 ケツァル少佐も声を低めた。

「ガッチガチの堅物です。 白人嫌い、黒人も嫌い、若い者も嫌い。」
「そんな人に用事って、仕事だろうな、やっぱり。」
「そうなのですが、呼んだのは私ではなく、向こうなのです。」

 その時、少佐は誰かを発見した。立ち上がって手を振り、相手を呼んだ。

「フィデル! こっちへ来て!」

 シオドアが後ろを振り返ると、想像したより若い男が立っており、ケツァル少佐に気がついて向きを変えてやって来るところだった。ロホと良い勝負の純血種の先住民イケメンだ。大学の教授らしく服装は上品に襟付きのニットシャツ、下はコットンパンツでベルトも締めている。片手で大きな書物を2冊抱えていた。
 シオドアも少佐に倣って立ち上がって彼を迎えた。フィデル・ケサダ教授はシオドアが知らない言語でケツァル少佐に挨拶をした。シオドアは悟った。この男は純血至上主義者だ。少佐が敢えてスペイン語で挨拶を返した。

「久しぶり。今日は貴方の師匠を探しています。何処にいらっしゃるかご存知ですか?」

 ケサダは直ぐに答えず、シオドアを見た。英語で尋ねた。

「アメリカから亡命してきた遺伝子学者と言うのは貴方か?」

 シオドアはスペイン語で返した。

「そうです。教師としての教育を受けていないので、生物学部で講師として雇われました。テオドール・アルスト、以後お見知り置きを。」

 ケサダが小さく頷いた。スペイン語に切り替えた。

「考古学部のフィデル・ケサダです。大統領警護隊文化保護担当部の若い連中が世話になったとか・・・?」
「俺が彼等を助けた以上に、彼等は俺を助けてくれました。感謝しているし、尊敬もしています。彼等は俺の大切な友人です。」

 シオドアはケサダが彼の目を見つめ、何か読み取ろうと試みたことを感じた。一般のセルバ人はマナーとして相手の目を見ることを失礼なことと位置付けている。だが本当は”ヴェルデ・シエロ”に心を支配されない為の普通の人間”ヴェルデ・ティエラ”の知恵なのだ。堂々と相手の目を見るのは”ヴェルデ・シエロ”である証拠だ。そして目を合わせた相手に支配されないのも”ヴェルデ・シエロ”なのだ。
 ケサダがシオドアから目を逸らした。彼はケツァル少佐を振り返った。

「少佐、貴方のお友達はなかなかのものだ。」

とケサダが言ったので、シオドアは「勝った!」と思った。少佐はいつものポーカーフェイスで、「そう?」と言った。そして

「この人を甘く見ると後悔しますよ。」

とも言った。ケサダは肩をすくめ、やっと彼女の質問に答えた。

「ムリリョ博士は今朝から博物館の方に籠っておられる。調べ物の邪魔をすると叱られるぞ。」
「私は博士に呼ばれたのです。人を呼び出すのなら、ちゃんと場所と時間を指定して頂きたい。私は午前中を潰してしまった。」

 遠慮なく文句を言うケツァル少佐に、ケサダが苦笑した。

「これだから、大統領警護隊は固くていかん。」
「しかし、彼女が言うことは尤もです。」

とシオドアはうっかり口を挟んでしまった。ケサダが怒るかと思えば、意に反して考古学教授が笑ったので、彼はちょっとびっくりした。ケサダが頷いて見せた。

「確かに、セニョール・アルストの言う通りだ。我が師は誰もが自分の言うことに従うと思い込む癖がある。」

 彼は時計を見た。

「博士に、グラダが腹を立てていると言っておこう。都合の良い時間をお聞きして、貴女の携帯に連絡する。それでよろしいか?」
「ブエノ。」

 少佐が椅子に腰を下ろした。ケサダ教授は小さく手を振って別れの挨拶をした。そして学生達の群れの中へ姿を消した。
 シオドアは座り直した。

「彼は何族?」
「マスケゴ族です。」
「あまり聞かないなぁ。純血至上主義かい?」

 少佐がほぐした鶏肉をスプーンで口元に運びかけて手を止めた。

「何故そう思うのです?」
「教授が君に君達の言葉で挨拶したからさ。」
「純血至上主義者なら”心話”で挨拶します。」

 少佐はパクリとチキンを口に入れた。口の中の物を飲み込んでから言った。

「ケサダは純血種ですが、至上主義者ではありません。マスケゴ族の多くは混血が進んで”ヴェルデ・ティエラ”の中に溶け込んで暮らしています。ですから、大統領警護隊の中にマスケゴ族の隊員は少ないし、政府の中に入り込んでいる人もあまりいません。彼等は”街の人”なのです。」
「それにしては、俺のことをケサダ教授はよく知っていたみたいだが?」

 少佐はシオドアがご飯を食べるのを暫く眺めていた。彼がミネラルウォーターで口の中を一度綺麗にした時、彼女は徐ろに言った。

「貴方は混同している様ですが、純血至上主義者と”砂の民”は別物ですよ。」

 シオドアは顔を上げて彼女を見た。ケツァル少佐は言った。

「純血至上主義者は本当に単独部族の純血種だけを人間だと信じ、他の存在を疎ましく思うファシストです。”砂の民”はそれとは違います。一族に害を為す者を排除することに特化された集団です。普段は一般の人に紛れて暮らしています。出身部族は様々ですし、複数部族の混血もいます。ファシスト達は組織だった集団ではなく、それぞれの思惑で動きます。”砂の民”は厳しい規則で動く組織を持ちます。警護隊が士官学校の生徒から隊員をスカウトするのと同じ様に、”砂の民”は市井で暮らす”ヴェルデ・シエロ”から仲間をスカウトします。ファシストが親から子に思想を繋げるのとは違います。」

 そしてこうも言った。

「ムリリョ博士は、純血至上主義者で、”砂の民”です。」


2021/07/21

博物館  3

  ロホの行きつけのバルのテイクアウト料理はとても美味しかった。ワインやシェリー酒、ビールと度数は高くないが酒の種類も多く、シオドアもアリアナも久しぶりに食事とアルコールに堪能した。アスルは意外にお酒に弱いのか、満腹になるとあまり時間が経たないうちに居眠りを始めた。

「ここにアルコールで堕落したインディヘナがいるぞ。」

ご機嫌のステファンがアスルを見て呟き、ロホが

「酔っ払いは留置場へ入れないと・・・」

と言った。シオドアが自分の寝室を指差した。

「俺の部屋で良ければ、彼をぶち込んでおけば?」
「そうしよう。」
「床に転がしておこう。後で踏まない様に気をつけて。」

 大尉と中尉が両側から少尉を支え、半ば引きずってシオドアの寝室へ連れて行った。それを見ながらケツァル少佐はソファの上であぐらをかいて、抱えたサラダのボウルから野菜や豆を摘んでいた。シオドアは彼女だけが飲んでいないことに気がついた。男達はあれだけ相談したにも関わらず、全員が飲んでしまっていたのだ。シオドアは彼女の隣に座った。

「君も飲みたかったんじゃないの?」
「部下達に先を超されました。」
「飲めば? 泊まっていけば良いさ。明日は休日だろう?」
「私が飲めば全員がここに泊まることになりますよ。」

 床のカーペットの上に座り込んだアリアナとデネロスが、何が可笑しいのか、ケラケラ笑いながらスナック菓子を食べていた。シオドアは言った。

「いいさ、全員泊まって行けよ。まさか、ママに叱られるって訳じゃないだろう?」
「大統領警護隊の官舎には門限と言うものがあります。」

 少佐が顎でデネロスを指した。

「マハルダとロホは官舎に住んでいます。」
「アスルは?」
「商店街に下宿があります。彼は士官学校時代に知り合った歯科医とルームシェアをして住んでいるのです。シェア友が頻繁に女友達を取り替えるので、うんざりしてあまり帰りませんが。」
「それじゃ、彼は普段は何処で寝泊まりしているんだ?」
「本人に訊いて下さい。」

 その時、デネロスがシオドアを呼んだ。シオドアが2人の女性のそばに行くと、デネロスがキャベツの形をしたクッキーの様なお菓子を見せた。それから人の顔をしたお菓子を見せて、最後に蒸した貝のお摘みを差し出した。意味が分からなくてシオドアがキョトンとしていると、アリアナが笑った。

「足し算ね。」
「スィ。」

 ますます意味が分からなくてシオドアが頭を抱えていると、寝室からステファンが出てきた。彼はまだご機嫌で、リビングに入るといきなりアリアナを抱え上げたので、彼女はびっくりして声を出せなかった。シオドアも唖然として彼を見上げた。ステファンは彼女をソファの上に投げ出す様に座らせ、彼女と少佐の間に自分の体を押し込めた。デネロスが彼を揶揄った。

「両手に花ね、カルロ。」
「君も膝に来るかい?」
「それって、セクハラよ。少佐が怒り出す前に、席を移動しなさい。」

 何故か一番若いデネロスが一番アルコールに強い様だ。互いに名前で呼び合っているのに、少佐だけは少佐なんだ、とシオドアは思った。
 ステファンが少佐を見た。

「怒ってます?」

 少佐が豆を口に入れてポリポリと音を立てて食べてから言った。

「ドクトラを怖がらせましたね。」

 実際、アリアナはちょっと怖かった。湖の岸辺で見つけた黒い猫は衰弱して寒さと傷の痛みで震えていた。しかし、今彼女の隣に座っているのは、力強い軍人で酔っ払っていた。
 シオドアはステファンがちょっと縮こまった様に思えた。急激に酔いが醒めたと言うべきか? ステファンがソファから離れた。

「すみません。浮かれてしまいました。」

 ちょっと罰が悪そうだ。少佐が時計を見た。

「そろそろお暇しましょう。門限迄にロホとマハルダを送らなければなりません。」
「アスルは置いて行って良いぞ。」

とシオドアは言って、寝室の方を見た。ロホはどうしたんだ? 彼の疑問に答えるかの様にステファンが少佐に言った。

「ロホも寝てしまいました。」

 少佐がボウルから顔を上げた。そして一言、誰に言うでもなく命令した。

「起こせ!」


博物館  2

  スペインではバルが開く迄まだ2時間程あるに違いないのだが、セルバ共和国ではまだ日が沈む前から酒類を提供する店が営業を始める。シオドア達の監視役である運転手は、大統領警護隊文化保護担当部が責任を持つと言うステファン大尉の言葉に、素直に先に帰ってしまった。アリアナは夜遊びの服装に着替えたかったが、ケツァル少佐もデネロス少尉も昼間のままの服装だったので、気にしないことにした。恐らく彼女達がアリアナに合わせてくれているのだろうと想像はついたが。ステファン、ロホ、アスルの3人が額を寄せ合って相談していたので、シオドアが仲間に入ろうとすると、駄目だと言われた。

「俺は除け者かい?」

とシオドアが抗議すると、アスルがぶっきらぼうに応えた。

「車を持っていないからだ。」

 つまり、誰が飲まずに我慢するかの相談だったのだ。シオドアは一同を見て首を傾げた。

「7人だぞ。1台で足りるのか?」
「足りますよ。」

と少佐が言った。

「貴方の家で飲むのですから。」
「はぁ?」

 シオドアの間が抜けた声に、アリアナが笑い出した。ロホが買い出しを担当するので先に行ってくれと言い、デネロスがついて行くと言い出した。

「男の人に買い物を任せたら、甘い物を忘れるんだもの。」
「それじゃ、私の車を使え。バイクじゃ2人乗りに荷物を抱えては危ない。」

 ステファンが車のキーをロホに投げ渡した。
 結局ケツァル少佐のベンツにシオドア、アリアナ、アスル、少佐が乗り込んでステファン大尉が運転してシオドア達の家に向かった。少佐がアリアナに助手席に座って下さいと言ったので、アリアナは一瞬何か裏でもあるのかと勘繰ってしまった。しかし少佐はただ彼女に家迄のナビを頼んだだけだった。ちょっとドキドキしながら助手席に座ったアリアナにステファンが尋ねた。

「自宅迄の道順を覚えておられますか?」
「大丈夫、運転手任せでぼーっと座っている訳じゃないのよ。」

 アリアナは普通に話せて、自分でホッとした。後部席ではシオドアが少佐とアスルに挟まれて窮屈な思いをしていた。少佐は彼女の車なので態度がでかい。シオドアはアスルにくっつく位置で座らねばならなかった。もし少佐に体を寄せようものなら、アスルに噛みつかれるのではないかと思った。
 運転手付きの車は門扉のリモコンを装備しているが、少佐のベンツにはない。シオドアが携帯電話を出したので、アスルが尋ねた。

「中から開けてもらうつもりか?」
「否、携帯でリモコンを使える様に、自分で設定したんだ。」
「・・・なら良い。」

 多分、アスルはミカエル・アンゲルス邸の門で見せた念力に似た力を使うつもりだったのだろう、とシオドアは思った。
 小さな家の狭い庭にベンツが乗り入れた。先に帰宅していた運転手が驚いて外へ出て来た。最初に車から降りたアスルが彼に声を掛けた。

「夜は君が警護に当たるのか?」
「ノ、私は車を車庫に入れたところでした。メイドも今夜は早めに帰しました。夜間の警護は後1時間で来ます。私と交替です。」

 運転手は相手が”エル・パハロ・ヴェルデ”だと気が付いて、緊張した面持ちだった。だからシオドアに続いてケツァル少佐が、アリアナとステファン大尉が降車したので、さらにびっくりした様子だ。

「今夜は我々がいる。交替を待つ必要はない。帰ってよろしい。」

 ステファン大尉に2回も同じことを言われて、運転手は慌てて家から鞄を取って来た。そして自転車に乗ると急いで帰って行った。
 アリアナが最初に家に入り、照明を点けた。

「いつも貴女が最初に家に入るのですか?」

 いつの間にかステファンが横にいたので、彼女はもう少しで跳び上がりそうになった。

「いいえ、いつもはメイドがいます。今日は早く帰ってもらったから・・・」
「中が暗い時は、ドクトルに先に入ってもらいなさい。」

 彼の気遣いに彼女はまた胸がときめいてしまった。照れ隠しに彼女は言った。

「もうドクトルやドクトラは止して、ステファン大尉。テオとアリアナで良いわ。」
「では、私もカルロと呼んで下さい。文化保護担当部では、オフの時間は皆んな階級に関係なく名前で呼び合っていますから。」

 アリアナは頬が赤くなっていないか心配しながら、「わかったわ」と呟いた。
 ケツァル少佐は早速他人の家の中を探検し始めた。リビングをぐるりと一周して、キッチン、メイドの休憩室、シオドアとアリアナのそれぞれの寝室、書斎、バスルーム、物置代わりのロフト、最後に地下室まで覗いた。シオドアは彼女について歩きながら、彼女が何をしているのかわかったので、黙っていた。
 2人がリビングに戻ると、アリアナがステファン大尉に手伝わせて飲み会の準備をしていた。テーブルの上にグラスと小皿を運び、椅子を集めて来た。買い出し班がまだ現れないので、彼女は冷蔵庫からワインの瓶を持ってきた。シオドアがその栓を抜いた時、アスルが入って来た。少佐と目と目を見合わせて何か話し合った。それでシオドアは何故彼等がこの家で飲み会をするのか理解した。政府の役人が用意した家のセキュリティの完成度を測っているのだ。果たして、少佐がリビングの壁のコンセントから盗聴器を一つ取り出した。機械に向かって囁いた。

「この家に誰が客として招かれるのか、承知の上でやっているのですか?」

 そして床に盗聴器を落とすと踏み潰した。アリアナがびっくりしてシオドアを見た。

「ここでも盗聴されていたの?」
「うん。でも、エルネストじゃないことは確かだ。」
「内務大臣のパルトロメ・イグレシアスだ。」

とアスルが言った。

「スパイの疑いがある難民がいるキャンプや、セルバ共和国にあまり友好的でない国の要人訪問時の宿舎に盗聴器を仕掛けるのが好きな男だ。庭の植え込みにも、道路ではなくこの家の庭だけを撮影しているCCTVがあった。」

 アリアナが溜め息をついた。少佐が彼女を慰めた。

「庭のカメラは我慢して下さい。防犯に役立ちますから。」
「グラシャス。」

 ステファン大尉がシオドアに囁いた。

「内務大臣の弟は建設大臣のマリオ・イグレシアスです。弟が難民キャンプを設営したり、要人宿舎の防犯設備の検査を役人にさせます。その時に兄の部下が盗聴器や監視カメラを仕掛けるのです。」
「仲が良い兄弟なんだな。」

 シオドアが皮肉を言ったら、それが気に入ったのか、アスルがニヤッと笑った。
 そこへ、ロホとデネロスがステファン大尉のビートルで買い出しから戻って来た。

博物館  1

  冬の休暇が終わり、大学に学生達が戻ってくると一度に賑やかになった。シオドアとアリアナの新しい仕事もやっと本格的に始動だ。大学事務局は2人に文化・教育省へ行って所定の職員採用に関する手続きをしてくるようにと言い渡した。シオドアは一度経験していたので、アリアナの都合に合わせて出かけた。彼女が文化・教育省と聞いてちょっと尻込みした。大統領警護隊文化保護担当部があるからだ。しかし手続きは本人が行わなければならないものもあるので、結局彼女は渋々ながら出かけた。
 事務手続きは相変わらずセルバ流で、少し書類を書くと、続きは次の日に来いと言われる、行けば別の窓口へ回される、その繰り返しだ。やる気があるのかないのかわからない役人の仕事ぶりに、仕舞いにはアリアナも「何なの、ここは?」と呆れて笑い出してしまった。必要な手続きが終わるのに5日もかかった。1週間を自宅と大学と文化・教育省の間をグルグル回って過ごした様なものだ。
 金曜日の午後シエスタの後で、やっと全部終了した。シオドアはアリアナの手続きが終わるのを待ってから、大統領警護隊のオフィスへ行こうと誘った。彼女が躊躇ったが、シオドアはここで避けて通れない問題をクリアしておきたかった。ステファンと普通の友人として同席することに慣れてくれ。
 4階に上がると、幸いにもケツァル少佐が机の前に座って書類の山と格闘しているのが見えた。彼女の前の机では、ステファン大尉とロホがそれぞれの机に向かいパソコン画面と睨めっこしていた。アスルはカウンターの外側で数人の職員と何かガラクタの様な物を点検していた。デネロス少尉は隣の部署の職員とお喋りに忙しそうだ。いや、仕事上の相談だろう。
 ロホの元気そうな姿を見て、シオドアは思わず笑が溢れた。反政府ゲリラから逃げ延びて、医療班に託した時のロホは殆ど意識がなかった。左腕は動かせなかった。
 今、シオドアの目の前で、ロホは普通に左腕を動かし、キーボードを叩いていた。
 文化保護担当部のカウンター前に列がなかったので、シオドアはカウンターにもたれかかって、「オーラ!」と声をかけてみた。驚いたことに、少佐以外の全員が反応してくれた。顔を上げ、手を止め、振り返ってくれたのだ。以前は完全に無視してくれていたのに?!
 デネロスがキャー!と声を上げてカウンターの内側から出て来た。アリアナの手を取って、

「やっと来てくれましたね! 今週中には絶対に来てくれるって、私、賭けてたんです。」

 彼女はアスルに向かって勝ち誇った様に言った。

「クワコ少尉、今夜はビール5本、お願いします!」
「けっ!」

 アスルがまたガラクタの山へ向き直った。シオドアは吹き出した。

「俺達は賭けの対象かい? 軍の規律違反じゃないのか?」

 4階の職員達が聞こえないふりをして仕事を再開した。シオドアがアリアナを振り返ると、彼女はデネロスに手を握られたまま、笑いだすのを必死で耐えていた。彼女の脳も遺伝子組み替えで生み出された優秀なものだ。既にスペイン語は何とか聞き取れる様になっていたし、この場での事態も理解出来た。
 ロホが席を立ってカウンターの側に来た。

「お久しぶりです、ドクトル。」
「テオって呼んでくれよ。アリアナもドクトラじゃなくアリアナで良い。」
「こんにちは、テオ、アリアナ。」

 イケメンのロホに笑顔で挨拶されて、アリアナが頬を赤く染めて挨拶を返した。

「初めまして、アリアナ・オズボーンです。オスボーネの方が良いかしら?」
「貴女のお望みの発音でお呼びしますよ。」

 ロホはいつも紳士だ。自己紹介した。

「アルフォンソ・マルティネスです。中尉です。ロホと呼ばれていますので、貴女からもロホと呼んでいただけると嬉しいです。」

 彼はアスルを呼んだ。上官に呼ばれたので、アスルは仕方なくシオドアの横に来た。

「彼はキナ・クワコ、少尉です。アスルと呼ばれています。愛想のない男ですが、気は優しい良いヤツなんで、遠慮なく話しかけてやって下さい。」

 アスルはツンとして、アリアナに一言「よろしく」とだけ言い、またガラクタの山へ戻った。いつもと変わらない態度にシオドアが苦笑してその背を見たので、アリアナは安心を覚えた。確かに何も説明がなければ、アスルの態度は嫌われていると言う印象を他人に与えかねなかった。

「マハルダ・デネロス少尉は既にお馴染みの様ですね。」
「ええ、休暇前に大学で出会いました。その前も・・・」

 この人達は皆んな”ヴェルデ・シエロ”なのだ、とアリアナは自身の心に言い聞かせた。不思議な力を持ち、優しくて、でも彼女の手が届かないところに心がある人々。
 ロホがごく自然にステファンを振り返った。

「彼もご存知ですね。私の上官のカルロ・ステファン大尉です。ほんの半年前までは私と同じ中尉だったのですが、私がミスして彼は手柄をたて、先に出世してしまった。」

 ロホが愉快そうに笑った。ステファンが彼を見て顔を顰めた。

「笑い事じゃないだろ、ロホ。ちゃんとドクトルに助けていただいた礼を言ったのか?」

 ロホが舌を出し、シオドアに向き直った。

「失礼しました! 貴方が来て下さってあまりにも嬉しかったので、お礼を申し上げるのを忘れていました。ティティオワ山で助けていただいて、有り難うございました。心からお礼申し上げます。」

 改まった物言いに、シオドアは苦笑した。

「助けられたのは俺の方だよ。もう怪我はすっかり良くなったんだね?」
「スィ。以前と変わりなく動けます。ただ、まだ現場へ行かせてもらえないので、事務仕事で毎日過ごしています。」

 すると、思いがけず一般職員からチャチャ入れがあった。

「ロホ中尉、肝心のお方の紹介を忘れているぞ。」
「ああ、しまった!」

 ロホが真っ赤になり、4階の職員一同からドッと笑い声が起こった。忘れられた指揮官、ケツァル少佐がアサルトライフルを取り出す前に、シオドアは素早く言った。

「少佐はもう何度もお会いしているから、大丈夫だ。アリアナもすっかり顔馴染みだし。」

 アリアナも笑いながら、そっとステファン大尉を見た。ステファンは御大のご機嫌を伺うかの様に、少佐の表情を覗いていた。そのケツァル少佐はペンを机の上に投げ出し、時計を見た。そして宣言した。

「5分早いが、終業とする。」

 4階の職員全員から歓声が上がったのは言うまでもない。


 

2021/07/20

聖夜 12

  南国のクリスマスは初めての体験だ。シオドアとアリアナは次の日の夕方、グラダ国際空港に降り立った。乗客達の多くは冬服だったが、入国審査を通り、税関を抜け、ロビーで荷物を受け取ってロビーの暖かさに戸惑った。冷房が効いているのだが、冬服では暑かった。赤道はもっと南の筈だがと文句を言う人もいた。同じ飛行機に搭乗したケツァル少佐とロペス移民審査官は着替えを持っていたので適当な頃合いに軽装になっていた。少佐は旅慣れしている。ロペスは往路で学んだのだろう。
 ロビーにはセルバ共和国外務省の迎えが来ていた。ケツァル少佐とはそこでお別れで、シオドアとアリアナはロペスと共に迎えの車に乗り、大統領府近くの外務省へ連れて行かれた。文化・教育省は雑居ビルにあるが、外務省はそれなりの重厚さを持つスペイン統治時代に建てられた歴史ある建物だった。夕刻だったので、そこで仮の身分証をもらって、許可なしに外出してはならないと注意をもらい、近くのホテルに案内された。安宿ではなく、警備の都合上ちゃんとセキュリティが充実した値段の高そうなホテルだった。仮の身分証を提示するとレストランで食事も出来た。アリアナが試しにホテル内の洋品店で彼女と彼の服をカードで購入したら、ちゃんと使えた。

「これで私達が今何処にいるかアメリカ側にも知られたわね。」

とアリアナが言った。シオドアは平気だよと言った。

「ここまで全くアメリカ政府の妨害が入らなかった。またミゲール大使が国務長官に面会してくれたんじゃないかな。」
「でも大使の説得で政府が私達を解放してくれるかしら。」
「セルバマジックだよ。」

とシオドアは冗談で言った。後に知ったことだが、ミゲール大使は本国から送られてきたメールを印刷して国務長官に渡したのだ。そこには、セルバ共和国のみならず中米各国で活動しているアメリカの諜報機関のメンバーの氏名がリストアップされていた。
 諸国に黙っていてやるから、たった2人の遺伝子学者の亡命に目を瞑れ、と言うセルバ共和国流の外交手段だった。正にセルバマジックだった。
 翌日、再び外務省へ連れて行かれ、そこで1年間の観察期間の説明を受けた。仕事はグラダ大学で遺伝子関係の研究室を紹介された。シオドアは以前途中放棄した遺伝子工学の講師を選んだ。今度こそ真面目に学生に教えるのだ。アリアナは医学部で遺伝病の研究を指導することになった。そこでは英語が使えた。住まいはグラダ・シティの高級住宅街にある戸建て住宅で、そこに監視役を兼ねたメイドと運転手が付いた。どちらも英語を話せた。但し、どちらも”ヴェルデ・ティエラ”のメスティーソだった。

「研究所にいた頃と変わらないわね。」

とアリアナがちょっと拍子抜けした様に言った。彼女は収容所の様な生活を想像していたのだ。

「研究所より監視は緩いよ。」

 シオドアは大学内にいれば自由に歩き回れることを教えた。

「だけどアメリカ人留学生には用心しないとね。」
「スパイがいるってこと?」
「油断禁物ってことさ。俺達が母国の人間と接触するのを不愉快に思うセルバ人がいるかも知れないだろう?」
「私達がスパイじゃないかって疑われるのね。」

 アリアナは笑った。シオドアは”ヴェルデ・シエロ”の秘密を守るためなら暗殺を平気でやってのける”砂の民”と呼ばれる人々がいることを彼女に黙っていた。
 大学で働き始めて3日目に、アリアナに嬉しい出来事があった。キャンパスでマハルダ・デネロス少尉が声をかけて来たのだ。通信制の大学で学んでいる彼女は、久しぶりのスクーリングで大学に顔を出したのだった。
 デネロスはホテルで姿を消してアリアナを驚かせたことを詫びた。

「ドクトラお一人でしたら、走って逃げたのですけど、ボディガードが怖かったので。」

 と彼女は言い訳した。アリアナは首を振った。

「あの時の私はこの国に全く無知だったの。そして私自身が本国で置かれている立場にも無知だったわ。研究所が作った都合よく言うことを聞く人形だったのよ。あの時、貴女がテオの資料を焼いてくれなかったら、今頃セルバ共和国とアメリカの間で超能力開発を巡る情報戦争が起きていたかも知れないわね。」

 デネロスは肩をすくめた。

「私達には、超能力を持っていると言う意識がないのですけどね。」
「普通のことなのね?」
「スィ。力の種類や強弱は個性ですから。」

 クリスマス休暇で大学が休校になると、シオドアはエル・ティティからアントニオ・ゴンザレスを呼んだ。署長は都会に出ることを渋っていたが、2日だけなら、とバスに乗ってやって来た。シオドアはアリアナに「親父だ」と紹介した。ゴンザレスはスペイン語がまだおぼつかないアリアナの為に、やはりおぼつかない英語で一所懸命話しかけた。アリアナもできる限りスペイン語を使って話をした。

「綺麗な妹だな、テオ。」

とゴンザレス署長は感想を述べた。

「都会が似合う女性だ。田舎の生活は無理だと思うぞ。彼女がこの国に慣れる迄一緒にいてやれ。これからはテレビ電話も使える。署に回線を引いたんだ。毎日顔を見られるから、無理をして観察期間を延長されることがない様に気をつけな。」
「グラシャス。だけど、やっぱり俺はエル・ティティが懐かしいよ。」

 シオドアは彼が家に帰る時、何度も抱擁を交わして別れを惜しんだ。そんな2人をアリアナは羨望の眼差しで見ていた。彼女には心の支えとなる人も場所もセルバになかった。

第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...