2021/07/25

博物館  15

  マハルダ・デネロスが目を覚ましてくれたお陰で、3人でミイラの保管室を歩き回り幽霊を追いかけることが出来た。”ヴェルデ・シエロ”と思われる幽霊は確かに3人だけ、と少佐とデネロスの証言が一致した。かなり古い神官の服装をしている男性だと言う。幽霊達は特に目的もなく室内を漂っていた。時々”ヴェルデ・ティエラ”のミイラから亡者が出て来かけたことがあったが、その度に少佐が弱いながらも気を放ち、ミイラの中へ押し戻した。デネロスは1人の神官がよく動き回るので追いかけていた。現生の3人は辛抱強く3人の亡者がミイラへ戻るのを待ち、明け方近くに”ヴェルデ・シエロ”のミイラを梱包用の箱に移動させた。
 シオドアはノートを破ってそこに「神官3名」と書き記し、箱の蓋の上に載せておいた。保管室を出て扉を閉じ、寝袋を片付けた。
 少佐が時計を見て、シオドアに尋ねた。

「ドクトル、今日の予定は?」
「午前中に講義が一つ・・・」

 欠伸が出た。

「何時から?」
「10時。俺は定刻に講義を開始するので有名だから。」

 デネロスが笑った。少佐が言った。

「まだ5時間あります。何処かで休みましょう。」

 その「何処か」は結局少佐のアパートだった。彼女のベンツで到着すると、シオドアは一度来たことがある建物に入り、ちょっと感慨深い物を感じた。あの時は故国から逃げて、アスルの手で過去の村に隠してもらった。今は「見習いセルバ市民」だ。
 少佐の部屋は高級アパートだけあってバスルームが2箇所あった。一人暮らしの女性の部屋にバスルームが2箇所だ。シオドアとデネロスがそれぞれ別のバスルームでシャワーを浴びて体を洗った。着替えは出勤前に自宅へ立ち寄らなければならない。風呂から出ると、ダイニングに少佐が簡単な朝食を用意してくれていた。トーストと卵料理と果物だ。彼女がシャワーを浴びている間に食事を済ませた。デネロスも少し遅れて風呂を上がり、朝食の席に加わった。上官を待ったりしない。時間に制限がある時は効率よく動くのだ。シオドアはリビングのソファで寝ることにして、デネロスに客間を譲った。寝る前にふと思いついてアリアナに電話をかけた。まだ6時半で彼女はベッドの中にいて、電話で起こされたことに文句を言ったが、シオドアがシャツの着替えを大学へ持って来るよう依頼すると引き受けてくれた。
 バイトは上手くいったらしい。ムリリョ博士から連絡はなく、シオドアはエアコンが効いた室内で短時間だがぐっすり眠れた。
 8時過ぎに少佐が何処かに電話をかける声が聞こえた。シオドアは彼女の声が楽しそうだったので、安心してまた眠り、9時に起こされた。
 起きるとデネロス少尉はいなかった。少佐がコーヒーを淹れてくれながら説明した。

「ロホに指揮代行を頼みました。ついでにマハルダを拾って先に出勤してもらいました。」
「君が電話をかけていた相手はロホだったのか。」
「誰だと思ったのです?」
「ムリリョ博士に仕事の結果報告でもしているのかと思った。」
「その必要はありません。貴方が残したメモで彼はわかります。」

 シオドアは熱いコーヒーを啜った。生き返った気分だ。

「昨夜、君は心を何処かに飛ばしていたね。ステファンに何かあったのかい?」
「彼が大きな気を放ったので、何かあったのかと思って様子を見に行ったのです。」
「ムリリョとマハルダは感じなかったみたいだね。」
「部族が違いますから。」

 少佐もコーヒーを一口飲んだ。

「何もなかったので安堵しました。少し相手が悪かったのです。」
「ムリリョと同じ部族の人か?」
「スィ。マスケゴ族の男で、シショカと言います。建設大臣の秘書をしていますが、純血至上主義者で”砂の民”です。」
「ムリリョの手下?」
「ノ。”砂の民”ですが、単独で長老会の指図でのみ動く男です。ムリリョ博士の指図で動く組織には入っていません。ですが、マスケゴ族の長老としてのムリリョ博士の指図には従います。」

 ”ヴェルデ・シエロ”が一枚岩でないことをシオドアは知っている。そして、ややこしい掟も存在するのだ。

「殺し屋だね? 殺し屋がステファンに何かしようとしたのか?」
「まだカルロと話をしていないので詳細がわかりませんが、襲撃したのではなさそうです。何らかの理由で出会って、売り言葉に買い言葉で口論でもしたのではありませんか。」
「それでステファンが腹を立てて気を放ったのか・・・」

 シオドアはアメリカの遺伝病理学研究所がステファンを拉致・監禁した時のことを思い出した。シオドアの義理の弟エルネスト・ゲイルがステファンを怒らせ、医療検査機器を破壊させてしまったのだ。
 少佐がカップをテーブルに置いた。

「そろそろ大学へ行きましょう。カップはそのままで良いですよ。メイドが後から来ますから。」


博物館  14

 シオドアはうとうとしかけた時に、扉の向こうの声を再び聞いた。耳を澄ましてもはっきり聞こえない。隣のデネロスを見ると、少尉は寝ていた。彼は懐中電灯でタブレットを照らし、聞こえる音を文字に置き換えようとした。しかし耳に入ると言うより脳に直接来る声は文字に置き換え辛かった。子音ばかりを打って、欠伸が出た。こんなこと、毎晩やってられるか!
  扉の向こうでは相変わらず10人だか20人だかザワザワと声がしている。シオドアは寝袋から這い出した。扉ににじり寄り、耳をくっつけたが、それでも言葉らしきものは聞き取れない。声が聞こえるだけだ。俺に巫女の才能なんかないのに、無理だろう。
 顔を扉から離したら、すぐ隣でケツァル少佐も耳を扉に付けていたので、びっくりした。危うく声を出しそうになって口を自分で抑えた。タブレットにメッセを打ち込んだ。

ーーなにやってんだ?

 少佐が顔を扉から離した。シオドアのタブレットにメッセを書き込んだ。

ーー聞こうとしていました。
ーー君は聞けないだろう!

 その時、デネロスがうーんと声を出した。扉の向こうが静かになった。少佐が開き直って声を出した。

「解決策を考えないと、明日もまたここで寝る羽目になります。」
「君が付き合うことはないさ。俺が引き受けたんだから。」
「貴方を一人でこんな場所に置いておきたくありません。」
「それって、俺を心配してくれている訳?」

 暗闇の中で少佐がぷいと横を向いた。きっと赤くなっている、とシオドアは勝手に決めつけた。

「言葉が伝えられないのなら、何か身体的な差があれば良いんだがなぁ。ミイラではそれも無理か・・・そもそも生きている”シエロ”と”ティエラ”の身体的差もないもんなぁ。」

 2人は暫く黙って座っていた。後ろでデネロス少尉がスースーと寝息を立てていた。自分で志願しておきながら、先に寝落ちしてしまっているのだ。少佐は怒る気力がないらしい。ここで眠らせておかないと次の日の業務に支障が出るのは目に見えていた。
 シオドアは記録した子音だけのメモを眺めた。ムリリョは”ヴェルデ・シエロ”のミイラを入れると”ヴェルデ・ティエラ”のミイラ達が穏やかに眠れないと言った。それは亡者、幽霊達も同じではないのか? 生きている”ヴェルデ・シエロ”が地下保管室に入った時、幽霊達はどんな反応をしているのだ? シオドアには幽霊の姿が見えない。だから彼等がムリリョやケツァル少佐が入室した時に示す反応が見えない。”ヴェルデ・ティエラ”の幽霊は生きている”ヴェルデ・シエロ”には平気なのか? それとも敬遠するのか? 

「少佐、君は昨日ここへ来た時、幽霊を見たんだろ?」

 少佐がこっくり頷いた。彼が何を言い出すのか推し測ろうとしているのか、ちょっと不安げな雰囲気だ。

「何人いた? 君が見た幽霊は何人だった?」

 すると彼女は小さな声で答えた。

「3人でした。」
「俺が聞く声はいつも10人とか20人だ。」
「だから?」
「喋っている幽霊は”ヴェルデ・シエロ”も”ヴェルデ・ティエラ”も入り混じっているに違いない。だけど、俺達が入った時、”ヴェルデ・ティエラ”は隠れた筈だ。生きている”ヴェルデ・シエロ”が2人に増えたからだ。ムリリョ博士は毎日ここにいるから連中は平気なんだろうけど、新顔で能力が強い君が加わったので、”ヴェルデ・ティエラ”の幽霊は体に戻った。残ったのが”ヴェルデ・シエロ”だ。その3人がどのミイラのものか、確認するんだ。」
「私が?!」
「俺には見えないから。」
 
 シオドアが立ち上がって扉に手をかけたので、ケツァル少佐が焦った。階段の照明が灯った。

「うん?」

 明るくなったために、デネロスが目を覚ました。眩しそうに目を細めて、シオドアと少佐を見上げた。

「もう朝ですか?」

 少佐が何か言う前に、シオドアは素早く話しかけた。

「まだ夜中だよ。これから中に入る。一緒に来るかい?」


博物館  13

  階段を下りて行く間、ケツァル少佐は無言だった。シオドアは下りた突き当たりの扉の向こうからコソコソヒソヒソ話し声がして来るのを早速聞き取った。「ほら」と囁くと、途端に声が止んだ。

「連中は邪魔が入るとすぐ沈黙するんだ。」

 デネロス少尉が耳を澄まして聞く素振りをした。

「さっきまで、何か喋ってましたね。」
「聞こえるのかい?」

 少佐が足を止め、シオドアも彼女を振り返った。デネロスが肩をすくめた。

「聞こえると言うか、何か感じました。」
「この子はブーカですから・・・」

と少佐が囁いた。

「霊感は鋭い方だと思いますよ。過去に似た体験をしたことはありますか?」
「うーん・・・」

 デネロスはあまりお化けの存在を気にしない子供だったらしい。

「お墓とか、交通事故の現場とかでそれらしきものを見たことはあります。でもあっちが話すのは聞いたことがありません。」
「君が聞き取れたら、俺のバイトは楽なんだけどな。」

 シオドアは階段を下り切ると、そこに荷物を置いた。狭いが3人の寝袋を何とか広げられそうだ。デネロスが眉を上げた。

「中に入らないんですか?」
「俺が中に入ると亡者は沈黙してしまうんだ。だから、今夜はここで寝転んで彼等の話し声を聞いてやろうと思う。」
「えー・・・」

 デネロスはミイラに囲まれて寝たいのだろうか? 不満顔になったので、少佐が寝袋を広げながら言った。

「貴女一人であっちへ行きますか?」

 恐らく絶対にあっちへ行きたくない人であるに違いない少佐が、部下に意地悪をしている。デネロスは扉を見た。ミイラに囲まれてみたいと言う好奇心と、一人で行くのは嫌だと言う素直な感情が彼女の中で戦っている、とシオドアは察した。彼はデネロスに声をかけた。

「俺は声が聞こえたら音だけでも拾ってアルファベットで書き留めていく。君も聞こえたらそうしてくれないかな? 2人で照合しよう。」
「そうなさい、マハルダ。」

 ケツァル少佐は意地悪を言ってみたものの、やっぱり部下を一人で怖い場所へ行かせたくないのだ。万が一のことがあれば助けに行かねばならない。彼女自身行きたくないし、部下を怖い目に遭わせるのは彼女のプライドが許さない。例え訓練だとしても、話が通じない亡者の相手をさせたくなかった。これが弱小の悪霊なら何とか出来るのだが。
 デネロス少尉もシオドアの提案を受け容れた。
 隙間なく置かれた寝袋を階段の最後の段から見て、シオドアが尋ねた。

「誰がどこに寝るんだ?」

 両側に女性がいてくれたら嬉しいのだが、少佐が真ん中を指差して、デネロス、と言った。左がシオドアで彼女は右だ。

「え? 俺が端っこ?」
「一番若い子を真ん中に置いて守ります。」

 少佐が横目で彼を見た。

「マハルダに変なことをしたら、銃殺です。」
「しないよ!」

  水とトイレは修復ラボの入り口にあった。シオドアはタブレットとノートを準備した。少佐とデネロスは上着だけ脱いでTシャツ姿で寝袋に入った。シオドアも体を押し込んだ。セルバのミイラはみんな膝を抱えた三角座りのポーズだが、寝袋に入るとエジプトのミイラになった気分だ。デネロスが囁いた。

「照明消します?」
「消した方が亡者が出やすいかも・・・」

シオドアが言い終わらぬうちに照明が消えた。デネロスが気で壁のスイッチを押したのだ。真っ暗になった。タブレットもノートも見えない。鼻を摘まれてもわからない程真っ暗だ。シオドアは懐中電灯を探して持参したリュックの中に手を入れた。

「うわっ!」

 いきなり冷たい物が頬に当たって、彼は思わず声を上げた。照明が灯った。ケツァル少佐が点けたのだ。

「マハルダ!」

 少佐の抑えた怒声が狭い空間に響いた。デネロスがリンゴをシオドアの顔のすぐそばに差し出したポーズで固まった。頬に触れた冷たい物の正体はリンゴだった。

「ええっと・・・あの・・・」

 デネロスが手を引っ込めながら言い訳を試みた。

「夜中にみんなで食べようと思って、リンゴとビスケットを持って来たんですけどぉ・・・」
「ピクニックではありません。」

 少佐が怒っているのは、部下が食べ物を持ち込んだからではない。暗闇でも目が利く”ヴェルデ・シエロ”が、暗闇の中では何も見えない普通の人であるシオドアを脅かしたからだ。

「ここがどんな場所か考えて行動なさい。ドクトルに謝るのです。」

 まるで子供を叱るママだ。デネロスがシオドアに「ごめんなさい」と言った。

「あんなに驚くとは思わなかったので・・・」
「俺は君みたいには闇の中で目が利かないんだよ。マジ、びっくりした。だけど、もう大丈夫だから、気にするな。」

 シオドアは少佐にも声をかけた。

「君も俺の声でびっくりしたんだろ? ごめんよ。」

 少佐は彼女の部族の言葉で何やらブツブツ言いながら寝袋の中に戻った。
 シオドアは懐中電灯を灯し、デネロスが照明を消した。それから彼女はシオドアのタブレットにメッセージを打ち込んだ。

ーー少佐が私達のことを、ガキ呼ばわりしていました。
ーー俺もガキに入れられたのかな?
ーーリンゴで悲鳴を上げたから、そうじゃないですか。

 そして彼女がリンゴを差し出したので、シオドアは有り難く受け取った。


2021/07/24

博物館  12

 1930、即ち午後7時半、シオドアはセルバ国立民族博物館の玄関でケツァル少佐とデネロス少尉と落ち合った。こんな場合、友人が時間に正確な軍人であることは喜ばしい。2人の女性は寝袋を持参していた。シオドアが仕事をする間に寝る魂胆だ。一応彼の分も持って来てくれてはいたが。
 ムリリョ博士はシオドアが一人で来るものと思っていたので、女性が2人もやって来てむっつり顔がさらに硬くなった。しかも一人はメスティーソだ。

「儂は子供を雇った覚えはないぞ、ケツァル。」

 少佐が言い訳した。

「デネロス少尉に発掘現場へ出る訓練を受けさせます。今夜はそのリハーサルです。」

 デネロスは作法を守って黙っていた。シオドアは博士が彼の方を向いたので、ドキリとした。ミイラや亡者を怖がって女性に助っ人を頼んだのではないかと疑われた様な気がした。シオドアは直接話しかけて良いのだろうかと一瞬迷った。しかしもう初対面の段階は過ぎていた。彼は言った。

「遺跡の中での野営を想定した訓練だそうです。」

 ムリリョ博士は何も言わずに視線をデネロスに戻した。ジロジロと眺め、それからケツァル少佐に向き直った。

「何処の娘だ?」
「ワタンカフラのブーカ族です。」

 デネロス自身が説明を追加した。

「8分の1ブーカです。後は”ティエラ”とスペインが半々・・・」

 勝手に喋るなっつうの! ケツァル少佐が苦い顔をした。しかし、ムリリョ博士はこう言った。

「お前の部下は面白い連中ばかりだな、”ラ・パンテラ・ヴェルデ”。」

 部下って? シオドアはムッとした。俺は少佐の友達であって部下じゃない。それに”ラ・パンテラ・ヴェルデ”って? ”緑の豹”?
 ムリリョは若い娘に興味津々だった。今度は直接デネロスに質問した。

「お前は”ツィンル”か? ナワルは何だ?」
「スィ、私は”ツィンル”です。ナワルはちっちゃいんですけど、オセロットです。」

 怖いもの知らずで、デネロスがハキハキと答えた。シオドアはムリリョの表情が和らいだのでびっくりした。 老博士が呟いた。

「美しく獰猛な精霊よ。ケツァル・・・」

 返事がなかった。シオドアは少佐を振り返った。ムリリョとデネロスも少佐を見た。 ケツァル少佐は壁にもたれかかって空を見ていた。目を開けたまま気絶しているのか? シオドアが声をかけようとすると、ムリリョが制した。

「心を飛ばしている。邪魔をするな。」

 ケツァル少佐が瞬きした。そして3人が彼女を見つめていることに気がついた。

「失礼しました。」

と少佐が謝った。ムリリョが尋ねた。

「誰かに呼ばれたのか?」
「呼ばれたのではありません。大きな気の放出を感じたので様子を見に行っただけです。」

 少佐は博士を見つめた。

「私の部下にあの建設省の犬を近づけないで下さい。」

 誰のことを言っているのだろう? シオドアはデネロスを見た。デネロスは心当たりがあるようで、不安げな顔をした。ムリリョが半眼で少佐を見た。

「お前の部下? あの半分だけのグラダか? あの男に儂の身内が近づいたと言うのか?」
 
 半分だけのグラダ? ステファン大尉のことだ。シオドアは不安に襲われた。また大尉が狙われたのだろうか。しかし少佐はそう言うことには言及しなかった。

「貴方の身内は不用意に何かを言って、私の部下を怒らせたようです。言動に注意を払うよう躾けておいて下さい。次に彼を怒らせたら、命の保証はありません。まだあの子は抑制が効かないのですから。」

 離れた場所にいるケツァル少佐にわかる程ステファン大尉が怒りの気を放出したのか。シオドアは、「建設省の犬」と呼ばれた人物が一体何を言ったのだろうと思った。きっと純血至上主義者がメスティーソを侮辱したのだろう。
 ムリリョ博士が溜め息をついた。

「あれには手を出すなと配下に言ってある。言葉のやり取りで問題があったのだろう。後で問い質しておく。」

 そして彼は地下室へ降りる階段を振り返った。

「では、ミイラ共をよろしく頼む。」


博物館  11

  夕方、アリアナはエウセビーオ・シャベスが運転する車で帰宅した。シオドアは泊まりなので明け方迄帰らない。恐らくケツァル少佐に送ってもらうから迎えは良いよ、と言われたシャベスは少し不満そうに見えた。

 「送迎する人数が減るとお給料に影響するのかしら?」

 アリアナが心配すると、シャベスは給料は問題ではありませんと言った。

「私はあなた方が大統領警護隊と仲良くしておられることが心配なのです。」
「どうして?」
「彼等が何者かご存知なのでしょう?」

 訊かれて彼女は返事に困った。シャベスは”ロス・パハロス・ヴェルデス”の正体を知っている。だがこの国でその事実を知っていると他人に話すのはタブーなのだ。彼女は用心深く答えた。

「彼等は友人よ。」

 シャベスが少し悲しげに彼女を見つめた。アリアナはドキリとした。彼はメスティーソだが、ステファンとは違ったタイプの魅力的な顔をしていた。

「彼等は私達とは違う人々です。」

とシャベスが囁いた。

「この国を陰で操って支配している真の実力者達です。私達のことを本気で友人などとは思っていません。家の庭で遊ばせている犬や猫の様に考えているのです。いざとなれば、彼等は我々を平気で切り捨てます。信用し過ぎると痛い目に遭います。」

 友人を貶された気分で、アリアナは不機嫌になった。

「私は彼等ほどには貴方のことを知らないわ。お願いだから、私の前で彼等の話をしないで下さる?」
「申し訳ありません。」

 シャベスは謝って、交替の警備兵に引き継ぎの為に通用口脇にある小部屋へ去った。アリアナは携帯電話をバッグから出した。大統領警護隊の友人達の電話番号が登録されていた。メアドも入っている。彼等は普通の人々だ、と彼女は信じた。友達を見捨てたりしない。
 それから1時間後、行きつけの店で夕食を簡単に済ませたステファン大尉が自宅アパート前に帰って来た。車を降りてドアをロックし、キーをポケットに入れてから彼は近くの家の横手にある暗がりに向かって声をかけた。

「用事があるなら、さっさと出てきては如何です?」

 暗がりの中から、男が一人現れた。黒いTシャツの上に白い麻のジャケットを着込み、白い麻のズボンを履いている。靴も白い革靴だ。顔は純血の先住民だった。彼は車の向こうで立ち止まり、ステファンに声をかけた。

「ケツァル少佐と亡命アメリカ人が国立民族博物館へ夜になってから出かけるのは、どう言う理由かな?」

 ステファンは答えずに相手の目を睨みつけた。白いジャケットの中年男が睨み返した。

「”出来損ない”がこの私に”心話”を要求するのか、無礼だろう。」

 ステファンは言い返した。

「一族の者なら”心話”を拒否するのは非礼だとわかるでしょう。」
「笑止! ”出来損ない”に礼儀を教わる義理などない。一族呼ばわりされる覚えもない。」

 一瞬周辺の空気が帯電したかの様な異様な感覚を中年男に与えた。街頭の照明や道路両側の家々の照明が点滅した。庭木の枝で休んでいた鳥類が鳴き声を上げて夜空に舞い上がった。中年男は両手をギュッと握り締め、両足を踏ん張って立っていた。
 ステファン大尉はポケットからタバコの箱を出し、1本咥えた。相手を見ながらライターでタバコに火を点けた。

「失礼、今吸わないと、この区画を停電させかねないので。」

と彼は煙を吐き出して言った。空気が静まった。中年男は肩の力を抜いた。

「私を脅したつもりか、ステファン。たった1回ナワルを使えただけでいい気になるな。」
「脅したなど・・・私はちょっと腹が立っただけです。貴方の言い方にね。」

 ステファン大尉は彼がちょっと気を放っただけで相手がビビったことを気配で察していた。相手の男、シショカは純血至上主義者だ。何故か白人の政治家の秘書として働いているが、国政にはかなり影響力を持っている。彼が仕えている建設大臣マリオ・イグレシアスを”ヴェルデ・シエロ”に都合良く操縦していると言われていた。ケツァル少佐は常々彼が混血の”ヴェルデ・シエロ”に対して発する差別発言に不快感を示しており、同時に彼が彼女の大切な部下達に危害を加えるのではないかと危惧していた。最年少のマハルダ・デネロス少尉は決して一人で建設省に行かせて貰えないし、ステファンも少尉の頃は同様だった。
 だが、今シショカはステファン大尉が放った気の大きさに怯んでいた。もうこんなヤツ、恐くない。ステファンは自信がついてきた己に少し驚いていた。気のコントロールが出来ている。
 シショカは大尉が気を緩めたことに気がついていた。この甘さは若さ故に来ていると彼は知っていた。まだ完全に目覚めておらぬ、と長老達が言っていた。無理に刺激すれば暴走する。”出来損ない”だがこの世で唯一人のエル・ジャガー・ネグロだ、慎重に扱わねばならぬと。それは純血至上主義者達にとって耐え難い意見だった。我々には、純血種の女”ラ・パンテラ・ヴェルデ”がいるではないか! 彼女に純血種の男の子を産ませれば良い、”出来損ない”の男は要らぬ。
 だがシショカは攻撃しなかった。ここでステファンを殺しても意味がない。第一長老が許可していない。今迄一度も、どの長老もこの”出来損ない”を処分せよと言ったことがない。
 ステファン大尉がタバコの灰を落とした。

「少佐とアメリカ人はムリリョ博士の要請で徹夜の仕事に行かれたのです。それ以上のことをお知りになりたいのなら、博士に直接お訊きになるとよろしい。」

 シショカの一族の長老の名前を出すと、政府高官に仕える殺し屋が沈黙した。
 ステファン大尉は「おやすみ」と言った。そして相手にクルリと背中を向け、アパートの階段を上って行った。


博物館  10

  昼食の場所に指定されたカフェにシオドアが到着すると、既にケツァル少佐と2人の部下、それにアリアナがテーブルに着いて待っていた。アリアナがいたのでシオドアはびっくりした。彼女が文化保護担当部を訪問するとは聞いていなかった。しかもステファン大尉の向かいの席だ。大尉の隣は当然ながらケツァル少佐で、メニューを見ることもなく、アリアナに苦手な食べ物はありませんかと訊いているところだった。少佐の向かいでアリアナの隣に座っているデネロス少尉がシオドアに気が付いて手を振ってくれた。シオドアはアリアナの隣に座った。彼が来たので、女性3人に押され気味だったステファン大尉がホッとした表情で微笑みかけてきた。

「ムリリョ博士のアルバイトを引き受けられたそうで?」
「スィ。それで悩んでいる。」

 するとデネロスがニッコリして言った。

「このお店は何を喋っても大丈夫、店の人も客も口が固いから。」

 シオドアは店内を見まわした。従業員も客も普通の人々に見えた。どこにでもいる善良な市民だ。客は商社関係か省庁関係の人間ばかりだ。のんびりお昼休みを過ごしている人がいれば、書類を間に置いて商談している風の人もいる。パソコンを置いて仕事中の女性は通りかかったウェイターにコーヒーのお代わりを頼んだ。
 少佐が早口で数種類の料理を頼んだ。何を頼んだのか分からなかったが、ステファン大尉もデネロス少尉も異を唱えなかったので、無難なものだろうとシオドアは思った。
 デネロスがシオドアが受けたバイトの内容に興味を抱いて質問してきたので、シオドアは朝アリアナにした説明をもう少し詳しく話した。

「セルバ国立民族博物館が建て替えられるので、その間所蔵品を別の場所に保管するんだ。地下室に保存されているミイラも引っ越しさせるんだが、その時に部族毎に分けたいと館長が希望している。」
「DNA鑑定をするの?」

とアリアナが至極当然の様に尋ねた。

「ノ。ミイラを傷つけるなと言う館長の厳命だ。だから困っている。」
「見て分からないの? 例えば出土場所で分けるとか、埋葬方法の違いで分けるとか?」

 彼女の質問はもっともだ。他所の国の博物館はそうやってミイラを分けている。その問いにステファン大尉がデネロス少尉を見て目で何か伝えた。デネロス少尉が文化保護担当部を代表して答えた。

「ミイラの出土場所は多くありません。何故なら、違う時代の遺体が同じ場所に埋葬されたからです。国立博物館で保存されている遺体の多くは、今から15世紀以上昔のものです。一番古いものは紀元前3世紀半ばのものと考えられています。つまり、凡そ800年間、同じ場所が墓所として使用され、使った部族も時代毎に変化しています。一方、遺体は古い者から順番に安置されたとは考えられにくく、隙間に適当に入れられた感があります。副葬品を置く風習が当時なかったので、遺体だけで時代や部族を特定するのは難しいのであります。」

 多分、教科書のまる覚えだ、とシオドアは思った。少佐と大尉が顔を見合わせ、肩をすくめ合った。大体合っている、と大尉が先輩らしく頷いた。そこへ料理が続々と運ばれてきた。今夜の夕食を簡単に済ませなければならないシオドアの為に、少佐が色々と注文してくれたのだが、支払いは誰がするのだろうか? 
 アリアナが科学者らしくさらに質問を続けた。

「毛髪 の 炭素・窒素安定同位体比 や 放射性炭素年代測定とかは?」
「それじゃ出身部族の特定は難しいよ、アリアナ。時代毎に部族が入れ替わった訳じゃないだろう?」
「それに、 炭素・窒素安定同位体比 や 放射性炭素年代測定は外国の調査機関に依頼しなければなりません。我が国にそんな設備はないのです。」

と少佐。兎に角、とシオドアは投げ槍な気分で言った。

「館長は、俺に亡者の声を聞けと言うんだ。」
「亡者?」

 アリアナが怪訝な表情で一同を見た。

「ミイラが喋るの?」

 馬鹿馬鹿しい、と彼女は笑い、”ヴェルデ・シエロ”達も笑ったのでシオドアはそれ以上説明しなかった。デネロスが無邪気に上官に尋ねた。

「少佐もそのバイトに付き合われるのですか?」

 少佐の笑顔が固まった。ステファン大尉が口に入れたスープに異物でも入っていたのか、ナプキンで口元を抑えた。多分、吹き出しそうになったのだ。シオドアは故意に優しく少佐に言ったみた。

「無理に付き合ってもらわなくて良いんだ、少佐。俺は大勢の亡者に囲まれて朝まで気絶して過ごすから。」

 昨夜彼の手をギュッと握ってきた彼女の手の感触が蘇った。女性に頼られるって良いもんだ。
 デネロスが体を乗り出した。

「私も行って良いですか?」

 え? と残りの4人全員で彼女を見た。銘々が咎める口調で言った。

「遊びに行くんじゃないぞ。」
「夜中の博物館よ、マハルダ。」
「ミイラの山だぞ!」
「まだ修行中でしょ!」

 しかしマハルダ・デネロス少尉はケロッとした顔で言った。

「だって、ミイラは動かないし、悪さしないし、棚の上で座っているだけじゃないですか。」
「そうだけど・・・」
「現場に行ってみたら、何か分別方法が思い浮かぶかも知れません。」

 彼女は期待を込めて上官を見た。シオドアも少佐を見た。ステファンは上官を見ないようにして、豆のペーストを焼いたパンに塗り始めた。アリアナは事態がどう動くのかとテーブルの同席者達を見比べた。
 ケツァル少佐が脱力した。

「わかりました。デネロスが行くなら私も行きます。1930に博物館の玄関に集合。但し、バイト代をもらえるのは、ドクトルだけですよ。」
「承知しましたぁ!」

 デネロスが座ったまま敬礼したので、上官2人は苦笑いするしかなかった。ステファンが豆ペーストを塗ったトーストをアリアナと少佐に分けた。デネロスは部下なので貰えない。女性達が料理の食べ方をアリアナにレクチャー始めた隙に、ステファンがシオドアに目配せして席を立った。シオドアは彼が話があると言った様な気がして、席を立って着いて行った。
ウォーターサーバーでグラスに水を汲みながらステファンはシオドアに囁いた。

「少佐の苦手なものをご存知ですか?」

 シオドアはニヤッと笑ってしまった。

「無害な幽霊だね?」
「スィ。何もしないでただそこにいるだけの亡者が、彼女は大嫌いなのです。戦えないし、蹴散らせない、文句も言えない、そんな相手が彼女は一番怖いんです。」
「大丈夫、マハルダにバレない様に、少佐を守ってやるよ。」
「お願いします。」

 抑えた、しかし切実な声に、シオドアは苦笑した。そして思った。君は本当に彼女をよく理解しているんだなぁ、と。

博物館  9

  次の日の朝、シオドアとアリアナは通常通り大学へ出勤した。アリアナにバイトの話をしなかったのは、まだ具体的に博物館で何をするか決めていなかったからだ。だから、国立民族博物館に用事があるので帰りが遅くなる可能性があるとだけ伝えておいた。彼女が大統領警護隊文化保護担当部と関係があるのかと尋ねたので、肯定はしておいた。

「多分、ミイラのDNA鑑定が必要になると思うんだ。」

と言うと、彼女はそれ以上突っ込まなかった。
 大学の研究室に入ったシオドアは午後の授業の準備に没頭した。シエスタの時間を長く取りたかったので、早く準備を終わらせる必要があった。
 アリアナは医学部の研究室が少し暇になったので、先週末にマハルダ・デネロス少尉から頼まれた英語で書いた論文の校正した原稿を届けに出かけた。監視役の運転手を電話で呼ぶと、彼は大学の近くにいて、すぐ来てくれた。メスティーソの若い男性でエウセビーオ・シャベスと言う名前だ。内務省の職員かと思ったが、陸軍の軍曹だと言った。だから大学の側にある陸軍士官学校で送迎の時刻まで待機しているのだと説明した。大統領警護隊の隊員も陸軍士官学校からスカウトされるので、アリアナはなんとなく親しみを感じてしまった。シオドアから監視役とは個人的に親しくなるなと言われていた。彼等の任務の障害になるから、と言う理由だ。シャベスは普通の”ヴェルデ・ティエラ”のメスティーソで、大統領警護隊とはお近づきになれても友達になりたくない様子だった。彼の同級生で警護隊にスカウトされた人がいないのも理由の一つであるかも知れなかった。

「ドクトル・アルストから夜の迎えは暫く必要ないと言われましたが、”ロス・パハロス・ヴェルデス”と何かなさっているのでしょうか?」
「知らないわ。博物館で何か仕事を依頼されたみたいだけど。」
「博物館? セルバ国立民族博物館ですか? それともグラダ・シティ近代科学博物館?」
「ミイラがいる所よ。」

 アリアナの答えに、彼は「ああ」と呟き、それ以上は訊いて来なかった。
 文化・教育省の入り口で、いつもの愛想のない女性軍曹にI D確認をしてもらい、入館パスをもらってアリアナは4階へ上がった。階段からフロアに入って、しまった!と後悔した。デネロスの都合を先に確認するべきだった。これ迄彼女が大統領警護隊文化保護担当部を訪問した時、必ずと言って良いほどマハルダ・デネロス少尉は在席だった。しかし、この日彼女は不在で、文化保護担当部の場所にいたのはカルロ・ステファン大尉一人だけだった。ケツァル少佐もロホもアスルもいなかった。ステファンは火が点いていないタバコを咥えて、面白くなさそうな顔でパソコン作業をしていた。服装はカーキ色のTシャツとジーンズだ。パンツが迷彩服の時はいつでも遺跡へ出動出来る体勢で、ジーンズの時は一日中事務仕事の日、と以前デネロスが教えてくれていた。ステファンは本日留守番の当番なのだ。
 彼しかいないのだと分かったので、アリアナは出直そうと思った。しかし、他の部署の職員に気づかれてしまった。誰かが声を上げた。

「ステファン大尉、お客さんですよ!」

 すっかり顔を覚えられてしまった。ステファン大尉が顔を上げてこちらを見たので、仕方なく彼女はデネロスの論文が入った封筒を掲げて、訪問の目的を告げようとした。封筒を誰かに預けて帰るつもりだったが、ステファン大尉が手を振って、入って来いと合図をした。アリアナはカウンターの内側へ入った。文化保護担当部の区画へ行くと、大尉が視線をキーボードに戻して言った。

「デネロスは10分か20分程で戻って来ます。」

 封筒を預かってやろうと言わない。彼女がデネロスを待つものと決め込んでいる。しかしこれはセルバ流だ。1時間や2時間市民を待たせることをセルバ共和国のお役人はなんとも思わないのだ。アリアナは仕方なくデネロスの椅子に座った。気まずい沈黙が訪れた。何か彼と話をしたいが話題が思いつかない。仕事の邪魔をしたくない。だが黙っていると息が詰まる。彼女は大尉をそっと見た。先週末、彼はまたゲバラ髭になっていたが、この朝はまた髭がない。タバコを咥えた少年の様に見える。彼女は思い切って話しかけてみた。

「髭を剃ったのは任務で必要だからかしら?」
「なんです?」

 よく聞こえなかったのか、ステファンが顔を上げた。アリアナはちょっと緊張しながら繰り返した。

「貴方が髭を剃ったのは、仕事で剃る必要があったからですか?」

 多分スペイン語の文法を間違えずに言えた筈だ。ステファンが顎を手で擦った。彼女の為に英語で語ってくれた。

「ああ・・・これは・・・夕べ、下士官達とポーカーをして負けたからです。」
「?」
「金のやり取りがあると軍律違反になるので、勝ったヤツの言いなりになるんです。昨夜は負けたら剃刀を一回ずつ髭に当てることになっていました。」
「負けた人、全員?」
「スィ。しかし、中途半端で終わるとみっともない顔になるので、最後は全員で剃りましたがね。」

 アリアナは思わず笑ってしまった。そこへマハルダ・デネロスが戻って来た。アリアナが笑っている理由をすぐ悟った。

「髭がない大尉って、可愛いでしょ?」

と彼女も笑いながら話しかけてきた。

「この顔で遺跡荒らしを追いかけても、怖がる人はいませんよ。男の人って馬鹿でしょ?」

 ステファン大尉はムッとして、エステベス大佐の札が下がったドアを指差した。

「ドクトラに論文の指導をしていただくのだろう? 時間を無駄にするな。」

 デネロスは舌をペロッと出して、部屋の準備をする為に大佐の部屋へ向かった。その隙にステファン大尉がアリアナに声をかけた。

「金曜日の夜は酔った勢いで失礼なことをしてしまい、申し訳ありませんでした。」

 アリアナは彼の逞しい腕に抱き抱えられたことを思い出した。胸がドキドキした。

「気にしないで・・・私も酔っていたから・・・」
「つい妹と戯れている様な気分になって・・・怖がらせてしまって、済みませんでした。」

 私に対する彼の認識は女ではなく妹のレベルなのか、とアリアナは思った。胸の動悸が鎮まり、赤面せずに済んだ様だ。なんとか誤魔化す為に言った。

「少佐も妹に見えた? 彼女と私の間に強引に座ったけど?」

 大尉が赤面した。

「どうか忘れて下さい。少佐が手を上げなかったのが奇跡なんです。」
「誰が手を上げるって?」

 ケツァル少佐の声がして、ステファン大尉が固まった。いつの間にか少佐がカウンターの内側にいた。

「素面の私が酔っ払いを殴るとでも?」

アリアナは素直に笑えた。


第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...